これは折ふし外から来合せた成都の使、賰瑰の声だった。彼 め、敵も一時は彼に伏兵ゃある、なんらかの詭策やある、と疑 そうこう 巻って敢えて近づかなかった程だったという。 これは蜀全軍はちょうどこの場へ来合せ、倉皇、営中へ入って、すぐ孔明を の に対して後の掩護となっておる。 それにひきかえ汝は備え諫めた。 原 の初めに、王平の諫めも用いず、我意を張って、山上に拠るの『閣下、この天下多事の際、なぜ馬謖のような有能の士をお斬 丈 愚を敢えてしているではないか』 りになるのか。国家の損失ではありませんか』 五 イキオ 『そうです。けれど兵法にも : : : 高キニ拠ッテ低キヲ視ルハ勢『おお、蒋瑰か、君のごとき人物がそんな事を予に質問するの チク イスデニ破竹 : : : とありますから』 こそ心得ぬ。孫子も云った。 勝ヲ天下ニ制スルモノハ法ヲ アキラ 『まかっ』 用ウルコト明カナルニ依ルーーと。四海わかれ争い、人と人と みだ 孔明は耳を塞ぎたいような顔をしていった。 の道みな紊るとき、法をすて、何をか世を正し得べき : : : ふか なまびようほ - っ く思い給え、ふかく』 『生兵法。正に汝のためにあることばだ。今は何をかいおう。 ましよくお : そ、つお思いに 『でも、謖は惜しい、実に惜しいものだ。 馬謖よ。おまえの遺族は死後も孔明がつつがなく養ってと なりませんか』 らせるであろう。・ : ・ : 汝は。汝は。・・・・ : 死刑に処す』 おもて しい渡すと、孔明は、面をそむけて、武士たちの溜りへ向『その私情こそ尤なる罪であって、馬謖の犯した罪はむしろそ れより軽い。けれど、惜しむべき程な者なればこそ、なお断じ : ・まだ斬らんのか。何をしておる。 『すみやかに、軍法を正せ。この者を曳き出して、轅門の外にて斬らなければならぬ。 早く、首をみせよ』 於いて斬れ』 と、間もな 孔明は、侍臣を走らして、更に催促させた。 と、〈叩じこ。 、変り果てた馬謖のすがたが、首となってそこへ供えられ た。ひと目見ると、孔明は、 『ゆるせ、罪は、予の不明にあるものを』 おもてそでおお ゆかな と、面に袖を蔽うて、床に哭き伏した。 けんこう とき蜀の建興六年夏五月。若き馬謖はまだ三十九であったと きょ・つし 首はただちに、陣々に梟示され、又、軍律の一文が掲げられ その後、糸をもって、胴に縫いつけ、棺にそなえて、あっく られた。且つ、その遺族は、長く孔明の保護によって、不自 由なき生活を約されたが、孔明の心は、決して、慰められなか な 馬謖は声を放って哭いた。 『丞相、丞相。私が悪うございました。もし私をお斬りになる しよく 事が、大義を正すことになるならば、謖は死すともお恨みはい たしません』 ぜんせい 死をいい渡されてから、彼は善性をあらわした。それを聞く と孔明も涙を垂れずにはいられなかった。 らっ 仮借なき武士たちは、ひとたび命をうくるや、馬謖を拉して ざんざい 轅門の外へ引っ立て忽ちこれを斬罪に処そうとした。 『待て。少時猶予せい』 えんもん ばしよく えんご ヒグ えんもん よ しようえん ばしよく しようえん
やむなく朝廷でも、ついに彼の希いを容れ、同時に丞相の称 罪、我にあり。 を廃して、 ゃいば 孔明の自責は、みずから刃を身に加えたいほどだった。しか 『以後は、右将軍として、兵を総督せよ』 し蜀の危急はさし迫っている。なお且っ先帝の遺託もある。彼と、任命した。 は身の重責を思うと死ぬにも死ねない思いを新たに持つ。そし孔明はつつしんで拝受した。 て遂に、こういう形をとるほかなかった。 しようえん しよくていそ・フ 四 成都へ帰る蒋瑰に託して、彼は一文を表して、蜀帝に奏し いかなる強国でも、大きな一敗をうけると、その後は当然、 ぶん しようちん それは全章、慚愧の文ともいうべきものだった。このたびの士気も衰え、民心も銷沈するのが常である。 大敗が、帰するところまったく自己の不明にあることを深く詫しかし蜀の民は気を落さなかった。