無 と田 5 っ たずんで、じっと海の碧さを見つめていたが、アッ た時は、黒髪をちらしているその姿は、もう飛沫を蹴って、真 『、い山・か』 一文字に海へ駈けていたのであった。 『まき、か : だがこの浦は前にもいったとおり五町六町の沖まで潮が浅い ので、先に走ってゆく女の姿も、まだ脚の半分ほどしか隠れて と、救って来た漁師たちは、砂の上へ寝かした二つの体を見 、し十 / 、し てわらった。 白い水けむりを浴びて、赤い袖裏や金糸の帯が光っている。 権叔父のからだは、慥乎と若い女の帯をつかんでいた。その たいらのあつもり あたかも平敦盛が駒を沈めて行くかのように見えるのだっふたりとも、息はなかった。 若い女は、髪の毛こそ、根が切れて乱れていたが、まだ生き 、 ( わ , ついッ 『女あツ・ 女っ・ てるように、化粧の白粉や口紅が浮き上っていた。紫いろにな やっと、間近まで追いついて、権叔父がこう呶鳴ったとたんった唇をチラと噛んで笑っているのである。 にーーーそこから急に底が深くなっているのであろう、ガポと、 『オオ、この女は見たことがあるぜ』 『さっき浜べで、貝殼をひろっていた女じゃよ、 異様な一声を水面に残して、女のすがたは不意に大きな波紋の 下にかくれてしまった。 『そうだ、あの宿屋に泊っている女だ』 『やれ不心得者つ、やはり死ぬ気か』 そこへ報らせに行くまでもなかった。むこうから四、五人し ずぶすぶと、権叔父も同時に、全身まで沈みこんで行った。 て駈けて来るのがその宿屋の者らしく、中に、吉岡清十郎の顔 も見える。 ここの人だかりに、さてはと自 5 を喘いて来た清十郎は、 岸では、隠居が、波打ち際に沿って横へ駈け廻っていた。 一沫の水けむりと共に、女の影も、権叔父のすがたも見えな 『おつ、朱実だ』 くなると、 真っ蒼になってーーしかし人前を邸るように、棒立ちにん でしまった。 『あれつ、あれつ、誰そ、早く行かねば、間にあいはせぬつ。 二人とも死んでしまうわッ』 『お侍、おめえの連れか』 と、まるで他人のせいみたいに喚いて、 『そ、そうだ』 『はよう、助けに行けつ、浜の者つ、浜の者っ』 『はやく、水を吐かしてやんなせえ』 と、転んだり駈けたり、また、手を振り廻したり、自分が溺『た、たすかるか』 れるかのように騒いでいた。 『そんなことをいってる間に』 まっ ひと あお わめ 四 しつか せ 3 〃
童心にも、女の美醜は映るとみえる。美醜はともあれ、清純 眺めていた旅の若い女は、城太郎の欣ぶのを共に欣んで、 らない気 か不純かを率直に感じるに違いない 巻『ご親切に、有難うございました』と、彼の 城太郎は、改めて美麗な人だなあ、と眼の前の女に尊敬を を、彼に代って礼をいった。 の もった。こんな美麗な女の人と道づれになったのは、何か、飛 髯侍は、城太郎やその女性と、歩調をあわせて歩みながら、 んでもない幸福につかったようで、急に、動降がしたり、気 「お女中、この小僧は、あなたのお連れか』 がふわふわして来た。 しいえ、まるで知らない子でございますけれど』 『笛かあ、成程』 『ははは、どうも釣り合いが取れぬと思った。おかしな小僧だ 独りで、感、いして、 の、笠のきちんが振っておる』 『おばさん、笛吹くの ? 』 『無邪気なものでございますね、何処まで行くのでございま だが、若い女に対して、おばさんと呼んで、この間、よもぎ 二人の間に挾まって城太郎はもう得々と元気に返っていて、 の寮の娘に怒られたことを城太郎は思い出したのだろう、また 『おらかし ? ・ おらは、奈良の宝蔵院まで行くのさ』 そういって、ふと、彼女の帯の間から、見えている古金襴のあわてて、 『お女中さん、なんという名 ? 』 袋をじっと見つめ 突拍子もなく違った問題を、しかし、なんのこだわりもな 『おや、お女中さん、おまえも状筒を持っているんだね、落さ く、急に訊き出すのである。 