太守 - みる会図書館


検索対象: 三国志(一) (吉川英治)
98件見つかりました。

1. 三国志(一) (吉川英治)

てしまった。 『お劇等はど、つ思 , っ』 びじくちんとう 枕頭に立 0 ている重臣の糜竺、陳登のふたりへ、釶い眸をあ そのうちに、陶謙は、ついに息をひきとってしまった。 げて云った。 徐州は喪を発した。城下の民も城士もみな喪服を着け、哀悼 『ことしは、いなごの災害のために、曹操も軍をひいたが、来のうちに籠った。そして葬儀が終ると、玄徳は小浦へ帰った けんどちょうらい おとず 春にでもなれば又、捲土重来してくるだろう。その時、ふたた が、すぐ糜竺、陳登などが代表して、彼を訪れ、 び又、呂布が彼の背後を襲うような天佑があってくれれば助か『太守が生前の御意であるから、まげても領主として立ってい るが、そういつも奇蹟はあるまい。わしの命数も、この容子でただきたい』 はいっとも知れないから、今のうちに是非、確たる後継者をき と、再三再四、懇請した。 めておきたいが』 すると、又、次の日、小沛の役所の門外に、わいわいと一揆 『。こもっともです』 何事かと、関羽、張飛を従 のような領民が集まって来た。 びじく 糜竺は、老太守の意中を察しているので、自分からすすめた。 えて、玄徳が出てみると、何百とも知れない民衆は、彼の姿を りゅうげんとく 『もう一度、劉玄徳どのをお招きになって、懇ろにお心を訴えそこに見出すと、 りゅうび てごらんになっては如何ですか』 『オオ、劉備さまだ』と、一斉に大地へ坐りこんで、声をあわ 陶謙は、重臣の同意を得て、少しカづいたものの如く、 せて訴えた。 わざわい 『早速、使を派してくれ』と、云った。 『わたくし共百姓は、年々戦争には禍され、今年はいなごの しようはい 使をうけた玄徳は、取る物も取りあえす、小沛から馳けつけ災害に見舞われて、もうこの上の望みと云ったら、よい御領主 て、太守の病を見舞った。 様がお立ちになって、御仁政をかけて戴くことしかございませ 陶謙は、枯木のような手をのばして、玄徳の手を握り、 ん。もし、あなた様でなく他の御方が、太守になるようでもあ み一まよ 『あなたが、うんと承諾してくれないうちは、わしは安心してったら、私共は、闇夜から誾夜を彷徨わなければなりません。 死ぬ事ができない。どうか、世の為に、又、漢朝の城地を守る首を縊って死ぬ者がたくさん出来るかも知れません』 ′一うきゅう ために、この徐州の地をうけて、太守となってもらいたしか』 中には、号泣する者もあった。 『いけません。折角ですが』 その愍れな飢餓の民衆を見るに及んで、劉備もついに意を決 じよしゅう たいしゅはいいん 玄徳は、依然として、断りつづけた。そして した。即ち太守牌印を受領して、小沛から徐州へ移ったのであ ご ( あなたには、二人の御子息があるのに ) と、理由を云いかける。 たが、それを云うと又、重態の病人が、出来の悪い不肖の実子 の事に就いて、昻奮して語り出すといけないので、ーー玄徳は と一 牛オオ 『私は、その器でありません』と、ばかり頑なに首をふり通し うつわ りゅうげんとく 劉玄徳は、ここに初めて、一州の太守という位置を贏ち得〃 あ しょ・つは、 あいとう

2. 三国志(一) (吉川英治)

