『聞えるぞ、聞えるそ』 福寺に入って、希先和尚に帰戒をさずけられ、山城の大徳寺か 『悪口をいっていたのじゃありませんよ』 らきた碩学について、京都や奈良に遊び、妙心寺の愚堂和尚と いっとうぜんじ か泉南の一凍禅師とかに教えをうけて、ずいぶん勉強したんで 『いってもよいが、なにか、あまいものでも出ないのか』 『あれですもの、沢庵さんと来たひには』 すって』 『なにが、あれだ、お通阿女、お前のほうが、虫も殺さない顔 『そうでしようね、どこか、違ったところが見えますもの』 たち いずみ して、その実、よほど性が悪いぞ』 『ーーーそれから、和泉の南宗寺の住持にあげられたり、また、 勅命をうけて、大徳寺の座主におされたこともあるんだそうで『なぜですか』 すが、大徳寺は、たった三日いたきりで飛びだしてしまい、そ「人にカラ茶をのませておいて、のろけをいったり泣いたりし の後、豊臣秀頼さまだの、浅野幸長さまだの、細川忠興さまだている奴があるかっ』 からすまる の、なお公卿方では烏丸光広さまなどが、しきりと惜しがっ こんりゅう て、一寺を建立するから来いとか、寺禄を寄進するからとどま れとかいわれるのだそうですが、本人は、、、 とういう気持ちか分大聖寺の鐘が鳴る。 りませんが、ああやって、半風子とばかり仲よくして、乞食み 七宝寺のかねも鳴る。 ひる たいに、諸国をふらふらしているんですって。すこし、気が狂夜が明けると早々から、午過ぎも時折、ごうんごうんと鳴っ しいんじゃないんでしようか』 ていた。赤い帯をしめた村の娘、商家のおかみさん、孫の手を としより 『けれど、向うから見れば、私たちのほうが気が変だというかひいてくる老婆たち。ひっきりなし寺の山へ登って来た。 も知れません』 若い者は、参詣人のこみあっている七宝寺の本堂をのぞき合 『ほんとに、そういいますよ。私が、又八さんのことを思い出って、 して、独りで泣いていたりしていると : 『いる、いる』 『でも、面白い人ですね』 『きようは、よけいに綺麗にして』 『すこし、面白すぎますよ』 などと、お通のすがたを見て、囁いて行く。 かんぶつえ ばだいじゅ 堂『いっ頃までいるんです ? 』 きようは灌仏会の四月八日なので、本堂の中には、菩提樹の はなみどう 『そんなこと、わかるもんですか、いつも、ふらりと来て、ふ葉で屋根を葺き、野の草花で柱を埋めた花御堂ができていた、 らりと消えてしまう。まるで、どこの家でも、自分の住居と心御堂の中には甘茶をたたえ、二尺ばかりの釈尊の黒い立像が天 たけびしやく 花得ている人ですもの』 上天下を指さしている、小さな竹柄杓をもって、その頭から甘引 縁がわの方から、沢庵は、身をのばして、 茶をかけたり、また、参詣人の求めに応じて、順々にさし出す きせん しらみ すまい おか 」いー′ト 4 ・つ 2 し
その声がひびいたとみえ、 頬へ、唇をすりつけた。 ・しけませんー 巻『なんじゃ』 いけません ! 』 方丈で、誰かがいう。 お通は、かよわかった。口をふさがれたのか、悲鳴も出ない の のである。 『苗でしよ、つ』 ゅうげ お通が、答えた。そして、タ餉の膳を下げて、武蔵のうつ伏 武蔵は、身の境遇の何かをも忘れて、 地 している上の橋廊架をわたってゆくのである。 『何をするつ ! 』 あっ、お通さん。 縁の上へ、跳び上った。 武蔵は呼ばわろうとしたが、苦しくて声が出なかった。だ うしろから突いた拳が武士の後頭部に鳴った。手もなくお通 ギ - よう - 一う が、それはかえって僥倖でもあった。 を抱えたまま、相手は下に転げ落ちている。 すぐ彼女の後から、 お通が、高い悲鳴をあげたのも、その途端であった。 『風呂場は、どこじゃな』 仰天した武士は、 と尾いて来た者がある。 『やっ、おのれは、武蔵じゃな。ーー武蔵だっ、武蔵が出てき 寺の借着に、細帯をしめ、手拭をさげている。ふとあおぐ 。各く、出で合えっ』 と、武蔵には覚えのある姫路城の武士なのだ。