一日 - みる会図書館


検索対象: 三国志(三) (吉川英治)
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1. 三国志(三) (吉川英治)

法正は心から拝服して、以来、孔明を敬うこと数倍した。 気を養っていられるところです。求めて大軍を起すにあたりま 巻数日の後、国令、軍法、刑法などの条令が布告され、西蜀四すまい』 の十一州にわたって、兵部が設けられた。内は民を守り、外は国『しかし、この儘にしておいたらいつの日、荊州が呉に回る しよく 南防にあたり、再生の『蜀』はここに初めて国家の体をそなえそ』 『手を袖にして、荊州を取返して御覧にいれましよう』 図 『そんな名案がある ? 』 しよかっこうめい 千里の上流から、江を下って、漢中、西蜀あたりの情報はか 『あります。ーー玄徳の恃みとする人物は諸葛孔明一人といっ なり迅く、呉へも聞えて来る。 ていいでしよう。その孔明の兄諸葛瑾は、久しく君に仕えて、 『玄徳はすでに成都を占領した』 呉にいるではありませんか。いま罪を称えて、彼を蜀へ使に立 『着々治安を正し、蜀中に新政を布告したという』 て、もし荊州を還さなければ、孔明の兄たる筋を以て、この瑾 たいしゆりゅうしよう けいしゅうこうあん 『元の太守劉璋は、後方へ送られて、荊州の公安へ移って来を始め妻子一族は残らず斬罪に処されますーー・と彼に云わせて たというではないか』 ごらんなさい』 じよう 呉の諸臣は、政堂に会するたび、おたがいの早耳を交換して『なるはど。 : : : 孔明は情に悶え、玄徳は義理に悩もう。 きん その計は大いによ、 しかし瑾は、この孫権に仕えてから 一日、呉主孫権は、衆臣の中でこう云った。 まだ一遍の落度すらない誠実な君子。なんでその妻子を獄に下 これは玄徳せようか』 『蜀の国を取れば、かならず荊州は呉へ返す。 はかり 1 一と 一三ロ 『いや。君のお旨を、よく申し聞かせ、 が、かねがね呉に向って、口癖に云っていた約束である。然る の為なりと、得心 かりひとや 、今、蜀四十一州を取りながら、まだ何等の誠意も示して来の上で、仮の獄舎へ移しておくなら、なんの碍げもないでしょ ない。予の忍耐にもかぎりがある。いっその事、大軍をさしむう』 おのおの しよかっきん けて、荊州をこっちへ収めてしまおうと考えるが、各、、の所存次の日、諸葛瑾は、君命をうけて、呉宮の内へ召されてい はど、つか』 しゆくしようちょうしよう すると、宿将張昭 ; 、 『まだ、まだ』と、独り頭を振っていた。 孫権がみとめて、 『昭老はこの事に不同意であるか』と、問しか冫た 彼は、うなすいた。 しよく 『蜀、魏、呉の三国のうちで、いま最も恵まれている国は呉で す。呉の位置です。国は安寧で、民は富を積み、兵は充分に英 ほうせし たの ざんぎい しよかっきん - また かえ きん

2. 三国志(三) (吉川英治)

