オーウエル - みる会図書館


検索対象: SFマガジン 1984年3月号
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1. SFマガジン 1984年3月号

ーウエルの声がかまびすしくなったのは、 ックス、などといった「的小道具」のてみるべきである。「一九八四年」が書か 6 当の一九八四年をひかえて、まあ当然の成何割が的中したか、といった、あまりにもれたのは、第二次大戦後数年、スターリン 9 行きだったし、世のつねというものであっ皮相的な「予言者」視である。 体制が確立し、東西の「冷たい戦争」が明 むろんどのように一つの小説を読むのらかになりはしめた一九四七年のことであ った。なにゆえオーウエル : ルポルタ しかし、私が、我慢ならぬのは、「一九も自由だとはいえ、私はここでいちど断言 八四年」をもってオーウエルの未来予測のしておきたいのだ。「一九八四年」は予言 ージュと評論と「カタロニア讃歌」のジョ ジ・オーウエレ・、、 の書ではない。オーウエルは予言者でもな 書、予言、とみるたぐいの一部のマスコミ ノカ三十数年後の未来予 、未来学にも興味をもっていなかった。 測などに関心をもつだろう。この本は、オ のさわぎたてかたである。ロナルド・レー ガン米大統領をさして「ビッグ・・フラザこの小説を未来予測の書として読むこと ーウエルにとって、単に、警告と恐怖の書 ー」というていのものはまだよい。長いあは、何ひとつ、オーウ = ルのいわんとするでしかない。一九四七年当時に世界の示し いだ、「一九八四年」をきわめてすぐれた ことを見ていることにならぬ。むしろ逆でている危険な徴候にそって、世界がもし進 小説として読み、考えてきた私などの許しある。オーウエルは、・・ウエルズやんでいってしまうのなら、われわれはどこ ゴ ・ガーンズ・ハックとは根本的に : たいのは、オーウエルの小説の描いたもヒュ へゆきつくか、という、暗黒なサタイアと のーーーテレスクリーン、真理省、テレファ性格を異にする作家である。「当たった予してわれわれは「一九八四年」をうけとる 言者」扱いをされることは、文・ヘきなのだ。たしかにわれわれは「一九八 学者、ジョージ・オーウエルに四年」に追いついた。そして、今日の世界 とっては侮辱でしかないのだ。 はオーウエルを予言者扱いさせるほどに さよう、これは、たしかにきも、彼の描いたそれに似かよっているかも わめて誘惑にみちたおとし穴でしれぬ。だがそれは、われわれがあまりに ある。しかしわれわれは、断固も愚かであることをしか意味していない。 としてふみとどまらなくてはな一九四七年当時と一九八四年のいま、この らぬ。オーウエルにとって一九一冊のすぐれた文学の現実にたいして持っ しささかも変して 八四年は二九八四年であろうがている意味と距離とは、、 一九九九年であろうが何の違いはいないのだということを肝に銘じて、わ もなかった。オーウエルには、 れわれは、「一九八四年」を「ラルフ一二 未来を予言するつもりなどまっ四 O 四一十」と同列扱いすることを即刻や たくなかったのだ。マスコミはめ、虚むにオーウエルのことばに耳をかた すべてこのことをよくよく考えなけるべきである。どこが似ているの、何

2. SFマガジン 1984年3月号

01984 年に考え・ 1 特別土ッセイツリズ・ 1984 年 0 虚構真実 中島梓 イラスル→ョン佐治嘉隆 もっとも深く現実を見すえた SF のひとつ「 1984 年」一一一その 1984 年にあ たって、「 1984 年」の重みを支えつつ発言される問題工ッセイ・シリーズ それは、たしかに、きわめて刺激的な体 験であった。あるいは、大多数の人びと は、そういうであろう。一九八四年は、特 別な年である。オーウエレ・ : ノ力「一九八四 年」というタイトルの小説を書いたから だ。別に彼は、一九八七年をえらんでも、 二〇一八年をえらんでもよかった。しかし 彼がえらんだのは一九八四年であった。そ れには別にふかい意味はないと、私は感し る。なぜならオーウエルがこの小説を書い た一九四六ー八年からみれば、一九八四年 と一九九九年との間にはさしたる差異はな かった。オーウエルが「八四」を「四八」 をさかさにすることでつけた、ということ 自体にも、さして意味はない。要するにそ れはどんなっけ方をされてもよい「未来」、 ただ単に「未来」でしかなかった。 かくて一九八四年は明けた。かって、わ れわれは、ヴェルヌ、ウエルズにわれわれ 9 が「追いついた」ことを知ったものだっ た。こんどはオーウエルである。何だかお そろしく先にあるように思われていた「一 いまやわれわれ 九八四年」、その突端に、 はその足をふみ入れたのだ。あとはたた、 のこされているものは、二〇〇一年しかな

