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検索対象: 三国志(三) (吉川英治)
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1. 三国志(三) (吉川英治)

ムフから三十年ばかり、ー ⅱ、たしか胖羽ー : 平初夏のことであった。 「サンデー毎日」Ⅱ 」」にこ周「記念として、作家の講演会を催した。 作家は吉川英治、長谷川 伸、村松悄風、上師清二、本朴毅の五 氏、今日すでにい 、ー・公の三氏はなく、平並Ⅲによると、 吉月さんは当四十「 / 岸 明日に車載の「宮本武蔵」が圷倒的な人 / , 一 気の最中だった。会場は大阪、」ー、 ; 、い一、 力尸名古屋、 福岡の五市 その頃は、作家の講演など今日ほど盛んでなく、講師の諸先生も講 演ずれしていなくて、壇上に立つ前しばらくは、むつかしく不気嫌 な顔を露骨に見せていた 私は諸先生の世話役として、ずっと才 、 ) にしたのであったが、小さ な事件、吉川さんの叱声は、講演会も全部終った、最後の福岡の宿 で起った。 とかく、講演旅行のお伴は、気骨の折れるものだ。神経の鋭い人一第 一達だし、旅先でも、連載ものを持っていれば、寸暇をみて書かねば ならない。そのため気がいらだっことだってあろう。旅を重ねるう ちに、疲労も積る。 一週間のスケジューレ。こっこ : 、 ノオオカとにかく頂調に一」して、一量同 で最後の講演会も終った。その夜は、 すぎから、先生方と僕だ けで、打上げの会を開き、大いにメートルをあげた。万事終っこ。 先生たちもはっとした気持だったろうが、不 ムとしても、やれやれとて、先生達ととっている最中だった。 いう解放感で、深史まで大はしゃぎだった。 突然電店、、、 ⅱカかかってきた。社の福岡支局長からで、これから支局 翌朝、もうあとは餐すぎの列車で、東京に引きあげるだけ。気持員を差向ける、福岡の印象を、先生方一人一人に話してもらいたい もだるみ、ゆっくり起床、十時過におそい朝食を一つの部屋に集っという注文。当時の支局長は、私の大先輩だったし、事件でたたき 七、ら 1 こ下ロ 文芸講演会の一行 ( 昭和十二年福両にて ) 左より土師清二、著者、二人おいて村松風

2. 三国志(三) (吉川英治)

り、門は閉ざされ、番人はかたく拒んで、何といっても通さなのであろうか』 巻 と、自身駕を向けて、孔明に問わんと云われたが、太后の出 やむなく二人は、門外から大音をあげて、 みゆき そうひ の『魏の曹丕、五路の兵を起し、わが国防はいま五面ことごとく御を仰ぐのは余りに畏れ多いと、帝は直ちに丞相府へ行幸され 師危きに瀕しておる。さるを、丞相ともある御方が病に託して、 おどろ みゆき 愕いたのは、市吏や門吏の輩である。突然の行幸に、身のお 朝にもお出でなきは、一体いかなるお気持であるか。先帝孤 出 けいりようふんば くところを知らず、拝跪して、御車を迎えた。 を丞相に託されてより幾日も経ず、恵陵の墳墓の土もまだ乾い 『丞相はいずこに在るか』 ていない今日ではないか』 帝は車を降りて、三重の門まで、歩行してすすみ、吏に問わ と、腹立ちまぎれに罵った。 あしおと すると、内苑を走ってきた人の跫音が、門を閉めた儘、内かれると、吏は恐懼して拝答した。 『奥庭の池のほとりで、魚の遊ぶのを根気よく眺めておられま ら答えた。 『丞相には、明朝早天、府を出られて、朝廟に会し、諸員とす。多分、いまもそこにおいでかと思われますが』 議せんと仰せられています。今日はおもどりあれ』 やむなく、二人は立ち帰って、ありの儘を、帝に奏し、なお 帝はただおひとりでつかっかと奥の園へ通って行かれた。見 百官は、明日こそ丞相の参内ありと朝から議堂に集まってい ると果して池の畔に立ち、竹の杖に倚って、凝と、水面を見て いる者がある。 ところが午も過ぎ日は暮れても、ついに孔明は来なかった。 紛々たる怨みや、非難の声を放って、百官はみな薄暮に帰り去『丞相、何しておられるか』 帝がうしろから声をかけると、孔明は杖を投げて、芝の上に 帝の心痛は一通りでない。次の日明けるや否、杜瓊を召され拝伏した。 て、 『これは、いつの間に ? : お迎えもいたさず、大罪おゆる 『事は急なり、孔明はさらに朝せず、抑、このときをいかにせし下さいまし』 はか ばよいか』と、諮られた。 『そのような些事はともあれ、魏の大軍が、五路に進んで、わ みゆ 『やむを得ません。この上は、帝おんみずから、孔明の門に行が境を犯そうとしている。丞相は知らないのか』 ふしよう 『先帝、崩ぜられんとして、不肖なる臣に、陛下を託され、ま 幸され、親しく彼の意中をお問い遊ばすしかないでしよう』 たい - 一う りゅうぜん た国事を嘱し給う。何で、昨今の大事を知らずにいてよいもの 後主劉禅は、西宮に入って、母なる太后にまみえ、 ですか』 『行って参ります』と、仔細を告げた。 太后も仰天されて、 『ではなぜ朝議にすがたを見せないのか』 、いしよう 「ど , っして たるの故を以って、 ふんぶん っ ) 0 ひる に・反 . / 、レ , っ . な ~ 蝌↓ど・も , つ、す . 「つ ちょうびよう せんていみなしご じようしよう しよく まとり 策のまま臨んでも、 254