」と奇声を発しておどろく吉川さん。原因がわか ると、みんな腹をかかえ、涙を流して笑った。あのときの、吉川さ んのユーモラスな所作や ( 大顔は、いまでも目の前に見るようだ。 さんざん騷いで帰るとき、わたしは玄関先の植本によく立小便 た。送りに出られた占川さんは にせよ。枯れてしまうよ」 っこうに困ったような口ぶりではな と、とめられた。しかし、 かった。そして、ついにその本は枯れてしまった。「そうれ、みろ」 : 吉川さんは笑っておられた。なっかしい思い出だ。 滬のわたしの家へ、ご夫婦が突然訪ね「 あのころのような生活ぶりだったら、もっと長生きされたことだ十七、八日ごろだったが、溜・ー とおもうが、「宮本武蔵」から「新・平家」「私本太平記」と、しだてこられた。疲労困憊しつくしたという様子なので、わけをきく 前の家内といっしょに家を出 と、吉川さんは顔を伏せながら、 いにその境地が国民文学としての深いところへ透徹していくと同時 した娘が、大きくなって女学校から女子挺材隊にとられていると風の も異前なほど増大していったので、 、世間の吉川さんへの」 住 ーさんは、しら便りに聞いていたが、三月十日の大空襲に焼けだされたらしく、 可、、こに書きなぐるなどのできない占月 やしくも一字一 / すしらずのうちにわが身を削るという結果にな「たのではないかとんでいたという、鼬田公園のあたりを夫婦で一週間あまり朝から晩 とのことだっ まで探しまわったが、ついに行方がわからない 」の、も、つ。 昭和三十年の夏ごろだったと記憶するが、熱海のお宅に訪ねた一た の途中から涙声になっておられた吉川さんは、急にグソクッと ら、とくに執中の部屋に通されたまだひる前だったが、午後四 時までにはどうしてもひとっ書きあげて、それからすぐ東京へ出なのどを詰らせながら、 : かわいそうで、かわいそうで ければならないということだった。ふと見ると、そばに白い握りめ「親らしいことは何もしてやれす : : あの子が火に追われどんなにして逃げまわったか : : : そしてと しと漬物が置いてある。書きはじめたら奥さんもその部屋には入れ うとう・・・・ : その姿を考えると : す、おひるはそれですませるのだということだった。 といったかとおもうと、いきなりわたしのからだにしがみついて わたしは、、 しまさらながら感に堪えかねて、「いいかげんにしな しん 言川さんの とうもそのことばが讖をな号泣されるのだった。わたしは慰める言集もなく、たたー いと先生、長生きしないよ」といった。、、 手を握りしめ、声をあげて泣いた。奥さんも顔を蔽って激しく鳴咽 したようで、いまだに、いにひっかかっている いちばん深く胸に刻みこまれているのは、吉川さんと手をとりあしておられた。 悲痛な田 5 い出だ。しかし、吉川さんの人間に最も深く触れた瞬間 って泣いた日のことだ。 ( 宀呂内庁主厨長 ) 恐ろしい四の大空襲のあった直後、すなわち昭和二十年三月のだった。 羅災死した娘のために手向けた短冊 犬て

3. 三国志(三) (吉川英治)

しよく 蜀の建興九年は、魏の大和三年にあたる。この春の二月、又 ようとしても、魏から押しつけてくるし、呉からも持ち込んで たのしば しよっきよう かかわ 巻来て、好むと好まざるとに係らず、蜀境の内に於いて、今日のも急は洛陽の人心へ伝えられ、魏帝はさっそく力と恃む司馬懿 の 戦争をしていなければなるまい。しかもその戦いは敗るるに極仲達を招いて、 きざん 原 っており、その参禍は、祁山へ出て戦う百倍もひどいものを見『孔明に当るものは、御身を措いてほかにはない。国のため、 丈 ただろう。しかのみならす、汝等始め蜀の民は、今日の戦後に身命をつくしてくれよ』 じゅうりん 働くどころの苦しみではなく、魏や呉の兵に、家も国土も蹂躪と、軍政作戦すべてを託した。 どれい りやくだつりようじよく そうしんだいととく され掠奪凌辱のうき目にあうは云う迄もなく、永く呉の奴隷『曹真大都督すでにみまかる。この上は微臣の力を尽、して、日 頃の御恩におこたえ申し奉らん』 に落され、魏の牛馬にされて、こき使わるるは知れたこと。 ぜんぎぐん きようの不平と、その憂き目と思い較べて、いずれがよい 司懿は早くも長安に出て、全魏軍の配備に当った。すなわ ちょう・一う かくわいろうせい と欲しているか』 ち左将軍張部を大先鋒とし、郭淮に隴西の諸軍を守らせ、彼自 - 一うべ 内官たちは皆、ふかく頭を垂れた儘、一言の言訳もできなか身の中軍は堂々、右翼左翼、前後軍に護られて、渭水の前に、 っ一 ) 0 大陣を布いた。 いったい、わ 『ーー併し、恐らくこれは、敵国の謀略だろう。 が軍、官、民の離を醸すような風説は、誰から出たのか。卿 きざんかす 等は誰から聞いた』 祁山は霞み、潸水の流れも温んで来た。春日の遅々たる天、 こうあん その出所をだんだん手繰ってみると、結果、苟安という者で久しく両軍の鼓も鳴らなかった。 ちょうこう あるひ あるということが明瞭になった。 仲達は一日、張部と会って語った。 すぐ相府から保安隊の兵がその住居へ揄縛に向ったが、時す『思うに孔明は相変らす、兵糧の悩みに種々工夫をめぐらして ろうせい いるだろう。隴西地方の麦も漸く実って来た頃だ。彼はきっと でに遅かった。苟安は風を喰らってとうに魏の国へ逃げ失せて たすけ 静かに軍を向けて、麦を刈り取り、兵食の資に当てようと考え しようえんひ かんただ 孔明は、百官を正し、蒋瑰、費幃などの大官にも厳戒を加るにちがいない』 かんちゅう ろうせ、 え、ふたたび意気をあらためて、漢中へ向った。 『隴西の青麦は莫大な量です。あれを刈れば優に蜀軍の食は足 」り一士しよ、つ』 連年の出師に兵のつかれも思われたので、今度は全軍をふた つに分けて、一半を以って、漢中にのこし、一半を以って、祁『御辺は渭水にあって、慥と祁山へ対しておれ。司馬懿みずか ひき らこの軍を率いて、隴西に出で向う孔明の目的を挫いてみせ 山へ進発した。そしてこれの戦場にある期間を約三月と定め、 百日交代の制を立てた。 要するに百日毎に、二軍日月のごん』 せいしんしき とく戦場に入れ代って絶えす清新な士気を保って魏の大軍を砕彼はこう意図した。渭水の陣には張部と四万騎をのこしたの かんとしたものである。 みで、その余の大軍すべてを動かし、彼自身、これを率いて、 ざん り↓・ールみも たぐ じっげつ けんこう ろうせい たいか める きざん ちょう・一う いろいろ