3. SFマガジン 1984年3月号

だ。一九四八年を戯画化して描いたオーウ った神にも、おのがよりどころを見出さぬ性か非人間性かーーもはやそれではダメな ・タブルシンク エルに、四十年もかけて、われわれ自身 ように、愛にもまた救いをゆるさない。ウのだ。二重思考の世界 , ー・。・あの有名なアイ ・、 0 しかもわれわれは、それをオーウ インストンとジューリアの愛は、互い自身ロニイ。 エルの手柄のように思っている。とんでも によって裏切られ、ウインストンは、歴史 ない。オーウエルはただ、ふみとどまった や小説だけでなく、愛さえも新たなビッグ 戦争は平和である にすぎないのだ。右にも左にもーーーユート ・ブラザーのものであるそれを見出したの 自由は屈従である 。ヒアにも革命にも過去にもゆくことのでき だった。ゴールドスタインの「例の本」す 無知はカである ぬ絶望のなかで。 ら、当のオ・フライエンたちによってつくり かくて一九八四年はきた。そのこと自体 あげられたものだった。何もかもが虚構で それはまさしくわれわれの時代、 には何ひとつ意味はない。われわれはオー あった。「ほんとうの改変できぬ現実」は まをシンボライズすることばではないか。 どこにも存在しなかったのだ。だが、それむろんそれは「一九八四年」の書かれた四ウエルの世界に生きているわけではないの だ。ただせめて、四十年もまえにオーウェ なら、われわれは、どうすればよいという十年まえにも同じことであった。そして、 ルが立ちすくんだ地点に、われわれも立ち のカ ? どうすべきだ、とオーウエルは、 そのあと、われわれは、試行錯誤をくりか うのか ? 告発者オーウエルは、われわれえしつつ、しかもいよいよおろかに、二重すくんでいることができるなら。 をどこに一導こうというのかフ 思考的に生きつづけて、ついにここまでやウ = ルがなぜ、「救済」をどこかにさし示 すべての答えは、虚構ーーである。ひと ってきてしまったのだ。ソーマをのみつつしておかなかったのか、それを考えること ができるほど、まだいくらかでも真摯であ たびわが手で答えをさし示したせつなかシェイクスビアを朗唱するわれわれ。ビッ まったく安易に、つまり ら、彼はもはや、もう一人のビッグ・・フラグ・・フラザーを告発しつつ首相に、大統領れるなら。 「一九八四年」の発表された当時にアメリ ザーであるにすぎなくなってしまう。オー に選出するわれわれ。もはやウインストン 力の読者がこれを、ソ連への批判の書とう ウエルがいま、われわれにとって真に注目のみじめな誠実をすら見失いかけている、 るすべき存在としてよみがえってきたゆえんわれら。いま誰が、何が真実であるかにつけとったような、オーウ = ルがそれをこそ 否定したかったはずの皮相的な世界解釈に とは、実はまさしくそこーーーそのオーウェ いて気にかけているであろうか。誰が、い え 考ルの、ふみとどま「た誠実さ、極限での真まを真に虚構であると感じることができるよ「てこの書をうけとめることをまぬかれ ることができるなら。 摯さにこそあったのではなかっただろう そのとき、われわれはまだしも、オ だがそれが現実なのだ。ジョージ・オー 年か。ゆくも地獄、退くも地獄なのだ。右せ ーウエルが見出しそこねた「希望」を、彼 4 んか左せんか、ではもはや何ひとっ解決しウ = ルは予言者などでありはしなかった。 はしないのだ。保守か革新かーー・体制か革われわれがあまりにもおろかであるがゆえの。 ( ンドラの匣の底に、見出し得るのかも 命かーー憎悪か愛かーー・善か悪かーー人間 に、オーウエルに追いついてしまっただけしれないのである。 、刀

