「でも、わたし、心のどこかでユウを憎みはじめていた。それが、胞が生体を喰い荒す速度でたちまち全世界を呑みつくしていったの それが辛いの」 「私が、〈青銅の儀式〉を終えなければきみは母親になるわけには文明社会を覆いつくした社会心理的荒廃の真の根拠は、当時、家 いかない、それがエディ・フス市の法だということを告げたからだろ族の崩壊と呼ばれた病理現象にあった。少年非行、家庭内暴力の激 う。きみはどうしても子供を産みたかった。だから、ユウが、きみ増は、文明社会の骨格を土台から揺さぶり続けた。そしてその根拠 にあったのは、文明そのものをその発生期以来数千年にわたって支 が母親になることを妨害する存在であると考えて、だんだんパート え続けてきた社会心理的抑圧の無力化だった。文明を支える社会心 ナーのユウが憎らしくなってきたんだ」 理的抑圧とは、精神分析学者によって〈エディ。フス・コン。フレック しいえ、違います」 ス〉と名づけられたものに照応する。 アイは不可解なほどの確信をこめて、きつばりといった。 生まれた時、いっか父を殺し母を犯すことになると予言されたギ 「赤ちゃんが、お腹のなかでだんだん大きくなってきたの、そうし リシャ神話の登場人物オイディ。フス王は、呪われた運命に導かれ たら、だんだんュウがいとわしく思えてきたの。きっと赤ちゃんを 一人じめしたかったからだわ。そのうちに、ユウに裸のお腹を触らて、ついにその不吉な予言を実行することになる。精神分析学者 は、このオイディ。フス王の物語こそ、あらゆる人間の心の深みに巣 れると、嫌で、嫌で、震えだしそうにさえなってきたの」 喰っている欲望を象徴化したものだと考え、この欲望を禁止し、そ 口に出してはいわなかったが、それはそうだろうと、〈サイコ・ ・コイヒータによってして抑圧することによってのみ文明社会が築かれたのだと考えたの コンサルタント〉は密かに考えた。シティ だが、二十世紀以降崩壊しはじめたのは、この禁止、この抑圧の社 与えられる下意識への暗示は、潜在的な攻撃衝動をたんに顕在化さ せるに過ぎない。暴力的な攻撃衝動が爆発することをなんとか抑え会的装置である家族そのものだったのだ。 父権は無力化し、息子と母親の心理的距離は、際限なく短縮され ている心理的な抑圧装置を、一瞬だけ麻痺させるに過ぎないのだ。 心の底に憎悪がなければ、息子が母を、妻が夫を殺害できるわけていった。そして心理的密着が肉体的密着に転化していくのは、ほ はない。そしてこの禍々しい憎悪の、解消しえない強固な心理的実とんど必然的でもあった。母子相姦の現場を目撃された母と息子 在こそが、エディ。フス市に住む者を支配している奇妙な心理的シスが、目撃者の夫であり父である男を謀殺するといった事件が相次い テムの秘密でもあった。 だ。反対に、あまりに強烈な母親の影響力、支配力のため、恋人に 〈大崩壊〉の真相は、核兵器や生物・化学兵器による最終戦争の勃対しては性的不能症に陥ってしまう無気力な息子が激増し、それか 発に尽きるものではなかったのだ。その前提には、ついには最終戦ら逃れようと母親を殺害する事件もまた相次いだのである。 いっさいの制限と歯どめを失ったエディ。フス的欲望の大洪水は、 争にまで至る、全世界的な規模での癒しがたい社会的混乱があっ た。それは二十世紀の先進諸国でます萠芽し、数世紀後にはガン細家族という社会の基礎単位を完全に瓦解させた。最終戦争は、こう へ 0 5
ダニズムの一翼を担っています。お聞きし 伝統に深く根ざしていたはずなのです。 問いしかし、イギリス的伝統はただモラたいのは、その点、概してモダニズム作家 7 答えオーウエルの信条のひとつであった リテイだけではない。十八世紀ポー。フ、スと呼ばれるジョイス、。ハウンド、 『良識』 (decency) を考慮すればいいの ウイフトの時代から文学形式を自ら解体しトらとほとんど同じ時代に生きたというの かもしれません。たとえば十九世紀イギリ に、しかも往々にして比較されるハックス ス、ヴィクトリア朝の信条 リイさえ『恋愛対位法』 ( 一九二八年 ) の だった『尊厳』 (respecta ・ ごときモダニスティックな形式の作品を残 b 三 t ことこれは通底するも しているというのに、なぜオーウエルには ので、言わば社会的倫理構 その片鱗もみられないのか、ということで 造に立脚したあまりにもイ す。 