れに関するものだ。 彼女とその夫は、帝都に居をかまえる商人である。 あば 秋に行われた騎士登用試験の不正を暴くために帝国皇女ファリアⅡアステルに協力し、一時 は夫婦そろって行方をくらましたこともあった。 くちぞ だが、その件は無事に解決した。皇家のロ添えもあってかっての信用も取り戻し、いまでは 事件前と同じ帝都の一商人としてまずまずの生活を送っている。 あの子、とアウレリアが呼んだのはカインⅡパルスという若者だ。 カインもバラム夫妻とは異なる形で皇女ファリアに協力し、その功績に報いるという形で彼 女の従衛となった。 スッラ 従衛とは護衛と相談役を兼ねたような役職で、名誉なものであることは違いないのだが、カ インが喜んでいるかどうかはわからない。あの若者は騎士になることを夢見ており、故郷を 発って帝都に来たのも騎士登用試験を受けるためだったのだから。 そのカインは、ファリアに付き従って一月前に帝都を発ち、隣国のインフェリア王国へ向 かった。アウレリアが不意に彼のことを思いだしたのはそのせいだ。予定通りに進んでいれば、 カインたちはも、つインフェリアに入っているだろ、つ。 じじよ アウレリアはそばに控えている黒髪の侍女を横目で見た。 「イングリド。あなたはパルスさんにどんなお土産を頼んだの。 侍女 , ーー・・イングリドⅡマルバは一瞬答えに詰まった。腰まで届くほどの長い黒髪が、かすか むく
ままでいると、アウレリアは何気ない口調で言った。 「一月の旅は長いわね。野盗の集団に出くわすかもしれないし、病気にかかっても薬がなく、 休むこともできすに苦しみ続けるなんてこともあるでしよう。川のそばにいるときに大雨が降 れば、洪水にのまれる恐れだって 「奥様 : ・ えんぜん イングリドは顔をあげ、紫色の瞳を曇らせて主を見つめる侍女に、アウレリアは艷然と微笑 みかけた。陶杯の中の緑茶を飲み干してテープルの上に置く。 スッラ 「冗談よ。あの子は皇女殿下の従衛として行ったのだから、そんな危なっかしい目にはあわな いでしよう。ところでお代わりをちょうだい、イングリド」 それはそれで、イングリドにとってはおもしろくない話だったのだが、彼女はその感情を一 切表に出さず、空になった陶杯に新たな緑茶を注いだ。 「あなたは、パルスさんが戻ってくるのが待ち遠しいみたいね」 イングリドの表情を見上げて、からかうようにアウレリアは笑う。黒髪の侍女は努めて冷静 に応じた。 「大切なお客様ですから。もちろん無事にお戻りになられることを願っています」 みずあめ 「そうでないと水飴も届かないものね。あなたが本当に好きなものをお願いするのなんて、は じめてじゃないかしら」 「奥様は、パルスさん パルス様に何を頼まれたのですか」 なにり じじよ
「帝国とインフェリアの友好条約の更新だろう」 ゅ・つきよう 「その通りだ。決して遊興や観光が目的ではない」 「串焼きを食うのは条約の更新に必要なのかよ 往来を行く人々を眺めながら、レイクが冷静に横槍を入れる。彼の視線は通りを行き交う女 性だけを見つめていた。 「言いたいことはわかるけど、せめて呑みこんでから喋ろう」 カインもまた呆れた顔で、ファリアの口元についた鶏肉のかけらを指先で拭う。 うな 声にならない声で小さく唸ると、ファリアはただの串になったそれを、通りの隅に設置して くず ある屑入れに放りこんだ。女官のふりをしている皇女は、どうでもいいことのような口調でカ インに尋ねる。 「土産というのは、あの侍女に買っていくものなのか ? ハラムさんとかグラスフォラスさんとか」 「彼女の分もあるけど、他のひとの分もあるよ。 「なるほど。しかし、卿はまともに買い物ができるのか ? からかうように言われてカインは少しむっとしたものの、その指摘の正しさを認めないわけ に ( いかなかった。インフェリアは基本的に帝国と同じ文字を使っているが、読みかたの違う いくつか見つけた。 ものが意外にあるのだ。ここまで歩いてくる間にも、 「でもまあ、なんとかするよ。文字だけっていうわけでもないし」 実際、ほとんどの店は、軒先に簡単な絵を描いた板を置いている。インフェリアは他国から じじよ
