いう理想は絵の中にある。それを手に入れるためには、希うだけでの改革も、どちらも言葉にすぎん。どこに欲望とその対象が流れ、 は駄目だ。どんな理想であれ、それは同しだよ。君は君の理想を現どこに堰があり落差があるか、それを知って左右しえれば、経済は 実のものとするために何が必要な悪かを、もう知っているはずだ可能なのだ。思想ではない、正義や不正も関わりがない。帝国など 商人にとっては一つの条件にすぎんのだよ。そして君の固持する理 な」 念もな」 「実践はいつも矛盾するものです。しかしだからといって目的が誤 まっていることにはなりません」 「そこで正義とは強者の利益であることをあなたは忘れておいでで 「目的は手段を正当化するというわけだ。レモン君。もうすでに君す」 は衝動的に動く学生でもない、理想だけで飽食し、絵の中のものを「商人にはね、レモン君、利益こそが重要な目的なのだ」 「私は、現実に形のあるものの中に、重要を認めたことがありませ 取るかわりに自分がその絵の中に入ってしまう小児病患者でもな 。現実的な活動家だ。君は君の革命を技術化していかなければなん。いかなる利益も信じはしません」 らない。明日をかちとるためには、今日が確実なものであらねばな 「わしと同じ目当てを君が共有する必要はないのだよ。けれど、わ らん。ちがうかね」 しの利益と君の目的が折り合うことも考えられる。ュマジュニ 1 ト 「清濁あわせ飲めと仰言りたいのですか。私は、自己一身の安全との警察は君には小さすぎる容器だ。この夏が終って、わしは帝都ト キーオにもどる。しかし君の場所は今、党にない。しばらくわしの ひきかえに、未来と将来を取りちがえたりしたくはありません」 「そこが君の若いところだ。清いものと濁ったものが、分離できる下で働いてみないかね ? 」 ものと考えている。レモン君、現実はいつだってその二つが交り合 「 : : : 考えてみます」 っているものだ。距っことはできない。好むと好まざるとに拘わら「レモン君。判っているかな、君にはほとんど考える余地がないの ず、われわれは濁った水をのむように、政治という暗い液体を呑ま ねばならないのだよ」 ヌムールが振り返って彼を見下した。レモンは黙ってその冷酷な 「あなたは私に、なにを望んでいるのですか」 視線をみつめ返した。 メムールは立ちあがってテラスの手すりに歩いた。空は青く、冷「職業的革命家にも保険が必要だよ」スムールは視線をそらさずに やかなほど澄みきっている。 いった。「君にもそれは判ってきているはずだ。貯えは将来の安全 のために大衆がすがるものだ。しかし保険は未来の危険を前提にし 「わしは、経済にたずさわっている」レモンの顔をみずにいった。 「経済とは、つきるところ物質と欲望の流通だよ、レモン君。人間ている。君にこそ必要だよ、レモン」 黒い長髪がなやましく綺麗な少年がテラスに入ってきた。スムー 的存在があるかぎり、その二つはなくならない。君の信じる未来で も、同じことだ。わしにとって、帝国を経営するというのも、社会ルの小姓である。
の ? それに、あんたが安っ・ほい、舞台荒しを狙うようなトリック「彼はちょっと好意がほしかっただけさ」 っ を使っても、レキシントンであたしがあんたを手も足も出ないほど「あんたもでしよう、ニック。本質的にあんたはどっちなの ? ペちゃんこにやつつけたこと、あんたも、わたしも、知ってるでしまり、あんたが言い出したことなのか、彼が言い出したことなのか よ、この偽善者のくそ野郎」 ってこと」 ニックはおどすように手を振りあげた。「おい、ちょっと待って そのとき初めて、ニックは傷つきやすい面をさらけだした。くる もらおう、サラ・ベルナールさんよ。おれは一度だって、あんたと りと背を向け、流しにかがみこんだのだ。彼の声はほとんど聞きと れないほどだった。「わからない。たいしてちがいはなかったよ。 