してみた。 『ばかをいえ』 公孫環は、むしろ不賛成で、 巻曹操は、今までの徴笑を一喝に変えて云い放った。 『よしてはどうだ。なにも君は曹操に恨みがあるわけでもな の『父や兄の恨みを雪ぐのが、なんでわが声望の失墜になるか、 星君は元来、逆境の頃の予を見捨てて走った男ではないか、人にし、陶謙に恩もないだろうに』 と、止めた。 向って遊説して歩く資格があると思うのか』 群 すた けれど、玄徳は、義の廃れた今、義を示すのは今だと思っ 陳宮は、顔赤らめて、辞し去ったが、その不成功を、陶謙に たいしゅちょうばう ーとま ばくりようちょううん 復命する勇気もなく、そこから陳留の太守張の所へ走ってし た。強いて暇を乞い、又、幕僚の趙雲を借りて、総勢五千人を ひき 率い、曹操の包囲を突破して、遂に徐州へ入城した。 ほうしゅうせつこん かくて「報讐雪恨』の大旗は、曹操の怒りにまかせて、陶謙太守陶謙は、手をとらんばかり玄徳を迎え、 とばかりの勢いで、徐州 の胆を抉り肉を喰らわねば熄まじ 『今の世にも、貴君のごとき義人があったか』と、涙をたたえ 城下へ向って進発した。 行く行くこの猛軍は人民の墳墓をあばいたり、敵へ内通する かしやく 疑いのある者などを、仮借なく斬って通ったので、民心は極端 に恐れわなないた。 徐州の老太守陶謙は、 『曹操の軍には、とても敵しようもない。彼の恨みをうけたは 皆、自分の不徳である。 自分は縛をうけて、甘んじて、彼 、か・ルレ」・つ の憤刀へこの首を授けようと思う。そして百姓や城兵の命乞い を彼に縋ろう』 諸将を集めてそう告げた。将の大部分は、 よみがえ 『そんなことはできません。太守を見殺しにして、なんで自分城兵の士気は甦った。 こりつむえん りゆ・つげんとく 孤立無援の中に、苦闘していた城兵は、思わぬ劉玄徳の来援 等のみ助けをうけられましようや』 ふる らいしゅう に、幾たびも歓呼をあげて振った。 と、策を議して、北海 ( 山東省・莱州 ) に急使を派し、孔子二 たいぎんと いこうちゅう - 一うゆう たす 老太守の陶謙は、『あの声を聞いて下さい』と、歓びに顫え 十世の孫で泰山の都尉孔宙の子孔融に援けを頼んだ。 たいしゅはいいんと ながら、玄徳を上座に直すと、直ちに太守の佩印を解いて、 折から又、黄巾の残党が集結して、各所で騒ぎだしていた。 こうそんさん 『今日からは、この陶謙に代って、あなたが徐州の太守とし 北平の公孫環も、国境へ征伐に向っていたが、その旗下にあっ じよしゅう りゅうびげんとく た劉備玄徳は、ふと徐州の兵変を聞いて、義のため、仁人の君て、城主の位置について貰いたい』 こうそんさん レ」、つ・ 1 ・れ と、云った。 子といううわさのある陶謙を援けに行きたいと、公孫環にはな ゅうぜい さず ほっない かっ かつおう 死活往来 し ふる 258

3. 三国志(一) (吉川英治)

