レヒ三ウ から、といったことではない。従来の″惑星だ。それが異様でないのは、小説中のモラル が変貌してしまっているからだ。 ーズ〃に代表される石原作品では、アイ オロモルフ号の乗員は、のどんなこれ デアはきわめてゲーム的に小説中で運用さ までの作品よりも宇宙とがつぶり四つに組ん れ、小説はアイデアを搬送するためのキャリ ア 1 として使われていたように感じる。惑星で戦い、また対話をしている。彼らにとって 『宇宙船オロモルフ号の冒険』 シリーズのヒノとシオダは、あくまでも米来は、他の異星人、他の天体などは問題ではな く、常にそれらを包含する宇宙そのものが問 における現実社会を感じさせることはなく、 三井継 現代人であるし、ロポットのア , ールは、小説題なのだ。そこでモラルも人生観も変わり、 歴史や世界に対する意識も変ってゆく。 的な約東事として登場している。 考えてみれば、これまでの日本に、こ この作品集の巻末にある初出一覧には、そ だが、本書においては、・ハック・グラウン れほど歴史の主人公を正面から扱った作品が れそれの作品について、アイデアの基礎とな ドの組織そのものがすこぶる未来的であり、 ったものが書かれている。第一章「複素関数またキャラクター設定も、一見企業小説を思あっただろうか。 石原藤夫がこの作品で描こうとしたものの の特異点」、第二章「四次元方程式の変数分わせながら現実と大きく異なっている。それ ひとつがそうであるかどうかは、ほんとうの 離」というぐあいに。そして、それについては、アンドロイド、ロポット、アンドロイド 「いずれも大学一、二年程度の応用数学であと人間の混血、そして人間という、人種の存ところは作者がなければわからない。数学的 なアイデアをとして書くこと、そこまで る」とコメントが付されている。 在が大きい はわかるが、実際にどういう過程をたどって しかしながら筆者には大学一、一一年程度の また、「オロモルフ号」を救うために規則 応用数学の知識はない。であるから、この作を破った人物が、そのために処刑をされると小説化されたかについてまではわからないか 品を著者の意図どおり正しく理解することは いうシーンが出てくるが、そのシーンは実にらだ。しかし、歴史、モラル、人間の意識、 不可能であろう。その点をまず諒解していた本書が″惑星シリーズ″等と異なるハード だきたいが、ただ、この作品を読んで、私なの一面をも持っていることを納得させる。 りにおもしろかったから、レヴュウをしてしその人物は尋問の後に、解体処分という刑を まう。 ( もっとも、ごくふつうの小説につい 執行される。つまり、千トンのプレスによっ ても、結局は自分なりにレヴュウをするほかてべしゃんこにされてしまうのだ。しかし、 はないのだが ) その場面は残虐な印象もなければ、もちろん 『宇宙船オロモルフ号の冒険』は、これまで猟奇の匂いはまったくない。ブレスされると の石原藤夫の作品のなかでも、よりハ ードな同時に、まったく同一人物として製造された 作品であろう。ただし、ここでいう意味は、 アンドロイドにスイッチがはいる、というこ より先鋭的にアイデアがっきつめられているとはあるにしても、これはそのままでは異様 石原藤夫著 石原藤 。第ロモルフ号のにを
ダーと呼ばれるの魅力の主要な根源の一波新書ーという本である。ヴァリス二部作を つなのだと了解している。 読みながら、・ほくはディックの辿った道がこ追記。七月号のがシミュラクラ″概念の肥大 けれども科学的世界というのは没価値的なの著者の提言している、。フラトンのイデア論説と違う形でディックを把えてみたけれど、 ″物″の世界。人と人とのふれあいからなるの再認識、とだぶってしまってしかたがなか相互排除的な論旨ではないと思う。むしろ字 った ) 人生に″物みの世界の論理が導人されると、 面は全然違うけど、どちらも同じことを繰り 切り捨てられる部分がでてくる。心情的には『ヴァリス』はグレアム・ペンギン小説であ返して言ってるような気さえしている。 ( 『ヴ アリス』『聖なる侵入』 / 著者ⅱフィリップ 大切であっても、科学の論理を認めてしまえる。