あとかた すめてきた。 それと見た呉軍の将士は、 と誇っていた地盤も、いまは痕形もなく呉軍の蹂躙するとこ 巻『われこそ』と、功に逸「て、蘇飛のまわりへむらがり寄ったろとな「た。 かんねい のカ吹し 登ことびつく夏の虫のように、彼のまわりに、死屍を積み城下に迫ると、この土地の案内に誰よりもくわしい甘寧は、 壁かさねるばかりだった。 まッ先に駆け入って、 はんしよう 『黄祖の首を、余人の手に渡しては恥辱だ』と、血まなこにな 赤すると、呉の一将に、麕璋という剛の者があ「た。立ち騒ぐ っていた。 敵味方のあいだを駆けぬけ、真っ直ぐに、蘇飛のそばへ近づい て行ったかと思うと、馬上のまま引っ組んで、さすがの蘇飛を 西門、南門には、味方が押しよせているが、誰もまた東門に も自由に働かせず、鞍脇にかかえて、忽ち、味方の船まで帰っ は迫っていない。黄祖は恐らくこの道から逃げ出して来るだろ てきた。 うと、門外数里の外に待ち伏せていた。 - 一うカじよう ぼうかくろうでん そして、孫権に献じると、孫権は眼をいからして、蘇飛を睨やがて、江夏城の上に、黒煙があがり、望閣楼殿すべて焔と みつけ、 化した頃、大将黄祖は、さんざん討ち崩されて、部下わずか二 そんけん 『以前、わが父孫堅を殺した敵将はこいつだ。すぐ斬るのは惜十騎ばかりに守られながら東門から駆け出して来た。 こうそ しい。黄祖の首と二つ並べて、凱旋の後父の墓を祭ろう。檻車すると、道の傍から、鉄甲五、六騎ばかり、不意に黄祖の横 かんねい へ抛りこんで本国へさし立てろ』 へ喚きかかった。甘寧は先手を取られて、 しゆくしようていふ と、云って、部下に預けた。 『誰か ? 』と見ると、それは呉の宿将程普とその家臣たちで あった。 程普が、きようの戦いに、深く期して、黄祖の首を狙ってい たのは当然である。 そんけん 黄祖のために、むなしく遠征の途に於て敗死した孫堅以来、 そんキ、く 二代孫策、そしていま三代の孫権に仕えて、歴代、武勇に負け をとらない呉の宿将として ふくしゅうきわん 『きようこそは』と、晴がましく、故主の復讐を祈念していた ことであろう。 かんわい けれど、甘寧としても、指を咥えて見てはいられない。 てつきゅう 呉はここに、陸海軍とも大勝を博したので、勢に乗って、水出遅れたので、彼はあわてて、腰なる鉄弓をつかみ把り、一 ちょ、つ 陸から敵の本城へ攻めよせた。 矢を番えて、丁ッと放った。 さしも癶い隹・月、ここに、 矢は、見事に、黄祖の背を射た。 どうと黄祖が馬から落 こうか ( 江夏の黄祖あり ) ちたのを見ると、 蜂と世子 - 一うそ はち そんけん こう くらわき はや せい わめ じゅうりん 2 イ 6
音 とが 『ー、、、すぐ取囲んで、何者そと、取糺しましたところ、頭目ら咎を生涯負い、人の上に立つなどは思いよらぬことと教えてく かんねい しき真っ先の男が云うにはーー自分事は、黄祖の手下で、甘寧れました。 : ではどうしたらいいかを、更に蘇飛に訊くと、 がくけんり あざなこうは はぐんりんこうそだ 字を興覇とよぶ者であるが、もと巴郡の臨江に育ち、若年から近いうちに、鄂県の吏に移すから、その時に、逃げ去れよとの ことに、三拝して、その日を待ち、任地へ赴く舟と偽って、幾 腕だてを好み、世間のあぶれ者を集めては、その餓鬼大将とな ′一うきゅうまみ一かり - よろい って、喧嘩を誇り、伊達を競い、常に強弓、鉞を抱え、鎧を夜となく江を下り、漸く、呉の領土まで参った者でござる。な 重ね、腰には大剣と鈴をつけて、江湖を横行すること多年、人にとぞ、呉将軍の閣下に、よろしく披露したまえとーー以上、 かんねい きんばん きんばんらい 人、鈴の音を聞けば : : : 錦帆の賊が来たそ ! 錦帆来 ! と逃甘寧はつぶさに身上を物語って、それがしに取次ぎを乞うので げるのを面白がって、ついには同類八百余人をかぞうるに至ございました』 おもむ ぜんび 『うむ。