ュ 「死の賛歌」 ( 賛美歌百番 ) 」 ( 『ありえざるもの安定をめざさず常に新たなる何かをめざ 作品群となってあらわれているみたいな気が 星』『爆発星雲の伝説』 ) せ ! ということになるーーーのかな ? する。 いったいこれは何の書評かというと、『解 ただ、すなおじゃないのね。読者に手の内「三つの謎の物語のための略図」 ( 『窮極の 放されたフランケンシュタイン』というのは を読まれちゃいかんと考えているところがあ』 ) る。「芸術がいかに困難なものであるかとい さっきの引用もこの三番目の作品の中にあそういう作家のそういう方法論的意識が反映 うこと。それがひとつの形式に堕したとき、 った文章なのだけど、この短篇のあとがきでされてそれがかなりの成功を治めた本ではな いかーーーという結論にもっていこうとしてい 芸術は死んでしまうということ。あるいは芸相当含みのあるの定義をやっている。 フィクシ第ン サイエ / ス 術は困難なものでなければならず、一般受け「は小説の個別性と科学の普遍性とがるのだけど、いかがだろう。 いつものオールディスとちがって気分が沈 するものであってはならないのかもしれない 出会う永遠の一騎打ちの場である」 ということ。いかに宇宙は不可解であり、 一見、わりと平凡なようなのだけど、さきみ込まないところがよかった。シニシズムが ラドックスと、予測しえぬ副作用に満ちみちほどの引用とつないでみると実にシビアな漂わないのは、メロメロ少年の馬脚をみ せた『十億年の宴』の副産物的由来のせいか ているかということ」こういうことを言って観が浮かびあがってくる。 いながらアスタウンディング・べた惚れ少年この文章で重点がかかっているのは小説ともしれない。タイム・スリップに巻き込まれ の根っこを捨てきれずにかかえこんでいると科学ではなく個別性と普遍性である。そう読た未来人がの始祖 ( とオールディスが言 サイエンス う ) メアリ・シェリーや実際に存在していた ころがオールディスのすてきなところで、めば科学という言葉の中には明らかに形式、 に対する熱意にはかなり純なところがあ作風、方法論といった概念さえも包みこまれフランケンシュタインに遭遇し、時空の混乱 る。すなおに楽しめる小説を本当は書きたい ることになる。・ほくなんかもわりとそういうの中で、その宿命的構図の中に組み込まれて くせにすなおでないからなんのかんのと理屈ところはあるのだけれど、オールディスのき いくというストーリーは、はっきり一 = ロって短 をつけて妙な具合にねじまげてしまう、したびしさは″普遍性の優位を認めないところかすぎ、。ハランスが狂って、破綻にみちてい たかでくえなくて、そのくせ実は照れ性のそにある。個別性と普遍性は常に拮抗すべしとる。御都合主義的展開になんら正当化を加え んな作家じゃないかと思う。 いう主張なのである。 る姿勢もみせず、末端肥大症的に細部に凝る くせのある作家がかなり目につくイギ これをくだいていえば、ジャンルの結かと思うと、結末の薄明地帯などむしろ故意 リス界もオールディスのそんな姿勢がひ構を用いた形式的安定の否定であり、方法論に・ほかした効果を求めている。 とつの遠因であるような気がする。前月取り的に整備され設定されたテーマを論理的に展ただ、なんとなくそんな欠点そんな特徴、 あげたホールドストックの作風なども、間接開していくレムやル・グインの決定論的な小 作者が全部わかってやっている感じがするの 的に相当強いオールディスの影を感じた。 だ。それに今言ったような欠陥も読んでる間 説作法の否定であり、自らの作家的イメージ ちなみに・ほくの気にいっている短篇を三つを確定させその得意とする観念や文体の組みそんなに気にもならなかった。むしろオール 選んであげておく。どれもすごい 合わせに磨きをかけていく・ハラードやゼラズ ディスにしては意外なくらい読みやすかった 「未来」 ( 『ありえざる星』 ) ニイの否定へとつながる。早い話が作家たるという驚きが強い。科学文明論として読 スタイル 3
