女 みくび も思っていない点とは孔明の戦法の一性格と云える。 十余万、蛮土の降参兵を加うること一万余、一兵毎に一嚢を担 おそ 『蜀兵は毒弩を怖れて陣を退いた』 、早くも三江の城壁へ迫った。 らんせんどくど ・つんか ほこお 1 一 乱箭毒弩もものかわ雲霞のごとき大軍が一度に寄せたので、 南蛮軍は誇り驕った。 えいち いたお 兵法は叡智であり文化である。民度の高さもそれで分る。七その勢力の千分の一も射仆すことは出来なかった。見る間に土 日十日と日を経るに従って、彼等の単純な思い上りは、 嚢の山は数カ所に積まれた。その土嚢の数も兵員の数と等しく 『孔明などと云っても多寡の知れたものだ』と、 いよいよ敵を二十余万個と云う数である。いかなる高さであろうと忽ち届か ぬはない。 見縊ってきた。 えんかんさく 孔明は天候を見ていた。いかなる場合でも彼は何等かの自然 魏延、関索、王平などの手勢は、先を争って、城壁の間へ飛 かっ 力を味方に持っことを忘れない。 び降りた。担ぎ上げた土嚢を投げ込み投げ込みここも難なく通 すなまじ 強風の日が続いた。この砂交りの猛風は明日もまだ続きそう路となった。 ふちゅう である。 蛮軍は釜中の魚みたいに右往左往して抗戦の術を知らなかっ 孔明の名を以って、諸陣地に布告が掲げられた。文に日う。 た。多くは銀坑山方面へ逃げ、或いは水門を開いて江上へ溢れ みよ・つゆ・つしょ - 一う 『明タ初更までに、各隊の兵は一人も残るなく、各、二幅の襟出すのもあった。 ゅ・一く ( 衣服 ) を用意せよ。怠る者は首を斬らん』 生け捕りは無数といっている。例に依ってこれには諭告を与 こと′一と じんほどこ 何か分らなかったが、 厳令なので隊将から歩卒に至るまで、 え仁を施し、さて、城中の重宝を開いて、これを悉く、三軍 わ あた 一衣の布を持って、 に頒け与えた。 だしだいおう 『いったいどうするのだ、これは ? 』と怪しみながら待ってい 朶思大王はこの時乱軍の中で討たれたという噂がある。ロほ どもない哀れな最期だった。 不意に出陣の令が出た。次に陣揃いだ。それが丁度初更の時『なに、三江が破れた ? もう孔明の軍勢が入ったと ? 』 も - っカ′、 十ス学 / / 銀坑山の蛮宮では、孟獲が色を失っていた。 一族を集めて評 てんどうわくらん 孔明は将台に立って三命を発した。 議中も、頑動惑乱、為す事も知らない有様だ。 た′、 きん っちか しゃびようぶ 一、携えたる各、・、の襟 ( 衣 ) に足もとの土を掻き入れて土の すると、後の紗の屏風の蔭で、誰かクックッ笑った者があ ふくろ る。 嚢となせ。 どのう 二、兵一名に土嚢一箇の割に次々令に従って行軍せよ。 『無礼な奴、誰だ ? 』と一族の者が覗いてみると、孟獲の妻の ふくろ しよ、つよ どのう しゆくゆうふじん 三、三江城の城壁下に至らば、土の嚢を積んで捨てよ、土嚢祝融夫人が、牀に倚って長々と昼寝していたのである。猫のよ たけひと の山、壁の丈と等しからば、直ちに踏越え踏越え城内に うに可愛がって日頃夫人の部屋に飼い馴らされている牡獅子も すいがん 入れよ、疾と逸く入りたる者には重き恩賞あるそ。 亦、夫人の腰の辺に頤を乗せて、とろりと睡眼を半ば閉じてい四 さてはと初めてこの時にみな孔明の考えを知った。その勢二 きれ へき はや おこた ひ きん おうへい つ あご おじし あふ
