を神々についての誤った想定から解放しようとしたがゆえに、現代神話のリアリティが云々されるには、リアリティが同じ事物につい において復権せられるべきものを持っというのが、彼の見解とするて複数成立するという認識の進化が背景として不可欠である。 ところであるが、その自然観を右のように構成し直すならば、現代機械文明は一時、神話を粉砕したと考えられ、なによりも物質的 のよって立っ原理に符合する。・ニーチェの言う圧縮された世界な意味で、ことに武力として絶大な威力を発揮したから、人間が物 像どしての神謐が、過去の説話の中ばかりでなく、未来の彼方に横質を支配できるという能力にたいする信仰が発達し、それに対立す る思想は蒙昧なるものとして斥けられた。そのことにおって人間 たわっているとしても、異とするに足りないのである。 は、リアリズムという窮屈な殻の中に自らを閉じこめ、また逆にリ 現代は科学技術の時代であるが、同時に神話の時代でもある。こ の不可解な二面性は、現代が唯一のリアリティの時代から複数のリアリズムによ「て世界を解釈するといテ限界を露呈したのである。 ここに言うリアリズムは、理性を世界の中心に置く天動説のことで アリティの時代に移行する過渡期にあることを示している。現象学 が盛行し、人類学の論文が広く読まれるといった思汐は、現代文明あって、理性への懐疑がないという点で、まことに主観的である。 のもたらした諸機構の背理を前にしての、現代人の神話にたいするかくて、リアリズムに対置させられるものとしての神話には、リア リテイへの反措定にすぎないものと、自身のリアリティが反措定と 無意識の渇望を暗示している。理性の一神教的支配が弛み、神話が なるものとが分別できる。言葉を替えれば、リアリティに対抗する 今なお生きているアメリカ・インディアンの部族が、レヴィⅡスト だけの骨格がなくて、光をあてられれ・は霧散するたぐいの神話と、 ロースやル・クレジオを魅きつけるのも、神話が民族の環境によっ て表現は異にしながらも、普遍的な人間精神の構造を開示するもの確固とした事物への信頼が、視野の狭い頑な信仰にすぎないことを たからである。神話時代と歴史時代が、未開と開化をもって分けら立証するという神話の相違である。事実によって逐われるものと、 れたのは過去のことで、現代は ( 美的表現としてのーー・すなわち理事実をある限界の中に封じこめるものと。 性によってであれ感情によってであれ、倫理の混入しない ) 神話を「科学」的予測もしくは空想に拠ると考えられていたも、じっ は当初からリアリズムを離れていたのであるが、疑似リアリズムに 必要としている。 むろんある意味では、神話は人を窒息させるほど夥しく存在し、滲透された結果、表現としての価値の低いものを大量に生みだした 生産されつつある。ミルチャ・エリアーデが十九世紀における概念のである。現代の作家が告白するように、現実というものは、 いくつもの可能性のうちの一つであるにすぎないものであり、なに として言及しているように、神話がリアリティに対立するものすべ がその一つであるかを予知する方法はない。それらの可能性の一つ てを指すものだとすれは、「民主主義」や「数量分析」といった、 一つがリアリティに裏打ちされているならば、創作は本質的に、神 理性にもとづく迷妄も、神話の仲間入りをするたろう。したがっ て、神話のうちにもリアリティを有するものと有しないものとがあ話の創出である。可能性が現実に一 . 致するかどうかは問題でない。 り、考察に価するのは前者のみであって、後者は除外される。また仏教の末法もキリスト教の福千年も、思想であって、事実として 4