S. 石レヒ三ウ 械 ( ロポット ) の進化である ! 言及されている。ひとつは、「科学の進歩のぶらりんのまま手探りするしかない。 しかし、一方で、第二、第三の希望とウラ 歴史は、 ・ : 狂気にちかい精神活動が原動力極限の向う側の問題については、科学は ハラの筈の「人間以上のロポットと遺伝子加 となってひきおこされてきた : : : 」もうひと「最終的な答を出す力をもたないだろう」し つは、「狂気と正気との間の技術的な差が紙かも、一方で「極限の彼岸にある神秘の世界工された人間の出現は、極限世界における最 一重のものであることが、核エネルギーの利 にひかれて」「極限に向かって、物理学者た大の悪夢である」とされる。希望が同時に悪 夢であるとは、しかし、石原さんの責任では 用をきわめてなずかしいものとしている」 ちはたゆみない歩みをすすめている」とは、 なく、問題それじたいに内因する。だからこ それだけでなく、科学が、再現性のある精もうビヨーキですね。 そ、石原さんも「新しい形而上学、新しい倫 密な測定値で客観的に得られることや、数学 こだ、私は、「たゆみない歩み」こそが、 的手法などによって測定値の予言が可能・ : 「最終的な答を出す力」になりえると超楽観理の構築の必要」を説かれているのだろう。 あらかじめ、極限の彼方に神を投影して、 などという「強い制約を自らに課した学問」視している。石原さんも、そこには「新しい だという科学の自己規定にも、私のよーな門哲学が必要となる」とされているが、近代の答を先取りする西欧流は、神を X として方程 プイ 0 ソフィ 外漢にはマゾヒスティックな狂気を感じてし科学が、哲学と一体のものであったよう式を立てるのには成功しやすいが、おうおう にして、神が自走し、方程式を解くのを妨げ まう。もっとも、「もっとも制約が強いと思 に、新しい哲学は、新しい科学と不可分なも われる科学が、おどろくほど大量の新知識とのとして現われるのではなかろーか。科学のる。そのような投影をしない日本は、その 技術革新をわれわれに提供してきた」のであ根源的な狂気を放棄すると、科学は、俗なる分、有利ともいえよう。おそらく、科学の狂 ィリヤク るが、それだけに、禁欲と御利益の落差は、 技術に奉仕するのみとなり、新しい哲学にし気は、科学の再聖化と、科学の遊心とあいま って、超科学を生みだすだろう。いや、そう 狂気の沙汰としか思えない。 て超科学を産みだす陣痛に耐ええなくなるだ 祈る。 また、この本じたいが切り口としているろう。 それでは、よいお年を ! 来年も、どうそ ″極限追求〃は、研究の手法のひとつだが、 新しい哲・科学は、もしかすると、現在の よろしく。 ( 『作家の近未来科学読本 極限に向けてつつばしるってことも、一種の人脳のままでは不可能かもしれない。しか 狂気ではなかろうか。しかも、直線的な極限し、グラフにしてみると、脳の進化が頭うち人間と科学はどこに行きつくか』 / 著者Ⅱ石 原藤夫 / 一一〇六頁 / \ 九八〇 / 6 判並製 / だけでなく、曲がった極限やら、逆の極限ま になっていることが、きわめて明白なパター である。 ンとしてあらわれているので、確かに「少々研究所 ) 誤解される向きもあるかと思うので、ここゅううつな気持ち」になる。石原さんは三つ らで断っておきたい。私は、科学の根源的なの「希望」をあげる。ひとつは、それが何億 狂気にむしろ同情する立場をとる。もちろ年という歴史のなかでの小さな起伏のひとっ ん、科学の狂気の現象形態である原水爆など にすぎないかもしれないこと。もうひとっ はごめんこうむるけれども。とうぶん、根源は、新しい環境によって飛躍的な進化がおこ の肯定、現象の否定という矛盾のただ中の宙りえるかもしれないこと。第三の希望は、機 ◇ 3 幻
et leur littérature" から引用した。 ちあがった論争はドラマチックなものであ る。この分野におけるあらゆる実験につい て一時停止を宣言すべきかどうかの討議が 1977 年現在も進行中である。 生物の、、改造 / / は SF においてはいささ か古めかしい概念だが、つい最近までその ような改造は一一一 H ・ G ・ウェルズの『モロ ー博士の島』 The ムれ d D だ . 尾 44 ( 1896 ) のように一一外科手術か、あるい ウェルズの『神々の糧』 The 00 イ は 〃尾 Gods ( 1904 ) のように一一 -- 特別 な食糧か、ホールディンが示唆したような ( 優生学的 ) 選択交配によってしか達成で きないと信じられていた。 ホールディンのアイデアは、 1920 年代に 対議された他の生物学的考察とともに、哲 学者オラフ・ステープルドンがん 4 立れノ r 立 M に ( 1930 ) の中で創った架空の未 来歴史の大部分の基礎になっている。この 物語では、未来における人類の進化の中 で、生物工学があいまいではあるが必ずし も有害ではない役割をになっている。 厳密には医学的ではない ( おおむね美容 上の ) 目的による外科手術での人間改造は 現在広く行われているし、運動選手や痩せ たい人は目的にかなった成果をあげるため に特別な食餌療法を実行している。