なものがそれ自体として客観的でありえたを設定している。〈党〉による普遍的抑圧 4 〉と、『一九八四年』における〈 2 十 2 そのような世界では同時に主観的なも体制を足元から打ち倒しうる力は、ただ民 4 〉とが、なぜあのように、一方は「抑 圧」の、他方は「解放」の、といった正反のもそれ自体として主観的でありうるだろ衆のなかにこそ秘められている。蜂起する イングソック的抑圧の反対物とし民衆の象徴的暴力の氾濫だけが、〈二重思 対のメタファ 1 として機能しているのかのう 理由も明瞭になってくる。〈 2X2 日 4 〉がて、いわば解放の象徴ともなりうるのだと考弁証法〉という総体的テロリズムを無 いえる。 化しうるであろう。だがオーウエルは、残 「抑圧」のメタファーであるのは、これが 客観的なものの象徴だからだ。『地下室の だが、イングソック的抑圧に対する〈 2 念ながら、この最後の希望に充分な確信を ここから『一九八四 手記』の語り手は、まだへ 1 ゲル日マルク十 2 Ⅱ 4 〉の対置は、やはり弁証法的権力抱くことができない。 ス弁証法という究極の権力知に直面してい へのヒューマニズム的批判に過ぎないとい年』の暗さ、やりきれなさの印象が生じて くるのだが、「絶減労働収容所」という なかったが故に、客観的なものによって押う根本的な限界性を刻印されている。しか し潰されていく主観性、内面性の擁護とい しウインストンは、次のような言葉を日記二十世紀の地獄の底から這いだしてきたソ ルジェニーツインは、オーウエルよりもは るかに楽観的である。そしてそれが、『収 容所群島』という陰惨きわまりないドキュ メントのいたるところに乾いたユーモアを 感じさせるという効果をあげている。 おそらくソルジェニーツインのこの楽観 には根拠がある。それはたとえば、『収容 う実存主義的、ヒューマニズム的立場を選に書きつけてもいる。 所群島』で詳細に、かっ熱情的に描きださ ゼック ぶことも可能だったのだといえる。しかし れているケンギル収容所の囚人蜂起という 『一九八四年』のウインストンにのしかか もし希望ありとすれば ( とウインストような体験に裏うちされているのだろう。 ンはいた ) それはプロレ階級の中に叛乱はつねにある。マルクス主義収容所国 こそある。 : ・ : ・彼らは意識を持たない家の弁証法的権力であろうとも、つねにそ え性とを同時に完全に呑みつくし、簒奪統合 限り決して反逆しないであろうし、まの足元に甦る民衆蜂起の象徴的暴力を奪い 考していく「主体日実体」、「主観客観」 この確信に にという弁証法的権力そのものなのだ。だか た反逆した後でなければ意識は持てなっくすことなどできはしない。 おいて、『収容所群島』のソルジェニーツ らウインストンにとっては、主観的なもの いのである。 インは『一九八四年』のオーウエルの希望 と客観的なものが二元論的に対抗していた 四過去の世界こそ憧憬の対象ともなるのであ「鳥は歌い、。フロレも歌う、が、党だけはに、確かな根拠をもたらしえたのではないけ 一 0 」 000 、《 00 、 00 《」 0 ・ 0 り、したがって〈 2 十 2 日 4 〉は、客観的歌わなかった」。オーウエルは正しく問題だろうか。、」
のだ ? 何事も存在しえないよ、人間何百光年の彼方に実在しているというウィ ディであるイングソックの〈党〉なのであ の意識を通じなければね」 ンストンの立場ーーーでもない。〈二重思考〉り、そしてこの究極の支配権力としてのロ 「しかし、すでに絶減した動物の化石は、実在論と観念論の認識論的対立の地平〈党〉は、その外部という領域そのものを 類がたくさん出ていますーーマンモスそのものを超えてしまう。つまるところ絶えまなく権力的に内部化し、統合簒奪し だのマストドンだの、それから巨大な「主観ー客観」の二元論に還元される近代ていく自己膨張的無限運動を続けるのだ。 爬虫類なども、人類が生まれるずっとの二項対立的世界へののりこえの意志こそこれがオ・フライアンによって語られる「古 前から、この地球に棲んでいたのですが、あの異様な〈二重思考〉の世界を定義い時代の専制者たちは『汝、斯くすべから よ」 するのである。だから〈二重思考〉の核心ず』と命じた。全体主義者たちは『汝、斯 「ウインストン、君はそれらの骨を見は、嘘と真実が無矛盾的に同居しうるとい くすべし』と命じた。