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検索対象: 三国志(二) (吉川英治)
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1. 三国志(二) (吉川英治)

過ぎるものはありません』 越えて、西涼の背後を衝こうとする態勢にあるとあった。 巻 と、恩に感じるの余り、自分の考えている一計略を進言し 五 のた。 韓遂は重ねて云った。 蜀一方、西涼の馬超は、 『きようばかりは、残念だった』と、韓遂に向って、無念そう『味方にとって、舷に一つの悩みがあります。それはこの戦し 望 る・つ′一、つ に語っていた。 が延引すると、曹操が今の陣地に塁壕を構築して、不落の堅城 としてしまうことで、そうなると、容易に渭水を抜くことはで 『もう一歩で、曹操を、手捕りにできた所を、何という男か、 きません』 曹操を背なかに負って、船へ跳び移ってしまった。今でも目に 馬超も同感だった。 見える心地がするが、敵ながらあの男の働きは、凡夫の業でな し』 『いかにも、攻めるなら今のうちだが』 韓遂は何度も頷いて、 『軽兵を率いて、この韓遂が、曹操の中軍へ突撃しましよう。 きょちょ 『それは道理です。あれは有名な魏の一将、許褶ですからね』あなたは、北岸を防いで、敵兵が河を越えて来ないように、よ くこの本陣を固めていてください』 『翫旧緒とい、つか』 『よし。防ぐには、自分一手で足りる。御身ひとりでは心もと 『お味方に、八旗の旗本ある如く、曹操もその旗本の精鋭中の ない。靡徳をも連れて行かれるがよかろう』 精鋭を選び、これを虎衛軍と名づけて、常に親衛隊としていま かんすい ちん てんい した。その大将に二名の壮将を置き、ひとりは陳国の人、典韋韓遂と靡徳とは、直ちに、西涼の壮兵千余騎を選んで深夜か くろがね と申し、よく鉄の重さ八十斤もある戟を使って、勇猛四隣をら暁にかけて、曹操の陣を奇襲した。 けれど、この計画は、まんまと曹操の思うつばに落ちたもの 震わせていましたが、この人はすでに戦歿して今はおりませ ん。その残るひとりが国の人、すなわち許緒です。強いわけであった。かねてこの事あるべしと、曹操は、渭南の県令から こういていひ ですよ』 登用した校尉丁斐の策を用いて、河畔の堤の蔭に沿うて仮陣屋 - へいギ一き 『なるはど、それでは を築かせ、擬兵偽旗を植えならべて、実際の本陣は、すでにほ 『その力は、猛る牛の尾を引いて曳きもどしたという程ですか かへ移していたのである。 あたな らな。 で世間のものは、彼を綽名して、虎癡といっていま のみならず、附近一帯に、塹をめぐらし、それへ棚をかけ おとあな す。また、虎侯ともいうそうです』 て、また上から土をかぶせ、陥し穽を作っておいたのを、西涼 勢はそうとも知らず、 そして又、韓遂は、かたく馬超に忠告した。 『わあっ』 『以後は、あの男を陣頭に見ても、一騎討はなさらない方がよ かんせい ろしい』 と、喊声をあげながら殺到したのだった。 斥候の報告に依ると、曹操の軍は、それから後しきりと河を 当然、大地は一時に陥没し、人馬の落ちた上へ、また人馬が たけ うなず こえいぐん かんすい キ - よちょ 0 き っ - : っちく 478

2. 三国志(二) (吉川英治)

