アニメ - みる会図書館


検索対象: SFマガジン 1984年9月号
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1. SFマガジン 1984年9月号

SF REVIEW レビ、ーというものも毎月となると、私のじめアニメ周辺のライターが小説を書きはじるからだ。イラストがキャラクタ . ーの設定か ようにまとめ読みするかと思うと全然読まなめている。アニメのノヴ = ライズはかなりのら性格、シーンごとの表情までも規定してく 、というタイ。フの人間にはなかなかしんど数にの・ほるし、「アリオン」などアニメータれるので、小説はそれをことばによって表現 ーのマンガも入れると、いろいろなジャンルする必要がないのだ。 。あまりいつもいつもマンガや外の つぼいものでごまかしているのもどうかとの相互侵犯が目立つ。「リーンの翼」もよくそれはまた一つの行き方だろうとは思う ・、、私はことばを信ずるからこそ作家にな 思い、がんばって「フライディ」を読みはじ売れているようだ。この藤川桂介も、いうま めたが、日ごろ文庫ばかり読んでるものだかでもなく「ヤマト」「ゴッドマーズ」のシナり、マンガ家にならなかったものである。そ リオをやっている人だが、この「宇宙皇子」うしたコンテが小説とよばれ、けっこう売 らあの厚さに敗けてなかなかはかどらない。 ついにまたズルッコをして、とりあえず読みもイラスト、表紙はいのまたなつみで、私はれ、それが小説だ、小説とはこういうものだ やすいものをと思って物色したところ、なか この人のファンなので、このどうにもならぬと疑わずによむアニメファンの読者がしだい にふえてゆくことこそは、小説ジャンルにと なかおもしろいものがあった。藤川桂介「宇かわいらしい絵にひかれてつい読んでしまっ って壊減的危機ではないのか。それは活字に たわけだ。 しかし一読して何とよってイメージを喚起できず、しようともせ も複雑な気分だった、ず、イラストを待っている読者のふえること よ というのは、はっきりである。活字がイマジネーションの契機とな いって、これは、小説らなかったら何が活字文化を他のジャンルか らへだてるのか。まことに暗澹とせざるを得 一、子き著 / ではな」 0 である。 遠介。Ⅱ み ないのだ。 「リ 1 ーンの翼」にも、 の / まるきりちがう意味で私はアニメが好きだと思う。マンガは死ぬ ほど好きだ。だがそれはアニメがアニメ、マ 宇か藤頁書だがそれは感じていた る新 ンガがマンガだから好きなので、それが小説 のだが、アニメーター ( とアニメ・ライタとどうすぐれているから好きというのではな アニメ・ライターに小説をかくなとはい ー ) の文化と、小説の 文化は、歴然とちがうわぬ。だが、小説を書くからには、アニメの 方法論を敷衍してもらっては困る。それはジ ものなのだ。それをまず知らねばならない。 宙皇子 1 」である・ ャンルの崩壊と混乱、ひいてはそれこそ小説 どう「小説でない」かというと、これは、 このごろアニメとかマンガとかの表現メテ の死をもたらすだろう。アニメの人気にたよ ィアの方法そのものについて考えることが多小説の。フロットなのだ。コンテなのである。 。日頃、それらは、の内の少々異る自小説を作文ないしマンガのコンテとへだてるって誰にでも小説を書かせようとする出版社 治領としてとらえられることが多いのではなのは、文章、描写だと私は思っている。それも、アニメと小説の見方の相違をちゃんと区 梓 いか。ことに。フロ。 / ーにとって、アニメを逆手にとったかにみえる西村寿行などでも別できぬその双方のジャンルの愛好者も共に が題材を的に設定することが多いのもあやはり小説であるかぎり描写も文体もある、 猛省を促したい。小説が小説であるため、そ してアニメがアニメであるために、おかして って、そういう見かたがつよく、それに対しないようにみえる文体をとっているたけだ。 島 てアニメ・ファンが反発する、という図を、 しかしこれにはそれがない。ただ説明とセはならぬものというのはやはり存在するので 3 リフと行動の描写で話がすごい勢いで進む。ある。 中このごろよく見かける。 どうしてか 7 いのまたむつみのイラストがあ そこへもってきてこのごろ富野由悠季をは つのみこ