しかし ながらホールディンの提言を事実、冒濱だ と感じた人々もいたし、オールダス・ハッ クスリーは『すばらしい新世界』お ra 入をて v Ⅳの・ ( 1932 ) において、 D ん の中でホールディンが予想していた世界を ディストピアとして詳述した。そこでは胎 児は人工孵化で育てられ、アルフアやべ タやガンマといった階級にふさわしいよう 栄養や環境でコントロールされながら育成 される。 生物工学のアイデアはかなり早い時期か ら SF パルフ。雑誌に登場していた。アメー ジング・ストーリーズ誌はオールダス・ハ 4 〔 P N 〕 遺伝子工学 GENETIC ENGINEERING 予言的ェッセイのゐん s. ・ 0 だ & / 劭化 れ d the 曜″ ( 1924 ) において、 J ・ B ・ S ・ホールディンは 2073 年に嶬かなり 頭の悪い大学生″が書いたかのようなェッ セイの一部を披露している。その中に次の ような所見が述べられている。「 1912 年に モーガンがショウジョウノくエの細胞核内の 遺伝子のいくつかをつきとめ、その性比率 を変化させた。同じころ、マーモレックは 無害なチルスをテンジクネズミを殺せる ように変えた。 1913 年にはプラチェットが ウサギの胎児を漿液の中で数日間生育させ た。以上のことを考えあわせてみると、 般大衆はなおさらのこと、当時の科学者が そのような結果の実用的意味をいかに低く 予測していたか驚くばかりである」ホール ディンはさらに、世界の食糧問題を解決す るために藻の新種の、、発明〃と、特定の性 質を得るために選択的に交配されることに なる試験管べイビーの生産について語って いる。二十三世紀では、人類を変化させる 方向にある優生学プログラムを法制化する かどうかで選挙が争われることになろう、 と彼は示唆した。この点においてはホール ディンの想像力すら弱さを感じさせる。シ ョウジョウノくエの遺伝子に関するモーガン の配列地図作成の真の意味は、いつの日か われわれは優生学的計画の必要もなく、遺 伝子を直接操作することによって変化に関 与できるということなのだ。 同じェッセイの中で、、、生物学的発明″ はます冒漬的な悪用だと受けとられるため 常に多大な抵抗に合う、と彼は指摘してい る。その点はすくなくとも真実であり 遺伝子工学の可能性について現実社会でも 二一口 XIV
引ⅢⅢⅢⅢⅡⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ聞ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ刪 活する環境は人工のものではないので、世 代宇宙船とは言えない。 宇宙植民における世代宇宙船の必要性に 着目したのはコンスタンチン・ツイオルコ フスキーが最初であろう。それについて述 べた彼のェッセイ "The Future of Earth and Mankind ”は 1928 年に出版されたソ 連の科学工ッセイのアンソロジーに収録さ れているが、発表はもっと以前だろう。ツ イオルコフスキーは未来において宇宙版 《ノアの箱船》を建造することを論じてい る。彼はそのような航海が何千年もかかる と予測していた。 世代宇宙船の構想を使ったジャンル S F はアメージング誌に掲載されたドン・ウィ ルコックスの "The Voyage that Lasted 600 Years" ( 194 のがおそらく最初だろ う。その物語では宇宙船の船長は冬眠状態 にあって、進行状況を確認するために百年 ごとに覚醒する。しかし目を覚ますたびに 乗員の子孫たちの間の大きな社会的変動、 彼らの野蛮化とそれにともなう疫病の流行 を発見する。周期的出現によって彼は船内 の部族の迷信的畏怖の対象となる。ウイル コックスが手をつけた社会変化と堕落とい う主題はこの種の小説の主要テーマとなっ 他の主要テーマはその翌年、より名高い 小説の中であっかわれることになった。 A S F に発表されたロバート・ A ・ハインラ インの「大宇宙」 "Universe" ( 1941 ) と、 翌月号に掲載されたその続篇「常識」 "Common Sense" ( 1941 ) がそれである。 この二篇は『宇宙の孤児』 0 ゅ研 the Sky ( 1963 ) として単行本化された。 これは典型的な世代宇宙船物で、乗員は自 分たちが船の中にいることを忘れ、きびし く階層化された迷信深い社会構造へと堕落 していた。なみはずれて理性的な主人公 は、衝撃的な認識の変革を経て真実を発見 XII する。