曹丕 - みる会図書館


検索対象: 三国志(三) (吉川英治)
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1. 三国志(三) (吉川英治)

そうしよう 中でも最も気の荒い曹彰が十万の兵をひいて長安から来たと聞 そのほか大小の官僚武人すべてに褒賞の沙汰があり、故曹操 そうひ こうめようふんぼ 巻いては、曹丕も安からぬ気がしたに違いなかった。 の大葬終るの日、高陵の墳墓には特使が立って、 ぶそ おくりな の『お案じ遊ばすな。あの方の御気質はてまえがよく呑み込んで 以後、諡して、武祖と号し奉る。 いとな という報告祭を営んだ。 師います。まず私が参って、御本心を糺してみましよう』 かんたいふかき そう云って、破をなぐさめた諫議大夫の賈逵は、急いで魏城さて。葬祭の万端も終ってから、相国の華は、一日、曹丕 出 の門外へ出て行った。そして、曹彰を出迎えると、曹彰は彼をの前へ出て云った。 ぎじよう しようくん 見るとすぐ云った。 『御舎弟の彰君には、さきに連れて来た十万の軍馬を悉く魏城 じゅ いんじ 『先君の印璽や綬はどこへやったかね ? 』 に附与して、すでに長安へお立ち帰りなされましたから、彼の そうしよく そうゆう 君にはまず疑いはありませんが、三男曹植の君と、四男の曹熊 賈逵は色を正して答えた。 ちよくん いんじゅ 『家に長子あり、国に儲君あり、亡君の印綬はおのすから在る君には、父君の喪にも会し給わす、いまだに即位の御祝辞もあ りません。故に、令旨を下して、その罪をお責めになる必要が べき所に在りましよう。敢えて、貴郎が御詮議になる理由はい お ったいどういうお心なのですか』 ありましよう。不問に附して措くべきではありません』 曹丕はその言葉に従って、すぐ令旨を発し、二人の弟へ、各、、 曹彰は黙ってしまった。 使を派して、その罪を鳴らした。 進んで、宮門へかかると、賈逵はそこでまた釘をさした。 あなた ちち ! み 『今日、貴郎がこれへ参られたのは、父君の喪に服さん為です 曹熊の所へ赴いた使者は、帰って来ると、涙をながして告げ か、それとも王位を争わん為ですか。更に、忠孝の人たらんと たいやく 『常々、御病身でもあったせいでしようが、問罪の状をお渡し 思し召すか、大逆の子に成らんとお思い遊ばすか』 すると、その夜、自らお頸を縊って、あわれ自害してお果て遊 曹彰は勃然と云った。 『なんでおれに異心などあるものか。これへ来たのは父の喪をばしました』 あつほうむ そうひ 曹丕はひどく後悔したが、事及ばず、篤く葬らせた。そのう 発せんためだ』 そうしよく 『それなら十万人の兵隊をつれてお入りになることはありますちに、三男の曹植の許へ赴いた使者も帰って来たが、この使の しりぞ いたく曹丕を憤らせた。 報告は、前のとは反対に、 、。総て、この所から退けて下さい』 かくて曹彰はただ一人になって宮門に入り、兄の曹丕に対面 すると、共に手をとって、父の死を愁み哀んだ。 っ 曹丕が魏王の位を統いだ日から改元して、建安二十五年は、 えんこうがんねん 同年の春から延康元年とよぶことになった。 しよう・一く か了ル 華は功によって相国となり、賈は大尉に封ぜられ、王朗 よしたいふ は御史大夫に昇進した。 ばっぜん ちょうあん そうひ ギ - じよう おうろう み くび ほうしよう癶一た 798

2. 三国志(三) (吉川英治)

