作家 - みる会図書館


検索対象: SFマガジン 1984年4月号
77件見つかりました。

1. SFマガジン 1984年4月号

川ⅢⅧⅢ川ⅢⅢⅢⅢ川ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ日ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ川ⅧⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ川ⅢⅢⅢⅢ聞ⅢⅢⅢⅢ 瞬送のおよばす影響をシリアスに検討した いる。このアイデアから発展したーっの興 その他の作家には、Ⅳ訪研 E て盟眠 , ん夜ァ 味ある装置は、ロジャー ゼラズニイの ( 1974 ) のジョン・ブラナーと、 0 〃 e & ゆ To ay Ⅱ々 C ん 00 “お ( 1973 ) の家で 工襯ん ( 関連作品の團 1970 ) のハリ この一つの巨大な建物の各翼棟 は、実際には別々の世界に存在しており、 イ・ハリスンがいる。 物体を信号に変えて記録し、つぎに受理 それが物質瞬送機で一つに組み合わされて 装置でそれを解読するフ。ロセスにおいて、 いるのだ。 理論的には、記録される物体が必ずしも消 ーヴンは、自分でも物質瞬送 ラリイ・ 減するとは限らない。したがって、物質瞬 機のアイデアを使っていくつかの作品を書 送機は物質複製機ともなりうる。 ( 物質瞬 いている。彼の作品に出てくる瞬送機は、 送機ではないが、もし本物と複製とをつな 地球上の輸送に革命をもたらすが、惑星間 のような遠距離では作動しない。 は、そうした装置がどんな変化を社会にも たらすかを考察した数少ない作家の一人で ある。たとえば「フラッシュ・クラウド」 "Flash Crowd" ( 1973 ) は、大事件の現場 へ群集があっというまに押しよせるため、 特に警察にとってさまざまな問題が起きる だろうことを示唆している。 こうした影 響をさらに考察した短篇に "The Alibi Machine ” ( 1973 ) 、。 A11 the Bridges Rusting ” ( 1973 ) 、 "A Kind of Murder ” ( 1974 ) 、 "The Last Days of the Permanent Floating Riot Club" ( 1974 ) がある。『リ ングワールド』火切 g , の・ ( 1970 ) の第一 章で、 ーヴンは物質瞬送機の存在が ( も っと限られた意味で、空港の存在がすでに そうであったように ) 世界の各都市をどの ように均一にプレンドしたかを物語る。世 界のどこへでも一瞬のうちに行きつけるの に、もうどこもおなじようになってしまっ たため、旅行の意味がなくなったのであ ーヴンの前記ェッセイには、短距離 物質瞬送機を使ったばかばかしいが論理的 な宇宙旅行の方法が提案されているが、ポ ブ・ショウは『おれは誰だ ? 』Ⅳん 0 G ゞ 〃夜で ? ( 1977 ) の中でこれをユーモラスに 利用した。船尾に物質瞬送機、船首に受理 装置をつけた宇宙船が、たえずそれ自身を 前方へ送信しつづけていくのである。物質 『虚像のエコー』トマス・ディッシュ ぐ回路を信号の伝達に変えれば瞬送機にな・ りうるような物質複製機を扱った SF は数 多い ) 。このアイデアに触発されたメカニ ズムを使ったのが、アルジス・ノくドリスの 「無頼の月」。 g Moon ( 1960 ) であ る。主人公は物質瞬送機によって月面に到 着し、そこで異星人の謎の構築物を探険す るのだが、このメカニズムのため、殺され てもまた生きかえることができる。一方、 彼とテレバシーでつながった地球上の分身 のほうは、死がくりかえされるつど、新し い情報をまなんでいくのである。トマス・ 264 VIII