おそ に出ていた呑んだくれの浪人者だぞ』 敢て、媚びず惧れず、こう正直に云ってから更に重ねて、 いつじん ときむな 『われ等恩を久しく領下にうけて、この秋を空しく逸人として『成程。張だ、張だ』 そうろ いざよ かんめす 『あの肉売に、わしは酒代の貸があるんだが、弱ったなあ』 草廬に閑を倫むを潔しとせず、同志張飛共他二百余の有為の ともがら などと群集のあいだから嘆声をもらして、見送っている酒売 輩と団結して、劉玄徳を盟主と仰ぎ、太守の軍に入って、 もあった。 ささか報国の義をささげんとする者でござる。太守寛大、よく 義軍はやがて、郡の府に到着した。道々、風を慕って、日 われ等の義心の兵を加え給うや否や』 月の旗下に馳せ参じる者もあったりして、府城の大市へ着いた と、述べ、終りに、玄徳の手書を出して、一読を乞うた りゅうえん 時は、総勢五百を算えられた。 劉焉は、聞くと、 と、一 『この秋にして、卿等赤心の豪傑等、劉焉の徴力に援助せんと太守は、直ちに、玄徳等の三将を迎えて、その夜は、居館で ま、 1 して訪ねらる、将に、天祐のともいうべきである。なんそ、歓迎の宴を張った。 きしよく 拒むの理があろうか。鹹門の塵を掃き、客館に旗飾を施して、 参会の日を待つであろう』 はたちだい 大将玄徳に会ってみるとまだ年も二十歳台の青年であるが、 と云って、非常な歓びようであった。 ひき かげんちんこう うカカ とこか大器の風さえ窺えるので、太守劉焉 『では、何月何日に、御城下まで兵を率いて参らん』と、約束寡言沈厚のうちに、・ して関羽は立帰ったのであるが、その折、はなしの序に、義弟は、大いに好遇に努めた。 ちゅうざんせいおうえいそん なお、素姓を問えば、漢室の宗親にして、中山靖王の裔孫と の張飛が、先頃、楼桑村の附近や市の関門などで、事の間違い オカと、つかその・璽・に、 から、太守の部下たる捕吏や役人などを殺傷しこ、、、、、、 の罪は免されたいと、一口断っておいたのである。 『さもあらん』と、劉焉はうなずくこと頻りで猶更、親しみを そのせいか、あれつきり、市の関門からも、捕吏の人数はや改め、左右の関、張両将を併せて、心から敬いもした。 って来なかった。いやそれのみか、あらかじめ、太守のほうか折ふし。 せいしゅうたいこうぎん ら命令があったとみえ、劉玄徳以下の三傑に、二百余の郷兵青州大興山の附近一帯 ( 山東省済南の東 ) に跳梁している黄巾 たくぐん - 一ういすう が、突然、楼桑村から郡の府城へ向って出発する際には、関賊五万以上といわれる勢力に対して太守劉焉は、家臣の校尉鄒 にわか 門のうえに小旗を立て、守備兵や役人は整列して、その行を鄭靖を将として、大軍を附与し、遽に、それへ馳け向わせた。 重に見送った。 関羽と、張飛は、それを知るとすぐ、玄徳へ向って、『人の とどま それと、眼をみはったのは、玄徳や張飛の顔を見知っている歓待は、冷めやすいもので御座る。歓宴長く停るべからずで 市の雑民たちで、 す。手初めの出陣、進んで御加勢にお加わりなさい』と、すす むしろうり めた。 云『ゃあ、先に行く大将は、蓆売の劉さんじゃないか』 『その側に、馬に騎って威張って行くのは、よく猪の肉を売り玄は、『自分もそう考えていた所だ。早速、太守へ進言し ゆる さいなん うやま

4. 三国志(一) (吉川英治)

群星の巻 ごしようぐんなんよう たいしゆえんじゅっあざなこうろ 第一鎮として、後将軍南陽の太守袁術、字は公路を筆頭に ミツンヨウ・ササ 天子ノ密詔ヲ捧ゲテ 第二鎮 きしゅうししかんふく 義兵ヲ大集シ 冀州の刺史韓馥 グンキョウソウ / ツ . 群凶ヲ剿滅セントス 第三鎮 イクサタズサ よしゅうしし - 一うちゅ・フ 願ワクパ仁義ノ師ヲ携工 予州の刺史孔仙 来ッテ忠烈ノ盟陣ニ会シ 第四鎮 えんしゅうししりゅうたい 上、王室ヲ扶ケ 竟州の刺史劉岱 ンモレイ、、、ン 下、黎民ヲ救ワレョ 第五鎮 かだいぐんたいしゅおうきよう 檄・又到ランノ日 河内郡の太守王匡 ホウコウ ソレ速カニ奉行サル・ヘシ 第六鎮 よろん ちんりゅうたいしゅちょうばう 『これこそ、我々が待っていた天の声である。地上の輿論であ陳留の太守張 る。太守、何を迷うことがありましよう。よろしく曹操と力を第七鎮 あわ とうぐんたいしゆきようばう 協すべき秋です』 東郡の太守喬瑁 ほくしようほうしんあざないんせし せいりよう要とう 幕将は、ロを揃えて云った。 そのほか、済北の相、鮑信、字は允誠とか、西涼の騰とか、 こうそんさん えんしよう たが』と、袁紹は、なお少し、ためらっている風だっ 北平の公孫墳とか、宇内の名将猛士の名は雲の如くで、袁紹の 兵は到着順とあって、第十七鎮に配せられた。 『曹操が、密詔をうけるわけはないがなあ ? 『自分も参加してよかった』 『よいではありませんか。たとえ密詔をうけていても、居なく ここへ来て、その実状を見てから、袁紹も、いからそう思っ ても。その為すことさえ、正しければ』 た。時勢の急なるのに、今更驚いたのである。 『それもそうだ』 四 袁紹も遂に肚をきめた。 評定の一決を見ると、さすがに名門の出であるし、多年の人第一鎮から第十七鎮までの将軍はみな、一万以上の手兵を率 望もあるので、兵三万余騎を立ちどころに備え、夜を日につい いて各、トの本国から参集して来た一方の雄なのである。 で、河南の陳留へ馳せのばった。 その中には又、どんな豪強や英俊が潜んでいるかも知れなか えんしよう 来てみると、その旺なのに袁紹も驚いた。軍簿の到着に筆をつた。 しんえんこうりゅう とりながら、重なる味方だけを拾ってみると、その陣容は大し わけて、第十六鎮の部隊には、時を待っていた深淵の蛟竜が たものであった。 こうそんさん まず 北平の太守で奮武将軍の公孫墳がその十六鎮の軍であった ヤ おも ちん ノ 58