ギリス的な伝統ですね。ヒ ューマニズムと言ったって 答えオーウエルには『聖職者の特権』 、、。そんな土壌に芽えた ( 一九四〇年 ) と題したダリ論があって、そ イギリス文学ですから、自 こで彼は『ダリはすぐれた画家であるとと 然、外来文化的なモダニズ もに、嫌悪すべき人間である』ともまとめら ムーー実際それは『コスモ れるテーゼを打ち出しました。ダリの天才 ポリタン的な代物』『無国 と努力についてはもとより異論をさしはさ 籍者や国外亡命者の革命』 んではいないのですが、その芸術的源泉で ある狂気に関するかぎり、道徳的観点から と呼ばれましたし、むろん 徹底した批判を試みている。天才的芸術家 それは我が国における『根 日聖職者と見た場合、その特権は社会的に 無し草の文学』にあたりま いったいどの程度許されるべきものか、と すーーーに対しては、グレア ハフの言うとおり『文 いう議論ですね。私は、このオーウエルによ 学状況の〈非・国民文化〉 るダリ批判のうちに、彼のモダニズム全般 に対する本音を聞いたような気がします。 的現象』『文学の〈非・種 族〉化現象』をもたらすものとして、きわてゆくような方向性はうかがえるのですつまり、モダニズムには一種の芸術至上主 義、と言って言い過ぎならば形式優先主義 めて強い抵抗感を持って応じざるを得なかし、前世紀末にはルイス・キャロルの非・ センス とも捉えられる特質がありましたから、オ ったのです。そして、オーウエルの立場と意味やオスカー・ワイルドの審美主義とい ーウエルにはそれがヒ、ーマニズムに対す いうのも、おそらくはこうしたイギリス的 った萠芽もあるわけで、それらが確実にモ
家よりは S F 評論家がよく使い、中でもジ ュアイス・メリルがアンソロジー E れ gla ”ノ Swings SF ( 1968 ; 圜抄 The S, 勲化 - T / 〃尾面″記英 ) で広めた。しか し、この呼称が指すような作品は、呼称そ のものより古くからあり、呼称自体、あま り正確に定義されていない。 ・ウェ ーブなるレッテルのもとに、のちに包摂さ れるようになった初期の作家には、何人か のイギリス人、なかんずくプライアン・ W ・オールディスと J ・ G ・ラードとがい る。二人は、 E ・ J ・カーネルがまだ編集 長であったころからニュー・ワールズ誌に 作品を発表しているが、 ( 文体に大きな相 違はあれ ) 二人の書くような、ハード S F より心理学やソフト科学に重きをおいた、 写象主義的できわめて暗喩に富んだ小説 が、所を得て納まりがよくなるのは、マイ クル・ムアコックが編集長の地位についた 1964 年 5 / 6 月号以降である。 伝統的ジャンル S F は、イギリスでもア メリカでも 1960 年代半ばまでに、危機を迎 えていた。すなわち、あまりにも多くの作 家が、数少ない伝統的 S F テーマに基づい て、際限なく、時には良識すらない類形を 生み続けていたのだ。良質な作家も伝統的 SF を書いてはいたが、そうした作品は量 で圧倒されていた。この時期に S F 界に登 場した才能ある若い作家の中には トマ ス・ M ・ディッシュのようにすぐさま気づ く例もあり、また - ノ、一ラン・エリスンやロ ト・シルヴァーハーグのように何年も 常套 S F をコッコッ書いてきたあと気づく ジャンル S F が拘束衣と 例もあったが 化したことを痛感する者が多かった。硬直 化した SF は、変化や新奇さに重きを置く 文学形式としては矛盾することに、保守化 し、進取の気性を失っていたのだ。もちろ ん、、生意気な若僧″というものは、いつで も年長者の咎を言いたてたがるものだが、 269 この場合は若者たちに分があった。市場が 小さくなっていたわけではない。その逆 ードカバー出版社は、それまで以上 にしては ) やや悲観的な態度、などであ 減 ( デイザスター ) の可能性への (SF 干渉、戦争などによって惹き起こされる破 あい、さらには人口過剰、エコロジーへの アートやメディア風景全般との強い関わり 治姿勢、性に対する顕著な興味、ポッフ。・ に密接に関連する ( たいてい ) 左翼的な政 東南アジアその他でのアメリカの介入反対 薬や東洋の宗教に対するヒッヒ。ー的関心、 り濃厚に持っていた。