8 / の割合で静注される溶液、・フドウ糖やビタミン類や、乳酸しに出かけるでもなく、すでに野心達成の望みを断たれた階で 塩、、、、ロなどの電解質が俊景の命をつなぎとめているの階人を装っているのは、ひとえに三輪素子のせいだった。愛してい 9 だった。それから腎不全を防ぐために勤務中も補液しなければならる、別れたくない、おれはどうしていいかわからない : : : 俊景はし ない。彼は約一時間おきに百 8 / で四回、人気のない倉庫内で点かし雄也が戦慄を覚えたほどの明るい笑顔で、恋するあまりに食い 滴していた。他人と接触する機会の少ないここでも、いすれ見つか物ものどを通らない、身も細るわけさと冗談を言って、うちあけ話 をおえたのだった。 るかもしれぬ、俊景は言った、それでもサナトリウムには入れない のた。彼は法を犯していたことを雄也に話してきかせた。 胃を失うというめにあいながらなんと俊景の明るい表情だったろ 一年ほど前に美沙にふられた俊景は、それなら利用してやろうとう。雄也には理解できぬ、不可解な、驚くべき俊景の笑顔だった。 考えたのだった。ちょうどそのころ美沙は六カプセル / 日のをさらば天上 : : : 彼は自分自身に言ったのかもしれない、雄也は思っ 飲んでおり、さらに多くを望んでいた。俊景は配給分のの中のた。俊景が危険を承知でうちあけたのは、彼はすでになんらかの行 一錠を美沙に流し、その代金として部長の弱みを受けとったのであ動に出ることを決意しているからだろうと雄也は考えた。行動、そ る。 のものは単純たった。階から出てゆくこと。しかし選択すべき道 雄也はポケットをまさぐった。もうおれには天上に登るための切はいくつかあった。三輪素子に話すだろうか、それとも黙って行く 札はいらないと言って俊景のくれた二葉のその書類は、北見部長がのか、まさかむりやりさらって ? 俊景ならやりかねない、カでは 娘のために余分のを極秘のうちに抜き出したことを示す偽と真なく、舌で丸めこむのだ : : : 三輪さんに忠告すべきかもしれない、 のコン。ヒュータ・メモリ内容だった。 しかしどう一一一一口う ? 一日二錠ではやはり胃はもたなかった、俊景は笑った。二週間前 雄也の乱れた思考は新任の秘書の声で中断させられた。部長が呼 の胃のなくなった日から彼は自分の受給分すべてを美沙に渡してい んでいると彼女は言った。雄也は無言でうなずき、磨かれた机面に た。一日九力。フセルのによる悪夢は普通人の三倍どぎついだろ映る姿を見てネクタイを直し、部屋を出た。 うと俊景は真面目な顔で雄也を見たが、だからは敵たなどとは 言わなかった。たた、これは自身の持っている自己矛盾、二律「むろん、きみは階へ行く必要はない」北見部長は椅子の背にも 背反だと彼らしい言葉をもらしただけだった。 たれ、窓外をながめながら言った。「階の支社からの報告をまと 俊景はつづけて、自分にいま必要なのは新鮮な胃だと語った。 Q め、整理分析し、策をねる。きみは頭た」 階人の生活はわからないが、たぶん胃を捕え、腹に収めて、それが「はい部長」雄也は大きな机の前に立ったままこたえた。 逃げ出さぬうちに食事をとるのだろうーー。俊景が新鮮なタンパク源「しかし現場の連中の仕事ぶりを見ることも無駄ではあるまい」 に飢えていたにもかかわらず、犯罪者として捕まる前に自ら胃を捜「はい部長」
