昨夜したためた、故郷へ宛てた手紙だった。お任せください、と強い意志をこめた言葉を返 して一礼し、イングリドは奥へ小走りに去っていく。 「ーーカイン」 イングリドの気配が消えるのを待っていたかのように、地の底から響くような重苦しい声を しっと ふんぬ 出したのは、それまで絶望に打ちひしがれていたアヴァルだった。嫉妬や憤怒といった感情に 濁った瞳をカインに向ける。 「勝負しろ」 「おまえの用事って、またそれだったのか」 「おまえ、さっきは勝負しないとか言ってなかったか ? 高みとかなんとかわけのわからんこ と語ってさ」 二人の呆れた視線にも、アヴァルは一向にひるまない。続けて言った。 「俺が勝ったらその弁当をよこせ。 「いやだよ 「ほう ? 俺に勝つ自信がないのか ? まあそうかもしれんな。俺は騎士になったのに、おま 勲えはどうやらなれなかったみたいだからな」 さげす 騎 なれなかった、を強調してアヴァルはあからさまに蔑むような表情を浮かべた。カインはさ の あら 銀すがに驚きを露わにしてアヴァルを見て、それからレイクに確認の視線を向ける。レイクは首 を振って肩をすくめた。
周囲からどよめきと拍手が起こった。アヴァルも機嫌を直して笑顔を浮かべ、逃げようとし た男を踏みつけながら歓声を受け止める。 「あの、ありがとうございます : 背後から、歓声にかき消されそうなか細い女性の声がして、アヴァルは振り返った。 目の高さに、胸がある。 で、でかいな。 アヴァルは十七という年齢相応に中肉中背な体格の持ち主だが、彼女は、アヴァルより頭一 っ分背が高かった。彼女に視線を向けている野次馬たちも目を瞠っている。 「 : : : おまえのか ? 」 女性に対して怯んだなどと、アヴァルの自尊心は認めたくなかった。平静を装って鞄を突き だす。 「うん。本当にありがとう」 身体とは対照的に声の小さい、黒髪をまっすぐ腰まで伸ばした娘だった。黒い瞳は大きく、 きんせい 顔だちにはいくらか幼さが残っている。長身ながら、均整のとれた身体つきをしていた。受け あんど 取った鞄を、安堵の笑みを浮かべて見つめている。 彼女から視線を外し、足元の引ったくり犯を見下ろした。気を失っている。 「気をつけろ」 アヴァルは吐き捨てると、足早に歩き出した。 みは よそお かばん
2 視線を向けた。クローディアの放っ怒気に圧倒されて、何も一言えないのである。 しよくせき 「クローディア。その二人は、私を連れ戻したのだ。しつかり職責をまっとうしたわけで、な んら落ち度はないー とっさに、ファリアは嘘を並べ立てた。驚いた顔を向けてきたカインを、黙れという意志を こめて睨みつける。しかし、それは伝わらなかったようだった。 「確かに最初はそのつもりだったけど、連れ戻しはしませんでした」 クローディアの顔をまっすぐ見据えて、カインははっきりと言った。クローディアはカイン をまじまじと見つめ、小さくため息をつく。 「つまり、皇女殿下は嘘をついた、とあなたは一言うのね 「え、いや、その : : : 」カインはうろたえた。確かにその通りだ。 「そうと一一 = ロえなくもないふうにとれたような気がしたと思えなくもないですが」 しどろもどろで、もはや何を言っているのか自分でもわかっていない クローディアはカインから視線を外し、レイクに「あなたも ? ーと問いかける。レイクは肩 をすくめることで肯定の意を示した。 クローディアは無言でうなずき、カインとレイクの頬も引っぱたいた。それからファリアに 向き直り、彼女の前に立つ。 「それでは、皇女殿下。私を処分してください」 「 : : : 何を言、つのだ、突然」