すなわち、意識変革の れは 1960 年代末の対抗文化の特徴をかな カウンダー・カルチャー ていたからだ。肯定的な意味あいでは、そ 文学との垣根を壊そうとする力がはたらい いうより、ときには無意識に、 S F と主流 ・ウェープの背後には、計画的な反抗と うのがいちばん簡単である。なぜならニ ・ウェーフ・の定義は、否定語を使 になかった何かを、散文文学に付け加えて じめとする作家はまぎれもなく、それまで ( 少しあとの ) マイクル・ムアコックをは すぎない。 ただし、 J ・ G ・パラードや ロ、ときによっては風刺を利用したものに に主流文学でお馴染みになっていた語り のほとんどは、実験でも何でもなく、とう にあった。この時期の、いわゆる SF 実験 商売の面からも、実験してみる理由は充分 ものはなくなり、むしろ芸術性の面からも 内容においても、ある程度の実験を止める 従って 1965 年までには、形式においても ろう。 洗練された文章に発展した方が有利ではあ バルプ SF の頑固な文体が、もっと柔軟で ていたただその版型で成功するには、 に積極的に SF を出版リストに加えたがっ る。 ・ウェーフ・ S F は、一般的に近 未来を取り扱った。 III
ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅡⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅡⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ 文学として発表され一一そして、事実、主 ことを考えると、キャンベルへの賛辞もい ささか色褪せてくる。 S F 作家に真面目に原子力について考え させた、キャンベルの業績は軽視すべきで ない。広島以前に ASF 誌以外で発表され た原子力についての作品で、意義のあるも のとしては、唯一、スタートリング・ストー リーズ誌に載った、、増〃反応についての メロドラマ "The Giant Atom" ( 1944 ) で あり、これはその後み襯なお 0 襯ろ ( 1945 ) として再刊されたが、著者のマルカム・ジ ェイムスンは、キャンベルの子飼い作家の ひとりだった。雜誌 S F が、それほどまで 原子力の可能性を追求したことは、ジャン ル全般の外挿能力の発露というよりは、キ ャンベル個人の情熱の証左である。 ( この 成果の再現を夢見て、キャンベルがのちに 支持した研究ーーダイアネティクス、ディ ーン・ドライフ・、その他ーーがすべて大失 敗だったことは、悲劇的だ ) 1945 年以降、原子力は SF ではありふれ たテーマとなる。新事実のショックで、黙 示的な核戦争ものが一気に出て来たためだ ( 大破壊とその後 ) 。 1920 年代に X 線の 突然変異誘発性が発見されて以来、一般的 になっていた突然変異の物語も、かなりカ を得た ( ミュータント ) 。最終戦争後の 放射能によって、人間の進化への新しい潜 在性が刺激されるというアイディアも、 、、サイ・フ・一ム / / を支える重要な論拠となっ た ( SP 、サイ能力、スーバーマン ) 。 しかし、原子力が現実のものとなってしま うと、 "Blowups Happen" や『神経線維』 に見られたような、原子力問題の現実的な 取り扱いは影をひそめた。もはや仮説でな くなった、こういうテーマは、 S F 作家の 関心領域外のこととなったのだ。戦後、原 子力や放射性物質と共存することの、社会 的心理的問題を扱った重要な小説は、主流 255 流文学となった。注目すべき実例をふたっ 挙げると、アンリ・ケフレクの厩 / ビ U んれ 03 ( 1958 ; 英訳 1960 ; 圜 The 〕売れ Da れ砒 4 れ米 ) とダニエル・ キイズの The To ″訪 ( 1968 ; 圜 7 ' ん e Co れ地襯記 Ma のである。 ( ここで、 一見矛盾した意見が出るかもしれない。 S F は想像上のことを扱う時だけ現実的であ りうる、と ) 。やむを得ないことながら、 雜誌 S F の中での重要度は 1945 年を境いに 急変した。