女 - みる会図書館


検索対象: 宮本武蔵(一) (吉川英治)
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1. 宮本武蔵(一) (吉川英治)

であるお通ではないか。 くれこの繩目を断ってくれ ! 二度までも、そう叫んだではあ 巻武蔵は、自分の顔に、苦い気持が滲みでるのをどうしようも りませんか』 理をもって責めてはいるが、涙でいつばいな彼女の眼は、た の 『連れて行けとは、何処へ』 だ情熱のたぎりであった。 と、ぶつきら棒にいっこ。 武蔵は、理においても、返す一一 = ロ葉がなかったし、情熱におい 地 『あなたの行く所へ』 ては、なおさら焦き立てられて、自分の眼まで熱いものになっ てしまった。 『わしのゆく先は、艱苦の道だ、遊びに遍路するのではない』 『わかっております、あなたの御修業はお妨げしません、どん『 : : : お離し : : : 昼間だ、 往来の人が振り向いてゆくじゃない な苦しみでもします』 『女づれの武者修業があろうか。わらいぐさだ、袖をお離し』 お通は素直に袂をはなした。そして橋の欄干へ俯ッ伏すと、 鬢をふるわせてしゆくしゆくと泣き出した。 お通は、よけいに強く、彼の袂を握って、 『それでは、あなたは、私を騙したのですか』 『 : : : すみません、つい、はしたないことをいいました。恩着 『いつ、そなたを騙したか』 せがましい今のことば、忘れてください』 『お通どの』 『中山越えの峠のうえで、約束したではありませんか』 『む : 。あの時は、うつつだった。自分からいったのではな欄干の顔をさしのそいて、 く、そなたの一一 = ロ葉に、気が急くまま、うんと、答えただけであ『実は、わしは今日まで、九百幾十日の間ーー - ・・・そなたがここで わしを待っていた間ーーあの白鷺城の天守閣のうえに、陽の目 も見すに籠っていたのだ』 しいえ ! そうはいわせません』 闘うように、お通は迫って、武蔵の体を、花田橋の欄干へ押『伺っておりました』 しつけた。 『え、知っていた ? 』 ました。 『千年杉の上で、私があなたの繩目を切る時にもいし 『はい、沢庵さんから聞いていましたから』 一緒に逃げてくれますかと』 『じゃあ、あの御坊、お通どのへは、何もかも話していたの 〔せ、おい、人が見る』 カ』 『見たって、かまいません。 その時、私の救いをうけてく 『三日月茶屋の下の竹谷で、私が気を失っていたところを、救 れますかといったら、あなたは歓喜の声をあげ、オオ、断ってってくれたのも、沢庵さんでした。そこの土産物屋へ奉公口を びん

2. 宮本武蔵(一) (吉川英治)

つうあま お通は、眼をしばたたいて、 『こらつ、お通阿女、なにをするか。この家で、茶をもらおう ん 巻『お吟様、おふたりとも、死んだという報らせが来たのでござとよ、つこ・、、 。しオカ水をかけてくれとは誰もいわぬぞ』 います・か』 お通は、泣き笑いに笑ってしまった。 の しいえ、でも : : : 死んだとしか思えないではございません卩 - ーーすみません、沢庵さん、ごめんなさいませ』 、、私は、もうあきらめてしまいました。関ヶ原の戦のあった 謝まったり、機嫌をとったり、また、そこへ望みの茶を汲ん 地 九月十五日を命日と思っています』 で与えたりして、やがて奥へもどって来ると、 『縁起でもない』 『誰ですか、あの人は』 お通は、つよく顔を振って、 と、お吟は、縁のほうを覗いて、眼をみはっていた。 『あの二人が、死ぬものですか、今にきっと、帰って来ます『お寺に泊っている若い雲水さんです。ほら、いっか、あなた が来た時に、本堂の陽あたりで、頬づえをして寝そべっていた 『あなたは、又八さんの夢を見る ? でしよう。その時、わたしが、何をしているんですかと訊ねる しらみすもう 『え、なんども』 と、半風子に角力をとらせているんだと答えた汚い坊さんがあ 『じゃあ、やつばり死んでいるのだ、私も弟の夢ばかり見るか ったじゃありませんか』 『あ : : : あの人』 しゅうほう 『嫌ですよ、そんなことをいっては。こんなもの、不吉だか 『え、宗彭沢庵さん』 ら、がしてしま、つ』 『変り者ですね』 お通の眼は、すぐ涙をもった。起って行って、仏壇の燈明を『大変り』 - 一ろも ふき消してしまう。それでもまだ忌わしさが晴れないように、 『法衣でもなし、袈裟でもなし、何を着ているんです、いった し』 捧げてある花と水の器を両手に持って、次の部屋の縁先へ、そ の水をさっとこばすと、縁の端に腰をかけていた沢庵が 『風呂敷』 『あ、冷たい』 まだ若いのでしよう』 と、飛びあがった。 『三十一ですって。 けれど、和尚さまに訊くと、あれで も、とても偉い人なんですとさ』 五 『あれでもなんていうものではありません、人はどこが偉し 着ている風呂敷で、沢庵は、顔や頭のしすくをこすりなが か、見ただけでは分りませんからね』 いずし しやみ 『低馬の出石村の生れで十歳で沙弥になり、十四歳で臨流の勝 ら、 うつわ たくあん りんざ、