十気もまた、 び、国家の兵を多大に損じた罪を謝して、 『見ろ、この次は』 しんりよう てきがいしん ( ーー臣亮は三軍の最高に在りますために、たれも臣の罪は と、却って烈々たる敵愾心を燃えあがらせた。 くらい 罰するものがありません。故に、自分みすから臣職の位を一一一孔明が涙をふるって謖を斬ったことは、彼の一死を、万世 とうおと しよくしよう 等貶して、丞相の職称は宮中へお返し申しあげたいとぞんに活かした。 りよう じようよ、つ わが スイキュウ じます。ねがわくはしばし亮の寸命だけはおゆるしおき希いま ( ーー・時ニ二十万ノ兵、コレヲ聞イテミナ垂泣ス ) と『襄陽 す ) 言』の内にも見える。 ぐんれいきりつおこた という意味のものだった。 そのため、敗軍の常とされている軍令紀律の怠りは厳正にひ おと 帝は大敗の報に非常に胸をいためて居られたところであるき緊められ、また孔明自身が官位を貶して、ふかく自己の責任 ひょう が、孔明の表を読むやなお心を悩まされ、勅使を派して、 をおそれている態度も、全軍の将士の心に、 そうすい しよかつりよう 『丞相は国の大老である。一失ありとて、何で官位を貶してよ 『総帥の咎は、全兵の咎だ。わが諸葛亮ひとりに罪を帰しては いものそ。どうか旧の職にとどまって更に、士気を養い、国を措けない。今に見ろ』 てきがいしん 治めよ』 という敵愾、いをいよいよ深めた。 と、伝えさせたが、 馬謖の死は、大死でない、 と共に、孔明はなお善行を顕賞し ちょううんわら る 『すでに、馬謖を斬って、法の尊厳をあきらかにしたものを、 た。さきには老将軍の趙雲を犒ったが、王平が街亭の戦に、軍 私みずからそれを曖昧にするような事では、到底、このさきの令に忠実であった点を賞して、彼を新たに参軍へ昇進させた。 ・挙一ぐんき 軍紀を正し、蜀の国政にあずかることもできません』 勅令をおびて漢中に来ていた費幃が、或る時、彼をなぐさめ 馬孔明はそう拝答するのみで、どうしても旧職に復さなかつる気でいった。 せいいき 『西域の多くの百姓が、閣下を慕って、漢中へ移って来たと聞 っ・ ) 0 ただ ざんき もと おと とが うしようぐん とが けんしよう 377
篇外余録 それというのが二人ともひそかに、孔明の死後は、われこそ おのおの めぐ 蜀の丞相たらんと、各、、、その後を繞「て相争「ていたから である。 曾って、呉の孫権は、蜀の使に、孔明の左右にある重臣はた れかと訊ね、 『さてさて、儀や延を両腕にして戦っているのでは、さだめし 孔明も骨が折れるだろう』 - : っふん と、同情的な口吻のうちに、延や儀の人物を嘲評していた という話もあるが、たしかに、この二人物は、蜀陣営の中の、 やっかいもの 孔明なき後の、蜀三十年の略史を記しておく。 いわゆる厄介者にちがいなカた えんきょ・つこう - っこ、、 ここ迄の蜀は、殆ど孔明一人がその国運を「て卩ー・延は矜高。儀は狷介』 つぶや いたと云っても過言でない状態にあったので、彼の死は、即ち とは、孔明が生前にも、呟いていた語であった。 しよ、つ 蜀の終りと云えないこともない。 は、そのいずれにも後事を託さす、却って、平凡だが穏健な賰 えんひ 然し、それは孔明自身が、以って大いに、自己の不忠なりと瑰と費幃とに嘱すところ多かったのである。 よ・つ し、又ひそかなる憂いとしていた所でもある。 楊儀の失脚も、結局、その不平から起ったもので、彼は、成 従って、自身の死後の備えには、心の届くかぎりの事を、そ都に帰って後、さだめし大命われに降るものと、自負していた ちゅうしようぐんし の遺言にも遺風にも尺、してある。 ところ、なんぞはからん、重命は瑰に降り、自分は中将軍師 しきりよふん 以後、なお蜀帝国が、三十年の長きを保って居たというも、 を任ぜられたに過ぎないので、以後、頻に余憤をもらし、あま ひとえ 偏に、『死してもなお死せざる孔明の護り』が内治外防の上に っさえ不穏な行動に出んとする空気すら窺われたので、蜀朝 かんは かんか あったからに他ならない。 