われわれは『汝、斯 たことがあるのかね ? そいつは十九う意識の欺瞞性にあるのではない。それはくなり』だ」という怖るべき言葉の真の意 世紀の生物学者がでっち上げたもの 〈二重思考〉の原理ではなく、たんにその味なのである。 だ。人類が出現する以前は何も無かっ 心理的結果であるに過ぎない。 〈二重思考弁証法〉の主体日実体である たのだよ。人類が終わった後も、もし〈二重思考〉の原理は、かりに「集団的唯〈我〉は、その外部に〈汝〉という対立者 絶減する日が来るとすれば、やはり何我論」と呼ばれた集団的意識が、その外部の存在を原理的に承認しない。 〈汝〉は も存在しなくなる。人間が存在しなけに存在するすべてのものを呑みつくし、同〈我〉の影に過ぎないのであり、〈我〉の れば、一切は無なのだ」 ( 傍点引用化吸収し、自からの力に簒奪転化してしま意志によってどのようにもその定義を変史 者 ) う普遍的統合の理念なのである。『一九八されうる無実体的な亡霊に過ぎないのだ。 四年』で描かれたこの理念が、ヘーゲル オーウエルの天才的な着眼によれば、 オ・フライアンのこの言葉にウインストン マルクスの弁証法的「主体日実体」という〈党〉が絶えまなくその外部の世界を簒奪 は、それが唯我論ではないのかと考えるの理念のパロデイだということは、まったく統合し続けていくためには、第一に言語の、 だが、オ・フライアンは「君は間違ってい疑いえない。弁証法は〈二重思考〉と同様第二に歴史の、第三に物質の極度に人工的 る。そいつは唯我論じゃない。お望みとあに、近代の「主ー客」二元論を〈止揚〉しで抑圧的なコントロールが不可欠である。 れば集団的唯我論といってもよい。しかし たものとして登場してきたのである。 『一九八四年』では、「集団的唯我論」に それは本質的に違う。実際には正反対のも『一九八四年』でオーウエルが、マルクスよって容易に処理されうる「物質という外 のだ」と答える。 主義的収容所国家の批判をこそ企てたのだ部」ではなく、「言語という外部」「歴史 確かに〈二重思考〉の原理は、唯我論にということは、ここからも明らかである。 という外部」がいかに意図的に改編されて 帰着する認識論的観念論ではない。とはい ヘーゲル“マルクス弁証法のパロディとし いくかについて詳細に描きだされている。 え、観念論に一一元論的に対立する実在論ー ての〈二重思考〉が棲まうべき肉体は、い ここに至ってようやく、ドストエフスキ ーっまり、地球は人類よりも古く、星々はうまでもなくマルクス主義的革命党のパロ イの『地下室の手記』における〈 2X2 Ⅱ
名詞、つまり私とは、たんに文法的虚構に つまりル・ハショフは、客観的なるものの 過ぎない」という種類の言葉である。公開暴威によって、つまり〈 2X2 Ⅱ 4 〉の論 裁判で自発的に偽りの〈自白〉をして処刑理によって押し潰されてしまったのだ。だ 御都合主義的にオーウエルを引きあいに される革命指導者ル・ハショフは、「歴史のが裁判の後、処刑を待つまでのあいだル・ハ 応急な転換期においては、あの旧来の権謀ショフは、かって革命家になるために捨て出す進歩派も保守派も、『一九八四年』と 術数より他に可能な方法はない。すなわ去った「文法的虚構」である「第一人称単いう作品の中心にある〈二重思考〉の真の ち、目的は手段を正当化する」と、あるい数」を、つまり私を再発見する。彼は、神意味を、それがたんなる無理解であるの は「われわれは、自己の思想を窮極の結論秘的な「無量感覚」を体験し、無限につい か、あるいは意図的な歪曲であるのかはと へ向かって追従させ、そしてその結論に従て思索するようになる。ル・ハショフは、客もかく、ともに完全に隠蔽している。たと って行動しなければならないという、絶対観的なものの暴力によって全的に粉砕されえば大江健三郎は、核軍拡が平和の条件だ 的な制約下におかれている」と考え、そのてしまったそのことにより、逆に主観的か という種類の論理こそ〈二重思考〉の産物 ように行動してきた人間だった。つまり彼っ内面的な私の世界を再発見するに至るのだと語る。あるいは、大韓航空機を撃墜し にとって、「問題の要点は、客観的に誰が ておきながら撃墜していないと公言したソ 正しいか、ということだけ」なのであり、 逃げ戻るべき内面が残されていたル。