2. SFマガジン 1984年9月号

ようとしない世間の冷たさが私は悔しくてなら宙、そしてコンビ、ーター・グラフィックスの作まりにもリアル過ぎて浮いてしまう程 : ・ それだけに、制作費のせいだろう、ヘルマスそ ず、あれこそはスミソニアンかどこかの技術史博る空間は、む躍る。 ( ラレル・スペースなのであ 物館に人るべき貴重な文化遺産だと事あるごとに の人はコンビューター・グラフィックスなのに、 わめいているのだが : ・ そんな訳だから、〈レンズマン〉のアニメ化に子分の、いってみればダース・ペーダーの役回り まあ、それはさておき、東洋現像所が導人した コンビ、ーター・グラフィックスを駆使するとすの異次元生物どもがセル・アニメだというのが、 せつかく格好は奇ッ怪なクラゲ風など実にいいの その〈スキャ = メイト〉を我々がいじっている時ればあそこしかないそ : : : と、ひそかに心にきめ の事である。噂を聞いて関西から見にやってきた に、その質感の差がどうにも気になって仕方がな ていたら、やつばりちゃンとやってくれていた。 あるコン。ヒューターの専門家が、その作業を逐一悪の惑星・ポスコーンー かったりしてしまう : 見たあと、このシステムの能力の限界をきわめた それに、キムール・キニスンがレンズを受け わざとワイヤーフレーム風に簡略化された悪の 人間はまだ居ない : : ・という説明を聞いて、ふと親玉ヘルマスその人を始めとして、異次元空間と取るシーン、コンビ、ーター・グラフィックスに つぶやいた言葉が今も忘れられないのである。 いうのか、異次元の惑星というのか、とにかくそよる鮮烈なイメージも見事なもので、意表を衝い た音楽の使い方と相まって、あたしはとても嬉し 『うむ ! 要するにこれは、ひとつの宇宙を所有のポスコーンからみの部分が、これまでのアニメ しているという事ですな ! 』 かった。 にない異様なイメージを縦横にふくらませてい これなのだ ! それでいて尚かっ、この程度のイメージはコン て、これはもうコンビューター・グラフィックス コン。ヒーター・グラフィックスはひとつの宇ならでは到底不可能な世界、そこだけ、質感があビ、ーター・グラフィックスの持っ可能性からす

