冬かげろう 『今すぐに行きますよ』 そのお通も、すっかり支度はすんでいたのであるが、わすか ねえさま おきふし 笛の先生が急に旅立っと聞いて、子等之館の清女たちは、ひふた月でも起臥をともにして、しかもよい姉様のように親しん でいた人を、旅に奪われるとなると、生徒の巫女たちは、一抹 としく寂しい顔をして、 の哀愁にとらわれて、なかなかお通を離さないのである。 『ほんと ? ・』 『ーーーまた参りますからね、皆さんも御機嫌よう』 『はんと ? ・』 果して、もういちど来る日があるだろうか、お通は、嘘をつ お通の旅姿を取り巻き、 いている気がする。 『もうここへは帰らないんですか』 巫女たちのうちには、すすり泣く者さえあって、一人が、五 と、姉に別れるように悲しんでいう。そこへ城太郎が、 みはし 十鈴川の神橋のたもとまで送って行こうというと、一も二もな 『お通さん、支度出来たよ』 く気が揃って、お通を囲みながら外へ出て来た。 と裏の土塀の外で呶鳴る。 見れば、白丁を脱いで、いつもの裾の短い着物に、腰には木『あれ ? 』 刀を横たえ、荒木田氏富から大事にといわれて、二重三重に包見ると、あんなに急いていた城太郎がいないのである。小さ い唇へ手をかざして、巫女たちが、 んだ例の絵巻物の入っている箱を風呂敷で背中へ斜に背負いこ 『城太さあん』 んでいる。 『城太さあん』 『まあ、早いんですね』 お通は、彼の習性をよく知っているので、そう心配はせず、 お通が窓から答えると、 『きっと焦れったがって、神橋のほうへ、独りで先に行ってし 『日卞い六 お通さんはまだかい、女と歩くとお支度が長い まったんでしよう』 からなあ』 そこの門から内へは、男と名のつく者は一歩も入れない規則『意地悪ッ子ね』 なので、城太郎は暫しの間、加ば 0 こをしながら、霞む神そして一人が彼女の顔をのぞき上げながら、 『あの子、お師匠さまの子 ? 』 路山の方へ欠伸をしていた。 と、訊いた ちょっとの間でも、彼の溪剌とした神経は、すぐ退屈をおば お通は笑えなかった。思わず真面目になって、 えるらしく、じっとしていられないらしい 『何です 0 て、あの城太さんが私の子かというんですか。私は 『ーーーお通さん、まだ ? 』 まだ、初春を迎えて、やっとご十歳を一つ越すんです。そんな 館の内では、 たち こらのたち
坂の下から城太郎の勢のいい声だった。あの元気のいい声の 巻『六、、 ~ 何きましょ , っ』 様子では、さては、武蔵が見つかったものとみえる。 ーーお通 こえうらない 『お洒落はもういいの』 は彼の声占からすぐ察して、 の 『アア、ン」、つてつ』 『そんなことをいうものではありませんよ、城太さん』 きようまで自分というものを、ふと心のうちでなぐさめ、遂 『だって、うれしそうだもの』 『自分だって』 に届いた一心に対して、我へともなく、神へともなく、誇りた 『それは、欣しいさ、欣しいからおれは、お通さんみたいに隠かった。歓びに胸おどらさずにいられなかった。 したりなんかしないさ。 だが、それは、女性の自分だけが前奏している歓びにす 大きな声でいってみようか、おら ア欣しいっ ぎないことをお通はよく知っている。会ったにせよ、武蔵が、 そして、手足を踊らせて、 自分の一心を、どの程度までうけ容れてくれるだろうか。彼女 『でも、もしかして、お師匠様がいなかったらつまらねえな。 は、武蔵に会うよろこびとともに、武蔵に会ってのかなしみに も、胸が傷んで来るのであった。 先へ行って見つけてみるよ、ネ、お通さん』 と駈け出した。 