袁譚 - みる会図書館


検索対象: 三国志(二) (吉川英治)
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1. 三国志(二) (吉川英治)

あかざっえ ところへ、遠く河北の地から、袁紹の書を持って、陳震が使とく、飛雲鶴翔の衣をまとい、手には藜の杖をもって、飄々と 歩むところ自から徴風が流れる。 - っキ、つ 『一卞士口さまじゃ』 『道士様のお通りじゃ』 ほかならぬ袁紹の使と聞いて、孫策は病中の身を押して対面道をひらいて、人々は伏し拝んだ。香を焚いて、土下座する 群衆の中には、百姓町人の男女老幼ばかりでなく、今あわてて 使者の陳震は、袁紹の書を呈してからさらに口上をもって、宴を立って行った大将のすがたも交っていた。 きっこう おやじ 『いま曹操の実力と拮抗し得る国はわが河北か貴国の呉しかあ『なんだ、あのうす汚い老爺は ! 』 ようじゃ りません。その両家がまた相結んで南北から呼応し、彼の腹背孫策は不快ないろを満面にみなぎらして、人をまどわす妖邪 から を攻めれば、曹操がいかに中原に覇を負うとも、破るるは必定の道士、すぐ搦め捕って来いと、甚だしい怒りようで、武士た でありましよう』と、軍事同盟の緊要を力説し、天下を二分しちに下知した。 て、長く両家の繁栄と泰平を計るべき絶好な時機は今であると ところが、その武士たち迄、ロを揃えて彼を諫めた。 云った。 『かの道士は、東国に住んでいますが、時々、この地方に参っ どういん 孫策は大いに歓んだ。彼も打倒曹操の念に燃えていたところては、城外の道院にこもり、夜は暁にいたるまで端坐してうご である。 かず、昼は香を焚いて、道を講じ、符水を施して、諸人の万病 これこそ天の引き会わせであろうと、城楼に大宴をひらいてを救い、その霊によって癒らない者はありません。そのた さかん 陳震を上座に迎え、呉の諸大将も参列して、旺なもてなし振をめ、道士 にたいする信仰はたいへんなもので、生ける神仙とみ あが ごうきゅう 示していた。 な崇めていますから、めったに召捕ったりしたら、諸民は号泣 えん ざわざわ すると、宴も半ばのうちに、諸将は急に席を立って、騒々と して国主をお怨みしないとも限りませぬ』 みな楼台から降りて行った。孫策はあやしんで、何故にみな楼 『ばかを申せつ。貴様たち迄、あんな乞食老爺にたばかられて を降りてゆくかと左右に訊ねると、近侍の一名が、 いるのかつ。否やを申すと、汝らから先に獄へ下すそ』 うきっせんにん だいかっ 『于吉仙人が来給うたので、その御姿を拝さんと、いずれも争孫策の大喝に会って、彼らはやむなく、道士を縛って、楼台 って街頭へ出て行かれたのでしよう』 へ引っ立てて来た。 人 と、答えた。 『狂夫つ、なぜ、わが良民を、邪道にまどわすかっ』 、フきっ 仙 孫策は眉毛をビリとうごかした。歩を移して楼台の欄干に倚孫策が、叱って云うと、于吉は水のごとく冷やかに、 イようとく 吉り城内の街を見下していた。 『わしの得たる神書と、わしの修めたる行徳をもって、世人に 于 街上は人で埋ま 0 ていた。見ればそこの辻を曲「ていま真「幸福を頒ち施すのが、なぜ悪いか、いけないのか、国主はよろ盟 すぐ 直に来る一道人がある。髪も髯も真っ白なのに、面は桃花のご しく、わしにたいして礼をこそ云うべきであろう』 0 ちんしん ひうんかくしよう ほどこ なお ふすい おやじ ほど - 一

2. 三国志(二) (吉川英治)

