トイレ払り、 酸がハリイのだぶだぶのパンツを侵していた。 ー腹をすかせた超ドロドロの、野太くおそましい塊りが、 出口から思うさま脅威となって伸び出てきた。ドロドロの、分散し僕は急いで、トイレ排出口から出ているドロドロ・ロ , 、。フをレ、・ リイのまわ てポンヤリした、食品医薬局未承認の脳ミソが、基本的な真実を悟ザーで断ち切り、続いてルーヴァをパチリと閉めた。 ( りのドロドロ触手は、本体から切り離されると、急に張りを失い ったのだ。″人間も食料だ″と。 ハリイの体にパタリと落ちかかる。酸の分泌も止まっており、あと あとから、あとから、野太く粘液質のドロドロが、排出口から流 れこんで来る。人間の腕ほども太い偽足が、ゆらゆらとうねり、人はさして手間もかけずに、こそげ落とすことができた。 ( リイも ( リイは尻ごみして、座席の背越しに逃れようとし太腿に醜く赤い火傷ができた以外、無傷だった。アドレナリンが薄 肉を求める。 れると、僕の手首の傷が疼き始めた。 た。けれども、ぬらぬらした触手が伸び出て、その退路を断つ。 1 トメントを引っ掻き回し、 「ほら」とハリイはグラヴ・コンパ イを追いつめようとしているーー。僕より臭いが強かったのだろう。 僕は手早く ( リイの ( ンカチを手首に結んで止血し、座席の背を「応急キットがあるよ。手首を包帯してあげるよ」 ハリイ、君の火傷が先だよ」 乗り越えてステーション日ワゴンの後部に向かった。レーザーを出「いやいや、 ふたり、眼を見合わせて吹き出した。急に、これまで一カ月にく すのさえ間に合えば大丈夫。ところが、ずっとあとまで使う予定が らべて、ずっといい気分になっていた。 なかったので、雑多なものの下敷きになっていて : 「駆動装置を戻すよ」 「助けて、フレッチャー。後生だから、助けて」 どういうつむじ曲がりな理由か、僕はハリイの悲鳴を面白いと思「そうだな。全開にすれば、来週には、あいつに追いつくさ」ハリ イの声が、ちょっとくぐもっている。例のドロドロを頬ばっていた。 リイは、輪 「それで二度だ」と僕は笑いにふるえる声で呼びかけ、「それで二追跡の最後の一週間は、たちまちのうちに過ぎた。 ( リイ、お願いしますとも言わないし」 ゴムと紙クリツ。フでゼーマンのカタストロフィ機械とやらを作って 度だぜ、ハ 「お願いだから助けてくれ。脚にかぶさって、何かの酸を出してる面白がっていた。この仕掛けの上で紙クリツ。フを動かすと、さまざ んだ。ああ、焼けるようだよ、フレッチャー、僕を消化してるんたまな力が折り重なってクリップに作用しているように思える。特 に、ある一点では、クリツ。フが必ず急な動きを示す。これが″急激 そら、レーザーだ。僕はそいつを把み取ると、前部座席に乗り出で予測不可能な変化″という意味で、″カタストロフィ〃というこ した。ドロドロよ、・、 ノリイのまわりに、一種のねとついた檻を編みとになる。ハリイが言うには、一方向を″恐れ″、他方向を″怒り″ とするなら、紙クリツ。フのこの僅かな動きこそ、僕にナイフを向け 上げていた。太い緑色のロー。フの檻が、塩酸をしたたらせている。 ハリイは膝を引きつけ、両腕で頭を覆っている。ドロドロのひとき た時の奴の心境の象徴なのだそうだ。僕は奴が喋るのに任せ、大部 れが、ハリイの左脚に貼りついていた。そこから微かに煙が立ち昇分の時間を、コン。ヒュータにヴィデオ・ゲームをプログラムするこ っこ 0