同じぐらいうまいとも、うまくなれるとも言ったことはないそ。だ が、これだけは言ってやる」ニックはクローゼットを開け、ハンガなにが悪い ? おれはなにも失っちゃいないし、むしろなにかが手 ーからジャケットをひったくった。「あんたがみんなに忘れ去られに入るかもしれないんだ」 ドアの方に歩き出したニックを、あたしは引きとめた。 ても、おれは生き残って仕事をしているだろう。それはおれがこの 業界を知っているからだ。あんたは十四年間この世界で生きのびてク、あたしにはあんたが必要なの。今日いろいろなことがあったせ きたのに、まだコツがわかっていない。エージェント回りをする気いで、ぐあいが悪くなりそうなのよ。こんな仕打ちはしないでちょ はないだろうし、待っという、いやな思いもしたくない。あんたは うだい」 くそったれのゲイジッ家さ。ニーヨークで芽が出るのを待っ気も「どうしろっていうんだいフ ししかい」ニックは一瞬、あたしを ない。ありゃあしないさ。名も知れないような場所に公演に出かけ抱いた。あたたかみも説得力もなく。「ちょっと出てくるたけだ よ。明日、話そう。オーケー ? 」 ていき、誰も読まない新聞のマスターベーション的な記事でしか、 あんたに会ったこともないような連中を相手にするようになるの 「行かないで、ニック」 さ。自分は自分だって ? 冗談じゃないよ、貴婦人さま。あんたは ニックは横目で鏡をのそき、ていねいにカラーを直した。「あん = = ーヨークがこわいんだ。 = 、ーヨークでいちかばちかやってみたがこんなじゃ、話なんかできやしない。意味がない」 るのがこわいんだ」 あたしはしがみついておけるものが必要で、必死でニックのあと ニックは少し落ち着いた。「ここにいた男、彼はプロデューサー を追った。「行かないで。いろいろ言ってごめんなさい。ニック、 なんだ。肝心なところでは、顔がきく」ふたたびニックは例の、奇ふたりで考えましよう。だから、あたしをひとりにしないで」 妙な、彼らしくない当惑を見せ、視線をそらした。「本当はあいつ、 「行かなきゃならないんだ」ニックはすでにドアに手をかけ、袖か おれと寝たくなかったんだ。あいつは本質的にはストレート。こ、 ナカら垂れた糸くずをぶったぎるように、あたしを振り払った。 5 6 ら」 「なぜ ! 」腹の底から、憎しみそのものから荒々しいことばがほと 2 ばからしくて怒る気にもなれなかった。「ストレート ? 」 ばしり出た。憎しみ , ーーーこれなくしては人間は愛することも、なに
でほしい。それは観念的なことだ 1 いつづける。 アルはローエンの傍で、ちんまりと静かに眠っている。上掛けの ふたたびエネルギーが満ち、視界が明かるくなってぎた。エネル下のふくらみがほとんどないぐらいだ。ああいうふうに眠れるなん ギーが高まってくると、必ずつきまとうゆううつな気分の重みを感て、とてもすてきなことにちがいない。あたしは二時間以上安眠で ーにただよっていった。アルとローエンが眠っきなかった。あ、待って。アルが目ざめ、吐息とともに寝返りをう じながら、バルコニ ったが、上掛けはほとんど音もたてない。べッドからぬけだして、 ているため、あたしの色彩感覚も薄れている。七十七丁目は白黒フ ーサイド・ イルムの画面でしかない。人っ子ひとりいないし、リ。ハ べたべたと足音をたててバスルームへ行った。あたしもそうだった ドライ・フを通るタクシーさえ見あたらない。 けれど、ひと晩に三度もトイレに行くなんて、ドングリぐらいの大 あ、見て。流れ星。願いごとをしなくちゃ。どうそ、ビル・レンきさの膀腔なんだわ。 が幸せでありますように。 トイレの水が流れる音がすると、ローエンが身動きし、もごもご 聞いて ! 時計塔。ローエンが眠っているというのに、あたしにとなにかつぶやき、寝返りをうって、また眠りこんだ。・ハスルーム は時計の音が聞こえるわ。