蔵会改良 「刑罰と社会改良の会」機関誌 ていた吉川英治の側面が忘れられては大へんに残念だと思う。その一 4 ( 編註 ) 発行所東京都中野区新井町三ノ四五 罪を憎んでも、その人を憎まずという古典的な行刑観を、生き身で ~ 実践した吉川英治の一側面は、ぜひとも、彼の伝記の中に加えても ( 評論冢 ) 笑いと涙の記慮 会 . 秋山心一鳳 の 改 競馬で知りあった菊池寛さんの引きあわせで、吉川さんとおっき あいをするようになると、たちまちそのスパラシイ人柄に魅かれて 社 と しまい、亡くなるまでの三十数年間、文字どおり素っ裸の交遊がっ づいた。 刑 形のうえでは友だちだったが、心のなかでは人生の師として尊敬 → 力ならすなにかしら日寸るものがあった。そ していた〈ム、つ 1 」とに、、 れをハッキリ自覚することができた。そんな人だった。 といっても、会っていると別に人生談義などを交わしたわけでは ない。おおくは、たわいもない酒間の交わりだった。わたしは、し 。レーカないのであまこそ弱くなったが、むかしは飲みだすと夜明けまで飲むという酒 も、彼の文学以前の深さを無視して評価するわナこ、、 る。 し、、、こい致題、したい致題をやるたちだったので、吉川 「刑罰と社会改良の会」は、機関誌として「社会改良」という季刊さんをもずいぶん閉口させた。 吉川さんの酒も愉央な酒だった。こんなこともあった。 の雑誌を出している。その第八巻第言勹 ( 通巻第二十九号ーー昭和 赤坂表町に住んでおられたころ、弟さんの晋さんもいっしょだっ 三十八年四月三十日発行 ) は、「吉川英治追悼号」である。また、 しつものように乱痴気さわぎに 同じ雑誌の第十巻第一サ ( 通巻第三十七号 昭和四十年十月三十たが、何人かで飲んでいるうちに、 日発行、十周年記念号 ) の座談会の中にも、吉川英治に関連のあるなった。吉川さんが、カラカサをもってやるなんとかいう踊りをは一 話が出ている。そしてこの雑誌の創羽号 ( 昭和三八年四月三十日じめた。ところが、すばめていたカラカサの中にくわえ煙草が落ち一 ・に、ら・し 発行 ) に彼が寄せた「痴人の言」も、 れわれも気 ~ 追障号に再録してある。死 , 、。占川さんは酔っていてそれがわからない。わ 一がっかなか「た。そのうち、カラカサがプスプスいぶりはじめた。一 一廃 , に運動だけでなく、刑事政策に 0 いて、は「きりした意見を持「 刊
あげた、ロうるさい頑張屋だ「た。さあ、どうだろうかと、送舌口一の一句だ「た。 を手で押えて、支局の注文を伝えると、みなさん異ロ同音に、それ私は、旅行が終るまで、社側に立って物を考えるより、あくまで はダメだという返事、ダメだと一たん電話を切ったが、またかかつも世話役に徹すべきだと、自戒すべきであったのである。 ( 天理大学講師 ) てきた。支局長は押しの一手だ。君も社の一員だろう、支局の計画 を実現させるため是非説得してはしいと、かさにかかった押しの一 手で押しまくる。 先生方は長い電話に聞耳をたてている。そのうち、昨夜の講演会 での支局長の態度は傲慢無礼だったと、ブップッいい出す先生も出 福永為則 てくる。電話ロで私が押しまくられているのにカンがさわったのだ ろう。吉川さんが突如 吉川先生は、昭和十二年と、昭和十三年と一一度中国大陸へ渡って 「見物などしていないよ。印象などあるものか」 北支、南支を歩かれました。 斬捨てるような、気合のこもった叱声だった。板ばさみ勿論、物見遊山ではなく、ちょうど日中事変のさなかで、東京日 今の一毋 になっていたときたけに、「・ー 物月さんの叱声は耳に鋭くつきささつ日 , ) の依嘱による、従軍記者としてですが、征野千里、アジ た。しかし、この叱声は、押しまくられてにえきらない私の態度ア民族の治乱興亡を眼の辺りに見て、少年の日、読み耽けられた を、シッタゲキレイしてくれたものだった。 「通俗三国志」や「水滸伝」の人物が、朝夕去来したであろうこと このおさまりは木村毅氏が、一人で五人分の長い話をしてやろうは間違いありません。 