5. 三国志(一) (吉川英治)

どの大戦第一の勲功となろうとはーー寄手もひとしく思い目が 巻けているところだった。 の河内の猛将方脱は、 星『われこそ』 と、呂布へ槍を突っかけたが、二、 三合とも戦わぬまに、呂 呂布にはもう敵がなかった。 群 布の方天戟の下に、馬もろ共、斬り下げられた。 無敵な彼のすがたは、ちょうど万朶の雲を蹴ちらす日輪のよ うだった。 太守王匡は、又なき愛臣を討たれて、 『おのれ、匹夫』 彼の行くところ八州の勇猛も顔色なく、彼が馳駆するところ みずかはんげつそう と、自ら半月槍を揮って、呂布へ駒を寄せ合わせたが、『太八鎮の太守も駒をめぐらして逃げまどった。 守危し』と、加勢にむらがる味方がばたばたと左右に噴血を撒袁紹も、策を失って、『どうしたものか』と、曹操へ計った。 うでこまぬ いて討死するのを見て、色を失い、あわてて駒を引返した。 曹操も腕拱いて、 『王匡、恥を忘れたな』 『呂布のごとき武勇は、何百年にひとり出るか出ないかと云っ 呂布がうしろから笑った。然し、王匡の耳には入らなかってもよい人中の鬼神だ。おそらく尋常に戦っては、天下に当る 者はあるまい この上は、十八カ国の諸侯を一手として、 きようばうぐんえんいぐん もっともその時。味方の危機と見て、喬瑁軍と袁遺軍の二手遠巻に攻め縮め、彼の疲れを待って、一斉に打ちかかり、生擒 の勢が、呂布の兵を両翼から押し狭めて、 りにでもするしか策はありますまい』 わあッっ・ 『自分もそ、つ思、つ』 したた うわあ : : ・・つッ と、袁紹はすぐ軍令を認めて、汜水関の方面に抑えとしてあ と、鼓を鳴らし、矢を射、砂煙をあげて、牽制して来たのだる十カ国の諸侯へ向け、にわかに、伝令の騎士を矢つぎ早に発 赤兎馬は、法まない。たちまち、その一方に没したかと見る すると。 と、そこを蹂躙し尽して、又たちまち、一方の敵を蹴ちらすと その伝令が十騎と出ない間に、 いう奮戦ぶりだった。 『呂布だっ』 じよ・つと・つたいしゅちょうようきか ばくじゅん 上党の太守張楊の旗下に、穆順という聞えた名槍家があっ 『呂布来る』 た。その穆順の槍も呂布と戦っては、苦もなく真二つにされて と、耳を突き抜くような声がしはじめた。 しまった。 さながら怒濤に押されて来る芥のように、味方の軍勢が、ど こうゆう ぶあんこく 北海の太守孔融の身内で、武安国という大力者があったが、 っと、味方の本陣へ逃げくずれて来た。 あか 1 一 それも、呂布の前に立っと、嬰児のように扱われ、重さ五十斤『素破』 っ学 ) 0 ひる という鉄の槌も、 いたずらに空を打つのみで、片腕を斬り落さ れ、ほうほうの態で味方のうちへ逃げこんでしまった。 あくた ばんだ

6. 三国志(一) (吉川英治)