柑子坂を、お通は後から降りて行った。先へ駈けて行った城 太郎以上に、心は坂の下へ飛んでいたが、かえって足が急がな坂の日蔭は土まで氷っていたが、柑子坂を降ると、冬でも蠅 たんば いのである。 、、、、るほど陽あたりのよい立場茶屋が、山ふところの田圃へ向 こんな姿で ) って、牛のわらじゃ、駄菓子などをひさいでいる。城太郎は、 お通は血の出ている自分の足へ眼を落し、土や木の葉によごそこの前に立ってお通を待っていた れている袂をながめた。 お通が、 その袂にたかっていた枯れ葉を取って、指先に弄びながら『武蔵様は』 と、訊ねながら、立場茶屋の前にがやがや群れている人々の 歩いてゆくと、葉に巻かれていた白い綿の中から、不気味な虫 ほうを、じっと見ると、 が出て来て手の甲を這った。 『いないンだよ』 山の中で育ったくせに、お通は虫が嫌いだった。ぎよっとし と、城太郎は、気抜けしたようにい、放って、 て手を振り払った。 『おいでよ , つつ、はやく。 なにをのそのそ歩いているの 『どうしたんだろ ? 』 六、あ』 る。 たもと うれ もてあそ はえ 378
いとま 司お通、どうじゃの、わしが挿けた花は生きておろうが』 『お暇を』 巻伊賀の壼に、一輪の芍薬を投げ入れて、石舟斎は、自分の挿といい出しても、 けた花に見惚れていた。 『まあ、もう少しおれ』 の 『ほ′ルに・ と、お通はうしろから拝見している。 『わしが茶を教えてやる』 水 とか 『大殿さまは、よほど茶道もお花もお習いになったのでしょ 「和歌をやるか。では、わしにもすこし古今調を手ほどきして くれい。万葉もよいがし 『うそを申せ、わしは公卿じゃなし、挿花や香道の師についた 、っそこう佗びた草庵の主になってみ 一一レ」ははい』 ると、やはり山家集あたりの淡々としたところがよいの』 『でも、そう見えますもの』 などといって、離したがらないし、お通もまた、 ずきん 『なんの、挿花を生けるのも、わしは剣道で生けるのじゃ』 『・大皿、まには、 かようなお頭巾がよかろうと思って縫ってみ ました。おつむりへお用い遊ばしますか』 彼女は、驚いた目をして、 武骨な男の家来たちには、気のつかない細やかさを尽すの で、 『道で挿花が生けられましようか』 『生かるとも。花を生けるにも、気で生ける。指の先で曲げた 『ほ , つ、これはよい』 り、花の首を縊めたりはせんのじゃ。野に咲くすがたを持って その頭巾をかぶり、またとない者のように、お通を可愛がる 来て、こう気をもって水へ投げ入れる。 だからますこの通のであった。 り、花は死んでいない』 月の夜にはよく、彼女がそこでお聴きに入れる箝の音が、 この人のそばにいてから、お通はいろいろなことを教えられ柳生城の表のほうまで聞えて来た。 た気がする。 庄田喜左衛門は、 ほんの道ばたで知り合ったというだけの縁で、この柳生『飛んだお気に入ってーーー』 、りレ・、つ 家の用人である庄田喜左衛門に、無聊な大殿へ、笛の一曲をと と自分までが、拾い物をしたように、欣しく思っていた 望まれて従いて来たのであったが 喜左衛門は今、城下から戻って来て、古い砦の奥の林を抜 その笛が、ひどく、石舟斎の気に入ったものか、また、このけ、 大殿の静かな山荘をそっとのそいた 山荘にも、お通のような若い女のやわらかさが一点はあって欲『お通どの』 しいと思われたのか、お通が、 うれ とり「、 200