る陣営に飼われる身となり、今は老母も死してこの世にはあり具してお移りあるべきで御座いましよう』 ませんが、もしこの使から帰らなければ、世人はそれがしの節孔明のことばに、玄徳も、 あざけ 『さらば 』と、関羽に渡江の準備を命じた。 ぜひもない宿命、オオ 操を疑い、且っ嘲り笑うでしよう。 関羽は、江頭に舟をそろえ、さて数万の百姓をあつめて、 今の一言を、呈したのみで立ち帰りまする』 『われ等と共に、赴かんとする者は江を渡れ。あとに残ろうと と、すぐ暇を告げ、なお帰りがけにも繰返して云った。 か思う者は、去って旧地の田を耕すがいい』と、云い渡した。 『逆境また逆境、さだめし今のお立場は御不安でしよう。し しよかっせんせい すると、百姓老幼、みな声をそろえて、共に哭いて、 し以前と事ちがい、唯今では、君側の人に、諸葛先生が居られ ひら おうは 『これから先、たとえ山を拓いて喰い、石を鑿って水を汲むと ます。かならずあなたの抱く王覇の大業を扶け、やがて今を昔 りゆ - っこうしゆく に語る日があることを信じております。それがしは老母も死も、劉皇叔さまに従って参りとうございます。ついに生命を しくん し、何一つ世の為に計ることもできない境遇に置かれています失っても使君 ( 玄徳のこと ) をお恨みはいたしません』と、 、、、、ただひとつ、あなたの御大成を陰ながら念じ、またそれをた。 びじくかんよう そこで関羽は、糜竺、簡雍などと協力して、この澎なる大 : では、くれぐれも御健勝に』 楽しみにしていましよ、つ。 じよしょ 家族を、次々に舟へ盛り上げては対岸へ渡した。 徐庶が帰って、曹操に返辞をするまでのあいだに、玄徳は、 ふたたび、城を捨て、他に安らかな地を求めなければならなか玄徳も、舟に移って、渡江しにかかったが、折もあれ、この 方面へ襲せて来た曹軍の一手ーー約五万の兵が、馬けむりをあ せつかく誘降の使をやったのにそれを拒絶したという報告をげて樊城城外から追いかけて来た。 『すわや、敵が』と聞くなり岸に群れ惑う者、舟の中に哭きさ 聞けば、曹操はたちまち、 けぶ者、過って河中に墜ち入る者など、男女老幼の悲鳴は、水 ( 民を戦禍に投じたものは玄徳である ) こだま と、罪を相手にすって百万の軍に存分な蹂躍を命じ、颱風に谺して、思わず耳を掩うばかりだ「た。 『あわれや、無辜の民ぐさ達、我あらばこそ、このような禍を の如く攻めて来ることはもう決定的と見られたからである。 じようよう 『襄陽に避けましよう。この城よりは、まだ襄陽の方が、防ぐかける。ーー我さえなければ』 と、玄徳はそれを眺めて、身悶えしていたが、突然、舷 に足ります』 立って、河中に身を投げようとした。 孔明のすすめに、勿論、玄徳は異議もなかったが、 ここへ避難している無数の百姓 流『自分を慕って、自分と共に、 たちをどうしよう』 左右の人々はおどろいて玄徳を抱きとめた。 と、領民の処置を案じて、決しきれない容子だった。 『君をお慕い申し上げて、君の落ち行く先なら、何処までと従『死は易く、生は難し。元々、生きつらぬく道は艱苦の闘いで万 あしでまと いて来る可憐な百姓共です。たとえ足手纒いになろうと、引きす。多くの民を見すてて、あなた様のみ先へ遁れようと遊ばし 亡 せんか ゅ・つ - 一う じゅうりん よ かた おお ふなべり

3. 三国志(二) (吉川英治)

蔡陽は、赤面して、列後に沈黙した。 来るも明白、去ることも明白な関羽のきれいな行動にたいし ていいく 巻すると程昱は、彼に代って、 て、そんな小人の怒りは抱こうとしても抱けなかったのである。 じようしよう の『関羽には三つの罪があります。丞相の御寛大は、却って味『 : いカん 明方の諸将に不平をいだかせましよう』 けれど彼の淋しげな眸は、北の空を見まもったまま、如何と まっげ もなし難かった。涙々、頬に白いすじを描いた。睫毛は、胸中 孔と面を冒して云った。 『程昱。なぜ、関羽の罪とは何をさすか』 の苦悶をしばだたいた。 ばうおん むだんたいきょ 『一、忘恩の罪。二、無断退去の罪。三、河北の使と密かに密諸臣みな、彼の面を仰ぎ得なかった。しかし程瑟、蔡陽の輩 かわ 書を交せる罪ーーー』 『いやいや、関羽は初めから予に、三カ条の約束を求めてお『いま関羽を無事に国外へ出しては、後日、かならず悔い悩む る。それを約しながら強いて履行を避けたのは、かくいう曹操ことが起るに相違ない。殺すのは今のうちだ。今の一刻を逸し ては : であって、彼ではない』 『でも今ーーーみすみす彼が河北へ走るのを見のがしては、後日 と、ひそかに腕を扼し、足ずりして、曹操の寛大をもどかし がっていた。 の大患、虎を野へ放つも同様ではありませぬか』 『さりとて、追討ちかけて、彼を殺せば、天下の人みな曹操の 曹操はやがて立ち上った。 あたり 不信を鳴らすであろう。 如かず ! 如かず ! 人各 ~ その そして、四辺の諸大将に云った。 主ありだ。このうえは彼の心の赴くまま故主の許へ帰らせてや『関羽の出奔は、飽くまで義にそむいてはいない。彼は七度も ろう。 : 追うな、追うな。追討ちかけてはならんそ』 暇を乞いに府門を訪れているが、予が避客牌をかけて門を閉じ 最後のことばは、曹操が曹操自身へ戒めているように聞えていた為、ついに書を遺して立ち去ったのだ。大方の非礼は却 じっ た。彼のひとみは、そういうあいだも、北面したまま凝と北の って曹操にある。生涯、彼の心底に、曹操は気心の小さいもの わら 空を見つめていた。 よと嗤われているのは心苦しい : まだ、途も遠くへは距た るまい。追いついて、彼にも我にも、後々までの思い出のよい ちょうりよう 信義の別れを告げよう。 張遼供をせい ! 』 ついに関羽は去ったー やにわに彼は閣を降り、駒をよび寄せて、府門から馳け出し 自分をすてて玄徳の許へ帰ったー っナられて路用の金銀と、一襲 張遼は、曹操から早ロこ、、 辛いかな大丈夫の愛。ーー恋ならぬ男と男との義恋。 『 : : : ああ、生涯もう二度と、ああいう真の義士と語れないかの袍衣とを、あわただしく持って、すぐ後から鞭を打った。 『 : : : わからん。 : : : 実にあの御方の心理はわからん』 もしれない』 閣上にとり残された諸臣はみな呆っ気にとられていたが、程 憎悪。そんなものは今、曹操の胸には、みじんもなかった。 み、いよう ひそ ひたたれ ひかくはい * 一いよ - っ ななたび へだ かさね

