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検索対象: SFマガジン 1985年8月号
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1. SFマガジン 1985年8月号

~ なれ ( 1956 ェリック・ヴァン・リーン 名義 ; 國 1975 レスター・デル・レイとェ リック・ヴァン・リーン名義 ) と The 刃んん Co 襯 d 〃 ( 1962 ; 國 197 の である。社会ダーウイン説の展望が最も顕 著に見られる単独の例は、おそらく L ・ロ ドの『宇宙航路』 e 翔ね T 。襯。 " 03 ( 1950 ; 1954 ) だろう。その結 論は、人類の銀河系への拡大は、、竸争相 手〃になるとわかったあらゆる異種族の皆 殺しを伴うだろうと述べたものである。し かしながら、全体とすれば、この観点は現 代 S F の全スペクトラムに渡り断固たる攻 撃にさらされているものである。〔 B S 〕 社会学 SOCIOLOGY 社会学は社会と社会的関係に関するシス テマティックな研究をおこなう学問であ る。この言葉は 19 世紀半ばにコントが作り 出した。社会の研究をドグマティックな政 治的・倫理的仮定からある程度切り離し、 代わりに科学的方法論を取り入れようとし た最初の試みがおこなわれたのもこの時期 である。もっと広い意味での社会の研究 は、もちろんずっと長い歴史を持ってお り、それはフ。ラトンにまでさかのぼる。 社会学に先行するものの一つはユートピ ア哲学であり、しばしば文学的形式ーー - 最 も多いのは空想旅行記である一一を理想社 会の空想的なモデルづくりに用いてきた ( 空想旅行記、原 (F)O これらのモデ ルは評価や批判の対象となりうるので、 れを仮説検証の素朴な形式と見なすことが できる。ュートビア小説の歴史は、これら の仮説的社会における、、生活の質″を評価 するため、しだいに物語の構成や個人の人 間関係を創りあげるほうに重点がおかれる ようになったことを示している。 19 世紀後 半にこういった純粋に文学的な戦略が頻用 269 されるようになったことは、ユートビア思 想の衰退とディストピアの台頭と無縁では ない。 ュートヒ。ア小説と同じく、 SF—人間 や非人間の社会を広範囲に空想し構築する ようなもの一一は暗に社会学的な文学だと いえる。これらの社会の構築にはある仮定 を持ちこまざるを得ず、こういった仮定は 一種擬似社会学的なものになるのである。 これらは仮説であり、そういった架空社会 を評価し一一通常そこで起こる変化を追跡 する - ーー - 物語を作り出す試みは、仮説検証 の荒つぼい手法である。これは ( ごくまれ なケースを除いて ) SF 作家の主要な目的 とはいえないが、それでもやはり彼の作品 の一測面だとはいえる。 SF の、、社会学的 テーマ″を調べることは、社会学それ自体 が SF の思弁的観念に与えた影響を探る ( 例えば、 SF における生物学的テーマを 議論した時は、科学それ自体が直接的に文 学に取り込まれていた ) ということより も、むしろ実際にはこのフ。ロセスが生み出 した結果を探ることになる。アカデミック な社会学の実際の影響は、少なくとも英米 SF においては、ほとんど無視できるもの だった。正式な社会学の論文をベースにし たとわかる唯一の重要な作品はキース・ロ ノく一ツの ava 加 ( 連作 1968 ) である。 ェーノく一の資本主義 こではマックス・ウ とフ。ロテスタントの倫理との連携に関する 論文が、現代ョーロッパがカトリックの支 配の下に留まっている I F の世界を描写す るのに用いられている。 SF 作家が社会学 者の説を借用することはめったになく ( 経 済学者や文化人類学者からは借用している にもかかわらず ) 、社会や社会関係につい て彼ら自身の直観的な判断に頼りたがる傾 向がある。このことが S F に有害だったか どうかは、議論の分かれるところである。 S F 小説が社会学の思考実験といかに接 XI

2. SFマガジン 1985年8月号

7 ' の・ / 記 / の漑米 ) に盛られたもので ある。最後の巻は最も直接的であり、 N I CE という組織がイギリス社会を社会ダー ウイニストの路線に従った型にはめようと 雑誌の S F は、いつでもアナロジーによ る思考が幅をきかせていた分野であり、社 会ダーウイン説の論理も絶えず現われ出て いたが、どちらかといえば気まぐれだっ た。このような論理を政治的主張を擁護す るために絶えず援用してきた一人の作家 ト・ A ・ハインラインである。 力、ロノ、一一 社会ダーウイン説の信奉が彼の姿勢の多く を形作っている一一一有名なものに『人形っ かい』 T ん ~ ″ 2 第 ( 1951 ) や 『宇宙の戦士』 & 訪ゆ Troo 加” ( 1959 ) に見られる異星人への態度や、『月は無慈 悲な夜の女王』 The 」な。〃の・訪 ユ石尾ぉ ( 1966 ) に出てくる、、タンスターー フル″ ( 無料の昼飯などというものはない There Ain't No Such Thing As A Free Lunch の頭文字を綴ったもの ) とい う素朴な社会理論がある。