袁譚 - みる会図書館


検索対象: 三国志(二) (吉川英治)
512件見つかりました。

1. 三国志(二) (吉川英治)

冀州城は、ほっと、息づいた。 カ小康的な平時に返る 『たれか使の適任者はいるだろうか。曹操に会ってそれを告げ と、忽ち、国主問題をめぐって、内部の葛藤が始まった。 へいげんれい 袁譚はいまなお、城外の守備にあったので、 『あります。平原の令、辛毘ならきっといいでしよう』 しんび 『城へ入れろ』 『辛毘ならわしも知っている。弁舌爽やかな士だ。早速運んで 『入るをゆるさん』と、兄弟喧嘩だった。 くれい』 すると一日、その袁譚から、急に折れて、酒宴の迎えが来袁譚のことばに、郭図はすぐ人を派して辛毘を招いた。 た。兄の方からそう折れて出られると、拒むこともできず、袁辛毘は欣然と会いに来て、袁譚から手簡を受けた。袁譚は使 尚が迷っていると、謀士審配が教えた。 の行を旺にするため、兵三千騎を附してやった。 ゅまく 1 いーレゅ、つ 『あなたを招いて、油幕に火を放ち、焼き殺す計であると その時、曹操はちょうど、荊州へ攻め入る計画で河南の西平 けいかんせんせいへ 或る者からちらと聞きました。お出向き遊ばすなら、充分兵備 ( 京漢線西 ) まで来たところだったが、急に陣中へ袁譚の使が をしておいでなさい』 着いたとのことに、威容を正して辛毘を引見した。辛毘は、書 袁尚は、五万の兵をつれて、城門からそこへ出向いた。袁譚簡を呈して、袁譚の降参の旨を申入れた。 は、そう知ると、 『いずれ評議の上で』と軽くうけて、曹操は、辛毘を陣中にと 『面倒だ、ぶつかれ』と、急に、鼓を打ち鳴らして、戦いを挑 どめ、一方諸将をあつめて、 んだ。 『ど、つするか』を我していた ののし 陣頭で、兄弟が顔を合せた。一方が、兄に刃向いするかと罵諸説区々に出たが、曹操は衆論のうちから、間攸の卓見を れば、一方は、父を殺したのは汝だなどと、醜い口争いをした採用した。攸が説くには、 あげく、遂に、剣を抜いて、兄弟火華を散らすに至った。 『劉表は四十二州の大国を擁しているが、ただ境を守るだけ えんたん えんしよう 袁譚は敗れて、平原へ逃げた。袁尚はさらに兵力を加え、包で、この時代の大変革期に当りながら何等積極的な策に出たと 囲して糧道を断った。 いう例がない。要するに規格の小さい人物で大計のない証拠て 『ど、つしよ、つ、郭図』 ある。だからそこは一時さし措いても大したことはないでしょ きしゅう 『一時、曹操へ、降服を申入れ、曹操が冀州を衝いたら、袁尚う。むしろ冀北四カ国のほうが厄介物です。袁紹没し、敗軍度 はあわてて帰るにちがいありません。そこを追い討すれば、難度ですが、なお三人の男あり、精兵百万、富財山をなしていま たいしよう 争 なく、囲みは解け、しかも大捷を得ること、火を見るより明かす。もしこれに良い謀士が付いて、兄弟の和を計り、よく一体 になって、報復を計って来たら、もう手だてを加えようも勝っ すす 壊郭図は袁譚へそう奨めた。 策もありますまい 今、幸にも兄弟相争って、一方の袁譚 が打負け、降服を乞うて来たのは、実に天のお味方に幸し給うわ よろ ところです。宜しく袁譚の乞いを容れ、急に袁尚を亡ばして、 カくと っ しんび さわ じゅんしゅう せ

2. 三国志(二) (吉川英治)