もとより、おそらく論理的にも打ち破ることができない。無限の時むろんこれは、時間のみを基準にした、ごく大まかなものである 間規模と無辺の空間規模をもって考えるなら、あらゆることはすでから、いくつもの註釈が必要である。それそれがかかわっているの 5 に起ってしまったのである。宇宙は一方では無尽蔵の可能性に分かは主観的な意味での時代区分であって、暦年上の時代と一致するも れていくから、まったく同じ事象がくりかえされることはない。ものではない。神話時代は、考古学上の歴史時代と重なりあうことが しも同じことが起ったとすれば、時空が無窮であるという証明にはあるであろう。風俗文学はここでは世態風俗の描写を主体とする文 ならないのである。循環と不同という矛盾する二つの原理で、時空学と解しており、私小説もこれに含められないわけではない。古典 は変化している。そこに、神話が過去と未来のそれそれの彼方に出は実証できる未来を扱ったというものではなく、実証できると 現する論理が見出せるだろう。 信じた未来にかかわっていたのである。これらのうち、神話文学・ を未来の彼方の神話と規定するとき、過去の歴史的時代の彼幻想文学・現代は、実証的方法を前提としないものであり、そ 方にある神話と同列に扱うことができないのは言うまでもない。すの意味で、歴史文学・風俗文学・古典と対照する。 でに見たように、過去の神話は現在を説明する手がかりであった。 ただし実証的といっても、物理的数量的な実証性を意味するもの 未来の神話のほうは、現在によって説明せられるであろう。その場ではないのであって、広い意味では幻想的ならざる文学はない。事 合、科学的予測が、説明の手段にならないことはすでに述べた。厳実にたいする信頼がその技法を限定しているという意味で、実証的 格に言えば未来神話としてのに論理的実証的な説明らしきものとするのである。狭い意味での幻想文学は、現実を描きながら超自 はない。たた、現代の様相の成立するきっかけとなるのである。も然的なものをそこへ導人する。現代はいわば、未来の彼方の超 っとも、仔細に検討すれば、過去の神話もまた、実証的に説明でき現実を舞台とすることによって、超自然的なものを当然のできごと るものではなかった。神話によって現実の事象の縁起が語られるとに転化しようとする。その意味で、現代が古典の発展線上 見えながら、じつは現存する状況が神話の機縁として用いられたに にありながら、技法的には幻想文学に親近性を有するとしても、怪 すぎないと考えられるのである。 しむには足りない。たとえば、・ タニエル・キースの「アルジャーノ を未来神話と規定することによって、時間を基準にする一応ンに花東を」では、未来が舞台になっているという予解のもとに科 の小説形式の分類が可能ではないだろうか。すなわち、 学物質によって知能がどこまでも発達するという前提が自然なもの 神話文学ーー不確定過去 となっている。しかも作者が実証性を拒んでいる点、古典とは 歴史文学ーーー歴史的過去 明らかに一線を画している。この作品と、スチ・フンソンの「ジキル 幻想文学・風俗文学ーーー現在 博士とハイド氏」の技法上の相違は、舞台が作者の主観で現在に設 古典ーー実証的未来 定されているか、未来のある時期が想定されているかにかかってい 現代ーーー不確定未米 るのみであるから、本質的相違はない。人為によって変化させられ
多数が、確かにこうした設定や事件によりかかっている点は認めらちくりかえされ変貌していく必要のないものは存在しないというこ れなくてはならないが、それそれの分野自体は、アーサー・ O ・ク とである。われわれは閉じることのない円環を連動する者であり、 ラークやディクスン・カーによって切り拓かれたものでない点もま始原を知らす、終末を知らず、自己がなに者かを知らない。それが た、銘記されなくてはならないだろう。かれらはすぐれたエンタテ起点である。かって神話を生みだした精神状況に、現代もまた イナーで、科学の発達や密室殺人に関しては一家言を有してはいるたちあっているのである。 科学の恩恵も呪詛をも経験した現代人が神話に回帰し、そこに世 が、主題よりもむしろ技法にすぐれた作家と言っては言い過ぎであ ろうか。後裔ではあっても創始者ではない。推理小説の鼻祖とされ界を捉える構造を見出すのは自然ななりゆきであるといえるかもし るポーが殺人のトリックに苦心した跡は見られないし、の勃興れない。神話の構造が c-v の構造に重畳してくるものなら、に を促したウエルズの作品には、。へシミズムが濃く匂っている。科は、現代文学の前途を拓く鋭い鉈としての意味が認められるかもし 学技術の発達が人間の勝利を意味しないし ( 火星人が撃退されるのれない。もしもその予測が誤っていないなら、は文学としては は、細菌のためであって、戦争の結果ではない ) 、未来が好ましい まだ双葉の時であり、過去の神話文学に匹敵するほどの精神遺産を イメージで飾られることもなかった ( 退化しきったエロイ族とモー 残すほどに成熟してはいないのである。