4. 三国志(二) (吉川英治)

日冖 : 』とのみで、暫く沈思していたが、やが の て玄徳は、肚を決めたもののように面をあげ趙雲へ云った。 朝『よし。帰ろう』 『では、直ちに』 はか 『いや少し待て。妻にもこの事を諮るから』 進とか、希望とかいうものまでをいっか心身から喪失してい 『それはいけません。御夫人に相談遊ばせば、お引留あるは必 定です』 『 : : : ああ、困ったものだ』 それを見て、毎日、溜息ばかりついていたのは、彼の臣、趙『そんな事はない。予にも考えがある』 玄徳は、奥へかくれた。 雲子童だった。 ふくろ そして妻の室を訪うと、夫人は良人を迎えながらすぐ云っ 『そうだ : : : 一難一難、思案にあまったら嚢をひらけと軍師に ふくろ は云われた。あの錦の嚢の第二は今開くときだろう』 はなむけ 孔明から餞別に送られたその内の一つを、趙雲は急に開けて『どうしても今度は荊州へお帰りにならねばなりませんか』 『えつ。 : 誰にそれを聞きましたか』 みた。すると果して孔明の秘策が今の心配によく当て嵌ってい 『ホホホ。あなたの妻ですのに、それくらいなことが分らない た。彼はさっそく侍女を通じて、玄徳に目通りを求めた。 でど、つしましよ、つ』 『たいへんです。こうしては居られません』 いきなり告げたので、玄徳も驚かされた。 『はや承知なれば、多くも云わぬ。玄徳はすぐ帰国せねばなら そなた ん。荊州は滅亡の危きに瀕している。其女の愛に溺れて、国を 「何事が起ったのか ? 』 せきへき 『赤壁の怨みをそそぐなりと号して、曹操みずから五十万騎を失うたとあっては、世の物笑い、末代までの廃れ者になろう』 もと 『固よりです。武門の御身として、この期に、未練がましい事 率い、荊州へ改めこんで来たとあります』 : た、たれが報らせて来た、そのような事あっては、生涯人中に面は出せません』 『えつ、荊州へ。 を』 『よく云うてくれた。戦場に臨むからにはいっ討死を遂げるや そなた 『孔明が早舟を飛ばして、自身、呉の境まで注進に来たのでもしれん。共方とも又再会は期し難い。長春数旬の和楽、それ みじか も短い一夢になった』 す。荊州の危機、今に迫る。国許へ君を迎えて、一刻もはやく 『なぜそのような不吉を仰せ出されますか、夫婦の契りはその 対策を講ぜねば、荊州の滅亡は避け難しーーとあって』 はかな ように儚いものではありますまい。また短いものとも思いませ 『それは、一大事』 せん いえいえ九泉の下までも』 ん。生ける限りは 『さ。すぐ御帰り下さい』 『さは云え、別れねばならぬ身をどうしよう』 『わたしも共に参りまする』 『えつ、荊州へ』 『当然では御座いませんか』 「呉侯が許すまい。母公も決して許されまいが』 『兄に知れたら大変でしよう。けれど母にはに説く途があり そうそう おば 437