その後、変を見てまた袁譚その他の一族を、順々に処置して行 あやま 巻けば万過ちはありますまい』というにあった。 の曹操はまた、辛毘を招いて、 明『袁譚の降服は、真実か詐りか。正直に述べよ』 と、云って、その面を烱々と見つめた。 孔 辛毘のひとみは、よく彼の凝視にも耐えた。虚言のない我の 顔を見よといわぬばかりである。やがて涼やかに答えて云う。 『あなたは実に天運に恵まれた御方である。たとい袁紹は亡く ても、冀北の強大は、普通ならここ二代や三代で亡ぶものでは けんしん ありません。併し、外には兵革に敗れ、内には賢臣みな誅せら めぐ かんか れ、あげくの果て、世嗣の位置を繞って骨肉たがいに干戈を弄 えんさ び、人民は嘆き、兵は怨嗟を放つの有様、天も憎しみ給うか、 きんじよ・つとうち 昨年来、飢饉蝗害の災厄も加わって、いまや昔日の金城湯池 も、帯甲百万も、秋風に見舞われて、明日も知れぬ暗雲の下に おののき慄えているところです。 ここを措いて、荊州へ入冬十月の風とともに、 らんなどは、平路を捨てて益なき難路を選ぶも同様です。直ち『曹操来る。曹軍来る』の声は、物の方から枯野を掃いて聞 - ようじよう 一路郞城をお衝きなさい。おそらくは秋の木の葉を陣風えて来た。 の掃って行くようなものでしよう』 袁尚は愕いて、にわかに平原の囲みを解き、木の葉の如く郊 じよう 城へ退却し出した。 しんがり 終始、耳を傾けて、曹操は黙然と聞いていたが、 袁譚は城を出て、その後備えを追撃した。そして殿軍の大将 しんび りよ - 1 う りよしよう 『辛毘。なんでも 0 と早く君と会う機会が無か 0 たか恨みに思呂壙と呂翔のふたりを宥めて、味方に手け、降人として、曹 えんたん ようじよう う。君の善一言、みな我意に中る。即時、袁譚に援助し、郞城操の見参に入れた。 へ進むであろう』 『君の武勇は父の名を恥かしめないものだ』と、曹操は甘いと ころを賞めておいた。 『もし、丞相が冀北全土を治められたら、それだけでも天下は 宀宸動しましよ、つ』 その後また、曹操は、自分の娘を、袁譚に娶せた。 『いや曹操は何も、袁譚の領土まで奪り上げようとは云わん都の深窓に育って、まだ十五、六になったばかりの花嫁を妻 にもって、袁譚はすつり喜脱していた。 『御遠慮には及びますまい。天があなたに授けるものなら』 郭図はすこし将来を憂えた。ある時、袁譚に注意して、 あた ちゅう もてあそ 『むむ、間違えば予の生命を人手にしてしまうかもしれぬ大 きな賭け事だからな。遠慮は愚であろう、すべては行く先の運 けんこんこころ 次第だ。誰か知らん乾坤の意を』 その夜は、諸大将も加えて盛んなる杯を挙げ、翌日は陣地を 払って、大軍悉く冀州へと方向を転じていた。 カくと かん 邯鄲 なだ たん めあわ よう 76 ク

3. 三国志(二) (吉川英治)

鄲 そうそう れつこういかい あた 『袁譚からこんな物を贈って来ましたが』と、彼へ披露してし 『聞けば曹操は呂礦と呂翔のふたりにさえ、列侯位階を与え、 ひどく優待している由です。思うにこれは、河北の諸将を釣らまった。 めあわ ん為でしよう。 またあなたへ自身の愛娘を娶せたのも、深曹操は、あざ笑って、 。袁譚の肚 い下心あればこそで、その本心は、袁尚を亡ばして後、冀北全『贈って来たものなら、黙って受けておくがいし 州をわが物とせん遠計にちがいありません。ですから、呂礦、は、見え透いている。折が来たら、共方たちに内応させて、こ あさはかもの 呂翔の二人には、あなたから密意を含ませておいて、いつでもの曹操を害さんとする下準備なのだ。 : あははは、浅慮者が 変あれば、内応するように備えておかなければいけますまい』やりそうな事だろう』 れいよう 『大きにそうだ。併しいま、曹操は黎陽まで引揚げ、呂礦と呂 この時から曹操も、心ひそかに、いずれ長くは生かしておけ 翔も伴れて行ってしまったが、何かよい工夫があるかの』 ぬ者と、袁譚に対する殺意をかためていた。 『二人を将軍に任じ、あなたから将軍の印を刻んでお贈りにな 冬のうち戦いもなく過ぎた。 きす、 ったらいいでしよ、つ』 しかし曹操はこの期間に、数万の人夫を動員して、淇水の流 袁譚は、げにもと頷いた。印匠に命じて早速、二顆の将軍印れをひいて白溝へ通じる運河の開鑿を励ましていた。 を造らせた。 翌、建安九年の春。 あどけない新妻は、彼が掌にしている金印をうしろから覗い 運河は開通し、おびただしい兵糧船は水に従って下って来 て訊ねた。 きよしゅう 『あなた、それは何ですの ? 』 その船に便乗して都から来た許攸が、曹操に会うと云った。 えんたん かみなり 『これかい 』と、袁譚は掌のうえに弄びながら、新妻に 『丞相には、袁譚、袁尚が今に雷にでも搏たれて、自然に死 笑顔を振向けた。 ぬのを待っているのですか』 『使に持たせて、舅御の陣地まで贈るものだよ』 『はははは、皮肉を申すな、これからだ』 ひすい はく - よく 『翡翠か白玉なら、妾の帯の珠に造らせるのに』 『冀州の城へ還れば、そんなものは山はどあるよ』 ようじよう えんしよう 『でも、冀州は、袁尚のお城でしよう』 袁尚は、今城にあった。 しんはい 『なあに、おれの物さ。父の遺産を、弟のやつが、横奪りして彼の輔佐たる審配は、たえず曹軍の動静に心していたが、 いるのだ。いまに舅御が奪り返してくれるだろう』 水と白溝をつなぐ運河の成るに及んで、 将軍の金印は、程なく、黎陽にある呂曠、呂翔の兄弟の手に 『曹操の野望は大きい。彼は近く冀州全土を併呑せんという大 届いた 行動を起すにちがいない』 邯二人とも、すでに曹操に、い服して、曹操を主と仰いでいたの と、察して、袁尚へ献言し、まず檄を武安の尹楷に送って、 もうじよう で、 毛城に兵を籠め、兵糧をよび寄せ、また沮授の子の沮鵠という め・よ - 一う しゅうと′一 わたし り上しよう て もてあそ はっ - : っ はっ - 一う げきぶあん いん力い

