借のない槍術じゃ。一応、その授業芳名録のいちばんはじめに 『 - 何ーしに ? ・』 認めてある文を読んでからにいたしてはどうだな』 『御教授を仰ぎたいと存じて』 気づかなかったが、そういわれて武蔵は下へ置いた一冊を持 『上んなさい』 当院におい ち直して繰ってみると、なるはど書いてある。 右へ指をさす。 たらい かけひ 足を洗えというのらしい。筧の水が盥に引いてある。摺り切て授業をうける以上は、万一、五体不具になっても死を招いて という誓約書である。 も苦請は申し上げない れた草鞋が十足もそこらに脱ぎちらしてあった。 っ 『、い得ております』 真っ黒な一廊下を、武蔵は従いて行った。芭蕉の葉が窓に 武蔵は微笑してもどした。武者修〕何をして歩くからには、こ 見える一室に入って控えている。取次の羅漢の殺伐な動作をの そけば、他はどう眺めてもただの寺院にちがいない。燻々と香れは何処でもいう常識だからである。 『じゃあ此っ方へーーー』 のにおいすらするのである。 と、又奥へ進む。 『これへ、どこで修行したか、流名と自身の姓名を誌けて』 すすりばこ 子どもへいうように、以前の大坊主が来て一冊の帳面と硯箱大きな講堂でもつぶしたのか恐ろしく広い道場であった。寺 らんまぼり とをつきつける。 、太い丸柱が奇異に見えるし、欄間彫の剥げた金箔だの 見ると、 胡粉絵具なども、他の道場には見られない。 こうもんしゃ 自分ひとりかと思いのほか、控え席には、すでに十名以上の 叩門者授業芳名録 ほったい 修行者が来ている。そのほか法体の弟子が十数名もいるし、た 宝蔵院執事 とある。開いてみると、無数の武者修行の名が訪問の月日のだ見物しているという態の侍たちも相当に多く、道場の大床に 下に連ねてある。武蔵も前の者に「て書いたが、流名は書きは今、槍と槍をあわせている一組の試合が行われていて、みな かたず で武蔵がそっ よ , つもなかった。 固唾をのんでそれへ見入っているのである。 とその一隅へ坐っても、誰ひとり振向いてみる者はない。 『兵法は誰について習ったのか』 『我流でございます。ーーー師と申せば、幼少の折、父から十手望みの者には、真槍の試合にも応じるーーと道場の壁には書 術の教導をうけましたが、それもよう勉強はせず、後に志を抱いてあるが、今立ち合っている者の槍は、単なる樫の長い棒に きましてからは、天地の万物を以て、また天下の先輩を以て、過ぎない。それでも突かれるとひどいとみえ、やがて一方が刎 ねとばされて、すごすご席へ戻って来たのを見ると、太股がも みなわが師と心得て勉強中の者でござります』 そこで承知でもあろうが、当流は御先代以来、天う樽のように腫上って、坐るにも耐えないらしく、肘をつい 茶『ふム : 下に鳴りわたっている宝蔵院一流の槍じゃ。荒い、激しい、仮て、片方の脚を投げ出しながら苦痛を怺えている容子たった。 くんくん はれあが
したんだろう』 『知ってるもんか』 巻『 , こへ ~ 米ましよ、つか』 『越前宇坂之庄、浄教寺村の流祖、富田五郎左衛門が歿後の門砌 『そんなこと、わかるもんか。まあ、入りねえ』 人佐々木小次郎とはわしのことだ』 の 『いや、おれは博戯事に来たんじゃない。その男を捜しに来た そういったら逃げるだろうと思いのほか、相手は、ふき出し のだ』 て、又八のほうへ尻を向け、矢来のうちのガチャ蠅を呼び立て 『おい、ふざけるなよ、博戯もせずに、賭場へ何しに来やがっ たんだ』 『ゃい、みんな来い、こいっ何とか今、オッな名乗りをあげや 『すみません』 がったぜ。おれたちを相手に抜く気らしい。ひとつお腕のうち 『向う脛を掻っ払うぞ』 を見物としようじゃねえか』 『すみません』 しい終ると、きやッと、その男は尻を斬られて跳び上った。 