4. SFマガジン 1984年3月号

ク 「追いついた」のは、われわれの方なのでれわれは心ひそかにフィクションを羨んで むろん、のファンたち、及びいわゆ ある。そして、真にいま、われわれをわく いるのだ なぜなら、つねに、ドラマテる読書人たちにとっては話は別である。し わくとさせているのは、実はそのことなの ックであり、そしてフィクションであるかし、たとえば「北回帰線」など手にとっ フィグション だ。われわれはつねに小説とは、虚構にから。だからわれわれは云うのである、そたこともなくとも、ヘンリーミラーの名 すぎぬことを、よく知っていながら、たえれに希望をつないで 「事実は小説よりを知っている人は大勢いる。そういう意味 ずその中へ入ってゆきたがっている。絵の奇なり」と。だが九十九パーセントまでのでのポ。ヒュラリティはオーウエルにはな、 ったし、また前記のような人たちでも ( 私 中へ、物語の中へ、夢想家が入っていって場合、小説は、事実より奇でこそないかも しまい、二度ともどってこない 、というフしれないが、事実よりも完成している。む自身そうなのだが ) 「一九八四年」を読ん ろんダメな小説はこのさい論外だだけ、というのが大半であろう。あるい である。われわれにとって、ダ は「動物農場」ぐらいまではとどくにせ 年メな小説などどっちみち、ものよ、「カタロニア讃歌」「象を撃つ」など の役には立たぬのだから。そしに来るとほ・ほ全減の惨状なのではあるまい て、小説はつねに事実ののそまか。 工しい側面をひきうける。たとえ その「一九八四年」にしてからが、初訳 一それが、「一九八四年」のよう は昭和二十五年であったが、現在の文庫本 に、表面はとうていのそましい が刊行されるまでの間、われわれの手に人 ジと云えぬものであるにしてもるのは一九六八年刊行の「世界 c 全集」 「すばら ョだ。だが、現実と虚構について第十巻の、オルダス・ハクスリー 論じるのはあとにしておいて、 しい新世界」とのカップリングのそれでし 私はひとつだけ、どうしても云 力なカた。いよいよ、 TJ ときいただけ アンタジイがいかに多いことかーーーしかしっておきたいことがあるのだ。 で興味を失うタイプの人々の手には、届く る フィクションはあくまでもフィクションで すべもなかったのである。 え ある。ファンタジイの中ではともかく、現 そして、文庫が刊行されたあと ( 一九七 ご実のわれわれは、劃然とフィクションの次ふつうの人びと、ことに日本の人びとに二年初版 ) も、たしか、昨年一九八三年の 元からへだてられている。ドリアン・グレ とっては、ジョージ・オーウエル、という半ばをすぎるまでは、誰一人として、オー 4 イの虚構と現実とに相渉る肖像画は決して作家はとりたてて ( ドストエフスキーやノウ = ルの名を口にしてさわぎたてたりはし ーマン・メイラーに比べて ) ポビ、ラーな 9 実在せぬ。 なかったのである。それが、八三年半ばを すぎるころから、むやみとオーウエル、オ われわれはそれを知っている。そしてわ作家ではなかった。 : : : を第 - ト : ? を : を・ウ気い を第 : を : を彧 : 3 3 S 3

5. SFマガジン 1984年3月号

女王のメッセンジャー ・・ダンカン / 工藤政司訳 機密聿ロ第を携えたまま夫踪 イカを追う英月ー クライヴは、陰謀咼 、巻く東南アジアへ飛ヾ。、 : 傑作スハイ・サスペンス 定価五〇〇円 ワ ヤオズのフリキの木樵り ライマン・フランク・ポーム / 佐藤高子訳 ース〉昔の恋 洋亠〈ォズ・シリ ′ - ) 人を茉すため、冒のに 緑色革命 日た、フリキの本椎りとおな チャールズ・ < ・ライク定価五六〇円 たち。奇妙な腎 じみの仲」、 が続々登場する第八弾。 気象の陰謀 定価三ニ〇円 イン。ハクト・ティーム定価三六〇円 文売愛する者の名において上・下 マルタン・グレイ定価各三八〇円 孤独な青年 アルベルト・モラヴィア / 千種堅訳 〈モラヴィア傑作選③〉少 カ絶巨大タンカー ノエル・モスタート定価六ニ〇円 墻代の異常な体験がマ ルチェーロを卍常な生き方 時の旅人上・下 へと駟り立てる 要人暗、 に加れした彼の未路は ? I ・ U ・ウエルズの生涯 定価各五六〇円 定価五ニ〇円 ノーマン & ジーン・マッケンジー カタロニア讃歌 ジョージ・オーウエル 新庄哲夫訳定価四ニ〇円 目ら参戦したスペイン戦 線でオーウエルの見たも のは、どんなプロバガン ダも色褪せる戦争の現実 年』『動物農場』の著者 / が、負易してスペインを 去るまでの六カ月間を克 日ーいた古血 ( 的ルポ /. 4

