胃 - みる会図書館


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1. SFマガジン 1979年9月号

すがここにはそんな人間もいるのです」 よ。わたしが << 階を追われたのはそのためです。・ : : ・フィルム 「胃なしの、人間が、胃を狙う ? 」 は役者による演技ですよ。上層部は現体制に不利と思われる事実は 8 岸部はそうだと言い、店のすみにおいてあるテレビを目で指し大衆に見せようとしない。わたしは、ですから、先程のような男を た。画面はちょうど会社の作 0 た啓蒙用フィルムが流れてい見ると悲しくてね。階へ行けと勧めたいのです」 た。美しい並木道をはねてゆく青白い球体を、善良市民の代表とい 「信じたくないね、そんな話は。そんなにいいならあなたはどうし った身なりの人々が目を丸くして見送るというものだった。をてここにいる ? 」 忘れずに、という文字。 「階では人間と胃がうまくやっている。胃は自力で食物を吸収 「もちろんあれは合成画です、主管。本物の胃はその辺をうろつい し、人間はどういう方法でか、それを呼びよせ、一時的に腹に収 てはいない。階へ向 0 て一直線です」岸部はジ、ースのグラスをめ、 = ネルギーを分けてもらう。階人は狩りをしなくともい 老マスターから受けと「た。「だからあの男も階へ行けばいいんですがわたしは、だめです」 「なぜ」雄也はカップをおいた。 「行きたくない気持はわかるよ。 : つまりやつは他人のを取岸部は弱くほほえんた。「胃ガンでしてね。死にかけてる胃は出 りあげて胃の離れるのを待ち、出てきた胃を自分のものにする気なようとしない。わたしはは飲んではいません。胃から解放され んだな。これが同じ人間とはね。なんてこった」苦いコーヒーだった。 たらどんなにいいか。皮肉なものですな」 「同し人間ではない」岸部はつぶやいた。 たっぷり一分ほど雄也は蒼い岸部の顔を見つめていた。テレビか 「人でなし、ということか」 ら派手な活劇ドラマの効果音が聞こえている。表に車がとまり、二 「いえ、主管、ヒトではない、 つまり新種の人類という意味です。人の警官が入ってきた。店にいた警官が立ち、陽気に挨拶をかわし 同じように、遊離した胃はもはや胃ではなく、新しい生物です」 て入れ違いに出ていった。 「ばかな」 「しかし : : : ガンだなんて。ガン予防剤の発見と免疫接種が義務づ 「階へ行けばわかります。わたしは行ったことがあります。啓蒙けられてからはガンなど , ーー」 用フィルムを撮るために」ジ = ースがなくなった。岸部は ( ンケチ 「わたしの生まれる前長男を、わたしの兄ですが、を免疫法による でロもとをおさえ、つづけた。「なごやかな風景、平和な生活でし事故でなくしたとかで、両親が拒否したのです」 たよ。危険もありますがね」 「胃が逃げだしたのは : : : 抗ガン剤のせいかもしれんな」 「の中には狼に食い殺される階人という残酷版もあったな」 「いろいろな説があります。しかしどれもが胃遊離の引金になりえ 「あの直前までは事実です。野犬はわたしがライフルで射殺しましたでしようが、根本的には、人類はなるべくしてこうなったとわた た。上層部のおえら方はなぜよけいなことをしたのかと言いましたしは思いますね。進化だと。善かれ悪しかれ、遅かれ早かれ。『沈