馬 当然、お通の手は波を描いて、自分の振った刀で自分の体を蹌馬に、刎ねとばされた機に、お通はそこへ転げ落ちたものと めかせてしまった。 見える。もうその時は梅軒にも、彼女が武蔵と何らかの交渉の そして、ごっんと木を斬ったようなひびきを腕に感じるある人間に違いないということは考えられていた。武蔵を追う と、赤黒い血しおが、顔へかぶって来るようにパッと見えて、方にも気が急かれるが、お通を見のがして行くことも忌々し 彼女は眼が眩むような心地がした。城太郎のしがみついている 馬の尻へ刃を入れてしまったのである。 崖を駈け下りて、 『どこへ ? 』 五 うめきながら、梅軒は、そこの百姓家のまわりを大股に廻っ て歩いた。 驚き癖がついている馬である。そう深く入った刃ではない 『どこへ失せやがったか』 が、馬の悲鳴に似た嘶きは非常なものであった、臀の傷口から 血を撒いて暴れるのだった。 縁の下をのそいたり、納屋の戸を開けたりしている彼の狂人 梅軒は、なにか意味の分らない大声をあげ、お通から自分のみたいな態を、せむしのような農家の老人が糸車の蔭から恐怖 にすくんで見ているだけだった。 刀を携ぎ取ろうとして、彼女の手頸をつかまえかけたが、狂っ ・ : あんな方に』 た馬の後脚は、その二人を刎ね飛ばして、竿立ちの姿勢になる つる やがて彼は見つけた。 と、鼻をふるわしてまた高く嘶き、そのまま弦をきって放った ひのき ふかい檜の沢には、まだ谷の雪が残っている。その渓谷へ向 ように、風を起して驀しぐらに駈け出してしまう。 『わっ、や、やいっ』 ってお通は、檜林の急な傾斜を、雉みたいに逃げ下りていた。 『、こよッ 馬の揚げてゆく砂塵へ向って、梅軒は突ンのめった。憤怒の 追いつけるはずは勿論ない。 梅軒が上からこういい被せると、お通は思わず振りかえっ 勢は駆りたてられたが、 そこで血眼となったすごい眸を、お通のほうへ振り向けたのた。土の崩れて行くよりも早く彼の姿は、お通のうしろへ接近 していた。彼の右手には拾いあげた白刃がそのまま持たれてい であるが、お通のすがたも、途端にどこにも見あたらない。 たが、相手をそれで斬り倒す意思はなかった。武蔵の道づれで 『あっ ? 』 おとり もあれば、武蔵をつかまえる囮にもなろうし、武蔵の行先を訊 こうなると、梅軒の青すじはいよいよ、こめかみに膨れあが った。ーーー見ると、自分の刀は道ばたの赤松の根かたに抛り出けるかとも考えたのであろう。 奔してある。飛びつくように拾いあげて、そこを覗くと、低い崖『阿女っ』 左の手をのばして、その指先は、お通の黒髪に触れた。 の下に農家の茅の屋根が見える。 ちまなこ かや まっ さお よろ はずみ 3 〃
冬の樹洩れ陽は、さざ波のように、戦ぐ梢から大地へこばれせて捜し歩き、武蔵の胸へ顔を当てて泣きたい。 ていた。城太郎はその光の斑の中に、凝と、何か幻想でも描く ーー・・何処に、何処に、何処に お通は、黙って歩きだした。 ような眼をしていた。 あまた およそ生きとし生ける者の数多な脳みのうちでも、焦れた 『ーー・・城太さん、どうしたんです。何をきよろきよろ見まわし くて、やるせなくて、どうにもならない悶えは、会えない人に ているの』 会わんとする人間の焦躁であろう。 : なんでもない』 ポロリと、涙をこばしながら、お通は自分の胸を抱きしめ さびしげに城太郎は指を噛んだ、そしてこういっこ。 その手とその胸との間には、 て、黙々と足を運んでいた。 『今、あっちへ . 行った娘が、いきなりお師匠様と呼んだろう。 汗くさい武者修行風呂敷と、柄糸の腐っているような重い大小 : だから、おいらは、自分のお師匠さまかと思ってさ。 