「わたしが心配しているのはそのことです、先生。わたしには : ればならないのですよ。それが自然なのです。患者を自然に死なせ わたしが、メアリーのより安らかな死のために力になれるとは思え 7 てやるのがわれわれのっとめです」 ません」 「でも、病魔に冒されるのは自然なことじゃないでしよう ? 」 「では、誰かが、あなた以上に力になれるとお思いですか ? 」 「ラヴランドさん、わたしたちはまだその問いに答えられないでい るのです。人が個体のレベルで生きる上では、病気にかかることは「いや : : : 」 確かに正常なことではない。しかし、生命は個体のレベルだけでは「さっきも申し上げたように、今あなたには彼女を見舞う義務はな 。しかし、あなた自身も彼女に別れを告げる必要がおありなのじ ない。素粒子の世界から、宇宙全体までを見渡したとき、はたして これやないですか ? 」 ひとりの人間に巣食った癌細胞のあり様が異常かどうかは 「その通りです。たぶん : : : その通りです」 は神しか答えることができない」 「しかし、それは医学のテーマではない : 「まだ考えることがありますか ? 」 「その通りなんです。われわれは常に人の生死に関わるところで仕「先生、実はわたしとメアリーの間には、子供がひとりいるんで 事をしている。医者は過度に哲学的になることを厳に戒められていす」 るのです」 「お子さん ? 今どちらに ? 」 ・ : 死を受容できないまま死を迎えてしま「 : : : それが、わからんのです」 「患者が、その、つまり : 「え ? 」 ったら、一体どうなるんですか ? 」 「厳密に言えばその質問も医学のテーマではない。われわれは、ま「わたしがメアリーとのことでゴタゴタして、自暴自棄になってい たころ、ふいと出ていってしまったんです」 だ宗教的な言葉でしかその状態を表現できないようです」 いや、ラヴランドさん、ちょっと待ってくださ 「なんですって : ・ 「天に召されないということですね」 ・ラヴランド ? ・・・・ : エド・ラヴランドー・ーーエドワード・ラヴラ 「表現はいろいろあるようです。つまり、物や人に対するさまざまい : な思いが、そこに残ってしまうのです」 「ご存じですか、息子を ? 」 「先生、その : : : メアリーは、今どの段階にいるとお考えですか 「いくつだとおっしゃいましたかな ? 」 「出ていった当時が五つ、生きていれば今は七つですね」 「明白な否認の段階ですね。彼女の場合、よほど納得できぬもの 「思い出したそ ! ジャック・ラヴランド ! 二三〇の超天才 や、断ち切れぬ執着があるようです」 「そういうふうにマスコミに取り上げられたこともありましたね」 「先ほど事情の一端をうかがいましたが : : : 」
「悪液質を発していて、顔も変わっている筈です。結婚されていた「先生 : : : 少しだけ、時間をください」 ころの面影はありますまい。冷静でいられますか、ということで「いいでしよう。しかし、今あなたは、われわれの時間ではなく 6 て、メアリーさんの時間を使っているんだということをよく考えて くたさい」 「苦しんでいますか、彼女は ? 」 「どうしてこんなことになったのだろう ? 」 「苦しいと思いますよ。ペイン・クリニックを始めてはいますがー 「病気はいつだってなる可能性のあるものです」 「そうではなく : ・ : な。せ彼女は・症でなく、癌などになったの 「誰かを必要としているでしようか、彼女は ? 」 でしよう ? 」 「わたしはそう思いますよ、ラヴランドさん」 「わたしに : : : その資格があると思いますか ? 彼女を苦しめたわ「ラヴランドさん。お気持ちはわかりますが、それはしてはならな い質問です。われわれの状況はまだ死の形を選べるほどの買い手市 たしに ? 」 「ラヴランドさん、あなたは生の苦しみと死の苦しみを一緒になさ場じゃないのですよ。