アレクセイ・ ンシンはハインラインの自由に対する意見 につ℃、て、ツん D わ〃にれ 0 れ ( 1968 ) の中で分析して見せたが、この哲 学の精髄はハインライン自身によって『愛 に時間を』 Time 刃加 ug んアの・ 0 ( 1973 ) の中の「ラザルス・ロングのノー ト」と呼ばれる警句集に抜粋されている。 ここに含まれる発言としては次のようなも のがある。「あらゆる社会は妊婦と子供を 守るための規則を基礎としている。他のす べては余分なものだ」「種族の生存こそ唯 ーの宇宙的な倫理である」「愛他主義に警 戒せよ。それは自己欺瞞を基盤としてお り、邪悪の根源である」。 雑誌の S F で , 、インラインが唯一の右翼 的かっ現実的な政治見解の持ち主だという わけではないが、彼は絶えずこのタイフ。の 論理を援用する唯一のメジャーな作家であ る。ポール・アンダースンの政治学は明ら かにもっと現実主義的な基盤を持っている 資本主義が最良だと信じるのはそれが 最もうまく機能しているからである。この ネルに関しても真だ ことはジェリ といえる。これはまた S F 界の外で最も 極端に政治的だといわれている作家 スん襯 ( 1938 ; 短縮版 1946 ) や A の Shrugged ( 1957 ) の著者、ェイン・ラン ドについてもそうである。もっとずっと判 定しにくい人物は、 ASF 誌の編集者とし て 1940 年代と年代に S F の右翼的偏見に 大きな力を与えたジョン・ W ・キャンベル ・ジ = ニアである。彼自身の S F には社会 という文脈に誤って適用されたダーウイン 説の形跡はほとんど見られず、例外的に社 会というものは暮らしがあまりに楽になる と堕落を始めるという一般的な神話への、 変わらぬ執着が見られるのみである。同じ ことは彼のエデイトリアルについても、少 なくとも 198 年代半ばまでは正しいようで ある ( 1951 年 7 月号の進化″に関するェ デイトリアルで、彼は人間社会の攻撃性を 生物学的な論理で擁護することに強く反対 する論陣を張っている ) 。しかしながらそ の後は、キャンベルは論争相手に別の迷信 を選んだようで、彼の現実主義を支援する 可能性のある議論にはいくぶん好意的とな った。彼が時おり覗かせる制度としての奴 隷制擁護論では、生物学的な劣勢の概念を 口実として正当化を図っているようである ロイド・ビッグル・ジュニアの T んど Ⅳ 0 d れ” ( 1971 ) に対する熱中が その証拠だ。奇妙なことに ハインライン を別にしてもう一人公然と社会ダーウイン 説を小説に用いた作家というのは、 1940 年 代に書いた初期の短篇では非常に強い人道 主義的外観を示していたレスター・デル・ レイである。問題の長篇は ~ 0 〃化 Y 。″だ 270

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で、未来はいまやすぐ目の前にあるのであ る。 SF において着実に増大している関心 は、実際のところ、この加速する社会変化 のひとつの症状なのかも知れない・・・・もし そうであるなら、 S F のアカデミックな研 究、今ではアメリカの大学の大半にまで浸 透してきたそれは、本質的には文学部の学 生よりも社会学の学生にとって有益かも知 れない。たとえ SF の発展における重要な 要素として、社会変化の果たす役割を見落 とすか、または否定するとしても、 S F は 依然として社会学的思考実験の道具として の基本的な関心をたもちつづけるだろう。 ソフト・サイエンス SOFT SCIENCE アカデミックな俗語として、また S F 用 語として、ソフト・サイエンスとは主とし て生物学と人間に関する科学一一多くの場 合、その研究にさいしてハードウェアをほ とんど、あるいは全く必要としない科学一 ーを示すものである。 ( 生物学はハ サイエンスだという主張もあるだろう ) 。 本事典のテーマ項目で直接的あるいは間接 的にソフト・サイエンスを扱っているもの には、人類学、エコロジー、経済学、進 化、未来学、知性、言語学、医学、知覚、 心理学、社会学などがある。ソフト・サイ ェンスは統計を利用して研究することが非 常に多く、 ド・サイエンスの科学者は その厳密さの不足と信頼に足る結果を得る ことがしばしば困難であることのゆえにそ れを見下していることが知られている。社 会学は、正当かどうかは別にして、この理 由から厳しく批判されてきた。ソフト・サ イエンスを主に扱った S F は時たま嶬ソフ ト S F ″と呼ばれることがあり、それらは 普通、主として社会学や心理学の問題を扱 っている。 〔 P N 〕 XVI 南米 ( スペイン、ポルトガル ) SOUTH AMERICA 宇宙旅行 SPACE FLIGHT 宇宙への旅は SF の古典的なテーマであ る。フランシス・ゴドウイン、シラノ・ド ・ベルジュラックらの月旅行物語は、 S F の文学的祖先として、最も一般的にまた異 議なく認められている作品である。現代に おいては、ジャンル S F が印刷物から映 画、ラジオ、テレビジョンへと広がってい ったが、これらのメディアのために作られ た原型的作品の多くは宇宙旅行のロマンス だった。