「なるほど、安全な考えです。けれど田豊は学者ですから、どをあげ、 おのおの へいばどきゅう 巻うしても机上の論になるのでしよう。私ならそうしません』 『各 ~ 一族の兵馬弩弓をすぐって、町の戦場へ会せよ』と、 の『其許ならどうするか』 令した。 道『時は今なりと信じます。なぜならば、なるほど曹操の兵馬は きょ・つけん ようへいきさくあなどがた 臣強堅ですし、彼の用兵奇策は侮り難いものですが、ここ漸く、 まんしんきざ かほくかなん 彼も慢心を萌し、朝野の人々にうとまれ、わけて先頃、国舅の 白馬の野とは、河北河南の国境にあたる平野をいう。 と・つじよう 董承以下、数百人を白日の都下に斬ったことなど、民心も離反 四州の大兵は、続々、戦地へ赴いた しているにちがいありません。儒者の論に耳をとられて、今を さすが富強の大国である。その装備軍装は、どこの所属の隊 あんじよ 晏如として過ごしていたら、悔を百年にのこすでしよう』 を見ても、物々しいばかりだった。 でんほう 『 : : : むむ、そうか。そう云われてみると、田豊はつねに学識 こんどの出陣にあたっては、各一族にむかって、 きゅうきゅ・つ そじゅ ぶって、そのくせ自家の庫富を汲々と守っている性だ。彼は『千載の一遇だそ』と、功名手柄を励ましたが、ひとり沮授の もう今の位置に事足りて、ただ余生の無事安穏を祈っておるた出陣だけは、ひとと違っていた。 み め、そんな保守的な論を儂にもすすめるのかもしれん』 沮授は田豊と共に、軍部の枢要にある身だった。そして田豊 ほかにも何か気に入らない事があったのであろう。袁紹はそとは日頃から仲がいい 。その田豊が、主君に正論をすすめて獄 の後、田豊をよびつけて、彼の消極的な意見を痛罵した。 に下ったのを見て、 『これは誰か、主君をそそのかした蔭の者があるにちがいオ よ『世の中は計りがたい』と、ひどく無常を感じ、一門の親類を し』 よんで、出立の前夜、家財宝物など、のこらす遺物分けしてし おもて 田豊は直感したので、日頃の奉公はこことばかり、なお面をまった。 おか うかが 冒して反論を吐いた 曹操の実力と信望は決して外から窮そしてその別辞に、 えるような微弱ではない。うかつに軍を出したら大敗を喫する 『こんどの会戦は、千に一つも勝目はあるまい もし僥倖にめ であろうというのである。 ぐまれてお味方が勝てば、それこそ一躍天下を動かそう。敗れ 『汝は、河北の老職にありながら、わが河北の軍兵をさまで薄たら実に惨たるものだ。いずれにせよ、沮授の生還は期し難い あなど 弱なものと侮るか』 と思う』と述べ、出立した。 そ、っそう 袁紹は怒って田豊を斬ろうとまでしたが、玄徳やその他の人白馬の国境には、少数ながら曹操の常備兵がしオ 、、、こ。しかし袁 人がおし止めたので、 紹の大軍が着いては一たまりもない。馬蹄にかけられてみな逃 げ散ってしまった。 『不吉なやつだ ! 獄へ下せ』と、厳命してしまった。 きしゅう がんりよう 些細な感情から、彼は大きな決心へ移っていた。まもなく河先陣は、冀州の猛将として名ある顔良にも命じられていた。 れいよ、つさんせいしようれいじよう 北四州へわたって檄文は発しられ、告ぐるに曹操の悪罪十箇条勢いに乗じて、顔良はもう黎陽 ( 山西省・黎城附近 ) 方面まで突 たち こっきゅう の そじゅ かたみわ 芋よう - : っ

3. 三国志(二) (吉川英治)

