蜀 - みる会図書館


検索対象: 三国志(三) (吉川英治)
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1. 三国志(三) (吉川英治)

後蜀三十年 し まま 止、有の儘だから至極よい』 孔明なき後も、劉玄徳以来の、中原進出の大志は、まだ多く と、みな云った。 の遺臣のうちには、烈々と誓われていた事が分る。 りようどうえんかつなや 孔明が、彼を挙げたのも、その特徴なきところを特徴とし 瑰は、孔明がいつも糧道の円滑に悩んでいた例を幾多知って て、認めていたからであったろう。 いたので、こんどは水路を利用して魏へ入ろうとして建議した が、蜀の朝廷では、 十三年四月。 やす 瑰は、大将軍尚書令に累進したので、そのあとには費幃が代『北流する水を利して進むは、入るに易い道には違いないが、 しやきしようぐん み - かのば って就任した。また、呉懿が新たに車騎将軍となって、漢中をひとたび退こうとするときは、流れを溯上るの困難に逢着する であろう』 総督することになった。 と云って、ついに彼の建議をゆるさなかった。これは、その 遠征軍の大部分は引き揚げても、漢中は依然、蜀にとって、 ぜんえいきち 重要な前衛基地であった。なお多くの国防軍はそこに駐屯して作戦を否定したばかりでなく、すでに遠征を好まない空気が、 けんちょ 漸く、廟議の上にも顕著となった一証だと見てよい いた。呉懿の赴任は、その為にほかならない。 ひょうへんきざ 『守らんか、攻めんか』 舷に、忽ち豹変を兆しはじめたのは、同盟国の呉であった。 よろん 蜀の輿論は、数年を、殆どそのいずれともっかずに過ごし その態度は、孔明の死と同時に、露骨なものがあった。 『いま、蜀を急救しなければ、蜀は魏に喰われてしまうであろた そのうちに、延熈七年の三月、魏は蜀の足もとを見て、 1 」キ、ゆニノ これを名目として、呉は、数万の兵を以って、蜀国境の巴丘『いまは一撃に潰えん』 そうそう へ出て来た。この物騒極まる救援軍に対して、蜀も直ちに、兵となし、すなわち曹爽が総指揮となって、十数万の兵を率 らっこう を派して、 、長安を出て、駱口を経、積年窺うところの漢中へ、一挙突 『御親切は有難いが、まず大した危機も此の方面にはないから入せんとした。 ようげき ところが、蜀軍いまた衰えずである。蜀は、その途中に邀撃 お引き揚げ願いたし』 して、魏を苦戦に陥らしめた。 と、対峙の陣を布いた上、こう外交折衝に努めたので、呉も ばいほうめん ついに、火事泥的な手を出し得ずに、やがて一応、国境から兵費幃の援軍が早く来たのと、浩方面に蜀兵の配置が充分であ ったため、忽ち、魏軍を諸所に捕捉して、痛打を加え、特有な を退いた 嶮路を利用して、さんざんに敵を苦しめたのである。 『いけない、なお未だ孔明の遺風は生きている』 そうかし 曹爽はそう云って退却した。 しよくしようえん その翌年、蜀の賰瑰は死んだ。 蜀の良将はこうして一星一星、暁の星のように姿を消して 建興十五年、蜀は、延熈と改元した。 この年、賰瑰は、討魏の軍を起して、漢中に出で、ひそか 、魏の情勢を窺っていた えん ひ しようえん し えんき ひ えん おちい あかっき イ 83

2. 三国志(三) (吉川英治)