『来たるべき世界』 T ん gs To C 。襯 ( 1936 ) や『 2001 年宇宙の旅』 200 プ : S, 第化 0 み , 0 ( 1968 ) といった映 画、チャールズ・チルトンの B B C ラジオ の連続ドラマ面″知 S, 第 4 化 ( 1953 ) とその続篇、そしてテレビの『宇宙大作 戦』 Star T ん ( 1966 ー 8 ) などである。 アポロ 11 号の月着陸を多くの人々は、、 S F が現実になった″というように見た。 S F が宇宙旅行テーマによってシンボライズさ れるというのは自然なことである。なぜな ら S F は想像力の限界を超え、われわれの 音識を伝統的な信仰体系の核につなぎとめ ている重力から解放することを、主眼とし ているからだ。 S F の中で宇宙旅行を実現 させてきた手段 ( 宇宙船 ) というもの は、通常このテーマの神話的衝撃性に対し て二次的な重要性しか持たない。十指に満 たない作家のみが一一最も著名なのはコン スタンティン・ツイオルコフスキーである 実際に現実の科学的アイデアを小説の 形で具体化し、大衆化しようと試みたので ある。 ( ロケット ) 。 あえてペダントリーをひけらかすなら、 このテーマの起源を追跡することは決して 264

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われわれは The ル。。〃ねれと『月 世界最初の人間』に代表される二つのタイ プの思弁的試みを、、ゆがんだ社会〃という 見出しの下に分類してもいいだろう。異星 人の社会は通常ーーーいつでもというわけで S F で描かれる奇妙な人間の はないが 社会よりももっとゆがんでいる。だが、 の二つが形づくっているのは別々のグルー フ。というよりも、むしろひとつながりのも のである。ジャンルの外ではゆがんだ社会 はほとんど常にディストビアか諷刺的な結 末を迎えるのだが、ジャンル内では、この 二つの古典的な例が示すように、ゆがみは それ自身が目的となり、吟味や評価の対象 となる。確かに異星人の社会は SF におい ても諷刺的な目的に用いられてきたーース タントン・ A ・コフ・レンツはイビ〃 Ⅳ 0 ( 1935 ; 1957 Ca 膨 s お記 0 ての や The おん e お 0 のい ( 1931 ; 1958 ) といった作品でそれを常習していた が、これは比較的まれな例である。 SF に おける人間以外の社会の例はあまりにも数 が多いので、どのようなリストもきわめて 選択的なものにならざるを得ない。しかし 最も重要なものとしては、クリフォード・ D ・シマックの『都市』 City ( 1944 ー 51 ; 1952 ) 、 L ・スフ。レイグ・ディ・キャン フ。の ogue Qu 〃 ( 1951 ) 、フィリッフ ' ・ホセ・ファーマーの『恋人たち』 The 0 眦 ( 1952 ; 阨 1961 ) 、ジェイムズ・フ・ リッシュの「良心の問題」 "A Case of ( 1953 ) 、ポール・アンダ ConSCIence ” ースンの『鳥人大戦争』Ⅳ“ the 仏切 g-l 左れ ( 1958 ; 圜 T ん Ma 〃科研 0 C04 れな ) と T ん ~ 0 第ん the Wind ( 1973 ) 、フ・ライアン・ W ・オールディス の『暗い光年』 The D ロ / んの・ s ( 1964 ) 、アイザック・アジモフの『神々 自身』 The GO み T ん襯記んお ( 1972 ) な どがある。これら全てのうちたったひとつ XIV オールディスの小説ーーーのみが実際に 諷刺と名づけうるものであり、 ユートヒ。ア やディストビアは一篇もない。同じことは ゆがんだ人間の社会にも適用できる。再び 選択的なリストであるが、最も注目すべき ものとしては、ワイマン・グインの「危険 な関係」 "Beyond Bedlam ” ( 1951 ) 、フ レデリック・ポールと C ・ M ・コーンフ・ル ースの『宇宙商人』 The Spac 」売なんな ( 1953 ) 、ジェイムズ・ガンの 7 ' ん e Joy Ma ん” ( 1955 ; 1961 ) 、ジャック・ヴァ ンスの The 0 g ″ ag お ~ 0 ( 1958 ) 3 ハーラン・エリンスの "Eyes Of Dust ” ( 1959 ) 、アレクセイ・パンシンの『成長 の儀式』 ~ の覊部 ( 1963 ; 阨 1968 ) 、 アーシュラ・ K ・ル・グインの『闇の左 手』 The イこ丑 4 れ d D 加 55 ( 1969 ) 、ジョン・ジェイクスの M た 0 ア C ん 4 の ( 1970 ) 、サミュエル・ R ・ディレ イニーの Tr ″ 0 ( 1976 ) などがある。 れら全てはまず第一に分析的なものである 諷刺的作品という誤った評判が立って いる『宇宙商人』ですら、それがあてはま る。これらの小説は全て、そのドラマとし ての直接の目的が何であれ、暗黙のうちに 社会と社会的可能性に関する陳述となって いるのである。 S F における社会学的思考実験の最もあ りふれた形式のひとつは、社会を分裂させ た後再び建設するというものである。この タイブの作品の多くはデイザスター及び大 破壊とその後の項で論じられている。古典 的な例としては S ・ファウラー・ライトの Deluge ( 1928 ) とのれ ( 1929 ) 、ジョー ジ・ R ・スチュワートの労作『大地は永遠 に』 E のプんスろぉ ( 1949 ) 、ウォルター M ・ミラーの『黙示録 3174 年』 Ca 厩な / 0 だ引・ろ 09 / 饒 ( 1955 ー 7 ; 1960 ) など がある。社会の崩壊のパターンはウィリア ム・ゴールディングの『蠅の王』 0 266