伏していた。 やがて、古城は近づいた。 ちょううん ひとみ 『ゃあ、趙雲ではないか』 待ちかねていた望楼の眸は、はやそれと遠くから発見して、 りゅう 玄徳も関羽も、ひとっロのように叫んだ。浪人者は面をあげ『羽将軍が劉皇叔をお迎えして参られましたそ』と、大声で下 て、 へ告げた。 かく : 』とばかり、暫しはただなっかし 『これは計らざる所で、 喨々たる奏楽がわきあがった。奥の閣からは二夫人が楚々た れんば げに見まもっていた。 る蓮歩を運んで出迎える。服装こそ雑多なれ、ここの山兵も しんていじようざんちょううんあざなしりゅう これなん真定常山の趙雲、字は子竜その人であった。 きようはみな綺羅びやかだった。大将張飛も最大な敬意と静粛 ちょうしりゅう こうそんさん えっ - : つきせいキ - キ - んしゅ、つきじっげきき ! ん 趙子童はずっと以前、公孫環の一方の大将として、玄徳ともをもって、出迎えの兵を閲し、黄旗青旗金繍旗日月旗など、万 へんぼん 親交があった。かっては玄徳の陣にいたこともあるが、北平の朶の花の一時にひらくが如く翩翻と山風になびかせた。 急変に公孫環をたすけ、奮戦百計よく袁紹軍を苦しめたもので 玄徳以下、列のあいだを、粛々と城内へとおった。 ある。が、カついに及ばず、公孫環は城とともに亡び、以来、 『あの君が、これからの総帥となるのか。あの人が、関羽とい 浪々の身によく節義をまもり、幾度か袁紹にも招かれたが袁紹うのか』 には仕えず、諸州の侯伯から礼をもって迎えられても禄や利に 通過のあいだに、ちらと見ただけで、兵卒たちの心理は、そ ひょうれいふうはく う′一うしゅう 仕えず、飄零風泊、各地を遍歴しているうち、汝南州境の古城の一瞬から変った。もう古城の山兵でも烏合の衆でもなかっ に張飛がたて籠っていると聞いてにわかにそこを訪ねてみよう おおとり ものと、ここまで来た途中である。 と語った。 楽器の音は、山岳を驚かせた。空をゆく鴻は地に降り、谷 いわっぱめずいうん 玄徳はここで君に会うとは、天の賜であると感激して、さ谷の岩燕は、瑞雲のように、天に舞った。 らに云った。 まず何よりも、二夫人との対面の儀が行われた。関羽は、堂 しよく 『君を初めて見た時から、ひそかに自分は、君に嘱す思いを抱下に泣いていた。 ち ふんけい しゅう いていた。将来いっかは、刎頸を契らんと 夜は、牛馬を宰して、聚議の大歓宴が設けられた。 すると、趙子竜も云った。 『人生の央、ここに尺、くる』 『拙者も思っていました。あなたのような方を主と仰ぎ持つな 関羽、張飛がいうと、 かんのう らば、この肝脳を地にまみれさせても惜しくはないと 『何でこれに尽、きよう。これからである』と、玄徳は云った。 ちょううんそんかんかんようしゅうそうかんべ、 趙雲、孫乾、簡雍、周倉、関などみな杯を交歓して、 五 再 これからだっ ! 』と、どよめき合った。 『これからだっー じよなんめゅうへききようと 弟関羽にあい、また、ゆくりなくも趙子童に出会って、玄徳の使者をうけて、汝南の劉辟と襲都もやがて馳けつけ、賀をの いが、はやくも将星の光彩が未来べてさて云った。 兄左右には、兵馬の数こそ乏し かがや きようあ、 を耀かしていた。 『この狭隘な地では、守るによくとも、大志は展べられませ たまもの きら の 〃 7

4. 三国志(二) (吉川英治)