二、 三、四、四時。確かに、あたしのカのドアがきしみ、アルが静かに帰ってきてローエンの傍にすべりこ は強くなってきている。足があることがわかる、ときどき、歩いてんだ。アルはすぐ横にはならず、片肘をついた姿勢で、ローエンの いる自分の足が見えるし、流れに浮かんでいるような感じが少なくお守りを、秘密の伽をしている。彼女がこんなふうに見守っている なってきた。あたしはア。ハートの中にもどり、眠っているローエン なんて、ローエンは夢にも知らないと思う。やがてアルは上掛けの の上をうろっく。ものほしげに。そしてまた、不思議に思いながら。下でローエンに寄りそって横になり、片手を彼の体にまわし、彼の こんなに歳月がたってから、あたしを起こしたのが、なぜローエ肌の上にやわらかく五指を伸ばした。 ンでなければならなかったのだろう ? はっきりしたことはなにも あんなふうにローエンの傍に横たわり、意志的に、苦もなく彼の わからないが、あたしはローエンと共に、ふたたびこの世に接する体に触れられたら。彼の肌に触れている手が、あたしの手だった ことができている。それが悪いことであっても、台本を書いたのはら。そうしたところで、あたしになにか失うものがある ? あたししゃない。風邪のばい菌は、おのれが知っている唯一の方法ふいにその考えがひらめき、あたしはどきりとした。そうしちゃ で、自分では理解できない場所で、生存していこうとする徴生物にいけないかしら ? ほかならず、生存していこうとする過程で、ほんの少しなにかを奪もしアルの体の中に入りこめたら、彼女の腕の中であたしの腕を っているだけなのだ。それがこのあたしであり、人間全体に言える伸ばし、手袋のようにすつぼりとおさまってしまえたら、ほんの一 3 ことだ。あたしは生きるに必要なものを手に入れるだろう。呼吸を瞬、本物の指でロー = ンの肌に触れられる。それならアルを傷つけ ることもないだろうし、あたしにはどうしてもそうする必要がある するために空気があるのなら、あたしにはできないなんて言わない
たしには必要なのよ。 飛行機の中では、少し考えをまとめてみる時間があった。ナタリ を見あげる タクシーからスーツケースを引きずり出してア・ハート ーはスターで、あたしがそうなりたいと望んだトツ。フの座にいる。 そのナタリーを見てみよう。彼女は女性としての部分をほとんど切と、うちのリビング・ルームには明かりがついていた。あたしはあ りとられ、野心ではなく必要のために、体にむち打「て働かなくてがっていった。ようし、ブザーを押さず、いきなり鍵を開けて、彼 にただいまと手をさし伸べてやる。 はならない。酷使され、利用されている。彼女を見ていると、サー あたしはそうした。 カスの足のない奇形の人間が、異様に発達した太い腕で、体を引き ずって進む姿を思いだした。ナッティの体の残りの部分は、哀れなそう、覚えている。荷物を置きながら、わが家のリビング・ルー つけ足しにすぎず、それは費用の高い婦人科医が治療をした個所なムの気持のいい、安全な空気を吸いこんだ、やすらぎの一瞬があっ 。・ツドルームから、かすかに人の動く音が聞こえてきた。 たのをへ のだ。あたしは思った。少なくともあたしは、うちに帰ればニック うん、ニックをびつくりさせてやったんだ。ニックがうたたねから がいる。空港から電話をしないでおくこと。驚かせてやろう。ふた りでコーヒーを飲み、冷肉とチーズの食事をして、愛しあい、夜のさめていたならば、あたしたちが顔を合わせるにも、もう少し時間 半分をおしゃべりに費そう。あたしには話しあうこと、あたしたちの余裕があっただろうに。 「あたしよ、べイビー」 自身を明確に見きわめることが必要だった。 べッドルームのドアまで行き、中の明かりのスイッチを手探りし 結婚しなさい、とナッティは言った。女優はやるだけ損だけど。 た。