篇外余録 それというのが二人ともひそかに、孔明の死後は、われこそ おのおの めぐ 蜀の丞相たらんと、各、、、その後を繞「て相争「ていたから である。 曾って、呉の孫権は、蜀の使に、孔明の左右にある重臣はた れかと訊ね、 『さてさて、儀や延を両腕にして戦っているのでは、さだめし 孔明も骨が折れるだろう』 - : っふん と、同情的な口吻のうちに、延や儀の人物を嘲評していた という話もあるが、たしかに、この二人物は、蜀陣営の中の、 やっかいもの 孔明なき後の、蜀三十年の略史を記しておく。 いわゆる厄介者にちがいなカた えんきょ・つこう - っこ、、 ここ迄の蜀は、殆ど孔明一人がその国運を「て卩ー・延は矜高。儀は狷介』 つぶや いたと云っても過言でない状態にあったので、彼の死は、即ち とは、孔明が生前にも、呟いていた語であった。 しよ、つ 蜀の終りと云えないこともない。 は、そのいずれにも後事を託さす、却って、平凡だが穏健な賰 えんひ 然し、それは孔明自身が、以って大いに、自己の不忠なりと瑰と費幃とに嘱すところ多かったのである。 よ・つ し、又ひそかなる憂いとしていた所でもある。 楊儀の失脚も、結局、その不平から起ったもので、彼は、成 従って、自身の死後の備えには、心の届くかぎりの事を、そ都に帰って後、さだめし大命われに降るものと、自負していた ちゅうしようぐんし の遺言にも遺風にも尺、してある。 ところ、なんぞはからん、重命は瑰に降り、自分は中将軍師 しきりよふん 以後、なお蜀帝国が、三十年の長きを保って居たというも、 を任ぜられたに過ぎないので、以後、頻に余憤をもらし、あま ひとえ 偏に、『死してもなお死せざる孔明の護り』が内治外防の上に っさえ不穏な行動に出んとする空気すら窺われたので、蜀朝 かんは かんか あったからに他ならない。 は、是に先んじて、彼の官を剥ぎ、官嘉の地へ流刑するの決断 けん - 一う そこで孔明の歿した翌年すなわち蜀の建興十三年にはどんな に出たものであった。 さんどう しちゅう 事があったかというに、蜀軍の総引揚に際し、桟道の嶮で野心 これが、孔明死後の成都に起った第一の事件であった。支柱 よ、つ えんちゅうばっ かんは かんか 家の魏延を誅伐した楊儀も、官を剥がれて、官嘉に流され、そを失うと、必ず内争始まるという例は、一国も一家も変りがな こで自殺してしまった。 蜀もその例外でなかった。 えん えんじゃし しようえん 延は儀を敵視し、儀は延を邪視し、この二人は、すでに孔明 けれど、蒋瑰はさすがに、善処して、過らなかった。彼はま しょ・つしよれい の生前から、互いによからぬ仲であったが、孔明の大度がよくず尚書令となって、国事一切の処理にあたったが、衆評は、彼 それを表面に現わすなく巧みに使って来たものに過ぎなかっ に対して、 てら 『あの人は平凡だが、平 凡を平凡として、威張らず衒わず、挙 後蜀三十年 てきし しよく しよく えん あやま ちょうひょう

3. 三国志(三) (吉川英治)

ました』 の上から油の煮え立っている大鼎の中へ躍り込もうとした。 しよくしゅげんとくな 『それならば、予は大いに危ぶむ。すでに蜀主玄徳亡く、後主『ゃあ、待ち給えつ、先生』 は幼少であるから、よく今後も国家の体面を保ち得るかどう孫権がこう大呼したので、堂上の臣は馳け寄って、あわやと ・カ』 見えた鄧芝を後から抱き止めた。 ここまで孫権が切り出して来ると、鄧芝はわがものだと胸の 『先生の誠意はよく分った。他国に使して君命を辱しめぬ臣あ うちで確信をもった。 り、またその人を観てよく用いる宰相のあるあり、蜀の前途 えいけん じようひんせき 『大王も一世の英賢、孔明も一代の大器。蜀には山川の嶮あは、この一事を見てもドするに足る。 ーー先生、まず上賓の席 り、呉には三江の固めありです。これを以って、唇歯の撼をに着かれい。貴国の御希望は充分考慮するであろうから』 なすのに、なんの不足不安がありましよう。大王はこの強大な俄然、孫権は態度を史えた。たちまち侍臣に命じて、後堂に じ上うひんれい 国力をもちながら、魏にたいして臣と称しておられますが、い 大宴を設け、上賓の礼を執って、鄧芝を迎えあらためた。 ほんぜん まに見ていて御覧なさい、魏は口実をみつけて、かならず王子鄧芝の使命は大成功を収めた。 , 彼の熱意が孫権をして翻然と を人質に求めて来ましよう。そのときもし魏の命に従わなけれ、い . 機一転させたものか、或いはすでに孫権の腹中に、魏を見捨 ばん - 一 ば魏は万鼓して呉を攻め、併せてわが蜀には好条件を掲げて軍てる素地が出来ていたに依るものであろうか。いずれにせよ呉 うなが はや 事同盟を促して来るに極っている。ーー長江の水は下るに速蜀の国交回復はここにその可能性が約されて、鄧芝は篤くもて けんぎよう かりに蜀軍の水陸軍が魏の乞いを容れるとしたときは、呉なされて十日も建業に逗留していた。 1 一しんちょううん は絶対に安全であり得ましようか』 その帰るにあたっては、呉臣張蘊が、あらためて答礼使に任 ぜられ、鄧芝とともに、蜀へ行くことになった。 と、つし ちょ - つ、つん 冫。しかが思われますか』 『大王こま、 だが、この張蘊は、鄧芝にくらべると、だいぶん人物が下ら 『ああ。ゃんぬる哉。大王には初めからそれがしを説客と見て ( まだまだ易々と調印はゆるさぬ。この眼で蜀の実状を観た上 きべんあぎむ おられる。そして詭弁に詐かれまいというお気持が先になってのことだ。条約の成るか成らぬかはおれの復命一つにある ) と いる。それがしは決して私一箇の功のためにこの言を吐くもの云わぬばかりな態度で蜀へ臨んだ。 こうしゆりゅうぜん 交 ではありません。一に両国の平和を希い、蜀のため、呉のため 蜀では、対呉政策の一歩にまず成功を認めたので、後主劉禅 ちょううん 、必死となって申し上げたのです。御返事はお使を以って蜀以下、国を挙げて歓びの意を表し、張蘊が都門に入る日などは 呉へお達し下さい。もう申しあげるべき使者の言は終りましたか たいへんな歓迎ぶりであった。 ちょううん 蜀ら、この身は自ら命を絶ってその偽りでないことを証明してお ために張蘊はよけいに思い上って、蜀の百官をしり眼に見くわ りゅうぜんこうてい ごうぜん 目にかけます』 だし、殿に上っては、劉禅皇帝の左に坐して、傲然、虎のよう ねが しよく しんし せつかく み か おおかなえ