がかかえられている。 どきっとしたんだよ』 だがお通は、知らなかった。 八 ~ 減六、まのこと ? 』 うす汚ないその汗のにおいが、武蔵の体の物であるなどとど 『あ、あ』 うつろ うして考えられようか。重いという感じのほか、お通は持って 唖のように、城太郎が空虚な返辞をすると、お通はさなきだ しることさえ迂つかりしていた、心のすべてを武蔵のことに占 に悲しくなってしまって、途端に、嗚咽したいようなものが、 められて。 眼とも鼻ともわからない感情の線をつき上げて来るのだった。 そんなこと、 しい出してくれなければよいのに、と城太『 : : : お通さん』 城太郎は、彼女の後から済まない顔して従いて来た。禰宜の 郎の無、いにいったことばが辛くて限めしくなってしまう。 一日として、武蔵をわすれ得ないことが、お通には苦しい重荒木田様の門の内へ、彼女のさびしそうな背が隠れかけると、 荷だった。なぜそんな重荷は捨ててしまわないのかーーーそしてたもとへ飛びついて、 『怒ったの ? 怒ったの ? 』 平和な郷で、よい女房になりよい子を生もうとしないのか しいえ、なにも』 と彼の無情な沢庵はいうが、お通の耳には、恋を知らない禅坊『 : 『ごめん。 お通さん、ごめんね』 主を憐れむ心こそ起るが、抱きしめている今のものを、心から ろ 『城太郎さんのせいじゃありませんよ、又わたしの泣きたい虫 捨てたいなどとは夢にも思われないのである。 とうにもならない傷みを持つ。ふとまが起ったんでしよう。わたしは、荒木田様の御用を伺って来ま 恋は、虫歯のように、・ すから、おまえは、あちらへ戻って、一生懸命にお掃除をなさ対 冬ぎれている間こそ、お通も何気なくしているが、思い出すと、 あて いね』 矢もたてもなくなって、的がない迄も、諸国諸街道を足にまか こずえ
馬 お通は、信じないように、 一片の同情も持たないように、城太郎はかえってゲラゲラ笑 うのだった。 『そんなこと、ないでしよう』 『だって、どこにも、 いないもの お通は、そこへ坐ってしまいたくなった。急に世の中のすべ 立場茶屋の人に聞いて いや今までにない も、そんなお侍は見かけないというし : : きっとなにかの間違てのものに光がなくなって、元のような とら 滅失に心が囚われた。笑っている城太郎の味噌ッ歯が、憎く見 と城太郎は、そう落胆もしない顔つきなのである。 えて、腹が立って、こんな子をなんで自分が連れあるいている よろ - 一 独りぎめに、思い過ごした歓びにはちがいないが、そう無造のか、捨てられるものなら捨てて、たった独りばっちで、泣い 作に片づけられると、 て歩いていたはうが遙かにましだと思ったりする。 お通は、 考えてみると、同じ武蔵という人を搜している身上であって ( 何ていう子だろう ) も、城太郎のは、ただ師匠として慕っているのだし、彼女の求 と、城太郎の平気でいるのが、憎らしくなってくる。 めているのは、生涯の生命として、武蔵をさがしているのであ あっち 『もっと彼方へ行ってみましたか』 る。そしてまた、こんな場合に際しても、城太郎はいつでもケ 『見たよ』 ロリとして、すぐ央活にかえってしまうし、お通はその反対に 『そこの庚申塚の裏は』 幾日も次の力を失ってしまう、それは、城太郎少年の心のどこ 。し十 / し』 かに、なアに、そのうちにきっとどこかで行き会えるに極って 『立場茶屋の裏は』 いることだからという定義が据っているからであって、お通に 『いないッてば』 は、そう楽天的に末を見とおしていられないのである。 