かたず 『何事が勃発したのか』と、更に固唾をのみ合っていた。 が、名分はできた。形式はととのった。 そうひ れいだんぬかず そうひ ぎおう 華はこれへ来ると、まず先君の霊壇に額き、太子曹丕に、 曹丕はここに、魏王の位に即き、百官の拝賀をうけ、同時 百拝を終ってから、満堂の諸臣を見まわして、 に、天下へその由を宣示した。 ・一うきょ 『魏王の薨去が伝わって、全土の民は、天日を失ったごとく、 時に、一騎の早馬は、 - 一うろく しんどうあいこく えんりようこうそうしよう 震動哀哭、職も手につかない心地で居る。御身等、多年高禄を ( 邸陵侯曹彰の君。みずから十万の軍勢をしたがえ長安より 喰みながら、今日この時、無為茫然、いったい何をまごまごし これへ来給う ) せいこうかか もたら て居られるのか。なぜ一日も早く太子を立てて新しき政綱を掲 という報を齎した。曹丕は、大いに疑って、 ふえ しめ げ、天下に魏の不壊を示さないのか』 『なに。弟が ? 』 ののし そう と、罵った。 と、会わないうちからひどく惧れた。曹彰は操の次男で、兄 諸人はまたロを揃えて、すでにその事は議しているが、まだ弟中では武剛第一の男である。察するに、王位を争わんためで きようきよ、フ 漢朝から何等の御沙汰が降らないので、さしひかえて居るとこ 。ないかと、曹丕は邪推して兢々と対策を考え始めた。 ろであると陳弁した。 かきん すると華はあざ笑って、 まつり 『漢の朝廷には今、そんな才覚のある朝臣もいないし、第一政曹家には四人の実子があった。 - 一と きよと ル、うしよく 事をなす機能すらすでに許都には無くなっているのに、手をつ生前曹操が最も可愛がっていたのは、三男の曹植であった しよくきやしゃ かねて、勅命の降るのを待っていたとて、いつの事になるか知 植は華奢で又余りに文化人的な繊細さを持ち過ぎているの かんちょうせま れたものではない。故に、自分は直接、漢朝へ迫って、天子に で、愛しはしても、 奏し、ここに勅命をいただいて来た』 ( わがあとを継ぐ質ではない ) かきん っとみ と、華は懐中から詔書を取り出して、一同に示したうえ、 と、夙に観ていた。 そうしよう そうゆう 『謹んで聴かれよ』 四男の曹熊は多病だし、次男の曹彰は勇猛だが経世の才に乏 と、声高らかに読みあげた。 しい。で、彼が後事を託するに足るとしていたのは、やはり長 しよう おうそうそう ししそうひ とっこう 詔書の文は魏王曹操の大功を頌し、嗣子曹丕に対して、父の男の曹丕でしかなかった。曹丕は親の目から見ても、篤厚にし そうりようじんろくてき きようけん 王位を即ぐことを命ぜられたものでーー建安二十五年春二月て恭謙、多少、俗にいう総領の甚六的なところもあるが、まず ほひっ 目みことのり 詔すと明らかにむすんである。 輔弼の任に良臣さえ得れば、曹家の将来は隆々たるものがあろ 重臣始め、諸人はみな眉をひらいて歓んだ。元よりこれは漢うと、重臣たちにもその旨は遺言されてあった。 かね 帝の御本意でなかったこと勿論であろうが、その空気を察し けれど王位継承のことは、兄弟同志の仲でも予て無言のうち し かきん しおのおの 武て、この際大いに魏〈私威を植えておこうとする華歌が、許都に自分を擬していた空気があるし、殊に遺子各 , 、に付いている あんとう もりや′、 の朝廷へ迫ってむりに強請して来たものなのである。 傅役の側臣中には歴然たる暗闘もあったことなので、今、兄弟 っ ぎ み、しカ ~ 、 よろ - 一 っ じやすい っ おそ せんさい

3. 三国志(三) (吉川英治)