4. 三国志(三) (吉川英治)

五丈原の巻 わずら い蜀を過小評価していることが、魏の患いというべきだ。帝に けいきょあ はよく御存じあるはずである。なんで左様な軽挙を敢えてし て、この上軍馬の損傷を希われるものか』 と否定し去って、まるで顔でも洗って来給え、と云わぬばか りの返辞だった。 ようき 楊曁という一官人が、この矛盾を訝かって、こんどは直接、 ていそうえい 魏帝曹叡にこれをただしてみた。 『蜀を伐っ儀は御中止なされたのですか』 『汝は書生だ。兵法を語る相手ではない』 そうしん りゆ・つよう 秋七月。魏の曹真は、 『でも劉嘩が、そんなばか軍はせぬといっていますから』 ごしんねんわずら 『国家多事の秋。久しく病に伏して、御軫念を煩わし奉りまし 『劉嘩がそういっておると ? 』 たが、すでに身も健康に復しました故、ふたたび軍務を命ぜら 『はい。何せい、劉嘩は先帝の謀士でしたから、みな彼の言を れたく存じます』 信じております』 と、朝廷にその姿を見せ、また表を奉って、 『はての ? 』 あき 秋すずしく、人馬安閑、聞くならく孔明病み、漢中に精帝はさっそく劉嘩を召して、さきには朕に蜀伐つべしとすす こっかん 鋭なしという。蜀、いま討つべし。魏の国患、いま除くべし。 め、宮廷の外では反対に、伐つべからずと唱えているそうだ という意見をすすめた。 が、汝の本心はいったい何処にあるのかと詰問された。と劉嘩 りゅうようはか 魏帝は、侍中の劉嘩に諮った。 はけろりとして、 『蜀を伐たん乎。それとも、止めた方がよいか』 『何かのお聞き違いでございましよう。臣の考えは決して変っ s ゅうよう しよくさんしよくせんけんおか 劉嘩はすぐ答えた。 ておりません。蜀山蜀川の嶮を冒し、無碍に兵馬を進めるな しようもう 『伐たざれば百年の悔です』 どは、我から求めて国力を消耗し、魏を危きへ押しこむような りゆ、つよう やしき その劉嘩が、わが邸に帰っていると、朝廷の武人や、大官ものです。彼から来るなら仕方がありませんが、我から攻める が、入れ代り立ち代り来て彼へただした。 べきではありません。蜀伐つべからずであります』 うれ 『この秋こそ、大兵を起して、年来の魏の患いたる宿敵蜀を伐帝は妙な顔して、彼の弁にまかせていた。やがて話がはかに しム、つ、 つのだと、帝には仰せられている。その事はほんとうでしよう外れると、侍座に佇っていた楊曁はどこかへ立ち去った。 りゆ、つよう 楊曁がいなくなると、劉嘩は声をひそめて、 りゅうよう み、と げんき すると劉嘩は一笑の下に、 『陛下はまだ兵法の玄機をお悟りになっていないと見えます。 さんせん けんそ ようき 『君等は蜀の山川がいかなる嶮岨か知らないとみえる。、つこ しオ蜀を伐つ事は大事中の大事です。何故楊曁や宮中の者にそんな とき 長雨 とき じんばあんかん あめ ひょう や のぞ ようき じ早、 ねが むじゅんいぶ ちん