フィル (z«) 、ケヴィン (9 、デヴィッ ト (2) とその分身ディックのドイツ語読み レ ば泣き言めいてしかつぶやけなくなる。・ディ ・・ディック / 訳者Ⅱ大瀧啓裕 / 『ヴァリ ックの小説に充満する優しさつらさはそんなであるホースラヴァー ・ファットの探索の物・ス』四四二頁・ \ 五八〇 / 『聖なる侵入』三 語である。グロリアや死んだ猫の出てくる初九〇頁・ \ 五八〇 / 文庫 / サンリオ ) ・ 5. 作者の心情の発露でなか 0 たのだろうか。 恐怖と憤りの最大の対象である″権力み概めの数章はとてつもなく重い。その重さが根 念の実相を抉り出そうとするディックの筆致底に横たわっているのはわかるけれども、基 ウォルター・テヴィス著 は生々しい迫力をはらむ。政治、社会に対す本的にはこの作品は「人間とアンドロイドと る強い問題意識と洞察は、科学の助けを借り機械」の小説化だったと言えゑそして小説 てどうしようもなく強大な普遍的な″権力〃 の外見を呈しても、論文は論文だ。少なくと 『モッキンバード』 の姿を浮かびあがらせる。〃権力〃の対抗勢もぼくには ( 一部のレムの作品同様 ) 論文と 力、弱きものへの救済者として設定されたしてしか読めなくて、小説の形をしているた 伊沢昭 〃宗教″も社会的枠組みの中ではどうしようめにかえって不満な部分を残した。 もなく力不足である。悪としての″権力″を『聖なる侵入』はすっと小説になっている つきつめていけばいくほど、かえってこの世し、になっている。いくつかの存在論的自分が読んだ本が面白かった場合、僕はた いていそのことを人に語りたくなるのだが、 の中からその存在を否定することができなく対立もずっとすっきり処理されて、わかりや なる。それはディックにとってもディレンマすく力強い。けれどもやつばりその神学論議どうしたわけか、本書に関してはそういう気 であったと思う。〃物〃の世界の論理ではこの魅力はどこか小説的魅力とは結びつかなく持ちが起こらなかった。できることなら、見 の世に安息がありえないなら、異なる論理でて、思想的な深まりをみせ、おそらく安息でて見ぬふりをして、やりすごしてしまおうと 捉える世界を作り直そう。意識的に思ったか きる視点を見い出すことができたのだろうすら思った。何と言えばよいのだろう ? 供 どうかはわからないが、結果はそういうこと と、そしてそのことに関しては心からディッ にはこれはではないのではないかという だったと思う。 ( ディックの転回に・ほくなり クにおめでとうといいたいけれど、小説とし疑念を振り払えずにいる。 の理由づけを与える根拠になったのは、先頃ては、『暗闇のスキャナー』までのディック舞台は二十五世紀のアメリカ、主人公は一 読んだ藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』ー岩ほどには好きになれない。 組の男女と、不死の肉体を持った高性能ロポ 円 2
で、″マガジン″という発表舞台 とで ( 笑 ) 。書きたい気持にならないのね。 つり。ほっりと浮かび出る。そして、そうし を意識されましたか。 ものを書くというのは、機が熟するとい たそれそれの宇宙の引力がわだかまってい 「注文された時に、編集長がなにを書いてうか、子供を産なようなもので、待っこと る場所に、殿谷みな子という才能のありか もいいです、とおっしやったのね。だからですね。だから、ごく自然に書けるのを待 が見つかるのだ。 ( 略 ) 覚醒時に認識する リラックスして、好きなことが書けるんだっしかない。時間がなくても書けるし、時 〈現実〉に依拠しているようで、どこか質 なあ、と思って、それで書きはしめたんで 1 、、、 Ⅲ力あれば書けるというものでもない。機 を異にする夢の世界 ( 略 ) どうにも言葉で が熟すると書くのは早いです。さっと書い 捉まえづらいそんな地帯を、殿谷みな子はすね。私はを全然知らないんですよ。 実に優しい、それでいて残酷な文脈で、やそれでもかまわないから、好きなようにやて、机に向かっている時間は短いん・です。 