・ : : ・成程』 り、いよいよ悪行を働いていたなれど、時勢の赴くを見、前非 けいしゅう りゅうひょう を悔いあらため一時、荊州に行って劉表に仕えていたけれ孫権を始め、諸将みな、重々しくうなずいた。 ーっト朝当、つ ど、劉表の人となりも頼もしからす、同じ仕えるなら、呉へ参呂蒙は、なおこう云い足して、報告を結んだ。 って、粉骨砕身、志を立てんものと、同類を語らい、荊州を脱『甘寧といえば、黄祖の藩にその人ありと、隣国まで聞えてい して、江夏まで来たところが、江夏の黄祖が、どうしても通しる勇士、さるにても、憐なることよと、それがしも仔細を聞い ません。やむなく、暫く止まって、黄祖に従っておりましたて、その心事を思いやり : : : わが君がお用いあるや否やは保証 : のみならずです、 が、元より重く用いられるわけもない。 の限りではないが、有能な士とあれば、篤く養い、賢人とあれ 或る年の戦いに、黄祖敵中にかこまれて、すんでに一命も危いば礼を重うしてお迎えある明君なれば、ともあれ御前にお取次 ぎ申すであろうと、矢を折って、誓を示したところ、甘寧はさ ところを、自分がただ一人で、救い出してきた事などもあった げやく が、曾って、その恩賞すらなく、飽くまで、下役の端に飼われらに江上の船から数百人の手下を陸へ呼びあげてーー否やお沙 防ゅうしゅう ているに過ぎないという有様でした。ーーー然るに又、ここに黄汰の下るまで慎んで待ち居りますとーー唯今、竜湫の岸辺に 祖の臣で蘇飛という人がある。この人、それがしの心事にふか屯して、さし控えておりまする』 かんねい く同情して、或る時、黄祖に向い、それとなく、甘寧をもっと 登用されては如何にとーー推挙してくれたことがあったので かんねい す。すると黄祖の云うには、ーー・甘寧はもと江上の水賊である。 『時なるかな ! 』と、孫権は手を打ってよろこんだ。 なんで強盗を幗幕に用うべき。飼い置いて猛獣の代りに使って『いま、黄祖を討つ計を議するところへ、甘寧が数百人を率い おけば一番よろしい そう申したので、蘇飛はいよいよそて、わが領土へ亡命して来たのは、これ潮潮ちて江岸の草の戦 ぐにも似たりーーー・というべきか。天の時が来たのだ。黄祖を亡 れがしを憐れみ、一夜配宴の折、右の事情を打明けてーーー・人生 鈴いくばくぞや . 、早く他国へ去って、如かじ、良主を他に求め給ばす前兆だ。すぐ、甘寧を呼び寄せい』 え。ここにいては、足下よ 。いかに忠勤をぬきん出ても、前科の こう孫権の命をうけ、呂蒙も大いに面目をほどこして、直ち とりただ たむろ みのうえ あつやしな しおみ 243
さわ 躁いでいるような気がする。そんな所へすえられて、わしを肴『うぬっ』 かっ 巻に飲まれて堪るものか』 黄祖は赫として剣を抜くやいなや、禰衡を真二つに斬り下げ の『否、否。 : : : きようはそんな儀式張らないで二人きりで飲りて、その満身へ、返り血をあびながら発狂したように呶鳴 0 て 道ましよう。あとでお越し下さい』 いたとい , っことである。 臣 黄祖は去「たが、しばらくすると、小姓の一童子をよこし『片づけろ片づけろ。この死体をはやく埋めてしまえ。此奴は て、禰衡を誘った。 死んでもまだ口を , つごかしている ! 』 なんえん むしろ 行ってみると、城の南苑に、一枚の莚と一壺の酒をおいたき ーー以上。 りで、黄祖は待っていた。 ありのままな頑末を聞いて、劉表も哀れを催したか、その かばね おうむしゅう 『これま、 後、家臣をやって、禰衡の屍を移し、鸚鵡州の河畔にあっく葬 らせた。 ロの悪い彌衡も初めて気に入ったらしく、莚の上に坐った。 たい・一う そうそう 側こは、一幹の巨松が、大江の風をうけて、颯々と天声の詩禰衡の死はまた、必然的に、曹操と劉表との外交交渉の方に を奏でていた。壺酒はたちまち空になって、又一壺、又一壺とも、絶息を告げた。 