3. 三国志(三) (吉川英治)

さま対戦の姿勢をとった。 一方。ーー彼のために再起し能わぬ大敗をうけた帝玄徳は、 白帝城にかくれて後、まったく往年の意気もどこへやら、 『成都に帰って群臣にあわせる顔もない』 はれん と、深宮の破簾、ただ此の人の傷心をつつんでいた。そのう かんちゅうこうめし ちに、漢中で孔明に会った馬良が帰って来て、孔明のことばを 伝えたが、帝は、 『今さら云っては愚痴になるが、丞相のことばに従っておれ うきめ ば、今日のような憂目には立つまいに』と、 いたく嘆いて、遠 しつぶうじんらい 蜀を破ったこと疾風迅雷だったが、退くこともまた電馳奔来く彼を慕ったが、依然、成都帰還の事はなく、白帝城をあらた はや おご えいあんきゅうよ の迅さであった。で、勝ち驕っている呉の大将たちは、陸遜にめて永安宮と称んでいた。 しよく 向って、 その頃、蜀の水軍の只権が、魏に入って、曹丕に降ったと らんせき 『せつかく白帝城へ近づきながら石の擬兵や乱石の八陣を見 いう噂が聞えた。 て、急に退いてしまったのは、一体いかなるわけですか、ほん蜀の側臣は、玄徳に告げて、 ものの孔明が現われたわけでもありますまいに』 『黄権の妻子一族を斬ってしまうべきでしよう』 と、半からかい気味に訊ねた。 と、すすめたが、玄徳は、 こうけん 陸遜は、真面目に云った。 『いやいや黄権が魏に降ったのは、呉軍のためまったく退路を たしか 『然り、我輩が孔明を怖れたことは確だ。けれど引き揚げた理遮断されて、行くにも戻るにも道がなくなったからであろう。 ちん 由はべつにある。それは今日明日のうちに事実となって諸公に黄権われを捨つるに非ず、朕が黄権を捨てた罪だ』 も分って来るだろう』 しつけた。 と云って、却って彼の家族を保護するようにい、 とんじ そうひ ちんなんしようぐん 人々は、一時のがれの遁辞だろうとおよそに聞いていたが、 その黄権は魏に降って、曹丕にまみえたとき、鎮南将軍にし お 一日措いて二日目。この本営には、櫛の歯をひくような急変のてやるといわれたが、涙をながすのみで少しも歓ばなかった。 そうひ 報らせが、呉国の諸道から集って来た。すなわち日う、 で、曹丕が、 『いわ、か』 ぶ「魏の大軍が、三路にわかれ、一道は曹休軍が洞口に進出し、 そうじん じゅしゅ うんか ・そうしんなんぐんさかいせま 曹進は南郡の境に迫り、曹仁ははや濡須へ向って、雲霞の如く ン「日炉、つ」、 を と。 南下しつつあります』 『敗軍の将、ただ一死を免れるを得ば、これ以上の御恩はあり あやま ません』 孔『果して ! 』と、陸遜は手を打って、自分の明察の過たなかっ たことを自ら祝し、また呉国のために、大幸なりしよと、すぐ と、暗に仕えるのを拒んだ。 孔明を呼ぶ ひ でんちほんらい こうけん 洋一りト - 、つ あた じようしよう そうひ 2 イ 7