「ただいま」 それはあたしが十四年間追い求めてきた道とはちょっとちがうか もしれない。ナッティのエージ = ントに電話をかけ、仕事をつづけ明かりのスイッチは必要なかった。部屋の中は十分明かるく、く の上で、ふたりが凍りついたさまがはっ ていっても、 = 、ーヨークでの仕事を増やせば、 = ックといっしよしやくしやに乱れたべッド にいられる時間ができるし、ルコニーにすわって、ただ呼吸をしきり見てとれた。相手は年上で、少したるんでいた。その男はニッ クになにやらささやいた。あたしはばかのように突っ立ち、声をつ たり、読書をする時間もできるだろう。劇場以外で友人を作ること もできる。医者にかかり、本当はどれぐらい健康で丈夫かを調べてまらせて言った。「失礼」 そして、誰かに腹をなぐりつけられたかのように、よろめきなが もらい、もし、あかちゃんの部屋になんの異状もなければ、それな らばもしかすると ら・ハスルームへ行き、ドアを閉めてもたれかかった。 ナッティが言ったように、可能なうちに結婚して子供を生もう〈その男を追い出して、ニック ! 〉 か。小さな約東を、ニック、ささやかな明日を。あたしがこんなこ最後のことばをかみ殺し、あたしは便器におおいかぶさると、残 とを言うと板についてないように聞こえるかもしれないけれど、そされた生命ある二時間の分をも含め、恐ろしいその日一日を体の中 れは覚えたてのことばだからよ。そうしてちょうだい、 ニック、あから吐き出した。なかっき、すすり泣き、ドアの向こうのことばに
・レンは泣いていた。このせちがらい世の中で、あたしのために泣 「すまないわ、・ヒル」 いてくれた、ただひとりの人。寂しい牧羊大の目にあふれる苦しみ 「ハニー」ビルはため息をついた。「きみってひとは」 と、怒りと、失望。ビルを抱きしめ、いっしょにいてあげられるも あたしはなんとしてもビルの祝福が必要な気がして、心が揺れてのならーーーあ、待って、画面が変わっていく。あたしはアパートの いた。「お願いよ。あたしの幸運を祈ってくれない ? 」 中にいる。〈その男を追い出して、ニック : : : 〉 ビルはグラスをあげたが、目は伏せたままだった。「いいとも、 だめ、変化が早すぎる。それとも、あたしは意志的に変化させて ゲイ。ニックが相手なら、きみには幸運が必要になるだろうから」 いるのか。まだ心の痛みがひどすぎるために、思い出せないし、思 「どういう意味 ? 」 い出したくないのだ。そのくせ、子供のように手をさしのべ、つね に信頼できるただひとつのものがほしいと泣き叫んでいるのた。 「なんでもない、忘れてくれ」 ・ビレ 0 、え、あなたは意味のないことは言わないひとだわ」 「すまん、わたしはやさしくないんだ」 これは叫びではなく、音の記憶にすぎない。 ローエンがけげんな顔で、本から目をあげた。「アル、呼んだ 「あたしに幸運が必要になるって、どういう意味なの ? 」 ビルは飲みものを口に含み、一拍、間を置いた。「いいかね、ゲ イ、きみにも目があるはずだ」 返事はない。夜もふけ、アルは眠っている。 「他の女 ? そういうことね」 またローエンは例の耳をすますしぐさをして、空気と静寂を感じ 「他の誰か、だ」 とり、五感でその肌ざわりを識別しようとしている。サーチライト 「まあ、あなたったらーー」 のような探りかた。やがて、ローエンは本に目をもどしたが、本気 「ニックは両刀使いだよ」 で読もうとはしていない。 「うそよ ! 」 あたしの声が聞こえたのだ。あたしの声が。ローエンに手が届き 「役がつく助けになるなら、やつはライトのソケットにでもねじこそう。 むだろう」 遅かれ早かれ、あたしがここにいると、ローエンにわかるだろ ビルが他人にこれほど汚らわしい批評をくだしたのは、初めてのう。いちかばちか、やってみよう。なんとかして。あたしは生きな ことだった。あたしは怒りを感じると同時に、むかっ腹をたてて出くちゃならないのよ、べイビ ー。たとえ死んでいたって、あたしは ていきやすくしてくれたのを、ありがたく思った。 生きることしか知らないの。 「さようなら、ビル」 ビルは隠されていた一面をさらけだし、あたしを見あげた。ビル最低のことをしてしまった。ローエンとアルが愛しあっていると よ」 235
