れようとしていた。誘拐された姫も、今では国枝城の地下の拷問室けると、階段を駈け上り、全力で城外へと走り去ってしまったの の骸骨の一体と化しており、七代目城主も数百年前に食中毒で没し だ。顔に国枝博士の靴の跡をつけたマグロ男が、呆然と博士を見送 るのだった。 ているのだが、左馬之介にとって、そんなことは知る由もない。 「し : : : しーらかんス」 「姫、しばらく我慢くだされ。今、左馬之介が助けに参上します」 左馬之介は天にむかって、そう咆哮した。三百五十年の年月の果 てに左馬之介が青年でいられるというのは信じられないことだが、 左馬之介は、彷徨していた。己れが、どのくらいこの樹海の中に それは、左馬之介が姫を救出しなければならないという目標意識が いるのか、殆ど不明であった。ときおり間歇的に「姫、いまにお助 彼を超常的体質に変化させていたのかもしれなかった。 け申しあげます。この左馬之介が」と叫ぶのが狂気じみて聞こえる 「姫、お待ちくだされ。今、左馬之介が : : : 」 のだった。まず、原点として姫と結ばれたいという欲望があった。 さまよ 姫と結ばれるためには、姫を救出しなければならないという必要性 左馬之介は、彷徨える若侍であった。 が生じた。姫を救出するためには、まず神州国枝城に辿りつかねば ならない。しかし永年の彷徨の間に、原点の欲望は歪曲され、ロで マグロ男は、地下の研究室の鍵穴から中を覗きこんだ。中では、 は「姫、いまにお助け」というのは裏腹に、神州国枝城に辿りつく 如何なる光景がくり広げられていたのか。 ことが自分の欲望を達成することになるという″目的意識のすりか 「熱い ! 熱い ! 」国枝博士の叫び声だった。 え″が、おこなわれていた。だから、ときおり思いだしたように 鍵穴のむこうで、国枝博士が部屋中を全力疾走しているのだっ た。自分では疾走方向がコントロールできないらしく、何度も壁に「神州国枝城 : : : 」と呟くと、己れを勃起させていることに気づく のだった。そして自分に言いきかせた。私は″愛″のために彷徨っ ぶつかっては、ひっくりかえっていた。 「足が : : : 足が止まらない。私は、・フレイク・ダンス菌を創造しょているのだ。心は寂しい愛の狩人なのだ。愛こそすべてなのだ。す ると叫ばずにはいられなくなった。 うとしたのに : : : できあがったのは、暴走菌だったのか。うわあ。 ドスツ。ポテッ。うわわわわわ」 「姫、いま、この左馬之介が参上しますぞ」 マグロ男は、すわ、博士様の一大事と扉に体当りした。扉は簡単彼方に土煙が見えた。人だった。誰かが、この樹海の中を驀進し に破れ去ったのだ。 てくるのだ。 「うわ、うわわわわわ」 何年、人に会わなかったのだろう。左馬之介は思った。近くの村 ちょうどそのとき、博士は扉にむかって突撃しつつあった。 人なのか。それとも樹海に住む原住民なのか。どちらでもいい、城 「うわ、うわわわわわわ」 のありかを尋ねてみよう。 熱暴走菌の培養生体と化した国枝博士は、破壊された扉を駈け抜「これ、これ、ちと尋ねるが : ・ : ・」 287
ギャルたちが優雅に舞い狂う私を尊敏と畏怖の眼差しで眺めるにち : 、よい。私は全世界のディスコを征服できるのた。ワハ ワ怪奇マグロ男は、地下の石畳をほうきで掃いていた。別に座、芥 の類は落ちていないのだが、それがマグロ男の習慣となっていたた 何故か、そこでまた雷鳴が響き、稲妻が博士の顔を照らすのだつめである。自分は、この城を掃除するために生を受けたのである。 それが自分の生存理由であると信じていた。国枝博士サマが立派な 筆者は、ふと、ここで思ったりするのだが、この国枝無双の小児研究デキるように掃除しなくちやナンネ工。そうマグロ男は自分に 体験を描破すれば、それなりに面白い話ができあがるんではなかっ いつも言いきかせていた。唯一の楽しみは、あてがわれた屋根裏部 たろうか。