三階の階段が見えてきた。 「あれを上れば、執務室まではあと一息だ」 そう言ったときだ。地鳴りの如く階段を震わせ、十数人の兵が踊り場まで駆け降りてきた。 いしゆみ いずれも手には弩をかまえている。彼らの後ろには、顔立ちの整った四十代と思われる男が 立っていた。 「王手詰み、ですな。皇女殿下。いえ、偽皇女殿下」 工パール」 わざわざいやみったらしく言い直した男を、ファリアは睨みつけて歯噛みした。この廊下は しゃへいぶつ 細長く、遮蔽物もない。まして相手は隙間なく整列しており、逃れる方法はないように思われ 、」 0 「ふん、所詮は平民だな。せつかく使ってやったのに裏切りおって」 ウェパールは、レイクに視線を移して贈々しげに吐き捨てる。 「だって、あんた、俺とヴェスパシアを結婚させる気なかっただろ」 「当然だ。平民ごときが、騎士になれば貴族と結婚できるなどという方が間違いなのだ」 章 勲 レイクの態度に、カインは不審なものを感じた。緊迫した雰囲気に包まれているファリアや 騎クローディア、自分とは違い、これだけの弩を向けられているにもかかわらず、レイクは呑気 銀に話をしている。 「まあよい。どうせおまえはこれから死ぬのだ」 はが
じて体勢を保ったまま着地するが、そこに横合いから網が投じられた。 とっさにカインは槍を突きだし、網の一つを引っかけて巻きつけ、床に叩き落す。もう一つ を、すばやく剣を抜き放ったクローディアが真っ二つに断ち切った。 「そこまでだ」 次に投げかけられたのは、冷酷さをにじませた声だった。絹織りの長衣をまとった、カイン よりも背の低い男が立っていた。口をとがらせている様子が、どこかアヒルを思わせる。その 隣にはどこか小狡い印象を与える中肉中背の若者が剣を握りしめ、カインを睨みつけていた。 いしゆみ 二人の後ろには、五人の男たちが弩をかまえて横一列に並んでいる。 カインたちが落ちたところは、前後にまっすぐ伸びている通路の、やや幅がふくらんでいる ところだった。左右は壁で、逃げようにも弩に設置してある太矢が先端を光らせて狙いを定め ている。 「イボス、アーミイ : クローディアが小男と若者を、敵意をこめた視線で見据えた。 だいかん 「あの小さいのが代官のイボスで、その隣にいるのがアーミイだ」 章 勲 と、後ろに立っているファリアが教えてくれた。 騎アーミイという男については、カインはどこかで見たような気がする。騎士登用試験の不正 の現場にいたというのだから、そのときに見たはすなのだが、それについてはよく覚えていな い。それよりも、つい最近
罪に問われた : : : 」 「ああ : ・・ : 確か、ドノック日アーミイとい、つ者です」 「いつでも呼び寄せられるよう手配しておいてくれ。ファルファレ口にも一応、話は通してあ る。勲章を持っていないやつはいらんそうだし、必要と思われる話は聞いたからな。もう用は ない。せいぜい有効に使うとしよう」 「追放処分を受けた者が戻ってくれば、今度こそ死刑です。どう説得します , 「来いといえば来る。やつは金銭も未来も失って途方に暮れている。我が国や都市国家連合で 再起を図るだけの気力も能力もない。こちらが道を示して呼べば、向かってくる。そして、な んでもやるだろうさ。たいしたことはさせられんがな」 部下が帰ったあと、グラフィアカーネは二階の寝室で一眠りした。悪夢にうなされて目を覚 すがたみ まし、寝台から抜け出す。ランプに火をともし、壁に立てかけてある姿見の前に立った。眠る ときは上半身裸、腰に短衣一枚という姿の自分が映しだされる。 鍛えられた体躯の左肩から二の腕にかけて、さらに左の胸から脇腹を覆う形で皮膚がひき まだら せいさんやけど つったようにねじれ、赤黒い斑模様になっている。目を背けたくなる凄惨な火傷の痕だ。 「奇縁というやつを、信じたくなるな」 醜い傷痕を見るたびに、復讐、憎悪、憤怒といった感情が腹の底でうねる。記憶の中の炎が、