ほうほうのていで出て来ると、追いかけて来たガチャ蠅の一又八が、不意に抜き打ちをくれたのである。 人が、 『畜生っ』 「野郎待て。ここは、すみませんで済む場所たあ違う。ふてえ という声。それから、わっと大勢の声がうしろに聞えた。又 又だ。博戯をしなけれやあ、場代をおいてゆけ』 は血刀をさげて人混みの中へまぎれ込んだ。 『金などない』 なるべく人間の多いところへと又八は姿をかくして歩いてい 『金もねえくせに、賭場のそきをしやがって、さては、隙があたが、危険を感じるはど、どの人間の顔もがガチャ蠅に見え、 ったら、銭を攫って行こうという煢見だったにちげえねえ、こ とてもうろついておられなくなった。 えが の盗つ人め』 ふと見ると、眼のまえの矢来に、大きな虎の絵を描いた幕が 『なんだと』 垂れていて、木戸には、鎌槍と、蛇の目の紋と旗じるしが立て ノが、くわっとして刀の柄を示すと、これは面白いと、相てあり、空箱に乗っている町人が、しやがれ声をふりしばっ て、 手は敢て喧嘩を買ってくる腰だった。 びく 『べら棒め、そんな脅しに、いちいち恟ついていちゃ、この大『虎だ、虎だっ、千里行って、千里帰る、これは朝鮮渡りの大 坂表で、生きちゃあいられねえんだ。さ、斬るなら斬ってみろ』 、加藤清正公が手捕りの虎 『き ! 斬るそ』 というような人寄せ文句を、ふしづけて呶鳴っていた。 『斬れつ、何も、断るにや及ばねえや』 銭を抛って、又八は中へとびこんだ。そして、いささかほっ としながらとここしし。、、 『おれを知らんか』 。ルカしるのかと見廻してみると、正面に戸板 あそびごと ーくち
の で児 の頬を し母 く へ石オ の を は面武た カ 、夢 の聞す 、の とあ嬰まざ垣 が父 ワ へ ン武 な影蔵 。他と つ痛で く 、ぶ児ごぶ る 、の を 人知 ワ蔵と は いあ母 ざ逃そ無郷さ出 な あ と た け な ク ) か は っ描自 け い武ぶ の 二家とて け、 力、 ン は て 冫ま つに つ 泚 亠石 ~ 央岸 、どたそ ・ヘたけ分 、て ぞ 、蔵歩ま姿 へゆ - そ . の帰け 夜ろなを っ ひ、が の あ いわ い 田 の が は い . 産 の武 てろ川は し、 、危ぶ り - 見、 、て キれ 0 ま っ 、ん 女 と母険な た 、あ か ゆ し、の の - つ つ け 抱は る多 波で なた く 果た だ は をし の し どだ人 人眼 きだ教 そ 。は ら し、 と 他 あ河 父 英あな のを し ん の え の つ 尸 1 思、人顔 彦頁さ 下の り原 田だし、が めだよ に無 がま を つの お て ん ツ に つ て母知 し た の た の ら 彼オ みを を 斎 河 け は 濡い り し だ る見 な 出 な が れ 淵て 原母ち の の お か か 夢 く 六 に て 父 へはか 出お を と い入ふ をれ さ し る ら ぎ自 ろ 出 た の 尸 ん . る っ と てろひ て て な分 の 頬て そ り 、おび い し が し し 子 を行ろ の 母 冫立ろ いと て ま て し、 し、 。母は て す ペ き き で と て 冫止 、る い月 た っ 彼 て見 。母 き邸る あ り暴り と お い 草 河 を ま は 母 と れし の の の そ の長た な 六 児る る も 人母 。中嬰れ の 児カ 中 ま ん し、 風 そけ た 刄も り の の ど耳 : 中 不一 た酒 兀風 てす醒 、で子車見こ た よ が の ヵゝ 甲 の風 々車 あ 眼め こを っ へ天も つ母ちなの が 、 . る 家 車か澄は ら 議 土睿、と映 ブさ カ ; る を い乳ちく 0 こを て て身も廻廻 風開も 、見 の 、産げ宙 のはで ま にめ て つ 裏 しなをなる り そオ 、にふ にち て し、い に ロ翼そ . 