五〇億の人間がいれば、五〇億の死の需要が るのですか ? 人は苦しみなしに生きることはできません。それはあるのです。しかも、その配給は神に委ねられています」 生の証しなのです。しかし、死の苦しみは、そうした生の努力を無「癌は治せないのですか ? 」 にするものです。それはなんとしても取りのそかねばなりません。 「今の医学をもってすれば、病巣の転移がないか、あっても一、二 わたしが、どうして今はあの人にとって赤の他人のあなたに病状をか所ならば完治させることができます。もちろん臓器はほとんど人 教えたと思います ? 」 工物の助けを借りることになりますが : : : 」 「ああ : : : メアリ】」 「メアリーの状態は、もうそんな段階ではないと 「あの人の : : : 奥さんの手を取って、そう言ってあげなさい」 「ご存じのように、癌の主犯は患者自身の遺伝子です。からたの中 「こんなことなら、来るのではなかった」 で癌細胞の方が支配的になってしまった患者の場合、″助ける″と いうのはどういう意味を持ちますか ? 個体を救おうとすればする 「何を言ってるんです。一体、今苦しんでいるのは誰か、考えてご ほど、それは癌細胞群を救うことになります。癌細胞を特定的に殺 らんなさい」 す方法もありますが、そうするとからたの大半を失うことになりま 「会わなくたってかまわない。それはあなたの義務ではない。しかす」 し、あの人に会わすに、あなたはこれからの人生をどう生きるつも「 : ・ りです ? そんなことが考えられますか ? 一生を後悔で埋めつく「お考えになってください。あの人はいまや身よりのない哀れな身 の上なのです」 すような人生が ? 」
: ・それにしても、司政の理念とか、司政官の職務とか、新司政官の訊いた。「あなたは結婚してらっしゃいますか ? 」 方針といった、いわば公的な事項を飛び越えて、質問がここからは「い じまったのは : : : 軽い意外感と共に、やはりそうかという気分にも「そのご予定は ? 」 「今のところ、ありません」 なったのである。 「ーーーそれだけです。どうも、有難うございました」 「キタ司政官、と、呼ばせていただいていいですか ? 」 東海岸通信のコートレオという女はたずね、彼が微笑含みで頷く コートレオは、着席した。 のを待って、言葉をつづけた。「キタ司政官、あなたは、一度タト 彼は、彼女の今のいかにも若い女らしい質問が、みんなの気持ち ラデンをお出になって、またここに還って来られたわけですが : をやわらげているのを感じ取った。 還って来たタトラデンの印象はいかがですか ? 」 、刀 次に手を挙げたのは、うしろのほうの席にいた、彼より数歳上に 「なっかしいですね」 彼は、無難な答えかたをした。 ・、ー・ハックス 「あなたが前におられた頃と今とでは、タトラデンもだいぶ違って アメリカンムービー : グランデ 6 階 による いると思います」 くるまの本フェア : : グランデ 5 階 コートレオはいう。「以前にくらべて今はどうですか ? あなた 囲碁・将棋図書まつり : グランデ 1 階 の目から見て、良くなっていますか ? それとも悪くなっています ・ⅱ月 1 日火 5 ⅱ月日水・ ー読むだけが文庫ではないー 1 月 5 日仕 .5 ⅱ月刀日 . 旧 その問いは、うかつに答えれば厄介な問題を惹起しかねない性質 ビジュアル文庫の世界ブックマート 1 階 のものであった。彼はもっとも安全な返事を選ぶことにした。 学 「さあ : : : 私はまだ着任して日が浅いので、現在のタトラデンにつ 、趣演ア店一 や ( プ築化職会庫童 いて、これというまとまった考えを持っところまでは至っておりま せん」 学機生経教詩家 「タトラデンには、これから長くお住みになりますか ? 」 誕 . ンック噺 0 、グ 2 田 3 典気衛学術 角ボ、 ) 、芸庫誌心 「私の任期は、私自身にはどうにも出来ませんが、私個人として 泉、 ~ 0 攻文中泉」辞電医哲文引 は、能う限り長くここに居たいと考えております」 田町皆皆皆階階階階 門書 千物 6 5 4 3 21 地 圭日 1 専 「あとひとっ」 コートレオは、指を突き出し、少し面白そうな目つきになって、 ・、 0 0 7 4