真正面には黒い円盤があり、腕を伸ばした時の握り拳ほどの大きが恋しくなっていた。一 さだ。それこそ僕たちが向かっているところ。九月に射ち上げた慣「 : ・ ・ : 三つ目の水たまりで止ま「た」と ( リイが喋り続けている。 9 2 性巻き取り機の作用している球体なのだ。 「『これで三度だ』と叫ぶと、花婿はピストルをとり出して、馬を 「あの大きさを見ろよ」と、しばらくしてから僕がハリイに言っ撃ち殺してしまった。『そこまでしなくても、良かったでしよう こ 0 「この前、見た時の倍になってる。かなり追いついたよ」 に』と花嫁が言うと、男は『それで一度』」 「僕を脅そうってのか、ハリイ。この莫迦阿呆間抜け。これで三度 「それとも、かなり膨張したか」 だ。気に入るも入らぬもあるもんか。僕が眺めを楽しんでいる間く 「この莫迦阿呆間抜け」 らい、そのド腐れ口を閉めておけ未だかって知らないほどの瞋恚に 「それで二度だ、フレッチャー」 ( リイの声音の中に何かあって、 僕は見あきた顔を見やらざるを得なくなった。見て気持のいい代物身を震わせて、僕は奴の出方を待ち構えた。 莫迦正直に、奴は僕の首を狙った。こちらは先刻承知で、前腕で ではない。 攻撃を・フロックする。が、ハリイの右手にナイフがあることまでは 「ハリイ、そういう眼付きはやめろよ」 「それで二度だ。このセリフの出どころは知ってるか。お爺ちゃん気がっかなかった。深々と肉を斬られた。 血が鮮やかな玉となって吹き出し、踊った。ほとんど同時に、ハ がよく言ってたジョークだ。こんな話なんだ、昔々のな。男と女が リイは後悔の色を明らかにした。ナイフを捨て、出血を止めよう 結婚した。二人は借り物の馬車に乗りこんで、男が手綱をとり、ハ ネムーン旅行に出発した。雨降りの日だったから、道には水たまりと、自分の汚ない ( ンカチを傷に圧しつける。 ができていた。とりわけ大きな水たまりで、馬が尻ごみしたものだ仕方あるまい。僕が好んで起こした厄介ごとだ。ふたり組の長期 『これ探査では典型的な出来事なのだ。ところが、ここで突然、一層まず から、花婿は降りて馬を引いてやらなくちゃならなかった。 で一度』と馬に言い聞かせ、御者台に上がった。さて、じきにまい事態になった。球状をなす僕の血が、ダッシポード中央で楕円 形にルーヴァを切ってあるトイレ排出口に流れこんだ。この排出口 た、大きな水たまりに出くわした。今度も : : : 」 くだらん。僕は聴くのをやめて、また窓の外に心をさまよわせはそのまま例の超ドロドロにつながる。我らが食樶にして空気にし た。暴走中の慣性巻き取り機は、まだ遠く先だ。あれを止めたあて道連れたゑ食品医薬局未承認の、操作による変異組織 だ。僕の血がトイレ排出口にはいり、超ドロがそれを味わい、旨い 目当ては何だ : ・ と、また長いこと飛んで戻らなくちゃならない。 。当然、地球に戻ったら、この新式ロケット駆動装置を売りに出と思ったのだ。もっと、もっと、もっと欲しい、と。 ノ目ノリイは僕の手首の傷におおいかふ ハリイが、どうしたらこれを作れるか、説明できその瞬間、僕はハンドレ蔔。、 すーーといって、 るわけではない。それより大切なのは、戻ってナンシーを口説くこさって、それそれフォード・ステーション日ワゴンの前部座席にい た。その瞬間が、そのまま凍りついた。次の瞬間、野太い塊りがー とだ。ロケット製造の興奮がさめてしまうと、僕は日毎にナンシー
ハリイは僕を見詰め、魚みたいな口をアングリあけていた。 でね」 「大丈夫たよ」と僕は奴に言って いや、考えを送ってーー・ーや「ワワ・ゴボゴボ」とマーメイドがうなずく。体色が青から灰色へ り、「つまり、大丈夫みたいなもんだ。声に出さないで喋れば、聞と変化した。下半身は伝説どおり魚の尾で、上半身は裸の女性に似 こえるから」 ている。けれども・フョ・フョで、″マーメイド″という言葉で連想す 「二人とも死んじまったのに、大丈夫みたいなのかい」 るようなセクシーなお人形さんとは程遠い。大きなコ・フやふくらみ ノリイ」 「死んだわけじゃなさそうたぜ、、 が、風になぶられた海の波のように、全身に走る。時には体の一部 「欠乏だ。死亡ではない」とゴブリンが口をはさむ。 が千切れて、空間に漂い去るのだ。 「ワ・ゴポポ・ゴボ」と《水》が言う。 。風船 ス。フライトもまた、普通の感覚ではセクシーと言いにくい 「みんな、お二方の機械が気に入ってな」とノーム。「この中、こガムのようなピンクの細い体はあまりにも痩せていて、むしろ虫に の大きな黒い球体の中は心地良い。