5. 三国志(三) (吉川英治)

蜀呉修交 れに四路進攻の大計あり、よろしく呉貴国も大軍を以って、江 を謝り、同時に蜀へなだれこめ ) という軍事提携の申入れにた いして、可とする者、非とするもの、両論にわかれて、閣議は 容易に一決を見なかった。 そんけん 孫権も、断乎たる命をくだしかねて、 りくそん ( この上は、陸遜を呼んで、彼の意中をきいてみよう ) と、使を派して、急遽、彼の建業登城をうながしていた際で あった。 りくそん 要するに、陸遜の献策は。 建業の閣議に臨むと、陸遜は抱負をのべて、両途に迷ってい しゆくえん 一つには魏の求めに逆らわず、二つには蜀との宿怨を結ば る国策に明瞭な指針を与えた。 『いま魏の申し入れを刎ねつければ、魏はかならず避恨をむすず、三つにはいよいよ自軍の内容を充実して形勢のよきに従 び、或いは、蜀と一時的休戦をして矛を逆しまにするやもしれう。 という事であった。 。さりとて彼の飛使に甘んじて、蜀を伐つには、その戦費 呉の方針は、それを旨として、以後、軍は進めて、敢えて戦 人力の消耗には、計り知れぬものがあり、これに疲弊すれば、 禍は忽ち次に呉へ襲「て来るであろう。また魏には賢才は多いわず、ただ諸方へ紐作を放「て、ひたすら情報をあつめ、蜀魏 が、蜀にも孔明がいる以上、そう簡単に敗れ去ろうとは思われ両軍の戦況をうかがっていた 内 : つひ と、果せるかな、四路の魏軍は、曹丕の目算どおり有利 ぬ。ーー如かず、この際は、進むと見せて進まず、戦うと見せ せいへいかん せんえん 。まず、東勢は西平関を境として、蜀の には進展していない て戦わず、遷延これ旨として、魏軍の四路の戦況をしばらく観 ばちょう 望しているに限る。もし魏の旗色が案外よければ、それはもう馬超に撃退されている模様だし、南蛮勢は、益州南方で蜀軍の じようようも・つたっ 擬兵の計に遭って潰乱し、上庸の孟達はうそかほんとか病と称 問題はない。我が軍も直ちに蜀へ攻め入るまでの事である。 ちょ・つうん そ・つしん して動かず、中軍曹真もまた敵の趙雲に要害を占められて、陽 しりぞ や - 一く へいかんしりぞ 平関も退き、斜谷からも退き、まったく総敗軍の実状であると 伝えられた。 りくそん 『 : : : ああ、実によかった。もし陸遜のことばを容れすに、呉 が進んでいたら、わが呉の苦境に至ったことは想像にも余りあ るものだ「た。正に、陸遜の先見は、神算というものであ 0 し し ひへい ーし、ゆ . 、つ一」、つ 蜀呉修交 りくそん 一ぐん しよく !

6. 三国志(三) (吉川英治)