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llillllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll!lllllliliillllllllllllliillllllilllllllllllllllllllllllllllllillllllllllllllllllllllllllllllllltllllllllllllllllllllllillllllllllllllfilllllllllllllllllllllllllilllllllllilill 舫 e 〃ぉ ( 1954 ) に詳細なディテールが描 かれている。一方社会を一から建設する方 は一一一真に諷刺的な流儀で一一一 E ・ C ・ラ ージの D43 れ切スれイ r の“ ( 1956 ) に 描かれている。このテーマに関する個々の 探究は、徹底的な恐怖小説ーー一例えばルー ドフ・ワーリツツアーの Qu 飜 6 ( 1972 ) ーーから、古典的な孤島漂流小説あるいは 漂流記の強い影響を受けたロマンチックな 物語までにおよんでいる。 B B C テレビの シリーズ S ″ん 0 ( 1975 ー 7 ) はリアリ ズムとロマンチシズムの間で不安定な道筋 をたどっている。 これまでのところ、筆者はもつばら全体 的な社会学的展望に関心を向けてきた。社 会学のある特定の狭い分野と類似した関心 を持っ SF を考察しようとする時、その例 を見つけるのはあまり簡単ではない。マー 、リー・グリーンパーグと彼の協 力者たちは、二冊のアンンロジーに小説を 集めた際、しばしば特定のテーマに適合し た小説を見つけることができなかった。宗 教の社会学と関連した小説はたくさんあ る。例えはロノく一ト・ハインラインの「も "lf This Goes On しこのまま続けば・・・」 ( 1940 ) と & ん Co ん襯れ ( 1941 ア ンスン・マクドナルド名義 ; 1949 ; 7 ' / 尾 Da 4 〃 To 襯 0 " 03 ) 、 ミラーの『黙示 録 3174 年』、ポール・アンダースンの "The Problem of Pain" ( 1973 ) 、ジェラルド・ ジョーナスの "The Shaker Revival ” ( 197 の、そしてハー トランド・ラッセノレ の二つの中篇 "Zahatopolk ” ( 1954 ) と "Faith and Mountains ” ( 1954 ) さえも 含まれる。ところが、奇妙なことに、科学 の社会学に関連した小説はそれほど多くな い。もっともアジモフの『神々自身』はい くっかの有用な観察を行っており、また , ワード・ L ・マイアーズの "Out, Wit ! " ( 1972 ) という巧妙な小説もある。教育の 265 社会学やマス・メディアの社会学、等々に ついては、関連ある SF は比較的少ない ( とはいえ、メディア風景、コミュニケー ション、芸術を参照のこと ) 。しかしなが ら、応用社会学についての短いが古典的な 注釈がキャサリン・マクレインの「雪だる ま効果」 "The Snowball Effect ” ( 1952 ) に存在している。それはくワタショー婦人 編み物クラフ ) が ( 後に現実の世界で、、マ ルチ商法〃として実現したテクニックを用 いて ) 全世界を掌中に入れることを可能に した、刺激的な計画の作成者である社会学 者の話である。 ジャンル S F の興味の中心がはっきり変 わりつつあるという議論がなされている。 かってはほとんど発明と科学的、 ードウ ェア″のみに興味を集中していた雑誌の作 家たちが、今では主として社会的問題に興 味を示している。この強調点の移行は、実 ド・サイエンスが内包し 際のところ、 ている可能性が多少とも枯渇したためでは なく、また S F 作家たちのこれらの科学に 対する関心がいくらかなりと薄れたためで もない。この変化は主として、 1920 年代と 30 年代の S F 作家たちが社会の発展してい く方向について極端に楽観的な傾向があっ たという事実に原因がある一一未来の姿は 特別謎めいてもおらず、不安もなかったの である。しかし歳月の経過とともに、とり わけ第二次世界大戦以来、この楽観は消失 した。未来の社会状況はもはや当然のもの とは考えられなくなり、現在予測される問 題はもはや新しい科学的な玩具と直接の関 係をもたなくなった。社会問題の第一義性 や、発明がなされ、利用される情況を決定 するのは、さまざまの社会的争点であると いう事実が、はっきりと理解された。アル ヴィン・トフラーが『未来の衝撃』 4 S ん。 ( 1970 ) で指摘したように、変化の 速度があまりにも大きく加速されているの XV