4. 三国志(三) (吉川英治)

のうみつうき 『この頃、天文を観ていると、太陰畢星に濃密な雨気がある。 秘事をおんみずからお洩らしになりましたか』 おそらくここ十年来の大雨がこの月中にあるのではないかと考 『あ。そうか。 : 以セ戈は直 ( ・も、つ』 ちんそうどうあいろ けんもんかんうかが ぐんなんまんき み、と そうえい えられる。魏軍何十万騎、剣門関を窺うも、陳倉道の隘路、途 曹叡は初めて覚った。 けいしゅう 荊州へ行っていた司懿が帰って来た。彼も同意見であつ上の幾難所、加うるにその大雨にあえば、到底、軍馬をすすめ 故に、われは敢えてその困難に当る要 た。荊州ではもつばら呉の動静を視察して来たのである。司馬得るものではない。 ひろうこん はない。まず汝等の軽兵をさし向けておいて、後、彼の疲労困 懿仲達の観るところでは、 『呉は蜀を助けそうに見せているが、それはいつでも条約に対を見すましてからいちどに大軍をおしすすめて伐つ。予も、 する表情だけで、本腰なものではない』という見解が確められやがて漢中へ行くであろう』 ちょう そう聞くと、王平も張嶷も、 ていた。 しよっきよう けんもんかん 『お疑いして申訳ありません。では、即刻これから』と勇躍し 号して八十万、実数四十万の大軍が、蜀境の剣門関へ押し らくよう あっけ ン一つ、、 寄せたのは、わずか十月の後で、洛陽の上下は呆気にとられたて、陳倉道へいそいだ。そして彼等は軽兵二千を以って、高地 しの を選び長雨の凌ぎを考慮し、且つ一カ月余の食糧を持って滞陣 ほど迅速且っ驚くべき大兵のうごきだった。 していた。 このとき、幸にも、孔明の病はすでに恢復していた。 そうしんたいしばせいせいだいととく こんぜっ 魏の四十万騎は、曹真を大司馬征西大都督にいただき、司馬 『ーー血を吐いて昏絶す』というと余程な重態か不治の難病に りゅうよう だいしようぐんふくととく かか でも罹ったように聞えるが、『血を吐く』も『昏絶』も原書のを大将軍副都督に、また劉嘩を軍師として壮観極まる大進軍 きようがくきよくち よく用いている驚愕の極致をいう形容詞であることは云う迄もをつづけて来た。 みちみち ところが、陳倉の道に入ると、途々の部落は例外なく焼き払 われていて、籾一俵鶏一羽獲られなかった。 孔明は、王平と張嶷を招き、 ちんそうどう おのおの 『これも孔明の周到な手まわしとみゆる。心憎い用意ではあ 『汝等各、、千騎をひっさげ、陳倉道の嶮に拠って、魏の難所を る』と語らい合って、なお数日を進むうちに、一日、司馬は 支えよ』と、命じた。 りゅうよう かな わなな 敵は実数四十万突然、曹真や劉嘩にこう云い出した。 二将は唖然とした。いや哀しみ顫いた 『これから先へは、もう絶対に進軍してはなりませぬ。昨夜、 という大軍、わずか二千騎でどうして喰い止められよう。死に 天文を案じてみるに、どうも近いうちに大雨が来そうです』 行けというのと同じであると思った。 『そうかなあ ? 』 曹真も劉嘩も疑うような顔をしていたが、司馬懿仲達の言で すいぜん 孔明のむごい命令に、ふたりとも悴然とした儘、その無慈悲あるし、万一の事も考慮して、その日から前進を見あわせた。 きゅう′一しら ちく ! く ようす 長をうらんでいるかのような容子なので孔明は自分の言にまた説竹木を伐 0 て、急拵えの仮屋を作り、十数日程滞陣してい ると、果して、きようも雨、次の日も雨、明けても暮れても、 明を加えた。 おうへい ちょう けんよ てんもんみ もみ え たいいんひっせい ゅうべ