4. 三国志(三) (吉川英治)

中よりもどこよりも最も戦場に近かったので、孔明が馬良と別『勝目のない戦いに益なき死力を振うよりは、呉に降参して、 巻れて、成都へ帰る際に、 長く武門の栄誉を担わんか』 の ( 即刻行って、帝を助けよ ) と、敵からすすめられたのに対して、傅形は、最期の姿を陣 頭にあらわして、 師と、一書を飛ばしておいたものと思われる。 カそれ『いやしくも我は漢の大将。何そ呉の犬に降らんや』 出いずれにせよ、趙雲の来援は、地獄に仏であった。ま、 にしても何と変ったことだろう。かって玄徳が初めてこの白帝と、大軍の中へ駈け入って、華々しく玉砕を遂げた。 ちゅうとん さいしゅていき 城に入ったときは、七十五万の大軍が駐屯していたものなの また蜀の祭酒程畿は、身辺わずか十数騎に討ち減らされ、こ - 一じゅう 、今はわずか数百騎の供しか扈従していなかったという。 の上は、舟手の味方に合して戦おうと江岸の畔まで走って来た もっとも趙雲子竜や関興、張苞などの輩は、帝が城に入るのところが、そこもすでに呉の水軍に占領されていたので、忽 きゅう′一う を見とどけると敗軍の味方を糾合すべく、すぐ城外から元の路ち、進退きわまってしまった。 へ引き返していた。 すると、呉軍の一将が、 ていさいしゅ 『程祭酒程祭酒。水陸ともにもう蜀の一旗も立っているところ はない。馬を降りて降伏せよ』 と、云った。 程畿は髪を風に立てて、 『われ君に従って今日まで、戦いに出て逃ぐるを知らず、敵に 会っては敵を打ち砕く以外を知らない』と怒号して答え、四角 八面に馬を躍らせて、これ又、自ら首を刎ねて見事な最期を遂 げてしまった。 ちょうなん 、りようーレ・つ そんかん 蜀の先鋒張南は、久しく夷陵の城を囲んで、呉の孫桓を攻め お 全軍ひとたび総崩れに陥ちてからは、七百余里をつらねてい たてていたが、 味方の趙融が馬を飛ばして来て、 みなこうずい た蜀の陣々も、さながら漲る洪水に分離されて浮島のすがたと 『中軍が敗れたので、全線崩れ立ち、帝のお行方もわからな なった村々と同じようなもので、その機能も聯絡も失ってしま い』と、告げて来たので、 とうと・つ 、各個各隊思い思いに、呉の々たる濁水の勢いと闘うのほ 『すわ』と俄かに囲みを解き、玄徳のあとをたずねて、中軍に まと よ、つこ。 ー刀十 / 、カ / 纏まろうとしたが、 その為、わずか昨日から今日にかけて討死をとげた蜀の大将『時こそ来れ』 は、幾人か知れなかった。 と、城中の孫桓が追撃に出て、各所の呉軍とむすびあい、張 ふとう まず傅形は呉の丁奉軍に包囲されて、 南、趙融の行く先々を塞いだので、二人も、やがて乱軍の中 せき 石兵 陣 じん ていき ちょうゆう ふさ ふとう へ 2 イイ