「・ほくが知らないとでも ? 」雄也は空のカツ。フをさし出した。三輪に会って真意を問いただしてやろう。夜勤あけの彼をつかまえられ さんは受けとって無意識にであろう、回しはじめた。「俊景だろるだろう。 やけみねとしかげ う ? 宅棟俊景、・ほくの親友、昨日までの同僚、自称ビアノの名 ビル街が混雑するにはまだ間があった。朝日に輝くビル群の中 で、ひときわ高く光を受けて威容をほこっている建物が雄也の仕事 三輪さんはうつむいた。「彼 : : : わたしのことをなにか ? 」 「いや。でもわかるんだ。半年ほど前のパーティーで俊景はあなた場だった。正しくは、その地下だったが。雄也はカードを車の中か を見初めた。それまでは目に入っていても見えてなかった。やつはら守衛に見せて駐車場に入り、高いビルを見上げた。きようからあ の上へ行ける。この日をどんなにか待ちのそんだことだろう。 本気だ。プレイ・ポーイ気取りだが、本質的には女誑しじゃない エレベータをおりると地下だった。保安課に俊景の姿はなかっ よ。なぜ一緒にならない。思い合っているんだろう : : : 」 た。倉庫へ行っていると事務員からきいた雄也は階段をさらに下へ : わたしは好きですが」 「わからない : 向った。広いホールがひらけ、一方に巨大な銀行金庫室についてい しいやつだ」 「保証するよ、俊景は頼れる、 「二週間前までは、愛してると、わたしを抱いて幸せな女にしてくるような扉がいかめしい。その手前にガラス張りの保安詰所があっ れた : : : でも最近態度がかわって : : : 結婚はできないって。会ってた。俊景が雄也を認めて手をあげた。 もくれないのです」 「きよう最後の見巡りだ」がっしりとした体格、髯の男が言った。 おまえにとっては永遠におさらばだろう」 「どうして。まさか、やつめ部長の娘を」 「一緒にくるかい ? 、 - ふ厚い扉の内に入り、閉じてしまうと痛いよ 「それも話してくれました : : : 好きだったけど、片思いでおわった雄也はうなずした。。 と」 うな静けさだった。その静寂の中でが眠っていた。天の高い倉 「説教くさいことばかり言ってるからな : : : 美沙には退屈な男だろ庫に整然と。工場で製産されたは人間の手に触れられることな う。ふられたってわけか。まあ苦い薬だ。彼女はまったく苦い女だ 、直接地下を通ってここにやってくる。出てゆくにも人の手は借 : じゃあなぜかな。あなたの美しさのわからぬ俊景じゃないのりない。それらの搬送システムは倉庫管理コンビュータが指揮し た。配給課へ渡される間、ほんの短い時間たったが、たちはこ 「だれが愛してるって ? 」ナイトガウン姿の麗子が階段に立って見こで休んでゆくのだった。 かってここに押し入ろうなどという不敵かっ向う見ずな人間はい 「だれが結婚できないって ? 三輪さん ? 」 おろしていた。 雄也はを飲むのもそうそうに家を出た。きようは三輪さんのなかったから、保安課の事実上の仕事といえば工場から送られてく 厄日だなと雄也は思い、その原困を生んだのは自分だったことにるの実際数と生産数にくい違いはないかをチ = ックして、あと 少々胸を痛めた。罪ほろぼしをしなくてはと雄也は決心した。俊景は清掃くらいのものである。 9
んだぜ。一緒に階へ行け」 「わたしが父に頼んだの。雄也を階へ追いやるまでサナトリウム 「麗子に圧力をかける気か。やめろ、手を出すな。とにかく、とに に帰らないって。帰る気はないけど」 かく、早く知らせてを飲ませないとーーー」激昻のあまり、あと「気安く呼ぶな」 は言葉にならなかった。雄也は負けた。署名ももどかしく受話器を「では小父さん」 とって自宅を呼ぶ。 「やめてくれ」 雄也は二人の女と向い合ってソフアに身をしずめた。子はいな 「三輪さん、麗子にを飲むよういってくれ、すぐに。胃が危なかった。午後からコンサ ートの練習たったことを雄也は思い出し それだけ言って切った。小部屋にはだれもいなかった殴りたおし「階か、そうたろうな」。