そして、ものの起源として ロック族 ) 。 の神話が歌いつがれたように、ものの究まりゆく彼方に神話を見出 神話に投しられた想像力が放恣なものではなく、荒唐無稽なものす詩的精神として、を書き続ける衝動が永続することも、疑念 でもないわけは、、、 し力なる奇跡も不条理も起りうる世界についてのの残る余地がない。 正当な直観に裏打ちされていたためと思われる。未来の彼方に神話 を構成しようとするとき、科学的検証という経験を経てなお残る古 い神話の命題をくりかえすことになるであろう。神話は科学を否定 しないし、神話が現実に一致することもない。おのおのは、成立す る領域を異にしているのである。 くりかえすならば、あらゆることはすでに起っている。しかし、 あらゆることは同一でない。あらゆる可能性は、時間的空間的に見 て検されているはすである。しかも、さらにあらゆる可能性が考え られるのである。それはこの、地球と歴史の不完全さ、人間の不完 全さのしるしである。われわれの現在この地点での生存も、無数の 変奏の一つにすぎない。ただ一つ確かなのは、完全なもの、すなわ ①ことわるまでもないと思うが、現在あるいは過去に舞台を設定した も可能である。だがそれらは、歴史小説とも風俗小説とも、幻想 小説とも違っているはずである。 ②「ポルへスとわたし」作品自註
及ばないのである。 ことも、われわれのばかげた衝動や生涯の構造をよく示している。 たとえばが存在するという仮定のうえに書き進められる一一一われわれは父を殺して母を娶り、しかもそのことで自分を罰すると いう構造の良心を構えているではないか。疑いが兆したとき、女が 島由紀夫の「美しい星」は、読者を苦しい立場に置くだろう。とい うのも、もしも円盤が存在するのなら、物語は不思議でもなんでも屍にかわることは、ギリシャ神話も「古事記」も共通にするところ なくなるし、もしも存在しないのであれば、設定が子供じみてくるである。また柳田国男が採集した「遠野物語」には、多くの幻想説 からだ。約東ごとを承認しないで読むのは不粋かもしれないが、話と、いくらかの神話とが含まれている。狐の妖術や鬼の話は、日 の草創期においては、作者が読者に約東ごとを課する余地はなか常的な現実にともった不可思議という意味で前者の例であり、オシ った。また作品価値で読ませる作品は、約東ごとで読者の選り好みラサマ伝説は現実でなく神話空間での話である。 斗学技術の未発達な人類 はしないものである。円盤が存在するかしないかはわからないが、 神話はもとより無知の産物ではない。 存在するものとすれば、という立場は、想像力の遊びにほかならなは、傲慢になりえなかったのと、人知を控え目に見積っていたのと 。その遊びに読者が加われるかどうかは、語りくちに魅せられるで、神話に多くの余地を提供したのである。科学技術の発達の結果 かどうかによる。稲垣足穂の「一千一秒物語」は、星が落ちていたとして、知性の限界が自覚されてくると、神話の意味が見直される にいたるのは自然である。そして現代人がみずからの神話を創造し 、東京の続きに砂漠がひろがっていたりする世界を扱っている。 この作品を否定するとすれば、作品世界全体を否定しなくてはならようとするとき、沃野が日付のある時間と地図に示された空間との ないだろう。作品世界の存在感そのものが、そこに問われているか彼方に横たわっていると意識されるのも、同様に自然なことと一 = ロえ らである。というのも、なにが起っても不思議とはしない空間が提るだろう。そこに拾いあげられる素材が、人類の終末であろうと、 示されているからで、事件は約束ごとによりかかってはいない。語 英雄物語であろうと、想像上の動物であろうと、すでに一度、神話 りくちではなく共感が、作品の成否を決めるのである。そのようなで語られたことどもなのである。 冫いったんは科学知識によって 場合、作者は狂人として斥けられる危険を冒しており、読者を手玉神話があのオルフ = ウスのようこ、 にとるという位置にはいない。 