5. 三国志(二) (吉川英治)

西北の方へ向って翻っている。 都督の下知を待つばかりであった。 たつみかぜ かたず 『オオ、東南風だ』 自然、陣々の諸大将もその兵も、固唾をのみ、拳をにぎり、 『ーー東南風』 何とはなく、身の毛をよだてて、 待ちもうけていたことながら二人は唖然としてしまった。 『今か。今か』の心地だった。 突然、周瑜は身ぶるいして、 夜は深まるほど穏やかである。星は澄み、雲もうごかない。 きしんふそく 『孔明とは、抑、人か魔か。天地造化の変を奪い、鬼神不測の 三江の水は眠れるごとく、魚鱗のような小波をたてている。 しゅうゆ かならず国に害を 不思議を為す。かかる者を生かしておけば、 周瑜は、あやしんで、 しるし 『ど、つしたとい、つことだ ? いっこう祈りの験は見えて来為し、人民のうちに禍乱を起さん。かの黄巾の乱や諸地方の邪 ないじゃないか。 思うにこれは、孔明の詐り事だろう。さ教の害に照らし見るもあきらかである。如かず、いまのうち もなければ、つい広言のてまえ、自信もなくやり出した事で、 ていほうじよせ、 と、叫んで、急に丁奉、徐盛の二将をよび、これに水陸の兵 今頃は、南屏山の七星壇に、立ち往生のかたちで、後悔してい 五百をさすけて、南屏山へ急がせた。 るのではないかな』 ろしゆく 魯粛は、、ぶかって、 呟くと、魯粛は、側にあって、 『都督、今のは何です ? 』 『いやいや、孔明のことですから、そんな軽々しい事をして、 自ら禍を求めるはずはありません。もうしばらく見ていて御覧『あとで話す』 『まさか孔明を殺しにやったのではありますまいね。この大戦 なき、い』 ・ : けれど、魯粛。この冬の末にも近くなって、東南の風が機を前にして』 吹くわけはないじゃないか』 ど ふたとき 周瑜は答えもなく、ロをつぐんだ。その面を魯粛は『度し難 ああ、その言葉を、彼がロに洩らしてから、実に、二刻とて はくがん み、洋す 一天の星色次第に革まり、水颯々、雲き大将』と蔑むように睨みつけていた。その爛たる白眼にも 経たないうちであった。 しゅうしゅう 飃々、漸く風が立ち始めて来た。しかもそれは東南に特有な刻々と生暖い風はつよく吹き募ってくる。 陸路、水路、ふた手に分れて南屏山へ迫った五百の討手のう 生温かい風であった。 ち、エ奉の兵三百が、真っ先に山へ登って行った。 四 る 七星壇を仰ぐと、祭具、旗など捧げたものは、方位の位置 祈 孔明のすがたはない。 、木像の如く立ちならんでいたが、 を『やっ ? 風もようだが』 ていほう 『孔明はいずこにありや』と、丁奉は高声にたずねた。 『吹いて来た』 えんもん ひとりが答えて、 周瑜も魯粛も、思わず叫んで、轅門の外に出た。 ゅまく 『油幕のうちにお休み中です』と、云う。 見まわせば、立て並べてある諸陣の千旗万旗は、ことごとく あらた たつみ - 一ぶし たつみ な ひるがえ ま がた 377

6. 三国志(二) (吉川英治)

