『そうです。乗ってはなりません。受ける物は遠慮なく受け 『よし、やろう』 て、冷観しておればよろしいのです』 袁術は、即座にその説を取りあげた。 きようぜん 『やがて、小沛と徐州がおれの饗膳へ上るとすれば、安い代価数日の後。 果せるかな情報が入った。 どとう わいなんへい 淮南兵の怒濤が、小沛へ向って活動しだしたというのであ 先に、劉備と戦った折、呂布へ与えると約束して与えなかっ た糧米、金銀、織布、名馬など、莫大なものが、ほどなく徐州る 袁術の幕将の一人たる紀がその指揮にあたり、兵員十万、 へ向けて蜿蜒と輸送されて行った。 長駆して小沛の県城へ進軍中と聞えた。 呂布の歓心を求める為に。 もちろん、袁術から、先に代償を払っているので、徐州の呂 そして、劉備を孤立させ、その劉備を屠ってから、呂布を制 布には懸念なく、軍を進めているらしい する謀計であることは云うまでもない りゅうげんとく 一方、小沛にある劉玄徳は、到底、その大軍を受けては、勝 目のないことも分っているし、第一兵器や糧秣さえ不足なので、 『不測の大難が湧きました。至急、御救援をねがいたい』 呂布も、そう甘くはない と、呂布へ向って早馬を立てた。 『はてな、今となって、あの袁術が、莫大な財貨を贈って来た 呂布は、ひそかに動員して、小沛へ加勢をまわしたのみか、 のは、どういう肚なのだろう』 自身も両軍の間に出陣した。 元より、意欲では歓んだが、同時に疑、いも起した。 ちんきゅう 淮南軍は、意外な形勢に呂布の不信を鳴らした。大将の紀霊 『陳宮、そちはど , っ思う』 からは、激越な抗議を呂布の陣へ持込んで来た 腹、いの陳宮に問うと、 呂布は、双方の板ばさみになったわけだが、決して困ったよ 『見えすいたことですよ』と陳宮は笑った。 うな顔はしなかった。 『あなたを帝制しておいて、一方の劉備を討とうという袁術の 袁術からも、劉備からも、双方ともにおれを恨まぬように裁 考えでしよう』 いてやろう。 『そうだろうな。おれもなんだかそんな気がした』 呂布のつぶやくのを聞いて、陳宮は、彼にそんな器用な捌き 『劉備が小沛にいることは、あなたにとっては前衛にはなるが 者なんの害にもなりません。それに反して、もし袁術の手が伸びがつくかしらと疑いながら見ていた。 たいざんしよごう 呂布は、二通の手紙を書いた て、小沛が彼の勢力範囲になったら、北方の泰山諸豪とむすん 主 そして紀霊と劉備を同日に、自分の陣へ招待した。 で来る惧れもあるし、徐州は枕を高くしていることはできなく 和 小沛の県城からすこし出て、玄徳も手勢五千たらずで対陣し : なる』 ていたが、呂布の招待状が届いたので、『行かねばなるまい』 『その手には乗らんよ』 えんえん
国 もこれへ来て、ちょっと、御あいさつをするがよいと云え』 と、小声でいいつけた。 侍女は、退がって行った。間もなく、室の外に、楚々たる気 。いがして、侍立の女子が、帳を揚げた。客の呂布は、杯をお『貂蝉。ーーーお待ち』 ひとみ いて、誰が這入って来るかと、眸を向けていた 王允は、彼女を呼びとめて、客の呂布と等分に眺めながら云 あかんこしもと たす 了鬟の侍女ふたりに左右から扶けられて、歩々、牡丹の大輪った。 りよしようぐん が、徴かな風をも怖がるように、それへ這入って来た麗人があ『ここにいらっしやる呂将軍は、わしが日頃、敬愛するお方だ る。 おゆるしをうけて、そのま し、わが一家の恩人でもある。 がくじよちょうせん 楽女貂蝉であった。 ま側におるがよい。