八つ裂きにされたあと、再び科学知識の届かないところでもとの姿 古典は、実証可能な歴史時代を未来、もしくは現実に接続しに回復することは、古典の技法すなわち科学知識を物語の支柱 た時空に設定するという体裁で、歴史文学を鏡に映したようなものとする方法の終熄を意味している。作家が山師でいられるほど として成立した。現代の舞台は、現実とは断絶した未知の時間読者いつまでもナイー・フではあるまい。異星人や熱線銃は約束ごと と空間とである。その点で、現代は神話文学に照応する。神話である。ミステリーにおいて娯楽としての殺人事件の推理がおこな には超自然が存在しない。なにごとも自然である。牡牛に懸想してわれるのと同様である。どちらも、ありえないものではないが、あ 9 奇獣ミノタウロスを生んだ女王のことも、その曲りくねった棲処のりうるものとしての重みに欠けている。現代のやミステリーの
系 2 無数に存在する世界のあるものは、われわれの住む世界に 工神話の現代性と小説 類似している ( 反復 ) 。しかし同じではない ( 不一 I)O 人間の荒唐無稽な神話から解放しようとしたエ。ヒクロスの教説 全宇宙は限りがない。 したがって、世界は無数に存在する。 が、このように別な意味での神話の舞台とそれが成立するきっかけ すでに無限の時間が過ぎ去っている。 したがって全宇宙には とを提供しているのは興味深い。ジャン・・フランは、の作家た 目新しいことがなにも起らない。 ちがとりあげる人類の未来の物語は、大洪水とノアの方舟という聖 系 1 世界は無限なるものの切れはしである。それは生成し ( 天書の主題によるものであって、昔の神々を前にしての苦悶にかわる 7 地創造 ) 、消減する ( 終末 ) 。 現代人の恐慌状態を立証するものであると言引。工。ヒクロスは人間 新鋭評論 S F とネ申話 中川裕朗画 = 中島靖侃
科学文明が人間の意識のうちで占める位置ーー・・その進歩に未来を託を、過去のかなたではなく、ありうる神話世界に置き、したがって せるか懐疑的であるかの態度の相違ーーーに帰着するであろう。未来説明を拒むものとしているところに求められるであろう。 社会へ旅立ったウエルズの主人公は、現在の文明をもって未来を救 「ファンタジーの退屈」指摘されているところはすべて妥当である おうとさえする。ヴェルヌは宇宙旅行のために地球を脱出する速度 が、をすべて文学でないものの内に限定しているので、ことのほ が、時速四万キロでなくてはならないと正当に測定した。これらは か明晰になってしまったうらみがある。 芸術としての価値を直ちに高めるものでもなく、損うものでもな 彼女は speculative fiction をのエッセンスと解している。し い。ただ科学の青年時代にあっては、能うかぎり精密な予測をしょ たがって、舞台を宇宙にかえただけの西部小説や時代小説に該当する 「に何ができるか ? 」邦訳二一 うという情熱が存在しえたのと、科学技術を無視した未来が考えら ものはとは考えない。 頁。だが、むしろ現代において創造されるべき神話への試みと言って れなかったまでである。 しまったほうがよいように思われる。オラフ・ステープルドン、ミシ けれども、進歩を信じるのは作家の主観である。科学自体はなに 、ロウズらが、に関して神話と エル・ビュトール、ウィリアム・ / も語らない。語ればそれは科学ではない。進歩の観念に幻減がとり いう言葉で近づこうとしていることが紹介されている。ジャン・ガッ ついたとき、一科学の可能性についての予想は意味をもたなくなっ テニョ「小説」 ( 文庫クセジこ邦訳一五九頁と普通小説の 未来については、つぎのような指摘がある。「今日読者を誘惑し、ま た。むしろ、科学の不毛性のほうが主題となったのである。古典 た納得させる小説における怪奇性、幻想性、神秘性は、的要素が から現代にいたるまでには、科学が人間生活に祝福と同時に 加味されることが必須の条件になってきた。そうしてやがては、 呪いをもたらすという経験によって確かめられた事実 ( 大戦・恐 遠からず光栄ある発展解消を遂げ、一般の、つまり的になって来 慌 ) がはさまっている。近い将来は科学的予測が可能であろうが、 た小説の中に溶けこんでしまうにちがいない」奥野健男「仮説の文 発達の速度からするなら、二十一世紀を詳細に語ることさえ困難で 学、 , ーーサイエンスとファンタジーのあいだ」 ( 国文学昭和五〇 年三月臨時増刊 ) ある。