城太郎が、うるさくなったようにそういうと、お通は、ふし ( もう生涯、このまま、あの人とは、会うことも話すことも、 と顔を横に向けてしまった。 出来ない運命なのではないかしら ? ) 『お通さん、泣いているね』 と、悪いほうへも、やはり田 5 い過ぎをしてしまう。 『 : ・・ : 知らない』 恋は相思を求めていながら、恋をする者はまた、ひどく孤独 わけ 『ずいぶん理のわからない人だなあ、お通さんはもっと賢い人を愛したがる。それでなくても、お通には、生れながらの孤児 かと思ったら、まるで嬰ンばみたいなところもあるぜ。最初か 性がある。他へ対して、他人を感じることに、どうしても人よ ら、嘘だかほんとだか、的にはならないことだったんだろ。そりは鋭敏だった。 奔れを、独りで決めこんで、武蔵様がいないからって、ペソを掻すこし拗ねて、怒ったふりを見せて、黙って先へぐんぐん歩 いているなんて、どうかしてらあ』 き出して行くと、 こっしんづか あて 379
『なにき、』 牛車の蔭に、お通はしやがみ込んでいた めずらしく今朝の彼女の髪や口紅には、ほのかではあるが 『武蔵様のほうから見えないように、お前も、蔭にかくれてし てくださいよ 下手なお化粧ではあるがーーー・匂わしいものがただよってい 『なぜさ』 たし、小袖は烏丸家から戴いたという紅梅地に、白と緑の桃山 『なぜでも : 刺繍が散っている初春らしい衣であった。 その白い襟や、紅梅色が、車の輪に透いて見えたので、城太『ちえッ 郎は牛の鼻づらを摺ってそばへ飛びついて行った。 城太郎はまた、ここでも腹が立って、その鬱憤のやり場がな 『なんだっ、こんな所に。お通さん、お通さん、なにしてんの 『だから女って奴は嫌ンなっちゃうぜ。こんなわけの分らねえ 胸を抱いてかがみ込んでいる彼女のうしろから、城太郎は、事ってあるだろか。 武蔵様に会いたい会いたいといって その髪やおしろいが台なしになるのもかまわず襟くびへ抱きつあんなに泣いたり捜したりしていたくせに、今朝になったら急 に、こんな所へ隠れて、おいらにまで隠れていろって : 『ー・ー何してんのさ、何してんのさ、おいら、ずいぶん待ってツ、けツ、おかしくって、笑えもしねえや』 しまったぜ。はやくおいでよ』 彼のことばを鞭のように浴びているお通であった。紅く腫れ ている眼をそっと上げて、 『はやくさ、お通さん』その肩を揺すぶって、 ・ : たの 『城太さん、城太さん : : : そういわないでください 『ーー・武蔵様も、あそこに来てるじゃないか。見えるだろ、ほむから、そんなにお前までわたしを虐めないで』 ら、ここからでも。 だけど、おいら、とても癪にさわって『どこへ、おいらが、お通さんを虐めてるかい』 るんだ。 おいでよ ! お通さんてばー はやく来なくちゃ 『黙っていてね : : : じっと私と一緒にここに屈んでいてくださ 駄目じゃないか』 し』 こんどは、彼女の手くびを取って、抜けるほど引っ張り出し 『いやだい、牛の糞がそこにあるじゃないか。元日から泣いて たが、ふと、その手くびの濡れていることや、お通が顔を上げなどいると、鴉が笑わあ』 : なんでもいいの。もう : て見せないので不審を起し、 : も、つわたしは』 む - 一う : オヤ、お通さん。なにしていたのかと思った 『笑ってやろう。先刻、彼方へ行った若衆のように、おいら も、初笑いに手をたたいて笑ってやるぜ。 ・しし力いお通、 2 魚ら泣いていたのかい』 『城太さん』 ん』 もの からす み - つ、ゞ