ということで落着し、あとは、吉川さんもなごやかに、宿の依頼の先生は稿を起されるにあたって、素材を充分ご自分の体内で消化 色紙の揮毫や、旅の記念の寄書などに筆を走らせた。この寄書で吉し、自分のものにならなければペンを執られなかったものです。 川さんが、私に書いて下さったのは 「三国志」の起稿も、土曜会 ( 月 編集註・から執筆依頼があってか ら、再度熟読され、一年余を経て始めてご自分の「吉川三国志」と 著者自筆短冊 して世に発表されたのです。 その頃の先生の机上には、 ( 吊に漢籍が載っており、漢詩や辞句が ら ! イの一叭みつつ。第窄、・↑の、 ' オす色紙や半切など」も、好ん「」漢詩句を揮毫されたも 0 です。 先生の日常の生活態度は、非常に規則正しいものでした。朝の目一 と共によく呼び起さ 覚めなども一番早く、同輩の田中君朝集 2 註 れたものです。 当時、新聞、雑誌の編集者以外にも ( 吊に来客が多く、誰れ彼れと 湯あがりの爪切る先や雲の峰 「三国志」のころ
- 一ころよ たかいびき ところが、すこし時経っと、すぐ快げな高鼾が洩れて来『花なら牡丹が欲しい。即座に、そこの大花瓶に、牡丹を咲か かせこなごな る。怪しんで覗いてみると、鎖も鉄の枷も粉々に解きすて、左せてみよ』 『てまえも、そう思っていました』 慈は、悠々と身を横にしていた。 曹操は、聞いて、 左慈は、ぶっと、唇から水を噴いた。嬋娟たる牡丹の大輪 しよくすいあた が、とたんに花瓶のロに揺々咲いた。 『食水を与えるな』と、一切の摂り物を禁じた。しかし七日た っても十日経っても、左慈の血色は衰えるどころか、却って日 日元気になってゆく。 『いっこ、、汝は魔か人間か』 ついに、獄から出して、曹操がたずねると、左慈は、呵々と 哄笑して、 びきひつじ 『一日に千疋の羊を喰べても飽くことは知らないし、十年喰わ ずにいても飢えることは決してない。そういう人間をつかまえ つば て、大王のしていることは、まったく天に向って唾するような ものですよ』 魏王宮落成の大宴の日が来た。国々の美味、山海の珍味、調 王宮の千客は、みな眼をこすり合った。眼のせいか、気のせ わざるなく、参来の武人百官は、雲か虹のごとく、魏王宮の一 いかと、怪しんだのであろう。 ほうじんさかななます 殿を埋めた。 ところへ、各人の卓へ、庖人が魚の鱠を供えた。左慈は、一 ときに、高い木履を穿いて、藤の花を冠に挿した乞食のよう眄して、 とっこっ おう な老人が、場所もあろうに、宴の中へ突忽として立ち、 『魏王が一代の御馳走といってもいいこの大宴に、名も知れぬ しようこうすずき 『ゃあ、お揃いだね』 魚の料理とは、貧弱ではないか。大王、なぜ松江の鱸をお取り なれなれ と、馴々しく諸官を見まわした。 寄せにならなかったか』 くせもの 曹操は、きようこそこの曲者を、困らしてやろうと考え、ま と、人も無げに云った。 た客の座興にもしてやろうと、 曹操は、赤面しながら、 うんしゅう 『こら、招かざる客。汝は、きようの賀に、何を献じたか』 『温州の果実はともかく、鱸といっては生きていなければ値打 のと、云った。左慈は、直ちに、 ちがない。何で千里の松江から活けるまま持って来られよう』 ちんせん 花『されば、季節は冬、百味の珍饌あるも、一花の薫色もないのと、客の百官に言い訳した。 『はて、さて、造作もないのに』 藤は、淋しくありませんか。左慈は、卓の花を献じようと思いま 『左慈、余りに、戯れを云って客の興をみだすまいぞ』 と ととの べん ぼたん 藤花の冠 と、つ ゆらゆらさ すずき かんむり せんけん ばたん