3. SFマガジン 1984年9月号

かりと出てきたりして嬉しくなってしまうが、主 ればまだまだほンの序のロに過ぎないという事が はっきりわかり、将来、制作費の折合いがついて人公、レンズマンのキムボール・キニスンとクラ リッサ・マクドウーガル ( これが素晴らしい が本気でたつぶりとコンビューター・グラフ ィックスを使い始めたら、アニメの世界はど私にとっては〈ル。 ( ン三世〉の峰不二子といい勝 んな凄い事になるだろうというのが実感として迫負のアニメの美女がついに出現したという思いで ってくる。 ある ! ) の個性がやや欠落している所までルーク ″どこがで、どこがセル・アニメだなどと詮とレイア姫を連想させる程で、当節はやりの言葉 索しないで貰いたい、こっちは必要に応じて最適でいえば、〈スター・ウォーズ〉が確立した、 な手法を組み合せただけだから″と井上博明にも 宇宙冒険映画を成功させる為のひとつのパラダ 釘を打たれたが、やつばし、コンビューター・グ イムを、他の映画のようにひねらず、最初から最 ラフィックスという奴はいいねえ : : : 。 イメージ後まで実にすんなり頂いてテンポよく効果を上げ ている。 の質が桁ひとっ違う気がする。 欲を言えば、ポスコーンの親玉ヘルマスとレン ズマン、キムボール・キニスンとの最後の対決ているか、その生かし方を是非、研究してみて欲 時間は一〇七分だから、スト ーリーとしては しいものである。 に、コンビューター・グラフィックスからみでな 〈レンズマン〉外伝といった所で、話の結末もち 私は、随分前にハミルトンの〈スターウルフ〉 ゃんと先につないである。 にかもうひとつ、最初のレンズを貰う所に匹敵す 三冊を徹底的にばらしていろいろ表に作って比較 る腰も抜けるようなひと工夫が欲しかったけれど 画の作り方やカメラワークのせいか、見終った してみた時、三冊の間に、その、いわゆるパラダ 時、アニメを見たというより、特撮映画 イムなるものがちゃんと存在することを発見して を見たような感じになったので青 ところで。 ( ラダイムという言葉は最近あちこちびつくりした事がある。 井邦夫に聞いてみたのだが、どう これは君も一度、やってみる値打ちがある。 やらそれが制作者側の意図らしで使われるようになったが、もともとは言語学の 導入部の引きずり込み方、山の配置の仕方、登 用語なのだそうで、これまで使われてきた言葉と く、べつに私のセンスがおかしい 訳ではないらしい して一番近いのは、まあ、パターンの相似とでも場人物の描写など、一見なんという事もない部分 に実は驚くべきノウハウがちゃんと活用されてい いうところだろうか、只、。ハターンといえばどう 〈スター・ウォーズ〉を実に上手 るのだ。 く頂いていて、たとえば、冒頭でしても視覚的なものがっきまとうのに対して、こ この表を見せて上げようかと思ったが止めにし っちはもうすこし入り組んだ、条件の組み合せの ポスコーンに追われてレンズマン た。これはやつばり、自分で苦労してやってみな の宇宙艇が降下して来るのを親父相似 : : : とでも言えばいいのだろうか。 いと役に立たないのだ。 とにかく、スペース・オ。ヘラを書こうとしてそ が地上から見上げているところと ( この項つづく ) の構成を考えるとき、このパラダイムという考え か、農家の生れであるキムボール ・キニスンが、持っている小型宇方は非常に役に立つ。 ・それはさておき、〈レンズマン〉ま ちょうどいいチャンスだから、ひとつ、 coO 宙艇をがんがん飛ばすところな た見ていなかったら是非見てごらん。決して ど、〈スター・ウォーズ〉の原作の教材 ( ! ) として〈スター・ウォーズ〉のパラ 損はしないと思うよー ダイムが映画〈レンズマン〉の中にどう生かされ にあって映画にない部分もちゃっ SENSE 〇 F W 〇 NDER 〔 AND 1 0

4. SFマガジン 1984年9月号

写はる 念真 写て なのの すてに御覧になった読者もおられる かと思う力、このレンズマン・シリー よお 田ズは劇場用アニメーションになってい のな る ( 原作ていえば、第一巻の「銀河パ トロール隊」まて ) 。このシリーズを 映像化するということは、技術的 ( っ に」 4 わス レっ まり、映像のスケールの問題 ) トーリイ的 ( 膨大な原作をどのように ナと利 してダイジェストするかという問題 ) / 錦にも非常に困難な作業て、その意味て姿、一人 はかけ値なしの快挙てある。しかしこ雄なの の重 ンの映画、作品としてはレンズマンとは ち貴 まったくの別物なのだ。登場する人物、 ンく 【ヒー ) 、一惑星などの名称こそ原作と同じだが、 レ内容的には完全なオリジナルと考えた ズ珍 . 残念ながら、・・スミスのレ こ - れか ンズマン世界はここにはない レ変一 劇場へ、と考えている方はその点を階大ポ 段はム に銘じるべきてある。 筆者自身としてはこのシリーズに筆第る官 舌に尽しがたい思いいれがあり、今回型ま整 間さ調 のアニメ化には忸怩たるものがないて 人お河 , ー十ノ一し それは、こうした形てレンズ -LLL に一銀 マンの世界が映像化されようとは という思いてあり、作品の完成度以前 原作によって形成されたイメージ イン。ハクトの問題なのだ。結局、筆 ことっては、レンズマンは tn の聖オシッ ウンレ のてある。 人ゴド ラストは、キニスンの同僚てある 星レナ 一乂階レンズマンたちだ。アニメと 2 人星 違うところてある。数が多いの 第星惑 「月は〈とくい技〉などはバス。 系惑 7 名オイリアンばかりなのて、御容 ア 4 第 シ第系 ン系ン ラルイ 工ケレ 、、、ゞヾい 、Ⅵョ