しを作ってきた長い年月と、苛酷な仕事のことを語った。東部に魚。その腹ペこの大きな魚は、もっと大きな魚に食われそうになっ ハニー。そしてあたしは、まん 。 ( ートリー劇団はひとつもなかったている。それがあたしたちなのよ、 は、仕事をしたことのないレ し、ロザリンドからジャンヌ・ダルクまで、大きな役で演ったこと中の大きな魚なの」 ナッティはアーミスをだましたが、同様にナッティ自身も他の誰 のないものはひとつもなかった。ナッティのように舞台を放棄する かに欺かれたのだ。映画の契約というのは、うまい餌でつろうとし なんて、本物のくずだ。こっそり帰ってくるとは、もっと悪い 、少し大きめの魚 「そのとおりだわね」ナッティは言った。彼女はあたしから目をそたインチキだった。。フロデ、ーサーは誰でもいい らさず、あたしが言いたいことを言うがままにさせておいてくれが必要で、ことばたくみにナッティにせまり、本命の女優が不安に た。すべてぶちまけた頃には、あたしは声をあげて泣いていた。ナなってペンを取るようにしむけたのだ。 「わたしはすっからかんよ、ゲイラ。税金未払いが四万ドル、家は ッティのクリネックスをつかむと、椅子に沈みこんだ。 二重抵当に入っているし、子供たちの授業料も未納なの。わたしに 「もう飲みたくなったでしよ」 残っているのは子供たちだけ。これからどうなるのかさつばりわか 「ええ、どういうわけか」 ナッティは決して卑劣な人間ではなかった。スターの慣例としらないけど、アーミスはわたしを必要としているし、わたしにはど て、あたしをやりこめることもできたのだが、なにも言わずに、強うしても仕事が必要なのよ」 なにも言えず、あたしがグラスの上にうなだれているあいだに、 いジンとソーダで飲み物を作ってくれた。飲み物を作っていたナッ ティの姿を思い出す。ぶあついメガネ、化粧っ気なしの素顔、筋ばナッティはメモ用紙になにか書きつけた。 った体。ナッティは絶え間なく子宮の病気に悩まされていた。感染「あなたは使い捨てになるには惜しい才能をもっている。一般受け につぐ、ひどい感染。仕事のスケジ「一ールは完治するを取らせてのしない才能をもっている。たぶん、一文無しで死んしゃうわね。 くれなかった。あげくのはてが子宮切除手術だった。ナッティの顔でも、今朝、あなたの舞台げいこを観たわ」 はあたしより細く、やわらかい線はどこにもなく、ロもとと頬はそ あたしは泣き顔のまま、驚いてナッティを見あげた。そのときの げたようにきつい。たとえそれがいつわらざるものであろうと、微彼女の微笑は、それほど固いものではなかった。 「わたしにあなたの半分でもうまく演れたらね、ゲイ。半分でも」 笑が花開くことはありえなかった。 ナッティはあたしの手にメモ用紙を押しつけた。「それ、ニュー あたしは思った。これがあたしの望んでいる姿なのだろうか ? 助けて、ニック。うちに連れていって。どこかにわが家が、ささやヨークのわたしのエージェントよ。ウィリアム・モリス・エージェ ンシイで働いているの。彼にあなたの仕事が取れないようなら、他 かな安息所があるはずよ。 9 「わたしたちがなにに似ているか、知ってる ? 」ナッティはしみじの誰にも取れやしないわ。彼にはわたしから電話しておきましょ 5 う」そして化粧台の上の時計を見て「時間だわ。走っていかなくち みと言った。「逃げまわっている小さな魚を追いかけている大きな