よ、つこ。 けれど、張飛の性質を知っているので、一たん引退って協議 しようぶ 巻蜀の章武元年七月の上旬、蜀軍七十五万は、成都を発した。 してみた。そしてふたたび張飛の前に来て、 せきはっ の このうちには、かねて南蛮から援軍に借りうけておいた赤髪『少くも十日の御猶予を下さい。到底、そんな短時日には、出 ばんいたい 来るわけがごさいません』 師黒奴の蛮夷隊も交っていた。 『御身は、太子を傅して、留守しておれ』と、孔明は成都に残と、事情を訴えた。 出 『なに、出来ない』 ちんほくしようぐんえん ばちょう 馬超、馬従の兄弟も、鎮北将軍魏延とともに、漢中の守備に 張飛は、酒へ火が落ちたようこ、 かっと青筋を立てた。側に のこされた。ただし漢中の地は、前線へ兵糧を送るためにも、 は、参謀たちも居て、すでに作戦にかかり、彼の気もちは、も 重要な部署ではあった。 う戦場にある日と変りないものになっていたのである。 こうちゅうふくしようふしゅうちょうなん で、発向した出征軍は、先陣に黄忠、副将に馮習、張南。中『出陣を前に、便々と十日も猶予しておられようか。わが命に ちょうゆうりようじゅん ぞな むねと 軍護尉に趙融、廖淳。うしろ備えには直臣の諸大将。宗徒の違反なす奴、懲しめてやれ』 けんじんくも きようちゅう 旗本など、堅陣雲の如く、蜀の峡中から南へ南へと、押し流武士に命じて、ふたりを縛り、陣前の大樹にくくり付けた。 むち なぐ れて行った。 のみならず、張飛は、鞭をもって二人を撲った。味方の者の はんきよう ところが 見ている前で、この事を与えられた范疆兄弟は、絶対なる侮辱 ここに蜀にとって悲しむべき一事件が突発した。それは張飛を覚えたにちがいない の一身に起った不測の災難である。 けれども二人は、やがて悲鳴の中から、罪を謝してさけん ろうちゅう あれから聞中の自領へ急いで帰った張飛は、すでに呉を呑むだ。 ごとき気概で、陣の将士に、 『おゆるし下さい。やります。きっと三日のうちに、御用命の はんきようちょうたっ 『すぐ出陣の用意をしろ』と令し、また部下の将、范疆、張達物を調達いたします』 のふたりを招いて、 至極単純な張飛は、 とう一 『このたび討呉の一戦は、義兄関羽の弔い合戦だ。兵船の幕か 『それみろ、やれば出来るくせに。放してやるから、必死にな ひたたれ 2 」っを、は′、ほ、つ ら武具、旗、甲、戦袍の類まで、すべて白となし、白旗白袍のって、調えろ』 軍装で出向こうと思う。就いては、おまえ達が奉仕して、三日 と、繩を解いてやった。 ととの のあいだにそれを調えろ。四日の早天には鬩中を出発するか その夜、彼は諸将と共に、酒を飲んで眠った。平常もありが しいつけた。 ら、違背なくいたせよ』と、 ちな事だが、その晩はわけても大酔したらしく、帳中へはいる と - 一 : は』とは云ったが、ふたりは眼をまろくした。無理な日と床のうえに、鼾をかいて寝てしまったのである。 とすぐ思った 限である。どう考えたって出来るわけではない、 すると、二更の頃。 からだった。 ふたりの怪漢が忍びこんで、やや久しく帳内の壁にへばりつ ばたい さいなん とむら ととの べんべん いびき か・ヘ ひき - が 276
から、喊の声が起り、あわやと、振り返っている間に、土砂、 孔明の顔を見るや否や、この老将は、衒気でも負け惜しみで なだれ 乱岩、伐木などが、雪崩の如く落ちて来た。 もなく、正直にそう云った。 『敵だ ? 』と、備えを改める遑もない。また忽ち一方の沢から孔明は大いに驚いて、 しようこ も、鉦鼓を鳴らして、一軍が奇襲して来た。さしもの趙雲も狼 『いかなる者がわが計略の玄機を知ったろうか』 ようす 狽して、 と、意外な容子を一小し、敵の姜維という若年の一将であると 『西の谷あいは広い。