普通なら、わしらは動きを止め近い。唸りをあげる黄金の翼もあることだから、人間よりはトンポ ることができんのだ」 こよ、どこか可愛ら に似ていた。それでも、ス。フライトの小さな顔冫 : 「こちらが《地》、《気》、《火》、そして《水》だ」と僕ま、 : / リイしいところ、可愛らしくて深い知性をたたえたところがあった。 に教え、「四大の精なんだ。ノーム、ス。フライト、ゴゾリン、マー ゴ・フリンの鋭い顔も大きな知恵をひそめているようだったけれど メイドにあたる」 も、その知恵があまりにも深遠なので、僕にはとうてい理解できそ 「他の連中は何だい」と尋ねながら、ハリイは砕けたウインドシー うもない。・ との精よりも、ゴプリンがいちばん見慣れていた。巻き ルドから首を突き出した。目の届く限り、無数の輝く姿が飛び、舞取り機を射ち上げた日に、ワシントン・ 0 でゴ。フリンをーー・・また っていた。 はその一部をーー見たし、それ以前にも見かけているのだ。夢の中 「あれも全て、わしらだ」と《地》のノームは言い、 「わしはただで。街中で視野の隅に。森の中をひとりで歩いている時に。そして ひとりだが、全ての空間と時間を縫うように往き来できる」 何にも増して、当然のことながら、火の中に。読者は丸太の火をし 「わしが先」とゴプリンが訂正した。「ずっとずっとの最初は、わっと見詰めていたことがあるだろうか。長く見詰めていると、チロ しだけ」 チロする小さな炎が、木の裂け目から覗くすばしこい男たちに見え 「私は最初より先」と《気》が歌うように言い、「私が骨組みよ」てくる。すばしこい男たち、ひとりひとりがゴプリンであり、ひと 「ワ・ゴボ」と《水》が、カない手を他の三人に向けて振ってか りひとりが《火》のもつれた生命線の一環なのだ。 ら、自分を示し、「ガガ・シ」 ノームは、いちばん人間に似た精だ。汚れた茶色の長靴とパン 5 「筋から言って、自分が私たちより先たと言いたいのよ」とス。フラ ツ、赤い上衣と帽子で、実にビッタリだった。帽子の先は尖ってい イト。 「形象と生成の方が、実体や存在より基本的だ、という意味て、それが片方に垂れている。
ハリイ」 ナンシーは僕を避けて寝てしまった。僕はを眺めていた。「テキーラかい、 「あ、うん。要るんだ」 ・ナ。フキンの の中では六インチの執事が、織り目加工のペー リイと僕は二人とも、ひどいショッ ここで言っておきたいが、ハ 口上を述べたてている。織り目すなわちロマンス。僕はキレイに一 クと、求めもしない生活の変化から回復しかけているところだっ 文無しで、我が新妻は愛することをやめてしまった。 ハリイのいつものガールフレン さあ、いら 0 しゃい、と侏儒の執事がせきたてる。・フラウン管のた。裏返しの無礼なクスクス笑い ドは、いわば自殺をしてしまったし、次に惚れた女は、奴をニべも 中へ、テープルのそばへ。テープルクロスは、地面まで劇場の幕の ようにおりている。それ越しに、待ち設けるようなざわめきが聞こなくはねつけた。 僕は結婚していて、これは明るい面に思えたのだけれども、ちょ えてくる。厚手の布地を分けて行くと、ステージの上に出ていた。 小さな大観衆がいる。とうとう僕にも織り目がついた。それにナンうどその時、僕の = ンジ = アリング商売がお先まっ暗。「金の心配 がある時にや、色恋ふっ飛ぶ」とは叔父貴アーパドの言い草だ。暄 シーもステージにいて、身にはほとんど何もつけず、今まさに : ドアベルが鳴って、眼が醒めた。金曜の夜十一時三十分。穏やか嘩を始めてしまうと、やめるのが難しい シー州。フリンストン。ナンシーは破産寸前の状態となると、すぐさま ( リイが職を失った。奴は僕 な九月半ば。所はニュー 脇で眠っていた。顔つきは、すっかり閉ざされている。我が未開発にとって研究開発部門だった。僕は、まだコンサルティング稼業で , リイのための仕事は全くなくなった。