2. SFマガジン 1979年9月号

・ほんと・ホ 1 ルそのもののようにはねた。 くばった二人を無表情に見おろしていた。 「わたしの胃が ! 」美沙は父親の腕をふりほどいて絶叫した。「待 「がそこにあるとは思えませんわ、お嬢さま。踊るのはやめに したほうがよろしいようですわね」 美沙には聞こえないようだった。「お父さまはーーーもう飲んだわ美沙の胃は、正確には消化器官は、いましめから解き放たれた野 ね。ああ、帰らなくちゃ、急いで。でないとわたしの胃は だ生動物さながらにころがり、はね、いったん空中で周りを探るよう に静止した後、ぶるんと身をふるわせて田園風景を表わしたつづれ め、だめ、だめだわ、間に合わない ! 」 「美沙、美沙」北見部長の顔も美沙と同様に蒼かった。「大丈夫だ織りの掛っている壁に向う。美沙は追いかけ、捕えようと手を出し たが遅かった。球体は壁を突き抜け、外へと姿を消した。 「落ち着いて、お嬢さん。一回や二回飲み忘れたってーーこ 壁の前で美沙はくずおれた。救急車を手配しろ、部長が給仕長に 「わたしはためなのよ」 命じたがだれも動かない。 ヒステリックに吽ぶ娘を部長は抱き、ただならぬ気配にとんでき「急け、命令だ。を取りあけるそ ! 」 た給仕長にの予備はないかと説いた。無理な注文に給仕長は首雄也は駆けよった。胃を失った美沙はショックのため失神してい を横に振るだけだった。は厳密な個人割当制であり、ほとんど た。美沙の胃はその宿主だった彼女から、この夜の晩餐、フルーツ の者が事故を怖れて余分なは携帯しない。また、を他人に ・パンケーキごと、あらゆる楽しみを奪いとって自由の身となっ 譲渡すると罰せられる。それを監督しているのは皮肉なことに北見た。 部長自身なのだ。 「車を表に、早く」 車をガレージに入れたとぎはもう真夜中を大分まわっていた。 音楽の調べは消えた。皆が駁ぎの源を注視していた。その客の中雄也は不幸な娘のために必要な手続一切をやってきたのたった。 からかん高い女の悲鳴があがった。抱きかかえて歩きだそうとした 北見部長はとり乱しており、意識のない美沙にすがるだけで、社会 北見部長の動きがとまる。雄也は無意識に一歩さがってその光景を的な地位も世間体もなにもかも忘れた無能な父親でしかなかった。 凝視した。 救急病院の医師による診断証明と美沙の身分保証万能力ードを持っ 美沙のワインカラ 1 のドレスの腹部が青白く輝いていた。彼女はた雄也は麗子といったんレストランにもどり、自分の車で胃を失っ 目を大きく見ひらいて声もない。やがて光度が増すと、光源が腹部た者を収容するサナトリウムへ行った。麗子はこの煩わしい仕事に から出、・ハレーポール大の光球となって美沙の体から遊離した。 つぎあわされることに対して何も言わなかった。楽しんでいるよう レストラン内は騒然となった。麗子はロを手でおさえながらも目 にも雄也には感じられた。サナトリウムの受付は昼夜をとわず開い をはなそうとはしなかった。青白い球体は床に落ちた。それから、 ている。雄也は正式の申告手続代理人ではなく、美沙のことは何も