5. 三国志(三) (吉川英治)

へきがん しぜんそぞく 『碧眼の小児、紫髯の鼠賊、思い上るを止めよ』 と答えた。 と、大喝して、なお何か罵り出した。 普静は起って庭に出で、 ぐ * 一と の『将軍、何そそれ迷うの愚を悟らざるか。将軍が今日まで歩み満座の人々は総立ちになって、彼の周りに集まり、他へ連れ おどろ 師経て来た山野のあとには将軍と恨みをひとしゅうする白骨が累て行こうとしたが、呂蒙は怖ろしいカで振り放ち、愕き騒ぐ人 累とあるではないか。桃園の事はすでに終る。いまは瞑して九人を踏みつけて、遂に上座を奪ってしまった。そして物の怪に 出 泉に安んじて可なりである。喝 ! 』 憑かれた眼を怒らして、 ほっす と、払子で月を搏っと、忽ち関羽の影は霧のように消え失せ『われ、戦場を縦横すること三十年、一旦、汝らのりに落ち てしまった。 て命を失うとも、かならず霊は蜀軍の上にあって呉を亡ばさず かんじゅていこう しかしその後も、月の夜、雨の夜、庵を叩いて、 には措かん。かくいう我はすなわち漢の寿亭侯関羽である』 おしえた と、吠ゆるが如く云った。 『師の坊、高教を垂れよ』 と度々人の声がするというので、玉泉山の郷人たちは相談し孫権も諸人もみな震えあがってはかの閣へ逃げてしまった。 うびよう だが燈は消えて真っ暗になったそこから呂蒙は出て来なかっ て一宇の廟を建て、関羽の霊をなぐさめたという。 とも ひ た。後、諸人がそっと灯を燈してそこへ行ってみると、呂蒙は けいしゅう ねら 呉の孫権は荊州戦ののち大宴をひらいて将士を犒「たが呂蒙自分の髪の毛をつかんで、え死んでいた。 ちまた が見えない。彼は呂蒙へその席から使をやって、 これも当時流布された巷の話の一つである。もとより真相に せんりよう 『このたび荊州を得たのはみな汝の深慮遠謀に依るものだ。汝遠いことは云うまでもなかろう。けれど荊州占領の後、幾ば くもなくして呂蒙が病で世を去ったことだけは事実であった。 がすがたの見えないのは淋しい。予は汝の来るまで杯をとらず に待つであろう』と、云い送った。 呂蒙は過分なるおことばと恐縮してすぐ席へ来た。孫権は杯 をあげて、 しゅうゆせきへきそうそう 『周瑜は赤壁に曹操を破ったが不幸早く世を去った。魯粛も帝 国葬 おう 王の大略を蔵していたが荊州を取るには到らなかった。けれど この二人はたしかに予の半生中に会った快傑であった。ところ が今日、荊州は我が物となり、しかもわが呂蒙は眼前になお健 しゅうゆろゆく 在だ。こんな愉央なことはない。正に御身は周瑜、魯粛にも勝 るわが呉の至宝である』と、その杯を彼にとらせた。 すると呂蒙は、やにわに杯を擲って、孫権をはったと睨めつ し かっ み一とびと ろしゆくてい りよも・つ まんこく . 呉侯は、呂蒙の死に、万斛の涙をそそいで、爵を贈り、棺槨 をそなえ、その大葬を手厚く執り行った後、 っ しやくおく かんかく ノ 84

6. 三国志(三) (吉川英治)