同じ主題を好みながらも、 / 、インラ インのあっかい方を粗雑すぎると考えたプ ライアン・ W ・オールディスは、処女長篇 Non ー & ( 1958 ; 圜 & ar 訪ゆ米 ) にお いてはるかに複雑で精妙な書き直しをおこ この神をも恐れぬ意識的な挑戦で成 ない、 功をおさめた。宇宙船の中で生きのびる子 孫たちが船を輸送手段ではなく世界だと考 えるストーリーには、他にクリフォード・ D ・シマックの「目標の世代」 "Spacebred G ・ enerations ” ( 1953 ; 圜 "Target Generation") や、厳密には世代宇宙船と はいえないが退行した社会という点が似 ているフリツツ・ライーの「影の船」 "Ship of Shadows" ( 1969 ) 、乗員と植民 者が狂気じみた文化操作のために中世の僧 侶とアズテカの農民とに変身させられると いうハリイ・ハリスンの驚くべき『囚われ の世界』 Ca / 眦 U 襯・膨 r 記 ( 1969 ) などが ある。 世代宇宙船による旅のはじまり、あるい は旅の終わりからはじまる小説もある。ア ーサー・ C ・クラークの驚くほど人類至上 主義的な初期の短篇「太陽系最後の日」 "Rescue Party" ( 1946 ) では人類は太陽 のノヴァ化を前に地球を見捨て、原始的な 世代宇宙船の大船隊で自信満々と星の海へ 向かう。フ・ライアン・スティフ・ルフォード の『フ。ロミスト・ランド』 ~ ho 襯 / 記イんれイ ( 1974 ) では自分たちを運んできた宇宙船 の中で何世代にもわたってっちかわれてき た社会構造に基づく植民者社会を描いてい る。 世代宇宙船テーマはジャンル SF 以外で はほとんど使われないが、スウェーデンの ノーベル賞受賞詩人ハリイ・マルティンソ ンの叙事詩み ara ( 1956 ) は目ざましい 例外である。プロムダールの作曲によるオ ペラは 1959 年に初演された。この長詩は世 代宇宙船の中で非人間的テクノロジーと人 420
彼は言った。「さあね。人間と国の、あるいは友人と国のどちらの。「何かあったら、この本を参考にするといいわーって。この本 を選ぶかという段になったら、やるかも知れない。裏切りといわれを見てもだめでしたなんて言ったら、途方にくれてますって告白す るかも知れないけどね。ぼくに言わせれば、それは良心なんだ」 るようなものだ。さっそく患者をとりあげられてしまう。実際、こ 彼は、自由主義者なのだ。まさに日曜日、ケイティン先生が話しれは一種のテストなのだとーーわたしを試しているのだと思う。で ておられたあれだ。 もわたしはこの経験をみすみす手放すわけにはいかない。勉強にも 古典的精神病。正常な情緒の欠如。ひどく平然というのだものー なっているし、おまけに、患者もわたしを信頼してくれて自由にい 「やるかも知れない」なんて。 ろいろ話してくれるのだもの。それというのもわたしが、彼の話し いや、ちがう。彼はつらいのをこらえて、やっとの思いでそう言てくれることを誰にも絶対に秘密にしているからなのだ。だからわ ったのだ。ショックのあまり、何も感じられなくなってしまったのたしは、治療が軌道にのり、必ずしもそんな信頼が必要なくなるま はわたしの方だ。ただいちめんの空白。寒くて。 では、誰にもこの日記を見せたり、こうした問題について話しあっ この種の精神疾患ーー政治的精神病とでも言うべきものを、どう たりすることはできない。 扱ったらいいのだろう。ディ・キャムの本は二度読んで、いまでは それがいつのことになるのかはわたしにもわからないのだけれ 理解できたつもりではいるけれど、やはり政治学と心理学のギャッ ど。わたしたちふたり、つねに信頼なくしてはやっていけないよう ポジティヴ ・フがあるので、考える指針とはなりえても、積極的にどう対処したな気もするし。 らいいのかを教えてくれはしない。・がどう考えどう感しる かの予測はつくし、それと彼の現在の心的状態の差もわかりはする 十月九日 ポジティヴ のだが、どうしたら積極的な考え方をするよう教育できるか、そこ ・ t-o の探査資料が彼にとって ( わたしにとっても ) 危険なもの のところがわからないのだ。ディ・キャムによれば、離反とは一見になりはじめて以来、ノートをつけるのはやめてしまっていた。今 積極的な理念や感情にみちた消極的状態とのことだが、これは・夜全部を読み返してみたところだ。ネイデス先生に見せるわけには には当てはまらない。そんな矛盾は彼の中にはないからだ。むし 、よ、、といまでははっきり思う。それならそれで、このまま書 ろその理屈は、ディ・キャム自身のかかえる、政治的なものと心理きたいことを書きつづけるつもりだ。そうしろと言ったのは彼女 学的なものとの矛盾にこそびたりとあてはまる。かといって、このなのだから。もっとも先生にしてみれば、わたしの方で見せたがる 理屈自体がまちがったものであるなら、そんなことが起こるはずもだろうとふんで、常々それを期待していたのかも知れない。わたし ないし。 だってはじめのうちはそうも思ったし、見せるように言われれば渡 助言がほしくてたまらないけれど、ネイデス先生に頼むわけにはしもしたけれど。きのう、ノートのことをきかれた。やめてしまっ いかない。ディ・キャムの本をわたしてくれたとき、言われたもた、分析ファイルに記したのと同じことのくり返しだから、と答え 2