3. SFマガジン 1979年9月号

ー消費の一つの目安にはなるだろう。 いいか雄也、戦後、天才と呼雄也はうなずいた。そしてどっかりと腰をおろした。 かんた ばれる人間が一人でも、そう、たったの一人でも現われたか ? 科「医者にかかったか、綺どの」 学、技術、芸術、職人芸、それから政治、あらゆる分野において。 「ああ」雄也は首を振った。「みんなと同じですよ、いつもそう言 答えは否、だ。作曲家はなにをした、ただ古典をいじりまわした編う。ゃぶ医者め」 曲しかやらん。作家は、エログロだ。絵は ? ぬり絵さ。そうと「おれは見ない・せ」 も、なに一つ創造と呼ぶにふさわしいものは生れていない」 「え ? 」雄也はうなだれた首をあげた。「どうして ? なにかいい 「おまえはなにをした」雄也はおしとどめた。「批判する資格があ薬でもーー・まさか」 るのか」 「ないんだ」 「まさか、さ」俊景は腹部をさすった。 「批判 ? 嘆いているのさ。 5 を創った天才を呪いたいよ。胃が 離れだした当時、 5 を発明したやつはまだ 5 は飲んでなかっ さらに天上人よ、という俊景の言葉におくり出されてぎた雄也は た。しかし彼もを飲むようになって、結局なにかを失ったはす自分の名の書かれたドアをあけ、中に入った。視界のいい部屋だっ だ。胃を得たかわりに。は抜本的な処置ではなかったのだとお た。ビル群の向うに緑の広がる居住区、そして白く輝く帯状の川 れは思う。一時的に胃をつなぎとめておいて、真の原因をつきとめ 川向うに階地区が灰色にかすんでいた。さらに遠くに山なみが見 る時間かせぎのはずだったんだ。しかしいまはどうだ ? 」 え、広大な原始的自然世界階と文明界とを分かっ壁となってい 「とにかく、おまえは階の人間だ。下手なことは言うな。の おかげなんだそ」雄也は立ちあがった。「けさはそんな危険な話を雄也は景色をながめ、部屋の大きな机をなで、卓上のコンビ = ー しにきたんじゃないんた」 タ・キイをたたいたりした。他人がそんな雄也を見たならば、俊景 「見当はついてる、まあ座れよ、話はおわってない : ・ : なあ、雄が嘲けりとも賛美とも受けとれる天上人と口にしたその地位を、雄 也、おれがを攻撃するのは感情からじゃない。おれにはわかっ也が実感として味わっているととったかもしれない。 たんたよ、の副作用の害が。は人間の精神を破減に 俊景の別れの言葉は雄也になんの心理的動揺をも生しさせなかっ 導く。慢性的な不安を与え、創造性を奪いとり、おびえさせる。そた。侮蔑も温かみも嫉みも感じとれなかった。俊景が言葉の裏にど の恐怖は胃を失うかもしれぬ、そのせいだと皆は思っているが、実んな思いをこめたのか雄也は探ろうとせず、彼の心は虚無だったか はの錯乱作用なんだ。不安を引き起こしているのはそのもら、その挨拶はまるでもうロをきくことのない死者に投げかけられ のなんだよ。胃じゃない」 た文句のようだった。 「哲学者から精神分析医に転向かい ? 」 親友が胃を失ったことは大きな衝撃だった。 「おまえは悪夢を見てるだろう」 俊景は勤務後の十二時間を点滴静注にあてていると語った。五十 3 9

4. SFマガジン 1979年9月号

8 / の割合で静注される溶液、・フドウ糖やビタミン類や、乳酸しに出かけるでもなく、すでに野心達成の望みを断たれた階で 塩、、、、ロなどの電解質が俊景の命をつなぎとめているの階人を装っているのは、ひとえに三輪素子のせいだった。愛してい 9 だった。それから腎不全を防ぐために勤務中も補液しなければならる、別れたくない、おれはどうしていいかわからない : : : 俊景はし ない。彼は約一時間おきに百 8 / で四回、人気のない倉庫内で点かし雄也が戦慄を覚えたほどの明るい笑顔で、恋するあまりに食い 滴していた。他人と接触する機会の少ないここでも、いすれ見つか物ものどを通らない、身も細るわけさと冗談を言って、うちあけ話 をおえたのだった。 るかもしれぬ、俊景は言った、それでもサナトリウムには入れない のた。彼は法を犯していたことを雄也に話してきかせた。 胃を失うというめにあいながらなんと俊景の明るい表情だったろ 一年ほど前に美沙にふられた俊景は、それなら利用してやろうとう。雄也には理解できぬ、不可解な、驚くべき俊景の笑顔だった。 考えたのだった。ちょうどそのころ美沙は六カプセル / 日のをさらば天上 : : : 彼は自分自身に言ったのかもしれない、雄也は思っ 飲んでおり、さらに多くを望んでいた。俊景は配給分のの中のた。俊景が危険を承知でうちあけたのは、彼はすでになんらかの行 一錠を美沙に流し、その代金として部長の弱みを受けとったのであ動に出ることを決意しているからだろうと雄也は考えた。行動、そ る。 のものは単純たった。階から出てゆくこと。しかし選択すべき道 雄也はポケットをまさぐった。もうおれには天上に登るための切はいくつかあった。三輪素子に話すだろうか、それとも黙って行く 札はいらないと言って俊景のくれた二葉のその書類は、北見部長がのか、まさかむりやりさらって ? 俊景ならやりかねない、カでは 娘のために余分のを極秘のうちに抜き出したことを示す偽と真なく、舌で丸めこむのだ : : : 三輪さんに忠告すべきかもしれない、 のコン。ヒュータ・メモリ内容だった。 しかしどう一一一一口う ? 一日二錠ではやはり胃はもたなかった、俊景は笑った。二週間前 雄也の乱れた思考は新任の秘書の声で中断させられた。部長が呼 の胃のなくなった日から彼は自分の受給分すべてを美沙に渡してい んでいると彼女は言った。雄也は無言でうなずき、磨かれた机面に た。一日九力。フセルのによる悪夢は普通人の三倍どぎついだろ映る姿を見てネクタイを直し、部屋を出た。 うと俊景は真面目な顔で雄也を見たが、だからは敵たなどとは 言わなかった。たた、これは自身の持っている自己矛盾、二律「むろん、きみは階へ行く必要はない」北見部長は椅子の背にも 背反だと彼らしい言葉をもらしただけだった。 たれ、窓外をながめながら言った。「階の支社からの報告をまと 俊景はつづけて、自分にいま必要なのは新鮮な胃だと語った。 Q め、整理分析し、策をねる。きみは頭た」 階人の生活はわからないが、たぶん胃を捕え、腹に収めて、それが「はい部長」雄也は大きな机の前に立ったままこたえた。 逃げ出さぬうちに食事をとるのだろうーー。俊景が新鮮なタンパク源「しかし現場の連中の仕事ぶりを見ることも無駄ではあるまい」 に飢えていたにもかかわらず、犯罪者として捕まる前に自ら胃を捜「はい部長」