5. SFマガジン 1984年9月号

リエ】ション また、デフォルメの芸術であるマンガの絵の、・ハ ート。ヒアだ が、要するに手塚治虫の描いた世界はすべて一種のユ が出尽くしたことも課題になってしまった。生身の人間の顔な ったのではないだろうか。だから、手塚作品は、すべてマン ら、一万人いれば全部違うが、マンガの線画で一万人の顔を描き ガであるともいえる、いまだに再読に耐えるのであろう。 わけるなんて不可能なわけだから、いっかはぶつかる壁ではあっ 現在、この無国籍路線 ( ? ) は、アニメに受け継がれてい たのだが : ・ ・ ( 山藤章二、和田誠というデフォルメの魔術師もい るが『未来少年コナン』と『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダ ますけど ) 。最近の新人の絵を見ると、あ、これは〇〇、あれは ム』以外には、ひとつの魅力的な別世界を創造できたといえる作 xx と、すでに絵の系列の線路が見えてしまっている。前に傑出品がないのが寂しい した人達が何十本も立派な線路を敷いてしまっているため、その それはさておき、今のマンガに欠けているのも、この、世 上か傍を走る以外に道がなくなってしまったという印象を受け界の構築力、リアリティであるといえるだろう。 る。ュニークでなおかっ魅力的という条件を満たす記号としての 。ハターン化されているとはいえ、新人でも絵は実に達者で、メ マンガの絵は、そんなには種類は多くなかったのである。 力の描き方など堂に入ったものなのだが、を読んだ、を さて、マンガの基本的な文法大系を作り上げたのが手塚治虫で見せてもらったと読者が満足できるような作品世界が創造できて いないのである。駄ジャレめいてしまうが、創造するだけの想像 あることは疑う余地がない。諷刺漫画とか四コママンガを除い て、我々がいわゆるマンガといっているところのものは、すべて力が足りないのである。 そういった意味で、宮崎駿原作・監督による『風の谷のナウシ 手塚治虫の作ったワクの中にある。アンチ手塚だったはずの劇画 カ』が画期的だったのである。ュニ】クな世界像、前向きで明確 や、少女マンガも、結局は手塚治虫の外には出ていない。アニメ 界の異才、宮崎駿、安彦良和といった人達の作品にも、その世代なテーマ、生き生きとしたキャラクター、細部にいたるまでのリ アリティ : : : アニメ版もマンガ版も志の高さと完成度の高さで ゆえにかえって直接的な影響が見られるのも面白い 稀に見る傑出した作品となっていた。手塚治虫という偉大すぎる その宮崎駿が手塚治虫について語った興味深い発言がある。 ルーツを持ちながら新たな地平を切り開くことに成功したという 「手塚治虫の何が面白かったかって、手塚治虫は日本描いてない んですよね。日本を舞台にしてても日本描いてないんですよ。手意味では、ディズニーよりディズニーらしい映画になった、 t-0 ・ ス。ヒ化ハーグの『』の立場と似ているといえるかもしれな 塚治虫流、ディズニー流のね、ヨーロッパから取り込んだ、グリ ムとかアンデルセンとかそこらへんの彼の教養主義から来たもの さて、ここらで大友克洋とは何なのかを考えてみなくてはなら がね、こっちにとっては地面から足が離れるような気がしてね。 良かった訳ですよ」 すでにいわれているように大友克洋の最大の武器は、あの絵で ( 『 O O — O C 』五・六月号「特集宮崎駿″風の谷のナ ある。「外国人から見た日本人」の姿が描けてしまう驚異の目と ウシカ″によせて」山根貞男との対談より ) このへんの感じは、当時の手塚ファンならみな納得のいくもの手を持ち、さらにそれを効果的に見せる演出力がある。構図の感 覚もズ抜けていて、動線 ( 人や物が動いたことを表わす、残 であろう。 『宇宙少年ソラン』を描いた宮腰義勝も、集団就職で秋田から東像 ? の線 ) を描かずに動きを見せてくれる。 ( 同じ映画マニア一 京へ初めて出て来た時、手塚マンガに出てくるような都会と違でありながら、手塚治虫や石森章太郎とは、まったく違う消化能 、平屋の家が多かったのでガッカリしたと、以前に語っていた力を持っているところが面白い : : : )