。その方の御仕事をご存じでしたかな ? 」 「ほう : 前方にうっすらと山の形が見える。 「知っています」 ラヴランドは車をゆっくりと道の端に寄せ、エンジンを切った。 車の外に立ち、ドアによりかかって、眼前の山の影をにらみながら「お教えいただけませんか ? 」 「その : : : 連合軍の、ハンターでした」 タ・ハコに火をつける。 道から十メートルほど離れたところに犬が死んでいた。四肢をき「 : ・ 「つまり、出撃して、帰還していないのです」 ちんと折り曲げ、静かに、全然苦しんだ様子もなく横たわってい 。そうでしたか」 た。最初は眠っているのかと思ったほどだ。ラヴランドは、そのあ「なるほど : いや、メアリーは : : : つまり : : : 」 まりの安らかな死顔を見て、病院では死にたくないと言った男のこ「先生、家内は : : ということですか ? 」 とを思い出した。 「・症なのかどうか : 「ええ : : : そうです」 犬の死骸のあたりには、わずかに低い草が生え、それが生き物た ったものの影をやわらかく・ほかしていた。ラヴランドは、土に横た「今そのことをうかがったので、念のために検査をしてみますが : みたて ・ : わたしの診断では、九九。 ( 】セントその可能性はありません」 わるものが何であれ、花をたむけるよりもずっとふさわしい姿のよ 「はあ、そうですか」 うに思えた。 「一緒にお暮らしになっていたころから、気づきませんでしたか 彼はタ・ハコを吸い終わると、それをほぐして葉の部分を土にまい ルターと紙の部分は手で握りつぶして、運転席の灰皿に放 ? 」 った。そしてエンジンをかける。ガソリン残量を示す針が中央付近「 : ・ 「あるいは、最近でもお会いになることがあれば、お気づきになら にとまったのを見てから、彼はゆっくりとクラッチをつないた。 れたと思うが・ : : ・」 「あの方は癌です。しかもかなり病状の進行した : : : 」 「なんですって ? 」 「どうやら胖臓が原病巣らしいのですが、全身に転移しています。 はっきり申し上げて、びと月もちますまい」 「お会いになる気がありますか ? 」 「失礼ですが、今はあの方の御主人ではありませんね ? 」 。三年前に離婚しています」 「すると・ーー今は、おふたりともお独身 ? 」 「いや、家内の方は : : : メアリーの方は再婚しています」 「そちらの御主人は ? 」 「行方不明と聞いています」 ひとり 5
りするのか ? わたしたちは、その患者の怒りを正当に表現する助 けになるべきです」 「そうかもしれん」 「メアリーさんが、もし本当にあなたに怒りをぶつけられたのな 「けがはしてないか ? 」 ら、あなたはそれで十分役に立っているのですわ」 ラヴランドは斜面にへばりつきながら、ジャックに声をかけた。 「これから彼女はどうなるのだろう ? 」 「オーライ。今そっちへ行くよ」 「それはむずかしい質問です。しかし、そんなことを問うより、彼「ここは不安定た。おれが動こう」 女が安らかに眠れることを祈りたいではありませんか」 ラヴランドは、両手両足を少しずっ引きずりながら、斜め下方へ : 。ぼくはあまり祈りたくないのだ」 「わからない : 降りていった。自分たちは今、巨大なアリ地獄の斜面にいるんしゃ 「早く死ぬことを祈るのではありません。患者が最後の生を楽に生ないかという疑念はなかなか捨てられなかった。 きることを祈るのです。わたしたちは、死にゆく人を、家族や親近 ジャックの声がすぐ近くになった。 