は、是に先んじて、彼の官を剥ぎ、官嘉の地へ流刑するの決断 けん - 一う そこで孔明の歿した翌年すなわち蜀の建興十三年にはどんな に出たものであった。 さんどう しちゅう 事があったかというに、蜀軍の総引揚に際し、桟道の嶮で野心 これが、孔明死後の成都に起った第一の事件であった。支柱 よ、つ えんちゅうばっ かんは かんか 家の魏延を誅伐した楊儀も、官を剥がれて、官嘉に流され、そを失うと、必ず内争始まるという例は、一国も一家も変りがな こで自殺してしまった。 蜀もその例外でなかった。 えん えんじゃし しようえん 延は儀を敵視し、儀は延を邪視し、この二人は、すでに孔明 けれど、蒋瑰はさすがに、善処して、過らなかった。彼はま しょ・つしよれい の生前から、互いによからぬ仲であったが、孔明の大度がよくず尚書令となって、国事一切の処理にあたったが、衆評は、彼 それを表面に現わすなく巧みに使って来たものに過ぎなかっ に対して、 てら 『あの人は平凡だが、平 凡を平凡として、威張らず衒わず、挙 後蜀三十年 てきし しよく しよく えん あやま ちょうひょう
実に愛すべき正直者だ。あんな律 『汝等の主人高定は、 - ・つめ ~ い しゅほう しよくむほん 間が蜀に謀叛するわけはない、まったく雍闔や朱褒に欺されて トでつんし いるのだ。その証拠には、きよう雍から密使が来て、蜀帝に ねが 希って、所領の安全と、恩賞を約束してくれるなら、いつでも しゅほ、つ わしは高定 高定と朱褒の首を持って来ると告げて帰った。 し八日目の頃南蛮軍は大の律義と忠節を信じておるから追い返したが、そのひとつでも 『蜀軍は弱いぞ』とあまく見たらし、 汝らの主人が雍闔のお先棒に使われているということがわかる 挙して迫って来た。 地上に図を画いたように、的確な謀を以って、孔明はそれではないか』 ふりよ と、雑談のように話して聞かせた。 を待っていた。そして大量な俘虜を獲た。 俘虜は二分して、二カ所の収容所に入れた。一方には雍闍の単純な南蛮兵は、放されて自分たちの陣地へ帰ると、みな孔 明の寛大を賞めちぎり、主人の高定に向っても、 兵ばかり入れ、一方には高定の兵のみ押しこめた。 『雍闍に汕断なすってはいけませんそ』 そしてわざと、孔明はそこらに風説を撒かせた。 と忠告した。 『高定は元々、蜀に忠義な者だから、高定の手下は放されるら 高定も疑って、ひそかに雍闍の陣中へ、人をやって窺わせて しいが、雍闍の部下は悉く殺されるだろう』 みた。するとそこでも、雍の部下が、寄ると触ると、孔明を 一つの収容所は歓喜した。一つの収容所では泣き悲しんだ。 日を措いて、孔明は、まず雍闍の手下から先に曳き出して、賞めているので、いったい孔明は敵か味方か分らなくなりまし というその者の復命だった。 一群ずつ訊問した。 『 : : : するとやはり雍闔と孔明とは内通しておるのかしら ? 』 『汝らは、誰の部下だ』 彼はなお念の為に、腹心の者をやって、孔明の陣中を探らせ 『高定の兵です』 『相違ないか』 ところがその男は、途中、蜀の伏兵に発見されてしまい 『高定の兵に相違ありません』 画、つ ~ い 『怪しい . 奴だ』 ひとりとして、雍闔の部下だと答えるものはない。 こうてし それを孔明は一目見る と、孔明の前に曳かれて来た。 『よし、高定の兵なら、特に免じてやる。高定の忠義は誰より 行 もこの孔明が知っておる』 『いや、そちはいっそや、雍闔の使に来た男ではないか。その みな繩を解いて放した。 蛮 次の日。こんどはほんとの高定の部下を引き出して、これも後、待ちに待っておるに、沙汰の無いのは、如何いたしたもの きっそう ヾっ ) 0 疾く帰「て、主人雍闔に、吉左右を相待ち居ると、申し伝 南繩を解いてや「た句、酒まで振る舞「てや「た。そして孔明 えい』 は彼等の中に立ち交って、 『しばらく傍観しておれ』 と三日戦わず、四日も出撃せず、およそ七日はどは、柵の内 に鎮まり込っていた しす むれ はかり一一と ま み、く し・つ講〃い うカカ