2. SFマガジン 1984年4月号

外 オヴ・ワンダー ーヴン『リングワールドふたたび』 ( 三 年、片や数週間といいますから、商売とし てはファンタジイのほうがはるかに効率が位 ) 、八二年のウルフ『調停官の爪』。 7 、これらすべての基調をなす神秘主義。 しいようです。もっとも、同じように C 8 導 e C 。ミミミミ・ ( 二位 ) 、ジ、リ もちろん、これらの条件をみたすことに アン・メイ『多彩の地』 ( 三位 ) 、昨年の もファンタジイも書いているラリー・ニ ヴンの場合、売れているのはのほうでアジモフ『ファウンデーシ , ンの彼方へ』よって作品の質が落ちるわけではありませ キングズベリ『求ん。この条件に合致しながらすぐれた すからいちがいに決めつけるわけにはいき ( 受賞作、、ドナルド・ ません。ただ、ひとによっては = ーヴンの愛儀式』 c 。ミ、、ざ ( 五位 ) などフアにしあがっている作品の最近の例として、 はサイエンス・ファンタジイと大差なンタジイ色の濃い作品が躍進しているのでシワイツアーは・フライアン・オールディ リコニアの春』 e ミミ・ aS. 、ミ・ ~ ~ g す ( ニーヴンやアジモフがファンタジイ色スの『へ いともいいます。 の濃い作品かどうかには異論があるかもしをあげています。 しかし、「サイエンス・フィクション・ 1 ー また、近年ふたたびアメリカでもハ レヴュー」のシュワイツアーによるファンれません。ただ、シ、ワイツアーのあげる への見なおしがはかられているよう タジイの分析を見ると、過去に売れた条件には合致しているようです ) 。 シュワイツアーはこれらの作品におけるで、科学雑誌『オムニ』もハイテクノロジ 作品はどれもファンタジイの要素をもって ーやコンビューターを扱った若手作家の短 ックでファンタジイの要素をつぎのようにあげて いたことがわかります。ペ 篇を意欲的に発表しています。プラットら います。 一二五万部以上の部数が出ているアーシ = の批判には、これらの若手作家に対する七 ラ・・ル・グインの『闇の左手』、二一 五万部以上が出ていて映画の公開によ「て 1 、いきいきと描きだされた広大な舞台世〇年代作家の影響力を弱めようとする政治 的意図もあったようです。ファンタジイに ート『デューン界。 さらに倍増しそうなハー ″汚染された″サイエンス・ファンタジイ 砂の惑星』、さきほどあげた ( インライン 2 、探索行、冒険などなんらかのアクショ ンを含み、広範にわたって展開されるスは、たしかに幅広い層に支持されています の『異星の客』は三二 0 万近い刷部数にな が、界がこれ一色に塗りつぶされる恐 っていますし、・フラッドベリ『刺青の男』 は二三二万部以上が出ています。また、こ 3 、じっと動かずに運命を嘆いているのでれはないようです。 要は、すぐれたが書かれていればい はなく、行動する登場人物。 の数年間のヒューゴーにしても、八〇年の いのですし、。フラットらの投じたけん制球 ヴァーリイ『ティーターン』 ( 二位 ) 、マ 4 、プリミティヴな、少なくとも産業革命 はそれなりの効果を発揮したといえるでし 以前の文化。 キリツ。フ『風のたて琴弾き』 ( 三位 ) 、八 5 、自然世界を思わせる雰囲気。 一年のヴィンジ『雪の女王』 ( 受賞作 ) 、 シルヴァ ーグ『ヴァレンタイン卿の 6 、世界 ( 宇宙 ) における人類の役割と は、という意識。の伝統的センス・ ◆◆城』まミミミ・ミ Castle ( 二位 ) 、ニ t0 ロ 5