いちいち、その通りなのだ。いままでは言ったことも意識して考れたらどうです」 「それならな・せこんなところにいるの」 えてみたこともなかったことなのに。 「同僚にライ・ハルだと思いこんでる連中がいてね。やつらが 「・ほくには何をすすめてくれるんです ? 」彼はたずねた。 いったんわたしなりの診断が固まっても、その処方どおりいくかにぼくのことを、破壊的自由主義者だと通報したんじゃないかと どうかは正副両部局長の承認次第なのだと説明する。いままでのと思う」 ころ、彼の過去や人格構造のどこにも電気ショックの適用を必要と「その人たち、何を証拠に ? 」 するようなものは見あたらないが、とにかくまだたいして診断もす「証拠だって ! 」わたしたちは探査室に着いていた。しばし両手で 顔をおおい、彼は当惑したようにわらった。「証拠、か。そう、一 すんでいるわけでもないということも。 「せいぜいうんと時間かけてやってください」肩をこごめ、足を引度、局の集まりがあったとき、長いこと客員外国人技師と話しこん だことがあったよ。同じ分野の設計技師だったものでね。それに御 きずるようにしてとなりを歩きながら彼は言った。 存じだろうけど、非生産的な連中やポヘミアンの中に友だちもいる 「まあどうして ? 探査が好きなの ? 」 「とんでもない。あなたのことなら好きですけどね。のがれえぬ終し。そうそう、この夏には、うちの部局長の政府認可を受けた設計 局を少しでも先にのばしたいだけです」 がうまく機能しない理由を本人にむかって暴いてやったりもしたっ 「のがれえぬだなんて、どうしてそう、思いこんだら命がけなのかけ。馬鹿なことをしたものさ。その愚行のせいで、きっとここによ こされちまったんだろう。それにあれも読んだし。あのアルカ教授 しらね、フローレス。そのことに関してはあなた、自分がひどく非 の本もね」 理性的なのがわからないの ? 」 「ローザ」彼は言った。ファーストネームでわたしを呼ぶなんては「そんな、どうってことないことばっかりじゃない。ちゃんと積極 じめてのことだ。「ローザ。純然たる悪に対して理性的でいること的な考え方もしてるわけだし。自分の国を愛してもいるわ。反政府 はできない。理性というものの直視しえぬ顔だってあるんだ。そり分子なんかじゃないわよ」 ゃあぼくは非理性的だろうさ。ぼくの記憶がーーぼく自身が・ーー破彼は言った。「どうかな。民主主義の理念とか希望、そう、希望 壊の危機に直面しているのだからね。でも・ほくはまちがってはいな なら愛しているけれど。それなしにはやっていけないだろうし。で 。やつら、・せったいに まくをここから出しはしない・せ。いまの」長も国、となるとね。地図にのってる、あの、線で囲まれたやつのこ いことためらったあげく、彼はつけ加えた。「いまのままの・ほくでとだろ。線の内側のものはみな善で、外側など問題にもならないだ はね」 なんて。いい大人がどうしてそんなガキじみた考えを愛せるんだろ 「でも病歴では」 う」 「ぼくに病歴なんかありはしないんだ。もうそのくらいわかってく「でも、自分の国を敵方に売ろうとは思わないでしょ ? 」 ジティ 幻 7
川ⅢⅢリⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ聞ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ日ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ しかしながら、 1940 年代初頭における S F で、遺伝子工学のもっとも重要な使用は ・ハインラインの『未知の地平 ロノ、 線』お 0 の T んな丑 0 だた 0 〃 ( 1942A S F アンスン・マクドナルド名義 ; 1948 ) であ る。