ヒアノを前にして俊景が言った。「階 てやろうと決めていた男は書類とともに消えていた。これからのこ へやるには犯罪行為を公にする必要がある。それでは彼にとって不 とは細君とよく相談しな、という男の言葉が頭に残っているだけ利だ。 どうする、雄也、階へ行くか、それとも一緒にくる だ。雄也は歯がみして部屋をとびだすと、家へ向った。 突然テー・フルの下から現われた青白い球体に雄也は仰天した。 ガレージの入口を見なれないキャ・フォー ・ハンがふさいでい 「たれの ! 」腹をおさえた。「胃た ? 」 た。雄也は車をパンの後ろにとめ、車をおりると、芝生をつつきっ 「わたしの」 て玄関ポーチに立った。ノ・フに手を伸ばすより早くドアがひらかれ「三輪さん」 光球は俊景の手招きに応ずるかのようにビアノに近づき、そして 思いもかけぬ女がいた。髪をむそうさに後ろで東ね、サングラス 俊景の腹部に入った。 をかけ、オレンジ・イエローのセ 1 ターにジーンズといういでた「胃は。ヒアノ・ソナタが好きらしい」 ち。 「おととい宅棟さんがお見舞いにきてくれたの」 「おかえりなさい。待っていたのよ、そろそろくるころだと」 「どこを捜してもいないわけです」三輪さんが俊景の。ヒアノに耳を 「どうして : : : 美沙引」 傾けながら言った。「彼は美沙さんを連れてゆく気でーー」 「悪い小娘だ」俊景の顔が美沙の背後にのそいた。「まあ入れよ、 「わたしは当て馬にされたんだわ」 気の毒な綺どの」 「なんだかいい気持になってきた」と俊景。「そういやあ、こいっ 「旦那さま : : : 階へ送られるのですか」と三輪さん。 さっきシェリーを飲んでたそ」 「なんで ? 」 小品を弾きおえると球体が再び現われ、小大さながらに俊景の足 99
ー消費の一つの目安にはなるだろう。 いいか雄也、戦後、天才と呼雄也はうなずいた。そしてどっかりと腰をおろした。 かんた ばれる人間が一人でも、そう、たったの一人でも現われたか ? 科「医者にかかったか、綺どの」 学、技術、芸術、職人芸、それから政治、あらゆる分野において。 「ああ」雄也は首を振った。「みんなと同じですよ、いつもそう言 答えは否、だ。作曲家はなにをした、ただ古典をいじりまわした編う。ゃぶ医者め」 曲しかやらん。作家は、エログロだ。絵は ? ぬり絵さ。そうと「おれは見ない・せ」 も、なに一つ創造と呼ぶにふさわしいものは生れていない」 「え ? 」雄也はうなだれた首をあげた。「どうして ? なにかいい 「おまえはなにをした」雄也はおしとどめた。「批判する資格があ薬でもーー・まさか」 るのか」 「ないんだ」 「まさか、さ」俊景は腹部をさすった。 「批判 ? 嘆いているのさ。 5 を創った天才を呪いたいよ。胃が 離れだした当時、 5 を発明したやつはまだ 5 は飲んでなかっ さらに天上人よ、という俊景の言葉におくり出されてぎた雄也は た。しかし彼もを飲むようになって、結局なにかを失ったはす自分の名の書かれたドアをあけ、中に入った。視界のいい部屋だっ だ。胃を得たかわりに。は抜本的な処置ではなかったのだとお た。ビル群の向うに緑の広がる居住区、そして白く輝く帯状の川 れは思う。一時的に胃をつなぎとめておいて、真の原因をつきとめ 川向うに階地区が灰色にかすんでいた。さらに遠くに山なみが見 る時間かせぎのはずだったんだ。しかしいまはどうだ ? 」 え、広大な原始的自然世界階と文明界とを分かっ壁となってい 「とにかく、おまえは階の人間だ。下手なことは言うな。の おかげなんだそ」雄也は立ちあがった。「けさはそんな危険な話を雄也は景色をながめ、部屋の大きな机をなで、卓上のコンビ = ー しにきたんじゃないんた」 タ・キイをたたいたりした。