3. SFマガジン 1984年4月号

ゆえか銀河的スケールなど感じられず、せい 厚さに憶せず読み始めれば、 8 ぜい下敷にした 0 ー「帝国くらいの規模のお 0 平コ 話だな、と思ったものだ。小説として魅力の 良黄金時代の息吹が生き生きと伝わ ない文章 ( これについても自伝で正直に告白 橋 0 てくるーー『アシモフ自伝』 している。簡潔さ、スト」ートに意味が伝わ る文章を心がけ、お手本にしたのがクリフォ ード・シマックの文章であることも ) のせい 今月から、今までよりも広いスペースをも らい、その月の出版シーンを眺めていくもあって、アシモフなんて、と断言している ことになった。私の目的としては、ブック・人間が言っているのだから。 レビュウ的なものよりも、毎月の出版物のな厚いことに怖れを抱くこともない。信じら かから任意に選んで、ともするとなおざりにれないかもしれないが、読み出したら止めら 自分でもしがちな基本的なこと、″とはれなく、スラスラ読める。アシモフの地の文人的金銭感覚が生きてくる。原稿料のことが 何か″を見つめながら、″今″の・ハースペクのユーモアは各種の序文、『ヒューゴー・ウこと細かく書いてある。作品が売れ、『銀河 ティヴをとらえつつ、の昨日と今日と明イナーズ・世界大賞傑作選』 ( 講談社文帝国の興亡』を含めて十冊の著書がある三四 日を考えていきたい、と思っている。独断偏庫 ) や新刊の『危険なヴィジョン』 ( 早川書歳の人気作家アシモフは、この自伝の最 見偏重の趣きはあらかじめお断りしておくの房 ) などで既に知られるところだが、ある種後、一九五四年になってもフルタイム・ライ で御寛容のほどを : ・ の人には嫌味と感じられる攻撃的ューモア感ターではなく、兼業作家なのである。嫌な顔 と、どうも初めての体験なので、つい″固覚が、できる限り正確に真摯に書こうとしたをされるかもしれないが、・フロとは金とイコ く″なってしまった。 この自伝では、プラスに働いているからでも 1 ルで結ばれなければならない、と私は思っ まず、どうしてもとりあげたかったのは、 あるのだろう、読み易い。絶えず書き記してている。作家が職業であるならば、それで食 アイザック・アシモフ『アシモフ自伝— きたというユダヤ人的金銭感覚も正確に伝え えなければいけない。もちろん、文学的営 思い出はなおも若くーーー』 ( 早川書房 ) だ。 る日記を基にした自伝であるため、彼の体温為、作品とは全く別のカテゴリイではある。 上下一一分冊、その厚さといい、値段といし のようなものを感じる。アシモフ作品は好きこのアシモフの境遇、それは現在のアメリカ のフルタ 立派なもの。それに加えて、今さらアシモとは言えない私でも、このロシア系ユダヤ人でも、それほどの違いはない。 フ、と、古参ファンでなくともページをの難民、子供の頃は神童と呼ばれ、長じてもイム・ライターは、ほんのごく一部の、常に 開くのをためらう人が多いのではないだろう世間知らずなモラトリアム人間、アシモフそ一般のベストセラー・リストにその著書が挙 か。だがしかし、あなたの考え方は間違っての人が好きになってしまうほどだ。いくばく がる人々なのである。 いる。について少しでも考えたい人間な かの技巧はあるものの赤裸々に語られるこの さらにこの自伝が、について考える人 ら、借りてでも読むべきである。この私が言本に、自伝にありがちな″私はこんなに苦労 間にとって重要なのは、アメリカの史を うのだから正しいのだ。かって彼の科学工ッして立派になったんだぜ″的な臭みはさほど生き生きと伝えてくれることである。四〇年 セイにはフンフンとうなずきながら読んだこ感じられない。 代の黄金期を″アスタウンディング″誌の編 ともあるが、その作品のうちで記憶に残って 自伝が、個人史であり、成長小説的側面を集者として築きあげたジョン・・キャンペ いるものは「夜来たる」と「停滞空間」くら持つのは当然のことなのが、加えて、アシモ ルの素顔、若き日のフレデリック・ポールや いなもの。高名なる〈ファウンデーション〉 フという人間が、職業としての作家になフューチュリアンズ、今は大家となった人々 シリーズにしても、こちらの想像力の乏しさっていく面が興味深い。ここで前述のユダヤの姿が活写される。例えば一九四六年十一月