鶯 た。そして、振向くと、城太郎がまた何か門のそばで道草をく そして彼は、どこか人のいない所へ行って、洗いざらい自分 貝网といお、つか 強がっているこころっているので、 の本心といおうか の裏の弱いものをいってしまって、花田橋の欄干にのこした無『城太さん、何を拾っているの。早くお出でなさいよ』 『待ちなよ、お通さん』 情に似た文字を、 てめぐい 『ま、そんな汚い手拭なんか拾って、どうするつもり ? 』 ( あれは偽だ ) と、訂正してしまおう ? そして、人さえ見ていなければかまわない、女になんか幾ら 門のそばに落ちていた手拭であった。手拭は今しばったよう 弱くなってやっても大したことはない。彼女がここまで自分を つま 慕ってくれた情熱に対して、自分の情熱も示し合おう。抱きしに濡れていた。それを踏んづけてから城太郎は抓み上げて見て いたのである。 めてもやろう、頬すりをしてもやろう、涙もふいてやろう。 : これ、お師匠様のだぜ』 武蔵は、幾度も、そう考えた。考えるだけの余裕があった。 お通は側へ来て、 お通が自分にいった曾ての言葉が耳に甦がえってくるほ ひど ど、彼女の真っ直な思慕に対して叛くことが、男性として酷い 『え、武蔵様のですって』 苦しくてならない。 城太郎は、手拭の耳を持って両手にひろげ、 罪悪のように思われてならない けれど、そういう気持を、ぎゅっと歯の根で噛んでしまう怖 『そうだそうだ、奈良の後家様のうちでもらったんだ。紅葉が まんじゅう ろしい怺えを武蔵は今しているのだった。そこでは、一人の武染めてある。そして、宗因饅頭の「林」という字も染めてあら』 『じゃあ、この辺に ? 蔵が二つの性格に分裂して、 お通が遽かに見まわすと、城太郎は彼女の耳のそばでいきな ( お通 ! ) り伸び上って、 と、・ば , っとし、 『ーーーおッしょ , っ様あっ』 ( たわけ ) と、叱咤している。 傍らの林の中で、さっと樹々の露が光り、鹿でも跳ぶような びくっとお通は顔を回らして、 そのどっちの性格が、先天的なものか後天的なものか、彼自物音がその時した。 身には固よりわからない。そして凝と本蔭の中に沈みこんでい 『あっ ? ・』 むみよ・つ る武蔵の眸には、無明の道と、有明の道とが、みたれた頭の裡鹹太郎を捨てて、突然、驀っしぐらに走り出した。 城太郎は後から息をきって追いかけながら、 にも、微かにわかっていた。 『ー・ーお通さん、お通さん、何処へ行くのさ ! 』 お通は、何も知らないのである。門を出て十歩ほど歩み出し もと よみ もみじ 239
笛 お通が茶碗へ盛って渡すと、武蔵は、ふうふうと、熱い雑炊 もない。火をかこんで、話そうじゃないか』 をふいて喰べる。 『武蔵。・ : ・ : おぬしはきつい勘違いをしておりはせぬか。火も箸を持「ている手がふるえている、茶碗のふちへ歯がガッ あり、酒もあり、食べ物もあり、又温かい情も酌めばある世のガッと鳴る。いかに、飢えていたことか、浅ましいなどは常日 中だよ。おぬしは、好んで自身を地獄へ駈り立て、この世を歪頃のことばである。怖しいほど真剣な本能の戦慄であった。 ・理窟はよそう。おぬしの身となれ『美味いのう』 んで視ておるのじやろ。 沢庵は、先へ箸を措いて、 。さあ、この焚火のそばへ来てあ 、理窟など耳には入るまい いもぞう ひやめし たれ。 : お通さん、先刻煮た芋の中へ、冷飯をいれて、芋雑『酒はどうじゃ』 と、すすめる。 炊でもっくろうじゃないか。