4. 三国志(二) (吉川英治)

疲労の極に達し、馬のたてがみへ俯伏したまま、いっか、ロ中 いだ。そして冀州城へ入ると、袁紹は陣中に病んで還ったと触 えんしよう から血を吐いていたのであった。 れ、三男袁尚が、仮に執政となり、審配其の他の重臣がそれを 『父上っ』 えんたん 『大将軍っ』 次男の袁熙は幽州へ、嫡子袁譚は青州に、それそれ守るとこ 『お気をしつかり持って下さい』 ろへ還り、甥の高幹も、 へいしゅう 三人の子と、旗下の諸将は、彼の身を抱き降ろして懸命に手『かならず再起を』と約して、一先ず拜州へと引揚げた。 たいしよう 当を加えた。 かくて大捷を獲た曹操は、思いのまま冀州の領内へ進出 袁紹は、蒼白な面をあげ、唇の血を三男に拭かせながら、 して来たが、 『案じるな。 : : : 何の』と、強いて眸をみはった。 『いまは稲の熟した時、田を荒らし、百姓の業を妨げるのは、 すると、遙か先に、何も知らず駆けていた前隊が、急に、 如何なものでしよう。殊に味方も長途に疲れ、後方の聯絡、兵 なだれ 雪崩を打って、戻って来た。 糧の補給は、、 しよいよ困難を加えますし、袁紹病むといえど 強力な敵の潜行部隊が、早くも先へ迂回して、道を遮断し、 も、審配、逢紀などの名将もおること、これ以上の深入りは、 これへ来るというのである。 多分に危険も伴うものと思慮せねばなりません』と、諸将みな まだ充分意識もっかない父を、ふたたび馬の背に乗せて、長諫めた。 男袁譚が抱きかかえ、それから数十里を横道へ、逃げに逃げ 曹操は釈然と容れて、 『百姓は国の本だ。 この田もやがて自分のものだ。憐れま : だめだ。苦しい : 降ろしてくれい』 ないで何としよう』 かえ 袁譚の膝で、袁紹のかすかな声がした。いっか白い黄昏の月 一転、兵馬を回して、都へさして来る途中、忽ち相次いで来 がある。兄弟と将士は、森の木陰に真黒に寄り合った。 る早馬の使がこう告げた。 せんばう りゅうげんとく りゅうへききようと 草の上に、戦袍を敷き、袁紹は仰向けに寝かされた。 『いま、汝南にある劉玄徳が、劉辟、都などを語らって、数 ぶい眸に、タ月が映っている。 万の勢をあつめ、都の虚をうかがって、にわかに攻め上らんと 『袁尚。袁譚も : : : 袁熙もおるか。わしの天命も、尽きたらしするかの如く、動向、容易ならぬものが見えまする ! 』 そちたち兄弟は、本国に還り、兵をととのえて、ふたた しゅう び、曹操と雌雄を決せよ。 ・ : ち、ちかって、父の怨みを散ぜ 埋 よ。 ししか、兄弟共』 面云い終ると、かっと、黒血を吐いて、四肢を突張った。最後 十の躍動であった。 兄弟は号泣しながら、遺骸を馬の背に奉じて、なお本国へ急 そうそう ひざ うつぶ たそがれ じよなん きしゅうじよう しんは、 わざ たちま み、また 7 5 ノ