って下さい、というので、まあ、とても安 だいたい頭の中でいろいろと考えているの んわり原稿用紙に写しとってしまってい 心して好きなことを書いてるわけです。 ね、なにかをしながらも」 ると評している。 たた、自分はこういう小説を読みたいな 幻想的な小説がお好きですか。 あ、というものを書いているんで、そ「好きな作家というと、その時その時で変 れが小説だと思っているわけね、自わるのであまり言いたくありませんね。今 ア 分にとっての。だから、その結果が はアイザック・ディネーセンの『アフリカ イ タ と言われるかもしれないけど、その日々』を眠る前に少しずつ読んでいま れは読者が決めればいいんですね」す。自分の作品について、幻想的といわれ た それまでと違って締切りがあっ るのは好きしゃないですね。幻想たけじゃ れ さて書くというのは : 書けないし、そこにどうやってリアリティ 掲「私の場合、締切りってないんですを入れていくかが問題だから、あんまり幻 - 】説よ。なかなか書けないもので、書き想的といわれてしまうと、小説として欠陥 がありすぎるんじゃないかと思ってしまい 、ーあがったら、それが締切りというこ 刊文芸を年 に自 A SF NEW GENERATION
いかもしれないですけれどね、小説のスタ ね。架空の所は書けない んです。天の川なんかは イルということで」 空想ですけれど、『海の 長篇を書こうとは : 城』にしても必ず行った 「そういう気がないこともないんですが。 所ですし、自分の見た場わりあい、その気になれば、私もいろいろ 面ですね。だから幻想と書くような気がするんですけど : : : 書かな 言われてしまうと悔しい いですねえ ( 笑 ) 」 一のね。自分にとっての幻 想という小説論になって 殿谷さんの作品は、小説というものが本 一しまうけれど、どうして来の″お話″という祖型に還ったところか 人類が出てきて、どうな ら物語られるもので、とかファンタジ , 、 ~ 。】」るか亊らないてしよう。 ーというレッテルとは無縁で形造られてい そうしたら、その中で子るものだ。だから、熟すのを待って果肉を して外部から入ってくると、その場所のい 供を産んだり、料理作ったり、原稿書いた ほおばるように、愛読者は、殿谷さんが紡 ろんなことを観察するという結果になりま いだ物語をじっと待って秘かに味わうべき りね、そうしていること自体がどこかから だろう。本当に、読書とは声高に言挙げす 見ると幻想ですよね。私にとって自分の小 るものではなく、秘かな愉しみなのだか 特にアメリカから帰ってきた後に、今住説と生活というのは同等なんですよね。幻 んでるあたりのような、古い、戦災で焼け想とかあやふやなものは嫌いなんです。見ら。 残ったところで、古い家と新しい家が雑居たものしか書きたいと思わないですよ、本 しているから面白く感じるのね。私は実際当に。作品が幻想的に見えてしまうという に住んでいる所や見た場所しか書けないの のは、これからもっと考えなくてはいけな SF( NEI/I GENERATION ロ 5
徳島はどちらの生まれですか。 雨上がりの夕刻、殿谷みな子さんのお宅 が『海の城』という作品。一番最初に書い たそれを、林富士馬さんのところへ持って へ伺った。タ闇の中に東京タワーが見える 「海辺に近い所に住んでました。でもすっ お部屋で、ビールを飲みながら、インタビ とそこにいたわけじゃなく、あちこち行っ 行って、そしたら、すごく褒めてくれたの ュウ。「海の城」が収録された筒井康隆・ ね。だから、また書く気になったの ( 笑 ) 。 てるんですよね。小さい時は名古屋にもい 選『実験小説名作選』 ( 集英社文庫 ) から ました」 それで褒められなかったら、書くのをやめ 略歴を引用させてもらおう。 転校生で学校をよく変わる人だと、本ていたんじゃないかな。林富士馬さんとい うのは私の先生で、今でもその時の葉書を ( 一九五一・三 ~ ) 徳島生れ。武蔵大学人に熱中したりして・ : 文学部修士課程卒。