0 、 0 、、 者が残酷に引きとどめているのをときどき目にします。他の段階の ライターを持っている ? 」 患者はともかく、死を″受容〃した患者の扱いには慎重を期すべき「え、ああ、ポケットに入っている」 「・ほくの方は火の消えた松明を持っているんだ。火をつけるよ」 「メアリーは、まだ受容していないね」 それはまさに幸運と言うべきであった。明かりがなければ、彼ら 「その通りです。しかし、患者には死の予感を持っことがままあっは絶望を抱えたまま一生を終えていたかもしれない。松明をつけて て、それを表現したがります。しかしまた、それが罪悪感や何かへみると、斜面の終わりはすぐ目の前だったのだ。 の執着のせいで、まったく逆の表現になることもあるのです」 目の前には複雑にというより手当たり次第に掘り抜かれた穴が無 「ーーちょっと訓きたいんだが : : : 」 数にあいた壁があった。 「ここから地質が違うな。時代も違うようだ。断層が隆起したかど 「今、彼女の息子を連れてくるというのは適当でないだろうか うかしたんだろうな」 長いこと行方不明だった」 ラヴランドは岩の表面をなぜてみながら言った。 「居場所がおわかりですの ? 」 突如、ジャックが横の方で大声を上げる。 「これから捜しに行くんだ」 「どうした」 いことたと思いますわ」 「見てごらんよ、 「そうだろうね」 彼の手の松明に照らされた壁面には、白っぽい棒のようなもの 4 8
いえ、七つの子供が世界中を放浪するというのは、単に家を出たい 「立ち入った質問で恐縮ですが、それは奥さんとのことと関係があ からたけではないという気がするのですが : : : 」 るんですか ? 」 「動機が直接あるとすれば、恥ずかしい話ですが、今言ったような 「どうでしようね ? 一因ではあると思います。あのころ妻は メアリーは、いつもイライラしていて、わたしともよく喧嘩をしま家庭内のゴタゴタでしよう。あの子は二、三歳のうちから、大人た した。ジャックのことを含めて。彼女の神経を不安定にする要素はちの会話を正確に解した。そして、わたしたちよりもデリケートに 多かったと思います。ーーー昔から、気の弱い娘でしたから : : : 」 言葉を操っていました。おそらく彼は、わたしとメアリーとの無神 というのは、つまり家出ですか ? 」 経ないさかいに、ひとり傷ついていたのではないでしようか。 「家を出た そして、おっしやるように、彼には今、目的があるのたと思いま 「ええ、わたしが勤めから帰ってくると、書き置きが残っていて : 「それがおわかりですか ? 」 「それから二年も行方不明 ? 」 「半年間くらいわたしは半狂乱になって捜しましたよ。しかし、無「ジャックは、テレビの番組などでよく高等数学の計算などをさせ 駄でした。そして、七か月目ぐらいに、手紙が一通届いたんです」られましたが、ああいうことは本来あの子の好きなことじゃなかっ た。あの子が一番目を輝かせたのは、ある日わたしが持ち帰った雑 「息子さんから ? 」 誌に掲載されたストーン・ヘンジの写真、そして買い与えたマヤや 「ええ、しかもサンチアゴの消印があったんです」 アステカの写真集です。ジャックはその後すっと考古学に興味を持 「サンチアゴ ? 」 「わたしはすぐにチリに飛びました。しかし、もうなんの手がかりち、こづかいを貯めてよく本を買っていたようです。今もきっと、 も残っていなかった。息子が泊ったらしい安宿には、サインもして世界各地の遺跡を求め、ひとり歩き続けているのでしよう」 なかった。おそらく別の名前を使ったのでしよう」 「なるほど。それで、あなたは、ジャック君が何年も帰らない 「で、それつきりですか ? 」 そのことをメアリーさんに告げたくないわけですな」 「半年に一度ほど手紙が来ます。しかし、手紙はたまたま都会に出「メアリーは : : : もちろんジャックの失踪を知っています。彼女は たときに書くようで、どこに住んでいるのか見当もっきません。お母親ですから。しかし、そのことをもう一度話したくはありませ そらく定住せずに、あちこちを放浪しているのでしよう。最後の手ん。死の床にいる彼女に、そんなことを話したくはないのです。し 紙は中国からでした」 かし、彼女は聞かずにはいられないでしよう。自分の、たったひと わたしは、どうすればよいのですか ? 」 「家出の動機のようなものがわかりますか ? 」 りの息子なのですよ。 「お話しになりたくないのはよくわかります。ただ、天才少年とは 7