現実の原子力と共存している現 在、 SF 作家が関心を持つのは、特定の側 面だけだーー - 他のすべての側面を支配する 唯一の空想的側面は、戦争での核兵器の使 用に内在する種々の可能性だからである。 考えてみれば、きわめて当然のことだ。ギ ュンター・アンダースはこう述べている。 1945 年以来、、人間はいつかは死ぬもの″と いう格言に不気味な意味が付け加わって 、、人間は絶減しうるもの〃となった、と。 この新格言がもたらした意識の変化こそ、 戦後 SF を形造る主要な勢力のひとつであ り、 S F を不安の文学と化して、しばしば 色調や内容を黙示的にしている。とりわけ 一群の作品は、人類に世界を破減させるカ を与えた原子物理学者の直面する倫理的問 題を扱って、この点を明確に描き出す。フ レドリック・フ・ラウンの「武器」 "The Weapon" ( 1951 ) 、 H ・ビーム・パイ′ の "Day of the Moron ” ( 1951 ) 、ポール ・アンダースンの「分裂する空」 "The Disintegrating Sky ” ( 1953 ) と "Progress" ( 1962 ) 、 L ・スプレイグ・ディ・キャンフ・ の "Judgment Day ” ( 195 の、ポイド・エ ランビーの・℃ hain Reaction" ( 1956 ) な どである。 現代 SF で、原子力発電所は、ほぼ全て の近未来ものに登場し、現実の世界が化石 燃料の資源危機に直面しているため、たい ていは積極的な役割を果たす。原発は、あ XV Ⅱ
「シミュラークルとシミュレーション」 ・書ウニベルシタス シミけークルとシミルーション ン・第一 - ドリャール物 DUNGt0NS & A00 ENI)LESS QUESVM BOOK Pick-A-Path れ , Ad 、で n れⅣい DUNGEONS 20 ON NIGHTMARE い第 BY ROSE FSTFS ゲームからできてきた本 なニュアンスが強い。そして、ロール・プレプレイング・ゲームを中心としたゲーム イング・ゲームをはじめとするシミュレーシは、の楽しさ、エンターティンメント性 ョン・ゲームは、まさしくそうした擬似体の新しい分野を切り開いているといってよい 験、代替性を兼ねそなえている。 と思う。その昔、には〈武器〉〈楽器〉 特にロール・プレイは、読んで字のごと論争があったと聞くけれども、これは明らか く、プレイヤーがゲームのキャラクターになに新しい〈楽器〉だろう ( コンビュータとい り替って、ゲーム世界を擬似体験していくのうエレクトロニクスの新〈楽器〉も控えてい だから、客観的要素のまだ残る通常のシミュる ) 。 レーション・ゲーム以上に、きわめて主観的そして、この分野にはもう一つ、重要な ・感情的なものと言えるだろう。 ( これは積極的ニュアンスの ) 特徴が潜んで けれども、これをいちがいに病めるもの、 いる。ゲームはその本質として。フレイヤーた あるいは逃避の極致として否定的にとらえるちが参加し、みずから能動的に楽しむもので べきなのか。かってトールキンがファンタジある。ゲームの作品としての固有の価値はも イを擁護するさいに用いた言辞、「社会全体ちろんあるけれども、それは受け手側の活用 が牢獄と化しているのなら、そこから逃避しの程度によって大きく変わる、・というより ようとするのは、人間として当然ではないのも、それぬきでは語れないところがある。 だから、ロール・。フレイング・ゲームがこ か」などと開きなおる気はないけれども、一 っ言えることはある。 れまでも述べてきたように、従来の小説の要 それは、これらがあくまでゲームである、素を基本形にしろ持っということは、こうし あるいは、遊戯性の強いものという点だ。遊た受け手側の参加というゲーム要素と結びつ びというのは、本質的に現実と対置されるも いて、一つの新しい表現形態を双方から持っ ということでもある。 のであり、現実そのものではない。ゆえに、 たとえば、ロール・。フレイでは、ルールの 現実が硬直化すれば、遊びは柔軟なものとな り、あるいは、指摘されるように現実が〈シ基本的な判定者であり、また、い くつかのス 、ユレーション〉化すれば、シミュレーショ 提供者でもあるゲームマスターとい ン・ゲームはその〈シミュレーション〉を遊う存在がいる。プレイヤーは、ゲーム世界の び化する。意味もなにも現実の社会が見失いキャラクターに扮して、このマスターを判定 はじめたとすれば、ロール・。フレイング・ゲ役とし、自分の行動をおし進めていくが、別 ームはファンタジイやのロマンの中にそにこのマスターの提供するストーリーを忠実 れを逆投射して、その意味を見出すのであに追わなくてもよいのである。キャラクター る。 がその世界での行動基準に完全に矛盾しない 限りはどんな行動でもとれる。そして、ゲー ムマスターも熟練してくれば、これまでの経 結局こうしたことを考えるなら、ロール・