西の沢へ移れ』 断くと、なお更に、 らんせん と号令したが、同時に城中から射出した雨の如き乱箭も加わ『姜維とはいったい何者か』と息をひそめて訊いた。 たお って、早くも斃れる部下は数知れない。 彼と同郷の者があって、即座に素姓をつまびらかにした。 ろうきゅ・つしよくしょ・つ きようい しこうちゅう 『老朽の蜀将、逃げ給うな。天水の姜維これにあり』 『姜維は、母に仕えて至孝。智勇人にすぐれ、学を好み、武を きようまん 呼ばわりつつ追いかけて来る一騎の若武者があるので、趙雲練り、しかも驕慢でなく、よく郷党に重んぜられ、また老人を はなはずか が駒を止めてみると、正に、花羞しきばかりの美丈夫。 敬い、まことに優しい少年です』 『討つも憐れだが、 望みとあれば 』と、趙雲は殆ど一撃に 『少年 ? まさか童子ではあるまい。幾歳になるか』 はたち と思ってこれを迎えたらし、 しが、この若者の槍法たるや、世の 『多分、二十歳を出ては居ないはずです』 やりわざ ひばな みすが 常の槍技ではない。烈々火華を交えること四十余合、遉に古豪趙雲もそれを裏書して、 ちょうしりゅうかな 趙子童も敵わじと思ったか、ふいに後を見せて逃げてしまっ 『左様。二十歳をこえては居るまい。身なりも小さく、胡蝶の はなむしゃ 如き華武者じゃった。それがしは年七十にも相成るが、まだ、 今日まで、姜維のような槍の法を見たのは初めてである』 と云った。 のろ 詐わって城を出た馬遵は、城外三十里ほども来ると、後に狼孔明は、舌を巻いて、 はか 烟を見たので、すぐ全軍を引っ返して来た。 『天水一郡は、掌にあると思っていたが、測らざりき。その ちょううん すでに姜維の奇略に落ちて、さんざんに駈け散らされた趙雲ような英雄児が、この片田舎にもあろうとは』 かいそう ばじゅんせん の蜀兵は、平路を求めて潰走して来ると、ここに又、馬遵の旋と、痛嘆して、自身、軍容をあらためて、他日、廩重に城へ かんぶ 回して来るあって、腹背に敵をうけ、完膚なき迄に惨敗を喫し迫った。 ・一うしよ、っちょうよく た。ただここに蜀の遊軍高翔と張翼とが、救援に来てくれた 『およそ城攻めには、初めて懸る日をもっとも肝要とする。一 から 姜 為、辛くも血路をひらき得て、趙雲は漸く敗軍を収めることが 日攻めて落ちず、二日攻めて落ちず、七日十日と日数を経れば 夫 できた。 経るほど落ち難くなるものだ。彼は信を増し、寄手は士気を減 丈 これしきの 美『見事、失敗しました。負けるのもこれくらい見事に負けるじ、その疲労の差も加わってくるからである。 こじろつわものども と、むしろ央然たるものがあります』 小城、兵共の励みに乗せて、一気に踏みやぶれ』 し ばつばく あわ ばじゅん いとま ろう うやま たなごころ キ一ト : っ ・一ちょう
のんき れ飛ばしていた。それに張飛が飲み友達でも呼ぶように、暢気るときは、敵に計略があるときと極っている。下手な手に乗る 巻に呼ばわって来る声が、雷鳴に似た烈しさよりも、却って不気な』 の味に聞えるのだった。 『心得ました』 雷同は、一手の勢をひきいて、向うの山の下へ迫った。そし 南『退けや、退けや。ひとまず退け』 部下にも、逃げることのみ励ました。そして、蜀の旗が見えて、声かぎり、ロのかぎり、張部を悪罵し、魏兵に悪たれ口を 図 る山は避けて廻ったが、それはみな擬兵に過ぎなかったことが あとで判った。先廻りした雷同が、諸所へ兵を登らせて、やた いかんわい。何の手ごたえもありはしない。出直そう』 らに旗ばかり立てていたのである。 いたずらに、ロばかり草臥れさせてしまった。ーー戦う勿 が、そう知ったときは、すでに遅い。いちど崩れた陣形れ、の敵の鉄則はひどく固い は、すぐ立て直しがっかなかった。