孔明 - みる会図書館


検索対象: 三国志(三) (吉川英治)
294件見つかりました。

1. 三国志(三) (吉川英治)

『いまの官職は』 - 一ほ - っしようしょ 四 『戸部尚書で、蜀中の戸籍をいま調査しておりますが』 しんえん の孔明とともに、深苑の一堂に入れられた儘、時経っても、帝『戸籍の事務などは君の適任であるまい』 ちよりつ 『そんなことは思っておりません』 師のおもどりがないので、門外に佇立して、待ちくたびれていた とじゅう 『なぜ最前、御供の列のうちで、ひとり笑っていたか』 徒従以下の供人たちは、 出 『どう遊ばしたのであろう ? 』 『実に愉央でたまりませんから』 より と、あやしみ疑い、はや還幸をおすすめ申さんかなどと、寄『何がそんなに楽しい ? 』 寄ささやき合っていた。 『何がって、魏五路進攻にたいして、確然たる大策をお一小しに ところへ孔明が帝のうしろに従って漸く此方へ歩いて来るのなられたでしよう。蜀の一民として、これを歓ばずにおられま みけしき が拝された。帝の御気色は、これへ来る前とは別人のように晴しようか』 えくば 晴として明るい笑魘すらたたえておられる。百官はその御容子『君は、油断のならぬ奴だ』 とうし を仰ぐとみな、 孔明は睨むような眼をした。しかしそれはむしろ鄧芝の才を ( これは何か孔明にお会い遊ばしてよい事があったにちがいな愛するような眼だった。 『かりに君がその策を立てるとしたら、この際、いかなる方策 - 一じゅう と推察し、御車に扈従の面々まで、俄に陽気になって、還幸をとるか』 の儀仗は甚だ賑わった。 『私はそんな大政治家ではありませんが、四路の防ぎは、易い するとその御供のうちで、天を仰いで笑いながら、独りよろと思います。問題は呉に打つ手一つだと思いますが』 よし。 , 疚にム叩じる』 こびを為している者があった。孔明はちらと注意していたが、 やがて御車が進みかけると、 孔明はにわかに厳そかに云って、更に彼を一堂に入れ、密談 きようおう 『君だけ後に残っておれ』 数刻に及んでいたが、やがて酒を饗応して帰した。 ちょ、つ りゅうぜん と、その男を止め、お見送りをすましてから、 あくる日、孔明は、初めて朝にのばった。そして後主劉禅に 「こっちへ来い』 ばってき と、門内へ導いた。 『呉へ使にやる男を見出しました。破格な抜擢ですが、勅許を しよう そして一亭の牀に席を与えて質問した。 賜わりますように』 とうし とうし 『君はどこの産れか』 すなわち、鄧芝を推薦したのであった。鄧芝は感激して、 ようしんや 「義陽新野のものです』 『この使命を全うし得なければ生還を期さない』 とな 『姓名は』 と称えて、即日出発した。 はくびよう - 一うぶ 字は伯苗し このとき、蛙 ( は、 ' 一兀ーと改一兀し、 とうしあぎな にわか た おご はかく いよいよ強大をなして やみ一し 256

2. 三国志(三) (吉川英治)