起いよ 。赤気 だ にてな ょ オこ の お と と の をを っ し 風 し 、わ で 刄 っ し、 不仰 カ 、すにた づ梅 ど 光醒 八 車 あ り い 出 先 : ーす戸 の 審向眠 けで 軒と 彼 へ ろ っ深く がめ 刻き 、あ来で 見 の 明て を う周 め く が の し、 と 抱て てあ る 入と囲 買 が寝 て し し武 、る がいる っ 甲、のみ ら 、いも っ顔 し 頻 ま て蔵 つ物 た る こ蔵て い て の 武風 。とな が いた い 上 の ん いは びす 蔵車 と で顔た た た の たふ 双 人たる 武 はが 酉 d いまあ 。辺 蔵そ が と し 天 の り にた で 出 止戸 ク廻 、の被 : 井 ! 風 て に 入 ま 甲 が っ車 ふ し る閉 懐 り え眼 いあ てだ 天 と た 井 し 残を し も る し、 て る り ひ か と 夜 もな ら っ の の ら 具そ 吊 : 頃し、 た のか っ 武のれ 廻 吊間 る のた 夜な た蔵襟ば 足 呉ん 下 つ亡はは が煤享 の て た にか 36 ク
石また曳きやる 『意気地のねえ野郎だな』 ェイサ、エイサ 逞しい石曳き仲間は、愍れむように嘲った。 コロサと曳きやる 『なんだい、その西瓜は。喰えもしねえのに買ったのか』 お声きくさえ 『仲間にすまないから、みんなに喰べてもらおうと思って』 よあし 四肢がなゆる 『そいつあ如才のねえこった。おい、又八の奢りだとよ、食っ まして添うたら てやれ』 死のずよの 西瓜を持って、その男は、石の角へたたきつけた。忽ち、そ したた ( ー・ー・老も若きもうたい囃しそろ。これにてなくば、うき世な こらの仲間が蟻のように寄って来て、赤いしずくの滴る甘肉の るまじく見え候 ) 破片を貪り合った。 労働歌が絃歌になり、蜂須賀侯のような大名までが、夜興の 『ゃあい、仕事だぞうつ』 くちず ロ誦さみに戯むれたものとみえる。 石曳きの小頭が、石のうえに上って呶島っこ。 ⅱ・オ督の侍が、 彳に。。がさかんになりだしたのは、何といっても太閤の世盛 鞭を持って陽除け小屋から出て来る。かに汗のにおいが大地 りからだった。室町将軍の頃には、歌があっても廃頽的な室内 にうごき、馬蠅までわんわん立つ。 「テコ」や「コロ」に乗せられた巨大な石が、一握りもある太のものだけだった。その頃は、児童がうたう歌まで、ひがみソ ばい暗い歌が多かったが、太閤の世になってからは、歌も明る い綱に曳かれて徐々に前へ出てゆくのだった、雲の峰がうごく ト 6 , っ , ) 。 くなり大きくなり希望的になって、民衆はそれを汗をかきなが 築城時代の現出は、それにつれて全国に、石曳き歌というもら太陽の下でうたうことを甚た好んだ。 関ヶ原の役の後、社会文化に家康色がだんだん濃くなってく のの流行を興した。今、ここの人足たちが唄い出したのもそれ である。阿波の城主蜂須賀至鎮が城ぶしんの課役に出て、そこると、歌もすこし変って来て、豪放さはうすくなった。太閤様 大御所の のころには、民衆からひとりでに歌が湧いてきたが、 から国表へつかわしたその頃の書信の一節にも、 ( ーーゅうべさる方にて習い申しそろ儘、名古屋の石曳きうた世間になってからは、徳川家付の作者が作ったような歌が民衆 へ提供されて来た。 書きつけて参らせそろ ) 『・ : ・ : ああ、苦しい』 とあって、その歌詞に 又八は、頭をかかえた。頭は火みたいに熱かった。仲間のわ われが殿衆は あぶ めいている石曳き歌が、虻に取り巻かれているように耳にうる 西藤五郎さまじゃに あわたぐち き、かった。 粟田口より 瓜 むち あり あ早、け はや いえっき