殊に嶮岨な山岳地帯では。 次の日も、繰り返した。 み一いもんと ま、、 ののし 『寨門を閉じろ』 そして、前の日にも勝るほど、声をそろえて、彼を罵り辱し とうきよみ一 たど とうきょ 辛くも、辿りついた一寨ーー・宕渠舞のうち〈味方を収めるめた。けれど、宕渠の一山は、頑固な唖のごとく、うんもすん いわあな 、くもん と、彼は、厳しく岩窟の門をふさぎ、渓谷の柵門を固め、また も答えない せめのば 絶壁の堅城にふかく隠れて、 『かかれつ ! 攻登れッ』 らいどう かんしやく 『戦う勿れ』 とうとう雷同は細癪を起して、まず渓流を踏みこえ、沢辺の * 一くもん を、旗じるしにしてしまった。 柵門へかかオ っこ。ばりばりとそこらを踏み破る。声をあわせ 張飛もまた、彼方の一山にまで来て、山陣を張り、ここに山て、山の肌に取っつく。 と山と、人と人と、相対して、 そのとき忽ち万雷の一時に崩れて来るかのような轟きがし 『いざ、来いーーー』の態勢をとった。 た。巨木、大岩石、雨のごとき矢、石鉄砲など。 ちょ・つ・一う ところが、張郤は、絶対に戦わない。 こっちの山陣から小手『待っていた』と、ばかり浴せかけて来たのである。蜀兵の死 むしろ をかざして見ていると、宕渠寨の高地へのばって、毎日、莚を者数百人、過日の勝を、この日に埋め合されて、戦は五分と五 またまた 展べ、帷幕の連中と共に、笛を吹いたり、鼓を打ったり、酒を分となり、又復山と山は睨み合いに入ってしまった。 のんだりしている様子である。 『味な真似をしおるそ』 がゆ 張飛は、むず痒い顔して、その態を、遠望していた。 張飛の心は甚だ安らかでない。 この上はみずから乗り出すよ 『ーーおい、雷同。見たか』 りないと、翌る日、向うの山の下へ部下を伴って迫り、雷同に 『癪ですな。御大将』 命じたように、自分でも亦、声かぎりにさまざまな悪罵をあび 『ひとつ、思い知らして来い。だが、いずれあんな事を誇一小すせた。 しやく から くたび へた さわべ 702
『どうも、こんどの遠征は、いつもの丞相らしい冴えがない』 四 諸将はいぶかった。 じゅんいく あくる日。 許都を発するとき葡彧が毒を服んで死んだことなどが、なに - 一うほとり 五、六十騎をつれて、彼は陣中を見まわり、何気なく江の畔 力、丞相の心理に影響しているのではあるまいか、などと囁く を歩いて来た。 者もいた。 ちょうど真っ赤なタ陽が、江の上流の山に沈みかけていたの いずれにせよ、連戦連敗をかさねて、その年の暮れてしまっ で、曹操はゆうべの夢を憶い出して、 たことは現実だっこ。 きちむ 『昨夜ふしぎな夢を見たが、吉夢だろうか、凶夢だろうか』 翌建安十八年、正月となっても、捗しい戦況の展開はな と、左右の将に語っていた。 く、二月に入ると、毎日、ひどい大雨がつづいて、戦争どころ すると、タ陽の光線と、江の波光とが相映じて、眩ゆいばかでなくなってしまった。 りぎらぎら燃えている彼方の赤い靄の中から、一旗、二旗、三人類がこの地上で遭遇した大雨の記録を破ったろうと思われ 旗、無数の旗が見え初めた。 るほどな雨量だった。日夜大雨はやます、陣小屋も馬つなぎ こと′一と はるか 『ゃ。敵 ? 』 も、悉く流され、曹操の中軍すら、筏を組んで、遙な北方の し、つまも . ない 山上へ移って行ったような有様だった。 かぶと 黄金の盗に、紅の戦袍を着、真っ先に進んで来た大将が、鞭次には当然、食糧難が起って来た。兵はうらみを含み郷愁 を思、つ。 をあげて、曹操をさしまねきながら揶揄して云う。 おかぞく まちまち 『国を侵す賊は何者だ』 諸将の意見も区々だった。硬論を主張するものは、陽春の候 おうしつ 『孫権か。予は、曹操である。