5. 三国志(二) (吉川英治)

えんしようちゅうざん などの諸地方を荒して、追々、兵力をあつめ、三男袁尚が中山 いっぞや曹操が入城する時も、同様な高慢を云いちらして、 きょちょ かんしやく 巻諸将が顰蹙していたのを思い出して、許褶はぐっと持前の澗癪 ( 河北省定 ) にいたのを攻めて、これを奪った。 えんき 袁尚は中山から逃げて、幽州へ去った。ここに二男袁熙がい のを面上にみなぎらせた。 わき たので、二弟合流して長兄を防ぐ一面、 明『匹夫つ。側へ寄れ ! 』 『亡父の領地を奪り回さねば』と、弓矢を研いで、冀州の曹操 孔『なに。おれを匹夫だと』 住来のを遠く窺っていた。 『小人の小功に誇るはど、小耳にうるさいものはない。 , 曹操は、それを知って、試みに袁譚を招いた。袁譚は気味悪 妨げなすと蹴ころすぞ』 がって、再三の招きにもかかわらず出向かずにいた。 『蹴ころしてみろ』 口実ができた。 曹操はすぐ断交の書を送って、一軍をさ 『造作もないことだ』 たか まさかと多寡をくくっていると、許褶はほんとに馬の蹄をあし向けた。袁譚は怖れて、忽ち中山も捨て平原も捨て、ついに 劉表へ使を送って、 げて、許攸の上へのしかかって来た。 『急を救い給われ』と、彼の義心を仰いだ それのみか、咄嗟に剣を抜いて、許攸の首を斬り飛し、すぐ 劉表は、使を返してから、玄徳にこれを計った。玄は、袁 府堂へ行って、この由を曹操へ訴えた。 兄弟がみな、日ならずして曹操に征伐される運命にある旨を予 曹操は、聞くと、瞑目して、暫く黙っていたが、 『彼は、馭し難い小人にはちがいないが、自分とは幼少からの言して、 『まあ、見て見ぬ振しておいでなさい。他人事よりは、御自身 朋友だ。しかもたしかに功はある者。それを私憤に任せてみだ の国防は大丈夫ですか』 りに斬り殺したのは怪しからん』 と、注意をうながした。 と、許褶を叱って、七日の間、謹慎すべしと命じた。 一名の高士が、礼篤く案内され 許楮が退くと、入れ代りに、 さいえん て来た。河東武城の隠士、崔珱であった。 荊州へ頼ろうとしたが、リ 表から態よく拒否された袁譚は、 先頃から家へ使を派して、曹操は再三この人を迎えていたの なんひ である。なぜならば、冀州国中の民数戸籍を正すには、どうしぜひなく南皮 ( 河北省南皮 ) へ落ちて行った。 そうそ・つ ひょうがせつげん さいえんしもん 建安十年の正月。曹操の大軍は氷河雪原を越えて、ここに迫 ても崔珱に諮問しなければ整理ができなかったからである。 さいえん 崔珱は乱雑な民籍をよく統計整理して、曹操の軍政経済の資った。 一カも なんひじよう 南皮城の八門をとざし、壁上に弩弓を植え並べ、濠には逆茂 に共えた。 ゅ べつがじゅうじ 曹操は、彼を別駕従事の官職に封じ、一面、袁紹の子息や冀木を結 0 て、城兵の守りは頗る堅かったが、襲せては返し、襲 えん せては返し、昼夜新手を変えて猛攻する曹軍の根気よさに 、袁 州の残党が落ちのびて行った先の消息も怠らず探らせていた。 たん えんたん かんりようあんへい かかん その後、長男の袁譚は、甘陵、安平、海、河間 ( 河北省 ) 譚は夜も眠られす、心身ともに疲れてしまった。 ひつぶ ひんしゆく カレをつかドしし - っ めいもく ひづめ なんひ かえ どきゅう よ 766

6. 三国志(二) (吉川英治)