6. SFマガジン 1984年3月号

飯もろくろくのどをとおらぬくらいはしゃいでいた。 「何だっけ ? ああ、オーウエルね」 。、。ハったらあ。・ほくきよう、テレビみたん 、ねえーー 「ねえ、 「そう、『一九八四年』」 「面白かったかい」 「面白いってのとは、ちょっとちがうけど。あんまりーーー重苦しく「そうか、そうか。あまり見るな。・ ( 力になるそ」 「いやだ、あなたってば」 って。そう、すごく、重いんですもの。息苦しくなるくらいに。で も : ・ : ・ひきこまれるみたいにして読んだわ。こんなに、一気に読ん「本当だそ。テレビからは、子どもの・ ( 力になる光線が出てるか ら、六十センチ以上はなれて見るんだそ。何見たんだ ? 」 だのも、こんな重い本読んだのも、ひさしぶりよ」 「あのね、あのね、えーとね、ひこーき」 「もう少し、また、本よむんだね」 「そうね。でも、あんなのばかり読んでると、わたし、何だかノイ「『日本の総軍事力』とか「て、すごいのよ。ファントムや戦車。 こないだの肥った人、また軍服きて出てたわ」 ローゼになりそう」 「加山か」 「ノイローゼに ? どうして」 「何ていうのかーーー生きてることが、怖くなってしまいそうよ。あ「そうそう」 。、。、。・ほく、じえいたいに入る。じえいたいに入って、へい のオーウエルってーーすごいシニシズムね。結局、何ひとつ、信じ「ね工 てないのね。愛も、正義もーーー思想も」 たいさんになるんだ。だってカッコいいんだものーー・ーね、・ほく、ミ サイルうつの」 「ああ」 「わたし、彼よりは、もう少し、世の中とか人間を信したいわ。人修平はものもいわず、竜太をひつばたいた。 ほんとは、人間は、決して戦いたが 間の聡明さとか、知恵とか ったり、殺しあいたがったりなんかしてないってこと。ただ ろんなものが、そうさせてしまうのよ」 「ああ。そうだな」 次の夜、修平は、かなり早く帰って来た。 おそくなる、といってあったので、家の外からでも、なんとな 「そう思わなけりやーーーとても生きていられやしないと思うわ」 く、人待ち顔でない空気が感じとれる。修平は、すぐにチャイムを 美穂はかすかに身をふるわせた。小さな、身ぶるいだったが、魂 の底の底から出てきたような、いつまでもとれぬかもしれぬ身ぶるならすかわりに、そっとまわりこんで台所の窓の下へ入っていつ」 いだった。本能的なおびえとおののきーーー理性では、どうするすべた。 9- もないもの。 身をこごめながら居間の方へまわる。と、台所とリビングのちょ郷 ー一 , カ℃るというので、朝ごうど中間くらいにおいてある電話台のあたりで、美穂の声がきこえ 翌朝、修平はおそ出だった。竜太よ。 : 、・、、