一 0 タットのニッケル貨が発行され、五〇タットや一〇〇タッ い取られつつある感じたった。タットはたしかに司政庁がはじめて トの紙幣が出ていた。それでも不便ということで、五〇〇タット紙 作り出したものであるが、今や、実質的にその手から離れようとし 3 幣を出すか、あたらしい貨幣単位を設けるかの議論がなされていたていたのである。 カその というのが、彼の知識であり、今度タトラデンに戻って来て のである。何しろ、かって一クレジットにあたったタット ; 、 ころには二〇〇タットでやっと一クレジットにあたるようになっても、その傾向はさらに強まっているようであった。 いたのだ。 だが、その後司政庁は、あたらしい高額紙幣も作らず、新貨幣単ここには、そのタット金貨、タット銀貨、さらにはデン貨が、大 位も設けなかった。従前通りの紙幣と硬貨を作り、出すだけであっ量に保管されていたのである。回収し、あるいは鋳造したものの外 た。そして、植民者たちの間では、通貨が実際に必要なだけ出廻っ へは出なかった、そうした硬貨が、何十もの金属箱に詰められて、 ていないのをカバーするために、名家とか州の責任で、証書を作り眠っているのだ。これらのうちの金貨・銀貨は、現在ではびつくり はじめていたのだ。その証書はやがて発行者の名をしるしたーーまするほどの高値を呼んでいるはずだった。 ぎれもない紙幣として流通していたのである。ただ、発行者の信用これだけのものを : : : さきの美術品でも信じられなかったのが : ・ : ・司政庁にはこれだけのストックがあったのか ? によって、それらのあるものは、必ずしも額面通りの値打ちを持っ てはいなかった。交換比率は毎日のように変り、その売買を行う取司政官や司政庁のかっての力は失われ、衰弱しつつあるとはい え、このタトラデンには、まだこれだけの蓄積があったのだ。 引所も各州に設立されていたのだ。 この金や美術品を、切り札に使えないだろうかーーと、彼は考え 司政庁がこうした有様を黙過していたのは、建前としては、いす はじめていた。 れ植民者たちだけの植民者社会になるのだから、かれら自身の通貨 ( 以下次号 ) はかれら自身に発行させるようになればよろしい ということだ ったようだ。・、 カ : : : 実際はもはや司政機構が通貨政策をとれるほど の力を失っており、あたらしい高額紙幣を出したり新貨幣単位を設 けたりしても、植民者たちが従順について来るかどうか、怪しかっ たからではあるまいか。タトラデンにいた時分の彼は、そう解釈し ていたし、その見方は今となっても、当っていたようである。なる ほどそうはいっても司政庁はまだ従来の紙幣や硬貨を作っていたか ら、無力になったとはいえないけれども : : : すでに、植民者たちの 需要をみたすだけの量は発行せず、植民者たち自身にその権限を奪
「そうじゃないわ」 「わたしの彼のいるところ」 「自殺する気だな」 「彼 ? 彼って、あなたと同じように制御体不感症の、刑事がそう 「まさか」少女は微笑する。「わたしはね、わたしの彼を捜しにゆ言っていた少年のこと ? 」 くの」 「そうよ」 「おまえは存在しないと言ったな」 「彼は自殺したんじゃないの ? 」 「ええ」 「彼が死んだのなら、わたしたちもそうだわ。死んだと思う ? 」 刑事はガンを構える。 「ううん。・ほくは、ここにいる」 「ならば消え失せろ。幻め ! 」 「わたしが望んだの。、あなたが必要なの。彼を は危険を察知した。新しい身体の翼を広げて少捜すのにあなたの助けがいるわ。下を見て。彼はあのどこかよ」 女を包み込むようにかばった。」 事がレーザ 1 を発射。ビームは天 e 4 9 8 9 << は瞳を下へ向けた。緑の大地がどこまでもつづ 使を抱いた少女の近くで曲がる。 いている。 「これは ? レーザービームが曲がるはずがない 空間が曲がっ 「もちろん、お役に立ちますよ」と 4 9 8 9 << は言った。 