3. 宮本武蔵(一) (吉川英治)

武蔵はかってどこやらで、そんな論議をしているのを、そら と反対する者は、 ( ばかなことをいっては困る。武芸者が、そんな児戯に類した耳に聞いたことはあったが、勿論、彼も、そんな小技は、武道 と認めない一人であったし、実際にそういうことをする人間が もののあるなしを論じるだけでも恥かしい ) あろうとも思われなかった。 と、兵法の正道論に拠って、 世間のどんなつまらない雑談のうちにも、聞く者の聞き方に ( 漢土から来た織女や縫工女が、そんなことを遊戯にやったか よっては、何か他日に役立つものが必すあるものだということ どうかは知らんが、遊戯はどこまでも遊戯で、武術ではない。 だ - ス、 第一、人間のロ中には、唾液というものがあって、熱い、冷たを武蔵は今、痛切に知った。 眼はしきりと痛むが、幸に、ひとみを刺されたのではないら 酢い、辛い、というような刺激は程よく飽和するが、針の しい。眼がしらへ寄った白眼の一部がすきすき熱を持って涙を 先を、痛くないように含んでいることはできまい ) にじみ出すのだった。 すると、一方は、 ( ところが、それができるのだ。もちろん、修練の功だが、何武蔵は、身体をなで廻した。 本も唾液につつんでロにふくみ、それを、微妙な息と舌の先涙を拭く布を裂こうとするのであったが、帯も裂けず、袂も 裂けす : : : 何を裂いたらと手が迷っていた。 で、敵のひとみへ吹くことができる ) すると。 と主張する。 うしろで誰か、びゆっと絹を裂く音をさせた者がある。振向 それに対して、反対者は、よしんば出来たところで、針のカ 第か くと、一人の女性が、彼の様子を見ていたらしく、自分の紅い である、人間の五体のうち、ただ、眼だけが攻撃の焦点ではな しろめ いか、その眼へ針を吹いても、白眼の部分ではなんの効もな下着の袂を一尺ほど歯で裂いて、それを持って彼のそばへ小走 眸の真ン中を刺したら、初めて、敵を肓目にすることが出りに駈けて来たのであった。 来るだろうが、それにしても、致命的なものではない。そんな はんマ′、 婦女子のする小技が、どうして発達するいわれがあろうと反駁 する。 それに答えて、また一方は、 ( だから、一般の武技のように、発達しているとま唯も、 わざ しよい。けれど、そういう秘し技が、今も残っているのは事実 とい , っ こわざ 4 ノ 7

4. 宮本武蔵(一) (吉川英治)