に楊懐、高沛がきようこそ君を刺殺せんと待ちうけているもの と考えられる。わが君、御油断あそばすな』 『その事ならば』 よろい ほ - つけールは あっきらせつ と、玄徳は、身に鎧を重ね、宝剣を佩き、悪鬼羅刹も来れ と、心をすえて更に駒をすすめた。 えんこうちゅう 靡統は、幕将の魏延、黄忠などに、何事かささやいて、一歩 せんたい 一歩のあいだにも、戦態を作りながら前進していた。 たいか やまあい すでに、関門の大廈が、近々と彼方の山峡に見えた頃であ る。 かばうかん げんレ一′、 ふじよう きんしゅう 葭萌関を退いた玄徳は、ひとまず浩城の城下に総軍をまと楽を奏しながら、錦繍の美旗をかかげて、彼方から来る一群 ふすいかん め、浩水関を固めている高沛、楊懐の二将へ、 の軍隊がある。 にわか 『お聞き及びのとおり、遽に荊州へ立ち帰ることとなった。明真先に来た大将が云った。 けいしゅう りゅうこうしゆく 日、関門をまかり通る』 『今日、荊州へ御帰還あるという劉皇叔におわさずや。遠路 と、使をやって開門を促しておいた。 の途中をおなぐさめ申さんが為、いささか粗肴と粗酒を献じた 高沛は手を打って、 く、これまでお迎えに出たものです。何とそお納めをねがいた ようかいぜっ - 一う 『楊懐、絶好な時が来たそ。明日、玄徳がここを通過したら、 し』 ぐんりよろう 軍旅の労をねぎらわんと、酒宴を設けてその場で刺し殺してし靡統が出て挨拶した。 しよくうれ、 まおう。ーー・・蜀の憂患を除くためだ。抜かり給うな』 「これはこれは過分な礼物。皇叔にもいかばかりお歓びあるや と、ここでは二人が手に唾して夜の明けるのを待っていた。 しれません。高沛、楊懐の二兄にもよしなにお伝えおき下さ ほ、つレ : っ・ 翌る日、玄徳は大行軍の中にあって、靡統と駒をならべ、何 し』 ふすいかん か語りながら浯水関へ向って来た。 『いずれ後刻、陣中御見舞に伺う由ですが、取敢えず、酒肴を やまかぜ はたぎおさお すると、一陣の山風に、旗竿の竿が折れた。玄徳は、眉を曇お目にかけよとのことに、あれへ品々をわせて来ました』 らせて、 と、夥しい酒の瓶、小羊、鶏の丸焼などを、それへ並べて帰っ 人『や、や。これは何の凶兆か』 と、駒を止めた。 一行はそこに幕舎を張って、酒の瓶を開き、山野の風物に一 中靡統は、一笑して、 息入れながら、杯を傾けて休息していた。そこへ高沛と楊懐 『これは天が前もって凶事を告知してくれたものです。故に、 が、兵三百を供につれて、 酒 思、フ 凶ではありません。むしろ吉兆というべきでしよう。 『お名残り惜しいことです。せめて今日は、親しくお杯を賜わ しゅちゅうべつじん つば 、つ力い 、、つ力し かめ そ・一う

7. 三国志(三) (吉川英治)