雨ばかりの日がつづいた。 に、、い地よい報告をうけとっていたが、 しやじく 巻その雨量も驚かれるばかりである。車軸を流すという形容も『病みつかれ果て、ただ今、魏の全軍が、続々ひきあげて帰り ただよ みずつ の おろか、馬も流され人も漂い、軍器も食糧もみな水漬いてしまます』 原 と聞いても、 う。いや仮屋も忽ち水中に没し、山の上へ上へと移って行っ 丈 『追えば必ず仲達の計に中るであろう。この天災に依る敗れ たにのぞ 然も、道も激流となり、絶壁も滝となり、谷を覗けば谷も湖を、蜀に報復して、面目を立てて帰らんとしている必勝の心あ と化している。殆ど、夜も眠れない有様である。 る者へ、われから追うのは愚である。帰るにまかせておけばよ たいう こうした大雨が三十余日もひっきり無しに続いた。病人溺死い』 そう云って、すこしも意をうごかさなかった。 者は続出し、食糧は途絶え、後方への連絡もっかす、四十万の みずぶく 軍馬はここに水腫れとなってしまいそうであった。 らくよう この事、洛陽に聞えたので、魏帝の心痛もひとかたでない だん 壇を築いて、 『雨、やめかし』 と、天に疇ったが、そのかいも見えない ′、、カきんじようもん - 一うしようふ さんきこうもんじろうおうしゆく 大尉華散、城門校尉楊卓、散騎黄門侍郎王粛たちは、初めか ともがら ら出兵に反対の輩だったので、民の声として、 はやはや い′、寺、め かえ 『早々、師を召し還し給え』 と、帝にいさめた。 みことのり ちんそう 詔は、陳倉に達した。 魏の総勢が遠く退いた後、孔明は八部の大軍をわけて箕谷と やこく よたびきぎん その頃、漸く、雨はあがっていたが、 全軍の惨状は形容の辞斜谷の両道からすすませ、四度祁山へ出て戦列を布かんと云っ もないはどである。勅使は哭き、曹真、劉嘩も哭い 『長安へ出る道は他にも幾条もあるのに、丞相には、なぜいっ 司馬懿は、慚愧して、 うら きざん 「天を恨むよりは、自分の不明を恨むしかありません。この上も極って、祁山へ進み出られるのですか』 は、帰路に際して、ふたたびこの兵を損じないようにするしか諸将の問に答えて、 ひ しんがり ない』と、やっと水の退いた谷々に、入念に殿軍を配し、主力『祁山は長安の首である』と、孔明は教えた。 ろうせい 力ならず通らねばな の退軍もふた手に分けて、一隊が退いてから、次を退くという『見よ隴西の諸郡から、長安へ行くには、、 らぬ地勢にあることを、しかも、前は喟水にのそみ、うしろは ふうに、飽くまで緻密にひきあげた。 や・一く せきは あきばれ 孔明は、蜀の主力を、赤坡という所まで出して、この秋霽斜谷に靠屮、重畳の山、起伏する止、また谷々の隠見する自然 ざんき ちみつ な うみ よ ひ あた - 一ころ いくすじ し

3. 三国志(三) (吉川英治)

ちいち孔明に問合わせを出しておられよう。然し折よく孔明が う兵法として古すぎる。 巻で、蜀軍はわざと虚陣の油断を見せたり 、弱兵を前に立てた漢中まで来ておる時であるから、汝が行って、朕の近況を伝 もぐら のり、日々工夭して、釣り出しを策してみたが、呉は土童のようえ、また戦の模様を語っておくのもよかろう。そして何か意見 あらば聞いてまいれ』 師に、依然として陣地から一歩も出て来なかった。 と、馬良にその使をいいつけた。 一木の日陰もない曠野だった。夜はともかく昼の炎暑は草も 出 馬良は承って、敵味方の布陣から地形など、克明に写して行 枯れ土も燃えるようだった。それに水は遠くに求めなければな オこう紙の上に描き取ってみると、それは四至八道という らないし、病人は続出するし、士気はだれて、どうにも収拾がっこ。 つかなくなった。 対陣になっていた。 やまかげ 『いかん。一応、他へ陣を移そう。どこか涼しい山陰か水のあ次の日である。 ものみ 呉の物見は、ひとつの山の上から鞠の転がるように駈け下り る谷間へ』 ふれ て、 帝玄徳も、ついにこの布令をなさずにはいられなくなった。 『蜀の大軍が、次々と、遠い山林の方へ、陣を移し出しまし すると馬良が注意して、 『いちどにこれだけの軍を退いては大変です。かならず陸遜のた』 しゅうたい と、韓当、周泰の前に急報した。 追撃を喰いましよう』と、云った。 しんがり 『やつ。そ、つか』 『案じるなかれ、弱々しい老兵を殿軍にのこし、いつわり負け りくそん と、ふたりは又、大都督陸遜の陣まで馬を飛ばして、 て逃ぐるをば、敵がもし図に乗って追って来たら、朕みずから おば 精鋭を伏せて、これを討つ。敵に計ありと覚えれば、うかと長『只今、かくかくの報らせがあった』と、告げた。 かんてん このときの陸遜の顔はちょうど旱天に雨雲を見たように、何 追いはして来ないだろう』 ともいえぬ歓びを明るい眉にあらわしていた。 諸将は、それこそ帝の神機妙算なりと称えた。けれど、こう 『オオ。そ、つかー・』 説明を聞いてもまだ馬良は不安そうに、 しよかっこうめい 「この頃、諸葛孔明はお留守のいとまに、折々、漢中まで出て『大都督。すぐ全軍へ、追撃の令を発して下さい』 来て、諸所の要害を、いよいよ大事と固めている由です。漢中『いや、待った。 , ーー来給え我が輩と一緒に』 あた といえば遠くもありませんから、大急ぎでこの辺りの地形布陣馬を並べて、高地へ馳けた。 を図に写して使にもたせ、軍師の意見を御下問になられてみた 報告だけでは、まだうかつに行動できないとするもののよう 、彼はその目で、曠野を一眸に見た。 上、然るべしとあれば、その後で陣をお移し遊ばしても遅くは : なるはど鮮か』 ないかと思われますが』 りくそん と、なお止めたい顔をしていた。玄徳は微笑して、 陸遜は、感嘆の声を放った。兵を退くのは進む以上の技術を 『朕も兵法を知らない者ではない。遠征の途に臨んで、何でい要するという。今見れば蜀の大軍は掃いたようにもうあらかた かんとう あざや し まり