神聖不可侵なものへの攻撃に大きくへ ージを割いた、この貧弱なプロットの小説 の中では、大衆の肉体的心理的適応を確実 化するために優生学と遺伝子工学を応用す る社会が、最初は過度に統制された管理社 会に見えるが、やがて好ましいものである ックスリーの兄でホールディンとウェルズ の友人であるジュリアン・ハックスリーの 小説 "The Tissue ー Culture King ” ( 1927 ) を掲載した。ディヴィッド・ H ・ ケラーは人間の肉体と性質に手を加える物 語をいくっか書いたが、肉体は貧弱で独創 力に欠けているが両腕はきわめて優秀な完 璧な速記者を造り出そうとする生物実験を 描いた "Stenographer's Hands" ( 1928 ) がもっとも名高い。実際の遺伝子工学に関 する最初の小説は、化学技術者スタンリイ ・ワインポームが書いた "Proteus lsland ” ( 1936 ) である。しかし、この物語の結末 は、、獣の本性〃は外見ほどたやすくは変え られないと断じて、お手本である『モロー 博士の島』を反映している。 ワインポームの死によって、戦前に遺伝 子工学の重要性を認識し、それを追求した かもしれない唯一の作家がジャンル SF か ら消えてしまった。人工的な、、改造され た〃生物がそれほど重要でない役割をにな う小説もいくつかあらわれた。その好例は フリツツ・ライ / く一の『闇よ、つどえ ! 』 G ん , Da ぉ ! ( 1943 ; 1950 ) におい て偽の魔女たちがあやつる、、使い魔〃だ が、このアイデアはほとんどの場合、きわ めて狭い一本道をたどることになる。異常 な栄養によって生物を怪物的に巨大化する ( 大と小 ) ことである。しかし、新しい 概念を完全には理解していなくても応用す ることはすばやかった A ・ E ・ヴァン・ヴ ォートは、『スラン』 S ( 1940 A S F ; 1946 ) において超人を創造するのに、、遺伝 子修正〃を用いている。それ以後、おおむ ね漠然とした遺伝子工学が S F におけるス ーパーマン創造の一般的方策となった。最 近ではグレゴリイ・べンフォードとゴード ン・エクランド共作の『もし星が神なら ば』既 the & Go み ( 1977 ) にそ の一例が見られる。 4 スラン A ・ E ~ ウッン・ツ、 ; な久 『スラン』 ことが明らかにされる。この小説は多くの 点で不快なものだが、遺伝子工学の社会的 帰結がどのようなものになるかという問い かけを投げた最初のジャンル SF のひとつ である。 遺伝子工学をもっと厳密な意味でふたた び S F に導入し、その可能性のいくつかを 直視しようとした最初の作家はジェイムズ ・フ・リッシュである。 "Beanstalk" ( 1952 ; 図・ 'Giants in the Earth" ; 區圜 T / 〃な D “ g ん・ 1961 ) はよくある巨大化テーマ XV
”すけど、学校がずっと水戸だね、漫研で。それも他人から見たら、なん ったから水戸出身といった方だかわからないものを描いて : : : 」 が正確かもしれないですね。 ストーリイがわからない ? 水戸というのも変なところ 「いや、センスが特殊なんですよ。進んで 、で、反体制的な、というかイ いたのかもしれないし、遅れていたのかも 、、一、・ ~ ( 悪 ( 一い・、い、、チビリなとこがあ 0 て、みんしれないけれど。ギャグにしてもストーリ ・鯊 ( ・・ー物ながやらないことをやって喜イにしても、なんかフツーのヒトにはわか んでいるようなんですね。・ほ らないようなものを描いて喜んでいたんで くの行ってた高校がその最たすよ。絵はオーソドックスだったんですけ るもので、なんかこう変わっ ど。中学校の時は石森章太郎が好きで、似 たことを始めてひとり喜んで た絵を描いていましたが、高校になるとも いた。県立高校でして、水戸う少し写実的なものを描くようになって : は封建的なところで公立高校 ・ : 多小劇画風の。高校時代がこういう道を というのはみんな制服だった歩むようになるひとつのエボックではあっ んですよ。それを一番最初に たんですね、漫研にいた頃がね。本当に馬 自主的に自由化してね、で、 鹿なことを考え出す奴が多くてね。ジャッ ク・フィニイの『夜の冒険者たち』という のとかね。″今週は xx が書け″とか言っみんな好き勝手な恰好して通うようになっ てみんなで。クラブ費を何パーセントか徴たわけですよ。初めの頃は喜んでいるんだ 小説があるでしよ、そういうことを高校時 収して稼ぐはずだったのに 、・ハッと飲み代けれど、まわりの高校がそれに影響されて代は友人とやっていた。夜の町を自転車で に使ってしまったり ( 笑 ) 」 どんどん制服がなくなってファッショナ・フ暴走したりね ( 笑 ) 」 ところで生年月日は ? ルな恰好で学校に行くわけです。そうなる 小学生の時はフツーのヒト ? 「一九五七年の六月三十日。茨城県は水戸とみんなガクランを着るようになって : ・ 「優等生でした ( 笑 ) 。小学校、中学校は の隣りの勝田市というところで育ったんで 。高校の時は漫画を描いていたんですよ申し分のない子供だったんじゃないです SF NEW GENERATION 295