部下や村の者に ほんめい 山狩をさせたり、夜昼のけじめなく捜索に奔命させたりしてお 忽ち、寺内は足音や呼びあう声の暴風となった。武蔵のすが ちそうぎけ しようろう いて、自分は、陽が暮れればこの寺を宿として、馳走酒にあすたを見たらばと、かねて合図してあったか、鐘楼からはごん かっているという身分らしい ごんと鐘が鳴った。 『お風呂でございますか』 『素破』 お通は、持ち物を下において、 と、山狩の者は、七宝寺を中、いに、駈け集まった。時を移さ 『。こ・業・内い←ー ) 士ー ) よ、つ』 す裏山つづき讃甘の山一帯をさがし始めたが、その頃、武蔵は みちび 縁づたいに 裏 ( 導いてゆくと、鼻下にうす犠のあるその武どこをどう走 0 て来たか、本位田家のだた こ、こっ広い土間口に立っ て、 士は、お通のうしろからいきなり抱きすくめて、 『ど、つじゃ、 っしょに入浴らないか』 『」わ、は、は、 4 わ、は、は』 『あれつ : と、母屋の明りをのそいて、訪れていた。 その顔を、両手で抑えつけて、 コえいじゃないか』 てめぐい わめ おもや
らしくもあるし れからどっちを歩こうという岐れ道の相談じやろ』 そんなわけでぶらりとこの地方を歩いて来た沢庵であるか : じゃあ ? ・』 ら、その柳生谷に近い山で、お通のすがたを見かけたことは、 『今更、そんなことに、迷ってはおりません』 さまで意外としなかったが、お通の話によって、 うつむ 俯向きがちな彼女のカのない横顔を見れば、草の色も真っ暗 『惜しかった』 と、彼も舌を鳴らして嘆息したのは、たった今、武蔵が伊賀に見えているであろうほど、滅失の中の人だったが、そういっ た一言葉の語尾には、沢庵も眼をひらいて見直すくらい、強いカ 路のほうへ向って駈け去ったということであった。 が , ) 、もっプ、い 4 」 『あきらめようか、どうしようか、そんな迷いをしているくら : これからも いなら、私は七宝寺から出てなど参りません。 行こうとする途は決まっているのです。ただそれが、武蔵さま ふため の不為であったら 私が生きていてはあの方の幸福にならな いのなら 私は自分を、どうかするほかないのです』 『ゾ」、つかオ ; QA 」は』 『今いえません』 『お通さん、気をつけな』 そこの胡桃の本の丘から、石舟斎のいる山荘の麓まで、城太『何をですか』 しおしお 『おまえの黒髪をひつばっているよ。この明るい陽の下で死神 郎を連れて、門々と引っ返してゆく間に、沢庵からいろいろ問 いただされて、お通がつつみ隠しなく、その後の自分の歩いてが』 『私には何ともありません』 来た途やらこの度のことを、彼なれば何でもと心をゆるして、 だが、死 『そうだろう、死神が加勢しているんじゃもの。 語りもし相談もしたであろうことは、想像に難くあるまい 『む。 ぬはどうつけはないよ。それも片恋ではな。ハハハハハ』 ひと′一と 沢庵は、妺の泣き言でも聞いてやるように、うるさい顔もせ まるで他人事に聞き流されるのがお通は腹だたしかった。恋 の をしない人間になんでこの気持がわかる。それは沢庵が、愚人 ず幾たびも頷いて、 女『そうか、なるほど、女というものは、男にはできない生涯ををつかまえて禅を説くのと同じである。禅に人生の真理がある 選ぶものだ。 なら、恋のうちにも必死な人生はあるのだ、尠くも、女匪にと そこで、お通さんの今考えていることは、こ みち くるみ 女の道 わか すくな