5. SFマガジン 1979年9月号

べ / ダグラム わたしは五芒星形の中から。嘘をつけ、おまえの名をおれは知って よ」 ・ : もっといい夢を。 いる・ : ・ : スタマック・フィキサティヴ・ 5 だ : 「ごめんなさい : : ね、わたしうるさい女 ? 今夜のこと、怒って いろいろそろえてありますよ、ビールの夢、ウイスキ 1 の夢、ジ る ? 」 ワインの夢がいいね。白、それとも ンの夢、ア・フサンの夢・ : 「ロを閉じてくれれば怒らないよ」 赤 ? 真紅。フム、フム、銘柄は ? 美沙。なるほどね。ことわっ 「愛してる ? 」 「 : : : 貧しきときも・ : : ・もっと肥っても、やせても、愛してるよ」ておくが、おれにその気はなかったんだ、ただ、麗子が言うからー 「胃がなくなっても ? 」 ー夢では言い訳なそ無用ですよ。 「胃がなくなっても」 ワインの海から生れたヴィーナス、ワインカラーのドレスをまと 、 ? ・フォックストロットのほ、つ。かし ノ、し、カ気力 満足したように麗子は身を引き、愛してるわと言って静かになつう。お嬢さん、ワレノま、 た。しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてくる。雄也はすっか いわ。生れたばかりのヴィーナスはドレスはつけてなかったので りさめてしまった。いったんシェリーを飲みなおそうとべッドをおは ? ああ、これねえ、ビルがないと消えないの : : : あら、ない りたものの、もはや朝の近いことを知ってもどり、漠然とした不安わ、落としたのかしら。ヴィーナスはテー・フルの下を捜しはじめ の幻想に精神をゆだねた。今夜は眠れないだろう、雄也は身を丸める。しかたなく雄也は燭台を持つ。 おい、メフィスト、だめじゃないか。これはどうも、中し訳な のせいで 見えぬメフィストが笑う。猫の印象。やはりシェリー 石けんの匂い、処女の香りよ、麗子が笑う。手をあげて手のひらすよ。なんとかしろよ。アーモンドの香り。 いやマタタビのようです を吹くと無数のシャポン玉が生れる。深紅色に輝くそれらは空には ああ、あったわ。それはアーモンド、 浮んでゆかず、暗い床、底しれぬ奈落へ向って吸いこまれる。麗子ね。なんでもいいじゃない。ふくよかな乳房。肥った女はきらい ? は唐突に手を握る。シャポン玉は一瞬に失せ、指の間から白い液体麗子 ? 慎重派ね、美沙の声。聞いてられなかったわ。麗子が自身 がしたたり落ちる。さらばわたしの子供たち : : : おれの子だよ、雄の乳房をなでる。 メフィスト ! 麗子じゃないか。あなたには覚悟ができていない 也が言った。子はいらないわ、麗子は手をひらく。小さな青いポ 1 ル。ポン、ぼん、ポン。毬がはねてゆく : : : さらば子供よ、雄也はのだ、メフィストの唇が曲がった。北見部長に似ている。おれに勝 小さくなってゆくボールに手を振る。さらば、童話の聞き手たち。 てるか、影が言った。なにを隠そう、わたしはメフィストなんかじ もっとましな夢はないのかい、雄也は闇の中の、周囲よりさらにゃない。青白い球体。待って、待って、わたしの胃 ! 美沙が追っ ーの夢にしては上等だと思いまた。ちがう、おれの胃だ。そうとも、メフィストが頭上で笑う。一 7 一段と黒い影に呼びかける。シェリ すがね、メフィストが言った。おまえはどこからきた ? わたし ? 面白銀の世界。天空に月。おれの胃は月だったのか。さあ、代金を おとめ