5. 三国志(三) (吉川英治)

きゅう にする風は益、、甚しいと聞き、玄徳は或る日、成都の一宮に文下の夜警兵に捕まってしまった。 巻武の臣を集めて、大いに魏の不道を鳴らし、また先に亡 0 た関馬超は、手紙の内容を見て、一驚したが、念のため義の家 の羽を惜しんで、 を訪れて、彼の容子を見届けることにした。なにも感づかない 師『まず呉に向って、関羽の仇をそそぎ、転じて、驕れる魏を、 彭義は、 出一撃に討たんと思うが、汝らの意見は如何に』と、衆議に計っ 『よく遊びに来てくれた』 と、酒を出して引き留め、深更まで央飲したが、そのうちに 人々の眼はかがやいた。い まや蜀の国力も充分に恢復し、兵馬超のロにつの込まれて、 たんれんおこた レレようよう 馬は有事の日に備えて鍛錬怠りない。それは誰も異存なき意志 『もし上庸の孟達が旗挙げしたら、足下も成都から内応し給 ひとみ ふしレ - う ほ、つ、 を示している眸であった。 え。不肖、彭義にも、充分勝算はある。足下の如き大丈夫が、 ろくろくしよくもん ときに廖化が進んで云った。 いつまで禄々蜀門の番犬に甘んじておるわけでもあるまいが』 りゅうほうもうたっ 『関羽を敵に討たせたのは、味方の劉封、孟達の二人でした。 などと慨然、胸底の気を吐いてしまった。 あだむく 呉に仇を報う前に、彼等の御処分を正さなければ、復讐戦の意馬超は次の日、漢中王にまみえて、彭義の密書とともに前夜 たいほ 義が薄れましよう』 のことをことごとく告げた。玄徳は、直ちに彭義の逮捕を命 うなす ′一うもん 玄徳は大きく頷いて、その儀は我も一日も忘れずと云った。 じ、獄へ下して、なお余類を拷問にかけて調べた。 ただ めしじよう そして直ちに、劉封、孟達へ召状を発して処断せんと言を誓う 彭義は大いに後悔して、獄中から悔悟の書を孔明へ送り、ど ・一うめい れんびん と、孔明が側にあって、 うか助けてくれと、彼の憐愍に訴えた。玄徳もその陳情を見 『いや、火急に召状を発せられては、かならず異変を生じまて、 たいしゅてんばう ゆるゆる しよう。まず両名を一郡の太守に転封し、後、緩々お計り遊ば『軍師どうするか』と半、心を動かされた風であるが、孔明は はんらん すがよいかと思います』と、諫めた。叛乱の動機は、つねにそ冷然と、顔を振って、 はんこっ うした弾みから起る。実にもと、人々は孔明の明察に感心した。 『かかる愚痴は狂人の言と見ておかねばなりません。叛骨ある ほ、つ、 もう ところが其の日の群臣のなかに彭義という者がいた。彼と孟者は、一時恩を感じても、後又かならず叛骨をあらわしますか たっ 達とは日頃から非常に親しかった。会議が終ると、何かそそくら』 さと急いで下城したようだったが、我家へ帰るとすぐ書簡を認 と、却って急に断を下し、その夜、彭義に死を与えた。 ちゅう めて、 彭義が誅されたことに依って、遠隔の地にある孟達も、さて てんばう あぶな ( 君の命は危い。転封のお沙汰が届いても、油断するな。関羽はと、身に危急を感じ出した。彼には元々、離反の心があ 0 た しんたんしん の問題が再燃したのだ ) ものとみえ、その部下、申耽と申儀の兄弟は、 そうひ と、密報を出した。 『魏へ走れば、曹丕が重く用いてくれるに違いありません』 S ・ゅ・つほ、つ 然し、この密書を持った使の男は、南城門の外で、馬超の部と、主に投降をすすめ、同じ城にいる劉封にも告げず、わず りようか あだ おご ばちょう あ そっか かいいん 202