在学中より、檀一雄「全然、読まなかったですね、高校二年生持っているんです」 林富士馬さんと知り合ったのは。 くらいまで。いわゆる文学少女じゃなかっ ・林富士馬の主宰する同人雑誌で創作活 「父の医学部の同級生で、よくお名前は聞 た」 動に励む。卒業後も、抒情的な世界に幻 いていたものですから、是非尋ねていこう 本を読み出したきっかけは 想味を織りまぜた独自の作風を構築、 「国語でなんとなく読まされてから。漱石と思ってましたから」 「マガジン」を舞台に作品を発表、 では詩も書いてらしたんですか。 若い層の注目を浴びる。作品点数はあまの『こころ』をね。それでちょっと読むよ 「それは秘密にしておきましよう ( 笑 ) 」 り多くはないが、代表作として「少年のうになった。でも、本当に読んでないんで いる季節」「木犀と恋」「サルマキスのす。自分が読書をしてると思ったこともな 大学時代には他に何を。 「なにもしてなかったですね。学校を出て 夢」「織女譚」などがある。 いし、読書量も少ないし : ・ : ・」 から、また小説を書きまして、″ポリタイ 小説を書きはじめたのは。 著書に『求婚者の夜』『新お伽話』 ( と ア″に載せてもらったんです。その時も同 もに早川書房刊 ) がある。ただし『求婚「十九くらいの時、大学へ入ってからで 者の夜』はれんが書房新社より刊行されす。一回限りの同人誌があって、私は同人人ではなかったし、一度も同人になったこ とはないんですけど、林さんのところへ たものの再刊である。 誌というのは嫌いだったんですけれど、一 ( 小説を ) 持っていくと、じゃ″ポリタイ 回限りなら書いてもいいと思って : : : それ とのがい 0
立レヒッウ サイエソス・アイクショノ 的なエ。ヒソード、同じ深みのある議論が繰り 科学小説という小説の存在形態には科 人間というメカニズムに、ストルガッキー 返し繰り返し語られ続けていくうちに、一つ 学的認識による世界把握が ( 不充分なものか 兄弟のメスがさしこまれる。 ( 『蟻塚の中の 一つの書物の印象は溶けて・ほやけて、ひとつもしれないが ) 基本的には正しいものである かぶと虫』 / 著者Ⅱアルカジイ & ポリス・スらなりの〃ディック体験 4 とでもいうしかしという暗黙裏の大前提がある。秀れたは トルガッキー / 訳者日深見弾 / 一一〇九頁 / かたのないものとなる。そしてそれは興奮を多かれ少なかれ、日常的に慣れ親しんできた 一一〇〇 / 四六判上製 / 早川書房 ) そそる、得難い貴重な時間であったわけだけ常識的世界やあるいは神とか魔法といった概 ど、はっきり言わせてもらうなら、小説と呼念に〃科学の光〃を照射して、その存在論的 ぶには、あまりにメッセージ伝達に、理論の基盤を揺がすことで小説に奥深いダイナミズ フィリツ。フ・・ディック著 ムを与えてきた。それがセンス・オ・フ・ワン 展開に比重がかかりすぎている。加えて神学 的議題とギリシア哲学その他についての当方 の素養の欠如は論旨を追って字面を辿るにか なりの疲弊を余儀なくされて、これが聞いた ことのない新人の作であったとしたら、はこ して読み終えることができたかどうか。その 意味で、たとえば『暗闇のスキャナー』のよ うに ( かなりの ) 万人にお勧めできる本では 何から書こう。 ない。しかし、ディックにこだわるつもりの 言いたいことはずいぶんあるけど、・ハラ・ハ 人なら避けて通ることのできない本といえる ラで断片的だ。とっかかりになりそうなもの だろう。 がこれまたいろいろありすぎて、重層し、錯本誌七月号で書かせてもらった「ディック 綜し、印象がごちゃっいてしまっている。 断想」についてはかなり修正しなければなら 『ヴァリス』二部作と称されゑこの二冊の ない。危惧していた通りであります。基本的 本はそれだけで完結しうる作品ではない。少には『暗闇のスキャナー』までのディックの戦 なくとも、あと二点『解放された』所収跡の把握について撤回する気はいまもない。 の「人間とアンドロイドと機械」、及び短篇 ただこうも見事に寄って立っ場を明確化し 集 "The Golden Man" の序文を抜きに語 て、理論構築されるとは、正直思ってもいな れない。 ( 後者については「科学魔界四一かった。「人間とアンドロイドと機械」を読 号」に詳細な紹介が、「中間子復刊二号」にんでいたのだから、予想していてあたりま は序文そのものが翻訳されている ) 同じ感動え、といまにして思う。 『ヴァリス』 『聖なる侵入』 水鏡子