奴 リイ少 - しは金もはいっこ : 、、 の蕾よ、酷な恋人よ。僕は一階に降りて、ドアを開けた。ハ は高校物理を教えて帳尻を合わせていた。モミクチャにされた天才 ハリイが、淑女学芸院で教鞭をとっている。 奴の大きな白い顔が気がかりそうだった。 「ひとしすくしかないぜ」 ハリイがテキーラの壜を差し上げて一一口 「起こしちまったんじゃないだろうな。ちょっと、その、つまり : しいから、片付けろよ」 「大丈夫だよ。テー・フルの下で侏儒どもの見せ物になってたんだ」 「やめとこ。ナンシーが怒る」 ハリイの声の調子が落ちた。「もう夢を見てたのか : : : 」 、って。まだ服は着てる。ナンシーは眠ってる」僕はキッチン我が綺麗好きの新妻ナンシー、我が不潔なる友人 ( リイ 以上言う必要があろうか。どっちに転んでも、ナンシーは怒るの 冫洋旧。カ一し ハリイがついてきた。二人でタ方、一杯やったのだが、 奴はそれからやりつばなしの様子だ。ビールを二本出して、一本渡だ。 してやった。 「フローズン・ダイキリだっ」と僕が提案した。何杯分か残ってい 5 リイはウォッカの壜にひっかかり、曇 2 「遠慮する」と言って、 ハリイは僕の横をすり抜け、ナンシーが酒るラムの壜が見つかった。ハ を買い置く食器室に、ふらふらはいって行った。 はキッチンにやって来た。ハリイは壁に寄りかかって、天井を見つ
しまったものだから、僕は化物の嘴の切れ味を感じ、歯に縁どられ「直してもらえたとしても、食樶と空気の供給元のドロドロなしじ や、大変だぜ」と僕は心配を口に出した。 た吸盤の痛みを感じ、食物にされることの恐怖を感じてしまった。 「直すものか」とノームは言い、「誰にもここに戻って来てほしく 「急げ」とハリイの怒鳴り声。「超ドロを出すんだっ」 ノリ′・カー / ーには、慣性巻き取り機の作り方を そうかつ。超ドロがあった。僕は船に跳びこみ、トイレ排出口をない。さらに、、 開けた。最初は何の反応もなかったが、僕が腕を突っこんでやる忘れてもらう」 「パッ」とス。フライトが言って、杖でハリイの頭を叩き、「これで と、ドロドロが押し寄せてきた。 「車の下にはいれ」と ( リイが妖精に言う。「反対側に回って、イ良し」 力が超ドロを食おうとするまで待て」 僕は急に、周囲に広がる宇宙の虚無が恐ろしくなった。 「こうしてくれると思ったよ」とノームは楽しげで、「人間諸君は「助けてくれ」と僕はゴ・フリンに頼みこむ。 「僕らが戻る方法はないのかい」 嬉しいほど連続的だからー ドロドロはポッテリと僕を追い求め、スラヌラした表面が律動し「すべらり行け」 ている。僕はこいつを、砕けたウインドシールド越しに、宇宙にお「どうしたらいいかわからない」 びき出した。ドロドロは真空に適応させてあるから、痛痒も覚えて「押してやろう」とノーム。「どこに着きたいね」 「それに何時 : : : 」とス。フライトが付け加える。 いない。流れ出してきて、一層ふくれあがった。すると宇宙イカの 「ヴァージニアにある、ナンシーの姉さんの家」と僕 3 腕が、僕たちめがけて再び伸び出してきた。 「六月二四日」とハリイ。「それしかない。お願いだから送り返し 素早い、無慣性下での身のひねりとこなしで、僕は他の連中と一 緒の、車の下にのがれた。妖精末のを使うと、ドロドロとイてくれ。慣性巻き取り機の造り方は、本当に想い出せない。保証す カ双方の感情がわかる。食うぞっ。掴まえるぞっ。食うぞっ。掴まるよ」 えるぞっ。 ゴプリンは踊り、ス・フライトは杖を振り、ノームは僕たちの背に 二匹は長く別れていた恋人同士のように触れあった。触手がドロ手を置いて押した。僕たちは、もんどり打ってすべらり来。そして ドロを捉え、 ドロドロは触手を包みこむ。恐ろしい嘴が超ドロドロナンシーの姉さんのダイニング・テー・フルの上に落っこちた。 の一塊りを呑む一方で、ドロドロからの酸がイカを大きく溶かして ナンシーは、まずまず、僕と会えたのを喜んでくれた。僕はナン いく。ものの数分で、何も残らなくなった。二匹は完全に互いを食シ 1 の寝室を寝ぐらにし、ハリイは長椅子に泊めてもらった。僕た い尽くしたのだ。 ちとしては、何週間か身をひそめておく計画だった。万事うまく収 「電子と陽電子の出会いみたいだ」とハリイは驚嘆し、「さて、こまるはずだった。ナンシーの姉さんさえハリイに e > を修理するよ れでお三方は宇宙船を直してくれるのかな」 う頼まなければ。けれど、それはまた別の話。 248