人々はたちまち沢庵を村の護り神か、英雄かのように見直し 土下座をするものがあった。彼の手を押しいただいて、足元 から拝む者もあった。 『ごめん、ごめん』 沢庵は、それらの人々の盲拝に、閉ロしきった手を振って、 「村の衆、よう聞け、武蔵が捕まったのは、わしが偉いため じゃない。自然の理だよ。世の掟にそむいて勝てる人間はひと りもありはしない、偉いのは、掟じゃよ』 ごけんそん 『御謙遜なさる、なお偉いわ』 しつばうじ 『そんなに押し売りするなら、かりにわしが偉いにしておいて 朝である、七宝寺の山で、ごんごんと鐘が鳴りぬいた、何日 もの刻の鐘ではない、約東の三日目だ。吉報か、凶報かと村のもよいが。 , ーー時に、皆の衆に、相談があるがの』 『ほ、なんそ ? 』 人々は、 『ほかではないが、この武蔵の処分だ。わしが三日のうちに捕 『それつ』 えて来なかったら、わしが首を縊り、もし捕えて来たら武蔵の とわれ勝ちに、駈けのばって行った。 たけぞう 身はわしの処分にまかせると、池田侯の御家来と約東した』 『捕まった ! 武蔵が、捕まッて来た』 『それは聞いておりましただ』 『おウ、ほんまに』 『たが、さて : ・・ : どうしたものじやろうな。本人はこの通り、 『誰が、手捕にしたのじゃ』 ここへ召捕って来たが、殺したものか、それとも、生かして放 『沢庵様がよ ! 』 本堂の前は、押し合うばかりな人で囲まれていた。そしてそしてやったものか ? 』 てすり この階段の手欄に、猛獣のように縛りつけられている武蔵のす『滅相な 杉 人々は、一致して叫んだ。 がたをながめ合って、 『殺してしまうに限る。こんな恐しい人間、生かしておいたと 『ほウ」 たた なまつば 年 て、何になろうそ、村の祟りになるだけじゃ』 と、大江山の鬼でも見たように生唾をのんだ。 『ふム : 千沢庵は、にやにや笑いながら、階段に腰かけていた。 沢庵が何か考えているのをもどかしがって、 『村の衆、これでお前らも安心して耕作ができるじやろうが』 く涙をながして。 千年杉 っ めっそう
いかん っては、生ぬるい禅坊主が、隻手の声如何などと、初歩の公案沢庵は立ちどまった。ふと嘆くような眉をうごかしたが、是 いのち 非もないとしたらしく、 巻を解くよりも、生命がけの大事なのである。 『お通さん、ではもう石舟斎様にお別れもせずに、自分の行き ( ー・ーもう話さない ) の たい途へ行くつもりか』 唇をかんでそう決めたように、お通が黙ってしまうと、今度 『ええお別れは、、いのうちでここからいたします。もともと、 は沢庵から真面目さを見せて、 水 『お通さん、おまえはなぜ男に生れなかったのだい。それほどあの御草庵にも、こんな長くお世話になるつもりもなかったの 強い意思の男ならば、尠くも一かど国の為に役立つ者になれたですから』 『思い直す気はないか』 「つ、つに』 『 ) 、つい、つ、ふ , つに』 『こういう女があってはいけないんですか。武蔵さまの不為な みまみ・か 『七宝寺のある美作の山奥もよかったが、この柳生の庄もわる のですか』 『ひがみなさんな。そういったわけではない。 ーーだが武蔵くないの。平和で醇朴で、お通さんのような佳人は、世俗の血 は、おまえがいくら愛慕を示しても、そこから逃げてしまうんみどろな巷へ出さすに、生涯そっと、こういう山河に住まわせ て置きたいものじゃ。たとえばそこらに啼いている鶯のように じゃないか。 ーそうとしたら、追ってもっかまるまい』 『おもしろいので、こんな苦しみをしているのではありませな』 『ホ、ホ、ホ。ありがと , つ、こギ、います。沢庵き、ん』 ん』 『だめだ 『少し会わないうちに、お前も世間なみの女の理屈をいうよう やり 沢庵は、嘆息した。自分の思い遣も、盲目的に思う方へ走ろ になったの』 おとめ 『だって。 いえ、もうよしましよう、沢庵さんのような名うとするこの青春の処女には、何の力もない事を知った。 そっちへ行くのは、無明の道だそ』 『だが、お通さん。 僧智識に、女の気持がわかるはずはありませんから』 『無明』 「わしも、女の子は、苦手だよ、返辞にこまる』 『おまえも寺で育った処女じやから、無明煩悩のさまよいが、 お通は、ついと足を反らし、 どんなに果てなきものか、悲しいものか、救われ難いものかぐ 『ーー・ー城太さん、おいで』 らいは知っておろうが』 彼と共に、沢庵をそこへ置き捨てて、べつな道へ歩みかけ 『でも、私には、生れながら有明の道はなかったんです』 『いや、ある ! 』 沢庵は一縷の望みへ情熱をこめて、この腕に縋れとばかり、 、 ) 0 ド ) ゅんばく むすめ すが 2 イイ