麦青む ている。竈の跡の多いのは当然、兵站の増量を示すものであるヘこう奏した。 から、仲達はいちいちそれを検分して、 『いったい如何なる大事が出来て、かく遽に、臣をお召し還し しんがり 『さては、彼は、退くに従って殿軍の兵力を強化しているな、遊ばされましたか』 あなど さまで戦意の昻い軍勢を、ただ退く敵と侮って追い討ちすれ 元より何の根拠もない事なので、帝はただ俯向いておられた やが ば、どんな反撃をうけるやも知れない』 が、軈て、 しようふ と、要心ぶかく考え、 『余り久しく相父の姿を見ないので、慕わしさの余り召し還し こうあん 『ーー苟安を成都へやって行わせた、わが計画はもう大効果をた迄で、べつに理由はない』 挙げている。その結果、かく孔明の召還となったものを、それ と正直に答えた。 ざん 以上の慾を求むる迄もあるまい』 孔明は色をあらためて恐らくはこれ何か内官の讒に依るもの と、大事をとって遂に追撃を下さずにしまった。 ではありませぬかと、突っこんでたずねた。帝は黙然たる儘だ ために、孔明は一騎も損じることなくこれはどの大兵の総引 せんこう 揚を悠々なしとげたが、後、月 ーロの旅人が、魏へ来て洩らした 『いま相父に会って、初めて疑いの心も解ナこ ; 、 。オカ悔ゆれども かまど 噂から、竈の数に孔明の智略があった事もやがて司懿の聞く及ばす、まったく朕のあやまりであった』と深く後悔のさまを ところとなった。 示した。 けれど司馬懿は悔やまなかった。 孔明は、相府へ退がると、直ちに宮中の内官たちの言動を調 ひばう 『 , ・ーー相手がほかの者では恥にもなるが、孔明の智略にかかるべさせた。出師の不在中孔明を誹謗したり、根もない流説を触 のは自分だって仕方がない。 , 彼の智謀は元来自分などの及ぶとれまわったりしていた悪質の者数人は前から分っていたのです らっち ころではないのだから』 ぐ拉致されて来た。 孔明は彼等に詰問した。 うしろ 『いやしくも卿等は、戦いの後にあって、国内の安定と民心の ふおん 戦意を励ます重要な職にありながら、何で先に立って、不穏な 流説を行い、朝野の人心を惑わしめたか』 すぐ ひとりの内官は懺悔してまっ直に自白した。 や 『戦いが熄みさえすれば、暮し向きも気楽になり、諸事以前の えいよう ような栄耀が見られると存じまして。つい ああ 『噫、何たる浅慮なーー』と、孔明は痛嘆して、彼等の小児病 的な現実観をあわれんだ。 さんだい ていりゅうぜん 孔明は成都に還ると、すぐ参内して、天機を奉伺し、帝劉禅『もし蜀が卿等のような考え方でいたら、戦いはわれから避け あお 麦青む かえ へいたん しようふさ ぎんげ ちん にわか うつむ るせつ 引 7
武勇なれば負けはしないと。 いま後を見せる程では、尋常に戦大喝を以って、 な」っても、この孔明に勝てる自信はないと見えるな』 『匹大、何の面目あって、再び孔明の前にのめのめ繩にかかっ の て来たかっ』 羽一扇をあげて呼びかけた。 ふんぜん と、叱りつけ、猶も、 と、孟獲は、憤然と、踵を回し、 師 れんち 『だまれ。俺がいっ後を見せたか』と味方を振り向いて、『や『中国では、恩を知らぬものを人非人といい、廉恥のない者を 出 、、諸洞の部下共、あれにいるのが孔明だ、此の人間の計にお恥知らずとも大畜生とも云って、鳥獣より蔑しむが、汝は正 うて、俺は三度まで辱をかさねた。彼奴に出会ったのは幸、俺 に、その鳥獣にも劣るものだ。それでも南蛮の王者か。はてさ と共にみんなも力を尽して、人も車も徴塵になせ。彼奴の首一て珍しい動物である』と、極度に罵った。 まつり っ取ったら南蛮国中で祭典ができるぞ』 孟獲も此の日に限って何も吼え猛らず、さすがに恥を知る くちびるか と、獣王のように猛吼した。 か、瞑目した儘、ただ白い牙を出して唇を咬んでいた 十数人の部下はみな諸洞の中でも指折の猛者ばかりだし、弟『もはや免さん。