めた。僕は氷と濃縮ライムエードを冷凍庫から出す。こんなことし てちゃいけないんだけど、と心に思いながら。 「すごい天井だな」とハリイ、「あの剥がれ方さ」 確かに変わった天井なのだ。ナンシーと僕とが引っ越してきた翌 週、キッチンの天井のペンキに火ぶくれができ、七カ所で破裂し た。けれども、ペンキが新しかったために剥片が落ちてくることは なかった。その代わり、七カ所で白い下塗りが・フョ・フョとふくれ出 し、その周りをとりかこんで剥げかけた薄茶色ラテックスの襞襟が たれ下がっている。 「クラゲだ」とハリイ、「透明宇宙イカ」 僕はミキサーに、入れるものを入れてスイッチを押した。ザザ、 ザザ、ルルルルル、チ、チ、チ。味見する。フォッ。ライムエード が多すぎる。 ハリイは僕の顔つきを読んだ。「二クオートを丸々入れたんだ 氷を足した。ザザ、ルルル、チ。注いで、注ぐ。 「水っ・ほい」とハリイは杯の中味をミキサーに戻し、ウォッカの壜 を渡してよこす。僕の手が半パイント注ぎこむ。ザザ、ルル、チ。 完璧だ。 「何を教えてるか言わなかったな」とハリイ。 「お前さんが話したくないかと思ってな。作用は反作用に等しい か : : : 。電圧は電流かける抵抗、か : 悪いな、ハ リイ、本当に すまん。商売がチャンとしたら、まっ先にお前さんを・ : ・ : 」 「面白いんだ・せ、。フレツ。フ・スクールで教えるのって」とハリイ は奇妙な徴笑をうかべ、「精神を刺激することったら、きわめて有 益」 ルー一・ラッカー かねてから海外にくわしい一部のファンのあいだでは評判た った異色新人の初紹介。もっとも、東北大学研の〈 〉七号が、すでにこの作家の小特集を組んでいるので、 興味のある方はそちらもどうぞ。 ルーディ・ラッカーの本名は、ルドルフ・フォン・ビター・ラッ カー。一九四九年ケンタッキー州生まれで、哲学者・・・ヘ ーゲルの曽曽曽孫に当たる。子供のころからのファンで、一九 六〇年代にはビート族となり、ケルアック、・、 ノロウズなどを耽読。 その後、ナポコフ、ポルへス、。ヒンチョンなどを読みあさっている ころ、スビンラッドのハッグ・ジャック ・・ハロン』やエリスン編 の『危険なヴィジョン』に出会い、を書きたくなったという。 熱烈なロック・ファンでもある。 本職は数学者で、ニューヨーク州立大分校で数学を教えていた が、変人という理由でクビ。たまたまドイツのある財団から助成金 が下り、一一年間ハイデルベルクに留学して連続体仮説を研究するこ とになり、その余を利用してを書きはじめた。「カントール の連続体仮説とは何か ? 」という副題のついた第一作『ホワイト・ ライト』 ( 一九八〇 ) を含めて、現在までに四冊の長篇と一冊の短 篇集、それに数学関係の / ン・フィクションが二冊あり、一九八二 年の『ソフトウェア』は、年間最優秀のオリジナル・べー クとして、フィリツ。フ・・ディック記念賞を受けた。現在はヴァ ージニア州リンチ・ハーグに奥さんと三人の子供といっしょに住み、 女子大で数学を教えながら、最新作『フォールアウト』を執筆中。 第三次大戦後の世界を描いた小説らしい っ 4 2 一