ファリアやクローディアの顔にも焦燥が見えはじめる。 「ここにいたのか 聞き慣れた声がした。執務室までは遠回りになる通路の方から。 「 : : : レイク」 茶色がかった黒髪に、琥珀色の瞳をした、よく見知った人物が立っている。黒一色の装いで、 手にあるのはインフェリアから持ちだした連弩。矢筒は二つ。一つは腰から提げ、もう一つは 背負っていた。 カインは声が出ない。言葉を紡ぐには、レイクの表情はあまりに冷たすぎる。 「襲撃だと聞いて、お姫さんなら先頭にいるだろう、おまえも絶対そばにいるだろうと思って いたが、どんびしやりだ」 連弩は、まっすぐカインに向けられている。装填された矢の先端は、頭部を正確に狙ってい こ 0 「レイク、話を聞いてくれ」 言い終えるかどうかというところで、第一射が放たれる。大気を打ち破る速度と威力で撃ち 勲出されたそれは、カインの頬をかすめて後方へ消え去った。 「俺が従衛やめたあと、さがしてたんだってな、おまえ」 ちょうしよう 銀口元に嘲笑をにじませ、レイクは一言葉を続ける。 「世の中、何が幸いするかわかんねえよな。最初、ヴェ つむ パールは俺を使っておまえを殺すつも よそお
レイクは笑顔で即答した。 「俺と殴りあいするぐらい意固地で、そのあともいろいろうろっきまわってるおまえがさ、窮 地に立ったお姫さんを見捨てられるわけがねえよ」 そうかとだけカインは答える。自分を信じてくれていたことが嬉しくて、面映ゆかった。 「あのときさ、俺、おまえに殺されたらいいかな、なんて少し考えた」 おもわず身を起こそうとしたカインの全身を、激痛が襲った。悪い、となだめるレイクを涙 のにじんだ目で見上げ、視線でカインは問いかける。 「なんとか隙を見てヴェスパシアを助けようと思ってたんだが、これが意外に厳重でさ。せい いしゆみ ぜいがやつらの弩に細工するぐらいだ。そんなことしかできやしない。好きな女ひとり充分に 守れやしない。何度か死にたくなったぜ」 言葉が思いっかず、結局盛大な溜息一つをついただけだった。 カインは何か一一一一口お、つとしたが、 そのカインの手を、レイクが握りしめる。 「レイク : : : ? 」 そのままうなだれるようにして、レイクは毛布に顔をうずめた。 「すまなかった。本当に」 しんし あと、とそれ以上に真摯な声が続く。 「ありがとう。俺を 同じ場所に引き戻してくれて。
壮絶な空気の中で無言を保ち、彫像さながらに静止している二人を、カインは困った顔で眺 そがい めていた。当事者のはずなのに疎外され、皇女と侍女の板挟みだけでなく、教師と家主の板挟 みにまでなってしまっており、事態の厄介さにおもわず頭を抱えたくなる。 このあとバラム家に帰ればアウレリアと顔を合わせるだろうし、明日になれば皇宮でクロー ディアと顔を合わせるだろう。二人は分別のある大人だから、目の前の二人のように露骨に不 機嫌になったりしないとは思、つが、気まずさはど、つにもならない。 どうしてこの二人はこうなんだろう : ちょうば 店主は帳場でむつつりと黙りこんでいる。この緊張状態は目に入っているはずだが、客同士 の揉めごとには干渉しない主義なのだろうか。それにしても、つくづく他に客がいなくてよ かったと思、つ。 助けを求めてレイクを振り返ると、彼はいつのまにか棚の陰に隠れて、おもしろそうにこち ・つかが らの様子を窺っている。こういうときはまったくもって頼りがいのない友人だった。 しゅんじゅん 六、七つ数えるほどの逡巡の後、カインは腹をくくった。 章 勲 この場に踏みこむのは槍一本で大熊に挑むくらい勇気のいることだが、原因は自分だ。二人 騎の気持ちは本当に嬉しいから、できるかぎり誠実に応えなければとう。 銀それに、このことについては黙って流されるわけにもいかない。カインは二人に歩み寄る。 イングリドの肩を軽く叩き、ファリアになだめるよ、つな視線を向けた。
ま住んでいるところをつきとめることだった。それがわかれば、自分以外の誰かを会わせるこ ともできる。案外、オルドリッチなどは上手く話を聞き出せるかもしれない 角をいくつか曲がり、脇道を抜け、レイクはあまり人気のない通りへ歩いていく。左右の建 物は住宅や倉庫などで、カインの来たことのない場所だった。 暗くなってきたな : 空はまるで、一歩ごとにその暗さを増していくように思われた。月がばんやりと浮かびあが り、星が一つ、また一つと輝きはじめる。 不安になってきた。これでは居場所を突き止めてもあまり意味がない。それでも引き返すこ ともできず、廩重にあとを追う。 やがて、レイクは一つの建物の中に入っていった。帝都の富裕層に多い、白い大理石造りの りゅうれい 宀ロロヾ、」 0 ヾ 食オノラム家の屋敷よりも二回りは大きく、流麗な装飾の施された塀まで備えている。門の 前には遠目にもきらびやかな甲冑を身につけた二人の門番が立っていた。すいません、とカイ ンは亠尸をかける。 「こちらは、どなた様のお屋敷でしようか」 たけだか パール様の邸宅だ、と答えた。 門番は不審の目を向けたが、居丈高にヴェ 「わかったなら、去れ , 脅すように、わざとらしく甲冑を鳴らす。カインは不央に田 5 ったが、 言い争っても意味がな いと考えてその場を後にした。あの態度では、おそらく何を訊いても答えてもらえないだろう。