6. 三国志(三) (吉川英治)

談 会 『参る。よろしく云ってくれ』 江 臨簡単に承諾して、関羽は使を返した。 関平は驚いた。且っ危ぶんで、父に諫めた。 ろしゆく ふう 『魯粛は、呉でも、長者の風のある人物とは聞いていますが、 『とても、尋常一様な手段では荊州は還りますまい。不に , み、しし りんこうて、 め・つ - 一うかんこう たま のば 任賜わるなら、遠く溯って、陸ロ ( 漢ロの上流 ) の塞外、臨江亭時局がこんな場合、いかなる陥穽を構えているか知れたもので はありません。千鈞の重き御身を、そう軽々にうごかし遊ばす 一日、関羽を招いてよく談じ、もし肯かなけ に会宴をもうけ、 : かがでしょのは、如何と思いますが』 れば、即座に彼を刺し殺してしまいますが : 『案じるな』 う、お任せ下さいますか』 関羽は飽くまで簡単に云う。 これは魯粛の進言である。 しゅうそう 『供は、周倉一名をつれて行く。そちは精兵五百人に快舟一一十 呉中一といっても二と下らない賢臣の言だ。反対者もあった そしてもし父が 艘をそろえ、此方の岸に遠く控えておれ。 が、孫権は然るべしと、その計を採用することに決し、 『いまを措いて、いつの日か荊州をわが手に取り還さん。はや彼方の岸で旗をあげて招くのを見たら、初めて船を飛ばして馳 せつけて来い』 行け』と、励ました。 『かしこまりました』 船に兵を積み、表には、親睦の使と称えて、魯粛は、揚子江 ふうこうめいび りつ - 一うじようし 関平は、父の命に従うしかなかった。 を遠く耕って行った。そして陸ロ城市の河港に近い風光明眉の きわ せんばう せいかんかびん り、 - も・つ・ 地、臨江亭に盛大な会宴の準備をしながら、一面、呂蒙だの甘その日になると、関羽は、緑の戦袍を着、盛冠花鬢、一際装 しゅうそう おもてみずち って小舟にのった。供の周倉は、面は蛟のごとく青く、唇は牙 寧などの大将に、『もし関羽が見えたときは、 をあらわし、腕は千斤も吊るべしと思われる鉄色の肌をしてい と、すべての計をととのえていた。 臨江亭は湖北省にある。荊州はいうまでもなく湖南の対岸。る。その周倉が、桃園の義盟以来、関羽が常に離すことなき八 せいりゅうとう 魯粛の使は、舟行して江を渡った。しかもその使は、殊さ十二斤の青竜刀を持って、主人のうしろに控えていた。 かん かざ ゅうちょう うるわ ら華やかに装い、従者に麗しい日傘を翳させて、いかにも悠暢また、小舟には、紅の旗を一すじ立てていた。『関』の一 大文字が書いてある。江風はゆるやかに波は凪いで舟中の関羽 、会宴の招待にゆく使らしく櫓音も平和に漕いで行った。 彼はやがて、荊州の江口から城下に入り、謹しんで、書を関は眠くなりそうな眼をしていた。 『 : ・・ : や、ひとりで来る』 羽に呈した。書面の内容はもとより魯粛の名文を以て礼を尽 し、蜜の如き交情を叙べ、どうしても断れないように書いてあ『あれが関羽か ? 』 対岸では、呉の人々が、眩しげに手を翳し合っていた。てッ そう予期して きり関羽は、大勢の兵をつれて来るだろう。 りよ いたものらしい 。もし大兵を連れて来たら、鉄砲を合図に、呂 ろしゆく もうかんねい 蒙と甘寧の二軍でふくろ包みにしてしまおう。これが、魯粛の 備えておいた、第一段の計であった。 ところが案に相違して、関羽は常にもなく華やかに装い、供 つ ) 0 みつ ろしゆく の ろしゆく かれ きん くれない まぶ かんせい かざ はやぶね