月は落ちてくる。地球の引力に抗う動きがない以上、毒にあたった「我々を外の世界の慣性作用から切り離してる」と ( リイは言い、 ナマズみたいにたぐり寄せられるしかない。ついには : : : その時ま「慣性って何だか、わかるかい」 しつも酔っぱらうこと。ジョ 「あなたとジョーイが、わけもなく、、 だ気にする人間がいるとして : : : 地球も月も太陽に落ちていく。 ーイと私が、昨日も喧嘩したからってだけで、今日も喧嘩になるこ 回転するクオーコニウムの塊りの音が、心なしか高まったよう だ。実際、速度を早めているのだ。あとどれぐらい、時間があるのと。あなたと私が、相手が自分を嫌ってるからって、お互いに嫌い あうこと」ナンシーは言いやめて、今言ってしまったことを考え だろう。十時間か。十日間か。 「ジョーイツ。どこにいるの : : : 」我が連れあいの悲嘆の叫びだ。 「いま行くからねつ」大間違いだっ 「全部そのとおりだよ、ナンシー。それで物理学では、物体が運動 僕は跳ね起きながら叫んだ。 た。僕は天井の裸電球を頸で叩き割った。真空管で一杯の棚に躍りの変化に抗うことを、慣性と言うんだ。慣性は宇宙全体の属性だ。、 こんだ。慣性巻き取り機の真上に着地した。恐るべき一瞬、慣性を恒星があるから、我々にも慣性がある」 「つまり星座が人の性格に影響するみたいなこと : : : 」 巻きつけたクオーコニウムの塊りが、僕の頬を撫ぜて回っていた。 「さあ下ーーそうかもね。ただ、僕が言ってるのは物理学だ。僕が その滑らかにして陰険なこと、吸血鬼の最初の接吻のごとし。 作ったこいつだが」と ( リイは慣性巻き取り機を指し、「こいっ 階段の踊り場の灯がパチリとっき、そこにナンシーがいた 「何なの、ジョーイ。どうして重さがないの。転んでばっかりなのは、自由クオークの殻を作り出す。殻はどんどん広がっていく。殻 ・ : 」ナンシーは階段を転げ落ち、僕とハリイと慣性巻き取り機が慣性場の線に触れるたびに、線は。フツツリ切れる。どんどん沢山 の線が切れていく。じきにこの近所一帯に慣性がなくなり、次にゾ の横に落ち着いた。階段口からの四角形の光が、僕たちのスポット ・ライトになった。まるでテネシー・ウィリアムズの芝居の、三人リンストン全体、それが国中になり、世界中になり、やがては・ の堕落者だ。 リイ」僕の声はかすれて弱々しかった。 「あとどれぐらいだ、ハ 「ハリイがこの機械を作ったの : : : 」 ハリイは本気で優しい言い方をしている。 「そうだよ、ナンシー」 「そうさな、お前さんが言ってるのは、非線形の偏微分方式を解け ハリイは、突拍子もない曲の一節をハミング さっきの僕と同じく、奴も、もうじきみんな死んでしまうことを悟ってことだから : : : 」 し、「 : : : 徴細構造の定数 : : : そいつの双曲線正接 : : : うん、二六 ったようだ。僕はナンシーの手をとった。 「どうして、こんな所で寝転がってるの。どうして機械を止めない ・三四時間というところか。その前後だ」 「その時、どうなるの」ナンシーが問い詰める。 「その時、月が完全に慣性を失う」と僕、「そうなれば、月は落ち 「止まらないんだ」 て来る」 「じゃあ、この機械は、つまり何をやってるの」 232
ノタゴンだ」と僕は言い張り、「右手のあっちだ。左側に何かを投た。 リッノよ、し 丿々としたオランダ系ペンシルヴェニア マックス・モ げれば、あっちに向かえる」 「靴にしよう」と ( リイが言い、左腕で僕につかまりながら右手を人で、・フロンドの髪を額から後ろに撫でつけている。頬はポッチャ ノナこの田刀にとっ リして、眼の色はデルフト焼きの陽気な・フレー・こ。 伸ばしてローファーを脱ぎ、左向きに、一度、二度と投げ棄てる。 て、戦争は遊びだ。動物をいじめるのが好きな子供と同じく、快活 それだけで充分だった。僕たちは河畔の公園に降りて行った。 ・ヘソ . ダ・コン 着地はうまくいったが、国防総省までの一マイルが、ちょ「と難な意地悪さがある。 ( リイと僕は、教年前、特殊な光線を当てるこ 物だった。慣性がないと、普通に歩くのは不可能だし、かといっとによって水を放射性にする方法を発明し、モリツツのお気に入り リツツは今でも、これを実際に試す機会を待ってい になった。