えんき えんしよう りゅうぜん 袁紹の二男袁熈の大人となったがそれを攻め破ったときから、 成都の上下は、沸き返るような歓呼だった。後主劉禅にも、 そうひ 巻その日、鸞駕に召されて、宮門三十里の外まで、孔明と三軍を曹丕の室に入り、後、太子曹叡を産んだのであった。だが、曹 ちょう しんし 叡にも、一面の薄幸はっきまとった。母の甄氏の寵は漸く褪せ の迎えに出られた。 かっきひ て、郭貴妃に父曹丕の愛が移って行ったためである。 師帝の鸞駕を拝すや、孔明は車から跳び降りて、 ・ : っそう かっきひ かくえ、 郭貴妃は、広宗の郭永の女で、その容色は、魏の国中にもあ 『畏れ多い』と、地に拝礼し伏して云うには、 出 すみや たいら 『臣、不才にして、遠く征き、よく速かに平ぐるあたわず、多るまいといわれていた。で、世の人が、女中の王なりと称えた しんきん よりん まずので、魏宮に入れられてからは、 くの御林の兵を損じ、王上の宸襟を安からざらしむ。 「女王郭貴妃』と、尊称されていた。 罪をこそ問わせ給え』 ちょ・つとう しんこうごうのぞ ちん しかし心は容顔の如く美しくない。甄皇后を除くため、張韜 『否とよ、丞相。朕は、御身の無事を見るだに、ただもう欣し ていしんはか という廷臣と謀って、桐の木の人形に、魏帝の生年月日を書 あれ扶けてよ』 き、又何年何月地に埋むと、呪文を記して、わざと曹丕の眼に 侍従に命じて抱き起させ、また帝みずから御手をのばして、 ふれる所へ捨てた。 鸞駕の内に孔明の座を分けあたえられた。 かんば 幼帝と、丞相孔明と、同車相並んて、満顔に天日の輝きをう曹丕はその佞を観破することができないで、とうとう甄氏皇 1 う かト : つ、ーん け、成都宮の華陽門に入るや、全市の民は天にもひびくよろこ后を廃してしまったのである。 し・つんきんじよ・フ びをあげ、宮中百楼千閣は、一時に、音楽を奏して、紫雲金城でーー太子曹叡は、この郭女王に幼少から養われて、苦労も して来たが、は至極快活で、少しもべそべそしていない。 の上に降りるかと思われた。 ま、孔明は自己の功を忘れていた。吏に命じて、従軍中の戦りわけ弓馬には天才的な閃きがあった。 この年の早春。 死病歿の子孫をたずねさせ、漏るるなくこれを慰め、閑有って 曹丕は群臣をつれ狩猟に出た。 は、久しく見なかった農村へ行って、今年の実りを問い、村の こら めじか じゃり 一頭の女鹿を見出し、曹丕の一矢が、克くその逸走を射止め 古老、篤農を尋ね、孝子を顕賞し、邪吏を懲し、年税の過少を 糺すなど、あらゆる政治にも心をそそいだので、都市地方を問 母の鹿が、射斃されると、その子鹿は、横っ跳びに逃げて曹 わず、今やこの国こそ、楽土安民の相を、地上に顕観したもの 叡の乗っている馬腹の下へ小さくなって隠れた。曹丕は、声を と、上下徳を頌えない者はなかった。 あげて、 だいこうていそうひ 『曹叡、なぜ射ぬ。いやなぜ剣で突かぬか。子鹿はおまえの馬 大魏皇帝曹丕の太子、曹叡の英才は、近ごろ魏のうわさにな の下にいるのに』 っている。 ふる と、弓を揮って、歯痒がった。 太子はまだ十五歳だった。 むすめ しんし すると、曹叡は、涙をふくんで、 母は、甄氏の女である。傾国の美人であるといわれて、初め らんが らんが たす そうえい みの けんかん うれ たいしそうえい ねい たお うず はがゆ ひらめ そうえ むすめ かくじよおう しんしこう あ そう 引 2

4. 三国志(三) (吉川英治)

と、老母は涙の目できっと睨めつけて、 『かならず弟の曹植を廃すようなことはせぬと : かきん 巻『植 : : : なぜ先王の御大葬にも会さなかったんですか。おまえ 『なぜそんな事を』と、華歇は舌打ちして、 しよくていくん ののような不孝者はありません』 『でなくてさえ、曹家の才華は植弟君にある、植弟君が口を開 そうひ すそ ふみ 師と、烈しく叱って、そして曹丕の裳を持った手は離さずに、 けば、声は章をなし、啄は珠を成すなどと、みな云っていま しゅうひょう あん 『丕よ、丕よ。ちょっと、妾のはなしを聞いておくれ。後生、す。恐れながら、その衆評はみな暗に兄君たるあなたの才徳 出 一生のおねがいだから』 を晦うするものではありませんか』 へんでんかげ と、強ってわが子を引っ張って、偏殿の陰へ伴い、どうか同『でも、ぜひがあるまい』 かきん 胞の情を以て、植の一命は助けてあげておくれと、老の眼もっ『々。ひとっかように遊ばしては如何 : : : 』と、華は主君 そうひ そうひ じよう しっと ぶれんばかり泣き濡れて曹丕へ頼んだ。 の耳ヘロをよせた。曹丕の面は弟の天分に対して、嫉妬の情を ねいしん 『もう、もう : : : そんなにお嘆きなさいますな。なあに、もと隠しきれなかった。佞心の甘言は、若い主君の弱点をついた。 いれぢえ そうしよく より弟を殺す気なんかありません。ただ懲しめの為ですから』 彼の入智恵は、こうであった。今この所へ曹植を呼び出し、 と ちょう 曹丕はその儘奥へ隠れて数日は政を執る朝にも姿を見せなかその詩才を試してみて、もし不出来だったらそれを口実に殺し かんしやくおと っ・ ) 0 ておしまいなさい。又噂のとおりな才華を示したら、官爵を貶 かきん はんばう 華飮がそっと来て、彼の機嫌を伺った。そしてはなしの隲に、 して、遠地へ追い 、この天下繁忙の時代に、詩文にのみ耽って なか やから 『先日、母公が何か仰しやったでしよう。ーーー曹植を廃す勿 いる輩の見せしめとしたらよろしいでしよう。一挙両得の策と れ、と御意遊ばしはしませんか』 いうものではありませんか。 『相国はどこでそれを聞いて居ったのか ? 』 『よかろう。すぐ呼び出せ』 そうひ 『いえ、立ち聞きなどは致しませんが、それくらいな事は分り曹丕の召に、植は恐れわななきながら兄の室へ曳かれて来 きっています。が、大王の御決、いよ、 . しいったいどうなのか、そた。丕は、強いて冷やかに告げた。 れは未だ私には分っておりません』 『こら弟、いや曹植。ーー平常の家法では兄弟だが国法に於い ては君臣である。そのつもりで聞けよ』 かきん 華歌はなおことばを続けた。 『先王も詩文がお好きだったので、汝はよく詩を賦して媚びへ 『あの御舎弟の才能は、好いわ好いわで抛っておくと、周囲のつらい、兄弟中でも一番愛せられていたが、その頃から窃かに かっ 者が担ぎあげて、池中の物として措かんでしよう。今のナち他の兄弟たちも云っていた。植の詩は、あれは植が作るのでは のぞ わずら に、除いてお了いにならないと、後には大きな患いですぞ』 ない、彼の側に詩文の名家がいて代作しているのだと。 『 : : : でも。予は母公に、もう約束してしまったからの』 も実は疑っておる。嘘か実か、今日はここでその才を試してみ 『何とお約束なさいました』 ようと思う。もし予の疑いがはれたら命は助けてやるが、その から ぎよい しよう - 一く た うそま - 一と たま しカカ ひそ 200