6. SFマガジン 1979年9月号

下にうずくまった。 だ。自分のものを失うのは不幸だからだ。しかしもともと別の生物 「とにかく麗子に・ーー」 だと認めればなんの不合理もない。そしてそう気づいた者にとって 「待てよ」腰をうかせかけた雄也を俊景がとめた。「おまえの電話幸せなことに、 ここから逃げだすのをだれも阻止しない。門は出て の前にアルカディア・ホールから連絡があった。もうあわてることゆく者に寛容だ」 はない。彼女はサナトリウムで昼寝してる 「そんな人間はわずかなものだろう。嫌々階へ送られる者はやっ 雄也は力を失って腰をおろした。「それじゃあ : : : なんのために ばり不幸だよ」 : おまえたちのせいだ」 「だから強要はしない」俊景はビアノの蓋をしめて三輪さんの手を 「そう思うのはのせいだ。に意識はない。だが意志はあとり、立たせた。「また向うで会えるといしオ 、よ、雄也」 る。そんな形の意志の支配から逃がれるのは最も困難だ。法律と「旦那さまーーー」 か、規範とか、政治的プロバガンダとかもそんな力の一種たろう。 「とってもかわいいよ。さよなら。花東でも贈りたいけど、・ほくの それらはのような実体すらない。文字や電波は抽象記号だからカードはもう << 階では使えないんだ」 な。そんな意志は人間の意識を支配して、人に自らの意志であるか「お元気で」 のように思わせるんだ」 雄也はうなずいた。二人は手をつないで出ていった。青い球体が 「麗子の胃がはなれたことを嘘だと言ってくれたら、何時間でもク壁をつき抜けて後を追った。 ソ説教を聴いてやるよ」 「こんな話を知らないか。ずっと昔、ある農夫が野良仕事の最中に サナトリウムの廊下は暗かった。室内も・フラインドがおろされて ぼっくり死んだ。解剖してみると頭に脳がなかった。学者たちは頭いて、外のまばゆい日の光とともに活力と健康的な雰囲気をも遮断 をひねった。どうして脳みそなしでこの男は生きてきたのか、と。 していた。麗子はそう薄暗がりの中で左腕に点滴を受けながらべッ しかしこう考えればなんの不思議もない、すなわち、彼は脳なしで ドに横たわっていた。 生きてきたのではなくて、脳がなくなったから死んだのだ、と。外雄也は近よって見おろした。麗子は眠ってはいなかった。黒い瞳 傷をつけない方法でだれかが奪ったとか」 に雄也が映っている。周りが暗いわりには瞳は小さく、なんとなく 「脳が自ら逃げだしたとか」 きつい印象を雄也に与えた。 雄也はいきさつを話した。麗子は目を天床に向けて、ロ出しせず 「そう。しかし当時の学者たちはそんなことは思いっきもしなかっ に聞いていた。 た。彼らの胃はまだ逃げださなかったからそんな発想はできない。 「たから、きみと暮らせる地は Q 階しかない」 つまり人間の体が人間自身のものだと信じて疑わなかった。いまの 人間にしても同じだ。胃は自分のものだと思ってる。これは悲劇「あなたには胃があるわ」