てしまう気でいる。時々、石へ乗せかけた轍がぐわらっと車体牛方は、手綱を抛りすてて、車のうしろへ廻って来た。拳を かためて、いきなり、 巻を強く揺す振るのも愉央でたまらない。動く物ー・ー動くばかり 『この野郎』 でなく進む物にーー身を乗せているということだけで、少年の の 『ア痛っ』 心臟は無上な楽しみにおどる。 ( : : : あら、あら、どこかで鶏が噪いでいるそ、お婆さんお婆『なんだって車の尻になど乗ってけつかるか』 『いけないの』 さん、鼬が卵を盗みに来たのに、知らすにいるのか 『当りめえだ』 の子か、往来で転んで泣いているよ。向うから馬も来るよ ) 、じゃよ、 翡ん、ら . し。し 十′し、カ』 眼の側を流れてゆく事々が、城太郎にはみな感興になる。村『おじさんがひつばるわけじゃよ、 みちばた 『ふギ、けるなっ』 を離れて、並本にかかると、路傍の椿の葉を一枚むしり、唇に 城太郎の体は鞠みたいに地上へ粥んで、ごろんと、並本の根 当てて吹き鳴らした。 まで転がった。 同じ馬でも わだち 嘲笑うように牛車の轍は彼を捨てて行った。城太郎は腰をさ 大将を乗せれば すって起き上ったが、ふと妙な顔して地上をきよろきよろ見ま 池月、する墨 わし始めたー・ , 何か紛失し物でもしたような眼で。 金ぶくりん ビキビーの 「。あれ ? ないぞ』 トッビキビ 武蔵の手紙を届けた吉岡道場から、これを持って帰れと渡さ れて来た返辞である。大事に竹筒へ入れて、途中からは、紐で 馬は馬でも 首へかけて歩いていたのがーー・今気がついてみると、それがな 泥田にすめば やれ踏め、やれ負え 『困った、困った』 年がら貧 城太郎の探す眼の範囲はだんだん拡がって行った。 貧ーー貧ーー・貧 その態を見て笑いながら近づいて来た旅装いの若い女性が 前に歩いてゆく牛方は、 『何か落したのですか』 『おや ? 』 と、親切に訊ねてくれる。 何も見えないので又そのまま歩みだした。 振向いたが、 いちめがさ ビキ、ピーの 城太郎は、額ごしに、ちらと市女笠のうちの女の顔を見たが、 トッビキビ したち ひん さわ わだ一ち み - ま よそお と、 750
『待ってくださいッてば ! 』 かたつむり 巻『おとなしくしな』 蝸牛のようになったまま、朱実はいった。なんの意もなくい ったのである。病後の体が火みたいだった。その熱すら、八十 の 馬は病気の熱とは思っていない。 なに、も、班 5 い一レ」は . な ( いき、』 『待ってくれって ? : よしよし、待ってやるとも。 いやじゃあるまい』 が、逃げるとこんどは手荒になるぜ』 『おれの女房にしてやろう。 1 。。・ーー↓っ - いッ』 の 肩をつよく振って、八十馬の執拗な手をふり退けた。やっと さけんだ朱実の声の余りにも悲痛で強かったので、 少し離れた彼の顔を、睨めつけながら起ち上って、 『えっ ? ・』 『ーー何するんですっ』 八十馬は、思わずいった。 『わかってるじゃねえか』 : ど、つして、ど , っして』 手と膝と胸とで、朱実は体を山茶花の蕾みたいに固くむすん『女と思って、ばかにすると、わたしにだって、女のたましい で、こ。八十馬はどうかしてこの筋肉の抵抗をことばで解させというものがあるんだから : : : 』 草の葉で切れた唇に血がにじんでいた。その唇を噛みしめる ようとするのたった。この男はまた、こういうことに幾たびか 経験をもっているらしい上に、こういう時間のあいだをも楽しと、ほろほろと涙がながれ、血といっしょに白い頤をこばれ むことにしているらしい。凄い面がまえにも似もやらず、捕ま えもの なぶ 『ほ : : : おつなことをいうな。