6. SFマガジン 1984年9月号

シュナの手 基に触れた途 巨人たちは身をよじり 泣くとも祈るともっかぬ声で オーオーと叫びはじめた 同時にンユナの心の中で 「やめろやめろ」 とだれかの声が鴫りひびいた シュナはかまわず 穂をむしりとった △アニメファン以外にはあまり知られてい ないオールカラー描き下ろしの傑作『シュ ナの旅』宮崎駿アニメージ。文庫 380 円を ナイフで削るという高等テクニック ( ? ) に結びついていったわ積み重ねによってマンガは完成してきたのである。 けである。こういった版下的な次元から、感動した時の「ガー そういったマンガの質を高めるための″実験″が最近見られな ンリ」という書き文字 ( 『巨人の星』でしたね ) の表現、少女マ くなってきたことが問題なのである。学園モノならともかく、セ ンガの複雑なコマの割り方などにいたるまで、実に細かい手法の ンス・オプ・ワンダーのマンガにおいてすら。 v 「宮崎駿イメージボード集』より 講談社ロ 00 円

7. SFマガジン 1984年9月号

ズマン 2 〉、〈レンズマン 3 〉でやって貰うとし ポンキッキ〉などでも大いに活用したのだが、ずメイト〉という化けものみたいなシステムを完成 よう。原作でも、〈ファースト・レンズマン〉は してしまい、日本にも入って来て、〈アート・カ っと後になって私がコン。ヒューター・アーチスト 後で書かれている位だし・ : のロン・ヘイズに当時のテープを見せたら、彼ラー〉はすっかりかすんでしまい、いまやフジテ レビの倉庫の片隅に埃を被っているが、当時こっ は、これがコンビューター抜きで制作されたとい この作品を制作したという会社は、コンビ こっジ + ンクを利用してあれを組み上げた技術開 う私の説明を信じようとしなかった程のものだ ューター・グラフィックスのラボとして有名な 発室の連中の。ハイオニア・ワークを、コンビュー が、な事に、九七重爆い四みたいなもので、 ター・グラフィックスはやりの今日、誰も評価し O と一心同体の関係にあって、社長の氏アメリカはたちまち同じコンセプトで〈スキャニ は私のフジテレビ時代の同僚 ( あの浜美枝さんが 奥さンなのだ・せ ! ) だし、アシスタント・プロデ ューサーには宇宙軍の井上博明がいるという縁な のだが、その彼から、コンビューター・グラフィ ックスを駆使して〈レンズマン〉をアニメ化する と聞かされた時、私は、前記の不安とは別に、い い作品に目をつけたな ! とうれしくなってしま ったのだった。 の映像空間にコンビューター・グラフィッ クスを持ち込むとすれば、それは、パラレル・ス ペースしかないー そして〈レンズマン〉こそはパ ラレル・スペースに巣食うワルと の対決物語ではないか ! よくそ : ちょっと話は飛ぶが、マイコン は愚か、コンピューター自体がこ んなにポ。ヒュラーになるずっと前 にフジテレビの技術開発室の連中 は、言って見ればアナログ的にヴ イデオ回路をいじってこの世の物 とも思われぬ電子映像の空間を作 り出す〈アート・カラー〉という システムを開発していた。 私などが面白がって〈ひらけー を、 SENSE 〇 F W 〇 NDER 〔 AND 写真提供 : 東宝東和株式会社