がね。子供のやることよ」 リタのささやき声の返事は、九学年の女王の音楽的な笑いを長々 と引き出した。私が思わずチャ 1 ルズワースの顔を見ると、彼は を真赤にしていた。 私はくるりと振り向いて、笑っている少女を見た。「おい」私は せきこんでいった。「ここにきて、文句をいってくれと頼んだ覚え はないぞ。邪魔だ。トンネルを抜けて帰れ」 彼女はチャールズワースや私と同い年だったが、男子に、なんと なく年下で、子供っぽいと思わせるようなところがあった。彼女は 自ら満ち足りていて、男生徒の賞賛や友情は必要ないように見え た。彼女の前では私たちは半人前で、場違いな者のように感じさせ られた。私も今はもっと世間のことを知っている。大人の観点から 振り返ると、アンネット・ラルージュは我々のだれよりも元気づけ を必要としていたのだと、今は分かる。しかし、当時は、彼女は一 人前の若い女であるのに、チャールズワースと私は子供のように思 われたのだった。 彼女は私の激しい言葉を無視する振りをして、迎合的なリタに話 し掛けた。「マナーを習わなくちゃならない人がいるけど」彼女は っ 小さなハンドバッグを開けて、小さな鏡で顔を調べながら、 た。「でも、女の子をぶつような臆病者じゃ、どうにもならないわ 私は彼女の自己満足をぶち壊してやりたい強烈な欲望を感じて、 そちらに詰め寄っていった。だが、どうすればそれができるか分か らなかった。それで、彼女の冷静な口振りに合せて、筋の通ったア 。フローチを試みた。「お前を殴り倒したからといって、俺が臆病だ 9 ということにはならないそ。もし俺がお前に殴り倒されて、それか
すの ? 」 「まあ、本当にすみません」わたしは自分のショッビング・カート の把手を握りしめた。「わたしーーわたしったら何かを突然思いだ話の内容をのみこむまでにちょっと間があいた。それからドクタ ・ハーストウはゆっくり言った。「わたしの先祖がここへきたの して、自分がどこにいるか忘れてしまって」わたしは支配人の心配 は世紀の変わりめの前ですよ」 こほほえんだ。「大丈夫、ありがとう、ごめんなさいね、 そうな顔冫 ご迷惑かけて」 「先祖の方たちはどうやっ下ーー何をしてらしたんでしよう ? 生 「いいんですよ」支配人はわたしの徴笑にいくぶんためらいがちに活をするためにという意味ですけれど ? と言うのは、わたしまた 見ているんです、ちょうど今。一軒の店の上に大きな看板が出てい 応じた。「本当に ストウ・アンド・ サンズ雑貨店〉っ 「ええ、大丈夫ーわたしはあわてて言った。「どうもご親切に」きるんです、〈ジャズ・・ びきびとそこを離れると、わたしは・ ( ーゲン中の。ヒザ・ミックスをて。だからもしジャズがジ = イムズのことなら、つまり、先生のー ー」わたしは汗ばんだ額をティシ = ーで拭いて、その汚れに顔をし さがしにかかた ・ハーストウが息づかいしか聞こえなかった沈黙 実を拾いあげる小さな棒と、クロームのびかびかしたカートをひかめた。ドクター きくらべながら、そびえたっ食品の森のあいだの通路を足早に行っを破った。 たりきたりしていると、心のなかで歌声がこだました 「それはわたしの曽祖父だ。その名に該当する先祖といったら彼で ・ハーストウの声がせ すよ。その店がまだ見えますか ? 」ドクター ″ふん、ふん きこんだ。 