『知らずや関平。荊州はすでに呉の孫権に奪られておるそ。 『きよう何処からともなく、荊州が陥ちた、荊州は呉に占領さ こせがれ 巻ーー汝家なき敗将の小伜。何を目あてに、なお戦場をまごまごれたと、頻に沙汰する声が聞えて来ましたが、あなたもお聞きた ののし のしておるかっ』と、罵った。 になりましたか』と、たずねた。 ま - 一とじよ - 一う ・よ・つカ 師それが真の徐晃であった。 関平は剣を抜いて、味方の軍勢の中へ立ち、廖化へする返事 を全軍へ向ってした。 出 『流言はすべて、敵の戦意をくじく謀だ。猥りに嘘言を伝 え、嘘言に興味を持つ者は斬るそ』 数日のあいだは、もつばら守って、附近の要害と敵状を見く しちょ めんすい ししがき らべていた。四家は前に汚水の流れをひかえて、要路は鹿垣を からめて むすび、搦手は谷あり山あり深林ありして鳥も翔け難いはどな 地相である。 『いま徐晃は勝に乗って、急激な前進をつづけ、彼方の山まで 来ておると、偵察の者の報告だ。思うにあの裸山は地の利を得 けいしゅう しちょ けんごむそう 『えつ、荊州が陥ちた ? 』 ていない。反対にわが四家の陣地は、堅固無双、ここは手薄で かんべい な 関平は戦う気も萎え、徐晃をすてて一散に引っ返した。混乱も守り得よう。ひとっ御辺と自分とひそかに出て、彼を夜討ち するあたまの中で、 にー ) レ玉、つでは、一ないか』 えんじよう 『ほんとだろうか ? 真逆 ? 』 偃城を失った関平は、勢いその雪辱にあせり気味だ。遂に さそ りようか と、わくわく思い迷った。 廖化を誘って、本拠を出た。もちろん連れてゆく兵は精鋭中の そして偃城近くまで駈けて来ると、こはいかに城は濛々と黒精鋭を択りすぐって。 きゅう 煙を噴いている。そして炎の下から蜘蛛の子のように逃げ分か礦野の一丘に、一の陣屋がある。いわゆる最前線部隊であ れて来る味方の兵に問えば、 る。この小部隊は、点々と横に配されて、十二カ所の長距離に 『いつのまにか搦手へ迫って来た徐晃の手勢が、火焔を漲らし連っている。 こわ て攻め込んだ』と、口々に云う。 この線を敵に突破されることは恐い 一カ所突破されれば十 りよう 『さては今日の戦こそ、彼の思うつばに嵌った味方の拙戦であ二の部隊がばらばらになるからである。関平の血気に従って廖 ゆえん 子ノカ』 化のうごいた所以も、要するにその重要性があるからだった。 地だんだ踏んで叫んだが、事すでに及ばない。関平は駒を打『今夜、敵の裸山へは、自分が攻め上ってゆく。御辺はこの線 しちょ れんじゅ って、四家の陣へ急いだ。 を守り、敵の乱れを見たら、十二陣聯珠となって彼を圧縮し、 廖化は、彼を迎えて、営中へ入るとすぐ、 四散する敗兵をみなごろしになし給え』 えんじよう びんし 鬢糸の雪 からめて - 一まィ一か じ上こう はま と みな芋 か はかり′一と みだ

8. 三国志(三) (吉川英治)

『おもしろい』と孫権は彼の希望を容れた。特に直属の精鋭中中へ入った。 から百人を選んで与えた。 たちまち、諸所に火の手があがる。 甘寧は夕方、その百勇士を自分の陣所に招いて、一列に円く 暗さは暗し、曹操の旗本は、右往左往、到る所で、同士討ち なって坐り、酒十樽、羊の肉五十斤を供え、 ばかり演じた。 かんねい 『これは呉侯からの拝領物だから、存分に飲ってくれ』 甘寧は、思う存分、あばれ廻った。時分はよしと、百人を一 しろがわわん と、まず自身、銀の碗で一息にほして、順々にまわした。 カ所にあつめ、一兵も損ぜず、風のごとく引返して来た。 肉を喰い、酒をあおり、百名は遺憾なく近来の慾をみたし『将軍の胆は、さだめし曹操の魂を挫いだであろう。痛快、 た。そこで甘寧は、 痛快』 ふり 『もっと飲め、もっと喰え。今夜この百人で、曹操の中軍へ斬孫権は、刀百ロ、絹千匹を贈って、彼を賞した。甘寧はそれ 込むのだ。あとに思い残りのないようにやれ』と告げた。 をみな百人に頒けた。 ちょうりよう 一同は顔を見あわせた。酔った眼色も急にうろたえている。 魏に張遼あるも、呉に甘寧あり と、呉の士気は、為に こんな百人ばかりの勢でどうして ? と云わんばかりな顔大いに振った。 つきだ。 がいぜん 甘寧は、さッと、剣を抜き、起って、慨然と、叱咤した。 『呉の大将軍たる甘寧すら、国のためには、 ~ 叩を惜まぬの昨夜の雪辱を期してであろう。夜が明けると共に、張遼は一 おし ひる 、汝等身を惜んでわが命令に怯むかっ』 軍を引いて、呉の陣へ驀然、攻勢に出て来た。 まえぶれ 違背する者は斬らんという前触である。ここで死ぬよりは 『きょ , っこそは、一々と』 め・ようとう むか と、百勇士はことごとく、剣の下に坐り直して、 呉の綾統も、手に唾してそれを邀えた。甘寧が昨夜すばらし 『ねがわくば将軍に従って死を倶にしたいと思います』 い奇功を立てて、君前のお覚もめでたい事は、もう耳にしてい と、ぜひなく誓った。 る。で、勃然、 ( 彼如きに負けてなろうか ) という日頃の面目 あいじるし 『よし。では銘々、合印として、これを盗の真向へ挿してゆも、今日の彼には、充分意中にある。とけむる戦塵の真先 、張遼のすがた、その左右に、李典、楽進など、呉の兵を あひるはね と、白い鵞の羽を一本ずつ手渡した。 ちらし蹴ちらし馳け進んで来た。 しゃ・ 1 う 夜も二更を過ぎるとこの一隊は篠にの「て水跡を迂回し、堤綾統は、馬上、刀をひ「さげて、疾風のように斜行し、 のにそい、野をよぎり、忍びに忍んで、ついに曹操の本陣のうし『来れるは、張遼か』 毛ろへ出た。 と、斬りつけた。 鵞『それつ、銅鑼を打て、鬨の声をあげろ』 『おれは、楽進だ』 柵へ近づくや、立ち所に哨兵を斬り捨て、わっと一斉に、陣とその者は、槍をひねって、直ちに応戦して来た。 レ」キ - きん かぶと しった まる つば ばくぜん おばえ かんねい ひし