『ばかにするな。おれは袁尚の兄だぞ。弟から兄へ官爵を授け 『この上は、ぜひもない、曹操に降って、共に冀州の本城を踏 巻るなんて法があるか』 みつぶしてやろう』 の『御三男は、すでに冀州の君主に立たれました。先君の御遺一言 と、やぶれかぶれな策を放言した。 おどろ 明を奉じて』 冀州の袁尚へ、早馬で密告したものがある。袁尚も愕き、審 配も愕然とした。 孔『遺書を見せろ』 『劉夫人の御手にあって、臣等の窺い知るところではありませ『そんな無茶をされて堪るものではない。大挙すぐ援軍にお出 ん』 向き遊ばせ』 そゅう 『よし。城中へ行って、劉氏に会い、しかと談じなければなら審配のすすめに、彼と蘇由の二人を本城にとどめて、袁尚自 ん』 身、三万余騎で駈けつけた。それを知ると袁譚も、 カくと 郭図は、急に諫めて、彼の剣の鞘をつかんだ。 『なにも好んで曹操へ降参することはない』 『いまは、兄弟で争っている時ではありません。何よりも、敵と、意を翻して、袁尚の軍と、両翼にわかれ、士気を革め は曹操です。その問題は、曹操を破ってから後におしなさい。 て曹軍と対峙した。 えんき ・一うかん 0 友にしても、 いくらだって取る処置はありましよう』 そのうち、二男の袁熙や甥の高幹も、一方に陣地を構築し、 三面から曹操を防いだのでさしもの曹軍も、やや喰いとめら れ、戦いは翌八年の春にわたって、まったく膠着状態に入るか 『そうだ、内輪喧嘩は、あとの事にしよう』 と見えたが、俄然二月の末から、曹軍の猛突撃は開始され、河 れいよう ゆだ 袁譚は、兵馬を再編成して、ふたたび黎陽の戦場へ引返し北軍はなだれを打って、その一角を委ねてしまった。 そしてついに曹軍は、冀州城外三十里まで迫ったが、さすが ナよデ そして健気にも、曹軍にぶつかって、さきの大敗をもり返そ に北国随一の要害であった。犠牲を顧みず、惨憺たる猛攻撃を うとしたが、兵を損じるばかりだった。 つづけたが、ここの堅城鉄壁は揺るぎもしないのである。 くるみ から 逢記よ、・ とうかしてこの際、袁譚、袁尚の兄弟を仲よくさせ『これは胡桃の殻を手で叩いているようなものでしよう。外殻 たいものと、独断で、冀州へ使をやり、『すぐ、援けにお出では何分にも堅固です。けれど中実は虫が蝕っているようです。 なさい』と、袁尚の来援を促した。 兄弟相争い、 諸臣の心は分離している。やがてその変が現れる しんはい しかし、袁尚の側にいる智者の審配が反対した。 そのままで、ここは兵をひいて、悠々待つべきではありますまいか』 きしゅう カくカ に袁譚はいよいよ苦戦に陥ってしまい、逢紀が独断で、冀州へ これは曹操へ向って、郭嘉がすすめた言葉であった。曹操 書簡を送ったことも耳にはいったので、 も、実にもと頷いて、急に総引揚げを断行した。 かんと 『怪しからん奴だ』と、その僣越をなじり、自身、手打にして もちろん黎陽とか官渡とかの要地には、強力な部隊を、再征 しまった。そして、 の日に備えて残して行ったことはいう迄もない。 さや さず ひるがえ れいよう うなず あらた わ 8

7. 三国志(二) (吉川英治)