王室の順に従わぬ者は討てと もやがて近し、死馬を喰って頑張っても、その時を待って一戦 の、勅を奉じて下った天子の軍である』 を決せすんば、遙に南下した効もないと云う。 『あら、笑に』 こういう状態の中へ、呉侯孫権から一書が来た。文に日く。 孫権は、哄笑した。 予モ君モ共ニ漢朝ノ臣タリ マタ民ヲ泰ンズルヲ以テ徳ト レにつン一 トウリョウ 『天子の尊きは、誰も知る。故に、天子の御名を詐るものは、 シ任トスル武門ノ棟梁テハナイカ。仁者相争ウヲ嘲ッテカ 人ゆるさず、地ゆるさず、天ゆるさず。孫権もまたゆるさぬ。 天ハ洪々ノ春水ヲ漲ラシ、君ノ帰洛ヲ促シテ居ル。賢慮セ セキへキグ 輪人中第一の悪人曹操、首をさしのべよ』 ョ君、再ビ赤壁ノ愚ヲ繰返スコトナキヲ。 これを聞くと曹操の気は怒るまいとしても怒らざるを得なか 建安十八年春一一月呉侯孫権書。 った。彼は又も、敵の仕掛けた戦に誘われて戦った。この日の ふと、書簡の裏を見ると、又、 さんれつ ソッカンナズン・ 戦闘も、惨烈をきわめたが、結果は、魏の大敗に帰してしまっ 足下不死 フレャスキヲエプ 孤不得安 日 ) 0 ひたたれ もや きようむ きよと コウコウ・ の いかだ ぶん きょ・つしゅう
だけに彼一名を生擒れば、爾余の大将を百人二百人縛め捕るに水、安定の二郡へ対し、かく救いを求めらるる次第です。急 - : つめい しゅうげき そ も勝ります。よし一三ロはないものでしよ、つか』 遽、郡内の兵を挙げて、孔明のうしろを襲撃されたい。 『こよいは寝んで、明日、地の利を見てみよう』 して貴軍が後詰下さる日を期し、城中からも合図の火の手をあ なにとぞ 孔明は落着いていた。 げ、内外より蜀軍を撃ち挾まんとの手筈ですから、何卒、お抜 かりイ . なノ、亠い 4 にし』 四 『分りました。 が、夏侯甜馬の親書でも御持参なされた てんすいぐんつら あんていぐん 南安は、西は天水郡に連なり 、北は安定郡に通じている嶮峻か』 にあった。 『もとよりの事』と、裴緒は、汗みずくな肌着の下から、しと げきぶん 孔明はそのあくる日、仔細に地理を見て歩き、後、関興と張どに濡れた檄文を出して手交し、 苞を帷幕に招いて、何事か計を授けていた。 『これから天水郡の太守へも、同様な催促に参らなければなり にせししゃ また、物馴れた人物を選んで、偽使者に仕立て、これにも何ませんから』 きようおう やら云い含めた。準備期間が終ると、南安城への攻撃を開始し と、饗応も謝して、すぐ馬に鞭うって立ち去った。 ふえん た。そしてもつばら、流一言を放って、 偽使者とは夢にも気づかず、崔諒は兵を集めて赴援の準備を 『柴を積み、硝薬を用いて、火攻にして陥さん』 していると、二日の後、又復、一使者が来て城門へ告げた。 たいしゅばじゅん と、敵へも聞えるように云わせた。 『天水軍の太守馬遵は、瞬時に発して、はや蜀軍のうしろに後 夏侯楙は大いに嘲笑って、 詰しておるのに、安定城はなにを猶予しておらるるそ。ーーー夏 こうふば 『孔明孔明というが、程の知れたものよ』と怕れるふうもなか 侯坿馬の御命令を軽んじておらるるか』 み、いりしム、フ あわ 坿馬は魏の帝族である。崔諒はふるえ上って発向に慌てた。 なんあん み、いりみ、フ - 一も てんこが 南安の北に位置する隣郡、安定城の方には、魏の崔諒が籠っところが城を出て七十里、夜に迫ると、前方に火炎が天を焦し み、、 S ・ト : っ ていた。崔諒は前からこの地方の太守として臨んでいた者であている。 『何事か』 るが、一日、城門へ立った一使者が、 と、斥候隊を放っと、その斥候隊の生死も知れす、ただ一 『それがしは夏侯楙鮒馬の一将にて、裴緒と申す者であるが、 しよくかん - 一うぐん はやはや 陣、蜀の関興軍が猛進して来た。 