童子に運ばせた。 曹操は、禰衡の死を聞いた時、こういって苦笑したそうであ 『学人に問うが : ・ : 』と、黄祖もだいぶ酩酊して、唇を舐めある。 げながら云い出した。 『そうか、とうとう彼も自分の舌剣で自分を刺し殺してしまっ 『学人には : : だいぶ長いこと、都に居ったそうだが、都では たか。彼のみではない。学問にじて智者ぶる人間にはままあ 今、誰と誰とを、真の英雄と思われるな ? 』 る例だ。 そういう意味で彼の死も、鴉が焼け死んだぐらい 禰衡は、言下に の意味はある』 - 一ども - - うかん ! よ よニノとくそ 『大人では孔文挙、小児なら楊徳祖』と、答えた。 黄祖は、すこし巻舌で、 『じゃあ、吾輩はどうだ。この黄祖は』と、片肱を張って、自 分を前へ押し出した。 禰衡はからからと笑って、 『君か。君はまあ、辻堂の中の神様だろう』 『辻堂の神様 ? それは一体どういうわけだ』 『土民の祭をうけても、なんの霊験もないということさ』 『よア ) ツ。 十 / ーを もう一遍云ッてみろ』 くもっ でくにんよう 『あははは。怒ったのか。 ーーお供物泥棒の木偶人形が』 おとな さっさっ み - かな りゅうひょう からす
りゅうしゅう に、竜湫へ早馬を引っ返して行った。 ばる事のみ知って、上下、心から服しておりませぬ』 巻日ならすして、甘寧は、呉衾の城に伴われて来た。 『兵糧武具の備えはどうか』 の孫権は、群臣をしたがえて彼を見た。 『軍備は充実していますが、活用を知らず、法伍の整えなく、 りよもう 壁『かねて、其方の名は承知しておる。また、出国の事情も呂蒙これを攻めれば、立ち所に崩壊するだろうと思います。ーー・・・君 こうか そかん から聞いた。この上は、ただわが呉のために、黄祖を破るの計 いま、勢いに乗って、江夏、襄陽を衝き、楚関にまで兵をおす 赤 むずか は如何に、それを訊きたい。忌憚なく申してみよ』 すめあれば、やがて、巴蜀を図ることも難しくはございますま 孫権はまず云った。 し』 拝礼して甘寧は答える。 『よく申した。まことに金玉の論である。この機を逸してはな しやしよく きょ・つ ! う 『漢室の社稷は今いよいよ危く、曹操の驕暴は、日と共に募りるまい』 さんだっやくい ゆきます。おそらく簒奪の逆意をあらわに示す日も遠くありま孫権はすぐ周瑜に向って、兵船の準備をいいつけた。 すまい』 張昭は、憂えて、 『荊州は呉と隣接しておる。荊州の内情をふかく語ってみよ』 『いま、兵を起し給わば、おそらく国中の虚にのって、乱が生 こうせん 『江川の流れは山陵を縫い、攻守の備えに欠くるなく、地味はじるでしよう。せめて母公の喪のおすみになる迄、国内の充実 ひら ゆたか 拓けて、民は豊です。 : しかしこの絶好な国がらにも、ただ にお、いを傾けられてはどうですか』と、敢て苦言した。 ぜいじゃく け、も・れ さえぎ 一つ、脆弱な短所があります。国王劉表の門の不和と、宿老甘寧は、遮って、 しようか の不一致です』 『それ故に、国家は今、蕭何の任を、御辺に附与するのであ 『劉表は、温良博学な風をそなえ、よく人材を養い、文化を愛る。乱を憂えられるなら、よく国を守って、後事におっくしあ 育し、ために天下の賢才はみな彼の地に集まると、世上では申るようねがいたい』 しているが 『すでにわが、いは決った。張昭も他事をいうな。一同して、 さかずきあ 『正にその通りです。けれどそれは専ら劉表の壮年時代の定評盃を挙げよう』 で、晩年、気は老い、身に病の多くなるにつれ、彼の長所は、 孫権は、一言を以て、衆議を抑えた。 彼の短所となり、優柔不断、外に大志なく、内に衰え、虚に乗そして、また甘寧にむかい、 ちゃくししよし あんとう じて、閨門のあらそいを繞り、嫡子庶子のあいだに暗闘がある『其の方をさし向けて、黄祖を討つ事は、例えばこの酒の如し など、ーー、漸く亡兆の蔽い得ないものが見えだしました。討つじゃ。