もちろん、作家と作品とは一応切断して考のであるーーーの系譜というわけだ ) 。デビ、鬼テーマの哲学的再解釈「ハムレット行」の える、というのが今日的な常識だろう。とは 之 1 作「花狩人」 ( 第五回ハヤカワコンテ ヒロインも過去に女優であった可能性を 2 いえやはり作家本人と親交を持ってしまうスト入選作、一九七九年八月号 ) におけるメ持っーーー「女は、世界が怒りの日をむかえる 孝 と、良かれ悪しかれある程度作品観も影響さシュ】ゼラ人なるバーナ ード・ショウ的な以前から、そしてこの時にいたるまで、地上 れるもの。野阿梓氏 ( 女史ではない。本書裏「超人」、花人から採れる麻薬のドⅡクインすべてを舞台とする俳優だった」 ( 一五五 巽表紙にも写真はないから未だに誤解しておらシー的な「芳香」、花狩人。ー = ングリンの頁 ) 。あるいは、革命の。一、ンテ→シズム 「眼狩都市」 ( メガロポリス ? ) のガジェ こ、つ、 れる向きもあろうが、念のため ) の場合も例ドストエフスキー的な「罪と罰」 外ではない。 「〈夢塔劇場〉は地下に逆立して建 ったものどもに、、 しみじくも帯に指摘された お互い文通・訪問を始めて丸三年になるとおりのロマンティックなヒ ーマニズムをてられた塔構築で ( 中略 ) 、そこで上演され る全ての劇は、深層心理学の巧妙な応用をも が、それ以前の私の野阿梓観というのは、少感しとっていたのである。 って観客の心の底ふかく抑圧されることを目 ところが、去る三月初旬 のこと、某『の本』編標にしているのだった」 ( 二二一頁 ) 。 集長・志賀隆生氏の結婚披筒井康隆の演劇性があくまで方法論として 露宴席上、はるばる九州よ暴力的なダダイズムを発揮してゆく一方、野 房り上京された野阿氏が何の阿梓の演劇性は全く逆に、あくまで観念とし 事前打ち合わせもないまてむしろ人間的な、あまりに人間的なナルシ 狩梓判ま、ただその場の要望に応シズムを表現する。その結果、彼をしてヒ、 ーマニズムの書き手としては不可欠な、 花阿頁 / えるかたちで、ス。ヒーチの しかし類稀なる生き生きとしたヒーロー創造 2 文直後に朗々と讃美歌を歌い キャラクタリゼイン物ン だされたのを見て、私は氏へと赴かせ、まさにその性格描写の妙味こ がなかなかの「芸人」であそが、同世代の若手たちの追随を許さぬ境地 ることを初めて印象付けらを拓いているのだ。 れたのだった。考えてみれ以上、人間像ばかりを強調したが、およそ センス・オヴ・ワンダ ば、小説も術のみならず芸である以上、むしが認識的異化作用で成り立つものならば 女マンガというよりはむしろ日本 co におけ るヒュ ろ私の方で見落としていた側面だったのかも必須の世界像の妙味、こちらが野阿梓には必 ーマニズムの系譜の中で完結してい た。おそらく大方の諒解を得られるはずと確しれないが、同時にひとたびその観点から野ずしも欠けているというわけではない。前述 信するけれども、この系譜として私は具体的阿作品を読み直してみると、これが今まで以のとおり、魅力的なガジ = ットは実に豊冨 だ。ただし、それらが人間像と有機的に絡み には平井和正・栗本薫・新井素子・笠井潔と上に味わい深くなったのもたしかなのだ。 その「芸」の証左のひとっとして、彼の合わねば、やはり「完成された野阿梓」には いうラインを想定しており、野阿梓とはまさ ならぬ。その点、往々にしてみられる「遊 しくこの同一線上に並ぶべく分類しうる作家「演劇性」 ( それも「芝居っ気」 : h ミこ 9 こ c をの方だ ) を挙げておこう。まさしくワび」が「芸の」ならぬ「宴会芸」の であった ( 冗談めかして言えば、惜しむらく は栗本女史のみ例外だが、「井の付く作 1 グナーの歌劇「ローエングリン」から採ら証左でないことを、切に祈る次第である。 家」ーーー野阿梓氏も本名苗字は「沢井」氏なれたネ ングを初めとして、たとえば吸血