1950 年代は、また S F の最も大胆な黙示的 小説、ジェイムズ・ブリッシュの『時の凱 歌』 7 ' / 尾 7 ' だ〃ゅんイ T / 〃尾 ( 1958 ; ノ 1 Clash 研い襯な英 ) を生み出してもい る。 皮肉な絶望、諷刺、そして暗く悲観的な リアリズム〃というこのおなじパターン は、 1960 年代と 70 年代にも継承され、そし て、人口過剰と公害を含め、破壊の接近の 予感を理論的に説明した作品が多く書か れることになった。注目すべきフ・ラック・ コメディには、トマス・ M ・ディッシュの 『人類皆殺し』 The G 。 s ( 1965 ) とノ ーマン・スヒ。ンラッドの "The BigFlash ” ( 1969 ) がある。皮肉な物語には、ジョー ジ・アレック・エフィンジャーの "And Us, T00 , I Guess" ( 1973 ) や、ロノく一ト グの "When We Went 、ンノレウ・アーーノ、一一 to See the End of the World ” ( 1972 ) が 含まれる。強烈な絶望感は、ジェイムズ・ フ・リッシュの「われわれはみな裸で死ぬ」 "We AII Die Naked ” ( 1969 ) や、フィリ ッフ。・ワイリーの T ん End 研に D の〃 ( 1972 ) の中に見出される。 SF 界の外部 ではいくっかの超現実的な黙示のヴィジョ ンが現われたが、著名なものにはジョン・ ポーイスの Up 〃 d 0 ( ク 1957 ) や、アンナ・カヴァンの ( 1967 ) がある。ポール・アンダースンの『審判の 日』ス尹催 D 。。襯記 ( 1962 ) は、皮肉な意 味も含めて、注目する価値のある新機軸の 作品である。これは、地球を死体に見立て た、史上初の、、犯人探し″小説なのだ。ラ リイ・ ーヴンの「無常の月」 "lnconstant Moon ” ( 1971 ) も宇宙災厄物としての手 際の鮮かさで、やはり言及しておく価値が こでは、月の明るさが急激に強ま ったことから、その意味を推測できる人び とは、太陽がノヴァ化し、夜明けが破壊を もたらすだろうことをさとるのである。 VI 宇宙的ヴィジョンを描いた小説は、戦後 の SF にはほとんど姿を消した。われわれ が世界の終わりを考える場合の概念が、事 実上 150 年前に逆行し、それがふたたび近 未来の問題となったからである。たた、大 きな違いはある。 150 年前には、いつどの ようにして世界を終わらせるかを決めるの は神の意志であり、神がつねに少数の者を 賢明に選ぶことには、信頼が置けた。人間 が彼自身の運命を握っているという一般的 認識が生まれた現代では、選ばれる者の資 格に確信を持っことはおろか、だれかが生 き残るだろうと確信を持っことさえ、むず かしくなってきている。現代 S F に充満し ている千年王国待望のムードは、決して事 新しいものではないが、それに付随する不 安は、その中に新しい要素をかかえてい る。われわれは救済を信じたがっているく せに、もはやそれに対して楽観的になれな いのである。 テーマ・アンソロジーには、ドナルド ウォルハイム編の T ん eE 〃ノ〃尾↓ / の・ ( 乞 1956 ) がある。 ェンドア、ガイ ENDORE, GUY S. ( 1900 ー 7 の アメリカの作家、翻訳家。とりわけ、写 実的な長篇ファンタジイで名をなし、その 一部は境界的な意味で S F と考えられる ( 心理学 ) 。最も有名なのは『パリの狼 男』 The Ⅳ , 。ゲ研ぞ。 r な ( 1933 ) だ が、この小説のクライマックスは、 1870 年 の流血のパリに舞台をとり、狼男となった 若いフランス軍人が、つぎつぎに若い娘 を餌食にしていく。切 the ん。イツ ( 1945 ; T んに / 丑お 0 イ 3' , ・圜 N なん襯のは、見かけはミステリ小説だ が、最終的には、、ジキル博士とハイド氏″ の女性版をフロイト的解釈で扱っているこ とがわかる。 S F の分野に与えた影響は比 266
ⅢⅢⅡⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅡⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅱⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢは せているが、中には煉獄とリンポ界のよう な概念を組み入れ、さらにはこみいった悪 魔学までを補足した、複雑な変種もある。 S F 作家が純粋なファンタジイを書くとき ( たとえば、アンノウン誌に執筆する場 合 ) のお決まりの手は、古代神話かキリス ト教の悪魔体系から借りた舞台に合理的説 明を持ちこむというもので、喜劇的な効果 がかもし出されることが多いが、ときには 型破りな恐怖小説が生まれることもある。 19 世紀後半の科学ロマンスの興隆は、心 霊学運動の興隆と時をおなじくした。心霊 学者たちが普及したのは、キリスト教終末 論の腐食した一変種に、、、アストラル界〃 とかそれに似た概念に関係する概似科学用 語を加えたものだった。心霊学信仰は、カ ーユ・フラマリオンと A ・コナン・ドイ ルを含めた初期の S F 作家の何人かに影響 を与えたが、ドイルの後期の作品ーー特に 『霧の国』 T んどんの研石立 ( 1926 ) と 『マラコット海淵』 The ユーの・ 40 D ゆ ( 1929 ) にしか際立った影響は見ら れない。心霊小説は数多く書かれたが、 T 〃 s 化れ記 ~ ん y 豆 c ゞ ( 1865 ) の著者ョ ハン・ツェルナーや、その他の心霊学者の 擬似科学的理論化の努力にもかかわらず、 それらを S F と呼べるかどうかは疑わし い。フラマリオンの再生に関する思想は、 他の思弁的作家にもその亜流を出したがい ある程度の科学的想像力をそこに結びつけ ることができたのは、元祖のフラマリオン だけだった。初期のパルフ。 S F 作家で、 心霊小説に手を染めた人に、の g 。 ん 0 て ( 1931 気ツイユイ ag な ; 1946 ) の著者、 ミルン・ファーリーがいる。より ラノレフ 興味深いのは、ディヴィッド・リンゼイの 驚くべき宇宙ファンタジイ『アルクトゥ ールスへの旅』 A 03 , ag どみ r は 4 お ( 1920 ) である。この小説は、伝統的な心 霊学の観念を取り上げて、物語の中でそれ 2 をひっくり返し、ありきたりな終末論的願 望を手きびしく取り扱い、運命を苦痛と切 り離せないものと見ている。 雑誌 SF に関するかぎり、来世が真剣に 受けとられなかったのは、アンノウン誌に 頻出した終末論諷刺小説が示すとおりであ る。救いようのないまでに超自然の汚染を 受けた他のアイデアとおなじく、来世は思 弁に値しない主題と見なされた。神学思想 を科学的思弁で合理化しようとする試み は、たいてい SF 界の外からやってきた。 科学が、よりよいテク / ロジーを得たあか っきには、あのとらえがたい霊魂を発見 し、それを捕捉するかもしれない、という アイデアは、チャールズ・ B ・スティルス ンの奇妙な "LibertY or Death ! " ( 1917 ; "The Soul Trap") に具体化されてい るが、それをより野心的に考察したのは、 アンドレ・モーロアの「魂の重さ」 "Le peseur d'åmes" ( 1931 ) である。神の領域 に対する人間の侵犯を扱ったテーマの大半 の例にもれず、そうした行為はつねに失敗 する。