一気に呑みほしてしまうがよい。もし黄祖を破ったら、 なら今です』 その功は、汝のものであるぞ』 『その荊州に入るには』 と、盃になみなみと酒を湛えて与えた。 り・よも、フ しゅうゆだいととく 『もちろん江夏の黄祖を破るのを前提とします。黄祖は怖るる かくて、周瑜を大都督に任じ、呂蒙を先手の大将となし、董 しゅうかんわい に足りません。彼もはや老齢で、時務には昏昧し、貨利をむさ襲、甘寧を両翼の副将として、呉軍十万は、長江を溯って江夏 けいもん さたん そうそう こんまい か ととの とう こうか 2 イ 4
『射止めた ! 敵将黄祖を討った ! 』 ていふ と、どなりながら駆け寄って、程普とともに、その首を挙げ 江夏占領の後、二人は揃って黄祖の首を孫権の前に献じた。 孫権は、首を地に抛って、 かたみ、は - 一 そんけん そひ 『わが父、孫堅を殺した仇一匣に容れて、本国へ送れ。蘇飛の 首と二つそろえて、父の墳墓を祭るであろう』と、罵った。 凱旋の直後、孫権は父兄の墳墓へ詣って、こんどの勝軍を報 諸軍には、恩賞をわかち、彼も本国へひき揚げることになっ 告した。 たが、その際、孫権は、 そして功臣と共に、その後で宴を張っていると、 と 『甘寧の功は大きい。都尉に封じてやろう』と云い、また江夏『折入って、お願いがあります』と、甘寧が、彼の足もとに、 ひざますいた。 の城へ兵若干をのこして、守備にあてようと諮った。 すると、張昭が、『それは、策を得たものではありません』 『改まって、何だ ? 』と、孫権が訊くと、 と、再考を促して、 『てまえの寸功に恩賞を賜わる代りとして、蘇飛の一命をお助 けください 『この小城一つ保守するため、兵をのこしておくと、後々ま もし、以前に、蘇飛がてまえを助けてくれなかっ で、固執せねばならなくなります。しかし長くは維持できませたら、今日、てまえの功はおろか一命もなかったところです』 りゅうひょう ん。 むしろ思い切りよく捨てて帰れば劉表がかならず、 と頓首して、訴えた。 兵を入れて、黄祖の仕返しを計って来ましよう。それを又討っ もし蘇飛がその仁をしていなかったら、 孫権も考えた。 けいしゅう て、敵の雪崩れに乗じて、荊州まで攻め入れば、荊州に入るに 今日の呉の大勝もなかったわけだと。 も入り易く、この辺の地勢や要害は味方の経験ずみですから二 しかし、彼は首を振った。 度でも三度でも、破るに難い事はありますまい』 『蘇飛を助けたら、蘇飛はまた逃げて、呉へ仇をするだろう』 りゅうひょう と、江夏を囮として劉表を誘うという一計を案出して語っ 『いえ、決して、そんなことはさせません。この甘寧の首に誓 『きっとか』 『至極、妙だ』 せいげん 子 『どんな誓言でも立てさせます』 孫権も、賛成して、占領地はすべて放棄するに決し、総軍、 世凱歌を兵船に盛って、きれいに呉の本国へ還ってしまった。 『では : : : 汝に免じて』と、ついに蘇飛の一命はゆるすと云っ とさてまた。 りよもう かんしやほう それに従「て、甘寧の手引きした呂蒙にも、この廉で恩賞が 蜂檻車に抛り込まれて、さきに呉へ護送されていた黄祖の臣 たいしようそひ おうやちゅうろうしようとな ひとづ あった。 大将蘇飛は、呉の総軍が、凱旋して来たと人伝てに聞い 以後横野中郎将と称うべしという沙汰である。 と おとり なげう さそ はか て、『そうだ、以前、自分が甘寧を助けてやったこともあるから ・ : 甘寧に頼んでみたら、或は助命の策を講じてくれるかもし きゅうぎ れない』と、ふと旧誼を思い出し、書面を書いて、ひそかにそ の手渡しを人に頼んだ。 じん かど かちいくさ
