うめ 地面に大の字になって呻いている男を見下ろして、ラウニ 1 が尋ねた。ネルはゆっくり髪を 揺らして首を振る。 「無事に戻ってきたから、別にしし 「そっか。それじや行きますか」 もう野次馬はいなくなり、通りはほとんどいつもの雰囲気を取り戻している。ネルはラウニー と並んで歩きながら、見知らぬ男性が引ったくり犯を倒して鞄を取り戻してくれた、というこ とをほっほっと話した。 「ふうん、謝礼とかを要求しないで立ち去ったのか。いい男だった ? 」 「、つん・・ : : ねえ、ラウニー」 「なに ? 」 ひとめぼ 一目惚れって信じる ? : ごめん、なんでもない」 そんな話をしているうちに、二人は目的地に着いた。 かわら れんが 黒塗りの煉瓦を積み重ねた壁と青い瓦屋根の、豪邸といってよい建物だ。庭の中の小道を 通って、扉に備えつけられた青銅の鐘を鳴らす。十数えるほどで出てきた無愛想な侍女に、 ラウニーは明るい笑みを浮かべて手を振った。 「久しぶりね、イングリド。アウレリア叔母さんはいる ? 」 かばん じじよ
「それにしても、いっ帝都に来たのよ。そもそも、騎士になるなんて話、はじめて聞いたわ」 ラウニーは帝都ラウルクの生まれではない。帝都から西に三日ほど行ったところにある町に、 彼女のーーーそして、アウレリアの生家でもあるーー家はある。ネルはその隣の家に住んでおり、 アウレリアはネルの母親とも親しかった。 二人とも、アウレリアが帝都で暮らすようになった二年前からときどき遊びには来ていたが、 最後に来たのは半年ほど前だった。 「だいたい一月前ですね。登録ぎりぎりだったし」 アウレリアが差し出したお茶に謝意を示し、一口すすってからラウニーは答えた。隣に座っ ているネルも小さく、つなずく。 「驚かせるつもりだったんですよ。だからうちのお母さんにも口止めして、宿もここからずうつ と南にあるところにしたし」 「なるほど」 アウレリアは嘆息した。 昔から、走りまわっているような子だったけど。 ほうび ネル。私からのご褒美は、このことを旦那に伝えてあ 「あらためて、おめでとう。ラウニ 1 げることよ。胸を躍らせてお祝いの品を期待してなさいな」 「つくづく不思議なんですけど、叔母さんはどんな弱みを握ってオームスさんを手元に置いて いるんですか ? 」
「いらっしゃい。手土産は何かしら ? 」 姪の顔を見るなりアウレリアが放った言葉は、それだった。 「よいお知らせです」 ガラス 勧められた椅子に並んで座り、硝子のテープルを挟んで向かい側に座っているアウレリアに、 ラウニーはにこやかな笑顔で告げた。 「なんと。あたしとネルはめでたく騎士になったんです」 「あら、そうなの。急いで西へ引っ越したほうがいいかしらね」 「あ、だったら騎士になったご褒美として、この家をください」 「騎士には騎士館があるでしよう。何に使うのよ 「騎士たる者、帝都内に別荘のひとつや二つ持たずにどうするんですか」 あっけらかんと答えるラウニーに、アウレリアは苦笑した。 「さすがは私の姪、と言ったところかしらね。でも、少々がつつきすぎよ。もう少し私を喜ば せてから一一一口うべきね 勲そこに、人数分のお茶を用意して、イングリドが入ってきた。 騎「ありがとう。私が淹れるから、あなたは下がっていていいわ」 きづか アウレリアの気遣いにイングリドは一礼し、それからラウニーとネルにも頭を下げて応接室 菊を辞した。
とまど ォルドリッチはネルとラウニーに視線を飛ばし、ネルはどこか戸惑った、法えたような顔で、 ラウニーは楽しそうな笑顔で、それぞれうなずいた。 「 : : : まあ、一般論で言うなら、俺はあると思うがな」 ォルドリッチを警戒しながら、アヴァルは答えた。そもそも、アヴァル自身がイングリド日 マルバに一目れしているのだ。否定できるはずがなかった。 「じゃあ、運命の出会い、は ? 」 「 : : : 本当に一般論なんだろうな ? 「もちろんよ。でも、クジで出会うのは運命と捉えてもいい 流し目を送るな。蹴り倒すぞ。 「あくまで一般論として答えてやるが、それもあるだろう」 イングリドとの出会いは運命の出会いだと信じたくて仕方がないアヴァルである。 諸君。そろそろ自己紹介はすんだかな」 にこにこと笑うアイシャの穏やかな声が、一瞬で中庭に静けさを取り戻させる。怒鳴ってい るわけでもないのに、彼女の声はよく通る。 スルスエ 勲「それじゃ、ここの外周を三周ほど走ってもらって、それから『伝令』でもしようか」 騎 の 銀 スルスエ 『伝令』は帝国では広く楽しまれている競技の一つだ。 ことのような気はするわね