″何故、彼はマッド・ サイエンティストになったのか屋で「おしん」の再放送と「ヒット・パレード 」を見ながら草加せ しいや。かなり屈折した幼児時代を送ったことは確実なんべいを。、 / リ・ ( リと齧るくらいのものだった。おしん、可哀想だっ ようだし。これだけは、断言できる。彼は、舞踏病菌の突然変異体ペ。あれからすれば、オンレ幸福モンダ。そういつも、心で自分に を創造して、全世界のディスコを征服しようという野望を抱いてい 言いきかせるのだった。 るのだった。 マグロ男は、ほうきを持つ手を止め、エラの間から、一枚の写真 実験装置の博士側に三つの窓が横に並んでついていた。チーン。 をとりだした。中森明菜の写真であった。可愛エー。そう言おうと 最初に左の窓に、鈴の絵が現われた。チーン。真中の窓にも鈴。チした。しかし、マグロ男のロをついて出る言葉は、悲しきかなゴポ 1 ン。最後の窓にも鈴。ジャックポット。 ゴ・ホという音に混って「 : : : しーらかんス」 「できた。プレイク・ダンス菌の誕生だ」 そのとき、研究室の中で、・ハタ・ハタという音が聞こえはじめた。 試験管を孫の手マニビ - レーターでとりだし、内容物を注射器に何だべ = 。マグロ男は思った。誰かが、研究室の中で駈けまわって 移す。国枝博士は感激のあまり叫んだ。外ではいまも何故か雷鳴が いるのだ。一体、誰が何のために地下の研究室の中を走りまわって 轟いている。 いるのだ。ま、まさか国枝博士サマにまちゲエが : 「イツツ・アライプ。スティン・アライ・フ」 意味不明であった。 ちょうどその頃、唐突ではあるが、神州国枝城を取りかこむ樹海 注射器を手にした国枝博士の脳裡では、ディスコでスポットライの中を、一人の青年剣士が彷徨していた。彼は天才剣士と評された トを浴び舞い狂う己れの姿が去来するのだった。指先が小刻みに震ほどの若侍、その名を左馬之介という。神州国枝城七代目城主、国 えていた。さあ、いよいよ注入するのだぞ。 枝館大の陰謀により誘拐された姫を救出せんがため、幻の神州国枝 プスリツ。 「フゥー」 城を探し求めようとしていたのであった。 それが破局の序曲となった。 左馬之介が、この樹海に迷いこんで、はや三百五十年の歳月が流 286
神州の、人も踏みこめぬ山奥深く、木々もウッソウと立ち繁り、界をその後、狂乱の渦に叩きこむことになろうとは、この時点では その樹海の合い間に女陰のごとき裂が走っていた。謎の渓谷なの誰も予測できなかったはずだ。 国枝無双は、ライフサイエンスの実践者であった。つまり、科学 であった。その近くを高速道路や産業道路の幹線が通っているのだ が、謎の渓谷は何故か開発計画からとり残されてしまう運命にあつ者である。だが、学界とは無縁の孤高の超科学者なのだ。しかも頭 サイエンティストの末裔なので た。というのが、開発計画に携わる担当者が、謎の渓谷に目をつけに″狂〃がつく由緒正しきマッド・ た途端、交通事故にあったり、チーズケーキに顔を突っこんで窒息あった。 ハラダギ しつも濃霧がたちこめており、 したり、下痢が止まらなくなったりと謎のトラブルに巻きこまれる神州国枝城の周辺には、、 のだった。そんな謎の渓谷なぞ本当にあるのかと疑問に思われるか神の吼声や、満月の夜にいななく人狼の声以外には、時おり土地買 もしれないが、実は、本当にあるのだ。ちゃんと地図帳にも載って収に訪れた不動産業者が谷底に墜落する際に発する悲鳴が聞こえる いる。しかし、地図帳にも正義の地図帳と悪の地図帳が厳として存程度のことなのだが、国枝無双 ( 自称 ) 博士が、一歩研究室に足を 在しており、悪の地図帳を見ても載っていない。正義の地図帳に踏み入れると、日本睛の空に、にわかに暗雲がたちこめ、稲妻と雷 鳴がけんを竸いあいはじめるのだった。人は、それぞれ生まれつい は、ちゃんと神州の阿蘇山のふもとを流れる北上川の上流あたり、 千代田区と書かれた下あたりにゴシックで「謎の渓谷」と記されてての素質というものを有している。