びたん 皆まで聞かないうちに、曹操の眉端はビンと刎ね上って してお迎えあらば、彼等はかならず来って丞相の麾下に合流し 士、しよ、つ。 た。烈火の如き怒りをふくんだ気色である。 すでに荊州襄城のふたつを、丞相の勢力下に加 の『だまれ、汝等は曹操の臣か玄徳の臣か。予の丞相旗をかかげ、 えておしまいになれば、天下、ひびきに応するごとく、諸、ゝの なび 群雄も、風に靡いて来るにちがいありません』 道わが将士を率い、何のために徐州へ赴いたか』 彼はまた左右の武将をかえりみて云った。かくの如く、他国『その経策は、予の意志とよく合致する。さっそく、人を遣ろ 臣 に征して、他国にわが名を辱しめた不届者は、諸人の見せし じようじよう ちょうしゅう め、各営門を曳き廻した上、死罪にせよ、と厳命した。 そこで、襄城 ( 漢ロより漢水方面へ二八キロ ) の張繍へは、曹 - 一うゆう りゆ、つよ・フ すると、かたわらに在った孔融が、彼の怒気をなだめて云っ操の代理として、劉嘩が使に立った。 襄城第一の謀士賈翩は、曹操の使を迎えて、心中大いに祝し りゅうたい りゆ・つよう 『もともと劉岱、王忠の輩は、玄徳の手ではありません。 ながら、来意を問うと、劉嘩は、 それは、丞相もあらかじめお感じになっていた事かと拝察い 『当今、乱麻の世にあたって、その仁、その勇、その徳、その します。然るを今、その結果を両名の罪にばかり帰して、これ信、その策、真に漢の高祖のような英傑を求めたなら、わが主 を死罪になし給えば、却って諸人の胸に丞相の御不明を呼び起君、曹操を措いては他にあろうとも思われません。あなたは湖 けいがんどうさっ し、同じ主君に仕える者共は、ひそかに安き思いを抱かないで 北に隠れなき烱眼洞察の士と聞いていますが、どう思われます カ』 しよう。これは、人心を得る道ではありません』 孔融のことばが終る頃には、曹操の顔いろも常に返っていた 『然り。わたくしの考えも同じである』 か 実にもと、うなずいて、二人の死罪はゆるす代りに、その賈は、そう答えた上、その答えの詐りでない証拠にと、主 ちょうしゅう 官爵を取りあげて、身の処置は、後日の沙汰と云い渡した。 人張繍にむかって、曹操の美徳を称え、 その後、日をあらためて、曹操は自身大軍をひきいて、徐州 『この際、おすすめに任せて、曹丞相に服し給うこそ、御当家 へ攻め下らんと議したが、孔融は又、彼に自重をすすめた。 にとっても、最善な方策でありましよう』と、転向を促した。 えんしよう 『今、極寒の冬の末に向って、みだりに兵を動かすのも如何な ところへ又、折も折、河北の袁紹からも、同じような目的の ものでしようか。来春を待って御発向あるも遅くはありますま下に、特使が来て、袁紹の書簡を襄城にもたらした。 。その間になすべき事がないではありません。まず外交内 結、国内を固めておくべきでしよう。愚臣の観るところでは、 じようじようちょうしゅう けいしゅうりゅうひょう 荊州の劉表と、襄城の張繍とは、ひそかに聯携して、敢同じ密命をもった一国の使臣と使臣が、その目標国の城内で、 て、朝廷にさえ不遜な態度を示しています。 いま丞相が使しかも同じ時にぶつつかったのである。 りゅうよう 臣をそれへ遣わされて、その不平を慰撫し、その欲するものを曹操の使臣たる劉嘩は、すくなからず心をいためた。ーー河 ひいきめ 与え、その誇るものを煽賞し、一時、虫をこらえて、礼を厚う 北の袁紹から来た特使とあっては、いかに自国を贔屓目に見て ひき せんしよう ともが・つ らんま きか

5. 三国志(二) (吉川英治)