同時代人が誰も生きてはいない二〇九八年にいたっては、す でに想像上の年代である。したがってで扱われる時・所は、歴 史時代に属するものではないとしなくてはならない。一九 xx 年と Ⅱ未来神話としての 記されていても、 いなくても、同じことである。合理的説明が不可 能な時代と舞台、すなわち神話の世界が、現代のにおいて想定初めて訪れたはずの土地に記憶が残っているという経験は珍しい されているものなのである。現代のが科学的信憑性をもってそものではない。また、鏡の中の自分の顔が異様なものに見えたり、 の存在意義を主張するものでないのはこのためであり、古典と他人が偽物に見えたりすることも、。ヒランデルロの主題ではある 現代の相違を言いかえれば、前者が時代なり舞台なりを歴史的が、誰にでも覚えがあるだろう。 現在の延長のうえで考えているのにたいし、後者が時代と舞台と あらゆる知識は追憶であるという。フラトンの直観は、実感的には 5 5
日の下に神話の構造をひそめるものであった。 限のない知的好奇心につき動かされていただけであるが、時間空門 の法則と根本的に矛盾する、存在しえないタイム・マシンは、作者科学的空想という本質的でないものがを成立させる標識と考 5 の幻想が生みたした装置であって、その性質からいって、科学をひえられた結果、ヴェルヌ、ウエルズは二流の後継者を大量に残す不 運を課せられた。まったく同じことがミステリーにも言える。ディ そかに否定する思いの表現である。 ウエルズの科学的教養や、ヴェルヌの素朴な科学的誠実さは、作ッケンズの「エドウイン・ドルードの失踪」は、未完のままの遺作 品世界が成立するための、時代が課した要件に適合するものたっとなったので、文字通りの犯人さがしがいつまでも続けられるが、 「ガス燈の下での」は、科学を意味する合理主義に耐えな突飛な犯人を想定するのは、ミステリーを謎解きに限定し、そのた くてはならなかった。科学的な道具立てによってかれらが描きたそめには人物の性格や状況が不自然に陥ることにかまわない後世であ うとしたものは、現実とはとび離れた次元の住人であり事件であっ るようだ。ポーがフランス人の探偵を創造したのも、純粋な論理操 た。そして語られている内容は、広い意味での神話にほかならな作で、石畳のように堅固なはずの現実をくつがえす鮮やかな効果を 狙ってのことであったろう。われわれは現実のいくつもの貌を知っ は科学小説たったものがしたいに幻想小説にかわっていったていないこと、論証によって構成されたもう一つの現実につきあわ のではない 。の反リアリズムは当初からその本来的要素であっせられるとき、感覚に訴える現実は見せかけにすぎないことが、幻 た。ウエルズにおいてもヴェルヌにおいても、未来社会の科学ュー 想詩人の主題であった。それがほとんどすべてのミステリー作家に ト。ヒアを描出しようという意思はなかった。かれらが現在のヨーロ よって俗流リアリズムに作りかえられた結果、現実離れしている分 パを舞台に想像力の翼をひろげたのは、現実の模写というリアリ ・アクロ だけ説明を要することになった。じっさい、誰がロジャー ズムの風通しの悪さにがまんがならなかった結果で、想像力によっ イドを殺そうとかまわないのであるが、それでは作品として自立で て時空を支配する試みたったことは疑えない。なおそのうえ、かれきない小説が、謎の解明によって一分野を形成するとき、ミステリ らは、本来の神話の、事物の起源についての説明の手法を、巧妙に ーは印象の薄いエンタティンメントとして存続するほかないのであ 変容させて用いた。神話は現実を説明するために、過去にかくあつる。 たとする。かれらは、ありうる状況を説明可能なものとするため のほうは考えつくかぎりの奇怪な小道具を生みだした。昆虫 に、現実を論拠とする。科学が信仰される時代には、動かしがたい を原形にしたべムに出会ったり、時間旅行の途次で大真面目な活劇 現実を起点とすることによって、きわめて確かな可能性が約東されが演じられたり、といった作品が通用するのは、読み手に経験が乏 るもののように思える。機械的因果論がこれに力をかすであろう。 しい場合に限られる。そこでの非現実の物語は、巨大な虫に「変 理に合わない神話や物語が理性の光で一掃される以上、理に適った身」したグレゴール・ザムザや、タイムトラベラーとしての「ドン ・キホーテ」の物語とはちがって、リアリズムに対抗するだけの強 未来は確かな基盤の上に立つであろう。しかしそれは、科学の衣裳