ている ? 」 「ぼくはあなたに望まれて生まれたのだもの」 刑事はめまいを感じる。床に膝をつ く。レーザーを乱射する。命「あなたを必要とするものが、たとえそれが一羽の孔雀だったとし 中しない。少女と天使の姿が奇妙に歪な。そして形を崩し、渦となても、いるかぎり、あなたが消減することはない。さあ、行きまし って少女と天使は消え去った。 よう。 4 9 8 」 は少女の身を支えて翼を広げた。彼の新しい身「マーターじゃないわ。わたしはあなたの母でも主人でもない」 体は自在に彼の意志に反応した・ 「どうして ? 」 世界が渦を巻いて漏斗状に落ちこんでゆくのがわかった。ガンを「だって」と少女は五芒星形の瞳を天使の形をした TR4989D 握りしめて床にうずくまる刑事が、げろりと渦に飲み込まれて消えに向けて言う。「わたしはママには若すきる。まだそんな年じゃ ていった。病院が、街が、森が、そして浮遊制御体が、空が、地球・ないわよ」 が、宇宙が、大渦に吸い込まれていった。 は小さな身体で少女を支えて未知の大空を滑空 「ここはどこなの ? 」は声を出した。「どこ ? 」 3 5
姉はついでやったスコッチにほとんど口をつけなかった。「チャるうちに、三十歳になっていた。ビル、あなたは今どこにいるの ? ーリーはビール以外のものはお呼びじゃないから」あたしはおいしもうそろそろ五十歳ね。あたしのような女をみつけた ? それと 4 い食事に姉をつれていってやりたかったが、姉はだめだと言った。 も、まったく反対のタイプの女かしら ? あなたを責める気はなか 留守番の子守りを頼んできたし、その費用が高いうえ、チャーリー ったのよ。 がポーリングに行っているとき、姉の帰りが遅くなると彼にどならそれから、あんたはどう、ニック ? れるから、と。 〈半年もすれば、やっとはうまくいかなくなり、きみは邪魔者あっ 「あんな雄牛には吠えさせときゃいいわ。姉さんにだって、ときに かいされることになるよ〉 はのんびりする権利があるのよ」 ビルがそう言ったとき、あたしはこう思ったのを覚えてるわ。く 「まあ、あんた、ほんとにロが悪くなったわね、ゲイル」 やしいけど、ビルの言うとおりだ。あたしは三十二だし、すぐに三 「ついでに訊くけど、チャーリーは相変わらず、家庭のことを顧み十三になる。十四年間のキャリアと、銀行には七ドルの金、そし ないの ? 姉さんが歯医者にかからなきゃならないって、チャーリ て、あたしの居場所はどこ ? ーにはわからないの ? 」 でも、あたしはニックの肉体にしがみつき、彼を喜ばそうとっと 「どうしてこうなったか、知ってるだろ。子供が産まれると、あんめていた。そこには愛とかセックスとかいうものとはまったく別 たもこんな歯になるよ」 の、ことばでは言い表わせないものがあったのだろう。自分で自分 あたしは歯の治療代にと百ドル、姉に渡した。姉は手紙で、そのがきらいだという状態には、意外なほど早く慣れるものだ。自分が 金を家計と子供のために使ったと言ってよこした。〈ガス代とクリ偽物だということは、、 しつか、他人にもそれがわかる。ダイエット スマスがあったせいです。電話の向こうに誰も出ないからといっして整えた肢体と、衣服につつまれた肉体の奥に隠れている本来の て、文句も言えませんしね。 。あたしの友達があんたがテレあたしは、なにがあろうとも、本質は変わっていないことを知って ビに出る日を知りたがっています〉 いる。もとの太った娘はあたしを好きになりたくないのだ。太った あなた、まだ生きているの、姉さん ? それはどうでもいいわ娘に、あたしを好きになってくれる人を、どうして許容できるだろ - ね。あなたは何年も前に埋葬されたんだもの。あたしには誰にもそう ? できるわけがない。太った娘は彼女をいつまでも卑屈な立場 んなこと、させるものか。 