4. SFマガジン 1984年4月号

このところ、ちょっとしたジョージ・オー って急にこれまで見向きもしなかった「蠅のジー・ゴーイングの風潮には、およそ合致す ウエル・・フームである。「一九八四年」につ王」を店頭平積みのベストセラーにし、一九るタイ。フの作家ではないだろうと思う。その いての特集や記事は、一月がすぎて、どうや八四年がきたからといって、にわかにオーウ上に、私自身はそういった方面にかなり興味 エル、オーウエルといいはじめる、日本の読をもって読んでいると思うのだが、その私に ら一落着きしたようだけれども、オーウエル を引合いに出す記事はあいかわらず多いし、書人というものも、じっさい、実に困った存とってもスペイン内戦の複雑な内幕は恐しく それに、たてつづいて、「オ 1 ウエル著作在ではある。しかし、オーウエルにせよゴー煩雑で、どこがどことどうつながっているの ルディングにせよ、もとより真にすぐれた注か、なかなかのみこめない。つい、そうした 集」 ( 平凡社 ) やオーウエルの評伝 ( 「ジョ ージ・オーウエルーーーひとつの生き方」・ハー 目すべき作家であるから、たとえどのような説明の部分はとばして読んでしまいがちにな ナード・クリック著 ) 、研究書が刊行されて皮相的なきっかけからにせよ、そうした作家る。 しかし、「一九八四年」にしてもそうなの いる。「一九八四年」は現在のところ、七十が本来うけるべき注目をうけ、そしてこれま で手に入りにくかったようだけれども、「カタロニア讃歌」にしても、 な、かれらの一番有名な作さいごの方になるに従って、重く、暗く、貧 品以外の諸作が、文庫化さしく、むなしく、汚い現実の上に、オーウェ れたり、訳出されたりしてルが皮肉な、不信と徒労感にみちた述懷をく 0 れ 2 入手しやすくなるというのりひろげてゆくにもかかわらず、私の胸は何 は、はっきりいっておおい かふしぎな感動で満たされ、そして不器用な アウ項 一房に価値あることで、歓迎す手でぎこちなく覚醒を強いられるような心持 ・ ( 〕感ロオ / 贐べきことでもある。その意になる。オーウ = ルは人間を信じているの 「にもかかわらず」「それでもなお」彼 、・タジ夫早味では、皮相的なプームとだ。 はきわめて人間的であり、汚されつつ理想主 / 《 ~ 物カ一哲 / いうのも、すてたものでは 義の砦を守る。それこそが、彼がアジテータ ジ新文ない 1 でなくまぎれもない作家であったことの証 そこでこの「カタロニア 讃歌」についてだけれどしであろう。 七万部突破と標榜しており、そしてそれに拍も、ひとことで云ってしまうと、決して読み「一九八四年」も「カタロニア讃歌」も決し 車をかけるように、オーウエルのもう一つのやすい本とはいえない。もともとオーウエルて読みやすいものではない ( 事実ある評論家 代表作、二十世紀のルポルタージュ文学の傑の文章は、「ウマへタ」だの「昭和軽薄体」がとんでもない誤読をして紹介している ) け 作とされるこの「カタロニア讃歌」が、二月や「あたし、 xx なんです」の安直さにすつれども、私はぜひとも多くの人にダイジェス トや特集ではなく、オーウエルの作品をとお のはじめに刊行された。 かり狎れてしまった現在の日本の読者たちに 梓 をし力にもとつつきにくい晦渋なもして、オーウエルの作品に出会ってほしい、 「一九八四年」に対する私の感想は、三月号とってま、、、 の本誌に掲載したとおりだが、私は「一九八のであるし、内容もまたいかにも重く、生真と望むものである。たまには晦渋な文を時間 島四年」以外のオーウ = ルの作品は未読であ面目で、こうい 0 てよければいかにも英国的をかけて読み、生真面目にものを考えなさ る。 ひょーきんとパロデイだけじや世の中や 3 であゑ第一いまや「左翼」は時代おくれでい。 中 ってゆけないよ。たまには硬派しなさい。 ゴールディングがノーベル賞をとったとい 「サヨク」がもてはやされる、といったイー

5. SFマガジン 1984年4月号

第第 かっています。 で一万二千円、「幻想と怪奇」創刊号千八百三十周年、四十周年をめざして、今後も頑張 です ) って下さい 円。その他旧奇天、等多数。 2 評論・エッセイ類 これが終ると、特に企画はなく、宴会と分 ( 一月十五・十六日於米川旅館 作家による評論・エッセイ・日記 特派員・渡辺睦夫 ) 科会に移る。ミュータンツ創始者の吉光伝氏 についての評論を含む本 が二十年前のファンジンを持ってきておら 3 科学・民族学・史学・思想等に関する基 れ、興味深く拝見する。「これがコアの創刊 水戸図書館 茨城発 本的な本 ( 含文庫 ) 号。で、これが e ・ね」等々、名のみ伝え 4 雑誌 聞く数々のファンジンに、しみじみと二十年 雑誌・主な同人誌 の歴史を感じた。 一昨年、千葉県松戸市に r-n 図書館が開設 小説の掲載されている雑誌 この後は、中学交 ( 中部学生交流会 ) されて話題になりましたが、現在、茨城県は の部屋で、大和真也さんを迎えて " ク , ーク水戸市にも図書館を設立しようと準備を海野十三、蘭郁一一郎の苦悩に思いをはせる いつの間にか夜が明け、クイズが大々すすめているグループがあります。その名までもなく、福島正実の努力については覚え 的に行われてミュ ーコンは終った。全体としを、メンズ倶楽部〃。な・せメンズ倶楽部ておられる方も多いと思うが、そうした先達 ては参加者の裁量にまかせるタイプの大会なのかというと、図書館設立の夢はここのおかげもあってここまでになったが、 で、気軽に楽しめた、というのが感想。 のメン・ハーたちが市内の某六年制男子校 ( 中市民権を得たばかりだというのに、すでに、 ハードファンとアニメファンではまった とにかく二十周年おめでとうございます。高一貫制 ) の研にいた頃からはじめてい たものであるため、メイハーが必然的にみなく話が通じなくなってしまうというのでは、 男性だというだけのことで、他意はありませあまりに寂しいのではないでしようか。大切 ん。良識あるファンで、資料学に興なのは勿論これからのことなのですが、昔の 。昔と今を結ぶか 味をお持ちの方なら、男女を問わず歓迎との本も読んでみなくては・ : ことです。ちなみにメン・ハーは二十歳前後のらペクトルになるので、″今だけ″というの 景高校生・浪人生・大学生ばかりで、このうちは少し不安です。私達も若輩ではあります 場一番多いのは浪人生です。 ( な・せ浪人が多いが、より若いファンのためにも「図 書館」を創りたい。それが私達の主旨です。 会のかは、読者のご想像におまかせします ) とは云え、何分にも学生のやることで、下 ここには次の本雑誌が収められます。 手をすると一年に購入している本より出版さ ン れている本の方が多いような状態で、いっ開 作家による作品 コ 設できるのか、まだはっきりしていません 非作家による小説 ュ が、それでも関係者たちは今日もまた、「ー 左の作品を収めたアンソロジー ーもう嫁さんはこない。来たとしてもマンガ 幻想小説・架空戦記小説・色のあ る探偵・推理小説等の境界作品 かアニメだ : : : 」と意味不明の言葉を呟きな 7 ( 小説類については、石原藤夫博士の『総がら、古本屋をのそいているのです。 ( 特派員・長山裕一 ) 目録』という聖書のような本があり、助 知版の出版が楽しみ

