目次 臣道の巻 ( つづき ) 孔明の巻 赤壁の巻 望蜀の巻 三七五
望蜀の巻
孔明の巻
赤壁の巻
臣道の巻 ( つづき )
赤壁の巻 0 と、曹操との大決戦に臨むべく、即刻、手分けを急ぎ出し 374
吉川英治全集 第 27 巻 編纂委員 川口松太郎 川端康成 小林秀雄 佐佐木茂索 獅子文六 講談社版
かくれた。 巻二十名の従者は、車に添ってあるいた。関羽はみずから赤兎 えんげつせいりゅうとう 手に偃月の青童刀をかかえてい のをひきよせて打ちまたがり、 道た。そして、車の露ばらいして北の城門から府外へ出ようとそ こへさしかかた 臣 城門の番兵たちは、すわや車の裡こそ二夫人に相違なしと、 立ち塞がって留めようとしたが、関羽が眼をいからして、 『指など御車に触れてみよ、汝らの細首は、あの月辺まで飛ん でゆくそ』 そして、からからと笑ったのみで、番兵たちはことごとく震 い怖れ、暁闇のそこここへ逃げ散ってしまった。 『さだめし、夜明けと共に、追手の勢がかかるであろう、そち 達は、ひたすら御車を守護して先へ参れ。かならず二夫人を驚 かし奉るなよ』 ほくだいがい 云いふくめて、関羽はあとに残った。そして北大街の官道を 悠々、ただひとり後からすすんでいた。 せきと
るるか。いざ、功を述べて、勲功帳に記録を仰ぎたまえ』 四 『いや、 : べつに何も・ : ・ : 』 じようようがつひ ナいしゅ - っ この莉州の南郡から襄陽、合瀝の二城をつらねた地方は、曹関羽は益、うな垂れているのみで、そのことばさえ、女の よ , つに低かった。 操にとって、今は、重要なる国防の外郭線とはなった。 で、曹操は、都に帰るに際して、ふたたび曹仁へこう云い残孔明は、眉をひそめながら、 『どうなされたのか。べつに何も : : : とは ? 』 はかり′ ) と : それがしのこれに来たのは、功を述べるためでは 『この一巻のうちに、細々と、計策を書いておいたから、もし『実は。 この城の守りがいよいよ危急に迫った時は、これを開いて、わなく、罪を請うためでござる。よろしく軍法に照らして罰せら れたい』 が言となし、すべて巻中の策に従って籠城いたすがよい』 かよう とど じようようじよ・フ かこうじゅん : では、曹操はついに華容の道へは逃げ落ちて来な また、襄陽城の守備としては、夏侯厚をあとに留め、合瀝『はて。 ちょうりよう かったと云わるるか』 地方は、殊に、重要な地とあって、それへは、張遼を守りに かようどう がくしんりてん 『軍師の御先見にたがわす、華容道へかかっては来ましたが、 入れた。更に楽進、李典の二名を副将としてそれに添えた。 こう万全な手配りをすまして、曹操はやがてここを去ったそれがしの無能なる為、討ち洩らしてござる』 はいざんこんばい せきへき 『なに、討ち損じたと : : : あの赤壁から潰走した敗残困憊の兵 が、左右の大将も士卒もあらかた後の防ぎに残して行ったの で、その時、曹操に従って都へ回った数は、わずか七百騎ほどでありながら、なお羽将軍の強馬精兵をも近づけぬほど、曹操 はよく ( ったと申さるるか』 に過ぎなかったという : つい、取り逃がしました』 『 : : : でも、御座らぬが、 その頃ーーー せんしよう力しカ 『然らば、曹操は討たずとも、その手下の大将や士卒は、どれ 夏ロ城の城楼には、戦捷の凱歌が沸いていた。 ちょうひちょううん 張飛、趙雲、そのほかの士卒は、みな戦場から立帰って、敵ほど討ち取られたか』 いさおし ろかくひん 『ひとりも生捕りません』 の首級や鹵獲品を展じて、軍功帳に登録され、その勲功を競っ 『挙げたる首級は』 ていた。 