ないよ、つにした亠力がいしよ』 旅の若い女は、 『状筒を』 『ホホホホホ』 『帯に差しているそれさ』 城太郎には答えないで、彼の頭越しに顎髯の侍のほうを見て 『ホホホホ。これは、手紙を入れる竹筒ではありません。横笛 熊のような髯のあるその武家は、白い丈夫そうな歯を見せ 城太郎は、好奇な眼をひからかして、無遠慮に女の胸へ顔をて、これは大きく哄笑し 人の名を問う時は、自 『このチビめ、隅には置けんわい 近づけた。そして何を感じたものか、次には、その人の足もと 分の名から申すのが礼儀じゃ』 から髪まで見直した。 『おらは城太郎』 『ホホホ』 し、ろ - 一 こきんらん あごひげ わ 2
『さすってあげよ』 女たちは、通せんばして、武蔵の袂をとらえ、笠をつかま え、腕くびをとり、 『そんな恐い顔したらよい男が、だいなしになるがな』 武蔵は顔をあからめて、物もいい得ずただうろたえた。彼 は、こういう敵には何の備えもないようだった。しきりと謝ま ってばかりいる。その生真面目ないいわけを、女たちはまた、 豹の子みたいで可愛らしいといって笑う。そして白い手の暴力 保元物語に見える伊勢武者の平忠清は、この古市の出生とはやまないのである。武蔵はいよいよ狼狽して、見栄もなく、 あるが、今は、並木の茶汲み女が、慶長の古市を代表してい奪られた笠を捨てたまま逃げ出した。 女たちの笑い声が、並木の空をどこまでも尾いて来るような むしろあ しず めぐ 気がした。武蔵はあの白い手の群に掻き荒された血が容易に鎮 竹の柱を結い、筵編みの揚蔀に、色褪せた帳など繞らして、 まらないで困った。 並木の松の数ほど白枌の女たちが出ていて、 『寄って行かっしゃれ』 彼も女性というものに決して無感覚ではいられない。彼は永 旅のあいだに、ロ 『茶など、あがりゃんせ』 何処でもそういう困る目に遭った。ある夜 は、そのために、寝ぐるしくなることさえあった。白枌のにお 『そこな若衆』 いを思って暴れる血を縊めころすように抑えて眠る努力は、剣 『旅の衆』 の前に見る敵とはちがって彼も、どうすることもできないので 往来の旅客をつかまえて、真昼も夜もけじめがなかった。 むれ 内宮へ行くには、いやでも口さがない女の群の眼を浴びたある。この性の心烙が体じゅうを焼いて、寝がえりばかり打っ り、袂の用心をしながら歩かなければ行かれない。山田を出たて明かす夜には、お通のおもかげさえ醜い欲情の対象に、想い 武蔵もまた恐い眉と唇を持って、痛む足をひきずりながら、鈍出してみるほどだった。 どん びつこ 常。にも、彼は今、片方の脚が痛かった。少し無理に駈 鈍と、跛行をひいてここを通った。 けたので、その脚は、まるで熔鉄の中へ踏みこんだように、、 『あれ、武者修行さん』 ひとあし つかと熱を持って、一歩ごとに、激痛が足の裏から眼へ突き抜 神『足をどうなされた』 けて来る。 『癒してあげよ』 泉 泉 あげじとみ たいらの ふるいら どん ひょう ! まじめ 335
ことばかりいってるんじゃあり 『やつばり、男のつごうのいい 『お世話やきね』 巻『そうそう、よく喝破した。坊主という職業は、まったく、おませんか』 てんじく せツかいな商売にちがいない。だが、米屋、呉服屋、大工、武『それは、古代の天竺国が、日本よりは、もっともっと男尊女 の それから、竜樹菩薩は、 士ーーーと同じように、これもこの世に不用な仕事でないから有卑の国だったからしかたがない。 そもそも ることも不思議でない。 抑くまた、その坊主と、女人と女人にむかって、こういうことばを与えている』 じ 1 一くし 地 やしゃ は、三千年の昔から仲がわるい。女人は、夜叉、魔王、地獄使『どういうこと ? 』 つう などと仏法からいわれているからな。