だい - こうていそうひ なっては、この炎暑と病人の続出と、士気の惰することは、ロ 女大魏皇帝曹丕は、或るとき、天を仰いで笑った。 すいへん 巻何ともすることができず、為に、水辺〈陣を移したのだが、そ『蜀は水軍に力を入れて、毎日百里以上も呉〈前進していると しにギ - わ のれにも入念に計を設け、わざと弱々しい老兵軍をのこして我を 、よいよ玄徳の死際が近づいて来た』 側臣は怪しんで訊ねた。 師誘い、自身は精鋭をそろえて、谷間にかくれていたものだろ う。然し、三日を待っといえども、わが呉軍がうごかないの 『そのおことばは如何なる御意に依るものですか』 出 で、ついにしびれを切らして立ち去ってしまった。 順風徐『わからんか、お前たちには。すでに蜀軍は陸に四十余力所の 徐と我に利あり、見給え諸君、もう十日も出ないうちに、こん陣屋をむすび、今また数百里を水路に進む。この蜿蜒八百里に どこそ蜀軍は四分五裂の滅亡を遂げるから』 わたる陣線に、その大軍を配すときは、蜀七十五万の兵力も、 か , ルレ : っ・ 諸人は、又かという顔して、鼻先で聞いていた。殊に韓当は極めて薄いものとなってしまう。加うるに、陸遜の陣を措い 忌々しげこ、 て、水路から突出したのは、玄徳が運の極まるものというべ 『なるほど。わが大都督は、立派な理論家でいらっしやる』 きだ。古語にも言うーー叢原ヲ包ンデ屯スルハ兵家ノ忌 ろう いみおか と、嘲言を弄した。 と。彼はまさにその忌を犯したものだ。見よ、近いうちに蜀は りくそん それらの者を目にも入れず、陸遜は即座に一書簡をしたため大敗を招くから』 た。呉王孫権へ上すものであった。その書中にも彼は、 だが、群臣はなお信じきれず、却って蜀の勢いを怖れ、 かんよう ( 蜀軍の全滅は近きにあります。大王以下、建業城中の諸公 『国境の備えこそ肝要ではありませんか』 も、もはや枕を高うして可なりと信じます ) と、書いていた。 と云ったが、曹丕は否と断言して なだ 蜀軍の方では、その主力を水軍に移し始めていた。陸路には 『呉が蜀に勝てば、その勢いで、呉が蜀へ雪崩れこむだろう。 猊亭の要害があり、陸遜の重厚な陣線がある。いずれも粘りづ この時こそ、わが兵馬が、呉を取るときだ』と、掌を指すごと よく頑張るので徒らに日を費すのみと、玄徳はやや急を求め始く情勢を説き、やがて曹仁に一軍をさずけて濡須へ向わせ、曹 そうしん めたのだった。そし・て呉国の本土へ深く攻め入り、有無なく、 休に一軍を付けて洞ロ方面へ急がせ、曹真に一軍を与えて南郡 呉王孫権との決戦を心に期していたものと思われる。 へ遣っこ。、 オカくて三路から呉を窺って、ひたすら待機させてい それかあらぬかここ数日間、蜀の軍船は続々と長江を下り、 たのは、さすがに彼も曹操の血をうけた者であった。 江岸いたる処の敵を追ってはすぐそのあとに基地とする水寨を 築いていた。 蜀の馬良は、漢中に着いた。ときに孔明は漢中に来ていた。 『御意見もあらば伺って来いとの帝の仰せでありました。わが 軍は、八百余里のあいだ、江に添い、山に拠り、いまや四十数 蜀と呉の開戦は、魏をよろこばせていた。いまや魏の諜報機カ所の陣地をむすび、其の先陣は舟行続々呉へ攻め下っている 関は最高な活躍を一小している。 勢いにあります』 そんけんのば た わば すいみ、し っ・ : っ アムロ じゅしゅ えんえん

7. 三国志(三) (吉川英治)

す - ことま 一円 ~ てあるばかりで ねんしゆっ - 一せきぼ り、また戦争遂行に要する財源の捻出だった。蜀中の戸籍簿なく、わが蜀は自滅するほかありません』 に依って、蜀、魏、呉の戸数を比較して見ると、蜀は魏の三分と、まず天の時を説き、延いて自国の備えに及んでは、 の一、呉の半数しかないのである。 『なるほど、わが蜀はまだ弱小です。天下十三州のうちに、完 えきしゅう 更に、人口の密度から見れば、魏の五分の一強、呉の三分の全に蜀の領有している地は、益州一州しかないのですから、面 一ぐらいな人間しか住んでいない。以って、蜀の開発とその地積の上では魏とも呉とも比較にはならない。従って兵員も不 勢とが、いかに守るにはよいが、文化には遅れがちであるか分足、軍需資材も彼の比でないことはぜひもないことだ。けれ たいこうしようし るし、しかも常備の帯甲将士の数に至っては、魏や呉などの中ど、乞う安んぜよ。多少の成算はある』 くら 原を擁する二国家とは較ぶべくもない貧弱さである。 彼は、簿を取り寄せて、まだ誰にも打ち明けなかった、秘密 けいしゅう 加うるに、後主劉禅は、登位以来すでに四年、二十一歳にもの予備軍があることを初めて明らかにした。それは荊州以来、 S ・ようがいヤ・いしょ ろうにんぶたい なっているが、必ずしも名君とはいわれないものがあった。父禄を送って、領外の随所に養っておいた浪人部隊と、南方その かんなん ちょううんばちゅう ちょうれん 帝玄徳のような大才はなかったし、何よりも艱難を知らずに育他の異境から集めて、趙雲や馬忠などに、 ここ一年調練させて てられて来ている。 いた外人部隊とであった。そしてそれらの兵員を五部に編制 れんどたい ひそうたい てんばたい 『これらの条件をつまびらかにせぬ丞相でもあるまいに し、連弩隊、爆雷隊、飛槍隊、天馬隊、土木隊などの機動作戦 おばしめし かなる思召でかくの如き大軍事をいま決行せられようとするの に当てしむべく充分に訓練をほどこしてある。故に、これは敵 であろうか』 側にとっては、予想外なものとなって、その作戦を狂わすに到 人々はみな孔明に服してはいたが、なお孔明の真意をふかくるであろうと説明した。 知りたく思うのであった。 また財力に就いては、 ふしルう 『北伐の大望は、決して今日の思いっきでなく、不肖が先帝の 五 御遺託をうけたときからの計画である。で自分は、その根本の だいしのう とくの、つ 知る人そ知る。 力は、何よりも農にあるとなして、大司農、督農の官制をお ぐんえき かかわ これが孔明の心であったろう。 き、農産振興に尽して来た結果、連年の軍役にも関らず、蜀中 だが、一夜親しく彼を訪ねて、蜀臣全体の不安を代表するかの農にはまだ充分な余力がある。且、田賦、戸税のほかに、 表のように、それとなく、彼を諫めに来た太史周にたいして、年前から「塩」と「鉄」とを国営にした。わが蜀の天産塩と鉄 ゅげんこんせつきわ の彼の諭一言は懇切を極めた。 とは、実に天恵の物といってよい これによる国家の経済によ ちゅうげん え 師『いまです。今をおいて、北魏を討っときはないのです。魏は って、蜀は中原に進む日の資源を獲ている』 しみじみじゅっかい 出元々、天富の地にめぐまれ、肥沃にして人馬強く、曹操以来、 と、その間の苦心を沁々と述懐した。なおいかに彼が日頃 ここに三代、漸く大国家の態をととのえて来ました。早くこれに於いて、国家の経済に細心な備えをしていたかという一例と ひょく しよくちゅう そうそう ろく ばくらいた、 と でんぶ 379