Borderland of S01 ” ( 1976 ) でヒュー ー賞ノヴェラ部門を受賞、短篇部門でも三 回ヒューゴー賞を受けている。「中性子 星」 "Neutron Star ” ( 1966 ) 、「無常の月」 "lnconstant Moon ” ( 1971 ) 、そして「ホ ール・マン」 "The Hole Man" ( 1974 ) である。「無常の月」は、月の明るさが増 したことで、地球の裏側で太陽が巨大なフ レアを起こしたか、新星化したものかもし れないと思われる、カリフォルニアの一夜 を描いており、力強い想像力によって、 ーヴン作品で最も印象深い短篇となってい る。 ーヴンには何作か合作もある。 The おな切 g & なハ ( 1971 ) の詳細について は、合作者ディヴィッド・ジェロルドの項 ーネルとの合作で三本 参照。ジェリイ・ の長篇を発表している。『神の目の小さな 塵』 T んど Mo God's Eye ( 1974 ) は、スペース・オペラ的悪戯あり、病的に 隠れたがる異星人あり、銀河規模の貴族制 あり、とあらゆる装飾を施した長大で華々 . しい物語だが、本質的にはパーネルの《連 合国家》シリーズの延長上にあり、そうし た文脈で読むべきである。この作品を、人 類優位主義的であり、想像力豊かなプロッ トと古臭い描写との間に矛盾があり、政治 姿勢が保守的だとして非難する批評家もい る。『インフェルノ S F 地獄篇ーー』 み旅翔。 ( 1975 ) は、ダンテの『煉獄篇』 の再話だが、その野放図さと明らかに意図 的な野卑さは驚異であり、地獄に堕ちた人 間の自助努力を奨励する点で、これを神の サディズムとする神学的説明を見ると興味 深く、反原子力の伝導者を地獄に堕とした 点を見れば面白い。が、文章力では、 ヴンもパーネルも、偉大な原典から多くを 学んだとは思えない。『悪魔のハンマー』 工“ ' 5 丑 4 川川 ( 1977 ) は、大災害を フィクション化する SF 的に洗練された方 262 にはきわめて概念的にではあるが、シリー ズ化されている。そのうち主なものとして は、「路傍の神」 "Passerby" ( 1969 ) 、 "The Fourth Profession" ( 1972 ) 、 "Night on Mispek Moor ” ( 1974 ) およ び『時間外世界』 World 0 7 ' わ ( 統 1976 、ギャラクシイ誌の "Rammer" 1971 と、「脱落者」 "ChiIdren of the State ” 1976 から成る ) から成る《レシー ・サーキット》シリーズと、物質瞬送の社 『無常の月』 会的影響を吟味した一連の作品がある "By Mind Alone ” ( 1966 ) 、「フラッシ ュ・クラウド」 "Flash Crowd ” ( 1973 ) 、 "The AIibi Machine ” ( 1973 ) 、“ A11 the Bridges Rusting ” ( 1973 ) 、 "A Kind of Murder ” ( 1974 ) および "The Last Days of the Permanent Floating Riot Club ” ( 1974 ) である。 『リングワールド』のヒューゴー賞に加え ーヴンは「太陽系辺境空域」 "The て、
斐のある環境となっている。大部分の作品 で、宇宙旅行や戦争や通信その他の先端技 術は、小説のプロットをより自由なものに し、彼女独特のロマンチックなセンス・オ フ・・ワンダーに真実味を加えているが、そ れらはたとえ描写されても申し訳程度であ り、ノートンは一貫して人間と機械とを対 置する傾向を示す。いくつかの独立長篇 や、《ホスティーン・ストーム》もので は、人間と獣とが、密接に、時にはテレバ シー的でもある精神の交流をもつ。『猫と 狐と洗い熊』 Ca ( 1961 ) では、この 交流が多重で、平等な立場のものとなる。 ノートンの主人公たちは、抑圧的な環境か ら逃れ、新しい惑星に新たな故郷を造って 過去と絶縁する中で、しばしば、機械と闘 うばかりでなく、管理的官僚的な非人間性 や抑圧とも争う。