へ降を乞うなど : : : なんとも面目ないが、丞相、どうか僕を憐 れんで、この馬骨を用いて下さらんか』 『君の性質はもとよりよく知っている。無事に相見ただけでも 欣しい心地がするのに、更に、予に力を貸さんとあれば、なん ・ : まず、袁紹 で否む理由があろう。歓んで君の言を聞こう。 を破る計があるなら予のために告げたまえ』 『実は、自分が袁紹にすすめたのは、今、軽騎の精兵五千をひ っさげて、間道の嶮をしのび超え、ふいに許都を襲い、前後か とろが、 ら官渡の陣を攻めようということで御座った。 槍の先に、何やら白い布をくくりつけ、それを振りながら驀袁紹は用いてくれないのみか、下将の分際で僣越なりと、それ がしを辛く退けてしまった』 しぐらに駈けて来る敵将を見、曹操の兵は、 おどろ 『待てつ、何者だ』と、たちまち捕えて、姓名や目的を詰問し曹操は愕いて、 『もし袁紹が、君の策を容れたら、予の陣地は七花八裂となる そうじようしよう きよしゅう 『わしは、曹丞相の旧友だ。南陽の許攸といえば、きっと覚ところだった。ああ危い哉。。ーーして、君は今、この陣へ来 えておられる。一大事を告げに来たのだからすぐ取次いでくれて、逆に彼を破るとしたら、どう計を立てるか』 し』 『その計を立てるまえに、まず伺いたいことがある。いったい じようしよう その時、曹操は本陣の内で、衣を解きかけて寛ごうとしてい丞相の御陣地には今、どれ位な兵糧の御用意がおありか ? 』 『半年の支えはあろう』 たが、取次の部将からその事を聞いて、 きよしゅう 曹操が、即答すると、許攸は面を苦りきらせて、じっと曹操 『なに、許攸が ? 』と、意外な顔して、すぐ通してみろと云っ の眼をなじッた。 えんもん ふたりは轅門のそばで会った。少年時代の面影はどっちにも『嘘をお云いなさい。せつかく自分が、旧情を新たにして、真 われを ある。おお君かーーーとなっかしげに、曹操が肩をたたくと、許実を吐こうと思えば、あなたは却って詐りを云う。 あ一む 欺こうとする人に真実は云えないじゃありませんか』 攸は地に伏して拝礼した。 かんしやく・一うげ 河『儀礼はやめ給え。君と予とは、幼年からの友、官爵の高下を『いや、いまのは戯れだ。正直なところを云えば、三月ほどの 用意しかあるまい』 もって相見るなど、水くさいじゃな、、 ざんき 許攸はまた笑って、 曹操は、手をとって起した。許攸はいよいよ慚愧して、 わるがしこきさ、 かんゅう えんしよう 『僕は半生を過まった。主を見るの明なく、袁紹ごときに身を 『むべなる哉。世間の人が、曹操は奸雄で、悪賢い鬼才である 溯 いえど かが 屈め、忠言も却って彼の耳に逆らい、今日、追われて故友の陣などと、よく噂にも云うが、成程、当らずと雖も遠らかずだ。 * 、かま 溯巻く黄河 なんよう くつろ まっ か れつ

7. 三国志(二) (吉川英治)

し』 ナれど、思い出 『否。御辺の忠魂は、いささか疑う者はない。。 そうそうあつぐう 巻最後に、玄徳を誘って、 し給え。その以前、 , 御身は曹操に篤う遇せられて、都を去る しゅうゆ の『いで、君と臣とは、樊ロの高地へのばって、こよい周瑜が指 折、彼の情誼にほだされて、他日かならずこの重恩に報ぜん うりんやぶ 蜀揮なすところの大江上戦を見物申さん。ーー早、お支度遊ばさ と、誓った事がおありであろうがーー今、曹操は烏林に敗れ、 かようどう ほん ! う その退路を華容道にとって、かならず奔亡して来るであろう。 望れよ』と促すと、 『かく迄に、戦機は迫っていたか。 儂もこうしてはおられま故に、御辺をもって、道に待たしめ、曹操の首を挙げること まことふくろ あやぶ し』 は、寔に嚢の物を取るようなものだが、ただ孔明の危むところ かっちゅう はんこう と、玄徳も取急いで、甲胄をまとい、孔明と共に、樊ロの望は、今云うた一点にある。御辺の性情として、かならず、旧恩 ゆる 台へ移ろうとした。 に動かされ、彼の窮地に同情して、放し免すにちがいない』 しようぜん すると、それ迄、なお何事も命ぜられずに、悄然と、一方に 『何の ! それは軍師の余りな思い過ぎである。以前の恩は恩 ちよりつ がん 佇立したひとりの大将がある。 として、すでに曹操には報じてある。かって彼の陣を借り、顔 りようぶんしゅう たいせい 『あいや、軍師』と、初めて、この時、ことばを発した。 良、文醜などを斬り白馬の重囲を蹴ちらして彼の頽勢を盛り返 見れば、そこにただ一人取残されていたのは、関羽であった。 したなどーー・その報恩としてやったもので御座る。なんで、今 知ってか、知らずか、孔明は、 日ふたたび彼を見のがすべきや、ぜひ、関羽をお向け下さい。 『おう、羽将軍、何事か』と、振返って、しかも平然たる顔で万一、私心に動かされたりなどしたら潔く軍法に服しましょ あった。 びう 関羽は、やや不満のいろを、眉宇にあらわして、 四 『先程から、いまに重命もあらんかと、これに控えていたが、 しし力なるわけ なおそれがしに対して、一片の御示命もなきよ、、、 関羽の切なることばを傍らで聞いていた玄徳は、彼の立場を このかみ いまだ気の毒に思ったか、孔明に向って、 で御座るか。不肖、家兄に従うて、数十度の軍に会し、 先駈けを欠いたためしもないのに、この大戦に限って、関羽ひ『いや、軍師の案じられるのも理由なきことではないが、この まなじり とりをお用いなきは、何か、おふくみのある事か』と、眦 大戦に当って、関羽ともある者が、留守を命じられていたと聞 涙をたたえて詰め寄った。 えては、世上へも部内へも面目が立つまい。どうか、一手の軍 ひや 孔明は、冷やかに、 勢をさずけ、関羽にも一戦場を与えられたい』と、取做した。 『さなり。御身を用しオしし 、こ、こも、何分ひとつの障がある。それ孔明は、是非ない顔して、 が案じらるる儘、わざと御身には留守をたのんだ』 『然らば、万一にも、軍命を怠ることあらば、 いかなる罪にも 、 . わり 『何。障ありと。 明らかに理由を仰せられい。関羽の節義服すべしという誓紙を差出されい』と、云った。 に曇りがあると云わるるか』 関羽は、即座に、誓文を認めて軍師の手許へさし出したが、 はんこう み かんう おこた とりな