9. 三国志(三) (吉川英治)

蜀山遠し ころもめ その夜、廖化は関羽の一書を衣に縫いこみ、人々に送られて、 ま 古城の一門から外へ紛れ出た。 一、いほ、フ きんこてっそう 忽ち、暗夜の途は金鼓鉄槍に鳴りひびいた。呉の大将丁奉の 部下が早くも見つけて追って来る。それを城中から関平の一隊 が出てさんざんに駈け乱した。廖化は漸く死線を越えた。 彼はあらゆる辛酸をなめ、乞食のような姿になって、遂に目 、りゆら′ほ、つ 的の上庸に行き着いた。そして城を訪れるや直ぐ、劉封に会っ て仔細を告げ、 きわ 『さしもの関将軍もいまや麦城のうちに進退全く谷まっておら 閑話休題ーーー れる。もし救いが遅延すれば関将軍は最期を遂げるしかありま 千七百年前の支那にも今日の中国が見られ、現代の中国にも せん。一日いや一刻も争うときです。すぐ援軍をお向けねがい しばし オし』 三国時代の支那が屡眺められる。 戦乱は古今を通じて、支那歴史をつらぬく黄河の流れであり と、一椀の水すらロにしないうちに極一一一一口した。 ーりゆ、つほら・ 長江の濤である。何の宿命か此の国の大陸には数千年のあい が何と思ったか、 劉封はうなずいた。 もうたっ 『ともかく孟達に相談してみるから』 だ半世紀といえど戦乱の絶無だったという事はない にわか だから支那の代表的人物はことごとく戦乱の中に人と為り戦 と、彼を待たせておいて、遽に孟達を呼びにやった。 やがて孟達は、べつな閣へ来ていた。劉封はそこへ行って、乱の裡に人生を積んできた。また民衆もその絶えまなき動流の よう せんせんきようきよう 何分この上庸でも今、土に耕し、その戦々兢々たる下に子を産み、流亡も離合も苦 唯二人きりで問題を凝議し出した。 どほう 各地の小戦争に兵を分散しているところであった。この上にも楽も亦すべての生計も、土蜂の如く戦禍のうちに営んで来た。 つら わけて後漢の三国対立は、支那全土を挙げて戦火に連なる戦 本城の自軍を割いて遠くへ送るなどという事は、二人にとって じんえん おか りようげんか 火の燎原と化せしめ、その広汎な陣炎は、北は蒙疆の遠くを侵 決して好ましい問題ではない。 うんなん し、南は今日の雲南から仏印地方にまで亙るという黄土大陸全 るつば だいせんぶうき 体の大旋風期であった。大乱世の坩堝であった。 た りゅうびげんとく このときに救民仁愛を旗として起ったのが劉備玄徳であり、 おうい はどう そうそう 漢朝の名をかり王威を翳して覇道を行くもの魏の曹操であり、 そじよう たくわ けんよう こうなん しばせいえい 江南の富強と士馬精鋭を蓄えて常に溯上を計るもの建業 ( 現今 ナンキン ごこうそんけん の南京 ) の呉侯孫権だった。 建安二十二年。 しんたい うち しよくざん 蜀山遠し かざ ・一うが いとな 〃 7