4. 三国志(三) (吉川英治)

などを続々陣所へ贈って来て、更に 征夷将軍の武威一徹とは大いに異なるものがある。 おんみつぎ 『以後、年々、天子へ御貢も欠かしません。叛きません』 浪静かに、祭文の声、三軍の情をうごかし、心なき蛮土の民 えいしようぐん と、皆々、誓一言を入れた。 を哭かしめつつ、彼の三軍はすでにして永昌郡まで帰って来 そしていっか、孔明を呼ぶに、 『慈父丞相、大父孔明』と、いい称え、その戦蹟の諸地方に、 『御辺等も、長らく大儀どっこ。、 オオしずれ帝よりも、恩賞のお沙 まっ 早くも生祠 ( 生き神様の祭り ) を建て、四時の供物と祠りを絶た汰があろう』 りし″し おう - 一う よ、つこ。 と、ここで案内役たる呂凱の任を解き、王伉と共に、附近四 とき、蜀の建興三年、秋は九月。 郡の守りをいいつけた。 孔明とその三軍は、いよいよ帰途についた。 また、別れを惜しんで、ここまで従って来た孟獲にも、暇を 中軍、左軍右軍は彼の四輪車を守りかため、前後には紅旗あたえ、 ぎん まつり′一と 銀をつらね、貢物の貨車隊、騎馬隊、白象隊、また歩兵数十団『くれぐれも、政に精励して、居民の農務を励まし、家を治 など征下して来る時にも勝る偉観だった。 めそちも晩節をうるわしくせよ』 - 一じゅ、つ ねんご その壮観に加えて、南蛮王孟獲も亦、眷族をあげて、扈従に と、懇ろに訓えを繰り返した。 とうしゅしゅうちょ、つ 加わり、もろもろの洞主、酋長たちも、鼓隊を連れ、美人陣孟獲は、泣く泣く南へ帰った。 を作って、瀘水の畔りまで見送って来た。 『おそらく彼の生きているあいだ、蛮土はふたたび叛くまい』 ばんだこく ふんさっ 盤蛇谷三万の焚殺と共に、この瀘水でも多くの味方を失い敵孔明は左右に云った。 兵を殺していた。孔明は、夜、中流に船を浮かべ、諸天を祠る成都はすでに冬だった。南から還った三軍は、寒風もなっか ひょう がいせんもん 表を書いて、幾万の鬼霊に祈り、これを戦の魂皞に捧げてそのしく、凱旋門に入った。 冥福を祈ると唱えて、供え物と共に河水へ流した。 古来、この河の荒れて祟りをなすときには、三人を生きなが めん ら沈めて祭る風習があったと聞き、孔明は、麺に肉を混和し て、人の頭の形を作り、これをその夜の供え物にした。 鹿と魏太子 まんじゅう 名づけて『饅頭』と称び慣わして来た遺法は、瀘水の犠牲よ 子 り始まるもので、その案をなした最初のものは孔明であったと 太 、う伝説もあるが、偖、どんなものか。 魏 ともあれ、帰還の途にあっても、なお彼が、そういう土地土 A 」 鹿地の土俗の風や宗教的心理を採りあげて、徳を布き、情になず じよ・つしよ、つ むび こうめいかえ ませることを、夢寐にも忘れずにあったということは、単なる孔明還る、丞相還る。 けん・ : っ - : つもっ さて よ けんぞく し しょてんまっ ーし かえ ばんど いとま たみ 引 7