6. SFマガジン 1984年4月号

illllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll'lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll Logic ” ( 194 のでは、でたらめにタイフ・ラ イターをたたいたチンパンジーたちが有名 な文学作品とそっくりな原稿を打ち出し、 ウィリアム・テンの「非 P 」 "Null-P" ( 1951 ) では、なにもかも平均値である人 間が発見される。統計に関するもっと真剣 な指摘は、ロバート・ M ・コーツの "The Law" ( 1947 ) に見出される。この作品は 、、平均の法則″が崩壊するところを描き、 なぜ人間が通常群れをなして予測可能な行 動をするかという理由の考察をうながして いる。 論理的パラドックスに対する絶えること のない興味を利用した作品に、ゴードン・ R ・ディクスンの「モンキー レンチ」 "The Monkey Wrench ” ( 1951 ) がある。 この短篇では、自分の機械が完全無欠だと 豪語するコンビューター技術者の自慢の鼻 をへし折るために、ギリシアのェビメニデ スの逆理 ( 「わたしは嘘つきである」 ) が使 われ、こうして暗示された論理学の欠陥に 読者は安心感をおぼえる。これと正反対の 効果を発揮しているのは、フレデリック ポールのいくつかの作品である。特に "The Schematic Man" ( 1968 ) は、自分 ーター・フ。ログラムとして 自身をコンビュ コード化している男が登場し、現実世界を 数学モデル以上のものたらしめているのは なにか、という疑問が提出される。 SF の中には、別に数学的なものに第一 の重点を置かない数学も登場することがあ る。一部の SF 作家は、知的なお飾りとし て、ときおり数学式を利用するようであ る。しかし、フレッド・ホイルの『暗黒星 雲』 The 召 I 砒、た Cloud ( 1957 ) の脚注に は、真の数学的推論の稀な一例が見られ る。それはみごとな計算であり、おそらく 何人かの読者の楽しみを倍加したことだろ う。ホイルはまた『第五惑星』 ( 1963 ) の序文でも、ある S F 的空 IV 想に数学的説明を与えている。 SF の中で数学的アイデアをわかりやす く解説した実例としては、ディヴィッド・ ダンカンの Occa 襯なぇ 0 だ ( 1957 ) にお ける変分法の説明と、マイルズ・ J ・フ・ル ーアーの "The Gostak and the Doshes ” ( 193 のにおける座標系と相対性の説明が 挙げられる。しかし、どちらの作家も、数 学的アイデアを説明しおわったあと、それ とはあまり関係のないストーリーを展開さ せてしまう。 ハインラインの「不適格」 "Misfit ” ( 1939 ) に登場する数学の天才リビーは機 略縦横だが、たいていの場合、 S F に登場 する数学者はステロタイフ。化され、うつか り屋で、無力で、世間知らずと相場がきま っている。彼らは明らかにジョナサン・スウ イフトの『ガリヴァー旅行記』 Gu 〃催 ' s Tra て℃な ( 1726 ) に出てくるラヒ。ュタ島の 住人の子孫であろう。しかし、 SF は数学 者のあいだで人気があるので、このイメー ジを修正しようとする動きがあっても意外 ではない。それが顕著に見られるのは、ノ ーマン・ケイガンの作品であり、彼が描き 出す陽気で異常なほど活動的な数学専攻の 学生は、現実により近いかもしれないが、 ときとして自画自讃の傾向があるようだ。 ケイガンの作品は、表面的には SF 的空想 であるが、数学のさまざまな概念を機知ゆ たかに料理している。「く不可能〉の 4 品 種」 "Four Brands of lmpossible" ( 1964 ) では、世界を表現するのに使われる別の論 理、「数理飛行士」 "The Mathenauts ” ( 1964 ) では、いろいろな数学的空間への 旅ーーーそれらは実をいうと、数学を研究す る体験に関したものなのである。おなじテ ーマをより真剣に扱ったものに、ポフ・・ ーキンスンの "Solipsist ” ( 1967 ) がある。 特に興味深い数学者が登場するのは、自分 も数学者であるウィリアム・ F ・オーの書 268