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のでそちらをどうぞ。 いうわけにもいきませんが、しいていえば、 なったわけです ( 中略 ) かっての子ども 基本的にはやはりはサイエンス・フィク それにしても、よかったですね。 ( 田 ) は、人間を通して現実を体験して「人間」 8 2 シ , ン。科学小説だと思います。ただ、歴史になっていったのに対して、今日では、人 的に、科学小説色の薄いものが増えていった 間のほかに機械の『操作』を通して現実を り、またファンや作家に、ファンタジイ 0 こんにちは、一応毎号かかさす読んでお 体験して「人間」になっていく ( 中略 ) 機 の愛好者が多く、境界領域の作品も多く書か ります一読者であります。今回投稿しまし 械に育てられれば機械の持っ特性を反映し れて現在のようになったといえるでしよう。 たのは、質問したき一件があるからであり た人間に育ちます〃なんて文章は、背筋が ファンタジイというのはとてつもなく歴史が ます。くだらんことを聞くな、と思われる 古く、は近代合理主義の産物と考えれ寒くなります。プレイクダンスの流行もこ かもしれませんが、なにとぞ御回答くださ のせいだったりして。だいたい制服でそろ ば、とファンタジイのまじりあった状態 もそれなりに解釈できるのではないでしようそろ歩く大勢の学生に恐怖と嫌悪を感じす 、刀 ( 今 ) 質問といいますのは、と v-k の類別 にすむなんて、どうかしてます。小此木氏 と申しましようか定義と申しましようか、 は多少楽観的にこの事を見ているようです まあそういうことです。友人たちと討論の が、どうですかねえ。 結果、最有力説は、はに含有され久々にてれぼーとに読書感想などをひと次は『ものぐさ精神分析』岸田秀。これ ・るというものです。次点は、 ()0 v-q と ;-v はつ。ものは『こころの進化』と『正・続もは言ってみれば精神分析学的ェッセイで、 唯幻論とか、人間は本能がこわれてると 近い次元にあるが別の物であるとの説でのぐさ精神分析』。 ・す。他に、とはに含有されるもの まずは『こころの進化』小此木啓吾。こか、論文も混じっておりまして、なかなか 人気のある本で、文庫になったんで再読を だ、との説もあります。最近はサイエンスれがなかなかしてます。たとえば ・ファンタジイという分野もあるそうで、 : 人間はこれらの道具によって人工的な環しました。中でおもしろかったところをい ・ますます混迷の度合は深まるばかりです。境をつくりあげ、自然とはまったく遠いとくつか紹介しながら感想などを。 ツ。、 また、 V-v とサイエンス・ファンタジイころで、現実原則にしばられすに暮せるよ「伝染病としての文明」では、ヨ 1 ロ はどこで見分けるのでしようか ? 後者うになりました″という文章は一見何でもで発生した文明は悪性で伝染性も強く、し かも人工的擬似現実は居心地が悪く、人類 ・は、早川書房では分野として扱われてないようだけども、現在のニ、ーメディ いるようですが、ひょっとして担当の人のア、流通機構その他、日常生活をちょっとは新たに擬似現実をつくっていく、この悪 フィーリングで決めちゃうんでしようか ? 見直してみるとわかるように、三十年ほど循環が文明の発達たと指摘します。人工的 ・無知な私に愛の手を。 前の日本人にとっては、まさに「夢物語」な擬似現実とは、人類が畸型的な進化の方 向にはまりこんで自然的現実を失なったた ( ペンネ 1 ム " 天下御免の乱筆乱文 ) の世界が現実と化しております。 また″子どもは人間の親のほかに、 こうめに築きあげたものとなっています。しか 実に難しい御質問で、簡単にお答えするとした機械というもう一つの親を持つようにし・ほくの思うのには、はじめは「必要」だ

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1 ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅧⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅱⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ川ⅢⅢⅢ日ⅢⅢ ll 近しうるかは注目に値する。中にはまった くそのままに作り上げられたものもある。 フィリップ・ワイリーの T ん D なゑゑ囮れ化 ( 1951 ) はそうした純粋な思考実験にほかな らず、ェイン・ランドのス〃の Shrugged ( 1957 ) で「能力に応じた者から、必要に 応じた者へ」という教義に従って運営され る工場・社会の描写にもおなじことがいえ る。ポール・アンダースンの「救いの手」 "The HeIping Hand ” ( 195 のは、二つ の征服された文化の運命を丹念に比較す る。片方は征服者の経済援助を受け入れ、 もう一方一一一、、対照″グルーブーーはそう しない。