7. SFマガジン 1979年9月号

? これ、大きくて、母さん。まったくしよう不思議じゃないわ」 5 を飲んだかい : ・ : リンゴを持ってこい・ 「不思議 : : : ラン。フをこすると大男・ のない子だよ、胃がなくなってもしらないからね。ねえ、は ? めだめ、やせた大男が言いました : : : おれは北見部長である : : : 」 飲んだったら、麗子、・ほくは餓鬼じゃない : うとうとしていた雄也は、かすかな石けんの香がただよっている「彼女は部長の娘、部長なら余分のをこっそりとーー」 「いま、なんて言った ? 」 のに気づいた。いっ麗子がわきに入ってきたのか覚えがない。麗子「なに ? 」雄也は麗子の手をとった。 はたぶん眠りをさまたげないよう注意をくばったに違いない、だけ「部長の立場を利用すれば、を横ながしできると思うの」 どこのほのかな香りが : : : 嗅覚が過敏なんだ、いや神経か。雄也は「もっと慎重に、綺夫人 : : : 麗子、部長がその気になれば、その一 言で階にも送られるんだぜ。また、階に落とされたとしよう。 寝返りをうった。 もし地区の人間が胃を失ったら、白雪姫のように完全看護は受け 「起きてる ? 」 「寝たいと思ってる」 られず、 Q 階地区へ追いやられる」 それが << 階級と階級の決定的な違いだった。だがその二つの階 背を向けて雄也がつぶやいた。 「ねえ、彼女どうなるの」 層の人々の間にどれだけの相違があるかとなると、雄也にはよくわ からない。公官庁の首脳、 ()n X 5 関係の者、一握りのサービス 「だれ : : : 白雪姫か : : : あわれ、姫はリンゴを食べて荒淫になり : ・ : ビルを飲み忘れて七人の子を生みました : : : 魔女は喜んでイオ業者と芸術家たちが住む階地区に入るためには試験に合格しなく てはならなかった。どんな人間が有能であるかを決めるのは国であ リンを弾き : : : ワルツを踊りました」 「ビルといえばあの娘、持っていたわ。、見たでり、その国家という存在は雄也にとって得体のしれぬ、漠とした、 抽象的なものとしてしかとらえることができなかった。追求するこ しよう ? 」 とはない、雄也は思った。自分はいま階にいる、それは具体的な 「フムムムン、七つ子は生まれないな」 「。ヒルとを間違えたのかしら。でもどうして : : : 一回飲まなく事実なのだから。 「わかってるわ」麗子は雄也の手から逃がれてため息をついた。 たって : : : わからないわ」 雄也は美沙と、サナトリウムに入っている人間を思った。どのく 「ショックだろう : : 心理的恐慌が引金となったんだ : : : 」 「わたし、思うんだけど」麗子は夫の肩に手をかけた。「彼女、一らいの人間がそこで生きているのだろう。美沙はどの程度社会に貢 日三カプセル以上飲んでいたんじゃないかしら。それで、多く飲ま献したろう、胃を失ってなおかっ生きることを保証されるだけの。 地区へ追放された人間はそれでも生きているというだが : : : 0 ないと落ち着かなくなった : : : 精神も、胃も」 デッド・エンド 階はなくいきなりとなるのは、そこが文字どおりどんづまりの地 5 : リンゴは一かじりで十分だよ : : : 」 罰のか。 「実際はそうでも、不安は消えないもの。多く飲みたくなったって域だからか。それとも天 かんた