他人がそんな雄也を見たならば、俊景 「見当はついてる、まあ座れよ、話はおわってない : ・ : なあ、雄が嘲けりとも賛美とも受けとれる天上人と口にしたその地位を、雄 也、おれがを攻撃するのは感情からじゃない。おれにはわかっ也が実感として味わっているととったかもしれない。 たんたよ、の副作用の害が。は人間の精神を破減に 俊景の別れの言葉は雄也になんの心理的動揺をも生しさせなかっ 導く。慢性的な不安を与え、創造性を奪いとり、おびえさせる。そた。侮蔑も温かみも嫉みも感じとれなかった。俊景が言葉の裏にど の恐怖は胃を失うかもしれぬ、そのせいだと皆は思っているが、実んな思いをこめたのか雄也は探ろうとせず、彼の心は虚無だったか はの錯乱作用なんだ。不安を引き起こしているのはそのもら、その挨拶はまるでもうロをきくことのない死者に投げかけられ のなんだよ。胃じゃない」 た文句のようだった。 「哲学者から精神分析医に転向かい ? 」 親友が胃を失ったことは大きな衝撃だった。 「おまえは悪夢を見てるだろう」 俊景は勤務後の十二時間を点滴静注にあてていると語った。五十 3 9
「帰れなくなるよ」 「いいんだよ」 「かまうもんですか : : こんどから住みこみにしてください : : : 夜雄也は俊景の秘密をもらしたことを思い出し、三輪さんは覚えて 2 に楽しみがなくなったんだもの : : : わざわざ通うのはなんのため : いるだろうかと表情をうかがったが、すこし目が赤いほかはいつも ・ : 正解の方に一年分さげます、あたしをあげます、なんでも」と同じ冷やかな彼女の顔色からはなにも読みとれなかった。無言で 三輪さんは左の薬指からリングを外して床に投げつけた。「嘘っ三輪さんを見送った雄也はふと、彼女はもうここにはもどってこな き ! 」そしてテープルの上に両腕をおき、頭をのせて泣きだした。 いのではないかという思いにとらわれた。 泣きながらグラス握る手を伸ばし、「もう一杯」 うちけすように頭を振って起き、台所でトマトジュースにレモン 「俊景は嘘つぎじゃない」 をしぼり、一息に飲み干した。 三輪さんは顔をあげた。「どうしてです」 「やつだって飲みたい気分じゃないかな。しかしできない」言うま麗子の顔はさわやかだった。雄也はさえない顔での包みをさ と臥っこ。 : 、 ナカ遅かった。「胃がないんだ」 し出した。 三輪さんは身を起こし、ふらりと立ち、くずおれた。雄也はこの 俊景を見つけることができなかった雄也は北見部長を頼ったのだ 急性アルコール中毒患者を客間へかかえ入れた。床に転がしておい った。部長の反応は予想どおりだった。 てべッドカ・ハーをはねのけ、自分の腰をいたわりつつ抱きあげてべ 必要書類はあるのかと部長は言った。あるくらいならここにはこ ッドに横たえ、羽ぶとんをかけ、おやすみと言 い、ドアを閉めた。 、と言うかわりに雄也は俊景のくれた部長に対する切札を出し 食堂で飲みなおしながら雄也は、俊景はもう階にはいないのでてみせた。十一錠でいし 、雄也は言った。一度には無理だ、部長は : ないか、という考えにとりつかれた。三輪さんの二の舞になる前雄也の広げた紙面を見やった。「一日三錠、四日に分けるというの にもう一度受話器をとったが無駄だった。 ではどうだね」 雄也はを飲んだ。客間へ行ってもうろうとしている三輪さん ぎりぎり必要なのは昼、夜の二錠であり、残りの九錠は麗子、雄 に 5 D をどうにか飲ませると、居間のソフアにぶったおれた。 也、三輪さんの各余裕分だったので、雄也は黙ってうなずいた。 明け方頭痛と悪夢にうなされた。 