ません。お用いあるとないとは、あなたのお考え次第のことで呼出して、 、を、み、つ す』と、陳弁これ努めた。 『どういう経緯で殺したのか、またあの奇儒が、どんな死方を 力いりよう いわけ したか ? 』 侍臣の測良も、劉表のかたわらにあって共々、彼の言訳をた すけて、 と、半ば、曹操に対するおそれと、半ば、好奇心をもって自 『韓嵩の云っていることは、少しも詭弁ではありません。彼は身訊ねた。 すつば 都へ立つ前にも、ロを酢くして、今のとおりなことを申述べて いました。ですから、都へ行った為、にわかに豹変したものと てんまっ も、二心あるものとも云えませぬ。 それに、彼はすでに 江夏の使は、潁末を仔細にこう語り出した。 朝廷から恩爵をうけて帰りましたから、いま直ぐに御成敗ある その話に依ると、 ひら 時は、朝廷に対しても、おそれある事、平にここは御寛大にさ 禰衡は江夏へ行ってからも相変らずで、人もなげに振舞って しおかれますように』と懇願した。 いたが、或時、城主の黄祖が、彼が欠伸しているのを見て、 かいりよう 劉表は、まだ甚だ釈然としない気色であったが、良の事理『学人。そんなに退屈か』と、皮肉に訊ねた。 明白なことばに、否むよしもなく、 彌衡は、打ちうなずいて、 『目通りはかなわん。死罪だけは許しておくが、獄に下げて、 『なにしろ話し相手というものがないからな』 かたく繋いでおけい』と、命じた。 『城内には、それがしも居り、多くの将兵もいるのに、なんで 韓嵩は、武士たちの手に、引っ立てられながら、 『都へ行けばこうなる、荊州へ帰ればかくの如くなると、分り 『ところが一人として、語るに足る者はおらん。都は蛆虫の壺 きっておりながら、遂に、自分の思っていた通りに自分を持っ だし、荊州は蠅のかたまりだし、江夏は蟻の穴みたいなもの てきてしまった。不信の末はかならず非業に終るし、信ならんだ』 とすれば、又こうなる。世に選ぶ道というものは難し、 『するとそれがしも』 『そんなもんじやろ。何しても退屈至極だ。蝶々や鳥と語って さたん と、大きく嗟嘆をもらして行った。 いるしかない』 彼の姿が消えると、すぐ入れちがし冫 『君子は退屈を知らずとか聞いておるが』 、、こ、江夏から人が来て、 ねい - 一う 『賓客の禰衡が、とうとう黄祖のために殺されました』 『嘘を云え。退屈を知らん奴は、神経衰弱にかかっておる証拠 という耳新しい事実を伝えて来た。 だ。ほんとうに健康なら退屈を感じるのが自然である』 『なに、奇舌学人が : : : 黄祖の手にかかって ? 』 『では一夕、宴をもうけて、学人の退屈をおなぐさめいたそう』 しゅちにくりん 鸚予期していたことではあるが、そう聞くと、みな愕然とした『酒宴は真平だ。貴公等の眼やロには、酒池肉林が馳走に見え ごみため 色を顔にたたえた。劉表は、さっそく江夏から来た者を面前にるか知らんが、わしの眼から見るとまるで芥溜を囲んで野大が ひ′一う あくび
げんとくしんや さわ 玄徳は新野にあって、すでに孔明を迎え、彼も将来の計にた 『黄祖は、自ら滅びたのでしよう。平常心の躁がしい大将でし いして、準備おさおさ怠りない時であった。 たから、いっかこの事あるべきです』 はては。一大事があるといって、荊州から、迎えの急使『呉を討たねばならんと思うが : が見えた。行くがよいか行かぬがよいか ? 』 『お国が南下の姿勢をとると、北方の曹操が、すぐ虚にのつ りゅうひょう その日、玄徳は、劉表の書面を手にすると、頻りに考えこて、攻め入りましよう』 んでいた。 : そこが難しい ・ : 自分も近ごろは、老齢に入っ 孔明が、すぐ明らかな判断を彼に与えた。 て、しかも多病。いかんせん、この難局に当って、あれこれ苦 かんそうぞく りゆ、つけ 『御出向きなさい 恐らく、呉に敗れた黄祖の寇を討った慮すると、昏迷してしまう。 : : : 御辺は、漢の宗族、劉家の同 な めの御評議でしよう』 族。ひとつわしに代って、国事を治め、わしの亡いあとは、こ けいしゅうつ 『劉表に対面した節は、どういう態度をとっていたがよいだろの荊州を継いではくれまいか』 、つ・カ』 『おひきうけ出来ません。