モ て、もう一度ジャン。フを決行するのは願い下げにしたい。結局ナン シーが変型ウサギ跳びをあみ出し、ハリイと僕はナンシーに従っる。 「この大規模停電を起こしたのが、諸君だというのは本当か」と将 て、跳んで行くことになった。 いつも何かを呑みこんでいるような声なのだ。 ジョージ・ワシントン公園道路は、信じがたい光景だった。まだ軍のヨーデル声。 「まったく、そう願いたいもんだ」 運転しようとする人がいて、車の動きはスビードアツ。フしたストッ ・フ・モーション映画のようにギクシャクしていた。ゼロから百マイ「ええ、本当です」と僕。「 ( リイが、慣性巻き取り機なるものを ル、そしてまたゼロへと、これで三秒間。自動車同士、追突ゲーム作りましてね。こいつが、外の宇宙と我々をつなぐ絆を切るんで す。慣性場の線が断たれ、電磁放射も妨げられます。問題は : : : 」 のようにぶつかりあい、それで誰も怪我をしていなかった。 幸いハリイが、まだモリツツ将軍の専用電話番号を憶えていて、 「ロケットが要るんです」と ( リイ。「慣性巻き取り機を、すぐに さして障害もなく警備を抜けられた。着地の三十分後、僕たちは国も載せなくちゃならない」 リツツは嬉しげに、「できり 「ロシア人どもに送りつけるのか」モ 防総省の中枢、状況室にはいっていた。 巨大な壁の世界地図が部屋を圧していた。その中の電子表示装置やいいんだが。政治屋どもという手合いは、用心深いばかりのノロ マでな。願い出てもいいが : が、・ O 周辺を大きなグレイの輪にかげらせている。南へはヴァ ージ = ア州の大部分を含み、北へは、ちょうど = 、ーヨーク市に達「ロシア人に送りつけるんじゃありません」と僕はロをはさみ、 「宇宙に送り出すんです。慣性巻き取り機の作用範囲は広がり続け したところだ。 「 ( リイ」と男の、甲高くて息のつまったような声がした。「フレていて、止められません。あと二十時間もすると、月にまで作用が 及びます。慣性による遠心力がなくなれば、月は落ちてきて地球全 7 モリツツ将軍だった。他の高級将校と一緒に、長いオーク材のテ体をメチャメチャにしますよ。解決策はただひとつ、慣性巻き取り 1 ブルについている。ナンシーとハリイと僕は、すり足で近づい機を太陽系外に出すんです」
「やったな」用心しながら、僕は立ち上がり、「大声を出さないでらない。 「クオーコニウムの表面は、とっても : : : 粘着力があるから」とハ くれ。さもないと殺すぞ。で、何をやった : : : 」 「見てくれ」ツルツルの氷の上を行く、関節炎の八十翁といった慎リイはロごもり、「慣性場の線は全部からめ取られていく。たふ 重さで、 ( リイは椅子から立って作業区域に案内した。片付けた床り慣性を得ているから、もっと慣性を増していく」 「じゃあ、いっ止まるんだ : ・ の上に、慣性巻き取り機が鎮座していた。 「そ、それが : : : 止まらないと思う。自己永続的なんだ」 基本的には単なる電動ジャイロスコー。フだが、突き出したロータ リイ、熱力学の第二法則はどうなる : : : 」 「そんな莫迦な、ハ 1 に何かの固まりが付いている。巻き取った慣性か : 「これは別なんだよ、フレッチ、これはクオーコニウムなんだか 「クオーコニウムだ」とハリイはささやき声、「最後の入荷分か ら、取り分けておいた。物質と反物質の中間物だ。先週、こいつにら」 高エネルギー真空スパッターをほどこして、ある種のフラクタル表地下室の片隅に、大鎚があった。僕は、そいつを取ってきた。び つくりするくらい、たやすく持ち上がった。ジャイロを前に、しつ 面形態をこしらえた。今や大量のクオーク対が分裂している。ここ かり足を踏みしめ、振り下ろす。ジャイロは床の上を数フィ までやったら、あとはそれを回転させるジャイロがあれば良かっ すべり、僕は倒れた。いいだろう。一発目で成功するとは思っちゃ た」 いない。およそ十分間も、これを続けた。