8. 三国志(三) (吉川英治)

建安二十六年の四月。成都は、成都が開けて以来の盛事に賑といっても過言ではない。朕、いま傾国の兵をあげ、昔日の盟 ぶたん きず らんが わった。大礼台は武担の南に築かれ、鸞駕は宮門を出、満地をを果さんことを、敢えて関羽の霊に告ぐ。汝ら、それ努め 埋むるごとき軍隊と、星のごとく繞る文武官の万歳を唱える中よ』 しよく 玄徳は玉璽をうけ、ここに蜀の皇帝たる旨を天下に宣した よくおん せん のであった。 蜀帝の力ある玉音は群臣のうえにこう宣した。朝に侍す百官 がいせし りんげんあに ! 拝舞の礼終って、直ちに、 は粛として咳声もない。綸一一 = ロ豈疑義あらんやと人はみな耀く目 しようぶ を以って答え、血のさしのばる面を以って決意をあらわしてい ( 章武元年となす ) と云う改元のことも発布され、また国は、 一いしよく ちょううんしりゅう ( 大蜀と号す ) すると超雲子竜が、 と定められた。 『無用無用』と、ひとり反対して憚る色もなく諫めた。 大魏に大魏皇帝立ち、大蜀に大蜀皇帝が立ったのである。天『呉はいま伐つべからずです。魏を伐てば呉は自然に亡ぶもの に二日なしと云う千古の鉄則はここにやぶれた。呉は、果しでしよう。もし魏を後にして、呉へかからば、 かならず魏呉同 て、これに対してどう云う動きを示すだろうか。 体となって蜀は苦境に立たざるを得ないだろうと思われます』 ちょ、つうん 『何をいうぞ、趙雲』 まなじり 玄徳はその切れ長い眦から彼を一眄して、むしろ叱るが如 蜀皇帝の位に即いてからの玄徳は、その容顔までが、一だんく云った。 『呉は倶に天を戴かざるの仇敵だ。朕の義弟を討ったばかりで 変って、自然に万乗の重きを漢中王の頃とはまた加え、何とも ふしじんびほう はんしようまちゅう いえぬ晩年の気品をおびて来た。 なく、朕の麾下を脱した傅士仁、糜芳、燔璋、忠等の徒がみ もっと異って来たのは彼の気餽であった。 一時は非常に引っ な拠って棲息しておる国ではないか。その肉を啖い、九族を亡 込み思案で、名分や人道主義にばかり囚われて、青春から壮年し、以て悪逆の末路を世に示さなければ、朕が大蜀皇帝として 期に亙って抱いていた大志も、老来まったく萎んでしまったか立った意義はない』 と思われたが、孔明の家を見舞って、彼の病中の苦言を聞いて『あいや、骨肉のうらみも、不忠の臣の脚懲も、要するに、そ ほんぜんさと から後は、何か翻然と悟ったらしい人間の大きさと幅と、そしれは陛下の御私憤にすぎません。蜀帝国の運命はもっと重うご つか ろうじゅく 、フ て文武両面の政務にも労れを知らない晩年人の老熟とを一小してざいます』 かんう ばちゅうふしじん 倣 『関羽は国家の重鎮、馬忠、俥士仁の徒は悉く国賊。その正邪 『朕の生涯にはなおなさねばならぬ宿題がある。それは呉を伐を正し、怨みを雪ぐは、当然、国家の意志ではないか。なんで とうえんめい てきがいしん 蜀っことだ。むかし桃園に盟をむすんだ関羽の仇を討っことであ私情の怒りというか。民もみな怒りきるほどの敵気心と、戦い まいしん る。わが大蜀の軍備はただその目的のために邁進して来たものの名分が明らかにあってこそ、初めて戦いには勝つものだ。汝 うず だい っ はつぶ せいと とら ようちょう かがや 273