8. 三国志(二) (吉川英治)

「なるほど、安全な考えです。けれど田豊は学者ですから、どをあげ、 おのおの へいばどきゅう 巻うしても机上の論になるのでしよう。私ならそうしません』 『各 ~ 一族の兵馬弩弓をすぐって、町の戦場へ会せよ』と、 の『其許ならどうするか』 令した。 道『時は今なりと信じます。なぜならば、なるほど曹操の兵馬は きょ・つけん ようへいきさくあなどがた 臣強堅ですし、彼の用兵奇策は侮り難いものですが、ここ漸く、 まんしんきざ かほくかなん 彼も慢心を萌し、朝野の人々にうとまれ、わけて先頃、国舅の 白馬の野とは、河北河南の国境にあたる平野をいう。 と・つじよう 董承以下、数百人を白日の都下に斬ったことなど、民心も離反 四州の大兵は、続々、戦地へ赴いた しているにちがいありません。儒者の論に耳をとられて、今を さすが富強の大国である。その装備軍装は、どこの所属の隊 あんじよ 晏如として過ごしていたら、悔を百年にのこすでしよう』 を見ても、物々しいばかりだった。 でんほう 『 : : : むむ、そうか。そう云われてみると、田豊はつねに学識 こんどの出陣にあたっては、各一族にむかって、 きゅうきゅ・つ そじゅ ぶって、そのくせ自家の庫富を汲々と守っている性だ。彼は『千載の一遇だそ』と、功名手柄を励ましたが、ひとり沮授の もう今の位置に事足りて、ただ余生の無事安穏を祈っておるた出陣だけは、ひとと違っていた。 み め、そんな保守的な論を儂にもすすめるのかもしれん』 沮授は田豊と共に、軍部の枢要にある身だった。そして田豊 ほかにも何か気に入らない事があったのであろう。袁紹はそとは日頃から仲がいい 。その田豊が、主君に正論をすすめて獄 の後、田豊をよびつけて、彼の消極的な意見を痛罵した。 に下ったのを見て、 『これは誰か、主君をそそのかした蔭の者があるにちがいオ よ『世の中は計りがたい』と、ひどく無常を感じ、一門の親類を し』 よんで、出立の前夜、家財宝物など、のこらす遺物分けしてし おもて 田豊は直感したので、日頃の奉公はこことばかり、なお面をまった。 おか うかが 冒して反論を吐いた 曹操の実力と信望は決して外から窮そしてその別辞に、 えるような微弱ではない。うかつに軍を出したら大敗を喫する 『こんどの会戦は、千に一つも勝目はあるまい もし僥倖にめ であろうというのである。 ぐまれてお味方が勝てば、それこそ一躍天下を動かそう。敗れ 『汝は、河北の老職にありながら、わが河北の軍兵をさまで薄たら実に惨たるものだ。いずれにせよ、沮授の生還は期し難い あなど 弱なものと侮るか』 と思う』と述べ、出立した。 そ、っそう 袁紹は怒って田豊を斬ろうとまでしたが、玄徳やその他の人白馬の国境には、少数ながら曹操の常備兵がしオ 、、、こ。しかし袁 人がおし止めたので、 紹の大軍が着いては一たまりもない。馬蹄にかけられてみな逃 げ散ってしまった。 『不吉なやつだ ! 獄へ下せ』と、厳命してしまった。 きしゅう がんりよう 些細な感情から、彼は大きな決心へ移っていた。まもなく河先陣は、冀州の猛将として名ある顔良にも命じられていた。 れいよ、つさんせいしようれいじよう 北四州へわたって檄文は発しられ、告ぐるに曹操の悪罪十箇条勢いに乗じて、顔良はもう黎陽 ( 山西省・黎城附近 ) 方面まで突 たち こっきゅう の そじゅ かたみわ 芋よう - : っ