ハリイは黙って眺めてい 「前もって言えばいいのに」 「すぐ上にあがって行っちまうとは思わなかったんだ。もう一杯、」た。 とうとう、まぐれ当たりでジャイロ台を割った。ローターは外れ どうかな」 「とんでもない。誰か怪我でもしないうちに、こいつを止めるんだて床を転げ、やがて突っ立って回り続けた。巻き取った慣性のキラ キラした塊りが、子供のコマのように回っていた。あれだけ叩き続 な。外に出て見たけど、こいつの作用範囲は目に見えて広がってい る。今は我が家だけだからいいが、放っておくと、近所まで広がつけて、結局、何にもならなかったのだ。 僕は両手両足からカを抜いた。重力がしばらくの間、僕の体を床 てしまう。告訴ものだ・せ」 リイが心配顔で、脇に立 の上で弾ませる。僕は転がったままだ。ハ ハリイは、ひどく気詰まりな顔をしたが、何も言わない。 「よし、わかった。僕が止めてやる」僕は前かがみになろうとしてった。思いきり強く、脚を払ってやった。重力がしばらくの間、奴 倒れ、四つん這いのなりで電動ジャイロのコードをつかみ、グイとの体を弾ませる。やがて、奴も僕の横に転がった。 引、た。・フラグが飛んできて、僕の額に当たって跳ね返った。ハ 1 僕は眼を閉じ、無慣性の黒い球体を思い描いた。球体はどんどん イが、もう抜いていたのだ。僕はジャイロを蹴った。コンパス抜き大きくなる。じきに地球全体を包みこむ。大混乱だ。球体は、まだ のローターは、あちこちへ首を振る。かすかな回転音は、毫も弱ま大きくなる。しばらくすれば、月も包みこな。慣性がなくなれば、
コール過多がこたえ始めているのだ。それでも、無慣性状態で愛し 「頑固さじゃなく、慣性だろ、ナンシー」 「これは物理学だけのことじゃないのよ」というロ調は、明るく楽あうのは素晴らしいので、つい しげで、「ひとがいつも同じように振舞うのは、他の人の眼がある「エ〈ン」 ハリイ。今、ちょっと : : : 」 からよ。社会が割り当てた役柄に、押しこめられてしまうの。物も「もう戻「たのかい、 「電話については、お前さんの言ったとおりだ。モリツツのところ 同じ。星や星雲が『さあ、何々はそこに居ろよ』って言うと、ここ に、こちらから出向いた方が良さそうだ」 に動くのは大変な騒ぎなの。視線の圧力、それが慣性よ。でも、今 僕は起き上がって、着衣を直し、「何だって : : : 」 の私たちは、一緒に巻きこまれてしまっている。一枚の毛布にもぐ りこんだ子供たちみたいに。大人は、私たちが何をやってるか、わ「すごく高くまでジャン。フできたって言「たろ。七里靴でワシント からない」ナンシーは僕に抱きついて、・フチ = ッとキスし、「さンまで散歩だよ」 「早く飛びすぎて、球体の外に出たらどうするんだい。あんなジャ あ、 ハリイ、あなたも私にキスしなさい」 ン。フのあと、慣性つきで着地するなんて、飛行機から落ちるような 「やめとこう。二人でせいぜい楽しんでいてくれ。僕は上に行っ もんだ。即死間違いなしだよ」 て、マックスに電話する」 リツツに見せなくち ( リイは上で、しばらくドタ・ ( タやっていた。そのうち誰かに喋「慣性巻き取り機は持っていく。どっちみちモ っている。交換手だ。ナンシーと僕は、それを無視した。楽しんでやなるまい」 いた。唯一、水をさされたのは、僕の想像の中で、視野の隅に、人そうか : : : そうだな。僕はあたりを見回して、回転する慣性巻き 影がチラつくことだった。妖精や仙女のような、輝く人影だ。アル取り機を持ち運ぶものを探した。 「私も行く」とナンシーが、慎重に立ち上がる。 「おい、ナンシー 「ええ、行きますとも」 ナンシーらしいや。「 0 ・、わかった。君も おいで。・ O 見物できるかもしれない。小切手 帳を忘れないように。帰りは・ハスってこともあ る。それと、慣性巻き取り機を人れるものはない かな : : : 」 「あなたのランチ日ポックスはどうかしら。前に オフィスに通ってたころ、使ってた奴」 234