8. SFマガジン 1984年9月号

脱線というわけでもないが、今回はちょっと、 それから五年後に単行本になった『英雄群ケールを誇る〈レンズマン〉原作の下敷きまでを 別の事を書きたくなった。 像』のあと書きで、″〈レンズマン〉が日本語でそっくり忠実にア = メ化する事は、目下の事情で 君はもう見たでしよう ? 読める時代が来るなどとは思っても見なかった : ・ は望むべくもないし、やっても当りようがあるま アニメの〈レンズマン〉である。 。手を抜かず最後までちゃんと真面目に読んで おいてよかった : : ″などと書いており、まった そのあたりをどう整理するかな ? と私は深い 私が、・・スミスの〈レンズマン〉シリー く今昔の感に耐えないが、この〈レンズマン〉関心を持って見ていた。 ( なにしろ、私が噛み込 ズを日本に初めて紹介したのは一体何時の事だっ が、それも私と縁の深い人達の手によって、ア = むと当らない : : というジンクスが出来かけてい たんだろう : : : と思い付き、〈河内の番長〉池田 メ化される日までやって来ようとは、それこそ想るので、怖くなって、遠慮したのだ ! ) 敏 ( 親分 ! お元気 ? ) と〈気違い手品師〉三田像する事さえ出来なかった : ・ それで、君もまだ見ていなければ、是非とも見 晧司の二人が、当時、〈マガジン〉に私が連 結構な時代が来たものである。 てごらん。面白いから。 載していたコラム「英雄群像」の部分だけを 一一宮の御隠居・小隅黎氏が不満を漏らしたとい 切り抜いて製本してくれた、″世界で只一冊の″ なにしろあれだけの大作だ。 うが、それは多分、端的に言ってその、〈レンズ 貴重な「英雄群像」をひさしぶりにひっくり ″二十年のむかし、二つの銀河系が擦れ違い マン〉の〈レンズマン〉たる部分に関しての事だ 返してみると、それは一九六四年の四月、奇しく ″に始まる壮大な導入から、この空間の″善″ ろうと私は思うのだが、それはそれで頷ける見解 も今から二十年前の事になる。 と時空の流れ者″悪″との対決という桁違いのス でよく分るのだけれど、そいつはいずれ、〈レン 野田昌宏のセンスオフ・ワンターラント⑩ スペース・オペラの書き方 ( その八 ) キミはも一つ《レンズマン》を見たかな ? イラストレーション・加 ~ 滕直之

9. SFマガジン 1984年9月号

司政官機の前後には、各一台、ウイスボア港外の駐車場で待ってっちゅう見られる現象なのだ。が、それらとこことは、世界の成立 いた司政庁の機が走っている。 条件も発展のしかたもことなるのたから、同日に論じるわけには行 02 << の報告によれば、そのあとから報道陣の車が三台ばか ついて来ているそうであった。 だがたしかに と、彼は、今の認識をあらためて反芻せざるを この事実は事実として受けとめるとし : : : 彼は、久方振りに見る 得なかった。 ウイスボアの市街地へと、注意を移した。もっと早く観察すべきで 司政官機には、連邦旗とそれに司政官旗が立てられていて、一見あったろうが、自分や司政官機への人々の関心を見、違和感にとら して、司政官が乗っているとわかるのである。けれども、道を行くわれていたために、おのれ自身の興味のほうは、あとになったので 人々が、そのことにあまり興味を持っていないらしいのは、たしかある。司政官としては当然の、やむを得ないことだ、と、自分をな であった。時折は、こっちを認めて指さしたり、驚いたような顔にぐさめながら、彼は街のたたすまいに視線を走らせた。 ( 以下次号 ) なる者がいるものの、旗を見ても何の反応も示さない者や、旗その ものに気づかない人のほうが多いのであった。 彼が植民者だった時代には、人々は司政官に対して、これほど無 関心ではなかった。好悪の情はあれ、司政官というものの存在を意 識し、ときには話題にもしていたのである。それが : : : 彼がタトラ デンにいなかったうちに、ここまで存在感が稀薄なものになってし まったというのか ? まあそれは、ここがウイスボア市の市街地の 大通りであり、名家・有力者がたくさんいて少々の有名人には驚か ないところたということがあり、司政官だってそんなに珍しい人間 とはいえなかったことや、この一年間司政官が不在であったことな どを思えば、無理のない話かもわからないが : : : それにしても、彼 にはやはり違和感があるのだった。 あるいは、タトラデンの植民者社会は、彼がいた頃よりさらに多 様化し、他人が何に関心を持とうと自分には関係がない : : 自分に は自分のしたい事柄や見たいものがあるーーー・という気風が強まって いるのかも知れない。連邦中核部の、高度に進んだ社会では、しょ 剴ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅡⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ日ⅢⅢⅢⅢⅢⅱⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ当 映画『地球物語』公開決定の お知らせ 小社ハヤカワ文庫より刊行されていま す『地球物語』を原作にした v-k アニメ『地 球物語』が今夏公開されることになりまし 公開は八月の四日より、東京・大阪・京都 ・名古屋・福岡・札幌の六大都市松竹系劇場 9 2