モーリス・ルナールの Ledoctetd1 ・ ん , 4 市 ( 1908 ) では、邪悪な科 学者に仮借ない罰が下だる。霊魂再生の実 験の結果、彼の魂は自動車のエンジンの中 に転住してしまうのだ。また、ウィリア ム・スローンの The Edge 火″れれ切 g Ⅳ厩 ( 1939 ; 圜 The U れ CO ゆの では、死者との交信を狙った実験が、悲惨 な結果に終わる。人間には知ってはならな いことがあるというこの信念が生み出した 奇妙な付随物は、ある種のファンタジイの 驚くべき氾濫である。そこでは登場人物 が、物語の結末へきてはじめて、彼らが最 初から死んでいたことに気づくのだ。レ イ・フ・ラッドベリの「火の柱」 "Pillar 0f Fire" ( 1948 ) は、さすがにこの筋立ての 陳腐さを超えている。 C ・ S ・ルイスの神学的ファンタジイ、 XI
たために、うっそうとした熱帯林がはびこり その点、生命彗星説の本家ホイル、ウィッ 訳、三笠書房 ) も、六章のうち一章を、ホイ ル、ウィックラマシンジ説の解説にあててい クラマシンジは、さすが徹底している。星間続け、原猿からの進化は、森に適応しきるサ る。ただし、原題 "GENESIS" ( 起源 ) 雲中の氷山 ( Ⅱ彗星核 ) で生命が発生し、そルにとどまった。 もともと、生物圏は、地球と宇宙との界面 を、さきほどのように和訳されたのよ、、、 。しカれが地球での生命進化の発火点になったのな がなものか。訳者解説で、「本書には宇宙、ら、その後も、生命は宇宙空間から降りつづに広がる一枚の薄い膜である。宇宙からの作 特に地球の生成から人類の出現にいたるまでけるはずだ。それこそ、『宇宙から病原体が用と、地球からの作用とのダイナミックな緊 ' ヒ の万物の起源が、論じられている」と断ってやってくる』 ! インフルエンザやかぜのウ張関係の中で、地球の生命の炎は燃えつづけ レ はいるのだが。 イルスが宇宙から侵人している状況証拠を展てきたのであろう。 ( 『宇宙から病原体がや ってくる』 / 著者日・ホイル & Z ・ O ・ウ ジョン・グリビンは言う。「たったの一億開するのが、本書のメインだ。ほかにも、 ィックラマシンジ / 訳者Ⅱ小尾信彌・森暁雄 t..r•u. 年で、地球上に現われたあの段階 ( 生命細胞児まひ、結核、ライ、トラ = ー二「レラ、 ・坂本正明・三浦賢一 / 二五三頁 / \ 一五 0 の発生 ) にまで進化が達したと予想するのが はしか、水・ほうそう、黒死病などが、宇宙か 妥当であろうか、それとも、そのような決定ら微生物侵人によゑとされる。人間も含め〇 / 判並製 / ダイアモンド社 ) 的な化学的活動が星間雲の中で行なわれて、 て、生物は侵人する微生物に絶えず適応しな 太陽系が形成される前から何十億年もかかっ がら、時にはそれらを遺伝因子の中に吸収し アルカジイ & てできあがったと考えるほうがより妥当であながら、進化してきた、というのは、ありう ポリス・ストルガッキー著 ろうか ? ( パチパチパチ ) / 読者がどちらのることのように私にも思える。 説に賛成票が投じられようと、生物の起源に しかし、原初の地球が「地形上は、世界は 『蟻塚の中のかぶと虫』 ついての話は、単細胞生物が現われてから人今日の地球にそっくりだろう」という発想 間の出現までの現在の科学的思考の主流からは、・フレート・テクトニクス理論以前だ。そ 永田弘太郎 あまりそれることはない」ーーとして、地球の点は、ジョン・グリビンの本から得た新知 上での生命進化を、地球内的なこととして、識のほうをかう。 小説のあるものは「謎解き」といわれ るる述べていくのは疑問だ。生命進化の出発約六億年前の超大陸パンゲア—が分裂し、 点だけを、宇宙的事件の文脈の中でとらえ、 再集会して、パンゲアⅡとなり、それが再分る、推理小説でよく使われる、あのスタイル それから後は、宇宙から切り離して、地球内裂して、中生代の生命の多様化を促す。新生をとっている。大別して、トリックを使った パズラーとしての本格派の推理小説、非情で のダーウイン流進化にゆだねている。