だが、後ろにはファリアがいる。だから、退けない。退けないだけでなく、 前に、出るんだー 一歩、踏みこむ。槍の速度が、こころなしか上がったよ、つに感じる。上がったのではない。 彼我の距離が縮んだ分だけ、リオンの槍が自分に速く届くようになっただけだ。 歯を食いしばる。この距離では、まだ足りない。自分の槍は届かない。突きの速さにおいて も、鋭さにおいても、リオンにはかなわないのだ。 だったら。 一つの考えが、思い浮かぶ。危険すぎる手だが、それしかない ちゅうちょ そう思ってから、一瞬の躊躇。やはり、布い せつな 刹那、リオンの槍先がカインの肩を裂いた。鮮血が飛び、痛みが走る。 その痛みが、決断させた。カインは一際強く、槍を突く。リオンは冷静に応じた。カインの 槍に自分の槍を絡めて、もぎ取ったのだ。カインの槍が宙に跳ねあげられる。 だが、そこでリオンは驚咢する。カインが、自分の槍の内側に跳びこんできたのだ。はじめ 4 からそのつもりだったのかとリオンは理解した。 勲右腕を振るう。手の甲が、リオンの手首を打った。踏みこみの浅さから強力な一撃とはなら なかったが、それでも、リオンの槍を持つ手が緩む。一瞬の半分にも満たないその隙に、カイ 銀ンはリオンから槍を奪い取った。 よし、と思ったのも束の間。奪った槍を半転させて持ち直したときには、リオンは腰の短剣 ゆる
りかかった。最奥から箒で丁寧に掃く。 そ、ついえば。 屋敷を出ようとしたときの、カインの右手の動き。 あるはずのない槍をつかもうとしたのだと、イングリドにはわかった。 この屋敷で生活をするようになって身についた癖だ。戸口で弁当を受け取ったり、迎えにき たレイクやファリアと話したり、服装を見直したりする際に、カインは槍をあの位置に立てか けていた。それで、無意識に手が伸びてしまったのだろう。 槍は折れた、としかカインは一言わず、そのときの表情にはどことなく硬さが感じられた。そ の話題はしたくないとでもいうかのように。 槍ですか : らちもないことを、イングリドは考える。手にしている箒を、槍に見立ててみた。 たしか、こんなふ、つに。 カインの槍の訓練をイングリドが見たのは『琥珀の盾』という宿で働いていたときの幾度か だけだ。それ以外は、カインは円形闘技場や皇宮の訓練場でしか槍を振るっていない。 イングリドは何もない空間を突き、払い、薙ぎ、弧を描き ほ一 ) り・ うつかり、箒の柄が壁に当たる。その音と衝撃で我に返った。箒についていた埃が目に見え るほどに宙を飛びかっている。掃除は完全にやり直しだ。自分がいま着ている作業着の汚れも 払わなければ。 ほうき こはくたて
浦「 : ・・ : その、どういうことなんだい ? 「パルスさんは、槍を折ってしまわれたのですよねー 問い、け、とい、つよりも確認するよ、つな口調に、カインは、つなずく。そのことは帰ってきた とき簡単に説明していた。 「私は武器についての知識がないので、奥様に教えていただきました。奥様がこれまでに売っ てきた槍のなかで、ヴァプラという工房で造られているこの槍が」 と、持っている槍に視線を落とす。 「折れず、曲がらす、耐久性に優れ、最も評価が高いとのことでしたので。パルスさんに見て いただければと田 5 いまして」 イングリドの淡々とした説明を聞きながら、カインは自分の足がすくんでいるのを感じてい た。周囲の空気が瞬く間に危険なものに変わっていくのを全身が理解している。 れつき 視界の端では完全に無視された格好のファリアが、すさまじいまでの烈気を瞳に散らしてカ インたちふたりを睨みつけている。 : いきなり現れて何を一一一一口、つかと思えば 「まったく : 横から手を伸ばし、ファリアはイングリドが手にしている槍をつかんだ。侮蔑の視線を送り ながら鼻で笑い、自分が持っている槍を見せつけながら言葉を続ける。 「カインの新しい槍はもう決まっているのだ。貴様のそれは穂先を外して物干し竿にでもする 、力いい」 ぶべっ