政治家では天性のカリスマ性と いうものを有しておらねばならず、人々は自然と指導を仰ぎたがる いるのを見ることができる。ただし、最近の地図帳は、ほとんどが サイエンティストにして 悪い地図帳になってしまっている。これは仕方のないことだ。「グほどでなくてはならない。それはマッド・ レシャムの法則」のとおりなのである。悪い地図帳は、良い地図帳も同様であり、博士が研究を始めようとすれば、天地は不安気に大 サイエ を駆逐するのだ。 騒ぎを開始するほどでなくてはならない。それが、マッド・ ンティストとしての最低限の素質というものである。落雷の三つや さて、話を進めると、その謎の渓谷の断崖の縁に、古城がそびえ ている。この古城は、やはり何と言っても圧倒的に古い城なのであ四つあって当然であり、それが最適の研究環境のはずであった。 った。どのくらいの歴史があるのかといって、人跡未踏の場所にあ 国枝博士は、研究用の白のナッパ服で、眼球に触れかねないほど る城であるから誰も知らないのだった。 湾曲した凸レンズ眼鏡をかけている。太陽を仰ぎ見れば焦点の位 しんしゅうこくしじよう その城の名を「神州国枝城」というのだった。 置に眼球があるため、即座に目玉焼ができるはずであった。正面か 神州国枝城には、実は城主がいるのだった。しかし、この物語のら士と対峙したとすれば、総髪ふり乱した顔の中に二つの糸 時代背景は現代である。城主といっても殿様ではない。先祖は代々ズの群らがった。ヒンポン玉を見届けることができるはずだ。それが 3 この神州国枝城の主であり、現在の城主、国枝無双もこの城を継ぐ眼球。巨大なのだった。ロは糸の如き下弦の月。年齢は不詳。研究 さだめ 運命の下に生命を受けたのだった。だが、この国枝城の城主が全世中には決してニタニタ笑いを消さないのであった。
国枝博士は数本の試験管とフラスコを両手に持ち、あぶくや煙でル」と名付けたほどだった。しかし、時が流れるにつれ、国枝博士 むせかえりながら、壁に、それを投げつけ低く呻くように言った。 の興味はマグロ男から新しい研究へと移っていき、今ではマグロ男 2 は国枝無双の下男として仕えていた。 「くそっ。失敗だ。夕食のカレーライスを作ろうと思ったのに : ・ : またができてしま 0 た。は何だ「たつけ。そうだ、金か。あ怪奇「グロ男は、半魚人である。マグロに手足が生えていると思 えば一番てっとり早い。そのマグロ男が、ほうきとチリとりを持っ れは味がないからな。くそ、俺が欲しかったのは金黄色のカレーラ イスだったのに。、 しつもカレーを作ろうとすると金ができてしまてのっそりと廊下に姿を見せた。魚の腐ったような目であった。 「あっ、マグロ男。夕食にする。『博多ンもんは横道者、青竹割っ う。今夜もタ食は、おあずけなのか」 博士は何度もカレーライスの製造に失敗し続けているらしく、試てへコにはく、ばってんラーメン』はどこにあるか知らないか」 マグロ男はしばらくの沈黙の後、気の抜けるような声で言った。 験管の投げられた壁の下にはいくつもの金塊が転がっているのだっ こ 0 「しーらかんス」 註 2 「仕方がない。今夜も『博多ンもんは横道者、青竹割ってへコには 「じゃあ『住尾のアベックラーメン』でもいい。知らないか」 しばらく沈黙が続く。 く、ばってんラーメン』を食べるとするか」 : しーらかんス」 国枝博士は髪をかきむしりながら廊下へまろびでた。 「じゃあ、今度は知らないと言わせないぞ。『サイホー焼豚ラーメ 「おーいマグロ男」 註 3 マグロ男とは国枝博士が創造した人工生命なのだった。博士は冷ン』はどこだ。さあ、今度は知ってるはずだ」 凍人間の研究に一時、没頭したことがあった。そして大胆な仮説を「・ : うちたてたのだ。 冷凍マグロと人間をかけあわせれば、冷凍人「 : ・ 間が誕生する , 大胆な仮説であった。しかし、その仮説はあまりに大胆すぎて、 実践時には失敗を招いたに過ぎなかった。 