充分に、おもてなしをなさい』 いらっしゃいませ』 貂蝉は、客のほうへ、わずかに眼を向けて、優かにあいさっ 貂蝉は、素直に、客のそばに寺した。 けれど、俯向いて うんびんおも した。雲鬢重たげに、呂布の眼を羞恥らいながら、王允の蔭ばかりいて、何も云わなかった。 へ、隠れてしまいそうに摺り寄っている。 呂布は、初めて、ロを開いて、 『御主人。この麗人は、当家の御息女ですか』 こ・つこっ 呂布は、恍惚とながめていた。 『そうです。女の貂蝉というものです』 むすめ 王允は、自分の前の杯を、貂蝉にもたせて云った。 『知らなかった。大官のお女に、こんな美しいお方があろうと 『おまえの名誉にもなる。将軍へ杯をさしあげて、おながれをは』 歟くがよし』 『まだ、まったく世間を知りませんし、また、家の客へも、滅 ちらと、 貂蝉は、うなずいて、呂布のまえへ進みかけたが、 多に出た事もありませんから』 くれない しんそう むすめ 彼の視線に会うと、眼もとに、眩げな紅をたたえ、遠くから 『そんな深窓のお女を、きようは呂布のために』 ひすい そっと、真白な繊手へ、翡翠の杯をのせて、聞きとれない程な 『一家の者が、こんなに迄、あなたの御来訪を、歓んでいると 小声で云った。 いうことを、お酌み下されば倖せです』 : ど、つ絜、』 『いや、御歓待は、充分にうけた。もう、酒もそうは飲めな 『ゃ。これは』 大官、呂布は酔いましたよ』 なんた 呂布は、われに返ったように、その杯を持った。 『まだよろしいでしよう。貂蝉、おすすめしないか』 かれん 貂蝉は、程よく、彼に杯をすすめ、呂布もだんだん酔眼にな幻 傾る可憐 ! とばり 貂蠅は、すぐ退って、帳の外へ隠れかけた。呂布はまだ、手つて来た。夜も更けたので、呂布は、帰るといって立ちかけた せんしゅ さが こわ まばゅ しとや の杯を、唇にもしない。 彼女がそのまま去るのを残り惜し いとま げに、眼も離たずにいた。酒を干す遑すらない眼であった。 くち むすめ
と、起ちかけた。 分もあわてて馬に乗った。 巻関羽は、断じて引止めた。 関羽が苦笑すると、 の『呂布に異心があったらどうしますか』 『何を笑う。自分だって、行くなと止めた一人じゃないか』 莽『自分としては、今日まで彼に対して節義と謙譲を守ってき と、まるで子どもの喧嘩腰である。 た。彼をして疑わしめるような行為はなにもしていない。 草 呂布の陣へ来ると、猶さら張飛の顔は硬ばったまま、ニコと だから彼が、予を害そうとするわけはない』 もしない。さながら魁偉な仮面だ。眼ばかり時々左右へ向って ギョロリと , っこく 玄徳は、そう云って、もう歩を運びかけた。すると張飛が、 きっぜん 印に立って、 関羽も、汕断せす玄徳のうしろに屹然と立っていた 『あなたは、そういっても、われわれには、呂布を信じきれな やがて、呂布が席についた。 暫くお出ましは待って下さい』 『よう来られた』 ちょうひ 『張飛ツ。どこへ行く気か』 この挨拶はいいが、その次に、『この度は御辺の危難をすく 『呂布が城外へ出て、陣地にあるこそ勿怪の幸です。ちょっ うため此の方もすいぶん苦労した。この恩を忘れないようにし と、兵を拝借して彼奴の中軍をふいに襲い、呂布の首をあげて貰いたいな』と、云「た。 て、ついでに、紀霊の先鋒をも蹴ちらして帰ってきます。二刻張飛、関羽の二つの顔がむらむらと燃えている。 が、玄 かしら とはかかりません』 徳は頭を低く下げて、 玄徳は、呂布の迎えよりも、彼の暴勇の方を遙かに恐れて、 「御高恩のほど、なにとて忘れましよう。