今日は斬るぞ』 の孟優も重なる怨みに燃えているので、『おうつ』『わあっ』 と、孔明が云っても、その眼が開かないのである。孔明はや うせん と、喚き合って、どっと、四輪車へ向って来た。 こわに羽扇をあげて武士たちに下知した。 じん′一 蜀兵は忽ち四輪車を押して逃げ出した。追うも迅し逃げるも『陣後へ曳き出して、この獣王の首を打てつ』 ま も、つめ、′、 迅かったが其の距離がつまる間もあらばこそ、孟獲、孟優その武士たちは大勢して、孟獲の繩尻を取り、立てと促すと、孟 きよがん 他の一団は、天地も崩れるような土煙と共に、いちどに陥し穽獲は無言のまま突っ立った。そして歩み出すとき始めて炬眼を へ落ちてしまった。 ひらいて、孔明の顔を睨みつけた。 2 ししゃ′、 むしろ するとその音響を合図として、魏延の手勢数百騎が木の間木そしてなかなか泰然自若と刑の莚へ坐ったが、武士を顧み あな の間から駈け現われ、坑の下から一人一人引き出して、手際よて、もう一度孔明をこれへ呼んでくれといい、武士たちが承知 じゅす く数珠つなぎにしてしまった。四輪車はもう凉しげに蜀の本陣する気色もないと見るや、突然大声で吼えた。 へ向っていた。孔明は帰ると直ちにまず孟優を引きすえて、 『孔明、孔明。もしもう一度、俺の繩を解いてくれれば、俺は すす 『お前の兄は一体どうかしているのじゃあないか。生擒られてきっと、五度目に四度の恥を雪いでみせる。死んでも、 はこれへ来ること既に今日で四度になる。未開の蛮国といえ、知らずと云われては死にきれない。ゃいつ、やいっ孔明、もう 人間ならば恥という事もあるだろう。お前からよく意見するが一遍戦えっ』 しし』 孔明は起って来て、 と、物柔かに諭して、酒をのませた上、先に繩を解いて部下『死にたくなければなぜ降伏せぬか』と云った。 もニノんル′、 な 一同と共に放してやった。 やにわにかぶりを振った孟獲は、哭かんばかりな眼をしなが 次に孟獲を面前に引かせ、これに向っては、曾ってなかったらも口に火を吐く如く罵った。 おめ きびすかえ たび えん きやっ 、けど おとあな め も ゆる うなが 290
馬謖は孔明を父とも慕い師とも敬っていた。孔明もまた慈父『陣中に戯言なし , ーーであるそ』と、孔明は重々しく念を押し のごとく彼の成長を多年ながめて来たものである。 て、且かさねた。 えき ふくしようちょうこう とうかんやから もともと馬謖は、夷族の役に戦死した馬良の幼弟だった。馬『敵の司懿といい、副将張部といい、決して等閑の輩では ふんけい まじわ 良と孔明とは、リ 勿頸の交りがあったので、その遺族はみな引き 心して誤るなよ』 わんご 取って懇ろに世話していたが、とりわけ馬謖の才器を彼はいた と、くれぐれも戒めた。 がもん おうへ、 く鍾愛していた。 また牙門将軍王に向い けいこっ 故玄徳は、曾て孔明に、 『御辺は平生もよく事を謹んで、いやしくも軽忽の士でないこ じゅ・つキ一 す ーしよく ( この子、才器に過ぐ、重機に用うる勿れ ) と云ったが、孔明とを自分も知っておる。その故に今謖の副将として特に副え いいっ の愛は、いっかその言葉すら忘れていた程だった。そして長すて差向ける。必ず街亭の要地を善守せよ』と、 かんばっしめ るや馬謖の才能はいよいよ若々しき煥発を一小し、軍計、兵略、 更になお孔明は入念だった。すなわち要道の咽喉たる街亭付 じんどり 解せざるはなく、孔明門第一の俊才たることは自他ともにゆる近の地図をひろげ、地形陣取の法をくわしく説き、決して、進 す程になって来たので、やがての大成を心ひそかに楽しみと見んで長安を攻めとると考えるな。この緊要の地を抑えて、ひと ているような孔明の気持だったのである。 りの敵の往来も漏らさぬ事が、長安を取る第一義になることで で今。 あるーーーーと、噛んでふくめる如く教えた。 