7. SFマガジン 1984年3月号

君が人間なら、さし苦闘は終わりを告げたのである。彼はやっ するにオーウ = ルとは、ひとつの大きな「アにすぎないんだ。 ンチ」だったのであり、そしてそのゆきつづめそいつが人間性というものだ」 ( 新庄と自分に対して勝利を納めたのだった。彼 8 は偉大な兄弟を愛していた」 ( 同前 ) くところは、東洋人であれば「無常観」とい哲夫訳 ) ウインストンには疑いもなく、救いの余それがウインストンに許された唯一の運 うものがまだ存在しているのだが、オーウ = ルは英国人であり、それゆえ、かれにとっ地がない。それに比べれば、サヴ = ジの意命であった。これまで、なんとたくさんの ファンタジイやスペース・オペラの中で、 ては、絶望のもっともふかいかたちとは結気軒昻としていること 「それならそれで結構ですよ」とサヴ = ジ「愛」が不可思議な力を発揮して「悪」に 局アナーキズムでしかなかったのである。 うちかってきたことであろう。「愛」が人 そうしたオーウエルの絶望を、一九八四は昻然として云った、「わたしは不幸にな 間の切札であり、そのまえで「悪」はつい 年にあるわれわれが、未来予測、予一「ロ、ある権利を求めているんです」 「それじゃ、いうまでもなく、年をとってに破れ去った。メリットや・ハロウズの時代 るいはスターリニズムへの諷刺ーーーまたは レーガン体制へのーー・と見ることそれ自体醜くよ・ほよぼになる権利、梅毒や癌になるだけではなかった。「宇宙戦艦ヤマト」で 力いってみればひとつのジョークのよう権利、食べ物が足りなくなる権利、しらみさえ、それは「愛の戦士たち」ではなかっ だらけになる権利、明日は何が起るかもたか。しかし、オーウ = ルは、人間性に なものである。一九八四年、ウインストン ・スミスはオセアニアにも、イースタシア知れぬ絶えざる不安に生きる権利、チブスも、思想にも、むろん前世紀に死んでしま にも、ユーラシアにも、まちがいなく存在にかかる権利、あらゆる種類の したはずなのだ。オーウエルの文学は、あ云いようもない苦悩に責めさい る体制のファシズムへの警鐘であると同時なまれる権利もだな」 に、すべての「体制」それ自体のファシズ 永い沈黙がつづいた。 ムへの絶望である。絶望的な革命への讃歌「わたしはそれらのすべてを要 であると同時に、ウインストン・スミス、 求します」とサヴェジはついに つまりすべての「さいごの人間」への悲痛答えた。 ( 松村達夫訳 ) しかしウインストンには、不 な挽歌でもある。 「君は自分のことを人間だと思っているの幸になることは許されていない のである。彼は、シェイクスビ かね ? 」 アに殉じて首をくくることもで きぬ。 「君が自分のことを人間だと考えるなら、 「しかしこれで良かったのだ、 君が最後の人間となるのだ : : : ( 略 ) ・ そんな君は一体なにかね ? ひと袋の汚物何もかもこれで良かったのだ、 " 川川 " ⅢⅢ川川川山ⅱⅲⅲⅲⅲⅲⅲ i ⅲⅲⅲ i ⅲⅲⅱⅱⅲⅢⅲⅲ川ⅱ・

8. SFマガジン 1984年3月号

った。ひと一人一人の固有の決定的な リはただ書物を焼ぎすてさせるーーし 弱点を見ぬいて、それをつきつけてく かしオーウエルは、書物を切りきざ るオ・フライエンの前で、ウインストン み、コンピュータで小説を合成し、つ もジューリアも、モンターグ、あるい いには文学と歴史そのものを虚構にか はサヴェジのように、体制に反逆する えてしまう。その中間にいるのがハク ヒーローたることを許されぬ。それは の、シェイクス。ヒアを口ずさ あまりにも徹底したアンチ・ヒーロー み、シェイクスビアのみを信奉するサ ぶりであり、ウインストンにはサヴェ ヴェジである、というべきであろう ジのようにいわばシ = イクス。ヒアに殉 、カ じることもゆるされぬ。彼はビッグ・ このように見てゆくと、反ュートビ ・フラザ 1 を愛することを知り、そして ア小説の位置というものがおのずと明 おそらくはその瞬間に死んでゆくので らかになってゆく。オーウエルには、 ある。それは仮借ないアンチの構造で ーのサヴェジのシェイクス。ヒ ハクスリ あり、そしてそれこそがおそらく、オ アにあたる、いわば「溺れる者の藁」 ーウ = ルの根源的な絶望の実体なのだっ が存在しえない。サヴ = ジは「華氏四五スランを狩り立て、追いつめる旧人類のポ 一」のモンターグの如く、書物の中味をロスでありながら、実はかれ自身も新人類でた。人間は救われぬーー体制によ 0 ても、一 ずさむ人々と出会いはせず、孤独に首をくあるところのキア・グレイの存在にまで 0 革命によ 0 ても、殉教によ 0 てすら救われ 得ない存在なのだ、という。その意味で、 / クスながってゆくのだった。 くってゆくのだが、しかしそれは、、 リーにと 0 て、シ = イクス。ヒア , ーーに象徴しかし、オーウ = ルのきびしい認、。。こオーウ = ルほど、いわばアンチ的な作 ムス家も実はいないのである。というもの される、いわば人間の精神文化というもののようなオ。フチミズムをゆるさない。 そのものの敗北ではなか 0 たはずであタフ , ・モンドと同じく「一九八四年」にを「時の流れ」に根ざす、ラ。フラスの鬼の る ははじめウインストンに理解者としてあら視点からの文学として見るならば、オーウ る。シェイクスビアを読む総監ムスタファ ・モンド、そしてだめな男であるところのわれるオ・フライ = ンがいる。しかしそのオ = ルは歴史を改変させ、「時の流れ」自体 考 「ルクスの存在は、サヴ = ジが「正しい」・フライ = ンはウインストンの拷問者であをさえ敗北させてしま 0 たし、を未来 へのエクストラボレーションとしてみるな ことへの心ひそかな共感であり、この共感り、そして「私もずっと前から捕まってい 4 をも「とのオ。フチミステ→〉クな伝統るのだ」という男であり、そして、彼は拷らば、オーウ = ルは、未来をも信じてはい 9 に従「て 0 き 0 めてゆくとそれはすなわち問者、告発者、洗脳者でありながらウ→ンなか 0 た。アンチ、アンチ・ = ートビ 9 ヴァン・ヴォークトの「スラン」で新人類ストンに「父のよう」な存在でもあるのだア、アンチ・ヒ 0 イズム、アンチ・革命ーー要