ハシ連の態度のなかに、 〈二重思考〉が見出さ 「主観的誠意というような問題は、何等関ョフと、彼にとって内面的自由の象徴であれると主張する栗原彬のような意見もあ 係はない」のだ。 ったジューリアへの愛情さえをも、もっとる。しかしこれらの人々は、〈二重思考〉 ル・ハショフがな・せ屈服したかの理由は、 も無惨なやり方で破壊され、グロテスクにを描くことによってオーウエルが提出した あまりに明白である。彼は〈第一人者〉 も彼の自由と自尊心のすべてを奪い去った画期的な観点を、ただの嘘、ただの欺瞞、 ースタ 1 リンをモデルとした人物で、『一その原兇である〈ビッグ・・フラザ , ー〉をこあるいはただの詭弁という水準にまで、意 九八四年』の〈ビッグ・。フラザー〉に対応そ愛するようになってしまうウインストン識的にか無意識的にか結果として頽落させ するーーの判断が歴史の現実のなかで客観 。作品の結末部分で『真昼の暗黒』とているだけなのだ。 『一九八四年』の主人公が、逮捕、尋問 オーウエルによって洗い出された〈二重 えしたのだ。である以上、「主観的誠意とい拷問の後に辿る就跡は、このようにまった思考〉の本質は、たとえば『一九八四年』 うような問題は、何等関係はない」。彼はく対照的なものになっている。この相異のの次のようなウインストンとオ・フライアン に自分が真に有罪であったことを認め、さら根底にあるものこそ、〈 2X2 Ⅱ 4 〉あるの会話に典型的に表現されている。 いは〈 2 十 2 Ⅱ 4 〉に対する、『真昼の暗 年に党の権威を守るという最後の義務とし 4 て、公開裁判では主観的にも裏切り者であ黒』の作者と『一九八四年』の作者との態 「何をいう。地球は人類と同じ時期に 四り、スパイであったという虚偽の〈自白〉度の、決定的な差異性なのである。 出来たのだ。それ以上に古いわけはな乃 を演じることになる。 。どうしてそれ以上に古いといえる
品というジャンル上の相違にもかかわら密を究明しようと試みたのであり、「解放したソ連の精神病院で実施されているの ず、両者が共通の歴史社会的素材対象としの抑圧への転化」という現代史における最は、現代医学の権力的利用に他ならない洗 て、それを作品化したためだと考えないわ大の謎に直面することをこそ望んだのだ。脳、人格改造、患者の廃人化、等々であ り、この点からオーウエルの「予言」は現 けにはいかない。そしてもちろん、その共だから、オーウエルの「予一一一一口」が当った 通の歴史社会的素材とは、強制農業集団か、当らなかったかという種類の議論にな実によって追いこされてしまったと主張す ーしうまでもないことるような論者も存在しうる。 化、モスクワ裁判、大粛清など一九三〇年んの意味もないのよ、、 だが、繰り返すが、オーウエルは未来予 だ。また、オーウエルによって構想された 代にその「狂気」のひとつの頂点をきわめ た、マルクス主義によるソ連収容所国家のアンチ・ユート・ヒアとは、高度テクノロジ測などに何の関心も抱かなかったのであ 存在に他ならない。 ーの権力的利用によって新しい管理社会的り、それがなんらかのテクノロジーにまっ スペイン共産党によるアナキスト民衆へ抑圧体制が成立する可能性を警告したものわる未来予測であれ、それを利用した新し の血の弾圧ーー ・ハルセロナの五月事件 だという種類の議論も少なくない。さらにい抑圧の形態にまつわる未来予測であれ、 を、弾圧を蒙った当時者である市ここから、『一九八四年』は日本や欧米の問題は少しも変わりはしない。むしろこの 民軍の一員として体験したオーウエルにと高度管理日抑圧社会の出現を「予言」した点では、並べて論じられることの多いハッ ものだといった、主に進歩派によってなさクスリーの『すばらしい新世界』の方が って、『一九八四年』の主題はあくまでも、 『一九八四年』よりもはるかに〈未来予測〉 作中に登場するゴールドスタインの「あのれている議論も多く目につく。しかし、こ 本」で述べられているように、「かくしてれもまた『一九八四年』の誤読であるか、的な作品だといえる。オーウエルは何より も、現にあるマルクス主義的収容所国家の 党は社会主義運動が本来、保持し続けてき意図的な歪曲だといわなければならない。 