あらゆる生活の物音も聞えて来ない。 その儘らしい』 ただ一穂の燈し灯と、それに照らさるる武蔵の青白く頬の削 『徳川随一の剛の者、勝入斎輝政どののお住居に、明りの入 げた影とがあるだけであった。 らぬ間が一つでもあることは、威信にかかわると思われぬか』 今は、大寒の真冬であろう、黒い天井の梁も板じきも、氷の 『そんな事は考えてみたことがない』 『いや、領下の民は、そういうところにも、領主の威信を考えように冷えていて、武蔵の呼吸するものが、燈心の光りに白く 見える。 ます。それへ明りを入れましよう』 孫子日く 『ふむ』 地形通する者あり 「お天守のその一間を拝借し、愚僧が勘弁のなるまで、武蔵に 挂かる者あり 幽閉を申しつけるのでおざる。ーーー武蔵左様心得ろ』 支うる者あり と、申し渡した。 隘なる者あり 『よよは。レか , っ , っ』 険なる者あり 輝政は、笑っている。 遠き者あり いっか七宝寺で、どじよう髯の青木丹左へ向って、沢庵のい 孫子の地形篇が机の上にひらかれていた。武蔵は、会心の章 ったことばは、嘘ではなかった。輝政と沢庵とは禅の友であっ に出会うと、声を張って幾遍も素読をくりかえした。 『後で、茶室へ来ぬか』 兵を知る者は動いて迷わす 『また、下手茶でござるか』 挙げて窮せす 『ばかを申せ、近頃はすっと上達。輝政が武骨ばかりでないと 故に日く ころを今日は見せよう。待っておるぞ』 彼を知り己を知れば 先に立って、輝政は奥へかくれる。五尺に足らない短小なう あやう 勝すなわち殆からす しろ姿が、白鷺城いつばいに大きく見えた。 蔵 天を知り地を知れば まっと 勝すなわち全うすべし オーー、開かずの間といわれる天守閣の高いところの眼がっかれると、水のたたえてある器を取って、眼を洗っ 真っ暗・こ。 た。燈、いの油が泣くと燭を剪った。 光一室。 また、 机のそばには、まだ山のように書物が積んであった。和書が ここには、暦日というものがない、春も秋もない、 ・一よみ しようにゆ・つみ一、
地の巻 み、むらい るうちに、張り込んでいた姫路城の武士たちに見つかってしま 、言葉もひとっ交さぬうち、姉の邸からも逃げ退かなければ ならなかった。 よくこの山を往来する炭焼きなのだ。武蔵はこの男の顔を見 それ以来は、この讃甘の山から見ていると姫路の武士たち知っている、襟がみをんでひき戻しながらいった。 が、自分の立ち廻りそうな道を、血眼になって捜し歩いている 『ゃいつ、なぜ逃げる ? 俺はな、忘れたか、宮本村の新免武 しいはしない。挨拶もせず、人 様子だし、村の者も結束して、毎日、あの山この山と、山狩を蔵だぞ、何も、捕って食おうと、 して自分を捕まえようとしているらしく思われる。 の顔見て、いきなり逃げいでもよかろう』 『へ、へい』 『 : : : お通さんだって、俺を、どう考えているか ? 』 ふろさと 武蔵は、彼女にさえも、疑心暗鬼を持ち始めた、故郷のあら『坐れ』 ゆる人間が、敵となって、自分の四方を塞いでいるように疑わ手を離すと、また逃げかけるので、今度は、弱腰を蹴とばし て、木剣で撲るまねをすると、 れて来るのだった。 『わっッ』 『お通さんには、又八がこういう理由で帰らなくなったのだ と、ほんとのことは、、、 : そうだ、やつばり又八の頭をかかえて、男はうッ伏した、そのまま腰をぬかしたよう おふくろに会って告げよう。それさえ果せば、こんな村に、誰に戦慄して、 『た、たすけてッ』 がいてやるか』 武蔵は腹をきめて、歩みかけたが、明るいうちは里へ出られ と、喚い 石をつぶてにして、小鳥を狙い撃ちに落し、すぐ 村の者が、何のために、自分をこんなに恐怖するのか、武蔵 毛をむしって、その生温かい肉を裂いては、生のままむしやむにはわからなかった。 しやと食べて歩いていた。 『これ、俺が訊くことに、返辞をせい、よいか』 いのち すると、 『なんでも、申しますだが、生命だけよ ふもと 『あっ : 『誰が生命をとるといったか。 麓には、討手がいるだろうな』 『へい』 出会いがしらの事である。誰か、彼のすがたを見ると共に、 樹の間へあわてて逃げこんだ者がある。武蔵は、理由なく自分『七宝寺にも、張りこんでいるか』 『おりますだ』 を忌み厭う人間に、憤ッとしたらしく、 『待てッ』 『村の奴ら、きようも、俺を捕まえようとして、山狩に出てい ひょう 豹のように跳びついた。 るか』 たけぞう - ら 、めも ふさ の わめ なぐ えり しんめん