猿 の肉体とばかり自分でも思っていた官能に、急に、熱い血でも 『びつくりしたわさ』 あばら 丹左は、枕元へ寄って来て、彼女の額を拭いてやりながら、注ぎこまれたような膨らみを覚え、自分の肋骨の下にも、肺と 心臓がまだ生きていることをめずらしく思いだした。 『熱のあるせいじやろう、ひどい汗だ : : : 』 『 : : : ふーむ、吉岡清十郎というのは、そのような怪しからぬ : いったでしよ、つ』 『何を : ことをする奴かの』 『いろいろ』 い返しながら、丹左も心のうちで、清十郎という人間を憎 『いろいろって ? 』 朱実は熱ッばい顔をよけいに赧らめて恥じるように、紙蚊帳んでもあきたらぬ人間のように憎んだ。けれど、丹左の老いた ふすま る血を、それほど興奮させているものは義憤ばかりではなかっ の衾を、その顔へ被った。 おか た。ふしぎな嫉妬心のはたらきが、あたかも自分の娘が冒され 『 : : : 朱実、おまえは、心で呪っている男があるのじゃな』 でもしたかのように、彼の肩を怒らせるのだった。 『そんなこと、 しいまして』 朱実にはそれが、たのもしき人にみえ、この人ならもう何を 『ウム。 : どうしたのだ、男に捨てられたのか』 っても安心と思いこんで、 しし ' ん』 死んでしまいた : わたし、死んでしまいたし 『おじさん、 『だまされたのか』 いし ' ん』 彼の膝へ、泣き顔を当ててもがくと、丹左は、あらぬ心地 『わかった』 に、すこし当惑顔にさえなって、 丹左が独り合点すると、朱実は急に身を起して、 『泣くな、泣くな、おまえが心からゆるしたわけではないか : ど、つしたらいいんでしょ , っ』 『おじさん、わ、わたし : ら、おまえの心までは決して、けがされておりはせぬ。女性の 人には話すまいと思って独り悩んでいた住吉での恥かしいこ いのちは、肉体よりは、心のものじやろう。さすれば、貞操と とを、朱実のからだ中の怒りと悲しみは、どうしても、彼女の 口からそれをいわせずにおかないのである。突然、丹左の膝には、心のことだ。体をまかせないまでも、心でほかの男を想う すがりつくと、まだうわ言の続きのように、嗚咽しながらあのとすれば、その瞬間だけでも、女のみさおは穢らわしく汚れた ものになっている』 ことを喋べってしまった。 朱実には、そんな観念的な気やすめに安心はしていられない ころもとお 丹左は熱い息を鼻の穴から洩らした。絶えてひさしい女性のらしく、丹左の衣を透すほど熱い涙をながしぬいて、なお、 ( 死にオし しにおいというものが、彼の鼻にも艮にも沁みる。このごろは、 人間の灰汁というものが抜けきって、寒巌枯木にひとしい余生をいいつづける。 しゃ あか がや 397

5. 宮本武蔵(一) (吉川英治)

した事だのーー住吉からここまで逃げて来た途中であるという失礼とは思いながら、朱実はつい問い返した。 巻事だのーーその程度は打ち明けて、 ひどく荒れている一宇の阿弥陀堂なのである。これが住居と 『わたしもう、死んだって家へ帰らないつもりです。 いうならば、この附近には、堂塔伽藍の空家がすいぶん少くな よしみす の ぶん我慢して来たんですもの。恥をいえば、小さい時には、戦 この辺から黒谷や吉水のあたりは、念仏門発祥の地である の後の死骸から、剥盗りまでさせられた事があるんです』 ので、祖師親鸞の遺跡が多いし、念仏行者の法然房が讃岐へ流 憎い清十郎よりも、さっきの赤壁八十馬より、朱実は、養母されるその前夜は、たしかこの小松谷の御堂とやらにあって、 ! え のお甲が憎くなった。急にその憎さが骨をふるわして来て、随身の諸弟子や帰依の公卿や善男女たちと、わかれの涙をしば られたものである。 又、よよと両手の裡で泣くのだった。 それは承元の昔の春だったが、今夜は、散る花もない冬の 末、 『 : : : 4 わはい。り・』 丹左は先へ御堂の縁へ上って、格子扉を押しあけ、そこから 手招きをしたが朱実はためらって、彼の好意に従ったものか、 ほかへ行って独りで寝場所をさがしたものか、迷っている様子 に見える。 わら、、 、敷物もあるし 「この中は、思いのほか暖いのだ。藁ごさだが それとも、このわしまで、さっきの悪者のように、恐 あみだ ちょうど阿弥陀ケ峰の真下にあたるところで、清水寺の鐘もい人間と、疑っているのか』 近く聞え、歌ノ中山と鳥部ノ山にかこまれて、ここの小さい谷『 : 朱実は顔を横に振った。 間は静かでもあり、またから風の当たる寒さもよほどちがう。 青木丹左が人のよい人間らしいことには、彼女も安心してい その小松谷まで来ると、 のんき かりずまい ここじゃよ、わしの仮住居は、なんと暢気なものだろうるのである。それに年配も五十を越えているし 女がためらっているのは、彼の住居と称するお堂の汚なさと、 あか 青木丹左は、連れて来た朱実をふり顧って、うす髭の生えて彼の衣服や皮膚の垢からにおう不潔さであった。 だが、ほかに泊るところのあてはないし、また、赤壁八 いる上唇を剥いて、にやりと笑う。 十馬にでも見つかればこんどはどんな目にあうか知れないし 『ここですか』 しんらん - 一うしど すまい 、彼