こいつはまんざらキ印でもねえ えた餌物をむしろ嬲るかのように気が長いのである。 とみえる』 くことは . ないじゃないか。何も、くことは』 くち 『あたりまえさ ! 』 そんなことを、耳へ唇をつけていってみたり、 まろ ふいに相手の胸いたを突くと、朱実は、そこを転び出して、 『娘やは、男を知らないのか、嘘だろう、もうおめえぐらいな かや 見えるかぎりタ月にそよぐ萱の波へ、 年頃で : : : 』 朱実は、いっそやの吉岡清十郎を思いだした。その時の苦し『人殺しつ、人殺しイっ : かった呼吸が考え出された。でも、あの時とは比較にならない 四 ・ : あの時のせつな ほど、心のどこかに落着いたものがある。 その時の精神状態からいえば、朱実より八十馬のほうが、 こそは、部屋のまわりの障子の桟も見えない心地がしたほどだ きちがい 時的ではあるが、完全な狂人であった。 ねえ さざんか さん つばみ ほぐ あご
しまったのも、彼自身は意識しない。 中本尸の柱を、揺りうごかし、それを引き抜いて振りまわし 真っ黒に集合してかかっ 。相手の頭数など問題でない。ただ て来るものが相手だった。それを、ただおよその見当で撲りつ 武蔵だ。宮本村の武蔵だ。 ちゅう けると、無数の槍と太刀が、折れては宙に飛び、また地へ捨て 近寄ってから、気づいた声である。番士たちは、わああっ られた。 と、二度目の武者声をあげ、 『姉上っ・ーー』 『見くびるな、強いそ』 裏へ廻る。 誡め合った。 あねじやひと 『姉者人 ! 』 武蔵は、くわっと、殺気に対して殺気に燃える眼をした。 と、そこらの建物を血ばしった眼で覗いてゆく。 『これだそッ』 『ーー。武蔵じゃ、姉者人ソ』 大きな岩を、両手にさしあげ、輪になっている人間たちの一 閉まっている戸は、引っ抱えている五寸角の柱で、軒ごとに 角へ向って、どすんと抛りつけた。 、けたたましく絶叫して、 突き破った。番人の飼っている鶏が その石は、真っ赤になった。鹿みたいにそこを跳ひこえて、 武蔵は走っていた。逃げるのかと思うと、反対に、番所のほう役宅の屋根へ飛び上って、天変地変でも来たように啼きぬいて へ向って、獅子のような髪の毛を逆立てて駈けてゆく。 『姉者人ツーー』 『ャヤ彼奴、どこへ ? 』 ぎん ゃんま 番士たちは、呆ッけにとられた。眼のくらんだ蜻蛉のよう彼の声は、鶏のようにシャ嗄れてしまった。お吟は、どこに も見えないのだった。姉をよぶ声が次第に絶望的になってき 、武蔵は飛んでゆくのだ。 『気が狂ッているんだ』 牢屋らしい汚い小屋の蔭から、一人の小者が、鼬のように逃 誰かが、そう叫ぶ。 げだすのを見つけた。 血しおで、ぬるぬるになった角柱を、そ 三度目の鬨の声をあげて、番所のほうへ追いかけてゆくと、 蔵 の足もとへ抛りなげて、 武蔵は、もうその正面の木一尸から中へ、躍りこんでいた。 おり しかし武蔵の眼には、厳め『待てッ』 武そこは、檻だ、死地である。 と、武蔵が跳びついた。 しく並んでいる武器も、柵も、役人も見えなかった。 意気地なく泣きだす顔を、びしゃッと撲りつけて、 弱『あツ、ロ者だ』 『姉上は、どこにいるか。その牢屋を教えろ。いわねば、蹴殺 と、組みついてきた目付役人を、たツた一拳のもとに仆して こんだ。 レ一を、 けん いたち