《ジェイナス》もので は、やや不細工なコンビューターが打ち倒 すべき現実の敵だが、 こでは人間と動物 との同盟も描かれている。《ロス・マード ック》ものに見られるような時間旅行は、 ノートン宇宙で、それほど多いものではな ノートンの文体は長年の間に成熟を見 せ、プロットはいささか暗い傾向を示し始 めたとはいえ、最初から最後まで、彼女の 作品は、明確な構成ときわめて抑制のきい た文章、読者が容易に感情移入できる性格 の主人公といった特質を示す。もうーっの 特質である彼女の宇宙は、人類にとっての 利用価値がスペース・オペラ用語で説明さ れ、共通の背景という馴染みやすい形をと ってはいるが、基本的に、美徳や善意や勇 気に応えてくれるものである。これまでに 刊行された本が多数であること、ノートン があまり S F 雑誌に発表しようとしてこな かったこと、ジュヴナイルの書き手だとレ ッテルを貼られていたこと こうした点 が作用して、ノートンが SF 界内部に与え XIV た衝撃は限られたものだったが、実際のノ ートンの著書の売行きは大変なものであ る。アイディア面で革新的ではないもの の、ノートンはこれまで批評家から軽視さ れてきたのが惜しまれる、熟練した多作家 である。 その他の既訳作品 〔 J C 〕 『銀河の果ての惑 星』 Star 4 れ g に” ( 1953 ; The 立 ~ の、『燃える惑星』 Star G44 ( 1955 ) 。 ノルウェー NORWAY スカンディナヴィア ナース、アラン・ NOURSE, ALAN E(DWARD) ( 1928 ー アメリカの作家で医師。 S F デビュー作 は 1951 年 A S F 誌の "High Threshold ” であり、以来、堅実なジュヴナイル長篇作 家として定評を得てきた。その手初めの処 女長篇『タイタンの反乱』 T 励ん T ″ 4 れ ( 1954 ) は、スペース・オペラ風な 太陽系内の叛乱と闘争を描く。他のジュヴ ナイルもこれに似ていて、 a 記 5 / r の〃 Rings ( 1962 ) では、抑圧的な地球体 制側と自由主義的な宇宙者との闘争が、よ り優れた、平和愛好的な異星人の介入によ って、止められる。。ん / 襯ろ。 ( 1957 ) では、人類の運命が異星人観察者 によって説明される。こうしたジュヴナイ ルでは、若い男女が力を合わせて、偏見に とらわれた年長者たちを和解させ、星々へ と、正しい道を歩み始める。ナースの長篇 は直截で、しばしば官僚制や独裁制につい て単純な見解を述べる。この点は J ・ A ・ マイヤーズとの合作 T ん 02d 5 尾 C の〃切 g ( 1959 ) にも見られる。その他、 ナースの医学知識を利用した作品群もあ 258
る」 ュウは頭の芯が燃えるように熱く、こめかみがずきずきと痛ん コンサルタントは声を低めていった。その囁きには、催眠術師がだ。緊張のため、喉がからからだった。しかし、〈サイコ ・コンサ 4 コン。ヒュータはディス ルタント〉に背くことはできない。 暗示をかける時のような微妙な抑揚があった。ュウは茫然とした気 持になりながらも、コンサルタントがなにを暗示しているのか、話。フレイ・スクリーンのオレンジ色の文字で、〈サイコ・コンサルタ を聞くまえからもう判っているような気がしていた。だからユウント〉にいっさいを委ねるようにと、ユウに命じたのだ。〈サイコ コンサルタント〉に北冂くことは、シティ コン。ヒュータに北目くの は、湧きあがってくる想念を抑えこもうと努めた。そのことは、ど っこ 0 と同じことだった。 うしても考えたくなかったのだ。ュウは呟くようにいナ 「簡単で難しい。ぼく、よく判らない : 「 : : : できなかったんです、セックスが」 「いや、判っているよ、きみは。ただ、そのことについて正面から 恥の感覚に押し潰されそうな気持で、ユウは、ようやく言葉を搾 考えようとしないだけだ。 ・〈大崩壊〉のまえには、結婚という りだした。それに応えるコンサルタントの声は、無情な鞭のように 制度があった。男女の性的パ ートナーを社会の基礎単位にして、そュウを打ちのめした。 こに、次世代の子供の保護や教育を含む、さまざまの社会的機能が 「アイとはセックスが可能でなかった。そうだね。しかし、どうし 割りあてられていた。