5. 三国志(三) (吉川英治)

ちょうきうず してはおかれない』 を賜い、洛陽を人と弔旗に埋むるの大葬を執り行って、愈、ズ かくど とうしよくてキ - がいしんしんき 孔明は赫怒した。 討蜀の敵愾心を振起させた。 このため、彼は成都へ還って、厳密な調査を府員へ命じた。 一方、孔明は、を収めて、漢中の営に帰ると、すぐ諸方へ きび 人を派して、魏呉両国間の機徴をさぐらせていたが、そこへ成李厳の弄策は事実とわかった。 しようしょひい 『本来、首を刎ねても足らない大罪であるが、李厳も亦、先帝 都から尚書費緯が来て率直に朝廷の意をつたえた。 かえ が孤をお託し遊ばした重臣のひとりだ。官職を剥いで、一命 『何の理由もなく漢中へ兵をお回しなされたのは何故ですか。 しどうぐんおんる しょにん どけは助けおく。 即日、庶人へ落して、梓滝郡へ遠流せよ』 帝も御不審を抱いて居られますそ』 ちょうしりゅうえん 『近頃、呉と魏との間に、秘密条約が結ばれた形跡ありとの事孔明はかく断じたが、その子の李豊は留めて、長史、劉珱な どと共に、兵糧増産などの役に用いていた。 、万一、呉が矛を逆しまにして、蜀境を衝くような事態でも きゅうきよき早、ん 起っては重大であると思うて、急遽、祁山を捨てて万全を期し た迄であるが』 『おかしいですな。兵糧運輸の線は、充分に活動しておりまし に・刀』 とどこお 『とかく後方からの運送は滞りがちで、ために、持久を保 ち、糧食を獲るためにも、種々、作戦以外の作戦と経営をなさ ねばならなかった』 りげん 『それでは、李厳のはなしと、まるであべこべです。李厳の申 すには、此のたびこそ兵糧にも困らぬはど、後方からの運輸も 充分に行っているのに、孔明が突然退軍したのはいぶかしい事多年軍需相として、重要な内政の一面に才腕をふるっていた 李厳の退職は、何といっても、蜀軍の一時的休養と、延いては であると頻りに申し触らしています』 国内諸部面の大刷新を促さすには措かなかった。 『それは言語道断』 しよくどうけんそ 蜀道の嶮岨は、事実、誰がその責任者に当っても克服するこ と、孔明もちょっと呆れ顔をして 『魏呉両国間に秘密外交のうごきが見ゆると、われへ報せて来とのできない自然的条件であり、加うるに、蜀廷の朝臣には、 わた 士 孔明のほかに孔明なく、外征久しきに亙るあいだには、極って た者は、その李厳であるのに』 の『ははあ。それで読めました。李厳の督しておる軍需増産の実何かの形で、その弱体や内紛が現われすにいなかった。 眼績がここ甚だあがらないので、科を丞相に転嫁せんとしたもの孔明の苦労は実にこの二つにあったといってよい えいまい りゅうせん 劉禅は、甚だ英邁の資でないのである。うごかされ易く又よく 具でしよう』 『以ってのほかの事だ。もし事実とすれば、李厳たりとも、免迷う。 くみ、 ゆる りげん みなしご 具眼の士 がん ふいん

6. 三国志(三) (吉川英治)