10. SFマガジン 1984年9月号

・ 9 ンりの一 製田・弘 ) ェザータっチ・ をしつ 田一もうこない ! 妙な〃 ページをめくって進むことでドラマを展開させていく : ・ 実に見事な約束事の世界である。それたけに、年寄りで、マン 気館 ガを「読めない」人がいるというのも、あながち不思議なことと 書 新 はいえないが。 この、マンガの特殊性は、写真をコマ割りして読ませる″フォ ト劇画″や、マンガの手法を取り入れておかしな表現になってい ィ一ネ ウス る一部のアニメを見ると一層よくわかるのであるが、ここでは触 上下 れない。オール・カラーのマンガが成立しにくく、基本的にモノ ないのにである。 クロの世界がマンガであるという点も興味深いが、これも別の機 ″と銘打っている『リュウ』や『 会にゆずりたい。 』『マンガ大全集』『スー ーアクション』『 表現の上からいうと、マンガが印刷されて大量に販売される出 』『メデイウム』などをメインにしている雑誌も多版物である以上、その制約をまぬがれないことも重要だ。ケント く、を描く新人も数多く登場してきている。 紙や模造紙に、黒のインクや墨を使い、半調の部分や模様は、ス ″異端の巨匠″的存在だった大友克洋も「アキラ」で講談社漫画 クリーン・トーンという一種のシールを帖って原稿を完成させ 賞を受賞してしまった。 る。セリフの部分は″写植″というものを帖る。原稿は一・二倍 にもかかわらず、やつばり″マンガ″からは、かって ~ 一・五倍の大きさで描く : ・ こういった作業で描くことは、 ほどのイン。ハクトや魅力が感じられないのである。 いかにも″マンガ家″らしくて″・ヘタ″ ( まっ黒い部分のこと ) 原因はいくつか考えられるが、ここでは一つを指摘しておきた とか″カケアミ″ ( 模様の描き方のひとっ ) ″締め切り″ ( これ を守らないと本ができない ) といった専門用語とともに、同人誌 それは、に限らず″マンガ″というジャンル自体が、技術 の描き手の人など当り前のように、というより嬉しそうに受け入 的に完成してしまい行き詰まってしまったからではないかという れているわけであるが、実は、これらは単に印刷されるための 点である。 ″版下原稿″を作るために必要な″制約″に他ならないという事 あらためて考えてみれば、絵と文字をコマ割りという形でスム 実が案外、自覚されていない。 ーズに流して読ませるマンガの特異な形式は、アメリカの 00ä マンガの描き方を覚えるころには、なぜ鉛筆じやダメなのかと とも違う、としかいいようのないスタイルとな か、どうして紙の裏表に描いてはいけないのか疑問を持つのが普 っている。 通であるが、プロになるといつのまにか忘れていってしまう。し 映画的、絵物語的、文学的 : ・ : ・などーー的とはいえても、 かし、マンガというものの可能性を考えた時、これら初歩的約東 そのものでは、もちろんないのがマンガである。 事から疑ってみることが必要になってきているのではないか。 登場人物の絵を描き、セリフを・ ( ルーン状の″吹き出し″で表 マンガがここまで進歩、発展した陰には、表現上の技術的なエ し、効果音は、それに合った書体で絵の中に書き込み、背景は心夫が貢献したことよ司違、よ、。 。ド、しオしスクリーン・トーンだって、誰 かが最初に使い、これは面白いというわけでみんなが使うように 理描写を含む″効果斜線″などで象徴的に入れたりする。そして なったはずである。それがさらに二枚重ねて帖ったり、カッター ″ワク線″によって空間と時間を自由自在に切り取り、一一次元の ーアクション」