恐竜の代で、なおも、アフリカ大陸は北上し、南ア 絶減は、隕石の落下のせいにしているが、 メリカ大陸は主として西に移動する。アフリタフな探偵が出てくるハードボイルド、それ 「遺伝子。フール」そのものに、その後も、遺カ大陸の北上により、森林が減り、草原が増に犯罪小説やスパイものなどがある。 伝情報が地球外から加わり続ける可能性につ えたので、サル↓類人猿↓ヒトへの進化とな 本書は推理小説のジャンルでいくと本格派 、ードボイルドというところで、熱血あふれ いては、論していない。 った。一方、南アメリカ大陸は、西へ移動しノ
、フォンの第 oc / い研な ( 1780 ) が この地球の表面にはこれまで一連の世 界〃が順々に交代をつづけてきたという観 念を普及させると、世界の終わりが持っ決 定的な意味合いがぼやけてきたのである。 したがって、その範囲は、黙示的幻想から デイザスター小説にまで広がっており、境 界線を引くことはむずかしい。、、世界〃を 、、惑星〃の意味に解釈するのは、衒学的に 過ぎるだろう。 世界の終わりを描いた最も初期の科学ロ マンスは、ロマン主義の産物だった。これ にはド・グランヴィルの反進歩主義的な T んん 4 」イのにの・ 0 〃 g の辺ゞの Sy イな ( 1806 ) とメアリ・シェリ - ーの陰 鬱な疫病小説 The ん 4 立 M 々〃 ( 1826 ) が 挙げられる。疫病は、文学の中で世界の人 口を激減させ、社会を崩壊させる標準的手 段の一つだが、科学ロマンスの作家たちが 特に好んで使った手段は、エドガー・アラ ン・ポーが「エイロスとチャーミオンの会 話」 "The Conversation of Eiros and Charmion" ( 1839 ) で創始した宇宙的災 厄である。これらはすべて近未来の物語だ が、地球の実際の年齢とその変化過程の性 質に関する認識が高まるにつれて一一ライ ェルの ~ c ゆ / お可、 Geology ( 1830 ) が、 その普及にあずかった より正確な科学 知識に基いた小説がぼつぼっ現われてき た。この種の小説の二つの古典は、一年た らずのうちに相前後して出た カミーユ ・フラマリオンの『此世は如何にして終る か』前んア〃川。れ ( 1893 ー 4 ) と H ・ G ・ウェルズの『タイム・マシン』 The T / 〃尾 M “ ( 1895 ) である。しかし、 人類とその領域の生と死に関する包括的な 説明は、それよりはるか後年のオラフ・ ステープルドンのん 4 立れイ耘立」イに〃 ( 1930 ) を待たねばならなかった。 ウェルズは、宇宙的災厄を描いた「妖 269 星」 "The Star" ( 1897 ) や黙示的諷刺の 「最後の審判」 "A Vision of Judgment" ( 1899 ) を含めて、世界の終わりを何種類 か提示した。生涯の大半を通じて、彼は新 しい世界を建設するためには古い世界を破 壊しなければならないと信じていた。彼の 作品に、黙示的色彩が執拗に顔を出すの は、このためである。しかし、それを和ら げているのは、恐ろしい原子戦の物語 『解放された世界』 The World & お ( 1914 ) 一一を書こうが、 また、新しいノ アに関する諷刺的記述 ス〃スろ 02 だイ ・異次元を覗く家 ウィリアム・ - ホ - ”プ・ネジスン第 嗣精ニ訳 『異次元を覗く家』 工の・ r の ( 1940 ) ーーーを書こうが、あ くまで、彼が人間は第二のチャンスを与え られるべきだ、という見解を捨てなかった 事実である。完全な不安に塗りつぶされて いるのは、『タイム・マシン』とユ石れ / んに E 研 / な T ん・ ( 1945 ) だけにす ぎない。 ウェルズと同時代の作家は、黙示的可能 性に彼ほど関心を寄せなかったが、多くの 作家がすくなくとも一度は、大規模な破減 の可能性に手を染めた。ジョージ・グリフ イスの 0 / ga 火の〃 4 れ 0 ア、 ( 1894 ) では、彗 III