7. SFマガジン 1984年4月号

lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllillllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll いた "Euclid Alone ” ( 1975 ) である。 の作品はデーモン・ナイト編の 0 ″ノ 6 ( N1975 ) に発表された。 こでは、学生の 一人が、ユークリッドの公理の一つが誤り であることを証明する。教師はその発見を 闇に葬るか否かで、道徳的な板ばさみにな る。その発見が最終的には全世界の人びと の平穏な生活を覆えすことにもなりかねな いからである。 数学的ゲームも、たとえばビアズ・アン ソニイの 0 ( 1976 ) に見られるように ときおり SF の中に登場する ( ゲームと スポーツ ) 。 S F ではコンビューター・フ。 ログラミングの数学は、意外なほど小さい 役割に甘んじているが、数学のプロフェッ サー、ポール・カーターの書いたー ag な 飾″の ( 1977 ) では、それが中心テーマ になっている。これは気ちがい科学者が全 世界のコンヒ。ューターを乗取るパーレスク 風の筋書きに、プログラミングの理論と実 際に関する正真正銘の問題をちりばめた、 奇妙な小説である。 2 冊の数学的 S F のアンソロジーがクリ フトン・フアディマンによって編まれてい 『第四次元の小説』ル厩の る ユーん夜〃な 4 ( 図 1958 ) と T ん 6 ユー観ん夜〃な記 14g が ( 図 1962 ) であ る。おなじく関連書としてグロフ・コンク リン編の Science おなた・ 0 〃 dv 夜″尾 / 〃 D / 襯豆。れ ( 図 1953 ) もある。 〔 TSu 〕 マシスン、リチャード MATHESON, RICHARD (BURTON) ( 1926 ー アメリカの小説家、映画脚本家。最初は SF 作家と見られたが、近年になって、小 説と映画、両方の分野でのすぐれたファン メジイ作家と認められるようになった。 マシスンの S F 界へのデビューは、 1950 年に F & S F に発表した有名な「男と女か 267 ら生まれたもの」 "Born of Man and Woman ”である。自分では単純な恐怖小 説と考えていたこの短篇が SF として賞讃 されるのを見て、マシスンは当時の SF フ・ ームに乗っかろうと決心した。初期のすぐ れた作品の大半はお 0 」イ 4 れれイ ル。襯 ( 1954 ; 圜 4 篇除外 T ん卍 / 川 the 立のに収録されている。この作品集 のタイトル・ストーリーともなった前記の 短篇は恐ろしいミュータントの子供が一種 の自由への脱走をとげる過程を、一人称の 『縮みゆく人間』 痛ましい片言英語で綴ったもので、恐怖フ ァンタジイの要素が、お座なりの S F 的設 定をほとんど圧倒しているが、この傾向は 彼の最初の SF 長篇『地球最後の男』 ( 『吸 血鬼』 ) 1 。襯 Legend ( 1954 ) にも見出さ れる。 ( 彼はこの頃ニ ューヨークからカリ フォルニアに転居し、すでに 2 冊のサスペ ンス小説を発表していた ) 。『地球最後の 男』は、人間を吸血鬼に変えるウイルスに たたひとり免疫のあった男を主人公にした 大破壊後の物語である。マシスンはこの作 品の二度の映画化 (The 力。立 Man