わず、侍従たちに囲まれて宮殿へ入っていく。皇女ファリアを乗せた輿も同様だ。 ハイラムだけが残り、さきほど皇帝が立っていた場所に上る。 「騎士諸君。君たちが守るべきものは平和だ」 わずかに顔をあげ、遠くを見る。彼の視線の先には皇宮の門があり、その先には中央広場が あった。 「平和とは何か。君たちが生まれ育った町や村であり、そこに住む人々だ。君たちを祝福し、 歓呼の声を送った人々だ。帝国全土に敷設され、常に整備され、誰もが安心して通ることので きる街道だ。街道を通して運ばれてくる多くのものであり、山や湖から水道を伝わって運ばれ てくる水だ」 ハイラムは一旦言葉を切る。騎士たちに視線を巡らせて、静かに続けた。 「諸君は帝国の騎士だ。それらを守らなければならない。平和を守る盾であり、平和を脅かす ものを討っ剣でなければならない。諸君が騎士としての任務をまっとうできることを祈る」 ライタークロイス その後、騎士たちは解散し、各自の騎士勲章は回収されて皇宮におさめられた。 じようさい 騎士館のつくりは、城砦に似ている。 城壁があり、門をかまえ、塔を配している。 【Ⅱ
「ねえレイク、幸せになりたくない ? 「とりあえず黙ってろ。いま俺はまさしく幸せになろうとしてるところなんだ」 縁の欠けた陶杯にサイコロを投げこみ、乾いた音を響かせて卓上に叩きつける。レイクは鋭 く視線を走らせ、自分とともにテープルを囲む仲間たちの顔を見回した。力強く宣一言する。 「二から五」 仲間たちは次々に「八から十一」「三から六」「五から八」と告げた。はたして陶杯をあげて みると、サイコロの目は二つとも一である。 「おいおい、レイクの一人勝ちかよ。帝国誕生以来はじめてじゃないか ? 」 「こりや明日は雨だな。それも記録的な大雨になること間違いない」 「やつばり数字を四つに広げたのは失敗だったんだよ。三つに戻そうぜ」 立て続けに聞かせられる嫌味を鼻で笑って受け流し、レイクは古びた円卓の端に積まれてい た銅貨をつかみとる。それからようやく、隣に視線を向けた。くすんだ紅い髪をした少女が、 鍋のふたほどの大きさの、円形の鏡を持って立っている。 「ティナ」まず、レイクは苦情を言うことにした。 「いつも言ってるだろ。表から入ってこいって。また裏口から入ってきやがったな」 まるかがみ 円鏡レイク編
220 けんげき 見合わせた。悲鳴は止むことなく立て続けに響く。さらに争うような物音、剣戟の響きまで聞 こえてくる始末だ。 「何だ、いまのは : 突然の異変に、ファリアは驚きを隠せない顔で山小屋を凝視している。カインはそんな彼女 の肩を叩いて、呼びかけた。 「逃げよう。いやな予感しかしない だが、カインの言葉の終わりは轟音にかき消される。山小屋の壁の一部が吹き飛んだのだ。 絶句する三人の視線の先で、壁に開いた巨大な穴からひとりの人間が姿を現した。 灰色の髪をなびかせた、初老の男だ。しかし、月明かりに照らされた血まみれの姿は異様の 一言に尽きた。 鋭角的な装甲が、顔の半分近くを覆っている。左腕と右脚もだ。甲冑を身につけ、長剣を右 のこぎり 手に下げていた。幅の広い反った刀身に、鋸のような刃を持った見慣れないつくりだ。 男はカインたちに気づいて、こちらに視線を向ける。三人はとっさに大岩に隠れたが、手遅 れだった。異形に圧倒され、反応が遅れたのだ。 「山賊どもで、試し斬りはすませたつもりであったが」 男はカインたちに向き直り、軽い足取りで駆けだす。 「何者かは知らんが、運の悪いことだ」 せりふ ぎようてん 台詞の半ばから速さが増したことに、カインは仰天した。
ど異議を唱えた騎士も、息を呑んで立ち尽くしていた。 「二年後、三年後はどうか知らないけど。いまの時点では一番だろうと三百番だろうと、たい した差はないと私は思っている たいぜん 泰然と、アイシャは言葉を続けた。 そう思う子がいたら、出ておいで。 「そんなことはない。自分はこの中でも抜きん出て強い。 私と手合わせをして、一撃でも当てることができたら主張を認めてあげよう」 ようやく緊張が解けて、若い騎士たちは顔を見合わせ、視線をかわしあう。だが、結局、進 み出た者はいなかった。 月にいる者から順番に、クジを引いていく。アヴァルが引いたのは七番だった。 しい数字じゃないか。 クジを待っている間にどうにか緊張も解けて、そんなことを思う余裕も生まれていた。ア ヴァルは視線を巡らせて、指定された場所へ歩いていく。そこにはすでに、二人の女性が立っ ていた。そのうちの一人を見たアヴァルの顔が驚きに歪む。 「おまえ、騎士だったのか , 勲長い黒髪を風に揺らした、アヴァルより頭一つ分背の高い女騎士が、呆けたように自分を見 そうぐうかばん 騎下ろしている。数日前に会った、いや、会ったとは一言えないような遭遇。鞄をひったくられて 銀いた、背の高い娘だった。 Ⅱフェレス。よろしく」 「知り合いなの ? 珍しい。あたし、ラウニー