「では四日目になったらその書類を渡してもらえるかね」 朝食の用意をしておきました、三輪さんの声を雄也はソフアに横「今すぐにでも、部長 : : : 中し訳ありません、こんなことはしたく になったまま聞いた。薄目をあけると彼女はたたんだエプロンをシ なかったのですが」 ヨルダー ' ハックに入れているところだった。 「不幸な取引だな、綺主管。、、 ししんだ、きみが持っていたまえ」 「きようはお休みの日ですので : : : ゅうべはご迷惑をおかけしまし雄也はそんなやりとりがあったことを子には言わなかった。 て」 「ありがとう、あなた : : : 部長さんは思ったとおりの人ね。思いや
「初めてきたときのことを覚えているよ」雄也はの谷間を歩き「女に理屈は通らないよ。そんな調子だからふられるのさ。哲学者 ながら、ふと感慨をもよおした。「ちょうど、新米の銀行員が大金さんよ」 「おれは悪妻はもっていない。おまえも哲学者にはなれんな。いい 庫に入ったようなものだったな」 「きようはまた、どうしておりてきた。習慣か ? 長年のくせは恐奥さんだ。最近彼女どう ? 」俊景は・ハイオリンを弾く真似をした。 ろしいね。自動的に足が向いたんだろう」 「腕はおとろえてないか」 「どうした ? 近ごろ気になっていたんたが : : : 俊景、少しやせた雄也は目をそらしてを見上げた。「どうも : : : 感激がないん そ。いつもおまえを見ると弁慶を連想したものだが」 だ、このごろ。おまえが。ヒアノを弾いて、麗子とやったやっ : : : 半 「弁慶は髯をのばしていたかな : : : 奥さんは元気かい ? ますます年も前になるかな、モーツアルトのさ、パイオリンとビアノの為の 敷居が高くなったな。どうしてここに ? やつばり習慣かい」 ソナタ」 「半分あたってるよ。部長に会うのを無意識のうちにさけているの 「ト長調ね。 K397 」 かもしれん」倉庫のなかほどで二人は座った。そびえ立っの梱「そう」真剣なまなざしで視線を俊景にかえすと、彼は目を閉じて 包群がのしかかってくるようだった。雄也はたちがあたかも会指を動かしていた。「あれはよかったよ : : : 近ごろ、麗子は何かに 話を盗み聞きし、耳をそばだてているような気がした。「ゆうべ、追われるように速く弾く。まるでそれが芸術の本質のように」 部長の娘の胃が逃げた」 「半対数かね」俊景は両手でポンとひざを打った。「半対数グラ フ。横軸に時間、縦軸に進歩の度合。アダムスはきれいなカー・フを 「美沙の ? 」 「ああ。麗子は笑ったよ。美沙がおれに色目をつかったと信じてる描いた」 から」 「知ってるよ」雄也は手を水平に動かし、急に上げた。「進歩の加 「それは奥さんが正しいね。美沙はおまえに気があるらしい。尻軽速法則たろう」 な小娘だと思ってたが、そうじゃないんだ」 「同じ曲でも昔のはゆっくりだった。それを調べた音楽批評家がい 「経験ずみか」 た。知ってるか、作曲当時は悠長だったと。まあ彼にいわれるまで 「おれの心は三度の火傷を負った。美沙はーー・」 もなくレコードを聴けばわかる。同じ指揮者の録音でも早い時期の 「・ほくが調査課に行けるのも彼女のおかげだと言いたいんだな」 ほうが遅い。でも戦前の話だ。最近は落ち着いている。麗子女史は 「部長は娘に甘い」 例外的存在だな」 「怒りを知らない男だと思ってるな ? 」 「進歩がとまったと ? 」 「のせいだ。こいつらの」俊景は手を広げて梱包群を仰いだ。 「真実に怒りを感ずるやつは愚か者だ。おまえはばかじゃない。だ 「曲の速度で進歩がそのまま量れるとは思わないが、まあエネルギ からおまえは怒らない」 2