5. 三国志(三) (吉川英治)

るところだ。いかなる変に臨んでも機に応じてまず側面の外交して魏にしたがう、その略です。 : : : 豈、聡明智仁勇略の君と おこた いわずして何といいましようか』 を試みる熱と粘りは怠らない。 はなまが ちん 曹丕は笑いを収めて、この鼻曲りの小男を見直した。 『なに。呉の国が使節をもって、朕に表を捧げて来たとか』 だいこうていそうひ を屈して魏に従うこれ略なり、とはよくも思いきって云えたも 大魏皇帝曹丕は、にやりと笑ってその表をざっと読んだ。 ちょうし 近頃、閑暇に富んでいるとみえ、曹丕は、使者の趙咨に謁見の哉と、魏の群臣もその不敵さに皆あきれていた。 なかば を与えた後、なおいろいろなことを訊ねた。半からかい半分 なかば 、半呉の人物や内情を、談笑のうちに探ろうとするような、 そうひ かっ こうふん 曹丕は刮と眼をこらして彼を見くだしていた。大魏皇帝たる ロ吻だった。 『使節に問うが、汝の主人孫権は、ひと口に云うと、どんな人威厳を侵されたように感じたものとみえる。 ちょうし やがて曹丕は、趙咨にむかって、敢えてこういう一一一口葉を弄し 物か』 ちょうし 趙咨は鼻の 8 しげた小男であ 0 たが、毅然として、 そうめいじんちゅうりやく 『朕はいま、心のうちに、呉を伐たんかと考えておる。汝はど 『聡明仁智勇略のお方です』 、つ田 5 、つ、か』 と答え、それから臆面もなく、曹丕を正視して、眼をばちば ちょうし 趙咨は額をたたいて答えた。 ちさせながら、 『ゃ。それも結構でしよう。大国に外征をする勢力があれば、 『陛下、何をくすくすお笑い遊ばしますか』と、反問した。 しゅギ一よ 小国にもまた守禦あり機略あり、何ぞ、ただ畏怖しておりま 『されば、朕は笑うまいとするに苦しむ。なぜなれば、自分の 主君というものは、そんなにも過大に見えるかと思うたからしようや』 『ふーむ。呉人はつねにも魏を怖れて居らないというか』 『過大に恐れてもいませんが、過大に莫迦にしてもおりませ 『これは心外な仰せを』 ん。わが精兵百万、艦船数百隻、三江の嶮を池として、呉はな 『なぜ心外か』 だ呉を信じているだけであります』 『てまえにすれば、陛下の御前なので、甚だ遠慮して申し上げ そうひ たつもりなのです。遠慮なくその理を述べよと仰っしやって下曹丕は内心舌を巻いて、 『呉の国には、汝のような人物は、どれほどおるか』と、また されば、陛下がお笑い遊ばさないようにお話しできると思いま 交 訊ねた ちょうし すると趙咨は腹をかかえて笑い出し、 外『申してみよ、存分に、孫権の豪さを』 ーりト - も - っ ます そう たいさいろしゆく の『呉の大才魯粛を凡人の中から抜いたのは、その聡です。呂蒙『それがし程度の人間なら桝で量って車に載せるほどありま 、つを : ん ばってき 呉を士卒から抜擢したのはその明です。于禁をとらえて殺さず、す』と、云「た。 その智です。三江に拠って天下を虎視す、その雄です。身を屈ついに曹丕は三嘆してこの使者を賞めちぎった。 えら そうひ ) 0 ん の ろう 223