9. 三国志(三) (吉川英治)

り、立て直しもききますが、今日の変は、要するに、丞相孔明 四 が逝かれた後の万事の帰着です。天数の帰結です。もういけま肪 しよっきゅう こんらん なんばう 余蜀宮は混乱しこ。 せん。呉へ奔るも愚策、南方に蒙塵あるも、何もかも、唯、末 らくようふ ちょうあん しゅうたい 外ここも亦、曾っての、洛陽の府や長安の都その儘の日を現出路の醜態を加えることでしかありません。 : 願うらくはた だ、努めて先帝の御徳を汚さぬよう、蜀帝国の最期として、世 りゅうぜん わらぐ一 帝劉禅には、何らの策も決断もない。妃とともに哭き、内官の嗤い草にならぬよう、それのみを祈りまする』 しよくじよう たちと共にうろたえているのみである。 『では、汝は、蜀城を開いて、魏に降伏するのがよいという しよくほろ 魏軍はすでに城下へ迫って歌っている。蜀亡びぬ、蜀すでに のか』 亡し。有るはただ城門を開いて魏旗の下にひざますく一事のみ『臣として、ロになし得ないことですが、天命にお従い遊ばす と「 ならば、それしか他に途はありません』 『どうしたらよいか。汝等の意見に従おう。ただ朕の為に善処案外にも、劉禅はすぐ、 しゅ・つしょ・つ せよ』 『そうしよう。周の一一 = ロうことが、いちばん良いようだ』 ようす 劉禅は、これを告ぐるのがやっとであった。夜来の重臣会議 と言って、むしろ一時の眉をひらくような容子にさえ見え ちんめんそうはく もまだ一決も見すにある。沈湎蒼白、誰の顔にも生気はない。 たの みくるま むせ しゅうしょ・つ 『呉をみましよう。陛下の御輦を守「て、呉へ奔り、他日の重臣はみな痛涙に咽んだ。けれど誰も皆、周譓の意見が悪 あきら 再起を図らんには、又いっか蜀都に還幸の日が来るにちがいあ いものとは思わなかった。諦めの底に沈黙した。 りませぬ』 この周に就いては、有名な一挿話がある。 しよっかん 『いや呉は恃み難い。むしろ呉は、蜀の滅亡をよろこぶ者であ彼が初めて蜀官に召されたのは建興の初年頃で、まだ孔明の っても、蜀のために魏と戦うような信義のないことは、丞相孔在世中であった。 明の死去のときから分りきっている』 孔明は彼の学識と達見を夙に聞いていたので、帝にすすめて も・つドレー九 いなかで 『いっそ、南方へ蒙塵あそばすのが、いちばん安全でしよう。 田舎出の一学者を、勧学従事の職に登用したのである。 じゅんばく し しよくちょう 南方はまだ醇朴な風があるし、丞相孔明が布いた徳はまだ民の ところが、最初の謁見の日、蜀朝の諸官は、彼の頗る振わ , 4 - っ′み、い ! くとっ ども 中に残っています』 ない風采と、また余りに朴訥すぎて、何を問うても吃っていっ まちまち 衆論は区々である。帝はただ迷うばかりだった。 こう学識らしい話も場所柄に応じた答えもできないでいる容子 しゅうしよう ときに重臣の周譓が、やっと不器用な口つきで、最後に私をながめ、皆グックッと失笑を洩らした。 みだ 見を述べた。 『あのような不嗜みな事は、朝廷の儀礼と尊容を甚しく紊すも 『もの事には総て、始めがあり終りがあり、また中道がありのです。笑った者を処罰しようではありませんか』 ばんかい びようどうかんさつり ます。始めや途中の事なら一時の変ですから、挽回の工夫もあ廟堂監察の吏は、問題として、これを取り上げ、一応、孔明 たのがた ちん っと もうじん まっ