ネル日キメイスは、困った顔で自分の手に戻ってきた鞄を見つめている。 ちゃんとお礼を言わなければ、と逡巡している間に、彼は野次馬をかきわけて去っていって しまった。 「いた・ーーネル」 呼びかけに振り返ると、彼女の親友が立っていた。短い栗色の髪に、明るい赤い瞳をした少 女で、ラウニー日フェレスという。薄緑色の長袖と黒灰色のズボン、黒い上着というネルに対 し、彼女は細かい刺繍のある水色の上着に、裾の広い、膝の下まである白いスカートという服 装だ。 章 勲 ラウニーはネルが手にしている鞄を見て、安心したような笑顔になる。 「取り戻せたみたいね。よかったわ」 銀 、つん、とネルは小さく、つなずく。 「そいつ、どうする ? 衛士の詰め所は近くにあったと思うけど」 驚いた : あんなでかい女ははじめて見た。 故郷の村どころか、近隣の村でも、この帝都に来てからも、見たことはない。 こはくたて ようやく落ち着いたのは、角を曲がって「琥珀の盾』が見えてきたときだった。 ⅲ
二人が追ってきた。彼らを妨害しようと振り返りかけたが、隣を走るネルがアヴァルに書簡を 渡す。やむなくアヴァルは受け取って走った。本陣が近づいてくる。腕を振りあげ、桶の中に 球を叩きつけた。 得点を知らせる騎士の声を遠くに聞きながら、アヴァルは呼吸を整えつつ、額から流れる汗 を拭、つ。 「 : ・・ : おめでと、つ」 こちらに歩いてきながら、そう声をかけてきたのはネルだった。 「おまえさ」汗ではりつく服の感触を不央に思いながら、アヴァルはネルを見上げる。 「なんで俺に書簡を渡したんだ ? おまえのほうが足は速いだろう」 併走したときにわかったことだった。ネルは自分のところに走ってくるまでと、そのあとと では速さがわずかに違っていたのだ。 ネルは困惑したような顔でアヴァルを見下ろす。何かを言いたげに見えたが、結局彼女は何 きびす も言わずに踵を返して笑顔で手を振っているラウニーのもとへ歩いていく。 「 : : : なんなんだ、あいつ」 勲アヴァルは小さく舌打ちして中央区域まで戻った。 ハリン 騎その後も競技は続き、アヴァルやラウニーも健闘した。ォルドリッチも自分から弓壁になり 銀たがっただけあって、一度など、本陣そばから書簡を投げて、見事に自軍の本陣に入れるとい はなわざひろう う離れ業を披露してのけ、衆目の喚声を呼び起こしたほどである。
章 勲 嘘走り終えると、またクジを引かされた。それで対戦相手となる部隊を決めるのだ。 銀アヴァルたちの相手はいずれも男性で、アヴァルとそう変わらない年齢に見えた。 ハリン スルスエ アヴァル、ネル、ラウニーが伝令として中央区域の真ん中に立ち、オルドリッチは弓壁とし て敵陣を突破し、本陣に書簡を届けた話を基に考えた、というものだ。 そうかい、とぞんざいに答えを返す。ォルドリッチはすぐに話題を変えた。 ン スルスエ 「ところで、レラギ工君は伝令と弓壁のどっちをやる気なの ? ハリン スルスエ 「俺とおまえが伝令で、後ろの二人が弓壁でいいんじゃないか」 「う 1 ん。でも、ばく弓壁のほうが得意なのよね。肩には自信があるし スルスエ スルスエ 「あ、あたし伝令がいい。ネルも伝令でいいよねー 話を聞いていたのか、ラウニーが元気な声で宣言し、友人に確認する。対照的にか細い声で ネルは、つなずいた。 「そうなの。じゃあレラギ工君には弓壁をやってほしいな」 ォルドリッチの言葉に、アヴァルはあからさまにいやな顔をした。弓壁よりは、縦横無尽に スルスエ 動きまわれる伝令のほうが目立っし、活躍の場も多い。体力の消耗は激しいし、負傷すること も多いか、些細なことだとアヴァルは田 5 う。 スルスエ 「俺も伝令をやる」 ハリン ハリン ン