お通さんとわしと仲のわ『女人よ、おん身は、男性に嫁ぐなかれ』 「ヘンな言葉』 るいのも、遠い宿縁だろうな』 『おしまいまで聞かないでひやかしてはいけない。その後にこ 『なぜ、女は夜叉 ? 』 、つい、つ一 = ロ葉がつく。 女人、おん身は、真理に嫁せ』 『男をだますから』 『男だって、女をだますでしよ』 『わかるか。ーー・真理に嫁せ。ーー早くいえば、男にほれる 『 , ーー - 待てよ、その返辞は、ちょっと困ったな。 な、真理に惚れろということだ』 わかった』 『真理って何 ? 』 『さ、答えてごらんなさい』 しやか 『訊かれると、わしにもまだ分っていないらしい』 『お釈迦さまは男だった : 『ホホホ』 『勝手なことばかしいって ! 』 『いっそ、俗にいおう、真実に嫁ぐのだな。だから都の軽薄な 『だが、女人よ』 あこがれの子など孕まずに、生れた郷土で、よい子を生むこと 『オオ、 , つるさい』 ばだい 『女人よ、ひがみ給うな、釈尊もお若いころは、菩提樹下で、 よくぜん 『また : 欲染、能脱、可愛、などという魔女たちに憑きなやまされて、 ひどく女性を悪観したものだが、晩年になると、女の御弟子も打っ真似をして、 りゅうじゅばさっ 『沢庵さん、あなたは、花を刈る手伝いに来たんでしよう』 持たれている。童樹菩薩は、釈尊にまけない女ぎらい : あいらくゆう ずいじゅんしまい 『挈、、つらしい』 アない : : : 女を恐がったお方だが、随順姉妹となり、愛楽友と ひし 『じゃあ、喋舌ってばかりいないで、すこし、この鎌を持って : これ四賢良妻なり、 なり、安慰母となり、随意婢使となり : などと仰っしやっている、よろしく男はこういう女人を選べと下さい』 『おやすいこと』 いって、女性の美徳を讃えている』 お しようばい : そうそう しゃ・ヘ とっ
いたずら ったことばも、深夜になればそれは皆、悪戯ごとのようにあの 『ーーー何のざまだっ、意気地なしめ、このざまは、このペソ 女の央楽の蜜に変ってしまうのだ。四十に近い年になっても、 あかあか それは自分を罵っているのである。ー・・・・・腑がいない、小癪に娘の朱実に劣らない臙脂を紅々と溶かしている唇。 それもある。また。 すべて自分に対する自分の憤懣を発して さわる、浅ましい いざとなると、此処を出ても、お甲や朱実の目にふれるとこ いる所作なのだった。 かっ こ , つい、つル ~ ろで石担ぎをやる勇気も又八は持ち合せていない。 『ーー、出ろと、あの女めがいうのだ。堂々と、出て行けば、 何をこんな家に、こんな歯ぎしり噛んでまでいなければな活も五年となれば、彼の体にも怠けぐせが沁みこんでいること しい若い者は勿論だった。肌に絹を着、灘酒と地酒の飲みわけがつくよう らない理がある。まだ、俺だって二十二だ。 になっては、宮本村の又八もはや、以前の質朴や剛毅さのあっ がらんと急に静かになった留守の家で、又八は独りで声を出た土くさい青年とはちがう。殊にまだ二十歳前の未熟なうちか ら、年上の女と、こういう変則な生活をして来た青春が、いっ していった。 のまにか、青年らしい意気に欠け、卑屈に萎み、依怙地に歪ん 『その通りだ、それを』 いても起ってもおれなくなる。なぜだ ! 自分にもわからなでしまったのも、当り前たった だがー・ムフ日こそは。 昆沌と一跟がこんがらかるばかりだ。 この一、二年の生活で、頭が悪くなったことを又八は自分で『畜生、後であわてるな』 も認めている。たまッたものではない、自分の女が、よその男憤然と、自分を打って、彼は起った。 の席へ出て嘗って自分へしたような媚態をほかへ売っているの 夜も眠れない。昼も不安で外へ行く気も出ない。そしては 『出てゆくそ、おれは』 悶々と、陽かげの部屋で、酒だ、酒である。 