た原則の全てを捨て、しかも悪罵を加えて『一九八四年』のいったいどこで、オーウ総体的抑圧体制の謎を解き明かそうと企て 来たのである。それも社会主義の名に於てエルが、新しいテクノロジーやら新しい抑たのであり、そのための方法として、現に そうして居るのだ」という二十世紀の革命圧体制が生じるなどと語っているだろう。 ある抑圧体制の想像的、文学的な極限化を と解放にまつわる惨澹たる逆説にこそ設定この作品に登場する小道具のなかでは、か思考実験的に試みたのである。この時彼 されているのである。 ろうじてテレスクリーンだけがテク / ロジ が、最大の重点を置いて考えたのは、歴 この連載企画の第一回目で中島梓が指摘ー的抑圧装置といえないこともないが、他史、言語、思考、等々、テクノロジーとは しているように、『一九八四年』はヴェル に類例は見出しえない。 この作品の最後の直接関係のない人間の存在と人間意識に普 スやガーンズ・ハックのそれのような、未来箇所で主人公のウインストンに課せられ遍的に関係する・ヘき領域の問題であった。 『一九八四年』と『すばらしい新世界』は 予測をモチーフとする作品ではない。 る、〈一〇一号室〉での決定的な拷問さえ ザミャーチンの オーウエルは、当時も今も収容所国家としも、「帝政時代の中国で、よく使われた刑ともに、エヴゲ 1 ニ 1 『われら』を継承する作品だといえるが、 て現に存在しているマルクス主義の総体的罰」なのであり、なんら高度テクノロジー 抑圧の体制、総体的テロリズムの体制の秘の産物ではないのだ。今日、政治犯を収容前者は『われら』のうちでも政治的寓意小
義」社会批判、つまりソ連社会批判を目指いう奇怪な意識状態の意味を、双方ともに したのがオーウ = ルの『一九八四年』だとまったく読みとりえていないことからも、 いった種類の、保守派による議論もまたゞ あまりに明瞭だという・ヘきである。 る意図的に歪曲された御都合主義の産物であ 、えるに過ぎない。オーウエルは、西側諸国に 考おいても現にある階級社会の、その最終的 な完成形態を批判的に構想したのであっ ウインストンは、それをつけること自体 年て、その視点からは「自由主義」的階級社が思想犯罪となる日記帳に、「自由とは二 会が免罪されようはないのである。 足す二が四になると言える自由だ。これが 8 なしろこういった方がい 現にある容認されるならば、その他のことはすべて 「自由主義」的階級社会は、その内的必然容認される」と書き記す。 : 〈 2 十 2 日 4 〉 説の要素を、後者は小説の要素を、よ性によってソ連社会の極限化である『一九の等式は、この作品のなかであたかも自由 り純粋化して継承したものと評価すべきで八四年』的社会を産出するにいたるのだ、 の象徴であるかのように幾度となく反覆さ イグソック あろう。だから『一九八四年』はむしろ、 と。後者を拒否することは、論理的にいつれ、そしてウインストンの英国社会主義体 『すばらしい新世界』よりも、モスクワ裁て当然、前者をも拒絶することである。っ制への反抗が最終的に挫折していく瞬間に 判における・フハーリンなど革命指導者の、 まり、左翼も右翼も、各々オーウエルとは、その敗北の象徴として〈 2 十 2 Ⅱ 5 〉 自発的におこなわれたありもしないデッチ 『一九八四年』を引きあいにだして欺瞞的という「等式」ーー二重思考によればこの あげの〈自白〉という謎を主題化した、ケな自己正当化をはかっているだけなのだ。式は誤りなのではなく、正しい「等式」で ストラーの『真昼の暗黒』との比較におい そして、この左右両翼による我田引水的あるーーが登場する。つまり、党の命令で て論じられるべき作品なのである。 なオーウエル評価がともに浅薄なものでしあれば〈 2 十 2 5 〉を疑わない意識状態 とはいえ、西側世界の「自由主義」社会かないという事実は、オーウエルが渾身のになった時、〈二重思考〉の学習が完了し たその時こそ、ウインストンの屈服は決定 を全面擁護する立場に立って、「社会主思考実験の果てに提出した〈二重思考〉と 的なものとなるわけだ。 ところでドストエフスキイは、『地下室 の手記』という作品のなかで、かなり重要 なメタファーとして〈 2 X 2 日 4 〉という 等式を提出している。 不可能事ーーすなわち石の壁というわ けだ。どんな石の壁といわれるのか ? なに、知れたこと、自然法則とか、自 然科学の結論とか、数学とかである。 : これはしたり、いったいその自然 の法則だの数学だのが、ぼくになんの ? な・せか知 関わりがあるというのか らぬが、ぼくにはそんな法則だの二二 が四だのは、さつばり気にくわないと いうのに。 : ・ほくは、そこに石の壁 があり、・ほくには力がたりない、 うそれだけの理由から、この壁と妥協