- 一くもっ ど、近頃、韓猛というものが奉行となって、各地から穀物、糧 五 巻米なんど夥しく寄せて来ました。てまえは、その兵糧を前線へ の運び入れる道案内のために行く途中を、運悪く足の裏に刃物を真夜中に、西北の空が、真っ赤に焦け出したので、袁紹は陣 外に立ち、 明踏んで落伍してしまったのです』 『何事だろう ? 』と、疑っていた。 と、嘘でも無さそうな自白であった。 孔 じよこう で。ーー徐晃はさっそく、その趣きを、曹操へ報告した。 そこへ韓猛の部下が続々逃げ返って来て、 曹操は、聞くと手を打って、 『兵糧を焼かれました』と告げたから袁紹は落胆もしたし、韓 かんもう 『その兵糧こそ、天が我軍へ送ってくれたようなものだ。韓猛猛の敗退を、 という男は、ちょっと強いが、神経の粗い男で、すぐ敵を軽ん『腑がいなき奴』と憤った。 こうらん じるふうのある部将だ。 : : : 誰か行って、その兵糧を奪って来『張部やある ! 高覧も来れ』 るものはないか』 彼は、俄に呼んで、その二将に精兵をさずけ、兵糧隊を奇襲 『誰彼と仰せあるより、それがしが史渙を連れて行って来ました敵の退路を断って殲滅しろと命じた。 ーよ , っ』 司心得ました。味方の損失は莫大のようですが、同時に、兵糧 徐晃は、その役を買って出た。 を焼いた敵のやつらも、一匹も生かして返すことではありませ 壮なりとして、曹操はゆるしたけれど、敵地に深く入りこむん』 きょちょ ちょうりよう ことなので、徐晃の先手二千人のあとへ、更に、張遼と許惱二大将は手分けして、大道をひた押しに駈け、見事、敵路を の二将に五千余騎を授けて立たせた。 先に取った。 その夜。 徐晃は使命を果して、意気揚々と、このところへさしかかっ 河北の兵糧奉行たる韓猛は、数千輛の穀車や牛馬に鞭を加えて来た。 えんえん ・ 1 うらんちょ・つ - 一う て、山間の道を蜿蜒と進んで来たが、突然、四山の谷間から、 待ちかまえていた高覧、張部の二将は、 『成は小勢だぞ。みなごろしにしてしまえ』 鬨の声が起ったので、 『さては ? 』と、急に防戦のそなえをしたが、足場はわるし道 と、無造作に包囲して、馬を深く敵中へ馳け入れ、 は暗いし、牛馬は暴れ出すし、まだ敵を見ぬうちから大混乱を『徐晃は汝か』と、彼のすがたを探しあてるやいな、拠み撃ち におめきかかっていた。 起していた。 徐晃の奇襲隊は、用意の硫黄や焔硝を投げつけ、敵の糧車ところが。 へ、八方から火をつけた。 背後の部下はたちまち蜘蛛の子みたいに逃げ散った。怪しみ 火牛は吠え、火馬は躍り、真赤な谷底に、人間は戦い合ってながら両将も逃げ出すと、何そ計らん敵には堂々たる後詰がひ かえていたのである。 かんもう おうえんしよう しかん あら はもの ちょう - 一う た せんめつ ノ 36

6. 三国志(二) (吉川英治)

報恩一隻手 っこんでいた。 に沿うて布陣し、曹操自身、指揮にあたっていた。 とつがた がんりよう びようびよう 見わたすと、渺々の野に、顔良の精兵十万余騎が凸形にか 沮授は、危ぶんで、 たまって、味方の右翼を突き崩し、野火が草を焼くように押し 『顔良の勇は用うべしですが、顔良の思慮は任すべきでありま つめてくる。 せん、それに先陣の大将を二人へ任じられるのも不可んと思い そうけんそうけん 『宋憲宋憲。宋憲はいるか』 ますが』と、袁紹に注意した。 曹操の呼ぶ声に、 袁紹は、耳をかさない。 そうけん 『はつ、宋憲はこれに』とかけ寄ると、曹操は何を見たか、い 『こんな鮮かに勝っている戦争をなんで変更せよというのか。 ししふんじん あのとおり獅子奮迅のすがたを見せている勇将へ、退けなどと とも由々しく〈叩じこ。 りよふ しま敵の先鋒を見るに、 いったら、全軍の戦意も萎えてしまう。そちはロを閉じて見物『そちは以前、呂布の下にいた猛将。、 がんりよう * 一しゅ、つ しておれ』 冀州第一の名ある顔良がわが物顔に、ひとり戦場を暴れまわっ ておる。討ち取って来い、すぐに』 きんぜん 国境方面か。ら次々と入る注進やら、にわがに兵糧軍馬の動員宋憲は欣然と、武者ぶるいして、馬を飛ばして行ったが、敵 の顔良に近づくと、問答にも及ばずその影は、一抹の赤い霧と で、洛中の騒動たるや、いまにも天地が覆えるような混雑だっ なってしまった。 その中を。 例の長髯を春風になびかせて、のそのそと、相府の門へいま 入ってゆくのは関羽の長驅であった。 曹操に会って、関羽は、 『日頃の御恩報じ、こんどの大会戦には、ぜひ此方を、先手に 加えてもらいたい』と、志願して出た。 曹操は、欣しそうな顔したが、すぐ何か、はっと思い当った わずら 『いやいや何のこの度ぐらいな戦には、君の出馬を煩わすには あたらん。またの折に働いてもらおう。もっと重大な時でも来顔良の疾駆するところ、草木もみな朱に伏した。 曹軍数万騎、猛者も多いが、ひとりとして当り得る者がな たら』と、あわてて断った。 余りにもはっきりした断り方なので、関羽は返すことばもな すごすご 『見よ、見よ。すでに顔良一人のために、あのざまそ。 く、悄々と帰って行った。 日ならすして、曹軍十五万は、白馬の野をひかえた西方の山れか討取るものはいないか』 ちょうぜん 報恩一隻手 つ お せきしゅ