6. 三国志(三) (吉川英治)

あざむ 反対だった場合は、長く先王を欺き奉った罪を即座に糺すそ。 異存はないか』 すると曹植は、それ迄の暗い眉を急ににこと開いて、 ありません』 と、神妙に答えた。 たいふく 曹丕は、壁に懸っている大幅古画を指さした。二頭の牛の格 そう - 一 闘を描いた墨画で、それへ蒼古な書体を以て何人かが、 とうしようかにたたこうて ギ一ゅういにおちてしす 二頭闘 = 檣下一一牛墜レ井死 だいさんじく と賛してあったが、その題賛の字句を一字も用いないで、闘 牛の詩を作ってみよという難題を、植に与えた。 『料紙と筆をおかし下さい』 と乞いうけて、植はたちどころに一詩を賦して兄の手許へ出 たたかい した。牛という字も、闘という字も用いずに、立派な闘牛之 詩が賦されてあった。 りゅうげんとく かきん 漢中王の劉玄徳は、この春、建安二十五年をもって、ちょう 曹丕も大勢の臣も、舌をまいてその才に驚いた。華はあわ そうそう つくえ てて几の下からそっと曹丕の手へ何か書いたものを渡した。曹ど六十歳になった。魏の曹操より六ッ年下であった。 せいと その曹操の死は、早くも成都に聞え、多年の好敵手を失った 丕は眼をふと俯せてそれを見ると、忽ち声を高めて次の難題を まつらくばく 出した。 玄徳の胸中には、一抹落莫の感なきを得なかったろう。敵なが 『植つ。起てーーそして室内を七歩あゆめ。もし七歩あゆむ間ら惜しむべき巨人と、歴戦の過去を顧みると同時に、 一詩を作らなければ、汝の首は、八歩目に、直ちに床へ落『我もまた人生六十齢』 と、やがては自分の上にも必然来るべきものを期せすに居ら ちているものと思え』 れなかったに違いない。 植は、壁へ向って、歩み出した。一歩、二歩、三歩と。そし年を老ると気が短くなるーーという人間の通有性は、大なり あい ! ん る 小なりそういう心理が無自覚に手伝って来るせいもあろう。劉 て歩と共に哀吟した。 マメガラタ 玄徳も多分に洩れず、自身の眼の黒いうちに、呉を征し、魏を 豆ヲ煮ルニ豆ノ箕ヲ燃グ ナ フチュウア を 豆ハ釜中ニ在ッテ泣グ 亡ばして、理想の実現を見ようとする気が、老来いよいよ急に ショウ 情 モトコ ドクコン なっていた ム本是レ同根ョリ生ズルヲ そうひ アイニ ハナハキュク 折ふしまた魏では、曹丕が王位に即いて、朝廷をないがしろ 相煎ルコト何ゾ太ダ急ナル ふ ただ さすがの曹丕もつい涙を流し、群臣もみな泣いた。詩は人の そうしよくし しんきんかな 心琴を奏で人の血を搏つ。曹植の詩は曹植のいのちを救った。 しようぜん おう あんきようこうへん 即日、安郷侯に貶されて、孤影を馬の背に託し、悄然兄の魏王 キ - ゅよ′ 宮から別れ去ったのである。 と 私情を斬る そうひ っ としした 2 り 7

7. 三国志(三) (吉川英治)