川ⅢⅢⅢⅢⅢⅢ聞ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ日ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ川 年、歴史的建築物の破壊を防ぎ、愚かな \ 、再 建〃を禁じようとする運動から、政治にも 関心を深める。それを契機に、驚くほど短 時日のうちに、以後長くつづく社会主義と の積極的な関わりあいが始まる。ユートピ ア小説『ュートヒ。アだより』厩ぉカ・の〃 N 。 , 尾 ( 1890 ) は、正統派マルクス主 義の ( 当時としては ) 異常な視野の中から 生まれてきたものである ( 芸術 ) 。ェドワ 『かえりみれば』ん 00 んツ g ド・べラ お 4 ( 1888 ) への応答としてただちに 書かれた『ュートヒ。アだより』は、夢見る 語り手を当時のイングランドから、貧困、 不潔、産業化社会の醜悪さ、等々がすべて拭 い消されたイングランドーーーモリス初期の 詩ののどかな夢幻的風景と共通するところ の多いイングランドへと送りこむ。フィク ションとして見るなら、数あるユートビア の中でも最もきよらかなこの世界は、彼の 壁紙デザインの最高作にも匹敵する、明晰 さと雅趣と説得力にみちている。第 17 章に おけるフ。ロレタリアート革命略史に見るよ うに、マルクス主義的発想がいちばんくっ きりあらわれている個所では、想像力の密 度と迫真性も高い。後のユートヒ。アものヘ の影響は無視してよいほどであり、現代 S F への影響はさらに少ない。なぜならモリ スのヴィジョンは仮借ないまでに田園的で あり、一般通念にあるテクノロジー面で進 歩した、都会的な、、未来〃とはかけ離れた ものであるからだ。それはむしろ理想化さ れた中世をふりかえるものであり、その前 に書かれた、構造的にも関連する社会主 義的ロマンス『ジョン・ポールの夢』 D の〃産面方”お 4 〃 ( 1888 ) と似通って いる。『ュートビアだより』の執筆中、 1884 年にモリス自身が創立し、以後出資も してきた、、社会主義者同盟 / / が、極端な民 主制のために解体した。モリスの著作に は、高度に装飾された願望充足の傾向が常 この事件はこれに拍車をか にあったが、 け、日常生活のなまなましい香りは芸術的 に払拭された。『世界のかなたの森』 The ↓ / 0 。イおの幵 % r ( 1894 ) や T ん We 〃 the Ⅱ % r ' End ( 1896 ) をは じめとする晩年のロマンスには、不遜なま でに逃避的な初期の詩と似た、不本意な決 別の思いは読みとれるものの、それらの詩 にあった夢うつつに誘うような調和はほと んど見られない。その意味で、モリスはふ たたび、、空しい日の暇な歌い手〃にもどっ たわけである。しかし C ・ S ・ルイス、 J ・ R ・ R ・トールキン、その他剣と魔法も のの群小作家たちがこそって影響を認めて いるように、晩年のロマンス作品は S F の 領域に最も踏みこんでいる。 またモリスはアイスランドの伝説のほ か、数点のギリシャ・ローマ古典を英訳し ている。 〔 TMD 〕 『サンダリング・ その他の既訳作品 フラッド』 T んど & 00 可、ど Su れ d のツれ g MOSKOWITZ, SAM(UEL) モスコウィッツ、サム 窺 00 ( 1898 ) 。 ( 1920 ー 262 以後の歳月の経過にも衰えることのない情 ァン・グルーフ。同士の反目のありさまを、 本で、 1930 年代後半、まだ小規模だったフ は、初期 S F ファンダムの歴史をたどった る。第 1 作 T んビ 7 襯襯のソ & のフ〃 ( 1954 ) の SF 研究家のすべてに先がけるものであ ・ 0 ・べイリーを名高い例外として、外部 だった。この方面における彼の著作は、 J して解説者としては、長年最も有名な存在 ィッツは、ジャンル出身の SF 史研究家そ SF ファンダムの大立者であったモスコウ 雑誌編集長もっとめている。 1936 年以来、 ト。また冷凍食品関係のコンサルタント、 アメリカの S F 史研究家、アンソロジス