7. 三国志(三) (吉川英治)

歩を移して、群臣に宣言した。 『予の妹は、玄徳の留守に、その家臣共から追われ、今日、呉 けいしゅ・つ へ立ち帰った。かくなる上は、呉と荊州とは、事実上、なんら えんこ の縁故もないことになった。即時、大軍を起して、荊州を収 め、多年の懸案を一挙に解決してしまおうと思う。それに就 て、策あらば申し立てよ』 - 一うほくちょうほ・フ すると、議事の半ばに、江北の諜報がとどいて、 せきへき そうそう もよお 『曹操四十万の大軍を催し、赤壁の仇を報ぜんと、刻々、南下 して参る由』と、あった。 きんちょう 俄然、軍議は緊張を呈した。 ところへ又、内務史から、 ちょう・一う 『重臣の張紘、先頃から病中にありましたが、今朝、息をひき したた とるにあたり、遺言の一書を、わが君へと、認め終って果てま した』 呉侯の妹、玄徳の大人は、やがて呉の都へ帰った。 『なに、張紘が死んだ』 そんけん ただ 孫権はすぐ妹に質した。 折も折である。呉の建業以来の功臣。孫権は涙しながらその しゅうぜん 『周善はどうしたか』 遺書を見た。 ちょうひちょううんはば るる 『途中、江の上で、張飛や趙雲に阻められ、斬殺されました』 張紘の遺書には縷々として、生涯の君恩の大を謝してあっ 『なぜ、そなたは、阿斗を抱いて来なかったのだ』 た。そして、自分は日頃から、呉の都府は、もっと中央に地の あん 『その阿斗も、奪り上げられてしまったのです : : : それより利を占めなければならぬと考え、諸州に亙って地理を按じてい まつりよ、つナンキン は、母君の御病気はどうなんです。すぐ母君へ会わせ , て下さ たが、秣稜 ( 南京付近 ) の山川こそ実にそれに適している。万 ぎようそ せんと し』 世の業礎を固められようとするなら、ぜひ遷都を実現されるよ こうきゅう 『会うがよい、母公の後宮へ行って』 うに。これこそいま終りに臨んでなす最後の御恩報じの一言で 輪「ではまだ : : : 御容体は』 あると結んであった。 『至極、お達者だ』 『忠義なものである。この忠良な臣の遺言をなんで反古にして 『えつ。お達者ですって』 よいものではない』 『女は女同士で語れ』 孫権は、一方には、刻々迫る戦機を見ながら、一面直ちに、 いぶかる妹を、膠もなく後宮へ追い立て、孫権はすぐ政閣へその居府を、建業 ( 江蘇省・南京 ) へ遷した。 日 日 ちょう・一う のぞ

8. 三国志(三) (吉川英治)