mtlllltllllllll:t!!lllllilll!!llllllllltl!llllllllllllll!llllll!lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllfllllll!llll}lllllll"llllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll!llllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll をあっかっているが、この場合は対象が人 間であり、染色体を刺激して倍加させるこ とによって意図的にひきおこされたもの だ。自然発生的倍加現象ーーー染色体数が二 は植物では珍しいことで 倍になること はなく、一般には巨大化を招く。小説はウ ェルズの『神々の糧』を思わせ、普通人の 側の偏見とそれに対する巨人の反応を主に 描いている。間もなくフ・リッシュは《汎趨 性工学 ( バントロピー ) 》シリーズによっ て、遺伝子工学が開いた人類を他惑星での 生活 ( 宇宙生命、宇宙植民 ) に適応させ る可能性の追求に移っていった。このシリ ーズは、小さな水たまりで生存できるよう に改造された極徴の人類を描いて広く論議 を呼んだ「表面張力」 "Surface Tension ” ( 1952 ) を中心に構成されている。《パン トロビー》シリーズを集めた『宇宙播種計 画』 The & 襯切 g & 4 ” ( 統 1956 ) の最 終章は、時とともに大きく変化した地球が 、、適応人間″によってふたたび播種される べき異境となる日に目を向けている。特別 に適応工作を受けた人間が異世界を、、征 服″するというアイテアは、当時の他の作 家もとりあげ、その中にはポール・アンダ ースンの「わが名はジョー」 "Call me Joe ” ( 1957 ) 、フィリップ・ K ・ディック の The World 〃 Ma ( 1956 ) も含 まれる。宇宙旅行そのものを行うにも特別 に改造された種族が必要だというアイデア は、のちにサミュエル・ R ・ディレイ が「然り、そして : ゴモラ」 "Aye, and Gomorrah . ( 1967 ) の中で登場させて いる。 1950 年代の他の作品で遺伝子工学の 実験をあっかっているのは、デーモン・ナ イトの "Natural State ” ( 1954 ; 堕圜 ん 5 ”イ E て , 0 ん〃 0 〃 1959 ) とフ・ライアン ・オールディスの "They Shall lnherit ” ( 1958 ) である。 遺伝子によらない生物工学はシオドア・ XVI スタージョンがれい ~ ん 5 X ( 1960 ) で 採用している。彼はまた初期の作品で、こ れと関係のあるクローニング ( クローン ) のアイデアも使っている。モロー・ ー - ー動物を人間の形態に改造するというア イデアーーーはコードウェイナー・スミスが アンタ・一ピーイル 、、下級民″に関する作品 ( 詳細はスミ スの項 ) で大規模に発展させた。彼らは召 使いや奴隷として使われながら解放を夢見 ているが、形質の固定ができず、そのため 遺伝形質は直接は伝わらない。もっと永続 的な遺伝的変異をもたらす同様の改造はプ ディエス・イ ライアン・スティフ・ルフォードの《怒りの 日》三部作の基本前提となっているが、 のシリーズの主題となるほどには遺伝子工 学の大きな展開はない。 全体的に見て、フ・リッシュの前例は、彼 自身によってさえ意義深く受けつがれてい るとは言えない。 1960 年代の後半には、クローンのアイデ アが一般化したことと、ゴードン・ラトリ ・テイラーの『人間に未来はあるか 爆発寸前の生物学』 The Biological T ←召。襯み ( 1968 ) のような生物学の潜 在的特性に関するノン・フィクションのお かげで、遺伝子工学への関心が再燃した。 フ。ロバガンダ的意図も一部あったイギリス の TV シリーズ D00 襯なんは、現代の 科学研究の傾向と行政サイドの慎重なコン トロールの必要性とに多大の関心を向け、 生物工学の意味するものを多くの人々に認 識させることとなった。シリーズの第一の ェヒ。ソードは、フ。ラスチックを溶かすよう に処理されたノくクテリアの、、脱走″を描く ディヴィス キット・ペドラーとゲリ 共作の『ミ ータント 59 』」イ曜 4 ー 59 ( 1972 ) の土台となった。シリーズの他の 多くのェビソードでも遺伝子を含む各種の 生物工学を紹介した。 遺伝子操作によって、、完璧な〃人間を創 4