しゆく 爲彼らが無礼だったと思わせれば充分だ。萎縮して引き下がればそれでいい。この銀髪の若者 をもう少しからかってやりたかったが、彼はただの市井の若者ではなく、友好国の皇女の従衛 なのだ。やりすぎて皇女の耳に伝われば、面倒なことになる可能性があった。 ・ーー皇女か。 アリキーノは、というよりインフェリアは、皇女ファリアの存在を重視していない。生まれ おおやけ まれ たときから病弱で公の場に出ることなど非常に稀であり、なんら実績を持たないためだ。こち らの王子との婚約を何度か打診したことがあったが、病弱を理由に断られ続けてきた。 スッラ クローディアⅡアインという女性騎士を従衛にしたのは最低限必要な処置であることと、有 望な人材に箔をつけるためという理解はできる。 だが、今回、騎士になれなかった二人を彼女の従衛にしたことはーーーロ止めなどの理由が あったとはいえーーーファリアの存在を軽視しているがゆえの処置だとアリキーノは考えている。 なかなかおもしろかった。 内心でほくそ笑みながら、表情はあくまで真面目につくろう。 「わかったかね。ならば」 即刻立ち去るように、と言おうとしてアリキーノはロをつぐむ。戸口に、大柄な影が現れた からだ。それに気づき、カインたちも顔を上げてそちらを見る。息を呑んだ。 ひげきよく 短い黒髪に、開いているかどうかわからないほどの細い目。整えられた髭。巨躯でありなが ら均整がとれており、背には飾り気のない長剣。
112 クの姿がないが、彼はカインを擁護していたのであり、そのために失敗とは見做さなかったの だろ、つと考えた。 きょ・つ 「はじめまして。アリキーノ卿」 「こちらこそ。まさか帝国皇女殿下を我が家にお迎えする栄誉をさずかるとは。王国の名を汚 すことなきよう、もてなさせていただきたく存じます つくろ 恐縮の態度を繕ってみせながら、アリキーノは緊張のあまり背中に大量の汗をかいていた。 聞いたときは皮肉の一つも出たものだが、こうして実際に目にするとやはり違う。可能な限り、 丁重に応じなければならない。 一つ間違えれば、帝国は聖獣の一団でインフェリアに攻めこむ ことだって有り得るのだ。 人間では、聖獣を駆る騎士には勝てない。 アリキーノは帝国の騎士の精強さを知っている。記録をたどるならば九年前にまでさかのば るが、たった百騎で都市国家連合の五千の兵を撃ち破ったというものもある。 羽毛と綿を詰めた肘掛椅子をファリアに勧める。カインとクローディアはファリアの後ろに 控えた。 じじよくろちゃ 侍女が黒茶を運んできたが、あまりに手つきが震えている。アリキーノは苦笑して盆ごと受 け取ると、自らの手で皇女に黒茶を淹れた。ファリアは小さく一礼する。 スッラ 「私の従衛が迷惑をおかけしたとうかがいまして」 いさか 「皇女殿下、たしかにあなたの従者と多少の諍いはありましたが、私は気にしておりませんー ようご みな
炳アは客室の窓からその光景を見ている。 「ーー魔物ですね」 クロ 1 ディアが冷静に言葉を紡いだ。彼女の黒い瞳には静かな戦意が灯り、その表情も魔物 と戦う騎士のそれになっている。しかし、ファリアは彼女ほど落ち着いていられなかった。 「どうして魔物がここにいる : : : ? 」 「それはわかりかねますが、やるべきことははっきりしています。ファリア様は一刻も早く避 難なさってください」 その言葉に、金色の髪の皇女はクローディアを見上げる。 「卿はどうする」 「魔物を討つのが騎士の職務です」 彼女の不安を拭うように、黒髪の女性騎士は優しく微笑んだ。クローディアには騎士勲章が ある。魔物と互角以上に戦うための力が。 まさか、こんなところで魔物と戦うことになるとは思わなかったけれど。 こら ファリアは何かを言いたそうな表情をしたが、歯を食いしばって堪えた。彼女もクローディ ア同様、戦士としての顔つきになる。 「無理はするな。絶対だー 「ファリア様こそ」 クローディアは服の中に手を入れると、円形の勲章を取りだした。指を添える。 ライタークロイス
陽がやや傾いてきた頃には、三人とも満足していた。土産をいろいろと買ったために、荷物 も重くなっている。 大通りにそびえ立っ巨大な柱に設置された時計で時間を確認すると、祝宴まであと一刻ほど だった。そろそろ戻ることを考えなければならない。 「王城に戻る前に、何か軽く食べておきたいな」 「いまからかい ? 王城に戻れば祝宴が待っているんだろう」 ファリアの言葉にカインは首をひねる。若者の疑問に、金色の髪の皇女はしかつめらしい表 情で首を横に振った。 「宴の場とは、食事を楽しむためのものではない。それに、私は病弱な姫だからがつつくわけ たいぜん にもいかぬ。常に泰然としていられるよう、腹にものを入れてから戻る必要があるのだ」 カインとレイクは疑わしげな眼差しをファリアに向ける。彼女の言っていることは嘘ではな いだろう。インフェリアの王城に入ってからの楚々とした物腰を思い出すと、病弱な皇女の演 技についても理解できる。だが、なぜか説得力には欠けているのだった。 呆れた顔でレイクが口を開く。 勲「でも俺たちけっこう食ってるぜ ? あの港の料理屋以外にも露店でいろいろと買い食いした 騎だろ。それなのに、まだ食う気かよ」 銀「菓子をつまむていどで腹がふくれるか」 ファリアは平然と言い返す。それから右手のひとさし指を二人に向けて、軽く振った。