私たちのパートナー制度は、かっての結婚制てだろう、ユウ。きみは母親とのセックスならば充分に可能だ。き 度に由来するものなのだから、その中心にあるものもまた互いに照みの指にある金の指輪がその証拠だ。〈黄金の儀礼〉を通過した者 応しあっている。つまりパートナーとは、第一次的には性的。ハ だけ、その指輪をつけることが許されるのだからね。 ナーであるわけだよ。 つまり、なにか肉体的な、器質的な障害がきみの不能の原因であ その意味では簡単なことだ。ュウ、きみはアイと心の問題としてるとは考えられない。母親とは可能なセックスが、どうして恋人 だけではなく、肉体的にも愛しあい、性的なパ ートナーになることの、。 ( ートナーになってもいいというほどに愛しているアイの場合 が求められている。そして、きみたちがパ ートナーとして承認されには不可能になってしまうのか。℃い力い、その原因は生理的なも るためには、それで充分なんだ。しかし、この簡単なことのなかのではなく心理的なものだ。原因は、きみの心のなかにあるんた に、たいへんな困難さがある。ュウ、そうじゃないかね。いやい よ。さあ、考えてみなければいけない、その原因を自分自身で」 や、逃げてはいけない。きみの口から、はっきりいうんだ。きみた考えるまでもなく、ユウには判っていた。 : ママが、ママが邪 ちは先週、〈白銀の館〉で寝室の利用許可を申請している。さてユ魔するんだ。・ほくがアイの躰に触れようとすると、いつも心のなか ウ、そこでなにがあったのか、あるいはなにがなかったのか、わた に怖しい顔をしたママのイメージが現われる。そして、アイに触れ しに話さなければいけない」 ることを禁止するんだ。 . あなたはそんな悪い子だったの。どうして 「・ : ・ : それは ママ以外の女の躰に触れたりできるの、おまえのすべてはわたしの
もともといろいろな物理的数、および な作品。 a 2 b 的数をあらわすのに、川進法では進数が 『闇の左手』など架空の惑星の 小さすぎるようである。 公転・自転周期を設定する例は無数にあとなる。 その点、進法をとおりすぎて 8 進法を る。 12 一Ⅱ 4790016003 採用したひとたちというのは偉い 長さ : : : 度量衡がワンセットそろってい ⅱ 1145000003 どうして 8 進法などを考えつくことがで るものを除くと、意外にみつからない。 ″クレジット きたのか石原博士の頭脳では想像もできな 通貨・ : ( これはご存じのように、末位の 0 の数が大幅にふえる。 シュメルの時代から進法が存在し このことは、組み合わせ数の表現を簡潔いが、 のようにのなかの標準通貨 ) など。 ていたらしいという話はちょっと驚異であ にしている。 といったところである。 また、これは偶然であるが、いくつかのる。 いずれにせよ単位といっても、せいぜ い、質量・時間・通貨くらいまでで、それ無理数を精度良くあらわすことができる。 以上複雑な量の単位はほとんどみあたらな 宇宙普遍単位系であらわ 17 」 12 した様々な物理量と的量 1 十 ~ 、ド 233 さていよいよ、先月定義した宇宙普遍単 進法の利点と欠点 位系をつかって、さまざまな物理的量 log2 3 Ⅲ ー CF& ヾ 0 ま隯洋 0 洋 ) と g-u 的量とを一覧表の形にまとめてみよ 宇宙普遍単位系は進法を採用するわけ などは、いづれも最良近似分数の一つでう。 であるが、この進法には約数が多く循環小 表 2 がそれである。 ある。 数があらわれることが少ないという、よく 定義につかった三つの量が完全なラウン ( ただし 知られた利点のほかにも、いくつかの長所 ーになっているのは当然のこと 20 非 103 7 がある。 として、全立体角、徴細構造定数、電子の 電荷やポーア半径、また原子質量単位など たとえば、階乗数がきわめてきれいな形に対応するのは ーになってい もほとんどラウンド・ナン・、 であらわされる。すなわち、階乗数を素因 243 12 一 2 ることに気づかれるであろう。 数分解して ポルツマン定数や気体定数も完全ラウン ですこしつかいにくい ) 2 。 305C : ・ナンーである。 とにかく進法は川進法にくらべて使い ここにならんだ各種の宇宙普遍的物理量 としたとき、 やすく、有利な点が多い。 2 ー 03