・ヒューラー氏は、アメリカのベトナム干渉てきたところで、八三年八月、ニュースジ任」意識、そして青少年の現状を思えば、 に対するス。ヒンラッドの一貫した抗議行動ン「アクテ = エル」は、『鉄の夢』のビ = ーラーの不安も至極もっともといえ を知っているのか。スビンラッドが、まさに販売制限が解除されたことを報ずる。論争る。しかし、だからといって販売規倒という 民主主義的関心からヒトラー諷刺を書いたも、残念ながら、尻切れトンボでおわってシステムが適当とは思えない。おそらく、 スピンラッドの本来の意図 ( もっとも、作 ことを認めたくないのか。スピンラッド自しまった。 身が、一部の・ファンタジイ作品にお僕自身の考えを述べるならば、イェシケ者がそれを語っているのを、僕自身読んだ のいうように、リペラルな左翼作家たるスわけではない ) をはっきりさせるために ける、人種主義的、ファッショ的イデオロ ギーに危険を感じ、この問題に関心を集めビンラッドの民主主義的意図はわかるとしも、本の出版と同時に、 ( 販売規制問題な どが起きなくても ) 界があげて、この るため、諷刺の意図をもって ような大論争を展開すること自体が、最 彼はこの小説を書いたのだ。 ( 中略 ) 良の方法なのではないか。論争こそ民主主 オ号 ビューラー氏は、スビンラ フ 7 義の基礎であり、活発な論争が ( 低次な悪 ロ雑言は論外として ) ある世界はそれだけ ドの意図を知っている。我 ジで健全だといえる。僕がドイツ語を読めな 我全員が知っている。論議の贅 ) たン テーマになりうるのは、この いため、今回はイェシケとビューラーの議 諷刺が成功しているかどう ・論しか紹介できなかったが、このかんに か、そしてその描き方に欠陥 、をンは、 ( 一部は言及されているが ) 広範なフ アンジンやプロジンで多くの人が論争 カオい力とうか、ということ だけだ。しかし、国際的に知 に参加している。一昨年、たまたま西独の られた作家であるス。ヒンラッ メンヒエングラート・ハッハで開かれたヨ ロッパ ()n 大会 ( ューロコン ) でも、この ドのごとき誠実な民主主義者が、卑劣な扇ても ( 実際、いわれてみればと、とくに 情的トリックによって、売文屋として描きヒロイック・ファンタジイのかなりの部分問題に関する討論会が企画された ( どうい 出され、人種主義とファシズムの範疇に入 が、ナチスばりの人種主義とファシズムにうわけか、中止になったが ) 。日本ファン れられてしまったとなると、少しでも事情満ちているという視点は鋭い。この点アジダムにも、このくらいの論争的気風があっ ヘレンフォ 1 ク を知る者としては、まさに赤面の至りと いアの支配種族たる我々はス。ヒンラッドよりてもいいと思うのは僕だけだろうか。 わざるをえない。 はるかに鈍感といえる ) 、それが、読者の多 くに伝わるかどうかは、大きな疑問だ。西 こうやって、いよいよ論争が盛り上がっ ドイツにおいても風化しつつある「戦争責
したりすることはしないつもりだ。 ードルゴーキーーイヴァンといった人物群といったビヨートルの人物設定には、明ら ( 江川卓訳 ) はすべて、イヴァン自身が自嘲的に述べてかに〈 2X2 Ⅱ 4 〉の近代的原理から逸脱け いるようにその「惨めなユークリッド的頭していくものが認められるのだ。ドストエ 〈 2 十 2 Ⅱ 4 〉と〈 2 x 2 日 4 〉の、つま脳」において共通するものがある。 フスキイは、合理主義や客観主義の極点と り加算と乗算の相違はあるにしても、両者 ドストエフスキイにとって社会主義としての「社会主義日無神論」とは、たんに がともに客観的なるもの、合理的なるものは、「地上から天上に達するのでなく、天〈認識〉の問題なのではなく、あくまでも のメタファーとして各々の作中で機能して上を地上に引きづり降ろそうとする無神 〈倫理〉と内的に結合し一体化することに いることは疑い難い。