せつぶん 「だからさ、騎士物語みたいに、手に接吻をするぐらいは問題ないと思うって言ったんだが、 親愛なるカイン君は何を想像したのかな ? 」 カインはおもわず「えっーと小さな叫びをあげかけて、とっさに堪えた。しかし、もう手遅 れで、頭の中には目を閉じて唇を寄せてくる金色の髪の皇女の姿が浮かんでしまっている。レ イクは笑みを意地の悪いものに変えて続けた。 「ちょっと安心したぜ。おまえも人並みにそういう想像ができるんじゃないか。試しにやって みたらどうだ ? 俺の見た感じでは、間違いなくお姫さんはおまえを気に入ってる。手への接 吻ぐらいなら笑って受けいれてくれるだろうよ。その先は知らねえけど」 ・つな カインは真っ赤な顔をうつむかせて小さく唸り、返答を避けた。 ファリアは皇女であり、田舎の村で生まれ育ったカインとは立場がまるで違う。だが、彼女 の気さくさはカインやレイクに壁を感じさせない。二人ともファリアを怒らせたことはたびた びあるが、少なくとも皇族に対するもの言いや態度が理由になったことはなかった。 王城の二重の城門をくぐるまで、カインの脳裏からファリアの姿は消えなかった。 二重の城門をくぐったところで、カインたちは馬から降りた。 ファリアもクローディアの手を借りて馬車から降りたのだが、その姿に、カインとレイクは こら
に揺れる。しかし、隠すことでもないと考え直して彼女は正直に答えた。 みずあめ 「水飴をお願いしました 彼女の敬愛するバラム家の奥様は、首をひねって意外そうな顔をイングリドに向ける。イン グリドは愛想のない表情こそ変えなかったものの、アウレリアの視線に正面から耐えることも できす、わずかに顔を伏せた。 そんなイングリドを見て、アウレリアは優しく微笑む。 「恥ずかしがることはないのよ、イングリド。たしかに驚いたわ。いつものあなたなら、気を つか 遣わないでほしいって言って何もお願いしないか、押しきられても、ありふれた無難なものを お願いするでしようから。そう : : : 。水飴ね」 イングリドは顔を上げられない。恥ずかしさのためばかりではなく、後海もあった。 本当に、どうかしていた。 いつもの彼女なら、アウレリアが言った通りの行動をとっただろう。 しかし、カインに頼みごとをしたときのイングリドはいささか動揺していた。 理由はわかっている。ファリアがカインのために用意した礼装を見て、勘違いしてしまった 勲のだ。高価な服を贈るぐらいに、あの皇女はカインのことを想っていると。 その礼装はインフェリアで着るためのものだとすぐにわかったのだが、完全に落ち着きを取 銀り戻していなかったイングリドは、ついカインの言葉に甘えてしまったのである。 たも さすがに仕えている主にも、こんなことは話せない。沈黙を保ってイングリドがうつむいた
の中には、ファリアの様子をさぐる役目を持った者もいるはすである。身体が弱いという設定 を使わない手はなかった。 ただし、そうなると髪を洗う手段がかぎられてしまう。これは仕方がない。クローディアは 自分にそう言い聞かせた。 間に合うといえば間に合うけれど。残念だわ。 時間をかければかけた分だけ、ファリアは美しくなるのを彼女は誰よりもわかっている。 もっと時間があれば卵白を使って髪を洗い、整え、爪を磨き、ドレスを複数試着させてもっ とも似合うものを選び、入念に化粧をほどこしてあげたかったのだが、それをやるには時間が 足りない 「次からは、もっと気をつけてくださいね」 タオルを手にとってファリアの背後に歩みより、そっと彼女の身体を拭きながらクローディ アは言った。間を置いて、金色の髪の皇女は答える。 「ーーわかった」 「宴の場で妙な顔をされても困るので、お説教は後回しにさせていただきますが。何をなさっ てきたのですか ? 」 そう尋ねると、ファリアは一瞬碧い瞳を嬉しそうに輝かせた。 港に行き、海を見たこと。色とりどりの石畳や、大通りにそびえる柱と、そこに飾られてい た時計。さまざまな料理。土産の数々。