7. 三国志(二) (吉川英治)

えんなどとは、思いもよらぬ態に見えます』 『わが妻や子はどうなったか。ふたりの義弟はどこへ落ちたの 歯に衣着せず、張遼はありのままを復命した。曹操もさすが のどか もんもん に曹操であった。あえて怒る色もない。ただ長嘆して云った。 思い悩むと、春日の長閑な無事も悶々とただ長い日に思われ まこと 『君ニ事エテコソ本ヲ忘レズ。関羽は寔に天下の義士だ。いって、身も世もないここちがする。 かえ か去ろうー いっか回り去るであろう ! 噫、ぜひもない』 『上は、国へ奉じることもできず、下は、一家を保つこともで 『けれど又、関羽はこうも云っておりました。何がな一朝の場きず、ただこの身ばかり安泰にある恥かしさよ : : : 』 めんおお 合には、一働きして御恩を報じ、そのうえで立ち去らんと : ひとり面を蔽って、燈下に惨心を噛む夜もあった。 じゅんいく める しゅんえんとうり - 一うしん 張遼が云うのを聞いて、かたわらから蜀彧が、つぶやくよう水は温み、春園の桃李は紅唇をほころばせてくる。 うす に献言した。 噫、桃の咲くのを見れば、傷心はまた疼く。桃園の義盟 『さもあろう、さもあろう。忠節の士はかならず又仁者であが思い出される。 『関羽関羽、まだこの世にあるか ? 張飛はいずこにあるか ? 』 る。だからこの上は、関羽に功を立てさせないに限ります。功 てんくうむしん を立てないうちは、関羽もやむなく、許都に留まっておりま天空無心。 仰ぐと、一朶の春の雲がふんわりと遊んでいる。 玄總は、仰視していた。 と、いつのまにか、うしろへ来て、彼の肩をたたいた者 えんしよう がある。袁紹であった。 『御退屈であろう。こう春暖を催してくると』 『おおこれは』 そ・一もと 『其許にちと御相談があるが、忌憚ない意見を聞かしてもらえ るかの』 『なんですか』 やまい 『実は、愛児の病も癒え、山野の雪も解けはじめたから、多年 む じようらく たいら 劉備玄徳は、毎日、無為な日に苦しんでいた。 の宿志たる上洛の兵を催して、一挙に曹操を平げようと思い立 きしゅうじよう 野 ここ河北の首府、冀州城のうちに身をよせてから、賓客の礼 ところが、臣下の田豊が、儂を諫めていうには、今 の遇をうけて、なに不自由も無さそうだが、、いは日夜楽しまない は攻めるよりも守る時期である。もつばら国防に力をそそぎ、 きよと 馬容子に見える。 兵馬を訓練し、農産を内にすすめて、坐りながらに待てば許都 白なんといづても居候の境遇である。それに、万里音信の術もの曹操はここ二、三年のうちにかならず破綻をおこして自壊す磧 えんしよう と申すのだが』 絶え、敗亡の孤を袁紹に託してからは、 る。その時を待って一挙に決するが利じゃ きめ 白馬の野 モト の でんほう きたん み おとうと

8. 三国志(二) (吉川英治)