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「きみを失いたくない」雄也は麗子の髪に触れ、なでた。「病気じムを後にして歩きはじめた。「童話を書こうと思ったことがある」 ゃないんだ。さあ、起きて、一緒に行こう」 なぜ書かなかったの ? 「いい聞き手がいなかったから。麗子はビ 「いや、だめ、触わらないで」 ルをはなさなかった。彼女のは O —ーってやつだ」 「ここで暮らすのか」 「フォックストロットよ、 冫しかが」美沙が雄也の腕をとった。「 O> 「わたしは階人よ」 '--2 Z ーなしで」 「足も萎えて、そのうちに歩けなくなる。それでも」 「いまは踊り疲れた気分だよ」雄也はやんわりと腕をほどいた。 「わたしを見損わないで。階人じゃないわ。あなたは行けばい 「でも、そのうちにワルツよりうまくなるかもしれないな。明日の 、あなたは潜在的階人よ。いつもそうだったわ」 ことはわからない」 「麗子」 ナ一つだけたしかなのは、もし朝目が でも、まあと雄也は思っこ。 「出ていって、出ていって、出ていって ! でなかったらわたしの覚めたらまだ生きているということだ。そこがやわらかな・ヘッドの 胃を返して ! 」 上ではなく、しっとりと朝露のおりた冷たい草原の丘だったとして 雄也は抱きあげようとし、強い抵抗にあって断念した。 も。見下ろせば天色の海、光を増してゆく空にカモメが舞い、海鳥 「きみはもう・ほくが必要ではないんだな ? 」 たちとたわむれる無数の螢火のような球体の群れ。 騒ぎをききつけた看護婦がとんできた。彼女は階人の病人をか「愛してるよ」雄也はつぶやいた。「胃がなくなっても」 ばい、階級に落とされた男を見すえた。 「なにか言った ? 」 「え ? 」美沙が歩みをとめた。 「そうよ」麗子は右腕を目の上にのせて言った。「階へ行くなら「ふっとね、思ったんだ」雄也は化粧気のない若い美沙の顔を見つ 死んだほうがましよ。わたしはあなたとは違う。階の人間だわ」め、視線を下げた。「きみの胃はいまごろカモメを食べてるかもし 雄也はもう説得しなかった。ドアをひらき、出る前に言った。「煙れないね」 草の火に気をつけて、麗子」 それから 5 のケースを出し、カのかぎり遠くへ抛った。 返事はなかった。 廊下はトンネルのようだった。外へ出た雄也はまばゆい日光に目 を細めた。 「これからどうするの」光の中で美沙が笑った。「マシンガン片手 に会社に殴りこむ ? 」 「俊景にいわせると、には意識がないし人間には意志がない。 マシンガンで何を撃て・よ、 ーしい ? 」雄也は林にかこまれたサナトリウ あした

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んだぜ。一緒に階へ行け」 「わたしが父に頼んだの。雄也を階へ追いやるまでサナトリウム 「麗子に圧力をかける気か。やめろ、手を出すな。とにかく、とに に帰らないって。帰る気はないけど」 かく、早く知らせてを飲ませないとーーー」激昻のあまり、あと「気安く呼ぶな」 は言葉にならなかった。雄也は負けた。署名ももどかしく受話器を「では小父さん」 とって自宅を呼ぶ。 「やめてくれ」 雄也は二人の女と向い合ってソフアに身をしずめた。子はいな 「三輪さん、麗子にを飲むよういってくれ、すぐに。胃が危なかった。午後からコンサ ートの練習たったことを雄也は思い出し それだけ言って切った。小部屋にはだれもいなかった殴りたおし「階か、そうたろうな」。ヒアノを前にして俊景が言った。「階 てやろうと決めていた男は書類とともに消えていた。これからのこ へやるには犯罪行為を公にする必要がある。それでは彼にとって不 とは細君とよく相談しな、という男の言葉が頭に残っているだけ利だ。 どうする、雄也、階へ行くか、それとも一緒にくる だ。雄也は歯がみして部屋をとびだすと、家へ向った。 突然テー・フルの下から現われた青白い球体に雄也は仰天した。 ガレージの入口を見なれないキャ・フォー ・ハンがふさいでい 「たれの ! 」腹をおさえた。「胃た ? 」 た。雄也は車をパンの後ろにとめ、車をおりると、芝生をつつきっ 「わたしの」 て玄関ポーチに立った。ノ・フに手を伸ばすより早くドアがひらかれ「三輪さん」 光球は俊景の手招きに応ずるかのようにビアノに近づき、そして 思いもかけぬ女がいた。髪をむそうさに後ろで東ね、サングラス 俊景の腹部に入った。 をかけ、オレンジ・イエローのセ 1 ターにジーンズといういでた「胃は。ヒアノ・ソナタが好きらしい」 ち。 「おととい宅棟さんがお見舞いにきてくれたの」 「おかえりなさい。待っていたのよ、そろそろくるころだと」 「どこを捜してもいないわけです」三輪さんが俊景の。ヒアノに耳を 「どうして : : : 美沙引」 傾けながら言った。「彼は美沙さんを連れてゆく気でーー」 「悪い小娘だ」俊景の顔が美沙の背後にのそいた。「まあ入れよ、 「わたしは当て馬にされたんだわ」 気の毒な綺どの」 「なんだかいい気持になってきた」と俊景。「そういやあ、こいっ 「旦那さま : : : 階へ送られるのですか」と三輪さん。 さっきシェリーを飲んでたそ」 「なんで ? 」 小品を弾きおえると球体が再び現われ、小大さながらに俊景の足 99