ばしよく 口にたがわず死守いたします』 その馬謖からせがまれるような懇望を聞くと、彼は丞相たる『分りました。尊命 心の一面では、まだちと若いとも思い まだ重任過ぎるとも考馬謖は、副将王平と共に、 二万余の兵力を与えられて、街亭 えられたのであるが、苦しい戦と強敵にめぐり合わせるのもへ急いだ。 たんれん 」・ん ~ い こうしよう 亦、この将来ある人材の鍛錬であり大成への段階であろうとも それを見送って、一日おくと孔明はまた、高翔をよんで、一 きび 思い直し、その機微な心理のあいだに、自己の小愛がふとうご万騎をさずけ、 れつりゅうじよう いていたことは、さしもの彼も深く反省してみる遑もなく、つ 『街亭の東北、その麓のかたに、」卩 冽杣城という地がある。御 つわもの 辺もそこへ進んで、もし街亭の危きを見ば、すぐ兵をあげ 『 ~ 打ノ、か』 て、馬謖をたすけよ』と、命じた。 と云ってしまったのである。 孔明にはなおどこやら安心し切れないものがあったのであ ばしよく わたくし 1 ) 馬謖は、華やかな血色を顔にうごかして、一一 = 〕下にすぐ、『行る。軍の大機を処す際に、ふと微かにでも『私』の情がそれへ いだ 言きます』と答え、 介在したことを、彼自ら今は意識してそこに安んぜぬものを抱 あやま けんぞく もし過ちがあったら私は云うに及ばず、一門眷属、軍罰 いているやに思われる。 陣に処さるるも、決しておうらみ仕りません』と、きおいきって 誓った。 しようあい 洋一りトっ かっ ふもと かす いんこう 359
はじそそ じよくん 倍する叙勲を以って貴下の辱を雪ぐであろうと約されておられ『都督はつんばになられたらしい』 る』 そう云われる程、司馬懿は味方の声にも、四囲の状況にも無 またい 感覚な顔していた。 岱はそう聞くと口惜しさも解け、むしろ孔明の苦衷が思い ひら やられた。意地のわるい魏延は、馬岱の地位が平部将に落され或る時、郭准が来て、彼に語った。 たのを見てやろうとするもののように、 とうも孔明はもう一歩出て、更に他へ 『それがしの観るのに、・ 『馬岱を自分の部下にもらいたい』と、孔明に申し入れた。 転陣を策しておるように考えられますが』 孔明はゆるさなかったが、今はその孔明の足下をも見すかし『君もそう思うか。予もそう観ていた所だ』 ている魏延なので、『どうしても』と、強情を張りとおした。 それから仲達は珍しくこんな意見を洩らした。 こぞ き早、ん それを聞いた馬岱は、 もし孔明が、斜谷、祁山の兵を挙って、武功に出で、山 『いや、魏将軍の下につくならば、自分としても恥しくない』 に依って東進するようだったら憂うべきだが、西して五丈原へ と、進んで彼の部下になった。 出れば、憂いはない さすがに司馬懿は慧眼であった。彼がこの言を為してから日 もちろん堪忍に堪忍をしての事である。 ならずして、孔明の軍は果然移動を開始した。しかも選んだ地 一方、その後の魏軍にも、多少穏かならぬ空気が内在してい は、武功でなくて、五丈原であった。 せんせいしようけんしゅう ここにも残念だ、無念だ、という声が頻りにある。 武功は今の陜西省乾州に属する地方である一司懿の観る きょ、よく、、 てきがいしん もちろん、それは度重なる大敗から来た蜀軍への敵愾心であ所ーーもし孔明がこれへ出て来たら、一挙玉砕か、一挙大勝か えんさ って、内部的な抗争や司馬懿に対する怨嗟ではない。 の大勇猛心の表現であり、魏軍にとっても容易ならぬ構えが要 しかし、怨嗟はない迄も、不平はあった。満々たる不満が今るものとひそかに怖れていたのである。 みな や漲っていた。 、孔明はその冒険を避けて、なお持久長攻に便な五丈 なぜかといえば、以後又も陣々に高札をかかげて、 原へ移った。 うわ まうけいけん 一兵たりと、既定の陣線から出た者は斬る。また、陣中五丈原は宝鶏県の西南三十五里、ここもなお千里を蜿る渭水 くら に激語を弄し、みだりに戦いを敵に挑む者も斬罪に処さん。 の南にある。