小児病患者 『自分のいのちは惜しみませんが、胎内のお子を産みおとすま で、どうかお情に、生きる事をゆるして下さい』と、慟哭して 訴えた。 曹操の感情も、極端に紛乱していたが、われとわが半面の弱 気を、強いて猛罵するかのように、 『いかんー いかん ! かなわぬ願いだっ。逆賊の胤を世にの あだ こしおけば、やがて予に対して祖父の讐の母の仇のと、後日の たたりをなすは必定である。 これまでの運命と思いあきら め、ぜめて屍を全うしたがいい』 ねりめ と、一すじの練帛をとり寄せて、貴妃の眼のまえにつきつけ粛正の嵐、血の清掃もひとまず済んだ。腥風都下を払って、 た。斬られるのが嫌なら自決せよという酷薄無残な宣告なのでほっとしたのは、曹操よりも、民衆であったろう。 ある。 曹操は、何事もなかったような顔をしている。かれの胸に ふけ ねりめ は、もう昨日の苦味も酸味もない。明日への百計に耽るばかり 貴妃は哭いて、練帛を手にうけた。悲嘆に狂乱された帝は、 『妃よ、妃よ、朕をうらむな。かならず九泉の下にて待て』 じゅんいく と、さけばれた。 『荀彧。ーーまだ片づかんものが残っておるな。しかも大物 めわら・ヘ 『あははは。女童みたいな世まい言を』 み、すが せいりようばとう じよしゅうげんとく 曹操は、強いて豪笑しながら、しかも遉に、そこの悲鳴号泣 『西涼の馬騰と、徐州の玄徳でしよう』 には、耳をふさぎ眼をそらして、大股に立ち去ってしまった。 『それだ。両名とも、董承の義盟に連判し、予に対して、叛心 ・一うぐう 哀雲後宮をつつみ、春雷殿楼を揺るがして、その日なお董承歴々たるもの共。何とかせねばなるまい』 と日ごろ親しい宮官何十人が、みな逆党の与類と号されて、あ『もとより捨ておかれません』 なたこなたで殺刃をこうむった。 『ます、そちの賢策を聞こう』 曹操は血を抱いて、やがて禁門を出ずると、直ちに、自身直『由来、西涼の州兵は、猛気さかんです。軽々しくは当れませ 属の兵三千を、御林の軍と称して諸門に立てさせ、曹洪をそのん。玄徳もまた徐州の要地を占め、下郵、小沛 0 城と掎角の備 大将に任命した。 えをもち、これも小勢力ながら、簡単に征伐はできないかと思 われまする』 『そう難しく考えたら、いずれの敵にせよ、みな相当なものだ から、どっちへも手は出まい』 えんしよう 「河北の袁紹なくんば霽にありませんが、袁紹の国境軍は、過 かたき たね しよ、つにびよ、つかんじゃ 小児病患者 かひ しようは、 せいふう きかく

9. 三国志(二) (吉川英治)

ん。かねてのお約束、汝南を献じます。汝南を基地として、次奮い、文化たかく産業は充実し、精兵数十万はいつでも動かせ 巻の大策におかかりください』 るものと観られます。いま国交を求むるとせば、新興の国、呉 の古城には、一手の勢をのこして、玄徳は即日、汝南へ移っを措いてはありません』と、熱心に説し ちんしん 明た。徐州没落このかた、実に何年ぶりだろうか。こうして君臣袁紹の重臣陳震が、書を載せて、呉へ下ったのはそれから半 月ほど後のことだった。 孔一城に住み得る日を迎え取「たのは。 顧みれば それはすべて忍苦の賜だった。また、分散してもふたたび結 ばんとする結束の力だった。その結束と忍苦の二つをよく成さ しめたものは、玄徳を中心とする信義、それであった。 さて、日の経つほどに。 えんしよう 漸く、焦躁と不安に駆られていたのは袁紹である。 おとずれ 『荊州からなんの消息も来るわけはありません。玄徳は関羽、 張飛、趙雲などを集めて、汝南にたて籠っておる由です』 そう聞いたときの彼の憤激はいうまでもない。 呉の国家は、ここ数年のあいだに実に目ざましい躍進をとげ 河北の大軍を一度にさし向けようとすら怒ったほどである。 ていた。 郭図が、うまい事を云った。 せつこう せんかい 『愚です。玄徳の変は、いわばお体にできた癬疥の皮膚病で浙江一帯の沿海を持つばかりでなく、揚子江の流域と河口を ほ、つじよ・つ やく す。捨ておいても、今が今というほど、生命取りにはなりませ扼し、気温は高く天産は豊饒で、いわゆる南方系の文化と北方 えんぜん ん。何といっても、心腹の大患は、曹操の勢威です。これを延系の文化との飽和に依って、宛然たる呉国色をここに劃し、人 引しておいては、御当家の強大もついには命脈にかかわりまの気風は軽敏で利に明るく、また進取的であった。 そんさく 彗星的な風雲児、江東の小覇王孫策は、当年まだ二十七歳で こ、っそりゆ、つ ろ - 」う 『挈」 , つ、か しかないが、建安四年の冬には、廬江を攻略し、また黄祖、劉 : ううム、然しその曹操もまた急には除けまい。 よしよう たいら こうちゃく 勲などを平げて、恭順を誓わせ、予章の太守もまた彼の下風に すでに戦いつつあるが、戦いは膠着の状態にある』 『荊州の劉表を味方にしても、大局は決しますまい。何となれついて降を乞うて来るなどーー隆々たる勢いであった。 ′。しくたびか都へ上り、舟航して、呉と往来 ば、彼には大国大兵はあっても、雄図がありません。ただ国境彼の臣、張紘よ、、 きょ - つきよう あんな者に労をしていた の守りに怯々たる事勿れ主義の男です。 ひょう そんさく ごこくそんさく 費すよりは、むしろ南方の呉国孫策の勢力こそ用うべきであり孫策の『漢帝に奉るの表』を捧げて行ったり、また朝廷への - 一う みつ芋 貢物を持って行ったのである。 ましよう。呉は、大江の水利を擁し、地は六郡に、威は三江に ふる きっ 于吉仙人 ちょうこ、つ