ほうあん その上、大将彭安が討たれたので、辛評を使として、降伏をもれた曹軍の陣所を猛襲したのである。そして民家を焼き、柵 申し出た。 門を焼き立て、あらゆる手段で、曹軍を掻きみだした。 ひづめどきゅう てっせん 曹操は、降使へ云った。 飛雪を浴びて、駆けちがう万騎の蹄、弩弓の唸り、鉄箭のさ しんび しよ、つしよう かっかっ 『其方は、早くから予に仕えておる辛毘の兄ではないか。予のけび、戞々と鳴る較、鏘々火を降らしあう剣また剣、槍は砕 おめ 陣中に留まって、弟と共に勲しを立て、将来、大いに家名を揚 、旗は裂け、人畜一つ喚きの中に、屍は山をなし、血は雪を げたらど、つだ』 割って河となした。 ンユタット 力いらん そう - : っ がくしん 『古語に日う。ーー主貴ケレ・ハ臣栄工、主憂ウル時 ( 臣辱カシ 一時、曹軍はまったく潰乱に墜ちたが、曹洪、楽進などがよ メラルト。弟には弟の主君あり、私には私の主君がありますか く戦って喰い止め、ついに大勢をもり返して、城兵をひた押し ら』 に濠際まで追いつめた。 えん 辛評は空しく帰った。降をゆるすとも許さぬとも、曹操はそ曹洪は、雑兵には目もくれず、乱軍を疾駆して、ひたすら袁 れに触れないのだ。云う迄もなく、曹操はすでに冀州を奪った譚の姿をさがしていたが、とうとう目的の一騎を見つけ、名乗 えんたん ので、袁譚を生かしておくことは好まないのである。 りかけて、馬上のまま、重ね打ちに斬り下げた。 『和議。 ま望めません。所詮、決戦のほかございますまい』 『袁譚の首を挙げたぞ。曹洪、袁譚の首を打ったり』 ひょうひょうふぶき 有の儘を、辛評が告げると、袁譚は彼の使に不満を示して、 という声が、颶々、吹雪のように駆けめぐると、城兵はわ 『ああそうか。そちの弟は、すでに曹操の身内だからな。その っと戦意を失って、城門の橋を逃げ争って駆けこんだ。 兄を講和の使にやったのはわしの過りだったよ』 その中に、郭図の姿があった。曹軍の楽進は、 と、ひがみッばく云った。 『あれをこそ ! 』 『こは、、い外なおことばを ! 』 と、目をつけ、近々、追いかけて呼びとめたが、雪崩れ打っ * 、え 一声、気を激して、恨めしげに叫ぶと、辛評は、地に仆れて敵味方の兵に遮ぎられて寄りつけないので、腰の鉄弓を解い 昏絶したまま、息が絶えてしまった。 て、やにわに一矢を番え、人波の上からびゆっと弦を切った。 つらめ 袁譚はひどく後悔して、郭図に善後策を讙った。郭図は強気矢は、郭図の首すじを貫き、鞍の上からもんどり打って、五 で、 体は、濠の中へ落ち込んで行った。楽進は首を取って、槍先に ほうあんう 『なんの、彭安が討たれても、なお名を惜しむ大将は数名いま なんひ かくとな えんたん す。それと南皮の百姓をすべて徴兵し、死物狂いとなって、防『郭図亡し、袁譚なし、城兵共、何をあてに戦うか』と声かぎ あ 人ぎ戦えば、敵は極寒の天地に曝されている遠征の窮兵、勝てぬりに叫んだ。 じよう なんひ こく早 - ん 1 一うとうちょうえん 真という事があるものですか』と、励まして、大決戦の用意にか 南皮一城もここに滅ぶと、やがて附近にある黒山の強盗張燕 キ、しゅ・つ しようしよくちょ、つなん やから つ ) 0 野カオ だとか、冀州の旧臣の焦触、張南などという輩も、それそ 突如、城の全兵力は、四方を開いて攻勢に出て来た。雪に埋れ五千、一万と手下を連れて、続々、降伏を誓いに出て来る者 こんぜっ カくと いみ、 4 れ * 一ら しんひょう きしゅう うず たん かくと つる

8. 三国志(二) (吉川英治)