9. SFマガジン 1984年3月号

ぬからなのだった。 も、彼はアウトサイダーとしてただ眺め、 うと、どちらにせよ不条理が解消されぬこ とおりすぎることができる。むろん、スウ さよう、反ュートビア小説とは、つまるとを知って、ついに究極的な絶望ーーー存在 イフトはそれを、彼の生きた現実世界へのところ、つねに「内部からの革命者の挫そのものの絶望にゆきついてゆく。 皮肉としてデフォルメし、アレゴリイ化し折」の小説である。そう、つねに、挫折し この反ュートピア小説の構造に比して、 て描き出したわけなのだが、しかし、そのた革命者のーー成功してしまった革命の物たとえばプラッド・ ヘリの「華氏四五一」の ときに、旅人の視点をもって見るかぎり、 語はその瞬間から、ただ単に「ある文化のなんとおめでたい、 といってわるければ楽 彼は、世界に対して、どんなにでも無責任次の文化への交代」の物語にすぎなくなっ天的であることたろう。「華氏四五一」は であることができてしまうのだった。 てゆく。それはまた、マルクシズムそのもその設定と展開そのものは、ほとんど反ュ ののはらんでいる矛盾でもある。「成功し それはいわばスウイフトのエクスキュー ートビア小説といってよいものである。忠 ズになってしまい、「ガリヴァー旅行記」た革命」はすでに革命ではない、という。実なインサイダーであった一人の男 , ーーそ は、あくまでも一段階を間においたアレゴ オーウエルがアナーキズム寄りになつの内部にめざめた異和感。そして体制への リイでしかない。しかし反ュートビア小説てゆくのはこの点ではあくまでも正しいの反逆と革命 ( 自己革命であろうと少しもか というものの固有のパターンは、本来、そであり、人間はもしも心から誠実に理想社まわないことである ) のこころみ、その挫 の架空のディスト。ヒアを設定し、その中の会を追求してゆくならば、永遠に絶望しつ折。 ある反逆者に視座をおく、というものでなっ挫折してゆく革命者たるほかはないのだ しかし「華氏四五一」の主人公は、「一 っこ 0 くてはならぬ。これは当然のことであっ 九八四年」のウインストン・スミスとまっ たく同じく一人のアウトサイダーなる少女 て、その社会に対して、順応し、適応してそれゆえに反ュートピア小説は、いわば によって革命に目ざめ、同じく最も忠実な いる人間の目からその社会を描いたところ最も絶望した世界観による小説である。宗 で、その社会を告発することにはならぬだ教はたとえ現世に絶望してしまったところインサイダーとしてほろびてゆく妻をす ろう。 で、キルケゴールのいわゆる実存的飛躍をて、自己変革をこころみて破れ去りなが そして、あくまでもこの主人公は、「イ とげて「彼岸の救済」を希求する視点にとら、なおかっさいごには、不死鳥の蘇生を ンサイダー」でなければならぬ。なぜなびうつることができる。いや、それが可能信じて、一人が一冊の書物となり、 ( 奇し くも、というべきか ) 旧文化への永却回帰 ら、ある社会構造自体の矛盾が摘発されるであるゆえにこそすべての宗教はユートビ による救済をゆめみることができるのであ のは、内部からの走査によってのみであア的であるのだ。しかし、反ュー トビア , 少 り、たとえば「パ。、 ヘリは文学の力を信じ、芸術 / ラギ」のようにある文説は、此岸の文学である。それは、すべてる。・フラッド・ 化がアウトサイダーの目にどのようにとらの不条理の解消を此岸に求めるがゆえに絶と、人間性を信することができる、という わけだ。彼にくらべ、オーウエルの絶望は えられるかを知ったところで、それは一つ望し、絶望しているがゆえに革命を夢み、 の文化にとっては「革命」の契機にはならそして革命がなしとげられようと挫折しよなんとふかいことであろうか。プラッドベ