『お気づ力し。 、、こよ及びません。荊州さえ還せばみな獄から解か れましよう。兄上の妻子にまで御災難の及んでゆくのを、なん で孔明が坐視しておりましよう。君へ申しあげて、きっと荊州 は呉へ還します』 『おお : : : そうしてくれるか』 か 諸高瑾は、涙を喜色に更えて、弟に謝し、次の日ひそかに玄 徳へ会った。そして、 『これは、呉侯からの御書簡ですが』 そんけん と、孫権からの一書を呈すると、玄徳はそれを披見して、忽 蜀の玄徳は、一日、やや狼狽の色を、眉にたたえながら、孔ち色を作した。 しよかっきん 明を呼んで云った。 諸葛瑾は、はっとした。側にいた孔明も、眼をみはった。玄 このかみ 『先生の兄上が、蜀へ来たそうではないか』 徳の手にその書簡は引き裂かれ、その眸は、天の一方を見て、 ひと 『昨夜、客館に着いたそうです』 独り語にこう叫んだ。 ぶれい そんけん けいしゅう 『まだ会わんのか』 『無礼なり孫権。ーー元より荊州はいっか呉へ還さんとは思っ なんじ ろう 『兄にせよ、呉の国使として参ったもの。孔明も蜀一国の臣。 ていたが、汝、いたずらに小策を弄し、わが夫人を欺いて、呉 私に会うわけにはまいりません』 へ呼び返すなど、玄徳の面目を無視し、夫婦の情を虐げ、いっ 『何しに見えたのであろう』 かはこの恨みをと、骨髄に刻んでいた玄徳の心を知らないか 『もとより荊州の問題でしよう』 むかし一荊州にありし時だに、汝ごときは物の数とし あわ 孔明は、座へ寄って、玄徳の耳もとへ、何かささやいた。 ていたわれでない。し 、わんや今、蜀四十一州を併せて、精兵数 . りようみ、う にびと 『 : : : そういうお気持で』 十万、肥馬無数、糧草は山野に蓄えて、国人みな時にあたるの 『む、む。わかった』 覚悟をもつ。汝、いかに狡智を弄すとも、力をもって荊州を取 玄はいささか眉をひらいた。 ることを得んや』 きやくしゃ ふんど げ、 - しよく その晩、孔明はふいに、客舎にある兄を訪ねた。孔明に会う胸中の憤怒を一時に吐いたような玄徳の激色に、ふたりは打 しよかっきん そっぜんおもて 談 と、諸葛瑾は、声を放って、大、こ哭、 たれたように一瞬沈黙していたが、そのうちに孔明が卒然と面 会 『兄上。いったい、・ とうなすったのです』 を掩って哭きかなしんだ。 りよう このかみ ちゅう 『もし兄上を始め、妻子一族まで、呉侯のために誅せられた 江『聞いてくれ。亮。わしの妻子一族はみな呉で投獄された』 臨『荊州を還さぬという問題をとらえてですか』 ら、孔明はどんな面をして、独り世に生き残っておられましょ きずな 『そうじゃ。亮 : ・・ : 察してくれよ』 う : : : 哀しいかな、この絆。ああ苦し、この事の処置』 りんこうてい 臨江亭会談 ろうば、 おお ろう かえ あ一む と

7. 三国志(三) (吉川英治)