玄徳は驚いて、 と、側から一ズった。 『飛んでもないことです』と、極力辞退したが、 し・かに、も』 きくならく かんそうしつ 『いやいや、聞説、あなたの祖は、漢の宗室というではない 二人もうなずいて、即刻、評議をひらき、軍備を問い、その じようらんしず か。あなたは正しく帝系の血をうけている。天下の擾乱を鎮上で、一応はこの解決を外交策に訴えてみるも念の為であると おう - 一う しやしよくたす りゅうげんとく そうそう ていせんかんこく め、紊れ果てた王綱を正し、社稷を扶けて万民へ君臨さるべき して、劉玄徳から曹操へ使を立て、停戦勧告の一文を送った。 資質を持っておられるのだ。 この老人の如きは、もうなん 曹操は、玄徳の文を見ると、 いたず あだごと の才能も枯れている。徒らに、太守の位置に恋々としているこ『何。 : : : 私の讐事は後にして、国難を先に扶けよと。 ふそんやっ とは、次に来る時代の黎明を遅くさせるばかりじゃ。わしは今備ごときに説法を受けんでも、曹操にも大志はある。不遜な奴 の位置を退きたい。それを安んじて譲りたい人物も貴公以外にめが』 びちゅう は見当らない。どうか微衷を酌んで曲げても御承諾ねがいた と、それを引っ裂いて、 しりぞ し』 『使者など斬ってしまえ』と、一喝に退けた。 えんしゅう 陶謙のことばには真実がこもっていた。うわさに聞いていた 時しもあれ、その時、彼の本領地の奄州から、続々早打が駆 通り、私心のない名太守であった。世を憂い、民を愛する仁人けつけて来て、 りよふ えんしゅう であった。 『たいへんです。将軍の留守を窺って、突如、呂布が奄州へ攻 けれど劉備玄徳は、なお、 めこみました』 ろうだい 『自分はあなたを扶けに来た者です。若い力はあっても、老台 と、次々に報せが来た。 のような徳望はまだありません。徳のうすい者を太守に仰ぐの りよふ は、人民の不幸です。乱の基です』 呂布がどうして、曹操の空巣をねらってその根拠地へ攻めこ と、どうしても、彼も又、固辞して肯き容れなかった。 んできたのであろうか か・ヘわじりつ 張飛、関羽のふたりは、彼のうしろの壁際に侍立していた彼も、都落ちの一人である。 りかく 李催、郭汜などの一味に、中央の大権を握られ、長安を去っ りち えんじゅっ 『つまらない遠慮をするものだ。どうも大兄は律義すぎて、現た彼は、一時、袁術の所へ身を寄せていたが、その後又、諸州 ちんりゅうちょうばう 代人で無さ過ぎるよ、 : よろしいと、受けてしまえばよ を漂泊して陳留の張を頼り、久しくそこに足を留めていた。 はがゆ あるひ 来 に』と、歯痒そうに、顔見合わせていた。 すると一日、彼が閣外の庭先から駒を寄せて、城外へ遊びに 出かけよ、つとしていると、 往老太守の熱望と、玄徳の謙譲とが、お互いに相手を立ててい びじく ああ 活るのに果しなく見えたので、家臣糜竺は、 『噫、近頃は天下の名馬も、無駄に肥えておりますな』 つぶや 死 『後日の問題になされては如何ですか。何分城下は敵の大軍に 呂布の顔の側へきて、わざと皮肉に呟いた男があった。 満ちている場合ではあるし』 かくし うかが たす 259

7. 三国志(一) (吉川英治)