10. 三国志(三) (吉川英治)

『いや、いかにも、七手組の不安は、無理ではない。早速、大っ告げた。 王にお目通りして、御意見を伺ってみよう』 『それがし漢中以来、大王の御厚恩をうけて、平常、いっか一 せわ 夜中だし、発向の準備に、忙しない中であったが、于禁は倉身を以て、御恩に報ぜんことのみを思っておりました。然るに 皇と、魏王宮に上って、その由を、曹操に告げた。 今日、却って、衆ロの疑いを起し、お心を煩わし奉るとは、何 ったな つぶさに聞くと、曹操も安からぬ気持に駆られた。でひとま たる不忠、何たる武運の拙さ。 : 御推察くださいまし』 ・つキ、ーれ ず于禁には、 巖のような巨きな体をふるわして嘆くのだった。彼はなお激 ほうじゅう 『聞きおく』として、急遽、べつに使を出して、靡徳を呼びよ して語りつづけた。いま蜀にいる兄の柔とは多年義絶してい せた。 る仲である事。また馬超とは、別離以来一片の音信も通じてい そして軍令の変更を告げ、ひとたび彼にさずけた印綬を取上ない事。殊に馬超の方から自分をすてて単独、蜀へ降ったもの げた。靡は、仰天して、 であるから、今日其の人に義を立てて、蜀軍に弓を引けないよ どういうわけですか。大王の命を奉じて、明朝は うな筋合いはまったく無いのである。 と言々吐くたびに面 よろい 打ち立たんと、今も今とて、一族や部下を集合し、馬や甲鎧をへ血をそそいでいる。 ととのえて、勇躍、準備中なのに、このお沙汰は』 と、曹操は、みずから手を伸ばして彼の身を扶け起し、 ねんごろ と、面色を変えて訴えた。 いと懇にその苦悶をなだめた。 『さればーーー予としては毫も汝を疑ったこともないが、汝を先『もうよい。もうよい。汝の忠義は誰よりもこの曹操がよく知 手の大将に持っことには、総軍から反対が出た。理由は、そちっておる。一応、諸人の声を取上げたのも、わざとそちに真実 しよく ばちょう の故主馬超は、蜀にあって、五虎の栄官についておる。 恐の言を吐かせて、諸人にそれを知らせん為にほかならぬ。いま うきん ななてぐみ と申すに在る。 らく汝とも何か脈絡を通じているであろう の言明を聞けば、于禁の部下も、七手組の諸将も、釈然として つまり二心の疑をかけておるわけだな』 疑いを消すであろう。 さあ征け。心おきなく征地に立っ て、人いちばいの功を立てよ』 印綬はかくて靡徳の手にまた戻された。徳は感涙にむせ ほうとくぎようぜん さもさも心外で堪らないような面持をたたえて、靡徳は凝然び、誓ってこの大恩にお応えせん、と百拝して退出した。 はなむけ と口を緘していた。それを宥めるため、曹操はまた云い足し彼の家には、出陣の餞別を呈するため、知己朋友が集まって 柩 いた。帰るとすぐ、瘉徳は召使いを走らせて、死人を納める柩 る 出『汝に二心ないことは、予に於ては、充分わかっておるが、衆を買いにやった。 て ロはなんとも防ぎようがない。悪く田 5 うな』 そして、女房の李氏を呼び、 『お客はみな賑かに飲んでいるか』 生 靡徳は冠を解いて床に坐し、頓首して自己の不徳を詫び、且『宵から大勢集まって、あのようにあなたのお帰りを待ってい かん きゅうきょ なだ たすおこ ひっ 1 イ 5