に置いておく者を、必ずかぎつけるはずだ。 そしてふと気づくと、あたしは三十歳になっていた。大きな、恐罪と狂気。ビルを傷つけるのは明確にひとつの罪だったが、あた ろしい数。けんめいに働き、自分がどこにいるか知らずに走りつづしは自分に必要なものがわかっていた。それはビルではなく、ニッ け、ときどき ( 最高の、印象的なアングルでライトに照らされてい クであり、だからこそいっしょにこのア。 ( ートに越してきたのだ。 るときに ) 、この先、自分はいったいどうなるのだろうと思ってい ローエンがいないときには、あたしの意識はこんなふうにさまよ
るのは必至だからだ。従って、こうした芸術家たちの作品は、結果かに、あたらしい展示用のを第一、古いのを第二と呼ぶようにした : それだけに、 という話であった。 として寄贈されることになったに違いないのだが : そのふたつの記念館を廻っただけで、彼はかなりぐったりと疲れ 司政官の力が弱まるにつれて、そんな例は減少したのだろう。 そうなのか。 ・ : そのぶんたけ興奮しているのも自覚していた。これたけの作品 を目にすれば、それも当然である。しかもこれらが鑑賞の対象との 司政庁には、こんなものがあったのか。 いくらカが衰えたといっ そして司政庁では、こうした作品を保管し展示するだけで、外部観点を外れて、市場価値を想起すると : にはそんなもののあることを知らせなかったのだ。あるいは植民者ても、司政官や司政庁の蓄積は、おそるべきものだ、という気がし の中にはこれらを見たことのある者がいたかもわからないが : : : 一て来るのであった。 、刀 般には伝わらないままに、こうして眠っているのである。これらの イ品がタトラデンの市中に出たら、大騒ぎになり莫大な値がつくの驚きは、それだけでは済まなかったのである。 は間違いない。彼にはその様子が想像出来るような気がした。 ふたつの記念館のあと、は彼を保管棟へ案内した。 しかも。 薄暗いその建物に足を踏み入れた彼は、背丈ほどある頑丈な金属 第一記念館から第二記念館へ廻って、彼は仰天せざるを得なかっ製の箱が何十も並んでいるのを見た。 た。第二記念館では展示はされす、見ようとすれば見られるけれど 02 があかりをつけ、それらの箱に留められた。フレートを指 も、パネルや棚にしまい込まれ、ぎっしりと美術品が保管されて いしたとき、彼は、唸り声を抑え切れなかった。 たのである。第一記念館に展示されていたのは、コレクションのほ それは : : : 貨幣だったのである。 正確には、昔の貨幣というべきかもわからない。 んの一部だったので : : : の説明によれば、展示は適宜入れ 換えているが、別にちゃんとした基準はなく、ただ順番にそうして彼が昔学んだところでは、タトラデンに植民が行われるようにな いるだけで、司政官にお好みがあれば、その作品はずっと展示しまったその時点で、司政庁は貨幣を発行した。連邦の通貨であるクレ す、というのであった。 ジットに準じて、一クレジットにあたる一タットの金貨を鋳造し、 もっとも : : : 第二記念館にあるのは美術品ばかりでなく、工業製支払いにあてたのである。その補助単位として、デンというものが 品の見本とか、書物などもあった。記念館とは要するに、植民者た設けられた。一タットは一〇〇デンである。このタットとデンとい ちから寄贈されたものを保存し、必要があれば見られるようにしてう称呼も、実のところは司政島を流れるふたつの河をタトラ河とト ある、そのための建物なのである。だからふたつの記念館なるものラデン河としたように、タトラデンからとった安易な命名であっ は、現在の第二記念館がはじめに出来、のちにある担当司政官が、 かなり高額なので、タトラデ 展示のための建物を作らせて、新記念館としたのを : : : また何代後一クレジットにあたる一タットは、 0 、 0 8 2