8. SFマガジン 1984年4月号

る。世間話をするにはとうてい静かとよ、 。しいかねる場所だから、た ぶん仕事上の取引きでもしているのだろう。また、楽隊の向こうの 芝生では、五つの村から集った子供たちが、やれ輪投げだ、九柱戯 だ、水中リンゴ取りだ、と、ハエみたいにざわめいている。一方、 楽隊にも試合前の選手たちの滑走ぶりにも気がないし、さりとてそ れ以外のこと、たとえば話に夢中になるでもない、といった大人 の連中は、工芸品や農産物の出店を取り囲んでいる。大会には千人 もの人々が集っているにちがいない。だからガラスの向こうの村は ふち 寂びれて見える。ガラスの縁近くには、村のお年寄り連中のために 敷物やペンチや半分に切った樽が並べてあるという周倒さ。 〈花のダンス〉を演奏したあと、楽士たちが息抜きに楽器を下ろし た時、ガャガヤと騒々しい話し声を突ん裂いて、メエーと怯えた声 がひびきわたった。折しも一人の農夫がちつぼけな羊の檻に跳びこ んだのだ。檻の中には図体が母羊とほとんど変らない一頭の仔羊 が、毛を刈り取られて文句タラタラの母羊の下にもぐりこんで、乳 を飲もう、隠れようとしている。農夫は笑いながら仔羊をひつばり 出し、首と後脚とを掴んで持ち上げた。目方を言い方てて、あわよ くば賞品をものにしようというのだ。 この時ジェイスンの母親が。 ( イの残りをモグモグやりながら人混 みを縫って近づいてきた。 「おまえ、しつかりおやりよ ! 」と言って、一一ッと笑う。 「たから言ったろ、かあさん」ジェイスンはロをとがらせた。「『し えんぎ つかりおやり』なんて言うのは縁起がわるいんだって」 「なにさ、縁起なんてかついで ! だいたい縁起がなんだって言う のよ ? 」 母親は自分の / ドボトケを突っいた。まるでそこを通過中の肉と ィアン・ワトスン = ra ミ、 本誌では八〇年六月号「我が魂は金魚鉢の中を泳ぎ」以来、イア ン・ワトスン二度目の登場である。日本の読者にはまだ馴染みが薄 いと思うので、あらためて紹介すると、いまイギリス界でもっ とも力量ある新進作家のひとり。本誌連載中の「エンサイクロ ペディア」の中でも、彼の作品はたびたび言及されているので、 かに大きな期待がかけられているかはおよそ察しがつくだろう。一 九七三年に発表した処女長篇 The まは、言語学テ】 マを正面切って取りあげた″、 / ードのカ作で、卓抜なスベキ = レーションとともにその難解さが話題になった。以後も TI ミ ト、ミ h Kit ( 1975 ) 「 T 、 6 新 e ミ ( 1977 ) など、年一 冊あまりのペースでつぎつぎと問題作を発表。わが国には第三作 『マーシャン・インカ』が昨年サンリオ文庫に収められている。 「スロー ハード」は、アメリカの & 誌八三年七月号に掲載 されたワトスンの最新短篇の一つである。ここでちょっと私見を述 べさせていただくとーー『マーシャン・インカ』が翻訳されたお り、一部の書評でワトスンの小説作りの″へたくそさ″が指摘され たことがあった。筆者はそれほどにも思わなかったのだが、本篇と 比較してみると、あの長篇ではハ ードな思弁と丹念な論理の積み重 ねが、小説の肉付けを多少削いでしまっていたことがわかる。しか しワトスンは″へたくそ″と馬鹿にされるような作家ではないと思 う。この小説の冒頭、異常な状況と日常性との対比、その後の意表 をつく展開、痛切な結末 : : : あまり贔屓しすぎるのもどうかと思う が、 & 誌にある紹介のことば "Science fiction at its best" もまんざら大風呂敷ではない。 ( 伊藤典夫 ) 6 7