9. 三国志(二) (吉川英治)

『おおーいつ。張飛っ』 彼の場合は、士を愛するというよりも、士に恋するのであっ 思わず声を振りしばって彼が手をあげた時である。執念ぶか た。その情熱は非常な自己主義でもあり、盲目的でもあった。 こうかいほぞ さきに関羽へ傾倒して、あとではかなり深刻に後悔の臍を噛んい敵の一群は、もう戦う力もない趙雲へふたたび後から襲いか でいるはずなのに、この日また常山の子竜と聞いて、たちまちかった じんざいしゅうしゅうよく 持前の人材蒐集慾をむらむらと起したものであった。 てんゅう 趙雲にとって、また無心の阿斗にとって、これもまた天佑に 『救えつ、救えっ張飛。おれを助けろっ かさなる天佑だったといえよう。 よろい 行く先々の敵の囲みは、まだ分厚いものだったが、趙雲は甲 さすがの趙雲も、声あげて、橋の方へ絶叫した。 の胸当の下に、三歳の子をかかえながら、悪戦苦闘、次々の線馬は弱り果てているし、身は綿のように疲れている。しかも そうぐんぎようしようぶんへ おおほこ を駆け破ってーー敵陣の大施を切り仆すこと二本、敵の大矛を今、その図に乗って、強襲して来たのは、曹軍の驍将文聘と 奪うこと三条、名ある大将を斬り捨てることその数も知れず、麾下の猛兵だった。 うそぶ しかも身に一矢一石をうけもせす、遂に、さしもの礦野をよぎ長坂橋の上から、小手をかざして見ていた張飛は、月に嘯い やまあい り抜けて、まずはほっと、山間の小道まで辿りついた。 ていた猛虎が餌を見て岩頭から跳び降りて来るように しようしんしようしん 、心付 4 に』 するとここにも、鍾縉、鍾紳と名乗る兄弟が、ふた手に分れ『ようしつー て陣を布いていた。 そこに姿が消えたかと思うと、はや樊をたる砂塵一陣、駆け しん おおおの 兄の縉は、大芹をよくつかい、弟の紳は方天戟の妙手としてつけて来るや否、 名がある。兄弟しめし合わせて、彼を挾み討ちに、 『趙雲趙雲。あとは引受けた。貴様はすこしも早く、あの橋を くだ 『のがれぬ所だ。はやく降れ』と喚きかかった。 渡れつ』と、吠えた。 きょちょ ちょうりよう 更に、張遼の大兵、許緒の猛部隊も、彼を生け擒りにせん忽ち修羅と変るそこの血けむりを後にして、趙雲は、 ものと、大雨のごとく野を掃いて追って来た。 『たのむ』 『ーーーあれに追いっかれては』 と一声、疲れた馬を励まし励まし、長坂橋を渡りこえて、玄 やす と、趙雲も今は、死か生かを、賭するしかなかった。 徳の憩んでいる森陰までやっと駆けて来た。 恐らく彼にしても、この二将を斃したのが最後の頑張りであ『おうつ、これに 橋 ったろう。前後して縉と紳の二名を斬りすてたものの、気息は と、趙雲は、味方の人々を見ると、馬の背からどたっと辷り えんえん 奄々とあらく、満顔全身、血と汗にまみれ、彼の馬もまたよろ落ちて、その惨澹たる血みどろな姿を大地にべたと伏せた儘、 坂 まるで暴風のような大息を肩でついているばかりだった。 よろに成り果てて、辛くも死地を脱することができた。 ふところ ちょうはんは して、その懐に抱えているのめ 『オッ、趙雲ではないか 長そして漸く長坂坡まで来ると、彼方の橋上に、今なおただ一 は何か』 騎で、大矛を横たえている張飛の姿が小さく見えた。 し おおはた おめ しんほうてんげき あらし