本気で自分の胃が逃げるとは思ってはいない、それは雄也の根気ん。けれど旦那さまがお帰りになってほんとうによかった。心細く 強さを試すための、それ以外はまったくなんの意味もない、麗子のて : : : 奥さまにもしものことがあったらどうしようかと。わたしの 8 ロぐせだった。 責任です。申し訳ございません」 根気よく雄也はこたえた。「愛してるよ。大丈夫、きみの胃はな「あなたのせいじゃない。心配かけたね。一杯どう ? 」 くなりやしないさ」 「ありがとうございます。夕食は ? 」 と催眠薬を飲んだ麗子は・ヘッドに横になった。鎮静剤よりは ステーキを雄也は思いうかべた。まっくろ焦げの 5 のステー が利いたのだろう、興奮はじきにしすまった。寝入るのを待っキ。「あまり食欲ないな」 て、雄也は寝室を出た。 三輪さんはエプロンをかけて台所に消えた。居間は落ち着かな それにしても三輪さんはどこだろう、麗子は三輪さんの話はしな い。スコッチのポトルを手に台所に入った雄也は小貝柱のかんづめ しるべき人間が、いるべき時間、 かったから雄也にはわからない。、 を開けるように言われた。三輪さんは小松菜を切って鍋にぶちこ 場所に見あたらないというのはいらだたしい しかしなんで三輪み、酒で煮て、雄也の手からかんづめを受けとると中身を鍋に加 さんを気にかけているのかと考えて雄也は俊景を捜していた自分をえ、味をみて、みりんを入れ、塩をさっと一振り、そして火を細め 思い出した。それから俊景の胃がないこと、すなわち 5 を飲む必こ。 要のないこと、要するに彼の分の 5 がすべてを解決してくれるで 「白ワインが冷えてますが」 あろうこと、を順に頭の中に並べて、独り歓声をあげた。 「ウイスキーでいし 。あなたは好きなように」 階段を駆けおりたところで、三輪さんのエプロンなしの姿が目に 「では同じものをいただきます。ダ・フルで。はしたないとお思いで よ、つこ。 . し / しようね」 「旦那さまー 「ダブルの四乗飲んだって驚きはしないさ。気持はわかるつもり 雄也は手で制すると電話をとった。 「あの、奥さまが」 二人は食堂に腰をすえて黙々とグラスを傾けた。やがて三輪さん 「わかってる」呼出音が長い。「くそう、救世主ってのは肝心なと がため息をつき、雄也は愚痴をこ・ほしはじめた。双方とも思うは俊 きにいたためしがないな」受話器をおき、三輪さんに説いた。俊景景のことだった。雄也はトイレに立ったついでに電話を入れてみた を知らないか ? が、またしても呼出音しか聞けなかった。 「わたしも捜していたのですが。彼のコッテージにも行ってみまし「やつばりかわいい女にはなれないわ」三輪さんの顔はほんのり桜 た。でも、どこにも」三輪さんは両手を広げて、ばたんと落とした。色。「でもだからって会社まで辞めてわたしから逃げることはない 「まるでわたしから逃げるように、手がりもないの : : : ありませじゃない。ねえ、ねえ、旦那さま : : : もう一杯ください」
下にうずくまった。 だ。自分のものを失うのは不幸だからだ。しかしもともと別の生物 「とにかく麗子に・ーー」 だと認めればなんの不合理もない。そしてそう気づいた者にとって 「待てよ」腰をうかせかけた雄也を俊景がとめた。「おまえの電話幸せなことに、 ここから逃げだすのをだれも阻止しない。門は出て の前にアルカディア・ホールから連絡があった。もうあわてることゆく者に寛容だ」 はない。彼女はサナトリウムで昼寝してる 「そんな人間はわずかなものだろう。嫌々階へ送られる者はやっ 雄也は力を失って腰をおろした。「それじゃあ : : : なんのために ばり不幸だよ」 : おまえたちのせいだ」 「だから強要はしない」俊景はビアノの蓋をしめて三輪さんの手を 「そう思うのはのせいだ。