6. 宮本武蔵(一) (吉川英治)

と、漁師たちは、権叔父と朱実と、両方のからだに分れて鴻『なんだ、このくそ婆』 巻尾を押したり、背をたたいたりした。 『死んだ者と、気絶した者とはちがうのだ、活かせるものなら引 朱実は、すぐ息をふき甦した。清十郎は宿舎の者に負わせ活かしてみろ』 の 呟きあって、いつの間にか、皆ちりぢりにそこを去ってしま て、人目から逃げるように旅舎へ帰って行った。 「権叔父よ : : : 権叔父よっ もや 浜べはもう暮れかかる、うす靄の冲に、橙色の雲がわずか お杉隠居は、さっきから権叔父の耳へ顔をつけたきり泣いて にタ明りを流していた婆はまだ思い諦めようとしない。そこ 若い朱実は、蘇生したが、権叔父は老体でもあるし、すこしに火を焚いて、焚火のそはヘ権叔父を抱き寄せ、 酒気もあったので、まったく絶息したものとみえる。いくらお『おういつ、権叔父 : : : 権叔父 : : : 』 波は暗くなった。 杉隠居が呼んでも、ふたたびその眼は開かなかった。 燃しても燃しても、権叔父の体は温かくならなかった。だ 手をつくした漁師たちも、 が、お杉隠居は、まだ不意に権叔父が口をきき出すもののよう 『この老人のほうは駄目だ』 に信じて疑わないらしく、印籠の薬を噛んで唇移しにふくませ と、さじを投げた。 たり、体をかかえて揺すぶったりしながら、 そう聞くと、隠居はもう涙を見せなかった。折角、親切にし 『まいちど、眼を開いて下され、ものをいうてたもい てくれる人々へ、 おなご 『何がだめじゃー 一方の女子が息をふき返したのに、この者れ、どうしたものじゃ、この婆を見捨てて先へ逝くという法が あろうか まだ武蔵も討たすに、お通阿女の成敗も果さぬ ばかり生きぬという法があろうか』 食ッてかかるような権まくで、手を出している者たちを突き 『この婆が活かして見せるわ』 と、必死になって、あらゆる手当を施すのだった。 その一心不乱な様子は、見るも涙ぐましい程であったが、そ こらに居合わす者を、まるで雇人か何ぞのように、やれ押し方 が悪いの、そうしては効がないの、火を焚けの薬を取って来い けんっ のと、権突くと顎の先で使うので、縁もゆかりもない浜の者た ちは腹を立てて、 おち やといにん あま

7. 宮本武蔵(一) (吉川英治)

駄ばらが出たのだろうが、実は此方こそ、吉岡清十郎の高弟、では私も面目が立たないから、最前、やって見ろとおおせられ 巻祇園藤次という者だ。以後、京流吉岡の悪評をいいふらすと、 た芸を、やむなくここで演じてみようと存じます。立ち会って艸 ただはおかんぞ』 ノ、た ) き、い』 の 周りの船客がじろじろ見るので、藤次はそれだけの権威と立 『わしが、何を求めたか』 場とを明らかにして、 『お忘れのはずはない。あなたは、私が周防の錦帯橋の昨で、 『このごろの若い奴は、生意気でいかん』 飛燕を斬って大太刀の修練をしたといったら、それを笑って、 かす つぶやきながら、独り、艫のほうへ歩み去った。 然らば、この船を頻りと掠め飛んでいる海鳥を斬ってみせろと と、黙って美少年もその後について行くのだった。 いわれたではないか』 ( 何かなくては済まないらしいそ ) 『それはいっこ と予感したので、船客たちは、遠方からではあるが、皆、二『海鳥を斬ってお目にかけたら、その一事だけでも、私がまる 人のほうへ首を振向けた。 で嘘ばかりいっている人間でないことがおわかりになろう』 藤次は決して事を好んだわけではない。大坂へ着けば、船着『それは なる ! 』 場にはお甲が待っているかもしれないのだ。女と会う前に、年『ですから、斬ります』 下の者と、喧嘩などをやっては、人目につくし、あとがうるさ 「ふむ』 なかば と半、冷笑して、 そしらぬ顔して、彼は、舷の欄へ肱をかけ、艫舵の下にう 『やせ我慢して、もの笑いになってもつまらんぜ』 ず巻いている青ぐろい瀬を見ていた。 『いや、やります』 『 , にめはー 9. ないが』 美少年は、その背中を軽くたたいた。相当に拗こい性質であ『しからば、立ち会いますかな』 る。だが、感情に激しているような語気ではない、極めて静か 『よし、見届けよ、つ』 なのだ。 藤次が、張をこめていうと、美少年は、二十畳も敷ける艫の 『もし : ・・ : 藤次先生』 まん中にをつて、船板を踏まえ、背に負っている「物干竿」と よそお 知らないふうも装えないので、 いう大太刀のつかへ手をやりながら、 『なんだ』 『藤次先生、藤次先生』 と、 顔を向けると、 し子 / 『あなたは、人中において、私を法螺ふきと申されたが、それ藤次は、その構えを白い眼で見すえながら、何用か、と彼方 ひとなか ふなべり - 一のほ、つ らんひじ レ一もルド ) っ一 0 うみどり ! とり