10. 三国志(二) (吉川英治)

こんえんなかだち これは貴公の せたがいいと求められて、魯粛も遂に妥協するほかなかった。 婚縁の媒人に、骨を折ってみられるがよい。 とりかえ み、いみ、・つ つぐな 魯粛は、この一札を持って、呉へ帰った。途中、柴桑へ寄っ失敗を償い、また荊州を取回すに、絶好な妙策であり、今がそ しゅうゆ の又なき機会だ』 て、周瑜の病状を見舞いがてら、逐一物語ると、 「ああ、また貴公は、孔明に出し抜かれたのか、何たるお人好『えつ。 : ・呉侯の御妹君を玄徳へですって ? 』 - 一うかっと かんゅう つぶや しだ。孔明は狡猾の徒、玄徳は奸雄。こんな証文が何になろ鸚鵡がえしに呟きながら、魯粛は、唖然たる顔つきを示し う。おそらくそのまま呉侯に復命されたら、立所に、貴公の首 はあるま、 しいや、罪九族にも及ぶだろう』と、痛嘆した。 周瑜は、笑って、 びつくり 『いや、わしの云い方が唐突だから、貴公は吃驚したかも知れ そう云われてみると、呉侯孫権の怒り方が眼に見えてくる。 魯粛もその点は甚だ心許なかったのである。 が、今となつんが、何もこれは決して、突飛な思いっきではない。極めて合 てよ、、、 とうしようもない。途方に暮れるばかりだった。 理的に相談は運んで行けると思う』 しゅうゆ 周瑜も、腹を立てたが、、いでは魯粛のお人好しに、充分、同『どうしてですか。玄徳には正室の甘夫人があるのに、まさか 情を抱いた。それに彼は、むかし困窮していた頃、魯粛の田舎呉侯の御妹君を、彼の側室へなどと : : : 第一そんな縁談を呉侯 はばか の家から糧米三千石を借りて助けられたことがある。 それのお耳へ入れることだって憚られるではありませんか』 うでこまわ 『いやいやそうではない。貴公はまだ知らんのだ。玄徳の正室 を思い出したので、共に、腕を拱いて、 ( どうしたらいいか ? ) と、懸命に田 5 案した。 甘夫人は、病に斃れて逝くなっている。赤壁の戦やらその後の ふと、周瑜のあたまに浮んだのは、主君孫権の妹にあたる弓転戦で、葬儀も延ばしていたが、間者の報らせでは、荊州城に かじん 腰姫であった。 は白い弔旗を掲げていたということだ』 佳人年はまだ十六、七。 ・ゅ・つ、 キ - ゅ・つ・つキ一 あだな しんそうひめみ 『それは、劉琦の死を常んでいたのではありませんか』 弓腰姫というのは、臣下がつけた綽名である。深窓の姫君で し 『ちょうど、劉琦の死とつづいたので、そう思っている者もあ ありながら、この呉妹は、生れつき剛毅で、武芸をこのみ、脂 ふんげいしようよそお りんりん けんかんざし 粉霓裳の粧いも凜々として、剣の簪をむすび、腰にはつねにるらしいが、わしが聞いたのは、その以前だ。まだ劉琦も死な ななた 小弓を佩き、その腰元たちもみな薙刀を持って室に侍しているぬうちに、荊州の城外に新しい墳墓を築いていたというから、 ま - 一と という寔に一風変った女性であった。 よもや劉琦の葬儀ではないだろう』 『それは少しも知りませんでした。では今、玄徳に正室はない わけですか、それにしてもすでに彼は五十歳です。一方、妙齢 ろしゆく 1 一まいくん : どんなものでしよう 急に、周瑜は声を落して、魯粛に教えた。 の呉妹君はお十六かお十七でしよう。 えっ はなよめはなむこ 眉『貴公は、呉侯の御妹君に、謁したことがありはしない、 な、この花嫁花婿の縁むすびは』 『一、二度、お目通りしましたが』 『どうも貴公は、何事もすぐその儘、真正直に考えるので融通 『あの姫を、玄徳へ、嫁がすように、ひとっ鉉で貴公は、そのが利かん。元よりこの婚儀は初めから謀略に極っている。さき ろしゆく さっ とっ ろしゆく ′一うき きゅう おうむ ちょうき かんふじん