9. SFマガジン 1984年4月号

実は、数学的にきわめて正しいのである。 ・ハインラインは「歪んた家」 "'And He Built a Crooked House' ( 194 のの中で、八つの立方体の部屋が、 四次元立方体の八つの三次元的、、表面〃の ように組み合わさった家を描写している。 この物語は現実世界に起こったという体裁 をとっているが、ハインラインの最大関心 は、そうした家が物理的に可能だと読者を 説得することではなく、一見逆説的に思え るが数学的に可能なものを読者に示すこと にある。したがって、その家の驚くべき特 徴を強調はしながらも、その構造の描写は 数学的に極力正確であろうと心がけてい る。しかし、たまたま作者の唯一の手抜か りが、両方の必要条件にそむくこととなっ たーー数学的真実は、ハインラインが描写 した以上に奇怪なのである。 他の作家たちは、異様なトボジー的空 間構造を描くため、小説の舞台を奔放な想 像の世界に置いたが、 ハインラインほど細 心にその構造を明示したものはいない。た いていの場合、トボロジー的な奇異さは、 あっといわせる結末を作るために、物語の 最後へきてやっと明らかにされる。たとえ ばディヴィッド・ I ・マッスンの「旅人の 憩い」 "Traveller's Rest" ( 196 のがそう であり ( ただし、時間と言語の構造が空間 構造の変化につれて変化していくこの巧緻 な作品では、それはたんなる一要素にすぎ ない ) 、また、おなじようなアイデアを使 ー・クラークの「暗黒の壁」 ったアーサ "WaII of Darkness" ( 1949 ) もそうであ る。トボロジーは、また、奇怪な出来事を 説明する万能の口実として濫用されている 嫌いがある。たとえば、 A ・ J ・ ドイッチ ュの「メビウスという名の地下鉄」 "A Subway Named Möbius" ( 195 のでは、 地下鉄路線網があまりにも複雑化したた め、電車が謎の消失や再出現をくりかえ 269 す。この現象は、題名の中にメビウスの名 を使ったことで、充分に説明されたと、作 者は言いたいらしい。メビウスの輪と地下 鉄のトンネルとの関連性は、明らかにされ ていない。 「メビウスという名の地下鉄」が示したト ポロジーに対する態度と似たものは、数秘 学に対しても見られる。たとえば、ジョン ・ランキン ( ダグラス・ R ・メイスン ) の "Six Cubed Plus One ” ( 1966 ) では、 特定の数に魔法的属性があるとされてい る。 ( 数学へのこうした態度に関して皮肉 なコメントを呈したのは、 L ・スプレイグ ・ディ・キャンプとフレッチャー・フ。ラッ ト共作の『神々の角笛』と『妖精郷の騎 士』の合本 T ん 00 襯が e E 〃 0 ん 4 厩催 , こでは記号論理学の方程式 1942 であり、 が魔よけの護符として使われている ) 。 超限数の概念は、トボロジーとおなじ く、未知の魅力と逆説の風味を備えてお り、また無限には独特のセンセーショナル な意味合いがある。この理由から、数学的 神秘主義のムードを打ち出すために、しば しば超限数にお呼びが掛かるが、ほとんど の作家はその名を持ち出すだけにとどまっ ている。超限数はジェイムズ・ブリッシュ の知的ゴシック趣味にもアッヒ。ールしたら しく、フ・リッシュの "FYI" ( 1953 ) は、 それが有形物を数えるものではなく、また 数えることもできないという事実をとら え、超限数が現実に適合するように宇宙が 再構築される可能性を考察している。 数学では、その他に二つの分野が S F に 素材を提供してきたーーー統計学と論理学で ある。統計の概念と確率論は誤解されやす いものであり、そうした誤解は数多くの S F に見られる。また、具体例の衣を着せる ことのできる抽象概念であるために、お笑 い草にもされやすい。たとえば、ラッセル ・マロニーの「不変の理」 "lnflexible III

10. SFマガジン 1984年4月号

第 10 回 ハヤカワ・ SF コンテスト 多くの SF 作家を輩出した伝統あるコンテ ストです。 SF の未来を切り拓く意欲ある 新人を求めま魂ふるって御応募ください。 ・入選第一席規 賞品および募 賞金二〇万円 ・入選第一一席 賞品および 賞金一〇万円 ・入選第三席 賞品および 賞金五万円 ■未発表の小説にかぎります。 ■枚数四百字詰原稿用紙四十枚以上 百枚まで。 ( 必ず三枚程度の梗概を つけること ) ■締切昭和五十九年三月末日。 ( 当 日消印有効 ) 新発表本誌昭和五十九年十月号誌上 ■宛先〒皿東京都千代田区神田多町 一一ー二早川書房第十回「ハヤカ ワ・コンテスト」募集係。 ■原稿は縦書きとし、鉛筆は不可。必 ず右側の一一カ所を紐で綴し、住所、 氏名 ( 本名 ) 、年齢、職業、電話番 号を明記してください。 ■該当作のない場合、佳作を何篇か選 ぶこともあります。当該作品には賞 品を進呈します。 ■入選作の著作権および上演、上映権 等、ならびにこの作品から生ずる一 切の権利は早川書房に帰属します。 ■原稿はたとえ返送料が添えてあって も一切返却しません。 ■募集要項および選定結果などについ てのお間合せには一切応しません。 9