に意識はない。だが意志はあとり、立たせた。「また向うで会えるといしオ 、よ、雄也」 る。そんな形の意志の支配から逃がれるのは最も困難だ。法律と「旦那さまーーー」 か、規範とか、政治的プロバガンダとかもそんな力の一種たろう。 「とってもかわいいよ。さよなら。花東でも贈りたいけど、・ほくの それらはのような実体すらない。文字や電波は抽象記号だからカードはもう << 階では使えないんだ」 な。そんな意志は人間の意識を支配して、人に自らの意志であるか「お元気で」 のように思わせるんだ」 雄也はうなずいた。二人は手をつないで出ていった。青い球体が 「麗子の胃がはなれたことを嘘だと言ってくれたら、何時間でもク壁をつき抜けて後を追った。 ソ説教を聴いてやるよ」 「こんな話を知らないか。ずっと昔、ある農夫が野良仕事の最中に サナトリウムの廊下は暗かった。室内も・フラインドがおろされて ぼっくり死んだ。解剖してみると頭に脳がなかった。学者たちは頭いて、外のまばゆい日の光とともに活力と健康的な雰囲気をも遮断 をひねった。どうして脳みそなしでこの男は生きてきたのか、と。 していた。麗子はそう薄暗がりの中で左腕に点滴を受けながらべッ しかしこう考えればなんの不思議もない、すなわち、彼は脳なしで ドに横たわっていた。 生きてきたのではなくて、脳がなくなったから死んだのだ、と。外雄也は近よって見おろした。麗子は眠ってはいなかった。黒い瞳 傷をつけない方法でだれかが奪ったとか」 に雄也が映っている。周りが暗いわりには瞳は小さく、なんとなく 「脳が自ら逃げだしたとか」 きつい印象を雄也に与えた。 雄也はいきさつを話した。麗子は目を天床に向けて、ロ出しせず 「そう。しかし当時の学者たちはそんなことは思いっきもしなかっ に聞いていた。 た。彼らの胃はまだ逃げださなかったからそんな発想はできない。 「たから、きみと暮らせる地は Q 階しかない」 つまり人間の体が人間自身のものだと信じて疑わなかった。いまの 人間にしても同じだ。胃は自分のものだと思ってる。これは悲劇「あなたには胃があるわ」
「きみを失いたくない」雄也は麗子の髪に触れ、なでた。「病気じムを後にして歩きはじめた。「童話を書こうと思ったことがある」 ゃないんだ。さあ、起きて、一緒に行こう」 なぜ書かなかったの ? 「いい聞き手がいなかったから。麗子はビ 「いや、だめ、触わらないで」 ルをはなさなかった。彼女のは O —ーってやつだ」 「ここで暮らすのか」 「フォックストロットよ、 冫しかが」美沙が雄也の腕をとった。「 O> 「わたしは階人よ」 '--2 Z ーなしで」 「足も萎えて、そのうちに歩けなくなる。それでも」 「いまは踊り疲れた気分だよ」雄也はやんわりと腕をほどいた。 「わたしを見損わないで。階人じゃないわ。あなたは行けばい 「でも、そのうちにワルツよりうまくなるかもしれないな。明日の 、あなたは潜在的階人よ。いつもそうだったわ」 ことはわからない」 「麗子」 ナ一つだけたしかなのは、もし朝目が でも、まあと雄也は思っこ。 「出ていって、出ていって、出ていって ! でなかったらわたしの覚めたらまだ生きているということだ。そこがやわらかな・ヘッドの 胃を返して ! 」 上ではなく、しっとりと朝露のおりた冷たい草原の丘だったとして 雄也は抱きあげようとし、強い抵抗にあって断念した。 も。見下ろせば天色の海、光を増してゆく空にカモメが舞い、海鳥 「きみはもう・ほくが必要ではないんだな ? 」 たちとたわむれる無数の螢火のような球体の群れ。 騒ぎをききつけた看護婦がとんできた。