わか にいる万民にお頒ちください。それが私の希望であり、又私の兵馬は、粛々、彼の郷土から立って行った。劉玄徳の母は、 巻商魂と申すものでございます』 それを桑の木の下からいつまでも見送っていた。泣くまいとし 6 の玄徳や関羽は、彼の言を聞いて大いに感じ、どうかしてこのている眼が湯の泉のようになっていた。 園人物を自分等の仲間へ留め置きたいと考えたが、張は、 「いやどうも私は臆病者で、とても戦争なさる貴方がたの中に いる勇気はございません。なにか又、お役に立っ時には出て来 ますから』と云って、倉皇、何処ともなく立ち去ってしまっ 千斤の鉄、百反の織皮、五百両の金銀、思いがけない軍費を 獲て、玄徳以下三人は、 『これぞ天の御援助』 と、いやが上にも、、いは奮い立った。 ゅうしゅうたくぐん それより前に、関羽は、玄徳の書を携えて、幽州冴郡 ( 河北 早速、近郷の鍛冶工をよんで来て、張飛は、一丈何尺という じやほ - 一う りゅうえん えんげつとう 蛇矛を鍛ってくれと注文し、関羽は重さ何十斤という偃月刀を省・保定府 ) の太守劉焉の許へ使していた。 ちょうどう 鍛えさせた。 太守劉焉は、何事かと、関羽を城館に入れて、庁堂で接見し ぞうひょうてつこう 雑兵の鉄甲、盗、槍、刀なども併せて誂え、それも日ならずた。 して出来てきた。 関羽は、礼を施して後、 じっげつ 日月の旗幟。 『太守には今、士を四方に求めらるると聞く。果して然りや』 飛童の幡。 と、訊ねた。 くらやじり 鞍、鏃。 関羽の威風は、堂々たるものであった。劉焉は、一見して、 これじんじようじん ふそんとが 軍装はまず整った。 是尋常人に非ずと思ったので、その不遜を咎めず、 その頃漸く人数も二百人ばかりになった。 『然り。諸所の駅路に高札を建てしめ、士を募ること急なり。 もとより天下に臨むには足りない急仕立の一小軍でしかなか 卿も亦、檄に応じて来たれる偉丈夫なるか』と、云った。 そこで関羽は、 ったが、張飛の教練と、関羽の軍律と、劉玄徳の徳望とは、一 こうしよく 卒にまでよく行き亙って、あたかも一簡の体のように、 二百の 『さん候。この国、黄賊の大軍に攻蝕せらるること久しく、 きよしゆとうそく ひはい みんそう 兵は挙手踏足、一音に動し 太守の軍、連年に疲敗し給い、各地の民倉は、挙げて賊の毒手 ひやくしようそうせい おっ母さん。行って参ります』 にまかせ、百姓蒼生みな国主の無力と、賊の暴状に哭かぬは 劉玄徳は、一日、武装して母にこう暇を告げた。 なしと承る』 はん あるひ しよくひ そう - 一う あつら そうろう

8. 三国志(一) (吉川英治)

て候』 と、名乗って来る者や、 はいこくしようぐん かこうじゅんかこうえん ・・ーー自分等は沛国譓郡の人、夏侯惇、夏侯淵と云う兄弟の者も、 ですが、手兵三千をつれてきました』 と、 いう頼もしい者が現われて来たりした。 尤も、その兄弟は、曹家がまだ郡にいた頃、曹家に養われ て、養子となっていた者であるから、真っ先に馳せつけて来る しる はんとうたく のは当然であったが、 そのはか毎日、軍簿に到着を誌す者は、 さきに都を落ちて、反董卓の態度を明かにし、中央から惑星 いとま ばっかいたいしゆえんしよう 枚挙に遑がないくらいであった。 視されていた渤海の太守袁紹の手もとへも、曹操の檄がやがて み一んよ、つキ一よろく りてんあざなまんせい じよしゅうしし 山陽鉅鹿の人で李典、字は曼成という者だのーー徐州の刺史届いて来た。 とうけん せいりようたいしゅばとう ほくへいたいしゅこうそんさん 陶謙だクーー、西涼の太守馬騰だの、北平太守の公孫墳だの 『曹操が旗をあげた。この檄に対して、なんと答えてやるか』 ほっみルい たいしゅこうゆう 北海の太守孔融なんどという大物が、各こ何千、何万騎という 袁紹は、腹心をあつめて、さっそく評議を開いた 軍を引いて、呼応して来た。 彼の幕下には、壮気にみちた年頃の大将や、青年将校が多か っ・ ) 0 彼の帷幕にはまた、曹仁、曹洪のふたりの兄弟も参じた。 でんほうそじゅきよしゅうがんりよう 一方、それらの兵に対して、曹操は、衛弘から充分の軍費を 田豊。沮授。許収。顔良。 また ひき出して、武器糧食の充実にかかっていた。 しんばい カくと ぶんしゅう 『あのように、軍資金が豊富なところを見ると、彼の檄は、空審配。郭図。文醜。 そ・つそう 文でない。はんとに朝廷の密詔を賜わっているのかも知れん』 などと云う錚々たる人材もあった。 形勢を見ていた者までが、その隆々たる軍備の急速と大規模『誰か、一応、その檄文を読みあげてはどうか』 なのを見て、 とのことに、顔良が、 『然らば、てまえが』と、大きく読み出した。 『一日遅れては、一日の損があるーー、』と云わんばかり、争っ て、東西から来り投じた。 檄 ( 河南の地を兵で埋めてみせん ) 操等、謹ンデ、 ッ 風 大義ヲ以テ天下ニ告グ と、いっか衛弘に云った言葉は、今や空なる豪語ではなくな アザム 南ったのである。 董卓、天ヲ欺キ地ヲ晦マシ 君ヲ弑シ、国ヲ亡ス 従って、富豪衛弘も、投財を惜しまなかった。いや、彼以外 キュウキン カイラン 宮禁、為ニ壊乱 競の富豪までが、みな乞わずして、 きんこく コンレイフジンサイアクジュウ . セキ 『どうか、費ってくれ』と、金穀を運んできた。 狠戻不仁、罪悪重積ス すでに曹操はもう、多くの将星を左右に侍らせ、三運の幕中 に泰然とかまえていて、そういう富豪の献物が取次がれて来て 『あ、左様か。持って来たものなら取っておいてやれ』 と、云うぐらいのもので、会って遣りもしなかった。 トウタク ク一フ わ 7