グラント・アレンの The 召 7 疵 / 訪 召の必 4 4 加 ( 1895 ) からオルダス・ハック スリーの『すばらしい新世界』 Brave を ー仏 0 だ ( 1932 ) やイーデン・フィルポッ ツの S04 剛 s ( 1938 ) を経てシオドア・ス タージョンの佐れ Plus X ( 1960 ) に 至る多くの思弁的小説は、社会的状況の中 へそれを、、評価″するためのある種の、、客 観的観察者″を導入してきた ( 諷刺 ) 。 そうした試みの最初のものはおそらくべン ジャミン・ディズレーリの The の ge 尸 Ca 第 ~ 。第の " ・〃 4 ( 1828 ) だろう。 その主人公は英国を模したフ・レイフ・リュー ジアへと連れて来られた純真な野蛮人であ る。アレンの主人公は現代に呼び戻された ハックスリーのは J ・ B ・ 未来人であり、 S ・ホールディンのェッセイの“ d 記 ( 1923 ) で約東されているような未来へ、 現在から連れ込まれた、、野蛮人″であ る。 Saurus は異星人であり、一方超人の 視点は J ・ D ・ペレズフォードの The 襯第イ加ん / Ⅳ 0 れ r ( 1911 ; 圜 T ん 仏 0 れだ米 ) やオラフ・ステーフ。ルドン の『オッド・ジョン』 0 イ面ん〃 ( 1935 ) に用いられている。スタージョンの主人公 は擬似ュートヒ。ア的未来へと連れて行か れ、アーシュラ・ル・グインの『闇の左 XII 手』 The イ 4 れ d 0 工の ( 1969 ) の主人公は異星人の社会を眺め歩く。ジ ャンル S F もまたこの戦略を逆転させ、 ・ハインラインの『異星の客』 ト & れ g ・切 Strange 4 れ d ( 1961 ) や グの『時の仮 ト・、ンノレウ・ア - ー / 、一一 面』 The 5 0 工 Time ( 1968 ; - プ 9 英 ) のように、未来人や異星 社会からの訪問者の目でもってわれわれの 世界を眺める。現実の世界ではこの種の実 験的観察は ( 文化人類学を除き ) 非実用的 である。というのは、社会学者自身も文化 的に束縛されており、客観的観察者として の異質な視点を持ち得ないからである。そ の一方で、未来社会や異星社会は絶対的に 彼の理解を越えている。自然科学者はたい ていの場合、同様な問題に遭遇することは ない。このため、社会科学と思弁小説との 関係は、自然科学と思弁小説との関係とは 明確に異なっている。後者の場合、その関 係は単純に , 自然科学の生み出すアイデア が思弁的ファンタジイの出発点になるとい うものである。前者の場合は、思弁小説は 現実の科学が不可能なことを実際に成し遂 げようと試み、アイデアを借りるというよ りは、それ自身がアイデアの発生源になる のである。そのアイデアが次には現実の世 界に関する思索に、、フィ 則』 The な 6 励 6 」イ″ 0 げ 40 ( 1958 ) イクル・ヤングの『メリトクラシーの法 Ⅳ 4 T てこ , 。 ( 1948 ) や教育社会学者マ F ・スキナーの『ウォールデンツー』 デルを構築している一一有名なものに B ・ 自身のアイデアを支えるために文学的なモ り、また何人かの現代の社会理論家は彼ら りの影響を与えたことは確かな事実であ 窺 'g んな - 肝 ( 1949 ) が社会の動きにかな ジ・オーウェルの『 1984 年』 N 化れ スリーの『すばらしい新世界』やジョー ′、ツク されるかどうかは : 疑問であるが、 268

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ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ川聞ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅧⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅱⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ日 体的な構造を説明していた ) は拡張され た単行本版にのみ付け加えられたものであ り、彼らはキニスンと同様、誰が最後の敵 なのか、巨大な抗争はいつ不可避的な拡大 を止めるのか、知らなかったからである。 多くの読者は彼らが SF に求めていたセン ス・オフ・・ワンダーを、レンズマンにおけ るスケールの拡大との最初の出会いに結び 付けた。シリーズはいつまでも読み直され 続け、その文体の不器用さ、女性の性格の おぞましさ、気違いじみたスラング、アン グロ・サクソンの育種計画という人種差別 主義的な暗示 ( キニスンとマクドウガルの 子供たちが宇宙を支配するよう定められて いる ) などは、どうやら取るに足らない障 害のようである。 スミスはそれほど有名ではないいくつか のシリーズ外作品も執筆しているが、いず れも主流作品の力強さを少しも持っていな い。彼の死後 10 年たって、彼がその原稿に 手をつけかけたり、書き上げたりしていた 本や、単に彼に触発されたり認可されたと いう本が、彼の死後の大変な人気に対応し て現れ始めた。《ファミリー ・ダラン一く一一 ル》シリーズもその一例であり、スミス と、、スティーヴン・ゴールディンとの合 作〃として出版された。