てんびん ながら王者の風を備えられておる。汝の侍く曹丕などとは天稟 ばんがんぐふ がちがう。わけて汝ら廟堂の臣共、みなこれ凡眼の愚夫、豈、 けんしゅあんくん 賢主暗君の見分けがっこうや。 : と、まるでもうてんから頭 けール、、 ごなしで、二の句も云わせぬ権まくですから、ぜひなく唯令旨 をお伝えしただけで、ほうほうの態にて立ち帰って参りました ような次第でーー』 い一・、いかキ ~ かくて曹丕の一旦の怒りは、ついに兄弟牆にせめぐの形を取 きょちょ ってあらわれた。 , 彼の厳命をうけた許赭は、精兵三千余をひっ そうしよく りんし さげて、直ちに、曹植の居城臨沺へ殺到した。 そうひ 曹丕が甚しく怒った理由というのはこうであった。 『われらは王軍である』 以下、すなわち令旨を携えて、曹植のところから帰って来た 『令旨の軍隊だそ』 きょちょ 使者の談話である。 許赭の将士は、口々に云って、門の守兵を四角八面に踏みち たが りんし・一うそうしよくみ - ま 私が伺いました日も、うわさに違わす、臨侯曹植様らし突き殺し、拒ぎ闘うひまも与えす閣中へ混み入って、折ふ てい ちょうしんは・ヘ てい こと′一と には、丁儀、丁廩などという寵臣を侍らせて、前の夜から御酒し今日も遊宴していた丁儀、丁を始め、弟君の植をも、悉 おんあに よう - じよう 宴のようでした。それはまアよいとしても、かりそめにも御兄く捕縛して車に乗せ、忽ち、郞の魏城へ帰って来た。 うえおう も もたら ぞうお ほむら そうひ 上魏王の令旨を齎して参った使者と聞いたら、ロを含嗽し、席憎悪の炎を面に燃やして、曹丕は一類を階下に曳かせて、一 べん を清めて、謹んでお迎えあるべきに、坐もうごかず、杯盤の間 眄をくれるや否、 ちゅうさっ へ私を通し、あまっさえ臣下の丁儀が頭から使者たる手前に向『まず、その二人から先に誅殺を加えろ』 きょちょ そもそも って : : : 汝、みだりに舌を動かすな。抑 4 、先王御存命のと と、許赭に命じた。 そうしよく き、すでに一度は、わが殿、曹植の君を太子に立てんと、明ら 剣光のひらめく下に、二つの首は無造作に転がった。階欄は ざんしやげんさまた かに仰せ出された事があったのだ。然るに、讒者の言に邪げら朱に映え、地は紅の泉をなした。 そうひ あわ あしおと たま れ、ついにその事なく薨去せられたが、その大葬のすむや否、 そのとき曹丕のうしろに慌ただしい跫音が聞え、魂げるよう もん早 - い ふたりの家臣が目 わが曹植の君に、問罪の使を向けてよこすとは何事だ。いったな老女の泣き声が彼の足もとへ縋った。 あお い曹丕という君はそんな暗君なのか。 : 左右に良い臣もいなのまえに斬られて、血しおの中に喪心していた曹植が、その蒼 のいのか : 。と、いやはやロを極めて罵りまする。すると又、 ざめた顔をあげてふと見ると、それは自分たち兄弟を生んだ実 歩もうひとりの丁廛という家臣も口をそろえて。 : : : 知らずやの母たる卞氏であった。 『あっ : : : わが母公』 七汝、わが主曹植の君には、学徳世に超えたまい、詩藻は御ゆた たちましよう あわれ しゅよくな かに、筆をとれば忽ち章をなし、忽ち珠玉を成す。しかも生れ植は思わず伸び上って嬰児の如く哀を乞う手をさし伸べる 111 一口 そうひ 七歩の詩 たすさ ののし はいばん あけ ・ヘんし せ くれない あか 1 一 かしず かいらん ノ 99

8. 三国志(三) (吉川英治)