かたじけのうぞんじ かんう そんかん 『関羽ツ、孫乾ツ、はやく張飛を止めろ』 ます』 と、左右へ云った。 そこへ、呂布の家臣が、 張飛はもう剣を払って馳け出していたが、人々に抱き止めら『淮南の大将紀霊どのが見えました』 れて漸く連れ戻されて来た。 『オ。はや見えたか。これに御案内しろ』 呂布は、軽く命じて、けろりと澄ましているが、玄は驚い み一と 関羽は張飛を諭した。 紀霊は、敵の大将だ。しかも交戦中である。あわてて席を立 『貴様、それほどまで、呂布を疑って万一を案じるなら、なち、 ぜ、命がけでも、守護するの覚悟をもって、家兄のお供をして 『お客のようですから、私は失礼しておりましよう』 呂布の陣へ臨まないか』 と、避けてそこを外そうとすると、呂布は押止めて、 飛は、唾するように、 『いや、今日はわざと、足下と紀霊とを、同席でお呼びしてあ 『一打くさー 言が行かずにいるものか』と、玄總に従って、自るのだ。まあ、相談もあるから、そこへかけておいでなさい』 おそ もつけ はす こわ 362
た。それに法んで、薛蘭が逃げ出してゆくと、曹操の陣後かをくれて逃げてしまった。 や 箭は彼の首すじを射わが城門の下まで引揚げて来た。だが、呂布はあッと駒を締 ら、呂虔がひょうッと一箭を放った。 せつらん きょちょ と眼をみはった。 貫いたので、許楮の手を待っ迄もなく、薛蘭も馬から転げ落ちめて立ち竦んだ。こま抑、 城門の吊橋が跳ね上げてあるではないか。何者が命令したの か。彼は、怒りながら、大声で、濠の向うへ呶鳴った。 奄州の城は、そうして、曹操の手に還った。が、曹操は、 ! くよ・フ ねじろせま 『門を開けろ。ーーー橋を下ろせ ! ばかっ』 『この勢で濮陽も収めろ』と、呂布の根城へ逼った。 - 一ひょ・つ すると、城壁の上に、小兵な男が、ひょッこり現れた。嘗て 呂布の謀臣陳宮は、 はんかんしょ は呂布のために、曹操の陣へ、反間の偽書を送って、曹軍に致 『出ては不利です』と、籠城をすすめたが、 でんし 命的な損害を与えた土地の富豪の田氏であった。 『ばかを云え』と、呂布はきかない。 『いけませんよ。呂大将』 例の気性である。それに、曹操の手心もわかっている。一気 ちょうしよう えんしゅう 田氏は歯を剥いて城壁の上から嘲笑を返した。 に撃滅して、州もすぐ取返さねば百年の計を誤るものだと、 『きのうの味方もきようの敵ですからね。わたくしは初めから 全城の兵を繰出して、物々しく対陣した。 呂布の勇猛は、相変らずすこしも老いていない。むしろ年と利のあるほうへ附くと明言していたでしよう。元々、武士でも ばんぶふとう なんでもない身ですから、きようからは曹将軍へ味方すること 共にその騎乗奮戦の技は神に入って、文字どおり万夫不当だ。 はたいろ とうもあちらの旗色のほうが良さそうですから まったく戦争する為に、神が造った不死身の人間のようであつに極めました。・ よ。 : へへへへ』 『おうつ、自分にふさわしい好敵手を見つけたそ』 許楮は、見事なる敵将の呂布を見かけると、自分までが甚し 呂布は牙を噛んで、 く英雄的な精神を昻められた。 せんみん 『ゃいつ、開けろ、城門を開けおらんか。うぬ、憎ッくい賤民 『いで、あの敵を ! 』と、目がけてかかった。 め、どうするか見ておれ』 だが、呂布は、彼如きを近づけもしないのである。許楮は、 とうする事もできないのみ 歯がみをして彼の前へ前へと、しつこくつけ廻った。そして戟と、ロを極めて罵ってみたが、・ か、城壁の上の田氏は、 を合わせたが、勝負はつかない 弟 『もうこの城は、お前さんの物ではない。