8. 宮本武蔵(一) (吉川英治)

谷間の壁を見上げるように、この辺はもう早い日蔭になって と、これはこの道での豪の者とみえ、酒のあつらえ方、女たち いる。大坂城の巨大な影がタ空を蔽っているからである。 のあっかいよう、そっがなくて、成程、この裏町はおもしろ 『あれが、薄田の邸だぞ』 濠の水に背を向けて、二人は寒そうに佇んだ。昼間から注ぎ 泊ったことはもちろんである。昼間になっても、飽いたとい わない八十馬たった、お甲の『よもぎの寮』では、いつも日蔭こんでいた酒も、この濠端に立っと一たまりもなく吹き飛ん みずばな で、鼻の先に水洟が凍りつく。 者でいた又八も、多年の鬱憤をここに晴らしたか、 『あの腕木門か』 『、も、つ、。も、つ。酒・はいめ、に』 『いや、その隣の角屋敷』 と遂にかぶとを脱いで、 『ふム : : : 宏壮なものだな』 『帰ろ、つ』 『出世したものさ。三十歳前後の頃には、まだ、薄田兼相など しい出すと、 といっても、世間で知っている奴はなかった、それがいつのま 『晩までつきあい給え』 と、八十馬はうごかない。 赤壁八十馬のことばを、又八はそら耳で聞いていた。疑って 『晩までつきあったらどうするんだ』 すすきたかわすけ いるのではない、 もう彼のことばの端など注意してみる必要を 『今夜、薄田兼相のやしきへ行って兼相と会う約束がしてある そしてこの巨城 それに、そうだ、貴感じないほど信頼し切っていたのだった。 んだ。今から出ても時刻が半端だし : 公の望みももっとよく聞いて置かなければ、先へ行って話もでを取巻いている大小名の門をながめて、 『おれも』 きない』 うつばっ と、鬱勃としてくるものを彼も抑えきれない青年だった。 『禄など、初めからそう望んでも無理だろう』 『いかん、自分からそんな安目を売ってはいかん。とにかく中『じゃあ、今夜ひとつ、兼相に会って、うまく貴公の体を売り こんでみせるからな』 条流の田可を持って、佐々木小次郎ともいわれる侍が、禄はい くらでも、 ノ十馬は、そういって、 しいから、ただ仕官がしたいなどといったら、かえっ ところで、例の金だが』 五百石もくれといっておこうか、自 て先から蔑まれるそ。 と、催促しこ。 信のある侍ほど手当や待遇なども大きく出るのが通例だから 『そう、そう』 な、やせ我慢などせぬがいいのだ』 ふところ かわんちゃく 又八は懐中から、革巾着を取り出した。少しくらいは、と思万 いながらいつのまにかこの革巾着の金も三分の一になってい たたず

9. 宮本武蔵(一) (吉川英治)