202 アトラトス 『蛇眠月一日。晴れ : : いよいよインフェリアへ発っことになった。この日記帳は、グラスフォ ラスさんが僕に渡してくれたものだ。 いまの時代に、帝都からインフェリアへ行って戻ってくるまでにどのていどの時間がかかる のか、街道の様子はどうなっているのか、そういったことを書いてほしいとのことだった。 そう言われても書き方がわからないといったら、日記を書く要領でいいと言われた。日記な んて書いたことがないのでますますわからなくなったが、見たものや、覚えておこうと思った しらしい ものをそのまま書けばい ) 「ふうん。イングリドにもいよいよリンゴの熟れる季節がきたのかな ? 帝国では、恋の訪れをそう比喩する。イングリドは無表情に困惑をにじませ、より深く頭を 下げた。 「ネルも負けてらんないよね。さっさと彼を口説かないと 「 : : ・・、つん。がんばる」 黒髪をかすかに揺らし、ネルは小さくうなずく。視線の先には花束があった。 ラウニーもネルも、他人事だと思っていた。その花束が、誰からの贈り物かなど考えていな かったのだった。 【Ⅱ
れだけの才がないのです。言葉をかわし、心を通わせ、その上でひとを好きになるものだと、 私は思っています」 む、とアヴァルは唸った。遠まわしに断られているのかもしれなし ( し あきら だが、諦めなかった。 りゅうぎ 「では、君の流儀に乗っ取るとしよう。君さえ邪魔でなければ、俺は今後もここに通いたい。 と、つにろ、つか 君と言葉をかわし、俺という人間を理解してもらいたい。。 「かしこまりました」 イングリドは丁寧に頭を下げた。アヴァルは顔をほころばせ、花束をイングリドに半ば押し つけるよ、つに渡す。 「俺は騎士として、今日から行軍に参加しなければならない。戻ってくるのは二月後になるが、 そのとき、またお邪魔させてもらう。それでは、朝から失礼した」 ともかく、次の訪問の約束は取り付けたのである。鼻歌混じりに去っていくアヴァルを見送 ると、イングリドは静かに扉を閉めた。ちょうどそこに、客人が二人歩いてくる。 「あれ、イングリド。どうしたの、その花束」 章 勲 ラウニーとネルだった。二人は、行軍のことをアウレリアに伝えるために今朝、この館を訪 騎れていたのだ。 銀「お客様からいただきました」 仕えている人物の親戚であり、客人である娘に、イングリドは丁重に会釈する。
て『本陣』のそばにつく。 スルスエ 相手は四人とも中央区域、アヴァルたちの正面に立った。全員が伝令ということだ。 判定係の騎士から『書簡』を渡される。楕円形の木材を皮革で包んだものだ。銀貨を投げて 先攻と後攻を決める。アヴァルの部隊が先攻となった。 開始、の合図とともに書簡を抱えたアヴァルが走りだす。たちまち、二人の若者に囲まれた。 書簡を奪われる。 相手の連携は見事だった。時折交差して球を渡し合いながら進んでいき、たちまち本陣に迫 る。アヴァルは急いで彼らを追ったが、一人に進路を阻まれて思うように進めない。 不意に、どよめきがあがった。肩越しに見ると、ネルが書簡を小脇に抱えてこちらに走って くる。その巨体からは思いもかけないほど速い。さきほどまで書簡を持っていたはずの相手は、 地面に大の字になっていた。 つまり。 ネルが相手を倒して球を奪ったということなのか。 アヴァルの妨害をしていた若者がネルの前に立ちふさがろうとする。長い黒髪を揺らしなが ら、ネルは右に動くと見せかけ、一瞬の隙を突いて左に回りこんでいた。 彼女と視線が合う。ネルは、小さくうなずいた。アヴァルはその意味を理解して、彼女と併 走する。このとき、アヴァルはあることに気づいた。 相手のうち、二人はラウニーとオルドリッチがそれぞれ自陣の中で足止めしている。残りの