「槍を貸してくれないか」 彼女たちが口を開くより先に、はっきりとした意志を伝える。 「二人とも、本当にありがとう。見ただけで判断はできないけど、どちらも僕にはもったない ほどいい槍なんだと思う。あとは、実際に手で持って決めたいんだ きお ひくっ 気負わず、卑屈にもならずに堂々とした態度をどうにか保って、カインは言った。イングリ ドとファリアは一瞬、険悪な視線をかわしたが、それは休戦の確認のようなもので、ほとんど 同時に二人は緊張を解く。 カインはまずファリアから槍を受け取り、廩重に両手で持った。垂直に立てたとき、視線の 高さに来るのは槍のどの部位かを確認し、目を閉じて重さや手への感触をさぐり、それから店 の迷惑にならないよう三回ほど小さい軌道で振ってみる。片手で持ってみたりもした。次いで、 イングリドから槍を受け取り、同じよ、つに扱、つ。 槍全体の長さや重さ、穂先の鋭さに微妙な違いがあるものの、思った以上にどちらもいい槍 だと思えた。正直、優劣っけがたい。彼女たちは、それぞれ真剣に考えて推してくれたのだと 思うと胸が熱くなるが、同時に悩むところでもあった。 選ばれなかったほうは、落胆するだろう。限まれるのはかまわないが、イングリドであれ まね ファリアであれ、彼女たちが落ちこむような真似を、カインはできればしたくない いっそ、二本とも買ってしまおうか。 ノラム家に居候し、イング そんな発想すら浮かぶ。元々カインは浪費する性質ではないし、ヾ
を引き抜いていた。カインに襲いかかる。あまりにも早い反応に、カインはとっさに槍で防ぐ ことしかできなかった。 リオンの短剣は槍の柄を断ち切り、銀色の刃はそのままカインの左胸から腹のあたりまでを 縦に斬り裂く。鮮血が衣を濡らし、床に新たな彩りを加えた。身体が炎に包まれたかのように 熱くなる。斬られた、と理解した瞬間激痛が走るが、カインの関心は痛みではなく、槍に向け られていた。これで防いで威力を削がなければ、いまの一撃でやられていただろう。そして、 柄がほとんど真ん中から切断された以上、これはもう使えない。 死を覚悟する暇すらないほどの速さで、リオンの第二撃が迫る。だが、それは音高く弾かれ 「カインー 三つ数えるだけもたせる。槍を拾え ! 」 りん 凛とした声で叫んだのはファリアだった。カインは迷わず二人に背を向け、少し離れたとこ ろに落ちている自分の槍を拾うために走った。つかみとり、向き直る。 リオンの強烈な斬撃を、ファリアは受け流そうとしたが、うまくはいかず体勢が崩れる。続 しよくだい く第二撃でファリアの手から短剣が飛んだ。リオンの短剣が燭台の炎に反射してきらめく。 叫びは確かな言葉にならない。革靴が、石の床を踏み砕かんばかりに蹴りつけた。 リオンの短剣が、カインの槍を切りつけ、跳ね返るようにしてカインの顔に迫り、その額に 刺さる。 そして、カインの槍の先端はまっすぐにリオンの喉元を突いていた。
富まいそ、つな錯覚に陥る。 とにかく、全力でやるしかない。 歯を食いしばり、小さく息を吸う。吐きだすのと、踏みだすのが同時だった。まとわりつく 大気を吹き散らしての一撃は、だが、あっさりと受け止められた。それどころか、リオンは少 し槍をひねって絡め取ろうとする。 せつな リ」、こ撃ち返され、カイ カインはとっさに槍で弾き、その反動でもって薙ぎ払った。刹那、螢烈し ンの槍は一瞬だが空を泳ぐ。その隙を逃さず、リオンは軽い動作で槍を突き入れた。 訓練のために着けていた革鎧の上から、骨までえぐるような衝撃がカインを襲った。足が地 面から離れ、尻からおもいきり地面に落ちる。 「・・・・ : も、つ一度、やるか」 尻餅をついて荒い息を吐いているカインに、槍を引いてリオンは静かに問いかける。カイン はすぐに立ち上がって、はい、と勢いよくうなずいた。クローディアが心配そうな表情を向け たが、無理に笑顔をつくって見せる。 たいして力を入れたように見えなかったぞ。 それなのに、腹部に走る痛みはすさまじいものがある。笑みを浮かべるのにも気力が必要な まど。 クローディアが開始、と叫ぶが、また、リオンは攻めてこない。槍を今度は下段にかまえて、 微動だにしない。
吐いた。槍を強く握りしめる。あと一歩。あと一歩で 入った。 内心で呟いたときには、足元の地面を蹴っている。だが、カインが槍を繰りだそうとしたと きには、リオンの槍の先端、練習用であるために球形となっている部分が、鋭く伸びていた。 衝撃。硬く、乾いた音が響いて両腕が後ろに持っていかれそうになる。体勢が崩れ、カイン はその場に倒れた。 何が起こったんだ ? わけがわからず、とにかく痺れが走る両腕を見る。槍の先端が砕け、柄には太い亀裂が走っ て真っ二つに裂けてしまっていた。もはや使いものにならない 「だいじようぶ ? 」 駆け寄ってきたクローディアに、だいじようぶです、と答えた声は、わずかに震えている。 差し出された手につかまって立ち上がると、カインはあらためて砕けた槍を見つめた。練習用 のものでよかったと思う一方で、練習用のものとはいえ、こうもあっさり砕けるのか、と全身 せんりつ に戦慄が走る。クローディアはカインの手や腕を軽く握って、特に異常が認められないことに あんど 安堵の息をついた。 「すまない。少しやりすぎたようだ。これは、私が管理者に言って弁償しておこう」 リオンが手を伸ばしてカインの槍を受け取る。それから、レイクの弩を見学している騎士を 呼んだ。 いしゆみ