曹操様へ献上したの そこへ、悪来典韋が、『助太刀』と、喚きかかったが、この 賢 だ。さもしい顔をしていないで、足元の明るいうちに、何処へ 両雄が、挾撃しても、呂布の戟にはなお余裕があった。 かこうじゅん いや、なんともお気の毒なこと 折から又、夏侯惇其他、曹操幕下の勇将が六人もここへ集までも落ちておいでなさい。 兄 今こそ呂布を遁すなとばかりにである。 呂布で』 ちょうろうあ は、危険を悟ったか、さっと一角を蹴破るや否や、赤兎馬に鞭と愈、嘲弄を浴びせかけた。 りよけん ひる のが わめ と 277
洋′、ーん とばかり、袁紹のまわりには、旗本の面々が、鉄桶の如く集と、赤兎馬を向けて、驀進して来る呂布の眼光を見ると、胆 れ ) ン一み、み、 まって、是を固めるやら、 を冷やして、一支えもなし得ず、逃げ走ってしまった。 「ロほどにもない奴、その首を置いてゆけ』 『退くなツ』と、督戦するやら、 ナこかかる 气かかれ、かかれつ』 千里を走るという駒の蹄から砂塵をあげて追いかーし よ・一あし 『呂布、何者』 と、その時、横合から突として、 えんじんちょうひ 『総がかりにして討取れ』 『待てつ、呂布。燕人張飛ここにあり。その首から先に貰っ などと、口々には励ましたが、誰あって、生命を捨てに出るた』 じやほこ あびきようかんほんばろうへい と、一丈余りの蛇矛を舞わして、りゅうりゅうと打ってかか 者はない。ただ陣中は混乱を極め、阿鼻叫喚、奔馬狼兵、ただ せいキ、 った男があった。 濛々の悽気が渦まくばかりであった。 その間に、 てきしようえんしようげんぎん 四 『呂布なり、呂布なり。ーー曹操に会おう。敵将袁紹に見参 せん。 曹操は何処にありや』 『何ッ』 と、明らかに、呂布の声が聞えたが、袁紹は逸早く雑兵の群呂布は赤兎馬を止めて、きっと振返った。 とらひげ れへ紛れこんでいたので、遂に彼の眼に止まらず、呂布の赤兎見れば、威風すさまじき一個の丈夫だ。虎髯を逆立て、牡丹 あらし おおほ・一 馬は、暴風のごとく、陣の一角を突破して、更に、次の敵陣をの如き口を開け、丈八の大矛を真横に抱えて、近づきざま打っ っ学 ) 0 いかにも凜々たるものであっ てかかろうとして来る容子。 蹴ちらしこ、、 ・一うそんさん たが、その鉄甲や馬装を見れば、甚だ貧弱で、敵の一馬弓手に それこそは、劉備玄徳等の従軍していた公孫環の陣地だった のである。 すぎないと思われたから、 『下郎つ。退れッ』 呂布は、直ちに、林立する幡旗を目がけて、 『公孫環。出合えっ』 と、呂布はただ大喝一つ与えたのみで、相手に取るに足らん ちよとっ と、猪突して行った。 とばかりそのまま又進みかけた。 数十旒の営旗は、風に伏す草の如く、たちまち、赤兎馬に蹴張飛は、その前へ迫って、駒を躍らせ、 りゅうびげんとく 劉備玄徳の下に、かくいう張飛の ちらされて、戟は飛び、槍は折れ、鉄弓も鉄鎚も、まるで用を 『呂布。走るを止めよ。 関 なさなかった。 あることを知らないか』 かす 『おのれ、よくも』 早くも、彼の大矛は、横薙ぎに赤兎馬のたてがみをさっと掠 牢 公孫環は、歯がみをして、秘蔵の戟を舞わし、近づいて戦わめた。 まなじり 呂布は、眦をあげて、 虎んとしたが、 『この足軽め』 『居たかっ』 そうそう はーんキ、 てっとう じよ・つふ もと ばたん 775