冷凍マグロと人間をかけあわせても冷凍人間なそ誕生するはずが ードじゃ ) そのかわり、マグロ人間がで / 、刀 4 ~ 0 ( ムツ 0 、 きてしまったのだ。 怪奇マグロ男の誕生だった。科学とはそういうものである。 当初、国枝博士も、このマグロ人間の誕生には有頂天であった。 マグロ人間が初めて「アンヨは上手」と歩いた丘を「マグロウヒ : しーらかんス」 国枝博士は床にドテッと顔ごと突っ伏した。 よくやく起き上った博士は、古城の窓に歩みより、遠景を眺め た。タ焼け空に鴉がカアと鳴いて飛び去っていくのだった。 「そうだ、私はこんなアホなことに頭を労していてはいけないの 註 1 紅ショウガを入れて食べると味がひきたつ。 註 2 量が多のいで、一人で食べるときは半分の量を作るほうが ケンメイである。 註 3 スー。フが仲々ョいのであった。
伝統がもたらしてくれた文化的遺産の集積。 : : : ここいらは紙数をてしまったのだったこ もっと費して、もっと饒舌体で。へダンチックに語らねばならぬのだ結城を着た娘と、首相は、冷汗を垂らしながら呆然と見送ってい 9 ーしている : : : 核洗礼で日本の文た。思いだしたように首相は呟いた。「教養なのかな。こんなとき が、 : : : 作者は予定枚数をオー 化も歴史も減びさり焦土と化するというのであれば、避難し漂泊すに、一句できてしまった。・ 美しい日本、そんなに急いでどこへ行く」 る島国の民たちは何を精神的礎として生きていけばいいのか : ・ ・ : そんな発想ので そんなことなら : : : 何の手も打たないほうが。 てくるところが日本人が他民族と決定的にちがうのかもしれない : 彷徨していたはずの左馬之介は城の石垣に頭をぶつつけていた。 ・ : しかし」と不渡老人は横の結城を着た娘を指し、首相に言った。左馬之介が石垣の苔を剥ぎとると中から文字が見えた。それにはこ 「この娘は、まだ二十三じゃ。未来のある娘じゃ。こういう娘 : う書かれていた。「上がり。おめでとうございます。ここが謎の あるいは子供たちのことも、この提言は考慮してあるかな ? そし″神州国枝城です」 て、この美しい日本の国のことを : : : 」 「ここが、神州国枝城なのか」 結城を着た娘が頬をぼっと染めた。それから、「おら、こつばず感極ったように左馬之介は叫んだ。その時左馬之介は法悦にも似 かしいだ」と言うと右手で車椅子の背をドンと叩いた。その勢いはた歓喜を恍惚と感じていた。しばらく石垣に頬をすりよせ、舐めま 予想外に強かった。不渡老人は、あら、あら、あら、と叫ぶと、こわし、撫でまわした。左馬之介が、国枝城を探し出せたのにはわけ ろりと三和土の上に転がり落ちていた。予想外のできごとだった。 があった。それまで、左馬之介は、「国枝城はこちらの方角にちが 首相だけが、まんじりともせず、その場で冷汗を流し続けていた。 いない」と道を選択していた。それが誤っていたことを悟ったの そのとき、いづこから出現したのか、唐突に熱暴走患者の一群がだ。だから、左馬之介は、それからの行動基準を「国枝城は、こち 奇声を発しながら、三和土の上に転がった不渡老人の上を駈け抜けらの方角には絶対ないはずだ」という方角のみ選んで進むことにし ていった。 た。それが効を奏したといえる。「永い道程だった」左馬之介は言 意外であった。次の瞬間、踏みしだかれた枯枝のごとき不渡老人った。「そうだ、こうしてはいられない。姫、お待ち下され」 が、すっくと立上ったのだ。そして叫んだ。「立てたそ、二度と立左馬之介は刀身を抜きはなっと、ロにくわえ、石垣をよじ登りは 上ることはできぬと思っていた。ルルドの泉の水を飲んでさえ癒えじめた。本来の目的を思いだしたのだ。 ( くそっ。もう少しだ ) 石 なかった足が」しかし、それは糠喜びにすぎなかった。老人の足は垣が苔むしているため、仲々効率よく這い上れない。二十メートル 勝手に駈け回り始めた。不渡老人も奔馬性熱暴走の犠牲になったのも登ると、両指は血だらけとなった。腕が痺れ、何度も手を離した くなる誘惑にかられていた。そのたびに、美しい姫の横顔を思いだ だ。「おつ、歩けるぞ。おっ走れるそ。おつ。おつ。おっ」 おつ。おつ。と叫びながら不渡老人はいづこへともなく走り去っし、歯をくいしばった。あと数十センチで城壁の窓に手が届こうと