男は中肉中背で、黒っほい服を着ている。舌打ちをすると大股で前進、身体を起こしかけて いるカインに剣をまっすぐ突きだした。カインは手に持った槍でそれを弾き返す。 衝撃で槍の覆いが真っ二つに裂かれた。カインは立ち上がり、槍をかまえ直す。最初の不意 打ちさえ逃れれば、精神的にも位置的にも、簡単に追いこまれはしない 「誰だ、おまえは 暗がりで男の顔はよく見えない。威嚇の意味もあって、カインは怒鳴りつけた。だが、男は うかが 答えない。斬りこむ隙を窺っているようだが、間合いは槍のほうが長く、攻めあぐねているよ うだった。カインが一歩前に出ると、自棄になったのか踏みこんでくる。 ひる 一撃目で手首を突き、怯んだところを槍で絡めて、剣を叩き落す。後ずさる男の喉元に槍の 穂先を突きつけ、戦闘はあっけなく終了した。 「もう一度聞くぞ。誰だ そのとき、騒ぎを聞きつけたらしく、衛士が声を張りあげてこちらに向かってくるのが見え た。それを見た男は、カインに背を向ける。首筋に赤い線が走るのもかまわず駆けだした。 駆けつけた衛士に、カインは落ちていた剣を見せて事情を説明する。使いものにならなく さら 勲なった穂先の覆いも見せた。帝都では、往来で刃を晒すのは禁じられている。 嘘「逃げていったあいつは、どんな顔をしていた ? 」 銀「暗かったのではっきりとは見えませんでしたが、けっこう若いと思います。二十代半ばあた 肥り・・かと」
がくぜん カインは咢然としていた。 信じられなかった。自分の腕は、本来槍を突くときの、半ばも伸びていない。槍を、突き出 しきっていない。それほどに、リオンの短剣は速かったのだ。これが槍同士ならば、いや、 つらぬ オンの武器が長剣であっても、カインだけが貫かれていたに違いなかった。 「相討ちか」 ばそりと、リオンが呟く。不本意な結果だった。ます力インの槍を切断し、返す一撃でカイ ンを葬り去るつもりだったのだ。それが、柄の、予想以上の硬さに一瞬の半分以下の時間で判 断、諦めて、カインの額を割ろうとした。これが一般的な出来の槍であれば、勝者はリオンの はずだったのだ。利き手ほどに力が入っていれば、そうなっただろう。 カインは否定する。リオンがじろりと、訝しげな視線を向けた。わすかに前のめりになり、 短剣の刃が更にカインの額にめりこむ。流れる血が、鼻からロの端を伝って顎からこばれる。 カインの槍もリオンの喉に深く入りこみ、数本の赤い筋を描いた。 「僕らの勝ちだ」 章 勲 声が震えた。自分を叱咤するように一度歯を強く噛みあわせ、両脚に力をこめる。 嘘「僕が殺されるときは、あなたも殺す。ファリアは、立っている」 銀額から流れる血に汗が滲み、左目に入りこんだ。視界が右目だけになり、わずかに歪む。 誰も言葉を発さない。耳に届くものは、カインの荒い息、リオンの静かな呼吸、手を出そう いぶか
少年、とリオンは静かに告げた。 「あくまで戦うと一一一一口うなら、殺さなければならぬ。一度だけ機会を与える。退け」 「退けません」 かまえた槍先は微動だにせず、カインは一歩出る。リオンもまた、一歩踏みだした。 お互い、槍が届く位置に入った。ただし、まだ浅い。 「他に道はなかったんですか」 「私にはなかった。 答えながら、リオンはカインに対する認識をあらためていた。この状況で、揺らぎも震えも 見られない。相手は、完敗を喫した騎士だというのに。 称賛に値する意志の強さだ。 ほうッっ 風に咆哮をあげさせて、二本の槍が交差する。 カインの頭部から血が噴き出した。髪を十数本と皮膚を少し、持っていかれた。対してカイ ンの槍は、籠手の表面をなぞって白い傷をつけたていどにとどまる。 退くな。 腕を、鋭利な穂先がかすめた。恐怖が脳を圧迫する。おそらく、いま立っているのがぎりぎ りだ。致命的な一撃を辛うじて避けることができる。そういう意味での、ぎりぎりの距離。 銀の閃光を弾くたびに、槍に腕が持っていかれそうな圧力がかかる。しかも、弾いたところ で小さな傷は増える一方だ。呼吸も苦しい。 かろ