孔明が答えて、ーー益州の学士で秦必、字は子勅です、と紹 な恰好をしていた。 、、わら 巻三日目には彼のための歓迎宴が成都宮の星雲殿にひらかれ介すると、張蘊はあざ笑って、 ちょううんぼうじゃくぶじん 、孔明はい 『学士か。いや、どうも近頃の若い学士では』 のた。この晩も、張蘊は傍若無人に振る舞っていたが きっ しんふく うやま すると秦必は、色を正して、屹と、彼に眸を向けた。 師よいよ重く敬って、その意の儘にさせていた。 『若いと仰せられたが、わが蜀の国では、三歳の童子もみな学 出 ぶの風であります。故に年二十歳をこえれば、学問にかけては もう立派な一人前のものを誰もそなえておる』 酒、半酣の頃、孔明は張蘊に向って、 こりゅうぜん 『先帝の遺孤劉禅の君も、近ごろ宝修に即かれ、陰ながら呉王『では、汝は、何を学んだ ? 』 きょ・つりゆ・つ かみ の徳を深くお慕い遊ばされておる。どうか御帰国の上は、呉王『上は天文から下は地理にいたるまで、三教九流、諸子百家、 よしみ に奏してわが蜀と長久の好誼をむすび、共に魏をうって、共栄古今の興廃、聖賢の書およそ眼を曝さないものはない』と秦必 わか の歓びを頌たん日の近きに来るように、あなたからも切におすは敢えて大言を放った後で、 『ーー呉の国ではいっ ' ) 、、 何歳になったら学士として世間に すめ下さるよう、御協力のはど、かくの如くお願い申しあげ じ 通るのですか。六十、七十になってから、やっと学問らしいも る』と、飽くまで辞を低く、礼を篤く、繰り返して云った。 ・一うけん のを身に持っても、それでは世に貢献する年月は幾らもないで 『ウむ。 : まあ、ど、つい、つ事になるか』 ななめ ちょ、つ・つん はありませんか』と、反問した。 張蘊は眼を斜にして、そういう孔明を見やりながら、わざと ′一うまん たいじん せつかく御機嫌の良かった張蘊は、面を逆さに撫でられたよ ほかへ話を反らしては、大人を気どって、傲慢な笑い方をして うな顔をした。そして小憎い青二才、と思ったか、或いは自己 おびただ いよいよ帰る日となると、朝廷からは夥しい金帛が贈らの学問を誇ろうとしたのか、 はなむ 『然らば、試みに問うが』 れ、孔明以下、文武百官もみな錦や金銀を餞別けた。 ちょううん と、天文、地理、経書、史書、兵法などに亙って、次から次 張蘊はほくほく顔だった。そして孔明の邸宅に於ける最後の 晩餐会にのぞんだところが、酒宴の中へ、ひとりの壮漢がずかへと難問を発した。 しんふく ところが、学士秦必は、古今の例をひき、書中の辞句文章を ずか入って来て、 と - っと、つ そらよみ 音誦して一々それに答えること、蕕々としていささかの淀みも 『ゃあ、蘊先生、明日はお帰りだそうですな。どうでした ? ほれぼれ なく、聴く者をして、惚々させるばかりだった。 あなたの対蜀観察は。ははは。まあ一杯いただきましようか』 ちょううん 張蘊はまったく酒もさめ果てた顔して、 と、主賓の近くに坐していきなり手を出した。 ちょううん 張蘊は自分の尊厳を傷けられたように、不央な顔をして、亭『蜀にはこんな俊才が何人もおるのかしら』 と、ついに口をつぐみ、また自ら恥じたもののように、、 主の孔明にむかい、 はんかん うん そ 0 きすっ ちょ、つ・つん っ ) 0 々一ら しんふくあぎなしちよく しんふく 260

9. 三国志(三) (吉川英治)

ひろうこんばい するに誘引の計を以てひき出し、更に、玄徳軍の疲労困憊を 巻待っていたのである。 の南山の間道から、蜀兵はそくぞく山地に入り、遠く野へ降り 南て迂回していた。また、北門は江へ舟を出して、夜中に対岸へ あがり、これも、玄徳の退路を断つべく、枚を銜んで待機す 図 る。 『城内の守りは百姓だけでよい。一部の将士のほかは、みな城 せんめつ を出て、玄徳の軍をこの際徹底的に殲滅せよ』 のろし 『名ある敵の大将とみえるそ。生捕れつ』 張任は、こう勇断を下して、やがて一発の烽火をあいずに、 どら つづみ かんせい はや、殺到した軍馬の中からそういう声が、玄徳の耳にも聞 銅鑼、鼓の震動、喊声の潮、一時に天地をうごかして、城門を ひらいた。 えた。 たそがれ おば すると、聞き覚えのある声で、 時刻は黄昏であった。ここ数日のつかれに、玄徳の軍馬は鳴 『待て待て。手荒にするな』と、将士を制しながら、玄徳のそ をひそめ、今しもタ方の炊煙をあげていたところ。当然、間に 合わない。 ばへ馬乗り寄せて来た者がある。見れば、何事そ、それは張飛 だくりゅう あたかも黄河の決潰に、人馬が濁流にながされるのを見るよではないか。 ひと、イ、 『お、つつ、そちは』 うだった。まったく一支えもせず、八方へ逃げなだれた。 - 一うしゆく 『それ撃て』 『ゃあ、皇叔にておわすか』 『すすめ』 張飛は馬を飛び降りた。そして玄徳の手をとって、この奇遇 に戻した。 と、その先には、山と江から迂回していた蜀兵が、手に唾し ・一らんらいどう て、陣を展開していた。呉蘭、雷同の二将軍とその旗本は、殆蜀兵は山のふもとまで迫っている。事態は急なり、仔細のお 物語はあとにせんと、張飛は忽ち全軍を配備し、蜀兵を反撃し ど、血に飽くばかり勇をふるった。 『あな、あわれ。こんな事が、いったいなぜ昨日にも覚れなかてさんざんに追い討ちした。 しよくしよう ったろう』 蜀将張任は、ふしぎな新手が忽然とあらわれて、精勇漫 らっ 玄徳は、悲痛な顔を、馬のたてがみに沈めながら、魂も身に 剌、当るべくもない勢を以て城下まで追って来たので、 ほりー ) 添わず、無我夢中で逃げていた。 『濠橋を引け、城門を閉じよ』 見まわせば、一騎とて自分のそばには居なかった。 と、全軍を収容して、見事にをしずめてしまった。後に、 しゅうしゅう 幸にも、夜だった。 人々は云った。 啾々、秋の風に、星が白い。 りゅう - 一うしゆく 彼は、鞭打って、疲れた馬を、からくも山路へ追いあげた。 ( あの日の敗戦には、当然、劉皇叔もすでにお命はないはず つば だが、うしろから蜀兵の声がいつまでも追ってくる。 谷や峰にも、蜀兵の声がする。 『天もわれを見離したか』 玄徳は哭いた。 かけくだ しかし、忽ち、山上から駆下って来る一軍のあるを知って、 静かに最期の心支度をととのえた。 きっと一涙をはらい、 な いけど こっぜん せいゅうはっ ちょうひ