少し困惑しているような、そんな表情と声音である。カインは椅子から立ち上がった。 「宿の外にいるわー きづか 一言って、クローディアもついてくる。心配らしい カインはクローディアの気遣いに感謝の 言葉を述べて、誰だろうと思いながら宿を出た。 巨漢の戦士が立っている。背には、いっか見たことのある巨大な刀身と長柄を持っ武器。短 い黒髪に、無精髭。顔の上半分は象牙色の仮面で隠されていたが、カインには誰だか正確にわ かった。 「オルガーさん : : : ですよね ? 」 その仮面は何の冗談なのだろうか。そもそも、どうしてこのひとは帝国にいるのだ。 「俺は : : : 仮面の戦士。そう、仮面の戦士エリゴル・ とてもいやそうに、男は自己紹介をする。 だったら知りません、とでも言おうかと思ったが、さすがにそれは可哀想な気がしたので、 カインは振り返ると、クローディアを安心させるよ、つに笑みを浮かべた。 「すいません。ちょっと彼と二人きりで話したいんですが , まなざ 勲わかったわ、と男に疑いの眼差しを投げながらも、クローディアはその場から離れる。カイ 騎ンは小さく溜息をついて、男 バルトⅡォルガーに向き直った。 銀「どうしたんですか、オルガーさん」
がいせんしき 銀およそ一月後の凱旋式を控えて、通りは活気にあふれている。今年が暖冬であり、人々の服 装も軽やかで、彩りに満ちたものになっていることも雰囲気づくりに一役買っているのだろう。 「も、つ終わり ? あわ 慌てているところに、聞き慣れた声がした。いつのまにか、少し離れたところにアウレリア が立っている。彼女は今朝、朝食をすませると早々に出かけたはずだった。 「懐かしいわ。私も昔、箒一本でいろんなやつを叩きのめしたものよ。腕力に訴えてきた商売 敵とか、旦那とか、旦那をたぶらかそうとした変な女とか、旦那とかー ーーー奥様。旦那様が二回挙がっています。 そう思ったが、いまは自分に落ち度がある状況だ。仕事中に箒で遊び、かっ廊下を汚すなど しようぜん 言語道断である。悄然と、イングリドは頭を下げた。 「申し訳ございません」 「何か壊したわけじゃないんでしよ。気にしなくていいわよ。ますは着替えてきなさいな。そ れから私の着替えを手伝って、そのあとお茶を淹れてちょうだい , かんよう アウレリアの寛容さに感謝し、イングリドはもう一度、頭を下げる。そして、ふと思った。 彼女ならば、槍について自分よりもはるかに詳しいのではないだろうか。
192 おもむ しかし、帝都に赴いて騎士になったとして、ファリアのことをまったく考えすに日々を送れ るとは田 5 えなかった。いま騎士になるということは、ファリアを追い回す側に立っとい、つこと だ。それは、カインの思い描く騎士からかけ離れたものだった。 クローディアさんに相談すれば : そこまで考えて、カインは自分を殴りつけたくなった。おさえきれずに、拳でこめかみを叩 とうすればよいのか いた。これは、カイン自身が判断しなくてはならないことだ。だが、、、 おうのう 無言で懊悩するカインを、ファリアは優しさと哀しさの入り混じった目で見つめた。悩んで くれたというだけでも嬉しいと彼女は感じていた。家族や故郷と天秤にかけるだけの価値を、 ファリアに認めているということなのだから。 「いい騎士に、なれよ」 「ふざけるな」 せりふ 台詞の中に別れの意志を感じとったのか、、つつむいていたカインは弾かれたように顔をあげ た。身を乗りだしてファリアを睨みつける。 「なりかた、ってものがあるだろう。僕は、こんなやつらに認められて騎士になりたいとは思 わない どんな手でもいし 、と思えるんだったら、去年の試験で不正に加わっている」 「あのときとは違うだろう。それに、正当な方法にこだわるのなら、正式に試験を受けて合格 すればいいではないか。ともかく、私のもとを離れて帝都に行かなければ、それすらままなら ないのだ」