ばばあ いってみたところで、家は留守である、誰も止め人はない。 あんな年増女にー こればかりは遉に離さない大きな刀を、又八は腰にさし、そ 彼は忌々しさを知っている。目前の醜いものを蹴とばして、 ギノ 大空へ青年の志望を伸ばすことが、せめて遅くとも、過誤の道して独りで唇を噛みしめた。 『俺たって、男だ』 陽をとり返す打開であることもわかっている。 のれん ャ ) 0 表の暖簾口から大手を振って出ても決して差しつかえないも ふだん ふしぎな夜の魅惑がそれを引きとめる。どうした粘力だろのを、平常の癖である、台所口から汚い草履を突 0 かけて、ぶ いと外へ出た。 出て行けの、厄介者のと、癇だかく罵 う。あの女は魔か さて か人 はたち て ゆが 〃 7
と、すがる。 そして、男と女のこと 見つけてくれたのも沢庵さんです。 だ。これから先は知らないョ、と謎みたいなことをいって、昨『いつでも、お店では、暇を下さる約束になっているんですか ら、すぐわけを話して、支度をして来ます。待っていて下さい 日も店でお茶を飲んでゆきました』 亠ましね』 『アア。そ , つか : 武蔵は、西の道を振向いた。たった今、別れた人と、いっ 武蔵はお通の白い手を橋の欄干へ抑さえつけた。 又、会う日があるだろうか。 思い直してくれ』 今になって、更に、沢庵の大きな愛を感じ直した。自分へだ 『 ) 、つい , っ風に』 けの好意と考えていたのは自分が小さいからだった。姉へだけ 『最前もいったとおり、わしは、闇の中に三年、書を読み、 でもない、お通へも、誰へも、その大きな手は平等に行き届い えに悶え、やっと人間のゆく道がわかって、ここへ生れかわっ ていたのである。 たけぞう いや名も て出て来たばかりなのだ。これからが宮本武蔵の 武蔵と改めたこの身の大事な一日一日、修業のほかに、なんの 心もない。そういう人間と、一緒に永い苦艱の道を歩いても、 ( ーー・・男と女のことだ。これから先は、知らないよ ) そう沢庵がいい残して去ったと聞くと、武蔵は、心に用意しそなたは決して、倖せではあるまいが』 『そう聞けば聞くほど、私の心はあなたにひきつけられます。 ていなかった重いものを、ふいに、肩へ負わされた気がした。 九百日、開かずの間で、眼を曝してきた尨大な和漢の書物の私はこの世の中で、た 0 た一人のほんとの男性を見つけたと思 中にも、こういう人間の大事は一行もなかったようである。沢っております』 かん 『何といおうが、連れてはゆかれぬ』 庵もまた男と女の問題だけは、われ関せす焉、と逃げた。 『でも、私は、どこまでも、お慕い申します。御修業の邪魔さ ( ーー男と女のことは、男と女で考えるほかはない ) : ね、そうでしよう』 えしなければよいのでしよう。 そういう暗示か、 ( それ位なことは、せめて自分で裁いてみるがいい ) 橋 『きっと、邪魔にならないよ , つにしますから』 と自分へ投げた試金石か 橋の下を行く水を凝と見つめたま 武蔵は、思い沈んだ。 田 『ようございますか、黙って行ってしまうと、私は怒ります : すぐ来ますから』 よ。ここで待っていてくださいね。 花するとこんどは、お通からその顔をさしのそいて、 そう自問自答して、お通は、いそいそと、橋袂の籠細工屋の 『い、でしよ、つ。 ま。 み、ら えん じっ おと - 一 か′一