して、生涯を長く楽しもう。 : : : 嫌か、ウム、嫌ではあるま 『でも、太師は常に、呂布はわが子も同様だと仰っしやってい 巻らっしゃいましよ、つ。 し』 ですから私も、太師の御養子と思っ のて、敬まっていたんです。それを今日は、恐い血相で、戟を持次の日 星「て私を脅し、むりやりに儀亭に連れて行「てあんなことを李儒は改まって、董卓の前に伺候した。ゅうべ、呂布の私邸 を訪い、恩命を伝えたところ、呂布も、深く罪を悔いておりま 羊なさるんですもの : : : 』 と報生ロしてから、 『いや、深く考えてみると、悪いのは、そなたでも呂布でもな おろ 『きようは幸に、吉日ですから、貂蝉を呂布の家にお送りあっ かった。この董卓が愚かだった 貂蝉、わしが、媒ちし てはいかがでしよう。ーー彼は単純な感激家です。きっと、感 て、そなたを呂布の妻にやろう。あれはど忘れ難なく恋してい 涙をながして、太師の為には、死をも誓うにちがいありませ る呂布だ。そなたも彼を愛してやれ』 眼をとじて、董卓がいうと、貂蝉は、身を投げて、その膝にん』 と、云った。 とり縋った。 『なにを仰っしゃいます。太師に捨てられて、あんな乱暴な奴すると董卓は、色を変じて、 像の妻になれというのですか。嫌なことです、死んだって、そ『たわけたことを申せ。ーーー李儒つ、そちは自分の妻を呂布に やるかっ』 んな辱しめは受けません』 いきなり董卓の剣を抜き執って、咽に突き立てようとしたの李儒は、案に相違して、唖然としてしまった。 しやが しゆれんほうだい 董卓は早くも車駕を命じ、珠簾の宝台に貂蝉を抱き乗せ、扈 で、董卓は仰天して、彼女の手から剣を奪りあげた。 ようよう じゅう びう 従の兵馬一万に前後を守らせ、塢の仙境をさして、瑤々と発 貂蠅は、慟哭して、床に伏しまろびながら、 『 : : : わ、わかりました、これはきっと、李儒が呂布に頼まれしてしまった。 て、太師へそんな進言をしたにちがいありません。彼の人と呂 布とは、いつも太師のいらっしやらない時というと、密々話し ていますから。 : そうです。太師はもう、私よりも、李儒や 呂布の方がお可愛いんでしよう。わたしなどはもう : 董卓は、やにわに、彼女を膝に抱きあげて、泣き濡れている その頬やその唇へ自分の顔をすり寄せて云った。 じようだん 『泣くな、泣くな、貂蝉、今のことばは、冗戯じゃよ。なんで しろ 明日、塢の城へ帰 そなたを、呂布になど与えるものか。 ろう。城には、三十年の兵糧と、数百万の兵が蓄えてある、 きひ 事成れば、そなたを貴妃とし、事成らぬ時は、富貴の家の妻と董師、塢へ還る。 うや すが びじよう おど どう - 一く ひそひそ ひざ てん 天 びう びよ、つ と聞えたので、長安の大道は、拝 236
いうので、度々、出仕をすすめるのだった。 呂布もふと、 呂布の眼は、烙になっていた。その全身は、石の如く、去る 『そうだ。出仕もせず、お見舞にも出なくては、申訳ない』 のを忘れていた。貂蝉は、病人の視線を隠すと、その姿を振向 さめぎめ 気を持ち直したらしく、久しぶりで、相府へ出向いた。 いて、片手で袖を持って、眼を拭った。 : : : 潸々と、泣いてみ そして、董卓の病床を見舞うと、董卓は、もとより、彼の武せているのである。 勇を愛して、ほとんど養子のように思っている呂布のことであ ( ーー辛い。わたしは辛い。想っている御方とは、語らうこと るから、いっか、叱って追い返したようなことは、もう忘れてもできず、こうして、何日まで、いにもない人と一室に暮らさな いる顔で、 ければならないのでしよう。貴郎は無情です。ちっとも此頃 『オオ、呂布か、そちも近頃は、体が勝れないで休んでいると せめて、お姿を見るだけで は、お姿を見せてくださらないー いう事ではないか。