9. 三国志(一) (吉川英治)

こと草を薙ぐにひとしいと豪語して憚らない。 そうすう 『嘘だろう』 迎えをうけて、曹操の父親の曹嵩は、夢かとばかり歓んだ。 曹操も信じなかったが、 それと共に、周囲へ向って、 『さらば、お目にかけん』と、典韋は、馬を躍らせて、言葉の 『それみろ』と、曹嵩の息子自慢はたいへんなものだった。 あ とおり実演して見せた。ちょうど又、その折、大風が吹いて、 『彼れの叔父貴も、親類共も、曹操が少年時分には行末が案じ なア 営庭の大旗が仆れかかったので、何十人の兵がかたまって、旗られる不良だなどと、ロを極めて、悪く云いおったが ざおたお 竿を仆すまいと犇めいていたが、強風の力には及ばず、あれよ に、あいつは見所があるよと、大まかに許していたのは、わし てんい あれよと騒いでいるのを見て、典韋は、 ばかりじゃった。やはりわしの眼には狂いがなかったんじゃ』 の 『みな退け』と、走りよって、片手でその旗竿を握り止めてし落魄れても、一家四十何人に、召使も百人からいた。それに えんしゅう まったのみか、いかに烈風が旗を裂くほど吹いても、両掌を用家財道具を、百余輛の車につんで、曹嵩一家は、早速、奄州へ よ、つこ。 向って出発した。 、にしえあくらい おと 『ウーム。古の悪来にも劣らない男だ』 折から秋の半だった。 しろきんらんせんばう ふうりんていしゃ 曹操も舌を巻いて、即座に彼を召抱え、白金襴の戦袍に名馬『楓林停車』という南画の画題そのままな旅行だった。老父は を与えた。 時折、紅葉の下に車を停めさせて、 いんちゅうおう だいりきむそう ひとっ曹操に会ったら見 悪来というのは、昔、殷の紂王の臣下で、大カ無双と名のあ『こんな詩ができたがどうじゃ。 まみ一 てんい った男である。曹操がそれにも勝ると称したので、以来、典韋せてやろう』 あだな の綽名になった。 などと興じていた。 じよしゅう ・ : フ、しト 4 ・フ 卩 ) 製、ーレゅ・フ たいしゆとうけん 途中、徐州 ( 江蘇省・徐州 ) まで来ると、太守陶謙が、わざわ ざ自身、郡境まで出迎えに出ていた。そして、 曹操は、一日ふと、 『ぜひ、こよいは城内で』と、徐州城に迎え、二日に亙って下 『おれも今日迄になるには、随分親に不孝をかさねて来た』 へも措かないはど歓待した。 と、故山の父を思い出した。 『一国の太守が、老ばれのわしを、こんなに待遇するはずはな ろうや 曹操が偉いからだ。思えばわしはよい子を持った』 彼の老父は、その頃もう故郷の陳留にもいなかった。瑯耶と 頃 いう片田舎に隠居していると聞くのみであった。 曹嵩は、城内にいる間も、息子自慢で暮していた。 とうけんかね の山東一帯に地盤もでき、一身の安定もっくと、曹操は老父を事実、ここの太守陶謙は予てから曹操の盛名を慕って、折あ 雨そうしておいては済まないと思い出した。 れば曹操と誼みを結びたいと思っていたが、よい機会もなかっ たのである。 ところへ、曹操の父が一家を挙げて、自分の 秋『わしの厳父を迎えて来い』 たいしゅおうしよう ろうや えんしゅう 領内を通過して奄州へ引移ると聞いたので、『それはよい機会 彼は、泰山の太守応劭を、使として、にわかに瑯耶へ向け たお ひし た ちんりゅう て はた おちぶ お おい そうすう 255