この大国、またこの難局、どうして だんけい ひさいけんとく 『それとなく、襄陽の会や、檀渓の難の事をお話しあって、も菲才玄徳ごときに、任を負うて立てましよう』 ・一うめし かたわ し劉表が、呉の討手を君へお頼みあっても、かならずお引受け 孔明は傍らにあって、しきりと玄徳に眼くばせしたが、玄徳 にならないことです』 には、通じないものか、 おもむ 張飛、孔明などを具して、玄徳はやがて、荊州の城へ赴い 『そんな気の弱いことを仰せられす、肉体の御健康に努め、心 をふるい起して、国治のため、更に、良策をお立て遊ばすよう 供の兵五百と張飛を、城外に待たせておき、玄徳は孔明とふに』 たりきりで城へ登った。 とのみ云って、やがて、城下の旅館に退ってしまった。あと そして、劉表の階下に、拝をすると、劉表は堂に迎えて、すで、孔明が云った。 ぐ自分の方から、 『なぜお引受けにならなかったのですか』 『先ごろは襄陽の会で、貴公に不慮の難儀をかけて申しわけな 『恩をうけた人の危いのを見て、それを自分の歓びにはできな さいぼうんざい 、。蔡瑁を斬罪に処して、お詫びを示そうとぞんじたが、当人い』 も諸人も慚愧して嘆くので心ならずもゆるしておいた。ど 『ーー。・でも、国を奪うわけではありますまいに』 子 あの事は水にながして忘れてもらいたい』と、云った。 『譲られるにしても、恩人の不幸は不幸。自分にはあきらかな 世玄徳は、微笑して、 幸 : 玄徳には忍びきれぬ』 み、いしようぐん と『なんの、あの事は、蔡将軍の仕業ではありません。恐らく末孔明は、そっと嘆じて、 しようにんばら つぶや 『なるほど、あなたは仁君でいらっしやる』と、是非なげに呟 蜂輩の小人輩がなした企みでしよう。私はもう忘れております』 『ときに、江夏の敗れ、黄祖の戦死を、お聞き及びか』 ざんき じようよう ・一うそ けいしゅう しき あだ まっ 0 0 こんめい そうそう きょ 2 イ 9
み、と するとたちまち、こういう歓宴の和気を破って、 主君から諭されると、凌統は剣を置いて、床に俯伏し、 巻『おのれツ、動くな』 『わかりました。 : けれど、お察し下さい。幼少から君の御 のと怒号しながら、剣を払って、席の一方から甘寧へ跳びかか恩を受けたことも忘れはしませんが : : : 父を奪われた悲嘆の子 壁ってきた者がある。 の胸を。またその殺した人間を、眼の前に見ている胸中を』 頭を叩き、額から血をながして、凌統は慟哭してやまなかっ 赤『あっ、何をするかっ』 叱咤しつつ、甘寧も仰天して、前なる卓を取るやいな、さっ そく相手の剣を受けて、立ち向った。 『予にまかせろ』 め・よ、つとう 『ひかえろ ! 凌統っ』 孫権は、諸将と共に、彼をなぐさめるに骨を折った。 いとま ・一うか 急場なので、左右に命じている遑もない。孫権自身、狼藉者統はことしまだ二十一の若年ながら、父に従って江夏へ赴いた ひととなり をうしろから抱きとめて叱りつけた。 初陣以来、その勇名は赫々たるものがある。その為人を、孫権 一ぐんよこう りようとうあざな ・一うせさ この乱暴者は、呉郡余抗の人で、凌統字を公績という青年も愛で惜しむのであった。 りようそう じようれっとい 去ぬる建安八年の戦いに、父の凌操は、黄祖を攻めに行っ 凌統には、承烈都尉の封を与え、甘寧には兵船百隻に、江兵 か - う て、大功をたてたが、その頃まだ黄祖の手についていたこの甘五千人をあずけ、夏ロの守りに赴かせた。 寧のために、口惜しくも、彼の父は射殺されていた。 凌統の宿怨を、自然に忘れさせるためである。 ういじん そのとき凌統は、まだ十五歳の初陣だったが、いっかはその けつるい の 怨みをすすごうものと、以来悲胆をなだめ、血涙を嚥み、日ご ろ胸に誓っていたものである。 呉の国家は、日ましに勢いを加えてゆく。 りゅうしよう 彼の心事を聞いて、 南方の天、隆昌の気が漲っていた。 じよう 『そちの狼藉を咎めまい。