わしも腹がへったよ』 お通は、鍋をかけ、沢庵は酒の壺を火であたためる。二人の『酒は飲みません』 武蔵は答えた。 そういう平和な様子を見さだめて、武蔵ははじめて安心を得た 『きらしカ』 らしく、一歩一歩、近づいて来たが、今度は何か肩身のせまい たたず というと、武蔵は首を振った。幾十日の山ごもりに、彼の胃 ような恥みに囚われて佇立んでいるのであった。沢庵は、一 は強い刺戟に耐えないらしかった。 つの石ころを火のそばへ転がして来て、 『お蔭様で、暖かになりました』 『さあ、おかけ』 1 も ) 、つ、よいのか』 と、肩をたたいた。 武蔵は、素直に腰かけた。だがお通は彼の顔を仰ぐことが出『十分に , ーー』 武蔵は、お通の手へ茶碗を返して 来なかった。鎖のない猛獣の前にいるような気持だった。 『お通さん : : : 』 『ウム、煮えたらしい』 と、改めて呼んだ。 鍋のふたを取って、沢庵は、箸の先へ芋を刺した。むしゃ お通は、うっ向いたまま、 むしや自分のロへ入れて、試みながら、 『ホ。やわらかに煮えたわい。どうじゃ、おぬしも食べるか』 聞きとれないような声でいう。 『ここへ、何しに来たのか。ゅうべも、この辺に、火が見えたが』 おのの 武蔵はうなすいて、初めて、ニッと白い歯を見せた。 とう答えようかと顫い 武蔵の質問に、お通はどきっとした。・ 九 ていると沢庵が傍らから無造作に、 み、つ、、一に
だ、お通さん、そなたが、帯に差している物ーーーそれを、わし 巻お通は疑いだした。 にちょっと貸してくれい』 然し、沢庵は、相変らす測とした顔つきを焚火にいぶして、 『この横笛ですか』 よなか の 『もう夜半だな』 『ウム、その笛を』 今気がついたように呟く 『いやです、こればかりは、誰にも貸せません』 地 『そうですよ、すぐに、夜が白むでしよう』 五 わざと、お通が、切り口上でいってやると、 『はてな ? 『何を、考えているのです』 いつになく、沢庵は執こくいう。 『もう、そろそろ、出て来なくちゃならんが』 『、なぜでも』 『武蔵さんがですか』 お通は、首を振る。 『そ , っさ』 『貸してもよかろう。笛は、吹けば吹くほど、良くこそなるが 『たれが、自分から捕まえられに来るものですか』 減りはしまい』 『いや、そうでないそ。人間の心なんて、実は弱いものだ。決『でも : ほんねん して孤独が本然なものでない。まして周囲のあらゆる人間たち帯に手をあてて、お通は依然、はいといわない。 から邪視され、追いまわされ、そして冷たい世間と刃の中に囲 もっとも、彼女が肌身離さす持っているその笛が、如何に彼 まれている者が。 : はてな ? : この温かい火の色を見て女にとって大事な品であるかは、かってお通自身が、身上話し 訪ねて来ないわけがないが』 をした折に聞いてもいるので、沢庵は十分にその気もちを察し がてん 『それは、沢庵さんの独り合点というものではありませんか』 はするが、ここで自分へ貸すぐらいな寛度はありそうなもの と、 『そうでない』 俄然、自信のある声で首を横に振った。お通はそう反対され『粗相には扱わないから、とにかく、ちょっとお見せ』 たほうが欣しかった。 『嫌』 田 5 うに、新免武蔵は、もうついそこらまで来ておるの 『ど , っしても』 『え。 じやろう。しかしまだ、わしが、敵か味方か、わからないの ふびんみずか だ。不愍や自らの疑、い暗鬼に惑うて、言葉もよう懸け得ずに、 『強情だのう』 : そう 物蔭に、卑屈な眼をかがやかせているものとみえる。 『え。強情です』 うれ しんめん たきび