そして従来数次の陣地に較べると、はるかに遠く とっしゆっ という徹底的な防禦主義、消極作戦の軍法が、彼等の行動を出て、中原へ突出している。 とうかん 幗一切制圧していたからである。 しかも、ここまで来ると、敵国長安の府も滝関も、また都洛 巾 陽も、一鞭すでに指呼のうちだ。 ( このたびこそ、ここの土と化するか、敵国の中核に突き入る 衣 女建興十一年は明けて、春二月となった。渭水の氷は解けてか、むなしく再び漢中には還らぬであろう ) となしている孔明の気魄は、その地点と軍容から観ても、顕 も、陽春百日、両軍は依然、対陣のままだった。 ろう あしもと かくわい 1 一じようげん みやこ すい ん イ 53
しかし孔明がこの遺孤に仕えることは、玄徳が世にいた頃と 『ーーー三年経ちました 尺蠖の縮むは伸びんがため。いま 巻少しも変らなか 0 た。いやも「と切実な忠愛と敬礼を捧げき 0 漸く軍もととのいました故、六度征旗をすすめて中原〈出よう しんりよう の て骨も細りゆく姿だった。それだけに帝劉禅が彼を慕い彼を惜と思います。ただ臣亮もはや知命の年齢ですから、戦陣の不常 原 しむことも一通りでなかったが、如何せん、孔明が居ないとい どんな事があろうとも知れません。 : : : 陛下も何とぞ先帝の英 丈 たみ いつく うと群臣がうごく。群臣がうごくと帝も迷いにつつまれる。蜀資にあやかり給うてよく輔弼の善言を聞き、民を慈しみ給い、 五 がみ しやしよく 朝廷は実にいつも遠きに孔明の後ろ髪を引くものであった。炫社稷をお守りあって、先帝の御遺命を完う遊ばさるるよう伏し に於いて孔明は、 ておねがい致しまする。 臣は、遠き戦陣に居りましても、 かくじゅう 『三年は内政の拡充に力を注ごう』 心はつねに陛下のお側におりましよう。陛下も亦、孔明はここ へいきりようそうちくせき と決意した。三年師を出さず、軍士を養い、兵器糧草を蓄積 にあらずとも、常に成都を守っているものとお思い遊ばしてお けんどちょうらい して、捲土重来、以って先帝の知遇にこたえんと考えたのであ心づよくおわしませ』 る。 後主劉禅は、孔明がこう別れを奏してひれ伏すと、何のこと しばよ、 たもとおもて いかなる難事が重なろうと、中原進出の大策は、夢寐の間も ばもなく暫し御衣の袂に面をつつんでいた。 は ~ 、ド ) ゅ 忘れることなき孔明の一念だった。その事なくしては孔明も無なお此の際にも、成都人の一部では、宮門の柏樹が毎夜泣く ひしよう 。彼の望み、彼の生活、彼の日々、総ては凝ってそれへの懸とか、南方から飛翔して来た数千の鳥群がいちどに漢水へ落ち 命に生きていた。 て死んだとか、不吉な流言をたてて、孔明の出軍を阯めようと きよびゅう 三年の間、彼は百姓を恤み宥わった。百姓は天地か父母のよする者もあったが孔明の大志は、決してそんな虚謬の説に弱め うに視た。彼は又、教学と文化の振興に努めた。児童も道を知られるものではなかった。 れいびようもう り礼をわきまえた。教学の根本を彼は師弟の結びにありとな彼は一日、成都郊外にある先帝の霊廟に詣でて、大牢の祭を し、師たるものを重んじ、其の徳を涵養させた。また内治の根そなえ、涙を流して、何事か久しく祈念していた。 りふう じゅんか 本は吏にありとなし、吏風を醇化し吏心を高めさせた。吏にし彼が玄徳の霊にたいして、何をちかったかは、云う迄もない とくしよく はドレれか てひとたび漬職の辱を冒す者あれば、市に曝して、民の刑罰よことであろう。数日の後、大軍は成都を発した。帝は、百官を りもこれを数等厳罰に処した。 したがえて、城外まで送り給うた。 こうぜっ いたずら ふう しよくどうけんしよくすいき わた 『ロ舌を以 0 て徒に民を叱るな。むしろ良風を興して風に蜀道の嶮、蜀水の危も、踏み渉ること幾度。蜿蜒として車馬 わせよ。風を興すもの師と吏にあり。吏と師にして善風を示さ・ はやがて漢中へ入った。 はんた らんだ んか、克己の範を垂れその下に懶惰の民と悪風を見ることなけ ところが、まだ戦わぬうちに、孔明は一つの悲報に接した。 ん』 それは関興の病歿だった。 孔明はつねにそう云っていた。かくて三年の間に、蜀の国力 まった は充実し、朝野の意気も完く一新された。 ーくみ、 あわれいた もと つか むびま かん - 一う ほひっ 0 しやっかくちぢ の えんえん たいろうまつり