せいしゅうゆうしゅうへいしゅう と、青州、幽州、拜州の軍馬は、諸道から黎陽へ出て、防戦 劉表は郭外三十里まで出迎え、互いに疎遠の情を叙べてか ら、 に努めた。 よしみ しんし けれど曹軍の怒濤は、大河を決するように、いたる所で北国 『この後は、長く唇歯の好誼をふかめ、共々、漢室の宗親たる しんしん 範を天下に垂れん』 勢を撃破し、駸々と冀州の領士へ蝕いこんで来た。 わかとの ! ら えんたんえんき えんしよう と、城中へ迎えて、好遇頗る鄭重であった。 袁譚、袁熙、袁尚などの若殿も、めいめい手痛い敗北を負 きしゅ・つ この事は早くも、曹操の耳に聞えた。 って、続々、冀州へ逃げもどって来たので、本城の混乱はいう 曹操はまだ汝南から引揚げる途中であったが、その情報に接までもない。 えんしよう りゅう すると、愕然として、 のみならず、袁紹の未亡人劉氏は、まだ良人の喪も発しない 『しまった。彼を荊州へ追いこんだのは、籠の魚をつかみ損ねうちに、日頃の嫉妬を、この時にあらわして、袁紹が生前に寵 すいたく そばめ っナて、後園に追い出 て、水沢へ逃がしたようなものだ。今のうちに 愛していた五人の側女を、武士こ、、 し、そこここの木陰で刺し殺してしまった。 と、直ちに、軍の方向を転じて、荊州へ攻め入ろうとした きゅうせん ; 、上哥よひとしく、 『死んでから後も、九泉の下で、魂と魂とがふたたび巡り合 、つ一レ」、がはいし、つに』 『今は、利非すです。来年、陽春を待って、攻め入っても遅く ありますまい』 という思想から、その屍まで寸断して、ひとっ所に埋けさせ と、一致して意見したので、彼も断念して、そのまま許都へなかった。 還ってしまった。 こんな所へ、三男袁尚が先に逃げ帰って来たので、劉夫人 が、翌年になると、四囲の情勢は、また徴妙な変化を呈は、 も して来た。建安七年の春早々、許都の軍政はしきりに多忙であ『この際、そなたが率先して父の喪を発し、御遺書をうけたと ほかの子息が主君にな 称えて、冀州城の守におすわりなさい。 ったら、この母はどこに身を置こうそ』と、すすめた。 荊州方面への積極策は、一時見合わせとなって、ただ夏侯 じゅんまんちょう 厚、満寵の二将が抑えに下った。 長男の袁譚が、後から城外まで引揚げて来ると、袁紹の喪が そうじんじゅんい 曹仁、彧には、府内の留守が命ぜられ、残る軍はこそっ発せられ、同時に三男の袁尚から大将逢紀を使として、陣中へ て、 向けてよこした。 いん - み - 争 『北国へ。 官渡へ』 逢紀は印を捧げて、 しやを - しようぐんほう と、冀北征伐の征旅が、去年にも倍加した装備を以て、ここ 『あなたを、車騎将軍に封ずというお旨です』と、伝えた。 もくろ 壊に再び企図まれたのであった。 袁譚は、怒って、 自冀州の動揺はいう迄もない。 『何だ、これは ? 』 『ここまで、敵を入れては、勝目はないそ』 『車騎将軍の印です』 そえん の きよと かばね れいよう わ 7

9. 三国志(二) (吉川英治)

『否とよ君。それは常識の解釈というもの。よく忠臣の言を入 つねに劉夫人からよい事だけを聞かされているので、彼の意 れ、奸臣の讒を観やぶるほどな御主君なら、こんな大敗は求め中にも、袁尚が第一に考えられていた。 せいしゅう えんたん ない。おそらく田豊の死は近きにあろう』 だが、長男の袁譚は、青州にいるし、次男の袁熙は、幽州を 『まさか、そんな事は : : : 』と、典獄も云っていたが、果し守っている。 て、袁紹が帰国すると即日、一使が来て、 その二人をさしおいて、三男の袁尚を立てたら、どういうこ 1 一くじん たも とになるだろうか ? 『獄人に剣を賜う』と、自刃を迫った。 典獄は、田豊の先見に驚きもし、また深く悲しんで、別れの 袁紹はそこに迷いを持ったのであった。つねに側において可 酒肴を、彼に供えた。 愛がっている袁尚だけに、悩むまでもない明白な問題なのに、 田豊は自若として獄を出、莚に坐って一杯の酒を酌み、 彼は迷い苦しんだ。 『およそ士たるものが、この天地に生れて、仕える主を過っこ重臣たちの意向をさぐると、逢紀、審配のふたりは、袁尚を しんひょう とは、それ自体すでに自己の不明というほかはない。 この期に擁立したがっているし、郭図、辛評の二名は、正統派という くり 1 一と ちゃくしえんたん 至って、なんの女々しい繰一 = 口を吐かんや』 か、嫡子袁譚を立てようとしているらしい と、剣を受けて、みずから自分の首に加えて伏した。黒血大 だが、自分から自分の望みを仄めかしたら、そういう連中 - らくろ 地を更に晦うし、冀州の空、星は妖しく赤かった。田豊死すと も、一致して袁尚を支持してくれるかも知れぬーーと考えたら ったえ聞いて、人知れず涙をながした者も多かった。 しく袁紹は或る日、四大将を翠眉廟の内に招いて、 『時に、わしもはや老齢だし、諸州に男子を分けて、それそれ 適する地方を守らせてあるが、宗家の世嗣としては、もっとも 本国に帰ってからの袁紹は、冀州城内の殿閣にふかく籠っ三男袁尚がその質と思うている。 で、近く袁尚を河北の新 はんゅう て、怏憂、煩憂の日を送っていた。 君主に立てようと考えておるが、そち達はどう思うな ? 』 あん 衰退が見えてくると、大国の悩みは深刻である。 と、意見を問いながら暗に自分の望みを打明けてみた。 わずら 外戦の傷手も大きいが、内政の患いはもっと深い すると、誰よりも先に郭図が口をひらいて、 『あなたがお丈夫なうちに、どうか世嗣を定めてください。そ『これは思いもよらぬおことばです、古から兄をおいて弟を立 これを行えば乱 れを先に遊ばしておけば、河北の諸州も一体となって、きっとて、宗家の安泰を得たためしはありますまい ちょう 伏 御方針が進めよくなりましよう』 兆たちまち河北の全土に起って、人民の安からぬ思いをするは や りゅうふじん 埋劉夫人はしきりにそれを説いた が、実は自分の生んだ火を睹るよりもあきらかです。しかも、今一方には、曹操の熄 よっ えんしよう みだたま まざる侵略のあるものを。 面子の三男袁尚を、河北の世嗣に立てたいのであった。 ・ : どうか、家政を紊し給わず、一 : 心身ともにつかれたよ。近いうちに世嗣意、国防にお心を傾け給わるよう、痛涙、御諫言申しあげます料 十『わしも疲れた。 を決めよう』 る』 - け一ん″た・ かんしんざん おうゆう し いたで むしろ あや み かくと すいびびよう ほの しんはい えんき ゅうしゅう らん