しかし、それについ 論」の問題に他ならなかった。そしてそのよってその暴威を解き放つべきものと了解 ての価値判断は、『一九八四年』と『地下原理は、西欧唯物論の二本足である客観主していたのである。そして、この、〈倫理〉 室の手記』では完全に正反対になってい義と合理主義、つまり〈 2 x 2 日 4 〉としと結合した〈認識〉というコングロマリッ る。コーテーションが逆に機能するようにて了解されていたのであり、これが『地下 トこそ、ドストエフスキイによって、新約 なっているといってもい 聖書に出てくる豚の群れ 。あの地下室の住人に ~ 追いこまれた亜 5 霊にた とって〈 2 x 2 Ⅱ 4 〉は とえられたもの、すなわ 抑圧の象徴であるのに、 ち〈観念〉に他ならな ウインストンにとってそ れは反対に、他ならぬ自 ところで、〈 2 x 2 Ⅱ 由の象徴なのだ。 4 〉の客観性に抑圧の根 ドスト = フスキイの場合、『悪霊』に登室の手記』の主人公にと「て、「壁」とし源を見出すというこのような了解は、十九 場するシガリョフの、「完璧な自由を求めて了解されていた抑圧の正体である。 世紀人であるドストエフスキイに固有のも て完璧な専制に帰結する」奇怪な共産主義とはいえ、 ドスト = フスキイの場合、たのではない。実現された「社会主義国家」 理論や、その発展ともいえる、『カラマー とえば『悪霊』のビョ 1 トル・ヴェルホー における、一九三〇年代のモスクワ裁判の ゾフの兄弟』でイヴァン・カラマーゾフにヴ = ンスキーに体現されているように「社謎を主題化したケストラーもまた、『真昼 よって語られる劇詩「大審問官」のなかで会主義日無神論」とは、たんに〈 2X2 Ⅱ の暗黒』で客観的なるものの暴力によって 提出されたアンチ・ = 1 ト。ヒア社会の構想 4 〉という客観主義と合理主義の原理に遠押し潰される人間の悲劇を描いているの ! 」 0 はともに、〈 2X2 Ⅱ 4 〉を原理とした抑元されうるものではない。ポール玉のよう 圧社会なのである。そして、ドスト = フスに右〈、左〈、ころころと転が「ていくけ『真昼の暗黒』 ( 岩淵達治、岡本成蹊訳 ) キイによ 0 て描きだされた否定的人物の系たたましいほどの活動的人物で、そのあらの場合、〈 2X2 Ⅱ 4 〉の客観性と合理性 譜、つまりラスコーリニコフーイボリット ゆる言動についてほとんど真偽定かならぬに対応するのは、「第一人称単数の主語代 0
トを第を攣い をを寺第ー、い 『ランクマー」マップ より、大きく変化したという点もあるが、こあるのではないか。このうちの世界とい 4 れにもシミュレーション性が大きく関わってうのは、ファンにはわかりやすいと思 う。別称″多元宇宙″であり、諸要因によっ いる ) 。 で、このシミュレーション・ゲームなるもて、もとの世界から無数に分岐した世界の一 のだが、現象的にとらえるなら、コ。ヒー技術つである。ぼくの魅力を感じるシミュレーシ の発展などと同じように現代文化をおおう虚ョン・ゲームとは、こうした仮構世界が背景 構性の一部ともみなせるし、あるいは、遊びとなり、その中で自分の決定が運命をわけて いくというものだ。ある意味では、をは の文化論から考えるなら、ホイジンガには ″遊びの退廃″として断罪されるようなものじめとする小説のもっとも魅力的な部分を生 かそうという試みかもしれない。 かもしれず ( 『ホモ・ルーデンス』 ) 、また、 カイヨワには、特にそのロール・プレイ的要ただ、現実には難しい点がいくつも出てく 素など、彼の主張する遊びの四分類のうち、る。精密な仮構世界といっても、実際にある ″模擬″ (mimicry) そのものであると一言状況を表現するだけでも、からみあう諸要素 に規定されてしまうものかもしれない ( 『遊が多すぎて、ほとんど不可能にちかい。そこ で、いちばんドラマチックであり、また″ゲ びと人間』 ) 。 いずれにせよ、従来にはあまりなかった考ーム″ということからコンフリクト ( 対立 ) え方であり、それゆえにうさんくさげに思わ要素を抽出しやすい戦争がテーマとなりがち れたり、逆に″模擬による新しい戦略、アナだ。かくして、シミュレーション・ゲームで ログからデジタル化への新しい波″といったはウォーゲームがもっとも代表的な形となっ 感じで持ち上げられたりする。