10. 三国志(二) (吉川英治)

えんしよう おうちゅう 『袁紹の救いが来れば、何とかこの危機も打開できようが、そ城を離れた三千騎の兵馬は、雪を捲いて寄手王忠軍へ衝ツか れもあてにはならないし、曹操からも敵視されては、早、死すけていた。 るに門なからん : : : である。まったく玄徳の浮沈は今に迫って 雪と馬、雪と戟、雪と兵、雪と旗、卍となって、早くも混戦 おる』 『はてさて、弱気なおことば、将たる者が御自身味方の気を減『そこにあるは、王忠ではないか。なんで楯の陰ばかり好む したもう事やある』 ぞ』 『彼を知り、己を知るは、将たる者の備え、決して、いたずら大青竜刀をひっさげながら、関羽は馬を乗りつけて、敵の中 に憂いているのではない。い ま城中にある兵糧は、よく幾月を軍へ呼びかけた。 支え得ようか。またその兵糧を喰う大部分の軍兵は、元来、曹王忠も躍りあわせて、 操から預って来た者共で、みな許都へ帰りたがっておるであろ『匹夫つ、降るなら、今のうちだそ。わが中軍には、曹丞相あ う。かかる弱体をもって、曹操に当らんなど、思いもよらぬこり。あの御旗が目に見えぬか』 とである。ただ千に一つの恃みは、袁紹の来援であるが、これ と云った。 とても : ふる雪に、牝丹のような口を開いて、関羽はからからと大笑 彼の正直な嘆息に、帷幕の人々も何となく意気昻らない態だ っ・ ) 0 余りに正直すぎる大将という者も困りものだ。こん『曹操がおるなれば、なによりも望む対手。これへ出せ』 な気の弱い御主君は他にあるまい と張飛も奥歯を咬みなが ら黙ってしまう。 と、次に、関羽が前へ出て云った。 王忠は、唾して云い返した。 『御深慮は尤もです。けれど、坐して滅亡を待つべきでもあり 『かりにも、曹丞相ほどなお方が、汝ごとき下賤の蛮夫と、な ますまい。それがし城外へ罷り向って、およそ寄手の兵気虚実んで戦いを交えようか。もう一度生れ直して来い』 をさぐる程度に、小当りに当ってみましよう。策は、その上『吐ざいたな。王忠』 関羽が馬を駆け寄せると、王忠も槍をひねって、突っかけて と、陳登と同意見を述べた。穏当なりと認めたか、 ハ価ハは、 くる。関羽はよい程にあしらって、わざと逃げ出した。 『ロほどにもない奴』と、浅慮にも、王忠は図にのって関羽を と、関羽にゆるした。 ・追っかけこ。 関羽は、手勢三千を率して城外へ打って出た。折ふし、十月 『ロほども無いか、有るか、鞍の半座を分けてつかわす。さあ がも・つ ふんぶん 鬮の空は灰いろに閉じて、鵞毛のような雪が紛々と天地に舞って王忠、こっちへ来い』 関羽は、青童刀を左の手に持ち変えた。王忠は、あわてて馬 まか たの あが つば まんじ たて げ