②ジャン・プラン「エビクロス哲学」 ( 文庫クセジュ ) 邦訳一〇七頁 いる。地底をくぐって火山の噴火口から無事帰還するなどは、ほら 神の晴朗さに似ようとする倫理学ではなく、神話をその胎内からひ話とたいして距離がない。 きだす芸術によってのみ、世界と生存とは是認されゑ科学精神は神 ウエルズにとって科学とはなんであったか ? 彼が自然科学にも 話創造力に敵対する、と「悲劇の誕生」の詩人は言う。 ④むろん彼自身は、神話を作り話と混同するものでなく、人類学者の社会科学にも情熱を傾けていたことは疑うべくもない。にもかかわ 発見した《未開の》世界の神話の芸術としての衝撃力を評価することらず彼が作家でなくてはならなかったことは、彼自身にも説明のつ により、その精神的根源を、われわれの内にも発見しなくてはならな かないことであったろう。それ以上に、なぜ彼が現実にはないこと いとする。現代社会には神話が、欠乏しているのである。「神話と夢 を舞台に設定しなくてはならなかったかは、検討に価する問題であ 想と秘儀」第一章。 る。反動力物質だの不可視の人間たのを、いかに空想科学の名をも American Goverment through Science Fiction ( 1974 ) につ ってしても、進歩の結果として受け入れることができるであろう けられたフレデリック・ポールの序文。 か。科学技術は彼にとってはまことらしさを高める装置であった。 作品の中での科学についての予測が、ことごとく根拠のないもので Ⅱ反現実志向の あったとしても、それが必ずしもウエルズを古くするものではな 。歴史的事件を素材とした作品が、歴史的事実の新発見や新解釈 ジャンルとしての cn v-æが姿を現わしたとき、当時において到達しい えていた科学の最尖端に依拠しょケとしていたことに疑問の余地はで価値を失うことがないのと同様である。リチャード三世が二人の よい。ヴ = ルヌにしてもウエルズにしても、ありうる状況を、知カ甥を殺させたかどうかは、シ = ークスビアの造型した人物の価値 の及ぶかぎりの科学的実証主義をもって描きだそうとした。結果的を、いささかも減じるものではない。ウエルズが今なお読むに価す にはタイム・マシンのように依然として自己矛盾でしかないものもるとすれば、それが科学技術の進歩とは関係なく生き残るべきもの あり、火星人のように実在が否定されるものもあれば、月世界の観であったからで、予想がまるで夢のごときものであったとしても、 察やロケットのように、あるていど今日の物理科学の発達を先どり作品に本質的意味を持つものではない。彼もまた、現実によって拘 した、しかも詳細なデータによったものもあるというエ合である。束されつくすことを望まなかった。現実によって支配されない時空 を求めた結果、架空の時空を構成せざるをえなかったのである。け いずれにしてもそこには、先駆者たちの意識的努力が及んでいた。 ヴェルヌ以前は科学技術をファンタジーの出発点とするものではれども時代の子として、科学技術を援用してのリアリティには抗し なかったから、朝日を浴びてたちのぼる水蒸気を瓶に詰めて月へ昇きれなかった。そこで表見的な科学主義に拠って、思いを述べる っていったシラノ・ド・ ベルジュラックの月世界冒険は、 という方法をとったのである。科学文明の前途を信じることは、現 ウゼン物語と同様のほら話の系譜に属するものであるにすぎない。 実の拘束力に屈することではなくてむしろ、思いをそこからひきは だが、ヴェルヌは物語を進行させる力に負けて、科学を放擲してなすロマンチシズムに属する。飛行機の設計をしたダ・ビンチは際 5