( こんなのが、将来に皆、どういう飯を食ってゆくのか ) 屋敷をたたみ、師の甥でもあり同門の友でもある草薙天鬼とい と、思うのだった。 巻う者と、どこかで落ち合おうというために、この旅行をつづけ ているものと見られる。 膝をかかえて、灰色の海をじっと見ていたと思うと、美少年 の は又、 『師の自斎には、何の身寄もありません。で、甥の天鬼には、 『 ! ー京都 ? 』 遺産といってもわすかでしようが、金を与え、遠く離れている と、つぶやいて、藤次のほうへ眸を向け直した。 私には、中条流の印可目録を遺してゆかれました。天鬼は、私 『京都には、吉岡拳法の遺子、吉岡清十郎という人がいるそう のそれを預かって、今諸国を修行にあるいていますが、来年の みちのり ひがん 彼岸の中日には、上州と周防とのちょうど中はどの道程にあたですが、今でもやっておりますか ? 』 る三河の鳳来寺山へ、双方からのばって、対面しようという約 束を書面で交してあります。そこで私は天鬼から師のおかたみ ゆる よいほどに聞いてみれば、だんだんロの幅を広くしてくる。 を受けることになっているので、それまでは近畿のあたりを悠 ゆる 気に食わない前髪めがと藤次は小癪に思う。 悠と、修行がてら見物して歩こうと思っているのです』 けれど考え直してみると、こいつはまだ自分が吉岡門の高弟 ようやくいうだけの事をいい綬たように、美少年は改め 祇園藤次なる者であることを知らないのだ。知ったらさだめし て、話し相手の藤次にむかい 言に恥じて、びつくりする奴に違いない 『あなたは、大坂ですか』 からが 退屈しのぎが昻じて、ひとっ揶揄ってやろうと、藤次はそこ 『いや京都』 で、 それきり黙って、暫く、波音に耳をとられていたが、 されば、四条の吉岡道場も、相かわらす盛大にやってお 『すると其許はやはり、兵法をもって身を立てて行かれる気 るらし、 、其許は、あの道場を訪れてみたことがあるか』 藤次はさっきから少し軽蔑した顔つきであったが、今もうん『京都へのばったら、ぜひ一度はどの程度か、吉岡清十郎と立 六、りしたよ , つにい、つ。この第一のよ、つに、 こう小生意気な兵法青合ってみたいと存じていますが、また訪ねてみたことはありま 年がうようよ歩いて、すぐ印可の目録のといって誇っているこせん』 とが、彼には、小賢しく聞えてならない 一したくなった。藤次は顔を歪めた後から、軽蔑をみなぎら そんなに天下に上手や達人が蚊みたいに殖えてたまるもの笑、 して、 第一自分などさえ、吉岡門に二十年近くもいて、やっとこ と身にひきくらべ、 『あそこへ行って、片輪にならすに、門を戻って来る自信が、 れ位なところであるのに ほうらいじさん 292
う歩み出していた時である。 て、静かに、生死の境を噛みしめておくがよい』 巻『あ。しばらくー・』 それなり草履の音はビタビタと彼方へ消えてしまった。 たけぞう 武蔵が空からいった。 武蔵も、それきり喚かなかった。彼にいわれたとおり、大悟の の なんじゃ ? 』 眼をふさいで、もう生きる気も捨て、死ぬ気もすて、颯々と夜 - 一めかぼし しん 遠くから沢庵が振向いて答える。 を吹くかぜと小糠星の中に、骨の髄まで、冷たくなってしまっ 地 たもののようであった。 『もいちど、樹の下へもどってくれ』 「ふム。 こ : つ、カ』 : ・すると、唯、 ニロ、つっ : すると樹上の影は突然、 樹の下へ立って、梢を仰いでいる人影があった。やがて千年 『沢庵坊ーー助けてくれッ』 杉に抱きついて、一生懸命に、低い枝の辺までよじ登ろうとす と、大声で喚いた。 るのであったが、樹のばりに妙を得ない人とみえ、少し登りか にわかに泣いてでもいるように、天の梢はふるえていう。 けると、木の皮と一緒に辷り落ちてしまう。 「ーー俺は、今から生れ直したい。 ・ : 人間と生れたのは大き それでもーー・木の皮より手の皮がすり剥けてしまいそうにな な使命をもって出て来たのだということがわかった。 っても , ーー倦まず屈せす、一心不乱に繰返してかじりついてい その生甲斐がわかったと思ったら、途端に、俺は、この樹の上るうちに、やっと、下枝に手が懸り、次の枝に手をのばし、そ いのち にしばられている生命じゃないか。 : アア ! 取り返しのつれから先は、難なく、高い所まで登ってしまった。 かないことをした』 そして、息を喘りながら 『よく気がついた。それでおぬしの生命は、初めて人間なみに 『 : : : 武蔵さん : : : 武蔵さん : : : 』 どくろ なったといえる』 武蔵は、眼だけまだ生きている髑髏のような顔を向けて、 『ーー・ああ死にたくない。 もう一ペん生きてみたい。生きて、 出直してみたいんだ。 : 沢庵坊、後生だ、助けてくれ』 『わたしです』 『いか , んー・』 コ・ : : お通さん ? 断乎として、沢庵は首を振った。 『逃「け・き ( ー ) よ , つ。 『何事も、やり直しの出来ないのが人生だ。世の中のこと、すたね』 べて、真剣勝負だ。相手に斬られてから、首をつぎ直して起ち『逃げる ? 』 ふびん 上ろうというのと同じだ。不愍だが沢庵はその繩を解いてやれ『え : わたしも、もうこの村にはいられないんです。 ん。せめて、死に顔のみぐるしくないように、念仏でも唱え いれば : : : ああ堪えられない。 ・ : 武蔵さん、わたしは、あな いのち : あなたは、生命が惜しいと先刻いいまし み - っ -
子 『では、拙僧の首をですか。 ん。立てつ』 つまらない』 『書物はもう伏せました』 『 . 何じゃと』 『眼ヤ、わりじゃ 『坊主の首を斬るほど張合のないものはない、胴を離れた首 『では、お通さん、書物を部屋の外へ出しておくれ』 が、ニコと笑って居たりしていたら、斬り損でしよう』 『書物がではない、其方という者が、酒の座に、不景色でいか 『オオ、胴を離れた首で、そう吐かしてみいッ』 んというのだ』 1 一くうそんじゃ 『然し 『困りましたな。悟空尊者のように、煙になったり、虫に化け にようぜっ 沢庵の饒舌は、彼を怒らすばかりだった。太刀の柄にかかっ て、膳のすみに止まっているわけにもゆかず : : : 』 ている拳は、憤りにガタガタふるえていた。お通は身をもって 『退がらんかっ ! ぶ、ぶ礼な奴だ』 沢庵を庇いながら、沢庵の弄舌を泣き声出してたしなめた。 遂に、怒り出すと、 、、むらい 『何をいうのです沢庵さん、お武士様へ向って、そんな口をき 。し』 、袤生ですから、謝っておしま く人がありますか。謝りなさい彳 と、一応畏まって、沢庵は、お通の手を取った。 『お客様は、独りが好きだと仰せられる。孤独を愛す、それ君いなさい。斬られたら、どうしますか』 だが、沢庵は未だいっこ。 : さ、お邪魔しては悪い、あちらへ退がろう』 子の心境だ。 なアに大丈夫。多くの人数 『お通さんこそ退いておいで。 『こツ、こらっ』 を抱えながら、二十日も費して、未だに独りの武蔵を成敗でき 『何ですか』 ない能無しに、何で沢庵の首が斬れよう。斬れたらおかしい。 「だれが、お通まで、連れて退がれと申したか。自体、其方は 余程おかしい』 平常から傲慢で憎い奴だ』 み、むらい 『坊主と武士で、可愛らしい奴というようなのは、まあ尠のう 五 ごさいますなあ。 例えば、あなたの髯の如きも』 『ウヌ、 , つ、こくなっ』 『直れつ ! それへ』 どじよう髯は、満顔に朱をそそいで、太刀の鯉口を切った。 床の間に立てかけてある陣刀へ手をのばした。そしてどじよ 『お通、退いとれ、ロから先に生れたこの納所めを、真二ツに う髯が、ビンと刎ね上ったのを、沢庵は、まじまじと見つめ してくれねばならん』 て、 お通は、沢庵を後にい、彼の足もとへ身を伏して、 孫『直れとは、どういう形になるのですか』 『お腹立ちでもございましようが、どうぞ堪忍してあげて下さ 『愈く、怪しからぬ納所め。成敗いたしてくれる』 ろうぜっ : あはははは、およしなき、い