おるとみえる』 ん』 曹丕は思わず長嘆を発して、敵ながら見事よと賞め称えた。 曹丕も大いに笑った。 うなず 要するにこれは、呉の徐盛が、江上から見えるあらゆる防禦 『さもあろうか』と、頷いていた。 おお 五更に近づくと、江上一帯に濃霧がたちこめて来た。しばら施設に、すべて草木や布を蔽い被せ、或いは住民を他へ移し、 ほどこ しせき くは咫尺も見えぬ霧風と黒い波のみ渦巻いていた。しかしやが或いは城廓には迷彩を施したりしてまったく敵の目を晦まして いたのだった。そして曹丕の旗艦以下、魏の全艦隊が、いまや て夜が明けて陽が高く昇ると、霧は吹き晴れて、対岸十里の先 あいろ 淮河の隘路から長江へと出て来る気配を見たので、一夜に沿岸 も手にとるようによく見える央晴であった。 『おお』 全部の偽装をかなぐり捨て、敢然、決戦態勢を一小したものであ る。 『あれは如何に ? 』 おどろゅび 舷の将士はみな愕き指さし合っていた。ひとりの大将は船『彼にこの信念と用意がある以上、いかなる謀があるやも測 にわか そうひ 楼を駈け上って、曹丕の室へ、何事か大声でその愕きを告げてり難い』と、曹丕は遽に下知して、准水の港へ引っ返そうとし せま たところ、運悪く隘い河口の洲に旗艦を乗りあげてしまった ひ おろ 為、日暮までその曳き卸しに混乱していた。 漸く、船底が洲を離れたと思うと、今度は昨夜以上の烈風が ひょう もろぶね ととくじよせ、 呉の都督徐盛も決して無為無策でいたわけではない。彼が固吹き出して来て、諸船はみな虚空に飛揺し、波は船楼を砕き人 ほんとう く守備を称えていたのもやがて積極的攻勢に移る前提であったを翻倒し、何しろ物凄い夜となって来た。 『危い危い。また乗しあげるそ』 ことが、後になって思い合わされた。 暗黒の中に戒め合いながら、疾風に揉まれていたが、そのう いま夜明けと共に船上の将士が口々に愕きを伝えている中 そうひ へ、曹丕もまた船房から出て、手をかざして見るに、成程、部ちに船と船とは衝突するし、舵を砕かれ、帆檣を折られ、暴れ すさ きもひや 荒ぶ天地の也哮の中に、群船はまったく動きを失ってしまった。 下が胆を冷したのも無理はない。呉の国の沿岸数百里のあいだ よ 曹丕は船に暈って、重病人のように船房の中に臥していた は一夜に景観を変えていた。 わいが りゅう ゅうべ迄、一点の燈もなく、一旒の旗も見られず、港にも部それを文聘が背に負って、小舟に飛び移り、辛くも淮河の懐 あが 落にも、人影一つ見えないと、偵察船の者も報告して来たのを作している一商港に上陸った。 り・、ス 1 い十 , い、、 船暈は土を踏むとすぐ忘れたように癒る。ここには魏の陸上 冫いま見渡せば、港には陸塁水寨を連ね、山には旌旗がみち そうひ どきゅうだい せきほうろう 水みちて翻えり、丘には弩弓台あり石砲楼あり、また江岸の要所本営があるので、そこへ入 0 たときはもう平常の曹丕らしい元 しょ・つとう の要所には、無数の兵船が林のごとく檣頭を集めて、国防の一水気だった。 あかっき 『いやひどい目に遭うた。しかしこの荒天も暁までには収ま ここにありと、戦気烈々たるものがあるではないか 淮 そも ああ 『意、こは抑いかなる戦術か。呉には魏にも無い器量の大将がるだろう』と、諸大将と共に語り合っていたが、それまた束の ふな・ヘり せいき ぶんべい なお ほばしら はかり 1 一と ふところ

9. 三国志(三) (吉川英治)

『何だと』 練していた。雄大な魏王宮は、玄武池のさざ波に映じて、この 巻大喧嘩にな「た。 世のものと思えなかった。 そうしようそう の曹操の耳に聞えた。もちろん媚態派の佞臣からである。曹操曹操には四人の子がある。みな男子だった。曹丕、曹彰、曹 ふんど しよくそ - っゅう 南は憤怒して、 植、曹熊の順だ。けれども大妻丁大人の子ではなかった。側室 『舌でも噛め』と、獄へ抛り込ませた。 から出た者ばかりである。 図 よっ 崔珱は、曳かれながらも、 このうちで、曹操が、 ( わが世嗣は、彼に ) とひそかに思っ うば筆やくぞく そうしよく そうしよくしけんあざな 『漢の天下を奪う逆賊は、ついに曹操と極まった』 ていたのは三番目の曹植だった。曹植は子建と字し、幼少から ののし と、大声で罵りちらした。 詩文の才に長け、頭脳はあきらかで、また甚だ上品な風姿をも それを聞くと曹操は、さっそく廷尉に命じて、 っている。 、、、つナた。 『やかましいから黙らせろ』と 嫡男の曹不は、 崔珱の声はもう聞えなくなった。廷尉が棒をもって獄中で打 ( : : : 怪しからん ) と、不満に思った。曹家は自分が嗣ぐべき ちゅうだいふ ち殺してしまったのである。 であると極めているからだ。中大夫の賈をそっと招いて、何 建安二十一年五月。もろもろの官吏軍臣は、帝に奏して、 かと相談した。 みことのり 一一口を仰しオ : こ、フなさいませ』 ギコウノウソウコク カギ トクコクダイ 魏公曹操、功高ク、徳ハ宏大ニシテ、天ヲ極メ、地ヲ際賈は囁いた。その後、曹操が遠い軍旅に立っ時が来た。三 イインンユウコウ 伊尹周公モ及・ハザルコト遠シ。ョロシグ王位ニススメ、 男の曹植は、詩を賦して、父との別れを惜んだ。 魏王ノ位ヲ賜ワランコトヲ。 だが曹丕は、賈にいわれたとおり、ただ城外まで見送りに とス いうのである。 立って、涙をふくみ、黙然、父が前を通るとき、眸をこらして しようよう 帝はやむなく、鍾絲に詔書の起草を命じ、すなわち曹操を冊見送った。 りつ イおう 曹操は、あとで考えた。 立して、魏王に封じ給うた。 みことのり しゅイよく 詔に接すると、曹操は固辞して、辞退の意を上書する。帝『詩は巧み、珠玉の字をつらねているが、曹植のその才より そうひ は又、かさねて別の一詔をお降しになる。そこで初めて、 も、曹丕の無言のはうが、もっと大きな真情をもっているもの じゃよ、 十 / しか・な ? ・』 『聖命もだし難ければ』 と、曹操は王位をうけた。 それから彼の子を観る眼が又すこし変った。 かんむり 十二旒の冠、金銀の乗用車、すべて天子の儀を倣い、出入 けいひっ には警蹕して、ここに彼の満悦なすがたが見られた。 おうきゅう ようぐん そうひ きんじゅう さっそく、鄰郡には、魏王宮が造営された。ここにはすでに 曹不はその後も、父曹操の近衆たちへ、特に目をかけて、金 げんぶち 玄武池がある。曹操の親衛隊は、ここで船術を練り、弓馬を調銀を与えたり、徳を施したり、歓心を得ることにぬかりなく努 がた う ねいしん そう そうひ そうひ た み そうひ っ

