インフェリアや都市国家連合に逃げれば助かるかもしれないが、そこで生きていかなければ ならなくなるのだろ、つ。 ファリアはど、つなる。 彼女は皇女だ。追っ手は、自分などに対するよりはるかに執拗なものとなるはずだ。そのく らいはカインにも考えられる。 隣に座っている少女に視線を向けた。なぐさめの言葉をかけるべきか考えて、内心で首を横 に振る。日々を過ごす場を奪われ、兄が捕えられ、自身は偽者呼ばわりされたこの状況で、 いったいどのような言葉が彼女を元気づけられるというのか。 「ーーーカイン 不意に、ファリアはカインの名を呼んだ。長い金色の髪で顔を隠したまま。 「卿は帝都に行け」 「どういう意味だ : ・・ : ? まじまじと、カインはファリアを見つめる。金髪の皇女は顔をあげると、頬や口元にかかっ た髪をかきあげた。疲れきった表情に、充血した感情のない瞳がカインを驚かせる。 スッラ 「私が皇女ではない以上、卿はもはや従衛ではない。卿に支払うべき給金もない。あの布告を 見ただろう。フルカスは卿らを受け入れるという。他の騎士や民衆からの信頼を得なければな おおやけ やくじよう らない状況で、公にした約定をまさか反故にはすまい」 「君はどうするんだ」 しつよう
かみそり に持ち替えた。若者の顎に手を添えると、イングリドは廩重に剃刀の刃をあてる。 そのとき、カインの頬にほとんど消えかかっている傷跡があることに、彼女は気づいた。紫 色の瞳が傷跡をじっと見つめる。イングリドは手を伸ばし、指でそっと撫でた。 インフェリアで何があったのでしようか 考えすぎだろうか。なにしろ二月に及ぶ旅だ。屋我のひとつや二つは当然するだろう。 スッラ それにカインは従衛だ。皇女ファリアに何かあれば、槍を握りしめて戦う立場なのだ。日々 の訓練でも、あざをつくって帰ってきたことがある。 自分はただの侍女だ。彼が話してくれるのでもないかぎり、詮索するべきではない。 無事に帰ってこられて、よかった。 ただ、そう思った。 「いかかでしよ、つか 「ありがと、つ。さつばりしたよ 鏡に映る自分の顔を見ながら、カインは笑顔でイングリドに礼を言った。視界が明るく、首 筋に空気の流れを感じる。耳や頬、顎のあたりにすっきりした気持ちよさがあった。 「パルスさんとはじめて会ったころを思いだしながら切ってみたのですが、気に入っていただ けたなら何よりです , せんさく
後の頼みでもあった」 だいじよ、つぶよ。あなたなら、なれる。ファリアⅱアステルにきっとなれる。 その言葉は、、 しまでも彼女の耳の奥に刻まれ、 、いに際く刻まれている。 「それに、私も皇女としての権力をかなり使わせてもらっている。お互い様というところだ」 がらりと、ファリアの口調が変わる。 ぬぎぬ 「やつらは兄上に濡れ衣を着せ、自己の罪を隠し、あまっさえ己の行動を正当化までする。し かし、私に対する指摘だけは本物だ。私はファリアの死を知ってなお、彼女を演じ続けた。い や、ファリアⅡアステルとルーファⅡイシュトーを使いわけてきた。 わかっただろう」 最後の言葉は、優しく、そして寂しげに聞こえた。彼女がどのような表情をしているのか、 カインは容易に想像することができた。きっと微笑しているのだろう。感情を押し隠して。 「私は皇女ではない。その資格を持たぬのだ。わかったなら、は帝都に行け」 カインは彼女の言葉に答えず、動きだすでもなく、じっとファリアの背中を見つめていた。 考えろ、考えるんだ。 ファリアは言った。叛逆者になって追われるか、帝都に行って騎士になるか選べと。 勲本当に、その二つしか道はないのか。他に道はないのか。 騎 違う。何よりも、それは自分で見出した道ではない。カインが考えたものではない。 の ひら 銀 自分が考え、覚悟を決めて、切り拓いていく。そんな道があるはずだ。 网「こっちを向いてもらっていいかな」