彼女は階人の病人をか「愛してるよ」雄也はつぶやいた。「胃がなくなっても」 ばい、階級に落とされた男を見すえた。 「なにか言った ? 」 「え ? 」美沙が歩みをとめた。 「そうよ」麗子は右腕を目の上にのせて言った。「階へ行くなら「ふっとね、思ったんだ」雄也は化粧気のない若い美沙の顔を見つ 死んだほうがましよ。わたしはあなたとは違う。階の人間だわ」め、視線を下げた。「きみの胃はいまごろカモメを食べてるかもし 雄也はもう説得しなかった。ドアをひらき、出る前に言った。「煙れないね」 草の火に気をつけて、麗子」 それから 5 のケースを出し、カのかぎり遠くへ抛った。 返事はなかった。 廊下はトンネルのようだった。外へ出た雄也はまばゆい日光に目 を細めた。 「これからどうするの」光の中で美沙が笑った。「マシンガン片手 に会社に殴りこむ ? 」 「俊景にいわせると、には意識がないし人間には意志がない。 マシンガンで何を撃て・よ、 ーしい ? 」雄也は林にかこまれたサナトリウ あした
「辞めさせられたのか」 「声より速く翔けてきて」 「とんでもない。 こんなところおさらばだと捨て台詞を残して出て いきましたよ。なんでもフが売れたとかで。ーー譜、楽譜ですよ、 「いつも、どこにいてもきみを忘れたりするものか」音速の四十倍 ビア / ・ソナタを創ったらしいのですか、しかし信じられませんの時間はかかったな、出迎えた麗子を軽く抱きながら雄也は暗算し な、どこからも宅棟作曲などという音は聞こえてきませんから」 た。「顔色がよくないな : : : 熱はないようだ。なんだい、こりや 買手はかならずしも音楽プロダクションとはかぎらない、もしかあ、どうなってるんだ」 すると三輪素子個人かもしれない、雄也は思った。 落ち着いてぐるりをながめた雄也は、居間がすっかり模様替えさ 「では家にいるんだな」 れているのに気づいた。天床の色、照明具、応接セット、そしてカ 「存じません」慇懃な声。 。上着を脱いで新しいソフアに腰をおろす。どうもなじま 切り、外部回線に切り替えて俊景宅にかけてみた。二十回ほどのない。 呼出音を聞かされた雄也は、犯罪行為がばれて追い出されたのでは「なんだ、帰ってきた気がしないな。きみに室内装飾の趣味があっ ないのだから << 階のどこかにいるのだ、自分に黙って消える親友でたとは知らなかった」 はないと考えて受話器をおいた。それでも心に生じた不安定感は正「そんなんじゃないわ」 せなかった。三輪さんが知っているかもしれないと、自宅を呼ぶ。 「三輪さんは ? 」 「三輪さん ? 」 「どうして女中風情の心配をするの」 「彼女に用 ? 」 「ほくはただ : : いったいどうしたっていうんだ。何があった。不 「なんてロマンチックな言葉だろう どうした ? 声が低いから機嫌の原因はなんだ ? 」 三輪さんかと思った。元気がないようだね、麗子」 麗子はこたえずに雄也の上着をとり、内ポケットから銀のケ 「いまどこなの」 ースを抜き出した。しばらくケースをながめていたがふいに蓋をひ 「音速で三十秒ほどのところだよ。無事 << 階にご帰還ってわけだ」らいた。雄也の上着はぼろ布のように麗子の足元に落ちた。 「麗子 ? 」 「早く帰ってきて」 「もう帰ってきてるじゃないか」 雄也は麗子の手からはなれる銀のケースを見た。床ではねたケー スから 5 が散った。 「おねがいよ、おねがい、あなた」 「なんてことを ! 」雄也はソフアからとびおきて床のを捜す。 「ぐあいでも悪いのかい」 「愛してる ? 」 「なんだ、なんだ、どうしてだ。不機嫌になるのは勝手たが、・ほく 「愛してるよ ? 」 をまきこむことはなかろう」 ー 02