その第一巻 The 〃カ / 記 & ” ( 1964 イフ誌 ; 囲 1976 ) は発表済みの素材をもとにしている。この シリーズは & れ g ん ' 0 れ ( 1976 ) 、 The C ん 30 T ″ or ( 1977 ) 、 G v Ⅳ ( 1977 ) と続いている。ウィリアム ・ B ・エラーンは、△を e 襯 4 れ ( 1977 ) で、レンズマンの宇宙を舞台にした新しい シリーズを開始した。 こういったサーガへ の追加は、スミスの名声に何ら寄与してい ない。 その他の既訳作品 〔 J C 〕 『火星航路 SOS 』 4 化ん。 4 み研 IPC ( 1931 AMZ ・ 1947 ) 、『銀河系の超能力者』 The Ga 写 VIII r わ〃 ( 1959 AMZ ; 1965 ) 、『大宇宙の探 究者』 & 訪眇“じ E てが。 ( 1960 ASF 掲 載時は "Subspace Survivors ” ; 囲 1965 ) 。 社会ダーウイン説 SOCIAL DARWINISM 最も単純なレベルでいえば、社会ダーウ イン説とは、社会の進歩や社会の歴史が自 然の種の進化を支配するのと同じ原理ーーー 自然淘汰の、、法則″ によって支配され ているとする説である。ダーウインの理論 と歩調を合わせてこのような信仰が発生し たのは驚くべきことではない。ダーウイン とウォーレスは、基本的な理論のインスビ レーションを経済学者マルサスを読むこと により得たのだった。ダーウインはハーパ ート・スペンサーの社会経済学理論から多 くを借用している 0 適者生存〃という言 葉を実際に作り出したのはスペンサーであ る ) 。スペンサーはある時、ダーウインは 社会経済学理論から借用したものに、、利子 をつけて返してくれた / / と述べたが、これ は一般的な見方だろう。無干渉資本主義の 政治的擁護者たちは、自分たちが、、自然法 則〃によって、、正当化された / / と喜んで考 えたがった。これに対して、社会主義の政 治学もまた、歴史に関するマルクス主義の 理論に、、科学的″正当性を見出していた。 それは社会の歴史を、弁証法的発展に支配 され決定される絶え間ない変化の過程とし て、、説明〃するというものである。この対 立関係があるために、社会ダーウイン説は 暗黙のうちに右翼政治と結び付けられてい るが、これは必ずしもそうある必然性はな い。同様に、社会ダーウイン説と人種差別 の間にも何ら論理的に必然性のあるつなが りはないが、多くの人種差別主義者たちは 社会ダーウイン説の論理を彼らの迷信を支 持する役に立たせようと試みてきた。社会 ダーウイン説は単なるアナロジイにすぎな 272

9. SFマガジン 1985年8月号

ナッ練りの職業的専門家だったが、 S F 界 では普通、、ドック〃スミスとして知られて スミスの作品は、それとわかる市場的な ジャンルとしてのアメリカ・パルフ。 S F の 開幕と強く同一視されており、そして良く も悪くもそれをおよそ定義づけている。彼 が 1915 年に《スカイラーク》シリーズの初 めての長篇をリー・ホーキンズ・ガービー 夫人と共に書き始めた時、それほどの物語 の広がりや科学的なあくの強さを備えた S F を掲載している雑誌は一つもなかった。 それがついに『宇宙のスカイラーク』 The & , 。化 ( 執筆 1915 ー 20 ; AMZ 掲載 1928 ; 1946 ; 一部を削除した改訂版 1958 ) として誕生二年目の AMZ 誌に掲載 されたのは、フィリップ・ノーランの《ノく ック・ロジャース》第一作 "Armageddon ー 2419 A. D. ”が載ったのと同じ号だっ た。その続篇 - ーー『スカイラーク 3 号』 y T ん尾 ( 1930 AMZ; 1948 ) 、『ヴ ァレロンのスカイラーク』 S た y 可、 記 0 ( 1934 ー 5 ASF; 1949 ) 、『スカイ ラーク対デュケーヌ』 5 た 4 D ″ Q ″お ( 1966 ) と共に、『宇宙のスカイラー ク』は発明家の科学者が同時にアクション のヒーローでもあるという概念を効果的に 大衆化した。数え切れないほどの作品がこ の先導に続き、戦前の S F の陽気で楽観的 な、むしろ西部劇的なトーンを形作るのに 大きな力となった。 1928 年以前には、月や その他の場所へ自分の作ったロケットで出 かける発明家たちはいたが、多くの場合彼 らは物語の中でアクションを受け持っ若い 友人を同伴していたのだった。それは彼の 小説の科学的・技術的なもっともらしさを に科学をまったく従属させて、 ( 第二 ーリー展開をずっとスビーディにし、冒険 スが二つの人格を合体させたことは、 著しく弱める結果となったけれども、 VI のシ スト スミ リーズにおける ) ほとんど絶え間のないセ ンス・オプ・ワンダーを作り出すもととな り、当然ながら彼の名を高めることとなっ 0 《スカイラーク》シリーズを生き生きとし たものにしている基本的な対立は、比較的 ありふれたものである。ヒーローの発明家 リチャード・シートンは、常に拡大してい く背景を通じて、悪漢の発明家マーク・ ・デュケーヌと絶え間なく フ・ラッキー 争い続ける。おそらく彼はスミスの作り出 した最も生き生きした人物だろう。