10. 三国志(三) (吉川英治)

も、孟達から来た勧降の書を引き破り、その軍使も即座に斬つの病の一因にはなった。 て、戦をすすめられた由ですから、以て、其の後の御心中はよ ごれんびん く分りまする。なんとか、御憐愍を垂れ給わんことを、我々臣 下よりも切におねがい申し奉りまする』 さなきだに玄徳としては、助けたくてならなかったところで ある。彼は、誰かに、そう云って貰いたい折に、こう云う一一 = 〔葉 を聞いたので、 『おお、彼にも、一片の良心はあったか。忠孝の何たるかは、 わきま ふびん 少しでも弁えていたとみえる。不愍なやっ、殺す迄には及ぶま し』 転ぶが如く、廊下へ出た。そして急に、助命を伝えよと、老魏では、その年の建安二十五年を、延康元年と改めた。 じろう また夏の六月には、魏王曹丕の巡遊が実現された。亡父曹操 侍郎を走らせた。 しようけん りゆ・つほ - っ の郷里、の県を訪れて、先祖のを祭らんと沙汰し、供に ところが、出合い頭に、数名の武士はすでに劉封の首を斬っ は文武の百官を伴い、護衛には精兵三十万を従えた。 て、それへ持って来た。玄徳は一目見るや、 ざん 『な、なに。もはや斬に処してしま「たとか。われとした事沿道の官民は、道を掃いて儀仗の列にひれ伏した。わけて郷 しようけん が、軽々しくも、怒りにまかせて、遂に一人の股肱を死にいた里の県では、道ばたに出て酒を献じ、餅を供え、 ああ 『高祖が沛の郷里にお帰りになった例もあるが、それでもこん らしめてしまった。噫、悲しいかな』 つぶや ちしゃ なに盛んではなかったろう』 と、痴者のごとく呟いて、腰もっかないばかりに嘆いオ と、祝し合った。 そこへ孔明が来て、嘆きやまぬ彼を一室に抱き入れた。そし みじか そうひ が、曹丕の滞留はひどく短く、墓祭がすむ途端に帰ってしま てことば静か ろうかこうじゅん ったので、郷人たちは何か張り合い抜けした。老夏侯惇が危篤 『お心もちはよく分ります。孔明とて木石ではありませんか じゅし ら。 という報を受けたためであったが、曹丕が帰国したときは、す : けれど国家久遠の計を思うならば、ひとりの豎子、な んぞ惜しむに足らんやです。これしきの悲しみに会って、忽ちでに大将軍夏侯惇は死んでいた。 - 一う 曹丕は、東門に孝を掛けて、この父以来の功臣を、礼厚く葬 元凡夫に回るような事で、どうして大業の基が建てられましよう。 わら おんなわらべ 女童の情です、自らの御涙を自らお嗤いなさい。あなたは漢った。 『凶事はつづくというが、正月以来この半歳は、どうも葬祭ば 中王でいらせられますそ』 かりしておるようだ』 つぶや 玄徳はうなずいた。しかし老齢六十の彼には、この事も、後曹丕も呟いたが、臣下も少し気に病んでいたところが、八月 改 かん・一う ろう 改元 けんあん ぎおうそうひ えんこう 205