10. 三国志(一) (吉川英治)

岳南の佳人 も、玄様に従ってと、残る者もあった。 玄徳等を召捕え、都へ御檻送くださるべしと、促すのだ』 かくて夜に入るのを待ち、手廻りの家財を驢や車に積み、同『、い得ました』 あんきけん 勢二十人ばかりで、遂に、官地安喜県を後に、闇に紛れて落ち早馬は、定州の府へ飛んだ。 て行った。 定州の太守は、 一方の督郵は。 『すわ、大事』と、勅使の名に惧れ、又、督郵の詭弁にも、う あの後、間もなく、下吏の者が寄って来て、役所の中へ抱えまく乗せられて、八方へ物見を走らせ、玄徳たちの落ちて行っ 入れ、手当を加えたが、五体の傷は火のように痛むし、大熱をた先を探させた。 発して、幾刻かは、まるで人事不省であった。 数日の後。 だ - いしゅう だが、軈て少し落着くと、 『何者とも知れず、安喜県の方から代州のほうへ向って、驢車 『県尉の玄徳はどうしたっ』 に家財を積み、十数名の従者つれ、そのうち三名は、驢に乗っ うわ′一と と、囈言みたいに呶鳴った。 た浪人風の人物で、北へ北へとさして行ったという事でありま その玄徳は、官の印綬を解いて、あなたの首へかけると、捨すが』 との報告があった。 て科白を云って馳け走りましたが、今宵、一族をつれて夜逃げ してしまったという噂ですーー。と側の者が告げると、 『それこそ、玄徳であろう。縛め捕って、都へ差立てろ』 『ょに、逃げ落ちたと。 ではあの張飛という奴もか』 定州の太守の命をうけて、即座に鉄甲の迅兵約二百、ふた手 『そうです』 にわかれて、玄徳等の一行を追いかした 『おのれ、この儘、おめおめと無事に、逃がしてなろうか。 つ、つかいを、直ぐ急使を遣れつ』 . ビ、レし、 『都へですか』 」へ車馬と落ち行く人々の影はいそいだ。 おって 『ばかつ。都へなど、使を立てていたひには間にあうものか。 幾度か、他州の兵に襲われ、幾度か追手の詭に墜ちかか ここの定州 ( 河北省・保定正定の間 ) の太守へだ』 り、百難をこえ、漸くにして代州 ( 山西省・代 ) の五台山下ま 『よっ。 何としてやりますか』 で辿りついた。 『玄徳、常に民を虐し、こんど勅使の巡察に、その罪状の発覚『張飛、御身の指図で、ここ迄はやって来たが何か落着く先の せんどう を恐るるや、かえって勅使に暴行を加え、良民を煽動して乱を目的はあるのか。 此処はもう、五台山の麓だが』 たくめど、その事、逸はやく官の、知るところとなり、一族をつ 関羽も云うし、玄徳も、実は案じていたらしく、 『、つこ、、 れて夜にまぎれ、無断官地を捨てて逃げ去るーーと』 これから何処へ落着こうという考えか』と、共々 『はつ。わかりました』 に訊ねた じん・ヘい 『待て。それだけではいかん。すぐさま、迅兵をさし向けて、 『御安心なさるがよい』 ぜりふ ていしゅう やく めあて ごかんそう から おそ きべん