ただ、こうしたのである。 けれども、先にも述べたように、シミュレ たとり上げられかたは、シミュレーション・ ゲームの中の″シミュレーショ ーション・ゲームに本来的にある″ *-«の世 ン ( 模擬演習 ) ″という要素を界を自らが開いていく″といった楽しみは、 特に述べたものであり、シミュと不可分のものだろうし、そのため レーション・ゲーム全体の楽しシミレーション・ゲームも、当初からウォ さやその実際に意味するところーゲームやビジネス・シミ = レーション・ゲ マのものとは少々ちがうような気ームに付随した形で存在した。 ・当ク ただ、こうした初期のゲームにも、す / がする。 ラ シミュレーション・ゲームはぐれたものはいくつかあるけれど、やはりウ ' 第 ) 、 ' 楽しい。そして、その楽しさは , ーゲー、にの背景を 0 け加えただけと ずばり精密なの世界という いうのではもの足らないのも事実だ ( ここ 仮構と、自らがその中に入りこで、方向性が二つにわかれた。 み、操作できるという能動性に 一つは、的な仮構世界を明確にしよう 1
F ゲームへの招待 AN HOUR WITH ドーす Z ー E ー B E R 丁 A 、び材第・ 3 0 HI$ WO 「 ks 「 ライバーのインタビュウ・カセット 、いン一くフアファード & グレイ・マウザー〉シリーズ というタイ。フで、具体的には素材を特定のロール・。フレイング・ゲーム ( 特に『ダンジ ョンズ & ドラゴンズ』と『トラベラー』 ) だ 作品に求めようというもの。これによっ ったが、これらに押されて一時下火だった原 て、プレイヤーはよりはつぎりしたイメージ をつかめるし、ウォーゲーム的要素だけでな作のあるポード・ゲームも、最近また盛り返 く、もっとキャラクター面にも留意した小説してきている。今回は、その辺からのそいて 的要素を盛り込めるのではないかというタイいこう ゲームといっても、や 原作のあるポード・ 。フ・こ 0 もう一つが、もっとダイレクトに″のはり初期の頃はウォーゲーム的色彩が農く、 世界を自らが開いていく″楽しみに接近したある意味でゲームから作品を選んでいたよう ・・ハインライ なところもある。ロ・、 ロール・。フレイング・ゲームである。 要するにシミ = レーション・ゲームンの『宇宙の戦士』などはこの典型で、もと は、″シ。こレーション ( 模擬演習 ) ″要素が全篇戦争をテーマとしているため、ウォー を持つのだが、それと同時にがストーリゲームからの転換に比較的異和感はない。※ ーである以上、当然そうした小説的要素をももっともの中から、そうしたテーマの作 品ばかり選ぶのは難しいし、また、先に述べ 考慮しなければならないというわけだ。 かくして、一九七〇年代後半には、折からた小説ゲーム的な要請もあって、最近のこう ゲームは、原作全体をグリップ あって、こうしたシミュしたポード・ レ 1 ション が急速に拡大した。そのし、その中の対立要素を中心に、の世界 システムで人気を呼んだを楽しむ方向のものが増えている。 中心は こよる『ランクマー』トミ h 、、ミ、とい ( 少】、珍しいものには、フリツツ・ライバー冫 ・ある。これも原作の内容とはちょっと異なり、ゲーム・システム自体はランク ″百王の王〃などの勢力を、フアファードやグレイマウザーが率いて、ネーウ の平定を目ざすというウォーゲーム型になっている。おもしろいのは、これをラ 、リー・フィッシャーといっしょに四十年近く前に考えており ー自身が共作者の / 物どおりではない ) 、何と概念としては、ウォーゲームの第一作チャ 1 ルズ・ロ ーツの『タクティクスⅡ』よりはるかに早いということである。ライ・ハーはフィッ 、ヤーといっしょに、このゲーム ( の原型 ) を。フレイしつつ、小説の筋を考えていた 言う。発売されたゲーム社、一九七六年 ) は、あの『』のゲイリー イジャックスがライ・ハーの許可を受け、原型をシ = イ。ファッ。フしたものである 辺りのことは、ライバーのインタビ = ーテープにもでてくる ) 。しかし、それ フリツツ・ラ フレッチャー・プラットと、 ・・ウエルズといい どうしてとウォーゲームは、こう密着しているのだろう ?