お通が、大を避けて走って行くのを見て、 高札で撲ったものとみえ、朱になった高札が、死骸とぶつ交え 巻に、死人の背に負わせて捨ててある。 『お通さん、飛脚が届いているよ』 『え : : : わたしこ 褒美の文句が、高札の表に出ているので、それを読む気もな の く読むと、残酷な感じは消されて、まわりの者は、何だかおか『留守だったから、預って置いた』 たもと 袂からそれを出して、彼女の手へ渡しながら、 しくなって来た。 地 『顔いろが悪いが、どうかしたのか』 『笑うやつがあるか』 ンス誰かい学 / 『道ばたで、死人を見ましたら、急にいやな気持になってーーこ : だが、眼をふさぎ道をよ 『そんなもの見なけれ、 七宝寺のお通は、村の人々の間から、白い顔を引っこめた、 至るところに、死人が転がっている けても、今の世の中では、リ 脣まで白っぱく変っていた。 じようど のだから困るな。この村だけは、浄土だと思っていたが』 ( 見なければよかった 「武蔵さんは、なぜあんなに、人を殺すんでしよう』 悔いながら、まだ眼にちらっく死人の顔を忘れようとして、 殺される理もない 『先を殺さなければ、自分が殺される。 小走りに寺の下まで駈けてきた。 こーし一に、 のに、無駄に死ぬこともない』 慌だしく、上から降りて来たのは、寺を陣屋みたい。 先頃から泊りこんでいる大将だった。五、六名の部下と一緒『怖い に、報らせをうけて駈けつける所らしかった、お通の姿を見か戦慄して、肩をすばめ、 『 , こへ来たら、ど、つしましよ、つ』 けると、 山にはまた、うす黒い綿雲が降りていた。お通は無自覚に手 「お通か。何処へ参ったな』 はた のんき 紙を持って、庫裡の横にある機舎へかくれた。 などと、暢気な事をたずねた。 どじよう 力のじ 織りかけてある男物の布地が、機にかけられてあった。 お通は、この大将の泥鰌ひげが、いっぞやの晩のいやらしい いいなすけ 朝にタに思慕の糸を紡ぎ溜めて、やがて許婚の又八が帰国し 事があって以来、見るのも虫酸が走ってならなかった。 たらーー・彼の人に着てもらおうー・ - ーそう楽しんで去年から少し 『買い物に』 それも投げ捨てるようにいって、見向きもせす、本堂前の高ずつ織っていたものだった。 筬の前へ、腰かけて、 い石段を駈け上って行った。 『 : : : 誰からだろう ? 』 飛脚の文を見直した。 みなしご 孤児の自分には、便りをくれる人もなし、便りを出す人もな たくあん 沢庵は、本堂の前で、大と遊んでいた。 あけ むしず おさ
生きて帰ったことが、憤ろしかった。 一人がいうと、 巻『旦那様 : : : なんば、武蔵が強うても、捕まえるのは、易いこ 『私ですが』 とで、こギ、いませぬか』 と、お吟はいって、 おんなずまい の 『何せい人数が少いのだ。今も今とて、彼奴のために、一人、 『邸のうちへ、無断で、何事でござりますか。女住居と思う しよみ一 打ち殺されたし : て、無礼な所作などあそばすと、ゆるしてはおかれませぬそ』 地 『婆に、よい智慧がありますのじゃ、そっと、耳をお貸しなさ膝がしらを向けて責めると、先刻、お杉と立ち話しを交した 組頭らしい武士が、 『お吟は、こっちだ』 五 と、彼女の顔を指さした。 ゃなり どんな策を、囁いたのであろうか。 屋鳴と同時に燈りが消えた。お通は悲鳴をあげて庭先へまろ りふじん ろうぜき 『む ! 成程な』 び落ちた。