今が食べごろ あとが食べごろ 「ええ」わたしは電話の送話口に神経を集中して言った。「なかへ ありがたや ! ありがたや ! はいってその雑貨店のすみずみまで見たいと思っているんですけ ど、そこまではできそうにありませんわーーーまだ。わたしが知りた 数日後、わたしはサービスステーション・コーナーにある金魚鉢かったのは、お店がいつのものかってことなんですー ーストウのオフィス 少ししてから彼はたずねた。「歩道の上に店からポーチがはりだ みたいな電話ポックスの一つで、ドクター していますか ? 」 の電話が鳴る低い音に耳を傾けていた。ようやく秘書のミス・キー スがきびきびと応対して、そのあとまばたきもしないうちにドクタ わたしは電話のダイヤルを入念に眺めた。「ええ、皮をはいだマ ーストウが電話に出た。 ツのポーチの支柱が」ーーーわたしはロをなめたーーー「屋根を支えて 「今、ダウンタウンにいるんです」名前を名のってから、わたしは います」 ーストウ 4 せつかちに言った。「先生がお忙しいのはわかっていますわ、でも「それじゃそれは一八九七年以降のものだ」ドクター 先生のーーーご家族はどのくらい前からトウ 1 ソンにいらっしゃいまは言った。「それは一族お気に入りの″昔話〃の一つだったんです
てくださらなかったの ? もう二度と、こんなことなさらないでち「あなたがあの写真を破いたんですって ? あなたって人はーー」 ようだい ! 」 おれはもうドアの外にいた。もちろん、感謝してもらおうなんて 彼女が戻って来た。美しい顔が輝いている。「あのひどいケビン思っていない。だからといって、殺されるのもご免だ。おれはエレ が何をしたか、わかる ? あのひと、今まで三週間近くも腎臓結石ペーターが来るのを待たずに、常識的に可能なかぎり足早やに階段 で苦しんでたんですってーーーお医者さまに診てもらったり、いろい をかけおりた。長く尾を引く口ージーの泣き声がドアを貫通し、た ろと : 。しつこくて、ひどい痛みでね、手術を受けなければならつぶり踊り場二つ分を走りぬける間、おれの耳を追いかけてきやが ないかな、とも思ったんですって。それなのにあのひとったら、あった。 こと たしが余計な心配をするといけないからって、ひと言も話してくれわが家にたどり着くなり、おれは写真の残骸を焼いた。 なかったのよ。本当にバカなんだから ! しよっちゅうしかめつつ それ以来、ロージーとは会っていない。噂を耳にしたかぎりで らばかりしていたのも当然だわ。そんなしかめつつらを見せられては、このところケビンはずっと快活で優しい夫になりきっており、 るほうが、本当のことを知るよりも、あたしにとっては辛いんだ : 二人とも幸せにくつつき合っている : : : とのことだ。だが、おれが : ってことが、あのひとには全然わかっていなかったのよ。本当ロージー自身から受け取った手紙ーー、とりとめのないことが小さな に、まったく ! 男には面倒をみる女が絶対に必要なのよ」 によると、 字でびっしり七ページにわたって書いてある手紙だ 「でも今のあんたは、なぜそんな幸せそうな顔をしているのかねケビンが不機嫌だったのはあくまでも腎臓結石のせいであり、この なお 病気にかかったのと治ったタイミングがあの写真の出所進退の時期 と合ったのは、単なる偶然にすぎない : : というのが、彼女の意見 「だって、あのひとの結石が独りでに出て来ちゃったんですもの。 のようだ。 ほんの少し前に、出て来たんですって。それで、あのひと、イの一 ロージーは、おれの生命と、おれの身体の或る部分に対して、ど 番にこのあたしに電話して来たのよーー・ー・本当に思いやり深い人だ わ、あのひと : : : それにタイミングもよかったわ。今のあのひとのちらかというと無分別で、かなり一時の激昻にかられた脅迫的言辞 声、とっても機嫌よくって、陽気なの。