彼は第 ー作の芝居がかった段階から最終作の堂々 たるアンチ・ヒーローまで成長をとげた。 シリーズの各々の新段階は、アクションや 武器の破壊力、宇宙船のサイズやスヒ。ード といったもののスケールの増大一一たちま ち宇宙規模になる一一によって印象づけら れている。変わらないものは、不幸なこと に、女性の親密げな白痴性 ( 性 ) と、低 俗なスラングであらゆる感情を伝えようと することである。 しかしながら《スカイラーク》シリーズ の活気は、スミスの第二の、はるかに長大 なシリーズである《レンズマン》シリーズ の ( 粗削りではあるが ) 重厚な構成と比べ れば、ほとんどひそやかなものに思える。 彼の名を最も強く想起させるのはこのシリ ーズなのである。《レンズマン》シリーズ の本篇にあたるものは、物語内の年代順に 挙げると以下の通りである。『三惑星連合 軍』 Tr ゆ ( 1934 AMZ; シリーズ に取りこむために國 1948 ) 、『ファース ト・レンズマン』おツ立ん e れ ( 1950 ) 、 『銀河パトロール隊』 Ga なぞ ( 1937 ー 8 ASF; 1950 ) 、『グレー ズマン』 Gray ん 5 襯〃 ( 1939 ー 40 ASF; 1951 ) 、『第二段階レンズマン』 & co れ & ag じル加〃〃 ( 1941 ー 2 ASF; 1953 ) 、丿 『レンズの子ら』 C ん″ d 尾れ訪翩 5 274

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ⅧⅢⅢⅢⅢ ll ⅢⅢⅢⅧⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ日ⅢⅢ日ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ川ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ川ⅢⅢⅢ間Ⅲ ( 1947 ー 8 ASF ; 1954 ) 。 『渦動破壊者』 T ん 0 だェお I のだ ( 1941 ー 2 各誌 ; 統 1960 ; 圜 M な the 0 れにェ米 ) は、『レンズの子ら』よりおそらくは少し 以前の時代のレンズマン宇宙を舞台にして いるが、メイン・シリーズの重要な対立を 扱っていない。その対立は壮大な広がりを 持ち一一一後に出版された皮張りの箱入りセ ットに付けられたタイトル、、文明の歴史〃 が証明しているように一一綿密に作り上げ られたものだった。最初の二冊の長篇は中 心となる活劇の序曲である。最後の四冊は 《レンズマン》シリーズの根底にある闘い は、二つのとほうもなく進歩した根本的に 対立し合う種族、善なるアリシア人と邪悪 なェッドール人の間の、何十億年も続いた 抗争である。アリシア人は絶対的な悪を打 ち破る唯一の希望が、地球 ( テラス ) もそ の一つである特別に選ばれた惑星上で特別 な血統を育てあげ、文明を興すことにある と理解していた。これらの血統は、ェッド ール人によって ( 背後から ) 指令される邪 悪な勢力との、避け難い闘争の巨大なスト レスに耐えられる、文明化した存在を生み だすことになる。最初の二巻はわれわれに 大ざっぱな図式を示し、腕につけるレンズ たくさんの色彩をもつ、震える、ほ とんど液体のような光輝〃ー - ーというアイ デアを紹介する。それはアリシア人の影響 下にある銀河パトロールのメンノく一として ふさわしい者に、ある種のテレバシーやそ の他の力を与えるものである。第三巻では シリーズの中心的な主人公、キム・キニス ンが登場する。彼は、後に妻となるクラリ ッサ・マクドウガルと共に、アリシア人の 播種計画の、最後から二番目の段階を代表 している。彼らの子供たちは最終巻でつい にェッドール人を打ち破る。しかしなが ら、その時までに、シリーズのこの特別の 偉業は黙示されている。ェッドール人は一 連の秘密の指令を通じてヒ。ラミッド状の組 織を操作するが、この上部へはキニスンや 仲間のレンズマンたちによっても徐々にし か侵入できない。それそれの長い段階の最 後に、彼らは最後の勝利は自分たちのもの だと感じるが、しかし次の段階は、毎度毎 度抗争の範囲が飛躍的に拡大し、新たな 科子的概念や武器、宇宙船、新しい敵 が登場する。本シリーズの初期の読者の多 くを魅了したのは、この力強い、抑制され た、一連のスケールの飛躍だった。なぜな ら、『三惑星連合軍」の第一章 ( それは全 レンマい・ま′り - ~ プ① : 銀河ハトロール隊 ・を . つ . ズ小ま背 『銀河パトロール隊』 スミスが一冊の四十万語の長篇として構想 したものであり、 1937 年から 1948 年にかけ て ASF 誌に掲載された際、別々のタイト ルに分割されたものである。それはジョン ・ W ・キャンベル・ジュニアが編集を始め る以前から急激な黄金時代 ( 1939 ー 42 ) の 高まりを経て終戦後まで続いた。 ASF 誌 は当時の支配的な雑誌であり、 1939 年と 1940 年にキャンベルが新人作家たちを登場 させたにもかかわらず、スミスはその時代 を生きた SF 作家やファンたちにとって、 とても豊かで記憶に残る刺激的な時代をも たらした。 273 VII