弧を描いてみせた。あたかも見栄をきっているかのようだった。すたのかー ミチパシリはあきれ果てた。 るとマシーンからミチ・ ( シリのツナギに様々な装置が付着してくる「四十秒経過。燃料切れです。停止します」 のだ。空気摩擦からの加熱を守る耐熱装置を始めとする生体維持装 ・ハイクは急に減速し、トロトロ速度となり停止した。国枝博士の 置群だった。 、王煙だけが、国道の果へ走り去っていくのだった。 それには、わけがあった。ミチ・ハシリがライダー願望を抱いた初心 ミチ。ハシリはしばらく放心したように、ロをぼかんとあけてい は片岡義男でも、大藪春彦でも高千穂遙でも戸井十月でもなかった。 た。後部シートに乗っていたはずの少女の両手を腰から地面に投げ 原点は仮面ライダーだったのである。まず出発点のコンセ。フトか捨てると、「くそっ。くそっ」泣きじゃくりながら、自分の・ハイク らして当然そのような仕様になるべきだったのだ。 を・フーツで激しく蹴りはじめた。「くそっ。くそっ」 ミチ・ ( シリのマシーンは噴射口から白炎を吐き、地表すれすれを 滑空した。デジタル表示に変 0 たス。ヒードメーターが加速状況を示午前八時四十五分。霞ヶ関ビル街のスクライフル交差点の四隅の していた。現在、ミチ・ハシリはハンドルに掴まっているだけでいい。 マン、 0 がひしめいていた。 歩道には、今、出勤途中のサラリー ヘルメット内部の脳波誘導装置が徴調整を行っているからだ。 信号を待つ人々の脳裏には、さまざまな想いがあった。 「十秒経過、目標捕促しました。時速六百三十」コンビュータ 「ちくしょー。今頃、計画書を再作製させるくらいなら、チェック の声がミチ・ハシリに言う。 段階で、そう指示してくれりや、よかったんだ」 彼方に土煙が見えた。 「明日で、定年か。明後日からサンデー毎日なんだなあ。再就職も 「二十秒経過。距離二百。現在時速七百」 予定がたたないのに」 信じられなかった。疾駆しているのはマシンではなかった。人間「今日、夕方、信夫さんに電話をいれてみよう。それで、き 0 と誤 なのだ。嘘だ、そんな馬鹿な。敵はサイボーグなのか。ショッカー解がとけるわ」 なのか。人間が時速七百で走るなんて。 「胃の調子が、変だ。前ガン症状ってのは、こんなじゃなかったろ 「三十秒経過目標に並びます。現在時速七百五十」 うか。昼休みに産業医に相談してみるか」 機械が人間に負けるなんて。俺だって 2 号線のミチ・ ( シリと異名「あっ、イイ女。あっ・フス。ナミ。ナミ。ちょっといい。 これセン をとった男だ。生身の人間を追い越せなくてどうする。くそっ。フ スイカン。ナミ。ナミ。うつ、イイ女。少し険があるかな」 ル加速だ。俺より速い奴なんて。くそっ。くそっ。 「昨日、よかったなあ。徹さん、おかえんなさい。御飯にする。そ ミチ・ ( シリは真横に並んだ男を見た。ぶ厚い眼鏡をかけた年齢不れともお風呂。それより先に : : フフフ。なあんて。結婚ってこん 明の白衣の小男だった。国枝博士であった。国枝博士は照れくさそなに気持いいのか。よかったなあ」 うにミチ・ ( シリに、にやりと愛想笑いをしてみせた。こんな男だ 0 「取締役会の決定事項について、異論はないのだが、要は、長期資 2 引