10. 三国志(三) (吉川英治)

に楊懐、高沛がきようこそ君を刺殺せんと待ちうけているもの と考えられる。わが君、御油断あそばすな』 『その事ならば』 よろい ほ - つけールは あっきらせつ と、玄徳は、身に鎧を重ね、宝剣を佩き、悪鬼羅刹も来れ と、心をすえて更に駒をすすめた。 えんこうちゅう 靡統は、幕将の魏延、黄忠などに、何事かささやいて、一歩 せんたい 一歩のあいだにも、戦態を作りながら前進していた。 たいか やまあい すでに、関門の大廈が、近々と彼方の山峡に見えた頃であ る。 かばうかん げんレ一′、 ふじよう きんしゅう 葭萌関を退いた玄徳は、ひとまず浩城の城下に総軍をまと楽を奏しながら、錦繍の美旗をかかげて、彼方から来る一群 ふすいかん め、浩水関を固めている高沛、楊懐の二将へ、 の軍隊がある。 にわか 『お聞き及びのとおり、遽に荊州へ立ち帰ることとなった。明真先に来た大将が云った。 けいしゅう りゅうこうしゆく 日、関門をまかり通る』 『今日、荊州へ御帰還あるという劉皇叔におわさずや。遠路 と、使をやって開門を促しておいた。 の途中をおなぐさめ申さんが為、いささか粗肴と粗酒を献じた 高沛は手を打って、 く、これまでお迎えに出たものです。何とそお納めをねがいた ようかいぜっ - 一う 『楊懐、絶好な時が来たそ。明日、玄徳がここを通過したら、 し』 ぐんりよろう 軍旅の労をねぎらわんと、酒宴を設けてその場で刺し殺してし靡統が出て挨拶した。 しよくうれ、 まおう。ーー・・蜀の憂患を除くためだ。抜かり給うな』 「これはこれは過分な礼物。皇叔にもいかばかりお歓びあるや と、ここでは二人が手に唾して夜の明けるのを待っていた。 しれません。高沛、楊懐の二兄にもよしなにお伝えおき下さ ほ、つレ : っ・ 翌る日、玄徳は大行軍の中にあって、靡統と駒をならべ、何 し』 ふすいかん か語りながら浯水関へ向って来た。 『いずれ後刻、陣中御見舞に伺う由ですが、取敢えず、酒肴を やまかぜ はたぎおさお すると、一陣の山風に、旗竿の竿が折れた。玄徳は、眉を曇お目にかけよとのことに、あれへ品々をわせて来ました』 らせて、 と、夥しい酒の瓶、小羊、鶏の丸焼などを、それへ並べて帰っ 人『や、や。これは何の凶兆か』 と、駒を止めた。 一行はそこに幕舎を張って、酒の瓶を開き、山野の風物に一 中靡統は、一笑して、 息入れながら、杯を傾けて休息していた。そこへ高沛と楊懐 『これは天が前もって凶事を告知してくれたものです。故に、 が、兵三百を供につれて、 酒 思、フ 凶ではありません。むしろ吉兆というべきでしよう。 『お名残り惜しいことです。せめて今日は、親しくお杯を賜わ しゅちゅうべつじん つば 、つ力い 、、つ力し かめ そ・一う