『一箇も無しーーーでござる』 閣の庁上では、玄徳を中心に、孔明も立って、戦勝の賀をう : 」、つか』 けていたが、折ふしここへ、関羽もその手勢と共に戻って来『ウーム。 しようぜん 羽 孔明は、ロをつぐんで、あとはただその澄んだ眸をもって、 て、然と拝礼した。 関 『おお、羽将軍か。君にも待ちかねてお在したそ。曹操の首を彼をながめているだけだった。 『関羽どの』 よ引っさげて来たものは怖らくあなたであろう』 功 . うつむ 『さては御辺には、むかし曹操よりうけた恩を思うて、故意 『将軍。どうして、そのように不興気な顔をして俯向いておら 0 わ いけど 395
いんどう おうしよく 「死を急ぐ人々は、即座に名乗り出でよ。雲長関羽が引導せ いと、主人王植が申されますが』 巻ん』 と、迎えが来たが、関羽は、二夫人のお側を一刻も離れるわ まぐこ けにはゆかないと、断って、士卒とともに、馬に秣糧を飼って のと、大鐘の唸るが如き声でどなった。 明 四 王植は、むしろ欣んで、従事胡をよんで、ひそかに、課 孔 ふるおそ 震い怖れた敵は十方へ逃げ散ってしまったらしい。ふたたびをさずけた。 まっかぜ 静かな松籟が返って来た。 『心得て候』とばかり、胡班はただちに、千余騎をうながし 関羽は、二夫人の車を護って、夜の明けぬうち鎮国寺を立って、夜も二更の頃おい、関羽の客舎をひそやかに遠巻にした。 たいまっ そして寝しずまる頃を待ち、客舎のまわりに投げ炬火をたく えんしよう いんギ、ん 別れるにのそんで慇懃に、長老の普浄に礼をのべて、御無事さんに用意し、乾いた柴に焔硝を抱きあわせて、柵門の内外へ 搬びあつめた。 を祈るというと、普浄は、 『わしも、もはやこの寺に、衣鉢をとどめていることはできま 『・・ーー時分は良し』と、あとは合図をあげるばかりに備えてい ともしび せん。近く他国へ雲遊しましよう』 、まだ客舎の一房に燈火の影が見えるので、何となく気に かかっていた。 と、云った。 関羽は、気の毒そうに、 『いつまでも寝ない奴だな。何をしておるのか ? 』 『此方のために、長老もついに寺を捨て去るような仕儀になっ と、胡班は、忍びやかに近づいて房中を窺った。 べにろうそく おもてしつこく かならず恩におこたえ申すで た。他日、ふたたび会う日には、 すると、紅蝦燭の如く赤い面に漆黒の髯をふさふさと蓄えて きあんひじ あろう』 いる一高士が、机案に肱をついて書を読んでいた。 かか たが 『あっ ? つぶやくと、呵々と笑って、普浄は云った。 : この人が関羽であろう。さてさてうわさに違わ しゅうとど しゅう くもか、 『岫に停まるも雲、岫を出ずるも雲、会するも雲、別るるもず、これは世のつねの将軍ではない。天上の武神でも見るよう じようき おさらば、おき、らば』 雲、何をか一定を期せん。 彼に従って、一山の僧衆もみな騎と車を見送っていた。かく 思わず、それへ膝を落すと、関羽はふと面を向けて、 て、夜の明けはなれる頃には、関羽はすでに、沂水関 ( 河南省・ 『何者だ』と、しずかに咎めた。 洛陽郊外 ) をこえていた。 逃げる気にも隠す気にもなれなかった。彼は敬礼して、 け、よう 榮陽の太守王植は、すでに早打をうけとっていたが、門をひ『王太守の従事、胡班と申すものです』と、云ってしまった。 かくしゃ らいて、自身一行を出迎え、すこぶる鄭重に客舎へ案内した。 『なに、従事胡班とな ? 』 夕刻、使があって、 関羽は、書物のあいだから一通の書簡をとり出して、これを いき、さか、 、宴を設けて、将軍の旅愁をおなぐさめいたした知っているかと、胡班へ示した。 いはっ きすいかん