10. SFマガジン 1984年3月号

が当たっていないのといったところで、わ ざュートビアを夢想しようか。しかしま ートビアを夢想したところで、どう れわれは唯一のわれわれの現実の中にいる せそれが現実たりえないのだということ のでしかない。たとえ一九八四年が到来し それはさておき を、おそかれ早かれわれわれは知ってしま ても、われわれがフィクションの中に入れ トビア・小 ) この「一九八四年」は反ュー ることは決してない。「追いついた」と思説、というよりこのごろではティスト。ヒアう。 かくて、ユート。ヒアは、政治思想と宗教 うのもまた錯覚である。そして、もしこの小説といわれることが多いようだが、その 重大ですぐれた重苦しい本をもって、かる一つのジャンルをなす反ュートビア小説の切り札としてだけ生きのび、それにかわ がるしい未来予測のみから興味本位の読みの、ひとつの究極であった。 る、小説本来の役割、すなわち現実をうつ ハクスリー 方をするならば、われわれは、せつかくど 「すばらしい新世界」、ザミすゆがんだ鏡としての役割は、ユート。ヒア のような理由からであれスポットライトのヤーチン「われら」などがこの反ュートビ小説でなく反ュート。ヒア小説の中にうけっ がれる。 中に出た ( そしてそうであるにふさわしア小説のジャンルに入るわけだが、しか い ) この本を、来年には、、まが一九八五し、私がよく考えるのは、少なくとも その、反ュートビア小説とは、要する 年であることをもってもはや用済みとみなに関するかぎり ( といっても、そういうまに、現実が反ュートビアそのものであるこ してしまうかもしれない。い や、いまのさったく架空の一世界を構築しようと思う小との反映でもあり、また同時に、現実への わぎたて方からするに、おそらくそうなる説は以外にはめったにないのだから、警告でもあり、そしてまた、実のところ、 であろう。しかし、われわれが真にビッグほ・ほ全部といってよいかもしれない ) 程度われわれの現実よりもなおわるい世界とい ・ブラザーと愛情省と「小説製造機」の世の差こそあれアンチ・ユートビアの視点をうものが、存在するのだ、という、一種の 界に近づいてゆくのは、たぶんその瞬間でもたぬ小説が存在するだろうか、また存在代償作用的ななぐさめでもある。そういう ある。そうであってはならぬのだ。むしろするとしてそれにはいったい意味があるの構造をもつものである。念のため云ってお だろうか、ということである。 一九八四、という日付が意味をなさなくな きたいのは、諷刺小説、ことにアレゴリイ ったときからこの小説はようやく、真のフ未来予測であれ過去に舞台をとるのであと反ュート。ヒア小説とはまったく別もの る ・こ、ということである。たとえば、「ガリ イクションとしての正当な位置づけを回復れ、小説というものは本質的に反ュートビ え アでしかありえないのではないかと私は考ヴァー旅行記」は、たいへん絶望的にゆが 考するのだともいえる。 オーウエルの描いたものは、描きたかっ えている。な・せならば、それはごく単純んだ四つの世界をつぎつぎと描き出すが、 たものは、断じて、四十年後の世界がどう に、現実というものが、不条理の連続、決それは決して反ュートビア小説としての骨 年 なっているか、などということではないのしてユート。ヒアたりえないものだからだ。格をそなえてはいない。 なぜならばガリヴァーはあくまでも旅人 7 だからこそュートビアを人々は待望するー ー現実がユートビアであれば、誰がわざわであって、どんな反ュートビア的な世界を アンチ