完全に元どおりのケビンにを書きつらねて来たけど、おれは誓ってもいいぜ・ーーあれは絶対に 彼女の本心じゃないし、ましてや本気であんなことを実行するつも 戻ったみたい。まったくその写真どおりのーーー」 りじゃよ、。 次の瞬間、半ば悲鳴に近い声でわめいた。「あの写真、どこ ! 」 もひとつ、おれの勘じゃ、あの娘はもう絶対におれにはキスして さっと立ち上がり、帰り仕度をしたおれは、むしろさつばりした くれそうもないな。こいつだけは、どういうわけか、ちょっぴり淋 気分でドアの方へ歩きながら、言ってやった。 しい気がするんだがね。 「写真はおれが破いた。だからこそ、あんたのたんなの腎臓結石が なおったんだよ。さもなかったら・・ー・・・こ 6
いるチャールズワースが、猫もどきにぐいと引っ張られた。 に気にくわない女だ。十五歳の私にとって、クラシックな姿はどう 見ても魅力的とはいえなか 0 た。むしろ、ば 0 ちやりした頬、豊満「でも、もちろん、ウインストン・スミスが出会った誇張された問 題は、オーウエルの生きていた時代の恐怖から生じたものなのよ」 な唇、輝く目、大きい乳首の方が好ましかった。 たぶん彼女のいう通りだろう。しかし、だからどうだというのだ そして、大人になった今でも、私の好みは少しも変わっていな 。ということは、私は十五歳でもう十分に成熟していたというこ ? ロケットが深紅の尻尾を下にしておまえの真上に降りてくる夏 の午後に、だからどうだというのだ ? とになるのかもしれない。 「ああ、やつばりそうだ」チャールズワースは空を見上げて、つぶ チャールズワースは真面目くさった鼠みたいな顔を注意深くアン ネットのほうに向けて、学年の指定図書であるオーウエルの『一九ゃいた。 そして、高い、鋭い、美しいものが、襲いかかる鷹のように強い 八四年』について、さも夢中になっているような態度で喋っていた が、その一方で、貧弱な手首に細い筋を浮き出させて、気難しい猫鉤爪を下げて、大地を震わす強力な轟音を上げて、銀色にきらきら もどきを必死にコントロールしていたので、あまりさまにならなか光りながら降りてくるのが、今では煙と炎を透かしてはっきりと見 えた。 いつもの単純で素晴らしい空私はそれを愛情をもって見つめた。チャールズワースも見つめた。 そのわざとらしい情景も、ついに、 あんたに話しているのよ ! 」 からの轟音によって妨げられた。見上げると小さな雲が見えた。そ「ロージャー して、目の隅に、チャールズワースもそれを見つめているのが見彼女にはもっと話す事があるのは疑いなかった。しかし、今では え、一瞬、昔の時代が戻ってきたように思われた。あの年齢では、 轟音は強烈で、アンネットさえも顔をしかめて上を向いて、見つめ 人生はとても充実しているので、先月の出来事にも郷愁を感じるのていた。その銀色の巨人は次第に長さを増し、速度を緩めながら排 である。 気ビットに向かって降下してきた。そのカー・フした胴体がはっきり しかし、アンネットはまだ断固として喋っていた。 と見えてきた。斜めのマークがあり、その下に『へザリントン・オ ーガニゼーション』の文字があった。 チャールズワースは状況判断を誤り、鋭い目付きと、聴覚の状態 そして、その下に黒くはっきりと、四の数字。 についての詰問を受け取った。 耳をろうせんばかりの轟音の中に、チャールズワースの歓喜の叫 今や小さい黒い点が見え、この明るい夏の日中にもかかわらず、 び声が聞こえたので、私は振り返って彼を見た。彼の表情を言葉で 小さな火花さえも見ることができた。 アンネットはペちゃくちゃ喋り続け、チャールズワースは懸命に表現することはできないが、私はあれを決して忘れないだろう。あ の暑い七月の午後に、私は寒気を感じたと思う。黒いくつきりした 興味を掻き立てて、返事をした。 徴風が煙を彗星の尻尾のように空に吹き流した。引き綱を握って数字に、チャールズワースと同じ感情を持つ者はほかにいないだろ っこ 0