理不尺、でもあるし、突然な狼藉ぶりだ、お吟ひとり 姫路城から国境の目付に来ているその武士は大きくうなずい に向って、十名以上の大の男が押しかぶさって来て繩にかけよ うとするのである。お吟はそれに対して女とも思われない壮烈 『首尾ようおやりなされよ』 な抵抗を見せているのだった。ーーー然しそれも一瞬だった。ね お杉婆は、煽動するようにいって、立ち去った。 じ伏せられて、足蹴にされているらしい 間もなく。その武士は、新免家の裏手に、十四、五名の たいへんだっ。 人数をまとめていた。何か、密、 、渡して、やがて塀をこ どこを走って来たのか自分でもわからないが、とにかく深夜 はだし えて邸のうちへなだれこんだ。 の道を、お通は七宝寺の方へ向って、裸足のまま人心地もなく てんどう 若い女同志のーーお通とお吟とがーーーお互いの薄命でも語ら駈けていた。平和に馴れてきた処女の胸には、この世が顛動し あか い合っていたのか、更けた燈りの下に涙をぬぐい合っている所たような衝撃だっこ。 へであった。人数は土足のまま、両方の襖から入り込んで来寺のある山の下まで来ると、 て、部屋へいつばい立ち塞がった。 『お。お通さんではないか』 しゅうほう 樹蔭の石に腰をおろしていた人影が起って来ていった。宗彭 お通は蒼ざめて、おののいたきりだったが、さすがに無二斎沢庵なのである。 と , っしたかと思っ の娘であるお吟は却ってきびしい眼でその人々を見つめた。 『こんな遅くまで帰らないことはないのに、・ 『武蔵の姉はどっちだ』 て、捜していた所だった。おや、跣で ? あお せんどう めつけ 、きどお たけぞう 、 4 み、 ふすま きやっ さむら、 やす たくあん あしげ おとめ
門に曳かれた結果と、多情な後家のなぐさみものになって、生はしゃぎ合って、 ぶ・ヘっ 巻涯男がいもなく悶々と陽かげの脳みと侮蔑の下に生きているの 『はう、戸外は春だの』 と、 しったいどっちが幸福であった ? あの人魚を食った 『すぐ、三月ですもの』 あぶら の ようにいつまでも若くて、飽くなき性の脂と白粉と、虚慢ない 『三月には、江尸の徳川将軍家が、御上洛という噂。おまえ達 水やしさを湛えているすべた女に、これからという男の岐れ道をはまた稼げるな』 こ、つき」れて。 『だめ、だめ』 早 - むらい 『畜生 : : : 』 『関東侍は遊ばぬか』 又八は身をふるわした。 『荒つばくて』 『畜生め』 『 : ・・ : お母さん、あれ、阿国歌舞伎の囃子でしよう。・ : ・ : 鐘の ずい 涙が滲む。骨の髄から泣きたくなる。 音が聞えてくる、笛の音も』 なぜ ! なぜ ! おれはあの時宮本村の故郷へ帰らなかった この娘は、そんなことばかりいって、魂はもう芝居 ろうか。お通の胸へ帰らなかったか。 へ飛んでいるのだよ』 あのお通の純な胸へ。 『だって』 宮本村には、おふくろもいる。分家の聟、分家の姉、河原の 『それより、清十郎様のお笠を持っておあげ』 叔父貴ーーみんな温ッたかい ! 『はははは、若先生、おそろいでよう似合いますぞ』 あ【だがわ お通のいる七宝寺の鐘はきようも鳴っているだろう。英田川 『嫌っ。 : 藤次さんは』 の水は今もながれているだろう、河原の花も咲いていよう、鳥朱実が後を振り向くと、お甲は袂の下で、藤次の手に握られ も春を歌っているだろう。 ていた自分の手をあわててもぎはなした。 あしおと 『馬鹿。馬鹿』 その跫音や声は、又八のいる部屋のすぐ側を流れて行っ たのである。 又八は、自分の頭を、自分の拳で撲った。 『この馬鹿ッ』 窓一重の往来を。 又八の怖い眼が、その窓から見送っていた。青い泥を顔へ塗 ぞろそろと連れ立って、今、家を出かけるところらしい ったように、押しつつんでいる嫉妬である。 お甲、朱実、清十郎、藤次。ーーゅうべから流連けの客二人『何だッ』 に母娘二人。 暗い部屋へ、ふたたび、どかっと坐って、 おや・一 たた こぶしなぐ ふるみ、と わか とえ はやし 〃 6