う。空間を事物が充たし、時間が現在の一瞬に限られたものとし はそのとおりにならなかった。予言には動機があり、選択的意思が 働いているから、無数の可能性のうちの一つがとりあげられるのでて、われわれを監禁している現実は、このように軽い。しかも人は ある。さもなければ、数年先のことでも、あらゆる可能性に分かれその現実をたばかって、不可避な時間の流れから頭をめぐらせ、事 て、正確に予想しようとすればするほど、不確定な部分が増し、定物を好みの装置にとりかえるために、しばしば想像力による別世界 まらなくなってくる。現在の事実はわれわれの肉体をとらえているに仮住まいを試みるのである。 その意味で、説話の発生は必然的である。人間が想像力を備える だけに、つまり想像力とはちがって肉体のほうは事物からのがれら れない構造になっており、肉体そのものは過去にも未来にも存在す動物として存在しはじめて以来、存在しない時間やや存在しない空 ることができない性質のものであるから、重く絶対的であるように 間に飛翔しうる想像力は、肉体を拘東しつくしている現実を無数の 感じられるが、本来はあらゆる可能性の一つであったにすぎないも可能性の一つとして、相対的な、本来の規模に縮めようとしてきた ものであるといえる。 のであり、過ぎてしまえば再び、不確定なものに還えるのである。 ことに世界や人類の由来を謳う神話は、説明を加えることで、事 すなわち、想像力によって経験された未来と同じように、想像力に 象の本質や人間の運命を理解可能なものとした。現実は絶対者なの よって保持される過去となるほかない。 むろん記録や統計が、歴史の解釈や未来の予測にある枠をはめるではなくて、既知の法則に拠っているにすぎないという視点が与え ことは争えないたろう。物理学や数学が科学技術の限界を拡けつつられることになった。かくて人は、天狼が太陽を食べることがわか っているから日食をこわがらなくなり、人間の先祖である神が花の 冫。しかない。現代人は無知を装おうこと あることを無視するわけこよ、 はできないのである。しかしすべてを再現することと同様にすべて化身と結婚したために死ぬ定めになっているという、もっともな論 を予測することも、本来不可能なのであって、唯一非代替的な現実理を承認した。天が落ちないのは世界の果で巨人によって支えられ ているからであり、男が女によって身をあやまるのは、それが神の なるものは、偶然 ( あるいは不可知の宿命 ) が一点に流れ集って、 またもやとらえがたいものになる隘路に似ている。一人の人間がど仕掛けたわなだからである。 ういう両親を持ち、いつどこで生れるかは、徹頭徹尾偶然によって 人智が物質界を支配しはしめると、事象につけられたこうした説 決められる。彼がいかなる配偶者と子を持つか持たないかも、偶然明は、その象徴的意味が評価されることなく、急速に実効性を失っ の領域に属するであろう。人類の発生自体が、予定されたことではていった。確かに神話は、科学のかわりも倫理のかわりもしてはな なかったにちがいない。世界は黙示録が描くように轟音とともに果らないものであって、その根源的な拘束力は美的感興に由来するの てるのではなく、日常的なささやきのうちに果てるのかもしれなである。けれども神話のリアリティは理解されなかった。そのかわ 。とするならば、自己があたかも絶対的ななにかであると考えるりに、近代小説という、現実そっくりに作られたもう一つの世界 9 ことは、根拠のない不遜な想定とのそしりをまぬかれないであろが、人の心を捉えはじめたのである。
ファンタジイ & サイエンス・フィクションま志特糸勺 S ・ F マガジン 1976 年 11 月号 ( 第 17 巻 11 号 ) ー 昭和 51 年 11 月 1 日印刷発行発行所東京都 千代田区神田多町 2 の 2 郵 1 0 1 早川書房 TEL 東京 ( 2 図 ) 1551 ~ 8 発行人早川清 編集人倉橋卓印刷所誠友印刷株式会社 表紙 A ・ソコロフ 目次・扉佐治嘉隆 た レ あ ト イラスト 中島靖侃金森達 岩淵慶造畑農照雄 中村銀子佐治嘉隆 村上遊加藤直之 イラスト & ポエム 四つの断章 ▽新鋭評論△ と神話 星座の歳時記 連載 4 秋の星座と水星 第三十八回古典 LL 0 & < ・ 4 いよいよ佳境にはいる大宇宙活劇紙芝居 ~ 好評連載第四回 スタジオぬえ グランドマーク 安田均 横田順彌 児島冬樹 〈海外〉設水研 u- スキャナー 日本 I-L こてん古典 ニつの年刊 LL 傑作選 3 ^ 日本 > 石川喬司 てれぽーと : 依光隆 中川裕朗 日下実男 横田順彌 4 1 1 3 122 32 1 2 0