・ とんな容体だの』と、かえって病人から慰も、わたしは人知れず慰められているものを ) められた。 元より声に出しては云えなかったが、彼女の一滴一滴の涙 まっげ 『大したことではありません。すこしこの春に、大酒が過ぎた と、濡れた睫毛と、物云えぬ唇のわななきは、一一一一口葉以上に、惻 あんばいです』 惻と、呂布の胸へ、その想いを語っていた そなた 呂布は、淋しく笑った。 『 : : : では、では、 ( 女は』 かたわ ちょうせん そしてふと、傍らにある貂蝉のほうを眼の隅から見遣ると、 呂布は、断腸の思いの中にも、体中の血が狂喜するのをどう おびもすそ この半月の余は、董卓の枕元について帯も裳も解かす、誠心か しようもなかった。盲目的に彼女のうしろへ寄っ、て行った。そ うなじいだ ら看護して、すこし面窶れさえして見える容子なのでーーー呂布して、その白い頸を抱きすくめようとしたが、屏風の角に、剣 しっと はいかん はたちまち、むらむらと嫉妬の火に全身の血を燃やされて、 の佩環が引っかかったので、思わず足を竦めてしまった。 ( 初めは、、いにもなくゆるした者へも、女はいっか、月日と共 『呂布つ。何するか』 たいかっ に、身も心も、その男に囚われてしまうものか ) と、遣る方な病床の董卓は、とたんに、大喝して身を擡げた。 く、煩悶しだした。 せき、 四 董卓は、咳入った。 その間に、呂布は、顔いろを覚られまいと、牀の裾へ退い 呂布は、狼狽して、 しよう 『いや、べつに : そして董卓の背をなでている貂蝉の真白な手を、物に : 』と、牀の裾へ退りかけた。 ひたい やまい 憑かれた人間のように見つめていた。 『待てつ』と、董卓は、病も忘れて、額に青すじを立てた。 たわむ めす すると、貂蝉は、董卓の耳へ、顔をすりよせて、 」。今、おまえは、わしの眼を倫んで、貂蝉へ戯れようとした ちょうき みたら よ。 わしの寵姫へ、猥な事をしかけようとしたろう』 痴『すこし静かに、おやすみ遊ばしては : ふすま と囁いて、衾を蔽い、自分の胸をも、上から被せるようにし 『そんな事はしません』 っ おもやっ とら 、、と すぐ かぶ しようすそ みや や 229
ほ . ルレ」・つ 『勝機は今 ! 』と、確信したものか、奔濤の勢をそのまま揚げ風のごとく、共に橋をこえていた。 て、直ちに、、 沛まで詰寄せて来た。 『あれよ ! 呂布が』と、味方の兵は、弓に矢をつがえたが、 から ここには、関羽、張飛が、『御座んなれ』と、備えていた。 何分、主人の玄徳と、呂布の体が殆ど一体になって絡み合った あらて 敵を代えて、呂布は、新手の玄徳軍と猛戦を開始した。 まま、だーっと城門内まで馳けこんでしまったので、 こうじゅんちょうりよう 高順、張遼の二陣は、張飛の備えに打ってかかり、呂布自 『もし、主人を射ては』と、手も恟んで、遂に一矢も放っこと 身は、関羽に当った。 ができオ よかった。 らんせん にくとうけんげき たちふさ 乱箭の交換に、雲は叫び、肉闘剣戟の接戦となって、鼓は裂もちろん呂布の前には、忽ち、十騎二十騎と立塞がったが、 おおほこ ちかぜにじ け、旗は折れ、天地は震撼した。 彼の大戟が呼ぶ血風の虹をいよいよ壮絶にするばかりだった。 その間に。 だが、なんといっても、玄徳の小沛勢は小勢である。張飛、 ちょうりよう 関羽がいかに勇なりといえど、呂布の大軍には抗し得なかっ 呂布につづく高順、張遼の軍勢も、またたくうち橋を渡っ ろうだいじようカくほのおは て、城門内を理めてしまい、楼台城閣は炎を吐き、小沛の小城 当然、敗退した。 