鼓角、鉄砲、喊の声は、瞬時の間に起って、魏の先鋒の大半れ、谷のうちで土木の工を起させていた。この谷はふくべ形の せんめつ しんろう うちじに を殲滅した。その中には、魏将の秦朗も討死を遂げていた。 盆地を抱いて、大山に囲まれ、一方に細い小道があるだけで、 ほういてつかん 司馬懿は幸にも後陣だったので、蜀の包囲鉄環からは遁れてわすかに一騎一列が通れるに過ぎない程だった。 たくみ いたが、残る兵力を救わん為め、一たんは強襲を試みて、彼の孔明も日々そこへ通って、何事か日夜、エ匠の指図をしてい 包囲を外から破らんとした。然し、それも自軍の兵力を夥し く損じたのみで、残る先鋒軍の約一万も敵の中に見捨てて、引 き退くしかなかった。 『かくの如き平凡なる戦略にかかって、平凡なる敗北を喫した 魏が、敢えて戦わす、長期を持している真意は、あきらかに り・ようしよく - 一かっ ) とはない』 蜀軍の糧食涸渇を待つものであるはいうまでもない。 めったに感情を激さない司馬懿も、この時ばかりはよほどロ長史楊儀は、その点を憂えて、屡、ゝ、孔明に訴えていた。 惜しかったとみえて、退陣の途中も歯がみをした。 『いま蜀本国から運輸されて来た軍糧は、剣閣まで来て山と積 きざん しかもその頃になると、空はふたたび晴れて、晃々たる月天まれている状態ですが、いかんせん剣閣から祁山までは悪路と に返り、一時の黒雲は夢かのように考えられた。で、生き残っ山岳続きで、牛馬も仆れ、車も潰え、輸送は少しも携どりませ て帰る魏将士の間には、誰いうとなく、『これは孔明が、ノ卩 ぬ。この分では忽ち兵糧に詰って来ると案じられますが』 とん - 一う - 一くむ のち きざん 遁甲の法を用いて、われらを黒霧のうちに誘い、又後には、六 建興九年の第二次祁山出陣以来、第三次、第四次と戦を重ね ちょう - 一う ′一と 丁六甲の神通力を以って、雲霧をはらい除いたせいである』 る毎に、つねに蜀軍の悩みとされていたのはこの兵糧と輸送の というような妖言を放って、而も誰もそれを疑わなかった。 問題だった。 『ばかを申せ、彼も人、我も人。世に鬼神などあるべきでな 今や約三年の休戦に農を勤め、士を休め、曾って見ぬほどな し』 大規模の兵力と装備を擁して、六度祁山へ出た孔明が、その苦 もうげん 司馬懿は陣中の迷信に弾圧を加え、厳しく妄言を戒めたが、 い経験をふたたびここに繰り返そうとは思われない。 孔明は一種の神通力を持って、奇蹟を行う者だという考えは牢『いや、その事なら、近いうちに解決する。心配すな』 カたむ 固として抜くべからざる一般の通念になって来た傾きすらあっ 孔明は楊儀に云った。 その楊儀を始め蜀軍の諸将は、やがて或る日、孔明に導かれ 馬 魏の兵がこういう咫怖に囚われ出したので、司馬懿もその怯て、葫蘆谷の内へ入る事を許された。 流を用いるのは骨であった。で、以後又、堅く要害を守り、 ( ここ一カ月も前から何を工事しておられるのか ? ) と、前か し、め 牛にも守備、二にも守備、ただこれ守るを第一として敢えて戦うら怪訝ってした諸当。 、 ' 寺よ、その谷内がいつのまにか一大産業工場 と化しているのを見てみな瞠目した。 木ことをしなかった。 その間に孔明は、渭水の東方にあたる葫蘆谷に千人の兵を入何が製産されていたかといえば、孔明の考案にかかる『本 とき とら - 一う - 一う おびただ きよう もん み一しず

8. 三国志(三) (吉川英治)

よ・つ - 一うたいりよう 張部の馬は脚を挫いて仆れた。彼は乗り換え馬を拾って麓へ 司好懿は一日沈思していたが、やがて張部と戴陵を招いて、 たいりよう 『武都・陰平の二城を取った孔明は、さしずめ戦後の経策と撫逃げ退いたが、友軍の戴陵が、敵の重囲に落ちているのを知る たいりよう きざん みん 民のため、その方へ出向いているにちがいない。祁山の本陣にと、ふたたび取って返して戴陵を救い出し、ついに元の道へ引 は依然、孔明が居るような旌旗が望まれるが、怖らく擬勢であっ返した様子である。 ろう。汝等はおのおの一万騎をつれて、今後、側面から祁山の孔明は、あとで云った。 と、つよう ちょうひ 本陣へかかれ。儂は正面から当って、一挙に彼の中核をつき崩『むかし当陽の激戦で、わが張飛とかの張部とが、いすれ劣ら ぬ善戦をなしたので、当時、魏に張部ありと、大いに聞えたも さん』と、云った。 張部はかねて調べておいた間道を縫い、夜の二更から三更にのだが、その理由なきに非ざるものを、今夜の彼の態度にも見 かけて、馬はをふくみ、兵は軽装捷駆して、祁山の側面へ迂た。やがて彼は蜀にとって油断のならぬ存在になろう。折あら かならず討って了わねばならない害敵の一人だ』 回しにかかった。 ちゅうたっ がが 一方、魏の本陣では、この惨退を知った司馬懿仲達が、手を 途中は峨々たる岩山のせまい道ばかりだった。行くこと半途 ふさ ちょうじよう ひたい にして、その道も重畳たる柴や木材や車の山で塞がってい額にあて、色を失って、 み、また 孔明の用兵は、正 た。敵が作っておいた防塞だろうが、これしきの妨げは、物と 『またわが考えの先を越されていたか。 もするな、踏みこえて進めと張部が励ましていると、忽ち、四に神通のものだ。凡慮を超えている』と、その敵たることを忘 れて、ただただ嘆じていたということである。いわゆる肚の底 方から火が揚って、魏兵の進路を危くした。 せんりよもの 『愚や、愚ゃ。司馬懿の浅慮者が、前にも懲りず、ふたたび同から『負けた』という感じを抱いたものだった。 いん さもあらばあれ、彼も人なり、我も人なり。司馬懿仲達 じ敗戦を部下に繰り返させていた。ーー見ずや、孔明は武、陰『 ゃぶ ともあるものが、いかでこれしきの敗れに屈せんや』と、彼は にあらず、ここに在るそ』 かんたんね 山の上で高らかに云っているのは、まぎれもない孔明の声で自らの気を振って、更に心を落着け、昼夜、肝胆を練りくだい ある。張部は、怒って、 て、次の作戦を案じていた。 さかいおかさんや たいしよう 序戦二度の大捷に、蜀軍は大いに士気を昻げたばかりでな 『わが大国を恐れず、度々境を侵す山野の匹大。そこを動く え よ 、魏軍の豊かな装備や馬匹武具などの戦利品も多く獲た。け っ と、殆ど胸衝きにひとしい嶮路へ、無理に馬を立てて馳け上れど、司馬懿の軍は、それきり容易にうごかなかった。 る ろうとすると、山上にもう一声、呵々と大笑する孔明の声がひ孔明もやむなく滞陣のまま半月の余を過した。孔明は託ち顔 ら 計びいて、 はか 仲『匹夫の勇とは、それ汝自身の今の姿だ。求むるはこれか』 『うごく敵は計り易いが、全くうごかぬ敵には施す手がない くだ こかっ と、左右に下知すると、同時に、巨木大石が流れを下るごとく かかるうち味方は運送に、兵糧の枯渇に当面しては、自然、形 落ちて来た。 勢は逆転せざるを得ま、 しはて、何とすべきだろうか』 し せいき ひつぶ きざん ちょう - 一う あ かこがお 399