10. 三国志(三) (吉川英治)

- 一う・一う ていた。 滅みな実なし、、、 し力でわが皎々たる天上の月照に及ばんや』 巻 いま、戦端に先だって、その王朗は、自負するところの弁をと、殆ど息もっかずに論じたてて、最後に、 よろい の ふるって、ここに陣頭の大論戦を孔明に向って挑んだのであ『身、卦侯の位を得、蜀主の安泰を祈るなれば、はやはや甲を たみやす 原 る。 解き、降旗をかかげよ。然るときは、両国とも、民安く、千軍 丈 又、否とあ 五冒頭、彼のまず説く所は、魏の正義であ「た。又、その魏を血を見るなく、共に昭々の春日を楽しみ得ん。 ちょ・つ てんちゅう 興した太祖曹操と、蜀の玄徳とを比較して、その順逆を論破れば、天誅忽ち蜀を懲し、蜀の一兵たりと、生きて国には帰す ようしゅん し、曹操が天下万邦の上に立ったのは、堯が舜に世をゆずった まいそ。その罪みな汝の名に受くるものである。孔明、心をし 例と同じもので、天に応じ人に従ったものであるが、玄にはずめてこれに答えよ』 その徳もないのにかかわらず、ただ自ら漢朝の末裔だなどとい と云い結んだところは、実に噂にたがわず、堂々たるもので きけいぜん う系図たけを根拠として、詭計偽善をもつばらとして蜀の一隅あり、また魏の戦いの名分を明かにしたものだった。 を奪って今日を成したものに過ぎない これは現下の中国の人敵味方ともをしずめ、耳かたむけていたが、特に、蜀の軍 ちょ、つ 、いに徴しても明かな批判であるーーーというのであった。 勢までが、道理のあること哉ーーと、声には出さぬが、嗟嘆し 彼はなお舌戦の気するどく大論陣をすすめて、その玄徳のあてやまない容子であった。 とをうけて、これに臨むところの孔明その者に向っては、舌鉾 心ある蜀の大将たちは、これは一大事だと思った。敵側の弁 みわく を一転して、 論に魅惑されて、蜀の三軍がこう感じ入っているような態で あやま はどう 『ーーー御辺もまた、玄徳の偽善にまどわされ、その過れる覇道は、たとい戦いを開始しても勝てるわけはない。 いにしえかんちゅうがっき に倣って、自己の大才を歪め、みずから古の管仲、楽毅に上 孔明がどういうか、何と答えるか。 かたわ せんなどとするは、沙汰のかぎり、烏滸なる児言、世の笑い草側らに立っていた馬謖のごときも、心配そうな眼をして、車 みなしご たるに過ぎぬ。真に、故主の遺言にこたえ、蜀の孤を大事と思上の孔明の横顔を見ていた。 いいんしゅ、つ - : っ わば、なぜ伊尹、周公にならい、その分を守り、自らの非を改『 : め、徳を積み功を治世に計らぬか。ーー御辺が遺孤を守る忠節孔明は、山より静かな姿をしている。終始、黙然と微笑をふ は、これを諒とし、これを賞めるに吝かでないが、依然、武力くんで ーしよく を行使し、侵略を事とし、魏を攻めんなどとする志を持つに至謖は思い出していた。むかし季布というロ舌の雄が、漢の こうらんぞくし しよく しよくぞく っては、正に、救うべからざる好乱の賊子、蜀の粟を喰って蜀高祖を陣頭で論破し、ついにその兵を破り去った例がある。 ほろば を亡す者でなくてなんそ。 それ古人もいっている。天ニ従 王朗の狙っているのは正にその効果だ。はやく孔明が何と サカン しようそう ろんばく とひそかに焦躁していると、や ウ者ハ昌ニシテ、天ニ逆ラウ者ハ亡プーーーと。今わが大魏は、 か論駁してくれればよいが 雄士百万、大将千員、むかうところの者は、忽ち泰山をもってがて孔明は、おもむろに口を開いて、 ふそう 鶏卵を圧すようなものである。量るに、汝らは腐草の螢火、明 『申されたり王朗。足下の弁やまことに可し。しかしその論旨 お、つろう ゃぶみ、 まっえい み ねら きふ よ さたん 342