ガーナー、アラン GARNER, ALAN ( 1934 ー 年長の児童向きの作品を主に発表してい るイギリスの作家。オクスフォードのモー ドレン学寮で教育を受ける。チェシャー州 オールダリー・エッジ近くにずっと住み、 この地は彼のほとんどすべての小説の舞台 となった。彼を 1960 年代の児童文学者の中 で、第一人者とは言わないまでも、最高の 作家のひとりとみなしている者は多い。彼 の作品の大部分は、神話とその地の考古学 的知識に根ざすファンタジイである。最初 の 2 作『プリジンガメンの魔法の宝石』 T んにⅣ夜・ 7 立の研召 r な切 ga 襯翩 ( 1960 ) と 『ゴムラスの月』 The 」イ 00 れ研 GO 〃げん ( 1963 ) とは、年少の読者向きの短かいシ リーズとなっている。双方とも優れた出来 映えだが、 ( 数多い ) 成人読者は三作目の 『エリダー・黄金の国』窺。 r ( 1965 ) の ほうに夢中になるだろう。これは境界線上 の SF としても読める彼の最初の作品であ る。色調は、それまでの作品よりも暗く沈 んた感じになり、現代のマンチェスターに 住むティーンエイジャーたちが、 I F の世 界からの脅威 ( と探索 ) に直面する。 2 つ の世界は ( 多大な電気的干渉をともなっ て ) 衝突しかけているのである。ガーナー が真に技法の習熟を見せるのは『フクロウ 模様の皿』 The 0 , I & れ , 沁 ( 1967 ) で、 これはガーディアン賞と図書館協会カーネ ギー賞に輝いた。ウェールズ地方に伝わる 暗い、まがまがしい伝説のひとつが、現代 の子供たちのあいだによみがえり、子供た ちは恋と嫉妬、そして死という完全におと なの問題に直面する。彼の小説のテーマは いつでも一種の時間旅行であるが、その時 間は内的な精神的なものである。作品は祖 型的パターンを語りなおしたもので、ふつ う苦痛、敗北、欲望、そしてほとんど成就 しがたいような勇気の必要性が、要素とし 423 てからんでくる。著作の中でそうした強迫 観念に形を与えなければならないことから 来る心理的反動は、作者自身の人生をも危 機におとしいれた。そのいきさつは、ビ ニコルズ編『解放された SF 』 IX われており、書物をジャンル別に分類する ないものの、おなじみの主題がふたたび使 小説形式にはまったくファンタジイ傾向は み切花 r Ga んは 1978 年の出版予定である。 の 3 点が出版されている。 4 作目の The Day ( 1977 ) 、 Granny にの・ d ″れ ( 1977 ) に The & 0 月 0 ( 1976 ) 、 To 襯お訪ろんな い自伝を模した 4 部作に着手した。今まで 傾向を変え、 S F でもファンタジイでもな さらに最近ではガーナーはふたたび作品 化され、 1978 年に B B C で放送された。 革命時代、そして現代。この物語はドラマ 国の黄昏にあるイギリス、 17 世紀の清教徒 去の分身たちに乗りうつらせる。ローマ帝 をめまぐるしく強引に引きずりまわし、過 器時代の斧に起因する時間転移が、主人公 絆、および怒りと苦痛の放逐である。石 無力さ ( 性的無能力も含めて ) と暴力との 置している ) 。この作品の情緒的な主題は、 とジョドレル・ / ミンク天文台との中間に位 も多くを負っている ( 彼の家は古代の墳墓 れる数々のイメージは、神話と同様 SF に る。熱つぼく、ときには捉えがたく対置さ を現代に投げかけるというテーマに立ち戻 文体でガーナーは、過去がさまざまな問題 る。主に会話から成る、省略の多い濃密な はおよそそこからかけはなれた小説であ として発売されたが、ありきたりの意味で この非凡な作品は児童文学 ( 児童 S F) ( 1973 ) であるとみなす人間は多い。 彼の創作活動の頂点は、次の長篇ルイ 時間」 "lnner Time" にくわしい 魅惑的かっ苦痛に満ちたェッセイ「内なる 刃が ora 0 研 the 」一の・て〃 0 ) 所載の & 加 e 窺け / 0 〃 Large ( 図 1976 ;