10. SFマガジン 1979年9月号

本気で自分の胃が逃げるとは思ってはいない、それは雄也の根気ん。けれど旦那さまがお帰りになってほんとうによかった。心細く 強さを試すための、それ以外はまったくなんの意味もない、麗子のて : : : 奥さまにもしものことがあったらどうしようかと。わたしの 8 ロぐせだった。 責任です。申し訳ございません」 根気よく雄也はこたえた。「愛してるよ。大丈夫、きみの胃はな「あなたのせいじゃない。心配かけたね。一杯どう ? 」 くなりやしないさ」 「ありがとうございます。夕食は ? 」 と催眠薬を飲んだ麗子は・ヘッドに横になった。鎮静剤よりは ステーキを雄也は思いうかべた。まっくろ焦げの 5 のステー が利いたのだろう、興奮はじきにしすまった。寝入るのを待っキ。「あまり食欲ないな」 て、雄也は寝室を出た。 三輪さんはエプロンをかけて台所に消えた。居間は落ち着かな それにしても三輪さんはどこだろう、麗子は三輪さんの話はしな い。スコッチのポトルを手に台所に入った雄也は小貝柱のかんづめ しるべき人間が、いるべき時間、 かったから雄也にはわからない。、 を開けるように言われた。三輪さんは小松菜を切って鍋にぶちこ 場所に見あたらないというのはいらだたしい しかしなんで三輪み、酒で煮て、雄也の手からかんづめを受けとると中身を鍋に加 さんを気にかけているのかと考えて雄也は俊景を捜していた自分をえ、味をみて、みりんを入れ、塩をさっと一振り、そして火を細め 思い出した。それから俊景の胃がないこと、すなわち 5 を飲む必こ。 要のないこと、要するに彼の分の 5 がすべてを解決してくれるで 「白ワインが冷えてますが」 あろうこと、を順に頭の中に並べて、独り歓声をあげた。 「ウイスキーでいし 。あなたは好きなように」 階段を駆けおりたところで、三輪さんのエプロンなしの姿が目に 「では同じものをいただきます。ダ・フルで。はしたないとお思いで よ、つこ。 . し / しようね」 「旦那さまー 「ダブルの四乗飲んだって驚きはしないさ。気持はわかるつもり 雄也は手で制すると電話をとった。 「あの、奥さまが」 二人は食堂に腰をすえて黙々とグラスを傾けた。やがて三輪さん 「わかってる」呼出音が長い。「くそう、救世主ってのは肝心なと がため息をつき、雄也は愚痴をこ・ほしはじめた。双方とも思うは俊 きにいたためしがないな」受話器をおき、三輪さんに説いた。俊景景のことだった。雄也はトイレに立ったついでに電話を入れてみた を知らないか ? が、またしても呼出音しか聞けなかった。 「わたしも捜していたのですが。彼のコッテージにも行ってみまし「やつばりかわいい女にはなれないわ」三輪さんの顔はほんのり桜 た。でも、どこにも」三輪さんは両手を広げて、ばたんと落とした。色。「でもだからって会社まで辞めてわたしから逃げることはない 「まるでわたしから逃げるように、手がりもないの : : : ありませじゃない。ねえ、ねえ、旦那さま : : : もう一杯ください」