火急の事あって、御使に参ったり、早々太守に告げ給え』と、 て 呼ばわった。 『早くも、敵か』 み、いりト : っ・ の 指崔諒がすぐ会って、 と、おどろいて退くと、後からは張苞の軍隊が喊をあげて来 み一いりトっ しりめつれつ を『何事のお使か』 。崔諒の全軍は支離滅裂になり、彼はわずかの部下ととも と、訊くと、使者の裴緒は、 小路を迂回して、安定の城へ引っ返した。 中 『南安すでに危く、事急です。依ってそれがしを使とし、天『ゃあ ? あの旗は』 まみ一 やす あざわら おと おそ かん - : っちょ、つ けんしゅん ねが か - 一うふば ちょうほう とき 329
せんけい ことはできまい』 て進んで来たが、何そはからん振り返ると、羨渓の谷間から雲 きようきよう 恟々と、ふるえ上っているのを見て、朱桓は、主なる部下のごとく湧き出した呉軍が、退路を切って、うしろからとうと を会して告げた。 うと金鼓を打ち鳴らして来る。 さんせんうず 『魏の大軍はまさに山川を埋めている観がある。しかし彼は遠実に、この日の敗戦が、魏軍にとって、敗け癖のつき始まり く来た兵馬であり、この炎暑にも疲労して、やがて却って、自となった。以後、連戦連敗、どうしても朱桓の軍に勝てなかっ あくえき らの数に苦しむときが来るだろう。陣中の悪疫と食糧難の二つた。 とうこうなんぐん が彼を待っておる。それに反して、寡兵なりといえ、われは山 ところへ又、洞ロ、南郡の二方面からも、敗報が伝わった。 そうひこうてい 上の涼地に籠り、鉄壁の険に加うるに、南は大江をひかえ、北 悪くすると、曹丕皇帝の帰り途すら危くなって来たので、曹丕 ろう は峩々たる山険を負う。 これ逸をもって労を待っ象。兵法もついにここを断念し、無念をのみながら、敗旗を巻いて、一 カクへイバイ ナカバ にもこう云っておる。ーー客兵倍ニシテ主兵半ナルモノハ、主先ず魏へ引き揚げた。 へいせんこうや 兵ナオョク客兵ニ勝ツーーと。平川曠野の戦いは兵の数よりそ かけあい の掛合にあること古来幾多の戦いを見てもわかる。ただ士気乏 しゆかん しきは凶軍である。貴様たちはこの朱桓の指揮を信じて、百戦 しるし 百勝を信念せよ。われ明日城を出て、その証を明らかに其の方 たちの眼にも見せてやるであろう』 次の日、彼はわざと、虚を見せて、敵勢を近く誘った。 じようちょう 魏の常雕は、短兵急に、城門へ攻めかけて来た。 せき 門内は寂として、一兵もいないようであった。 からめて 『敵に戦意はない。或いはすでに搦手から逃散したかもしれぬ そ』 この年四月頃から蜀帝玄徳は永安宮の客地に病んで、病状日 じようちょう′一うきわ あっ 兵はみな不用意に城壁へつかまり、常雕も壕の際まで馬を日に篤かった。 なんどき 出して下知していた。 『い亠まは何 . か ? ・』 しよくき 轟音一発。数百の旗が、矢倉、望楼、石垣、楼門の上など枕前の燭を剪っていた寝ずの宿間や典医が、 ばんだ す 『お目ざめでいられますか。しし 万朶の花が一ペんに開いたように翻った。 、まよ三更でございます』と、奏 いしゆみそや 託 弩や征矢が、魏兵の上へいちどに降りそそいで来た。城門した。 を しろじろかがや 白々と耀き出した燭を見つめながら病床の玄徳は独り語に、 は八文字にひらかれ、朱桓は単騎乱れる敵の中へ入って、魏将 じようちょう 『では、夢だったか : : 』と、つぶやいた。 遺の常雕を、ただ一太刀に斬って落した。 前隊の危急を聞いて、中軍の曹仁は、即座に、大軍をひきい そして夜の明くる迄、亡き関羽や張飛の思い出ばなしを侍臣 ひるがえ かたち 遺孤を託す たく との、 ぐせ ま 249