278 「送っていくか ? 」 「その格好で ? カインはすかさず言葉を返し、おたがいに笑いあう。その拍子にカインの身体は痛みを訴え たか、どうにか顔に出すことは堪えた。こんなことで彼女に心配をかけたくはない。 それにしても。 皇女然とした姿のファリアには、やはり見惚れてしまう。夏の湖を思わせる碧い瞳には、彼 女にしかない明るさと強さが輝いている。彼女とともに戦ったことを、若者は誇りに思った。 「どうした。さっきから私をじろじろと見つめてー あわ 内心を見透かされた気がして、カインは顔を真っ赤にすると、慌てて首を横に振る。ファリ アは鼻を鳴らしたが、それ以上追及しなかった。 「まあよい。そうだ。卿にはひとっ言っておくことがあった」 ファリアの頬が、恥じらうように赤く染まる。一瞬ためらってから、彼女は言った。 「一言うまでもないことだが、私の出生のことについては誰にも秘密だ。たとえ卿の身内であろ うと漏らしてはならん」 「誰にも漏らさないと誓うよ」 カインは真面目な顔でうなずく。当然のことだった。帝国の権威や体面以上に、カインは ファリアを傷つけたくなかった。金色の髪の皇女はうなずいて、言葉を続ける。 「卿のことはもちろん信用しているが、それでも重大な秘密を知ってしまったのでな。卿は私 みと
ガト らす友人に会いにきた、という名目で帝国に入っていた。土産物という名目で、刺貫は馬車の 中にある。二人が持っている入国許可証にはそのように書かれている。内容はまるきりでたら めだが、 インフェリアが正式に発行したものだ。見破られるはずがなかった。 とうりゆ・つ そうして二人は帝都ではなく、馬で一日ほどの距離があるこの町に逗留していたのだが、お そらく、正解だった。 ヴェパールによる叛乱が起きてから三日が過ぎた。この宿場町にもさまざまな情報が入って いる。皇帝は数日のうちに市民の前に元気な姿を見せるだろうというもの、ハイラムが死んだ というものもあれば、生きて帝都を脱出したというものもある。更に注目されているのがファ リア皇女の動向だ。 なにしろ、彼女はいまこの宿場町にいるのだから。 「奇縁、というやつなのかねえ」 にたにたと笑いなから、ファルファレロは紙片になにやら書いている。バルトは黙々と剣を 磨いていた。 「もしもさあ」寝台に腰かけて、ファルファレロは言った。 勲「皇女殿下が叛乱勢力を倒すとか言ったら、力を貸してあげてほしいんだよねえ。インフェリ アの戦士エリゴルとして」 銀「 : ・・ : ど、ついう意味だ ? 」 剣を磨く手を止めて、バルトは閉じているよ、つに見えなくもない目をファルファレ口に向け
「連中の前に行って、何を一一一一口えっていうんだ。君を偽者と認めましたって一言うのか ? さっき、 やくじよう どうでもよいとか言っていたけど、君のほうこそ一大事じゃないか。君の一一 = ロうとおり約定を違 えないんだったら、確実に殺しにくるってことだ」 「そう簡単には死なん。インフェリアなり都市国家連合なりに逃げこむという手もある 「それでいいのか、君は」 あら 必死に食い下がると、ファリアも次第に感情を露わにしてきた。 「しつこいな、卿は そこで不意に、ファリアはロをつぐんだ。考えこむようにカインから視線を外したかと思う と、何かを決意した表情で寝台から立ちあがる。その手には、彼女が肌身離さず持ち歩いてい る短剣が握られていた。 「カイン。ひとっ聞きたいことがある」 いぶか 訝しげな顔をする若者の正面に立っと、ファリアは顔に緊張をにじませて口を開いた。 「文書に書いてあることが事実であったら、どうする。私が偽の皇女だったら」 「冗談を聞いている場合じゃない」 勲「本気だ。冗談ではない」 まなざ 真剣な眼差しと落ち着いた声音が、カインをまっすぐ射抜く。息を呑む若者に、ファリアは 銀淡々と告げた。 「帝国南西部のウガルを治めていた貴族イシュトーの娘ルーフア。それが、本当の私だ。皇女
首筋のすぐ下あたりに短剣の刀身を触れさせると、カインは彼女の金色の髪を見つめて五つ 数えた。甘い香りが鼻をくすぐるが、若者は左手を握りしめて冷静であろうと務める。 まね 自分に武器を預け、背中をさらけだしているのだ。彼女の信用を損なう真似はできない。 短剣を離して、カインは目を瞠った。短剣を押しあてていた箇所が、あざのような紫色に染 まっている。おもわず自分の手を短剣の刀身に触れさせてみるが、冷たい金属の感触が伝わっ てくるだけで、何の変化もない。 「古い時代の文字でルーフアと書かれている。その短剣でなければ、これは浮きでてこない カインに背中を向けたまま、ファリアは独り言をつぶやくように言った。その言葉で、カイ ンは紫のあざが文字らしいことにようやく気づく。 「これが、私がルーフアであることの証だ。ファリアの方には、同じところにファリアと書か れていてな。この短剣を当てると赤いあざが浮かんだ。小さいころは二人でおもしろがったも のだが : : : 」 カインは驚咢の表情で、彼女の背中と短剣とを交互に見つめていた。 本当に、ファリアではないのか。 章 勲 彼女とはじめて会ったときのことを、カインは思いだす。ルーファⅡイシュトーと、彼女は 名乗っていた。皇女の名では問題があるということもむろんあったのだろうが、本当にそれだ けだったのか。 銀 ウガルの夜の山を駆けていた彼女を思いだす。ルーファ日イシュトーだったからこそ、あれ みは