は今や完全に、彼の蹂躙するところとなってしまった。 城中へ城中へと先を争って逃げてゆく、その小勢のなかに、 玄徳のうしろ姿を見つけた呂布は、 だいじじ 『大耳児。待て』と、呼びかけた。 玄徳は生れつき耳が大きかった。兎耳と綽名されていた。そ れ故に呂布はそう叫んだのである。 玄徳は、その声に、 せんりつ 『追いっかれては 』と、戦慄した。 きようの呂布の血相では、所詮、口さきで彼の戟を避けるこ とは出来そうもない。 ほどこ 『逃げるに如くなし』 今は施すすべもない。なにをかえりみている遑もない。業火 きようかん 玄徳は、うしろも見ず、馬に鞭打った。 と叫喚と。 1 一うきよう 雨 ところが、余りに、追迫されたので、彼が、城門の濠橋まで そして味方の混乱が、否応もなく、玄徳を城の西門から押し 白来てみるともう橋はあげてある。 出していた。 つり 風『玄徳なるそ、吊橋を下ろせ』 火の粉と共に、われがちに、逃げ散る兵の眼には、主君の姿 黒城中の兵は、彼の姿にあわてて、内から門をひらき、橋を渡も見えないらしい したが。ーー玄徳が急いで逃げ渡ろうとするまでに、呂布も、疾玄徳も逃げた。 し しんかん うさみみあだな 黒風白雨 ふう じゅうりん すく
たいしゅおうきよう そのうちに寄手の陣頭から、河内の太守王匡、その部下の猛 関寺方悦と共に、 『呂布を討って取れ』 牢 と、呼ばわりながら、河内の強兵をすぐって、呂布の軍へ迫 敵が打鳴らす鼓の轟きを耳にしながら、 示しておこう』 『動くな。近づけろ』 袁紹は、曹操へ耳打した。 呂布は、味方を制しながら、落着き払っていたが、やがて敵 曹操も、同感であるとて、さっそく評議をひらき、軍の方針味方、百歩の間に近づいたと見るや、 も明かにした。 『それつ、みな殺しにしてしまえ』 敵が、二手となって、南下して来たので、当然、こちらの兵と号令一下、呂布自身も、跨れる赤兎馬に鉄鞭一打くれて、 力も二手とした。 むらがる河内兵の中へ突入して行った。 で、一部を汜水関に残し、あとの軍勢は挙げて、虎牢関に向『わッしよっ』 かけ′一え うこととなった。総兵力は八カ国といわれ、その八諸侯は、王呂布の懸声だ。 きようほうしんきよう ! ・フえんい こうゆうちょうようとうけんこうそんさん がかんほうてんげき 匡、鮑信、喬、袁遺、孔融、張楊、陶謙、公孫環などであっ 画桿の方天戟を、馬上から右に左に。 『えおオっー 曹操は、遊軍として臨んだ。味方の崩れや弱みを見たら、随と振るたびに、敵兵の首、手足、胴など血けむりと一緒に 意に、そこへ加勢すべく、遊兵の一陣を擁して、控えていた。吹き飛んでゆくかと見えた。 暑 - キ、レ J 『 : : : 来たな』と、北軍の呂布は、例の名馬赤兎に跨り、虎牢『ゃあ、ロほどもないそ、寄手の奴輩、呂布これにあり。呂布 関の前衛軍のうちから、悠々、寄手の備えをながめていた。 に当らんとする者はないのか』 呂布、その日のいでたちは。 傲語を放ちながら、縦横無尽な疾駆ぶりであった。 あかじにしき かせんばう れんかんよろい 朱地錦の百花戦袍を着たうえに、連環の鎧を着かさね、髪は無人の境を行くが如しとは、正に、彼の姿だった。何百とい さんしやっか しきんかん ししひ かわきゅうせん がいしゅ・つしよく 三叉に束ね、紫金冠をいただき、獅子皮の革に弓箭をかけ、手う雑兵が波を打ってその前を遮っても、鎧袖一触にも値しない ほうてんげき に大きな方天戟をひっさげて、赤兎馬も小さく見えるばかり踏のである。 