予想外の事態に、アヴァルの声は熱を帯びて震えている。二つの目的のもう一つが、ここで 果たせるとは思いもよらないことだった。 イングリドは小首をかしげ、きよとんとした顔をアヴァルに向けている。だが、 アヴァルは それに気づかなかった。レイクは眉をひそめてアヴァルに警戒の視線を向けている。 アヴァルは一つ咳払いをすると、精一杯の笑顔をイングリドに向けて言った。 「単刀直入に言おう。俺は君のことが好きなんだ」 イングリドは視線に不思議そうな感情をこめてアヴァルを見た。顔つきは普段とまったく変 わらなかったが、それなりに驚いたらしい 「前にも想いを告げたが、あのときは酔っていたし、外野がうるさかったからな。それに、俺 自身も不安定な身の上だった。だが、聞いてくれ。俺は先日の騎士登用試験で騎士になった。 あらためて逢いたいと思っていたのだが、こんなにも早く再会できるとは。これはきっと聖蛇 のお導きに違いない , 熱烈な想いを語るアヴァルだが、 イングリドは途中からほとんど聞いていなかった。呆れた 彳線がアヴァルの肩の向こう、彼の背後に立っているレイクに向けられている。 勲右手のひとさし指と小指だけを伸ばして両瞼を上に引っ張りあげ、左手のひとさし指で鼻の 騎先を押しあげ、小指で唇の端を真横に引くという奇妙な顔が、そこにあった。なまじ顔立ちが 銀いいだけに滑稽極まりない。 「答えをいますぐ聞かせてくれと一一一口うつもりはないが アトル
音がして、男の巨体はぐらりとよろめいた。その間にカインは体勢を立て直す。 なた 槍を半回転させ、カインは石突きで男の腹を鋭く撃った。男は短い悲鳴を発し、鉈を取り落 として腹をおさえる。 石突きの方を男に向けたまま、カインは続けて左から右へ槍を薙ぎ払った。側頭部を強打さ れて男は体勢を崩し、地面に倒れる。うすくまって、断続的な呻き声を漏らした。 肩で息をしながら男を見下ろす力インに、ファリアが歩み寄る。若者の背中を軽く叩いた。 「だいじようぶか ? カインはのろのろとした動作でファリアを見て、うなずく。レイクはカインの脇を通り抜け て、うすくまっている男に疑わしげな視線を向けた。 「いかにも山賊ってなりだが、こんなもんか ? もっと恐ろしいのを想像してたんだが。 「いや、なかなかのものだと思うぞ」 そう答えたのはファリアだ。 「だが、卿もカインも年齢に似合わぬ力量の持ち主だ。それに武器の有利もあった」 カインの槍に向けられる。穂先ではなく、石突きに。しかし、彼女はそ ファリアの視線が、 勲れ以上その話を続けようとはせず、首を横に振った。 。とにかく山賊がいるのはわかった。できれば人数まで知りたいところだがーーー」 騎「まあいい そこまで言ったとき、山小屋の中から悲鳴があがった。 みは レイクとファリアは目を瞠り、呆然として立ち尽くしていたカインも我に返る。三人は顔を うめ
アリキーノとファルファレロは視線をかわす。こうしたことに詳しいのは、先日まで帝国に 潜入していたアリキーノの方だ。 「その三人に共通しているのは、皇帝になる前は騎士であり、先代の皇帝とは何らつながりを 有しないということですね アリキーノの指摘に、リピコッコは重々しく首を縦に振った。 「ファルファレロの仮説ーーー死ぬことによって契約が破棄される、というのは、このことに関 わってくるように思えるのだ。三人とも、すでに聖獣と契約をすませていたから、新たに麒麟 と契約を結ぶことができなかったのではないかとな」