9. 三国志(三) (吉川英治)

がくぜん 痴や、愚や、狂に近い性格的欠点をも多分に持っている英雄 彼は何か書物をしていたが、愕然、耳を疑って、 『ほんとか ? ・』 として、人間的なおもしろさは、遙かに、孔明以上なものがあ ろしゆくでん けい - よう と、筆を取り落したという事は、魯粛伝にも記載されているる曹操も、後世久しく人の敬仰をうくることに於いては、到 し、有名な一挿話となっているが、それをみても如何に彼が、 底、孔明に及ばない 千余年の久しい時の流れは、必然、現実上の両者の勝敗ばか 無敵曹氏の隆運を自負しきっていたかが知れる。 しかも以後、 りでなく、その永久的生命の価値をもあきらかに、曹操の名を せいねん りゅうびきか ( 劉備麾下に青年孔明なるものがある ) を、意識させられてか遙かに、孔明の下に置いてしまった。 さしもの曹操もっ らというものは、事毎に、志とたがい、 時代の判定以上な判定はこの地上に於いてはない。 ところで、孔明という人格を、あらゆる角度から観ると、一 に、身の終る迄、自己の兵を、一歩も江漢へ踏み入らせること ひょうびよう ができなかった。 体、どこに彼の真があるのか、余り縹渺として、ちょっと捕 とは言え、曹操という者の性格には、、かにも東洋的英捉できないものがある。 そぞう 傑の代表的な一塑像を見るようなものがある。その風貌ばかり軍略家、武将としてみれば、実にそこに真の孔明がある気が じようち でなくその電撃的な行動や多感な情痴と熱に於いても、まことするし、又、政治家として彼を考えると、むしろその方に彼の しんずい に英雄らしい長所短所の両面を持っていて、『三国志』の序曲神髄はあるのではないかという気もする。 だいかんげんがく から中篇迄の大管絃楽は絶えず彼の姿に依って奏されていると 思想家ともいえるし、道徳家ともいえる。文豪といえば文豪 とい、つもいき、き、かも六、しつか , んない。 いうも過言でない。 とうえんぎめし りゅうびちょうひかんう もちろん彼も人間である以上その性格的短所はいくらでも挙 劇的には、劉備、張飛、関羽の桃園義盟を以って、三国志の めんれいろう 序幕はひらかれたものと見られるが、真の三国史的意義と興味げられようが、 それらの八面羚瓏ともいえる多能、いわゆ けいあいお とは、何といっても、曹操の出現からであり、曹操がその、主る玄徳が敬愛措かなかった大才というものはちょっとこの東洋 りようげんすい 動的役割をもっている。 の古今にかけても類のすくない良元帥であったと言えよう。 ぶんすいれい しよかっ しかしこの曹操の全盛期を分水嶺として、ひとたび紙中に孔良元帥。まさに、以上の諸能を一将の身にそなえた諸葛孔明 明の姿が現われると、彼の存在も忽ちにして、その主役的王座こそ、そう呼ぶにふさわしい者であり、又、真の良元帥とは、 を、ふいに襄陽郊外から出て来たこの布衣の一青年に譲らざるそうした大器でなくてはと思われる。 菜を得なくな「ている。 とはいえ、彼は決して、いわゆる聖人型の人間ではない。孔 しんめんばく ひと口にいえば、三国志は曹操に始まって孔明に終る二大英孟の学問を基本としていたことは窺われるが、その真面目はむ せいはいそうだっ 葛 しろ忠誠一図な平凡人という所にあった。 傑の成敗争奪の跡を叙したものというもさしつかえない。 諸此の二人を文芸的に観るならば、曹操は詩人であり、孔明は 文豪と言えると思う。 ぶんごう かきもの じようよ、つこうが、 ・一と 1 一と しじん ふうばう がた イ 75