み跨った容子はーー寄手の大軍を圧して、 馬は無双の名馬赤兎。その迅さ、強靱さ、逞しさ。赤兎の蹄 『あれこそ、呂布か』と眼をみはらせるばかりだった。 に踏みつぶされる兵だけでも、何十か何百か知れなかった。 うた 洛陽童子でも、それは唄にまで謡っている まきば 牧場に駒は多けれど 馬中の一は 赤兎馬よ 洛陽人は多けれど 勇士の一は りよふほうせん 呂布奉先 ごげんぐんりよふ 従って、かねて聞く五原郡の呂布を討ち取った者こそ、こん かだい おう と やつばら ひづめ 〃 3
おちい か、寄手の陣形は乱脈に陥り、流一 = ロ、同士討、退却、督戦、又へ躍り入ると、 『呂布だそ』 混乱、まったく収まりがっかなくなってしまった。 『近づけるな』 『裏切が起った』 りようき がくしゅう ちょうくん と、袁術の将星、梁紀、楽就の二騎が、土砂交りの山肌を辷 夜が明けて、初めて知れた。第一軍張勲のうしろから、第七 トでつ : っ・ 軍の楊窄、第六軍の韓暹が、火の手をあげて、味方へ討ってかるが如く馳け下って来て、呂布を左右から挾んで打ってかか る。 かって来たのである。 『邪魔するな』 と知った呂布は、 がかんほうてん きれし 『今だっ』と、勢を得て、敵の中央に備え立てている紀霊、雷呂布は、馬首を高く立て楽就の駒を横へ泳がせ、画桿の方天 ちんき 薄、陳紀などの諸陣を突破して、またたくまに本営に迫った。 戟をふりかぶったかと思うと、人馬もろ共、一抹の血けむりと うしろ 楊奉、韓暹の手勢は、その左右から扶けた。袁術の大軍二十なって後に仆れていた。 - 1 がらし 万も凩に吹き暴らさるる木の葉にもひとしかった。 『鬼・法っ』 りよ、つき 呂布は、無人の境を行くごとく、袁術いずこにありやと、馳逃ぐるを追って、梁紀の背へ迫ってゆくと、横あいから、 びよう けまわっていたが、そのうちに彼方の山峡から一飃の人馬が駈『呂布、待て』と、敵の大将李豊、捨身に槍をしごいて、突ッ かけてくる。 け出でてさっと二手にわかれ、彼の進路をさえぎったかと思う たく 同時に、四沢の岩石が一度になだれ落ちてくるかのように、 と、突然、山上から声があった。 おびただ 『匹夫呂布、自ら死地をさがしに来たるかっ』 袁術の旗下や部下の夥しい人馬が駈け寄せ、 『呂布を討て』と、喚き合った。 りゅうほうはんこうら と、驚いて見あげると、日月の旗、童鳳の幡、黄羅の傘を揺『虎は罠にかかったそ』 きんか 揺と張らせ、左右には、金瓜、銀斧の近衛兵をしたがえた自称袁術も、山を降りて、味方のうしろから督戦に努め、 ごうぜん えんじゅっ 『呂布の首も、今こそ、わが手の物』と、小気味よげに、指揮 帝王の袁術が、黄金のよろいに身をかためて、傲然と見下ろし ていた。 をつづけていた。 ところへ、昨夜、内部から裏切って、前線の味方を攪乱した かんせんようまう 韓暹、楊奉の二部際が、突然、間道を縫って、谷あいの一方に 冠雲間の童を見て吼える虎のように、呂布は、袁術のいる所をあらわれ、袁術の中軍を側面から衝いた。その為、 仰いで云った。 も , つ一自ー 長 と、 いうところで、呂布を討ちもらしたばかりか、形勢は逆 『おうつ、われ今そこへ行かん。対面して、返辞をしよう。う ごくな袁術っ』 転して、呂布と裏切者のために、袁術は追いまくられ、峰越え 増 馬をすすめて、中軍の前備えを一気に蹴ゃぶり、峰ふところ に高原の道二里あまりを、命からがら逃げのびて来た あ かんせん ぎんふ カ、 ひきょ・つ わな かくらん