熱い息で、朱実が訊く。 窓に見えるお甲の眉は焦だっていた、また病気が起っている 巻城太郎はー ! 城太郎と答えて、彼女の悩ましげな昻ぶりを、 そういうロをたたくまでに誰が大きく育てて来てやっ 変な顔して見上げていた。 たのか 、、こデこ、白し目を投げて の 『じゃあ、城太郎さん、あんたは何日も武蔵さんと一緒にいる 『又八 ? : 又八がどうしたっていうのさ、もうあんな人間 のね』 は、家の者じゃなし、知らないといって措けばいいんじゃない むみ一しイ一ま 『武蔵様たろう』 間がわるくって、戻れないもんだから、そんなお菰の餓 『あ : : : そうそう武蔵様の』 鬼に頼んで何かいってよこしたんだろう。相手にお成りでな 『、つ , ル』 し』 『わたし、あのお方に、ぜひ会いたいのだけれど、どこにお住城太郎、呆っ気にとられ、 まいなの』 『馬鹿にすんない。おら、お菰の子じゃねえぞ』 ス安 1 、こ。 『家かい。家なンかねえや』 ロ . し / 『あら、ど、つして』 お甲は、その城太郎と朱実の話を監視するように、 『武者修行してるんだもの』 「朱実つ、お入りつ』 『仮のお旅宿は』 『 : : : でも、河原にまだ洗い物が残っていますから』 おんな 『奈良の宝蔵院に行って訊けばわかるんだよ』 「後は、下婢におさせ。おまえはお風呂に入って、お化粧をし ~ 示都にいらっしやると思ったら』 ていなければいけないでしよ。また不意に、清十郎様でも来 『来年くるよ。一月迄』 て、そんな姿を見たら、愛想をつかされてしまう』 『ちツ・ 朱実は何かっきつめた思案に迷っているらしかった。 : あんな人。愛想をつかしてくれれば、オオ嬉しい うしろ と、すぐ後のわが家の勝手口の窓から、 『朱実つ、いつまで、何をしているんだえ ! そんなお菰の子 朱実は不平を顔に漲らせて、家の内へ、嫌々駈けこんで しまった。 を相手に油を売ってないで、はやく用を片づけておしまい ! 」 お甲の声であった。 それと共に、お甲の顔もかくれた。ーー城太郎は閉まった窓 朱実は、母に抱いている平常の不満が、こんな時、すぐ言葉を見上げて、 つきに出た。 『けつ。ばばあのくせに、白粉なんかつけやがって、ヘンな 『この子が、又八さんを尋ねて来たから、理を話しているん女 ! 』 じゃありませんか。人を奉公人だと思ってる』 と、悪たれた。 たけぞう いやいやか

10. 宮本武蔵(一) (吉川英治)

門に曳かれた結果と、多情な後家のなぐさみものになって、生はしゃぎ合って、 ぶ・ヘっ 巻涯男がいもなく悶々と陽かげの脳みと侮蔑の下に生きているの 『はう、戸外は春だの』 と、 しったいどっちが幸福であった ? あの人魚を食った 『すぐ、三月ですもの』 あぶら の ようにいつまでも若くて、飽くなき性の脂と白粉と、虚慢ない 『三月には、江尸の徳川将軍家が、御上洛という噂。おまえ達 水やしさを湛えているすべた女に、これからという男の岐れ道をはまた稼げるな』 こ、つき」れて。 『だめ、だめ』 早 - むらい 『畜生 : : : 』 『関東侍は遊ばぬか』 又八は身をふるわした。 『荒つばくて』 『畜生め』 『 : ・・ : お母さん、あれ、阿国歌舞伎の囃子でしよう。・ : ・ : 鐘の ずい 涙が滲む。骨の髄から泣きたくなる。 音が聞えてくる、笛の音も』 なぜ ! なぜ ! おれはあの時宮本村の故郷へ帰らなかった この娘は、そんなことばかりいって、魂はもう芝居 ろうか。お通の胸へ帰らなかったか。 へ飛んでいるのだよ』 あのお通の純な胸へ。 『だって』 宮本村には、おふくろもいる。分家の聟、分家の姉、河原の 『それより、清十郎様のお笠を持っておあげ』 叔父貴ーーみんな温ッたかい ! 『はははは、若先生、おそろいでよう似合いますぞ』 あ【だがわ お通のいる七宝寺の鐘はきようも鳴っているだろう。英田川 『嫌っ。 : 藤次さんは』 の水は今もながれているだろう、河原の花も咲いていよう、鳥朱実が後を振り向くと、お甲は袂の下で、藤次の手に握られ も春を歌っているだろう。 ていた自分の手をあわててもぎはなした。 あしおと 『馬鹿。馬鹿』 その跫音や声は、又八のいる部屋のすぐ側を流れて行っ たのである。 又八は、自分の頭を、自分の拳で撲った。 『この馬鹿ッ』 窓一重の往来を。 又八の怖い眼が、その窓から見送っていた。青い泥を顔へ塗 ぞろそろと連れ立って、今、家を出かけるところらしい ったように、押しつつんでいる嫉妬である。 お甲、朱実、清十郎、藤次。ーーゅうべから流連けの客二人『何だッ』 に母娘二人。 暗い部屋へ、ふたたび、どかっと坐って、 おや・一 たた こぶしなぐ ふるみ、と わか とえ はやし 〃 6