10. 三国志(三) (吉川英治)

えて失くなった。 知れた中国兵、八方へ蹴ちらした末、馬を奪って帰って来たと 、 , ま、ロをそろえ 巻拳を握りながら、それを見送ってした諸キ。 いうわけだ。ははは、お蔭で蜀軍の内部はすっかり覗いて来た のて、 が、なあに大したものじゃない』 あかいなん 師『わからぬ。丞相のお心は我等にはとんと合点がまいらぬ』 勿論、部下の南蛮兵は、彼の言を絶対に信じた。ただ阿会喃 とうとめ 不満と嘲笑を半にして云い合った。 出 と董荼奴は、先に孔明に放されて、自分たちの洞中に引っ込ん 孔明は笑った。 でいたが、 孟獲から呼び出しが来ると、この二人だけは、 『何の、彼ごとき者を生擒るのは嚢の中から物を取り出すも同『どうもやむを得ない』 じ事ではないか』 というような顔つきで、渋々やって来た。 孟獲は、新たにまた諸洞の蛮将へ触れを廻して、忽ち十万以 上の新兵力を加えた。蛮界の広さと、その蛮界に於ける彼の威 力は底知れないものがある。 集まった諸洞の大将連は、その風俗服装、武器馬具、殆んど 、、、けんらん 区々で、怪異絢爛を極めた。孟獲はその中に立って、向後の作 戦方針を述べた。 きやっ まほう 『孔明と戦うには、孔明と戦わないに限る。彼奴は魔法つかい きやっ さじゅっ だ。戦えばきっと彼奴の詐術にひツかかる。そこで俺は思う。 蜀の軍勢は千里を越えて、この馴れない暑さと土地の嶮しさ 『大王が帰って来た』 かなりへたばッている様子だ。俺たちはこれから瀘水の向 『大王は生きている』 う岸に移り、あの大河を前にして、うんと頑丈な防寨を築こ ばんそっ と、伝え合うと、諸方にかくれていた敗軍の蛮将蛮卒は、忽 う。削り立った山にそい崖にそい、長城を組んで矢倉矢倉にそ いしゅう ち蝟集して彼をとり巻いた。そして口々に、 れを連ガよ、 。。いくら孔明でもどうすることもできまい。そして 『どうして蜀の陣中から無事に帰って来られたので ? 』 奴等がへとへととなった頃を見て、みなごろしにする分には何 けげんがお と、怪訝顔して訊ねた。 の造作もない』 『何でもないさ』 一夜のうちに蛮軍は風の如くどこかへ後退してしまった。蜀 も、つか′、 孟獲は事もなげに笑って見せながら、部下にはこう云った。軍の諸将は、 『運悪く難所に行き詰 0 て、一度は蜀軍に生け擒られたが、夜『はて ? 』と、怪しんだり、或いは、孔明の大仁に服して、み おり に入「て、檻を破り、番の兵を十余人ほど打ち殺して走って来な戦場を捨てて洞へ帰ってしまったのではないか、などと私語 まちまち ると、また一隊の軍馬が来て、俺の道をさえぎったが、多寡の区々であったが、孔明は、 輸血路 ふくろ まちまち しよとう ふ