、、チ。ハシリは、ま だが、まだ二人は、遙か彼方から超常識的な速度で疾走してくるシリにとって九十五キロは巡航速度に過ぎない。、 男には気がついていなかった。昨日まで何の関わりもなかった男女だ白パイに捕えられたことがない。彼のナナハンはいつでも白。ハイ が結びついたように、今、この駅前の港町で熱暴走菌に汚染された など、ぶっちぎれるからだ。ミチ・ハシリは 2 号線のス。ヒード王であ 天才科学者と駈け落ちしたカツ。フルが、今、何の脈絡もなくぶつか ・、ーツの類ももちろ った。彼自身が考案したナナハンの付属工アロ / りあおうとしていた。 んだが、酸化剤を特殊燃料とする過給装置付機関に切替えることに 数秒後、道路の中央で、国枝博士と裕一、絵理子のカツ・フルは、 よって速度最優先のマシ 1 ンに変貌できるのだった。幾人もの命知 激突した。国枝博士は体勢をたてなおすと再び疾走を開始した。 らすの若物が″ 2 号線のミチ・ハシリ″にレースを挑んだりもしたの 裕一は倒れた絵理子を抱きおこした。「大丈夫ですか絵理子さ だが、いずれも、ガードレールにあたら若い命を散らしていたのだ っこ 0 ん」「ええ、でも : : : 変だわ。身体が熱いの。足が : : : 足が : : : 」 「し、実は私も : : : 足が、足が : : ・・」 前方の信号が赤に変った。ミチ・ハシリは減速し、停止線につけ 二人は、国枝博士と激突したことによって熱暴走菌の二次感染をる。スタンドをおこすと、ポケットからキャメルをとりだしジッポ 受けたのであった。しかも、熱暴走菌の潜伏期は極度に短かい。感のライターで点火した。煙を胸一杯に吸いこみ、ゆっくりと吐きだ 染と同時に症状が顕在化するのだ。奔馬性熱暴走と後に巷で称されすと、空に鰯雲の群れが散らばっているのだった。 る由縁である。裕一と絵理子も奔馬性暴走の症状を顕在化させて「倦るいな。 : : : 何もかもが」 いた。二人も疾走を開始したのだった。 ミチ・ハシリは、今、走る目標を持たなかった。ミチ・ハシリ自身、国 「絵理子さん、ぼくたち、もの凄いス・ヒードで走っている。信じら道 2 号線については隅から隅まで熟知していた。 2 号線ではミチパ れない速度です」 シリ以上の速度を有するものは存在しないのだ。 2 号線を走るもの 「家が飛ぶわ。林が飛ぶわ。山が飛ぶわ」 は、総て俺の掌の中にいるのだ。そうわかるだけに虚しかった。それ 「絵理子さん、ぼくたちはマラソン竸技に出ても優勝できるかもしは王者のみが持っことのできる虚脱感だった。「虚しい」呟いた。 「ミチ・ハシリさんでしよ。 れませんね」 紫色のポルシェが、横に停車した。 「何に出るの ? 」 ネ。ワア、感激」 ・ウインドウを開い 「そりゃあ、・ほくたちが出るんなら : : : 不倫ビックなんてどうでし前髪を垂らした十六、七歳の少女が、・ハ よう」 て矯声をあげた。 「ああ」 こうして奔馬性熱暴走は日本中に蔓延しはじめたのだった。 9 8 少女とドアを開いて助手席から降りてきた。「ミチ・ハシリさん。 2 あなたの・ハイクの後ろに死ぬまでに一度、乗りたかったんだ。乗せ ″ 2 号線のミチパシリ″は、時速九十五キロで流していた。ミチ
だ。夕飯の一食くらい抜いてどうだというのだ。カラスさん、今そ「さて、電源用スイッチはこれかな」 れがわかったそ。ありがとうー 博士がスイッチを入れると「ギャッ」国枝博士の眼前に刃のつい それから、マグロ男に博士はむきなおった。 た大振子が落ちてきた。拷問用の装置なのだった。 「タ食は抜くそ。地下の研究室で、遺伝子組替をやるのだ。新生命「あー驚いた。この間は水拷問用の地下水が溢れ出て溺れ死ぬとこ 菌を作りだすのだ」 ろだったものな。今度は、まちがえないぞ」 マグロ男はばかんとしていた。 次のスイッチで実験装置の明減が始まり、博士はレ・ハーをカ一杯 引っぱった。それから、作動している装置を離れ、博士は読者の方 拷問室を改造して作った地下室には、三角木馬やら鉄の処女やらへ再びむきなおった。 電動コケシやらの拷問道具がヤマと並べられ、朽ち果て風化した骸「さて、私は今、舞踏病菌の遺伝子組替をやっているところなの 骨群が恨みがましそうな姿勢にクモの巣を纏いっかせていた。 一四から一六世紀にヨーロツ。ハではベストと並行しておびただし その中央に巨大な実験装置が鎮座しているのだ。 