かんちょうとう りゅうとうだび 漢朝統一への必然な過程として選ばれた道であった。 に、竜頭蛇尾に過ぎないのである。 録然し、この中道に於いて、玄徳は世を去り幼帝の将来ととも従って、それ迄を全訳するには当らないというのが私の考え ばっ 1 一 余に、その遺業をも挙げて、 だが、なお歴史的に観て、孔明歿後の推移も知りたいとなす読 者諸氏も少くあるまいから、それはこの余話の後章に解説する 外 総てをたのむ と、孔明に託して逝ったのである。孔明の生涯とその忠誠のことにする。 しんめんもく ひと、、 道は、まさにこの日から彼の真面目に入ったものと云って、 それよりも、原書にも漏れている孔明という人がらに就い て、もっと語りたいものを多く残しているように、ムには田 5 え みなしご 遺孤の寄託、大業の達成。ーー寝ても醒めても『先帝の遺る。それも演義本にのみ依らす、他の諸書をも考合して、より じ - 一うめいい 詔』にこたえんとする権僊のすがたこそ、それからの孔明の全史実的な『孔明遺事』ともいうべき逸話や後世の論評などを一 束しておくのも決して無意義ではなかろう。それを以ってこの 生活、全人格であった。 1 一くしえん一 こったい 故に原書『三国志演義』も、孔明の死にいたると、どうして『三国志』の完結の不備を補い、また全篇の骨胎をいささかで まった も一応、終局の感じがするし、また三国争覇そのものも、万事も完きに近いものとしておくことは訳者の任でもあり良心でも あろうかと思われる。 休むーーの観なきを得ない。 おそらく読者諸氏もそうであろうが、訳者も亦、孔明の死後 以下そのつもりで読んでいただきたい。 とみ となると、頓に筆を呵す興味も気力も稀薄となるのを如何とも し難い。これは読者と筆者たるを問わず古来から三国志にたい する一般的な通念のようでもある。 布衣の一青年孔明の初めの出現は、正に、曹操の好敵手とし うちょ とうえんめ、 で、この迂著三国志は、桃園の義盟以来、殆ど全訳的に書いて起った新人のすがたであったと言ってよい せつけん けいざんそすい て来たが、私はその終局のみは原著にかかわらず、ここで打ち曹操は一、時、当時の大陸の八分までを席巻して、荊山楚水 こと′一と 切っておきたいと思う。即ち孔明の死を以って、完尾としてお悉く彼の旗を以って埋め、 たの い・ゅ・つばう - 一 ごじようげんい 1 一 「呉の如きは、一水の長江に恃む保守国のみ。流亡是れ事とし 原書の『三国志演義』そのままに従えば、五丈原以後 ている玄徳の如きはなお更一言うに足らない』 ギエン コクメイハカリゴトノコ さんどう とは、その頃の彼が正直に抱いていた得意そのものの気概で 『孔明計ヲ遺シテ魏延ヲ斬ラシム』 , の桟道焼打の事からなお ぎていそうえい えいがき らんぎよう えが しばふし たいとう 続いて、魏帝曹叡の栄華期と乱行ぶりを描き、司馬父子の擡頭あったにちがいなかろう。 しよくはめつ しん ざせつ から、呉の推移、蜀破滅、そして遂に、晋が三国を統一するま それを彗星の如く出でて突如挫折を加えたものが孔明であっ たいとう での治乱興亡をなお飽くまでつぶさに描いているのであるが、 た。また、着々と擡頭して来た彼の天下三分策の動向だった。 うりんせきへき じふまんまん だいかんせんだん りん そこにはすでに時代の主役的人物が見えなくなって、事件の輪曹操が自負満だった魏の大艦船団が、烏林、赤壁にやぶれ けいしゅ・つ 郭も小さくなり、原著の筆致も甚だ精彩を欠いてくる。要するて北に帰り、次しで又、玄徳が荊州を占領したと聞いたとき、 や 0 みなしご み まみ一 そうそう