がいとう カインは首から下を外套に包んだ状態で椅子に座り、硬い表情で鏡を見つめていた。 若者の後ろには、黒い長袖とスカートに白い髪飾りとエプロンという姿のイングリドが立っ はさみ て、丁寧に鋏を動かしている。胸元には真紅のリポンが映えていた。彼女のそばにあるテープ おけ かみそりくし ルには、湯を満たした小さな桶や、剃刀、櫛などを納めた木箱が置かれている。 「やわらかいほうが切りやすいのかな」 「私としては、そうですね。あとは、どのように形を整えるかによると思います」 何気ない会話。その端々に、イングリドは安らぎとぬくもりを感じる。ただ二人きりでいる というだけで、穏やかな気分になる。 した 彼女が慕うオームスやアウレリアとともにいるときに覚える満ち足りた感覚とは、似ている けれど」、つ。何が、つのかと聞かれると、イングリドにもよくわからない ただ、彼女はこの感情を貴重なものだと思う。カインの髪に触れているときに感じるぬくも りを、覚えていたいと思う。 ふと、床に散らばった髪が視界に入った。 けっこう伸びていたのですね : 髪が伸びたということは、それだけの時間が過ぎたということだ。 カインがはじめて帝都ラウルクを訪れ、イングリドと会った日から四月が過ぎている。 もっとも、ここ二ヶ月ほどカインは帝都にいなかった。皇女ファリアⅡアステルの従衛とし て隣国インフェリアに行っていたのだ。
そんなことを考えていると、ファリアの演説は終わった。いかにも疲れたように肩を落とし、 小さな足取りで歩いてくる。カインは彼女の肩を支えて並んで歩いた。 「おっかれさま 「騎士たちはこちらを見ているか ? 」 訊かれて、カインは少しだけ首を動かして振り返った。クローディアの指揮のもと、騎士た ちは部隊ごとにわかれているか、ファリアに視線を向けている騎士は少なくない。 「そりや見てるよ」 「仕方ない。さっさと部屋に入ることとしよう」 しゆくばまち 宿場町は積極的な協力はしないが、敵対もしなかった。ファリアが出した金貨の枚数に応じ て水も食糧も、酒も薬も用意したのだ。情勢を考えれば豪胆といっていい対応だった。一夜し か泊まらない予定だった宿を、ファリアは金貨を積んで、更につけていた髪飾りも渡すことで 宿ごと貸し切り、一室を司令官室として使っている。 司令官室は他の部屋より広く、葡萄酒と林檎溶も上質のものが置かれている。壁に貼った巨 ようひし 大な羊皮紙には、周辺の地図が大雑把に描かれていた。ファリアの手によるものだ。 勲あれだけ泣いていたのが嘘のようだと声にはせずに、カインは思った。あのあと、ようやく 泣き止んだ彼女はクローディアに手伝わせて湯浴みをし、髪を整え、化粧も施して騎士たちの 銀前に現れ、激励した。それでも充血した目は隠せず、彼女の涙を騎士たちに想起させたのだろ うが、それはむしろ騎士たちの士気を高める役割を果たしている。つまり、悲劇の皇女が、兄
カインの言葉に疑問を抱いたのか、ファリアの金色の髪がかすかに揺れる。彼女は腕組みを すると、白い裸身もそのままにカインを振り返った。胸こそ腕で隠しているが、それ以外が若 者の目の前にさらけ出される。 だが、カインがまっすぐ見つめたのは彼女の碧い瞳だった。 「ーー戦お、つ」 威勢のいい口調では、決してない。静かな、たった一つの想いに満ちた、とても澄んだ声 だった。黒曜石を思わせる瞳に強固で揺るぎない意志をこめて、カインは語りかけた。 「戦って、勝と、つ。ーー奪り返そ、つよ カインは真剣な顔で身を乗りだし、ファリアの右肩をつかむ。その表情の鋭さに、金色の髪 の皇女は小さく息を呑んだ。 「僕は、君を守る。守って、戦う」 いらだ 苛立ちを抑えきれないというように、ファリアは下唇を噛む。 「馬鹿か、卿は」 怒気だけでつくられた言葉を吐きだした。 「叛逆者として扱われることについて、少しでも想像してみたのか ? 最悪の場合、卿と親し くしていた者たちも、卿の故郷も疑われ、罰せられるのだぞ。そうならないとしても、叛逆者 あなど さげす に対して誰が好意を持つものか。卿の選択は、蔑まれ、侮られ、疎んじられる。卿と関わり合 いになったことを後海し、限み、責めるだろう。それを