国枝博士は、読者の視線を気にしながら、ひとりごちてみせるのく舞踏病が流行したのだ。これは筋肉群の不規則かっ不随意で目的 ・こっこ 0 のない動きに特徴がある。一度、この病に感染すると疲れきって倒 「これは、私が米国を旅行中にラスベガスに立ち寄ったときに、ホれる迄、興奮状態で踊り狂うのだ。これはイタリアではコモリグモ テルにあったスロットマシーンにヒントを得て製作したオート遺伝に咬まれておこるという言い伝えがあったが、最近では集団ヒステ 子組替装置なのだ。細胞をこの中に入れ、レ・ハーを引く、すると、 丿ーの結果であるという説が大部分を占めるようになっている。し QZ<< がガラガラと回転して組替わってしまう。さて、舞踊病菌をかし、私は、現実にコモリグモの体内から舞踏病菌を抽出すること 実験装置の中に流しこむとしようか。ふふふふふ」 に成功したのだ。 国枝博士はにたにた笑いを浮かべたまま、実験装置の前のガラス さて、私は先日、テレビでブレイク・ダンスなるものを見た。ロ 容器の中に試験管を置き、再び蓋を閉じた。博士は二、三歩後じさポット・ダンスとも言っておったが。その踊りに感動して練習して り、マニ・ヒュレーターの操作用ハンドルをとった。 はみたが、どうもうまくいかない。そこで、発想を得たのだ。私が 「おっとっと」 抽出した舞踏病菌を遺伝子組替技術によって、プレイク・ダンス菌 手もと装置に製作費がかかってしまったので、肝心のマニビ = レに変換させることができるのではなかろうかと。そしてこの実験に ーター部分の費用がでず、代りに孫の手をつけてあるので操作に熟及んだわけだ。もしも、この実験でプレイク・ダンス菌を創造でき 5 練を要するのだ。やっとのことで、装置の中に試験管の内容物を注たら、私は即座に、その菌を体内に注射する。そうすれば私は明日 からティスコの帝王になれるのだ。若者 : : : とりわけびちびちした 入することに成功していた。一
驀進しているのは、国枝博士であった。彼方で若侍が扇子を手に「奥さん」 して、博士を呼びとめようと待っていた。博士も止まりたかった。 「裕一さん」 しかし、どうにもとまらない。足が勝手に暴走していくのだから。 そして二人は道ならぬ恋に陥り、駟け落ちを選んだのだ。裕一は いかほどの速度で走っているのだろうか。若侍が扇子を振っ大企業のエ リートコースを捨て、絵理子は幸福な家庭と夫と子供を 捨てたことになる。 「ここいらに、神州国 : : : 」 二人の肩に小雪がうっすらと積っていた。二人は見知らぬこの地 あっというまに国枝博士は左馬之介の脇を駈け抜け走り去ってしで、小さな居酒屋でも開くつもりでいた。過去に口を閉ざし、その まったのだ。 日その日をささやかに幸福に生きていけることを望んでいたにすぎ よ、つこ 0 子 / 、刀ュ / 「ア。行っちゃった」呆れ顔で左馬之介は言った。 「これから、私たちこの町で暮らすのねー 絵理子が言った。 「裕一さん。雪だわ」 コートの衿を立て、ポストン・ ( ッグを持った絵理子が言った。裕「奥さん」裕一は絵理子の肩を損んだ。 「奥さんはやめて。絵理子と呼んで」 一は黙ってうなづき、ポケットをまさぐって二枚の切符を探した。 二人は改札口を出た。駅の前は波止場になっていた。どんよりと裕一は、絵理子のコートのポケットからのそいている一冊の本に ー・ハックで、〈シルエット・デザイヤ よどんだ遠景が広がっていた。モノクロームの海の上を数羽のが気がついた。それはペー 滑空しているのだった。 1 〉とあった。「絵理子さん : : : その本」 「もう引きかえせないのね」再び、絵理子が感極まった声で言っ絵理子は笑顔を浮べて答えた。 た。裕一と絵理子は駆け落ちして、この地まで辿りついたのだ。裕「あら、私、こんな本が大好きなの。まだあるわよ」絵理子はポス 一は大企業のエリート社員であった。しかし、上司の引越しの手伝トイハッグのチャックを開いた。