10. 三国志(二) (吉川英治)

たかと思われた。袁紹は甲を着るいとまもなく、単衣帛髪のまある醜類をことごとく軍律に照して断罪に処すべきでしよう』 じゅんしゅう ま馬に飛び乗って逃げた。 攸がそばから云うと、曹操はにやにや笑って、 えんたんっ あとには、ただ一人、嫡子の袁譚が従いて行ったのみであ『いや待て。 袁紹の勢いが隆々としていた一頃には、この る。 曹操でさえ、如何にせんかと、惑ったものだ。いわんや他人を それと知って、 てどり かわびつ 『われぞ、手擒に ! 』 彼は、眼のまえで、革櫃ぐるみ書簡もすべて、焼き捨てさせ ちょ・つりよう きょちよじよこう う等 - ん と張遼、許楮、徐晃、于禁などの輩が争って追いかけたてしまった。 そじゅ が、黄河の支流で見失ってしまった。 また、袁紹の臣沮授は、獄につながれていたので、当然、逃 一すじや二すじの河流なら見当もっくが、広茫の大野に、沼げることもどうすることも出来ず、やがて発見されて、曹操の 前に曳かれて来た。曹操は見るとすぐ、 やら湖やら、またそれを繋ぐ無数の流れやらあって、どっちへ 渡って行ったか 水に惑わされてしまったからであった。 『おう、君とは、一面の交わりがある』 なお諸所を捜査中、捕虜とした一将校の自白によると、 と、自身で繩を解いてやったが、沮授は声をあげて、その情 ちゃくしえんたん 『嫡子袁譚のほかに、約八百はどの旗下の将士が従いて、北方を拒んだ。 の沼を逃げ渡られた』 『わしが捕われたのは、やむを得ず捕われたのだ。降参ではな と、いう事だった。 いぞ。早く首を斬れ』 あっ つのぶえ しかし曹操は、飽くまでその人物を惜しんで陣中におき、篤 そのうちに集結の角笛が聞えたので、一同むなしく引揚げ くもてなしておいた。ところが、沮授は隙を見て、兵の馬を盗 た。この日の戦果は予想外に大きかった。敵の遺棄死体は八万 と数えられ、袁紹の本陣附近から彼の捨てて行った食料、重大み出し、それに乗って逃げ出そうとした。 の図書、金銀絹帛の類など続々発見されたし、そのほか分捕り の武器馬匹など莫大な額にのばった。 沮授が、鞍につかまった刹那、一本の矢が飛んで来て、沮授 また、それらの戦利品中には、袁紹の座側にあった物らしい の背から胸まで射ぬいてしまった。曹操は自分のした事を、 きんかく 金革の大きな文櫃などもあった。曹操が開いてみると、幾東に 『噫。われついに、義の人を殺せり』 もなった書簡が出て来た。 と悲しんで、手ずから遺骸を祭り、黄河のほとりに墳を築い ちゅうれっそくんのはか 河 思いがけない朝廷の官人の名がある。現に曹操のそばにいてて、それに『忠烈沮君之墓』と碑に刻ませた。 黄 忠勤顔している大将の名も見出された。そのほか、日頃、袁紹 巻に内通していた者の手紙は、すべて彼の眼に見られてしまっ 『実に呆れたもの、この書簡を証拠に、この際、これらの二心 たぐい ともがら たいや いくたま つかきず 卩 5