孝子の情に免じて、ここの無礼はゆ いま、呉の国力が、もっとも力を入れているのは、水軍の編 るしおく。 然し家中一藩、ひとっ主をいただく者は、すべ成であった。 て兄弟も同様ではないか。甘寧がむかしそちの父を討ったの 造船術も、ここ急激に、進歩を示した。 み、かん は、当時仕えていた主君に対して忠勤を尽したことにほかなら大船の建造は旺だった。それをどんどん鄙陽湖にあつめ、周 。今、黄祖は亡び、甘寧は、呉に服して、家中の端に加わ瑜が水軍大都督となって、猛演習をつづけている。 あんじよ る以上ーー・・なんで旧怨をさしはさむ理由があろう。そちの孝心孫権自身もまた、それに晏如としてはいなか「た。叔父の しえんしゅうじゃく 物一いそうぐんこうせいしようきゅうこう は感じ入るが、私怨に執着するは、孝のみ知って、忠の大道羸に呉会を守らせて、飜陽湖に近い柴桑郡 ( 江西省・九江西南 ) を知らぬものだ。 : この孫権に免じて、一切のうらみは忘れにまで営をすすめていた。 てくれい』 その頃。 、、こっこ 0 とが みなぎ どう - 一く ゆか うつぶ すいぐん おもむ - 一うへい 2 イ 8
翌九年の冬。 たんようたいしゅ そんけんおとうとそんよく 孫権の弟、孫翊は、丹陽の太守となって、任地へ赴いた。 そんよく なにしろ、まだ若い上に、孫翊の性格は、短気で激越だっ た。おまけに非常な大酒家で、平常、何か気に入らない事があ めんば ると、部下の役人であろうと士卒であろうと、すぐ面罵して鞭 打っ癖があった。 や 『殺ってしまお、つ』 『貴様がその決意ならば、俺も腕をかす』 らん たんよう この戦では、初め江上の船合戦で、呉軍のはうが、絶対的な丹陽の都督に、譌覧という者がある。同じ怨みを抱く郡丞の たいいん 優勢を示していたが、将士共に 戴員と、ついにこういう肚を合わせ、ひそかに相手の出入を窺 て - : っそ っていた。 『黄祖の首は、もう掌のうちのもの』 そんよく と、余りに敵を見くびりすぎた結果、陸戦に移ってから、大しかし、孫翊は、若手ながら大剛の傑物である。つねに剣を がんき 敗を招いてしまった。 佩いて、眼気に隙も見えない為、むなしく機を過していた。 s ・よ、っそう いたで そんけん もっとも大きな傷手は、孫権の大将凌操という剛勇な将軍そこで二人は、一策を構え、呉主孫権に上申して、附近の山 きかかんねい あた が、深入して、敵の包囲に遭い、黄祖の麾下甘寧の矢に中って賊を討伐したい由を願った。 らん へんこう すぐ、許しが出たので、覧はひそかに、孫翊の大将辺洪と 戦死したことだった。 そそう いう者を同志に抱きこんで、県令や諸将に、評議の招きを発し 為に、士気は沮喪し、呉軍は潰走を余儀なくされたが、この た。評議のあとは、酒宴ということになっている。 時、ひとり呉国の武士のために、万丈の気を吐いた若者があっ 孫翊も、もちろん欠かせない会合であるから、時刻が来る S ・ようとう しようぐんりようそう と、身支度して、 それは将軍凌操の子凌統で、まだ十五歳の年少だったが、 『じゃあ、行って来るそ』と、妻の室へ声をかけた。 父が、乱軍の中に射仆されたと聞くや、ただ一名、敵中へ取っ じよし かばね 彼の妻は、徐氏という。 て返し、父の屍をたずねて馳せ返って来た。 呉には美人が多いが、その中でも、容顔世に超えて、麗名の 孫権は、逸早く トをム月 熱『この軍は不利』と、見たので、思いきりよく本国へ引揚げて高か 0 た女性である。そして、幼少から易学を好み、 じゃっかんりようとう くした。 情しまったが、弱冠凌統の名は、一躍味方のうちに知れ渡った のので、 この日も、良人の出るまえに、独り易を立てていたが、 『どうしたのでしよう。今日に限って、不吉な卦が出ました。 『まるで、凌統を有名にするために、戦いに行ったようなもの 呉 なんとか口実をもうけて、御出席は、お見合わせ遊ばして下さ だ』と、時の人々は云った。 そのうちに。 建安八年の十一月ごろ。 - 一うか けいしゅうはいか 孫権は、出征の要に迫った。荊州の配下、江夏 ( 湖北省・武昌 ) の城にある黄祖を攻めるためだった。 ちょう - 一う 兵船をそろえ、兵を満載して、呉軍は長江を溯ってゆく。 その軍容はまさに、呉にのみ見られる壮観であった。 ) 0 いたお ととく すき たいごう そんよく げきえっ うらない くんじよう 239