中には、衣類が入っていると裕一 いに参上したとき、すべてが始まったのだ。上司の妻であった絵理は思っていたのだ。しかし、その中には本がつまっていた。〈ハ 子と、一緒にトラックから茶伏台をかかえて下したとき、視線が絡レクイン・ロマンス〉〈セカンド・ラブ〉〈シルエット・ロマン みあった。「奥さん」「裕一さん」熱情の視線が、おたがいの眼球ス〉 から激しく発せられ、二人の中間地点で視線のス。 ( ーク現象が発生裕一はげつそりしてしまった。絵理子は悪びれすに言うのだった。 した。 「私、こんな本、だーい好き」 数日後、再び、ある喫茶店で視線のスパ ーク現象が発生してい そのとき初めて裕一は、自分が誤った選択をしたのかもしれない た。テー・フルを間に、裕一と絵理子は睨みあっていた。 ことに気がついていた。 283
いう位置になった。疲労が限界に達しようとしていた。もうだめかません。そのような点を考慮いただければ、この作品も気持ちょ く、お使いいただけると思います。なお、乱丁、落丁の責任は作者 もしれない。手を離してしまうかもしれない。 にはございませんので遠慮なく早川書房に抗議の手紙をお書きくだ また、美しい姫が幻影として眠前に浮かんだ。そうだ、がんばろう。 さい。それでは皆さん、ごきげんよう」 ( オーソン・ウエルズ劇場 それから、過去三百年の習性が、無意識に起った。思わず叫んだのだ。 のテーマにのってフェイド・アウトする ) 「姫え、お待ちくだされ。今、左馬之介があ : : : 」 その拍子に、ロにくわえていた大刀が、ばろりと落ち、謎の渓谷 日本国土から、人間が消減してから久しい。日本全国を奔馬性熱 の奈落の底へ吸いこまれていった。「あ、落しちゃった。仕方な 。徒手空拳で乗りこむしかない」 暴走の狂乱が荒れ狂い、いまは静寂のみがある。熱暴走に感染した 左馬之介は油汗を垂らし、窓に手を伸ばそうとした。そのときだ人々は、その速度を無限大に上昇させ、光速度に到達したときに一 っこ 0 様に消失してしまっていた。思えば、たった一人の野心に満ちた科 窓から、ぬっと、魚と人間のあいのこのような怪人が顔をつきだ学者が生みだした熱暴走菌、ラスベガスのスロットマシーンにヒン トを得た遺伝子組替装置により生みだされたラスベガス生命群によ したのだ。 「わっ。わわわ」驚愕のあまり、左馬之介は両手を離していた。左ってあっけなく日本の日常は消失してしまったのだ。一億一千万人 馬之介の叫びに何事かと思った怪奇マグロ男が顔をつきだしたにすが駈けまわった日本の地表を、今、風が吹き抜けていくばかり。 もう、日本は死んだのだろうか。日本の国土を歩きまわる人間は ぎないのだ。 もう存在しないのだろうか。いや。 「わわわわわ 左馬之介は、哀れ、愛刀の後を追い、謎の渓谷へと真逆様に転落神州国枝城の城門が開き、人影がゆっくり歩みでてきた。それ が、日本最後の人間のはずだった。だが、普通の人間ではなかっ していった。 た。あの、国枝無双博士によって創造された、あの怪奇マグロ男な 「ええ、唐突ですが、作者の梶尾真治です。ここいらで、ソクラテのだった。新生命体であるが故に、マグロ男だけが熱暴走の感染を スもすなる弁明を、私もやってみようと思うのですが。この作品に免がれたのだ。いま、マグロ男は新日本民族としての宿命と責任を 対してと呼べないのではないかと感じられるファンも多数本人が望むと望まざるにかかわらず背負わされたのだった。ゆっく おられると思います。しかし、骨格だけは、まだの構造をりとマグロ男は一歩を踏みだした。果して、新日本は、このマグロ 有しているからです。つまり、人間が自ら生みだし利用するはずの男によって無事再興されるのだろうか。 マグロ男は、ロを開き、かすれ声で呟いた。「しーらかんス 技術というものが、それ自身、暴走を開始して制御不能となり人間 に反逆するという大筋においては、これは以外の何物でもあり 巨大な朝日がゆっくりと昇ろうとしていた。 299