そんよく 冬十月、孫権の母たる呉夫人が大病にかかって、 してしまい、三男の孫翊も先頃横死してしもうた。・ : ・ : 残って 巻『こんどは、、、 とうも ? 』と、憂えられた。 いるのは、そなたと、末の妺のふたりだけじゃ、 : : : 権よ。あ の呉夫人自身も、それを自覚したものとみえる。危篤の室へ、 のひとりの妹も、よく可愛がってやっておくれ。 ・ : よい婿を ちょうしようしゅうゆ とっ たが えらんで嫁がせてくださいよ。 壁張昭や周瑜などの重臣を招いて遺言した。 : もし、母のことばを違えた としつき きゅうせんした 『わが子の孫権は、呉の基業をうけてからまだ歳月も浅く年齢ら、九泉の下で、親子の対面はかないませんぞ』 赤 ちょうしょ・つしゅうゆ こっぜん も若い。張昭と周瑜のふたりは、、、 とうか師傅の心をもって、 云い終ると、忽然、息をひきとった。 あわ おえっ 孫権を教えてください。そのほかの諸臣も、心を協せて、呉主枕頭をめぐる人々の嗚咽の声が外まで流れた。 たす - : つりよ - っ きん そん 扶け、かならず国を失わぬように励まして賜もれ。江夏の黄高陵の地、父の墓のかたわらに、棺槨衣衾の美を供えて、孫 つま と けん まつり 祖は、むかしわが夫の孫堅を滅した家の敵ですから、きっと寃権はあっく葬った。歌舞音曲の停まること月余、ただ祭祠の鈴 おん を報じなければなりませぬ : : : 』 音と鳥の啼く音ばかりであった。 また、孫権にむかっては、 『そなたには、そなただけの長所もあるが、短所もある。お父 そんけん そんさく も 上の孫堅、兄君の孫策、いずれも寡兵をひっさげて、戦乱の中喪の冬はすぎて、歳は建安十三年に入った。 ふちん に起ち、千辛万苦の浮沈をつぶさにお舐め遊ばして、始めて、 江南の春は芽ぐみ、朗天は日々つづく。 呉の基業をおひらきなされたものじゃが、そなたのみは、まっ 若い呉主孫権は、早くも衆臣をあつめて、 たく呉城の楽園に生れて楽園に育ち、今、三代の世を受け継い 『黄祖を伐とうではないか』と評議にかけた。 きようまん で君臨しておられる。 ・ : ゅめ、驕慢に走り、父兄の御苦労を張昭は云う。 きねんめぐ わすれてはなりませんそ』 『まだ母公の忌年も周って来ないうちに、兵を動かすのは如何 『御安、いください』 なものでしよう』 そんけん おどろ 孫権は、老母の手を、かろく握って、その細さに愕いこ。 周瑜はそれに対して、 ちょうしよう しゅうゆ かかわ 『ーーーそれから張昭や、周瑜などは、良い臣ですから、呉の『黄祖を伐てとは、母君の御遺言の一つであった。何で喪に拘 たから 宝そと思い、平常、教えを聞くがよい : また、わたくしのることがあろう』と酬し 妹も、後堂にいる。いまから後は、そなたの母として、仕えな いずれを採るか、孫権はまだ決しかねていた。 め・よもう ければいけません』 ところへ、都尉呂蒙が来て、一事件を披露した。 りゅうしゅうわたし こうか 『それがし童湫の渡口を警備しておりますと、上流江夏の方 『わたくしは、幼少のとき、父母に早くわかれ、弟の呉景と、 から、一艘の舟が漂い来って、約十名ほどの江賊が、岸へ上っ せんとう な 銭塘へ移って暮しているうち、亡き夫の孫堅に嫁したのでして参りました』 た。そして四人の子を生んだ。 : けれど、長男の孫策も若死呂蒙はまず、こう順を追って、次のように話したのである。 つま あだ と かんかくい む - 一