らしくもあるし れからどっちを歩こうという岐れ道の相談じやろ』 そんなわけでぶらりとこの地方を歩いて来た沢庵であるか : じゃあ ? ・』 ら、その柳生谷に近い山で、お通のすがたを見かけたことは、 『今更、そんなことに、迷ってはおりません』 さまで意外としなかったが、お通の話によって、 うつむ 俯向きがちな彼女のカのない横顔を見れば、草の色も真っ暗 『惜しかった』 と、彼も舌を鳴らして嘆息したのは、たった今、武蔵が伊賀に見えているであろうほど、滅失の中の人だったが、そういっ た一言葉の語尾には、沢庵も眼をひらいて見直すくらい、強いカ 路のほうへ向って駈け去ったということであった。 が , ) 、もっプ、い 4 」 『あきらめようか、どうしようか、そんな迷いをしているくら : これからも いなら、私は七宝寺から出てなど参りません。 行こうとする途は決まっているのです。ただそれが、武蔵さま ふため の不為であったら 私が生きていてはあの方の幸福にならな いのなら 私は自分を、どうかするほかないのです』 『ゾ」、つかオ ; QA 」は』 『今いえません』 『お通さん、気をつけな』 そこの胡桃の本の丘から、石舟斎のいる山荘の麓まで、城太『何をですか』 しおしお 『おまえの黒髪をひつばっているよ。この明るい陽の下で死神 郎を連れて、門々と引っ返してゆく間に、沢庵からいろいろ問 いただされて、お通がつつみ隠しなく、その後の自分の歩いてが』 『私には何ともありません』 来た途やらこの度のことを、彼なれば何でもと心をゆるして、 だが、死 『そうだろう、死神が加勢しているんじゃもの。 語りもし相談もしたであろうことは、想像に難くあるまい 『む。 ぬはどうつけはないよ。それも片恋ではな。ハハハハハ』 ひと′一と 沢庵は、妺の泣き言でも聞いてやるように、うるさい顔もせ まるで他人事に聞き流されるのがお通は腹だたしかった。恋 の をしない人間になんでこの気持がわかる。それは沢庵が、愚人 ず幾たびも頷いて、 女『そうか、なるほど、女というものは、男にはできない生涯ををつかまえて禅を説くのと同じである。禅に人生の真理がある 選ぶものだ。 なら、恋のうちにも必死な人生はあるのだ、尠くも、女匪にと そこで、お通さんの今考えていることは、こ みち くるみ 女の道 わか すくな
『な、なんだ、この婆』 顔を掩って逃げ走った。 つかみかかると、 巻隠居の白い髪が風に立った。 『邪魔なっ』 『お通阿女っ』 の と、弾力はないが、怖ろしく固いカで刎ね退ける。 次のことばは、老婆の極度に揚げた息のために、声が挫げ なんのためにお通が しったいこのお婆さんが何者なのか て、 あんなに驚いて逃げたのかー ! , 城太郎にはまるでわからない。 『用があるツ、待たっしゃれつ』 わからないが、 しかし事態の凡事でない事たけは感じる。そ つんざくように水へ響いた お杉隠居の邪推からこの場合の結果を判断すれば、こういうれに、宮本武蔵の一の弟子、青木城太郎ともあるものが、老婆 の紐肱に刎ねとばされて引っ込んでいられたものではあるま 風にはなはだしく悪くとったかも知れない。 武蔵が自分へ苫を被せたのは、お通とここで逢曳きする約束 『ばばツ、やったな』 があったからにちがいない。その上の痴話が何かにこじれて、 いキ ) な もう二、 三間も先へ行くお杉隠居のうしろから、 武蔵が女を振切って去ったので、お通阿女は泣き声をしばって り跳びついてかかると、婆は孫の首根ッこをつかんで仕置する 男を呼び返しているのだろう。 時のように、左の腕の中に城太郎の顎を引っかけ、三つ四つ、 ( そうだ ) と咄嗟に、自分の思うことをこの老婆は、すぐ自分だけで事びしゃびしゃ撲叩いて、 『餓鬼のくせに、邪魔だてするとこうだそよ、こうだぞよ』 実としてしまう。 『カ、カ、カ : ・ : こ ( 憎い阿女 ) 喉の骨を伸ばしたまま、城太郎は、木剣の柄を握ることだけ 武蔵以上の憎しみを、お杉はお通へ抱くのであった。 まだ約束だけで家にも入れないうちから、息子の嫁は自分のは握っていた。 、息子が嫌われたことは、自分が嫌われたこと 嫁のように思、 としより いきどお 四 のように憤ったり、怨みに思う老婆だった。 なしいにせよ、辛いにせよ、人はどう見るか知れないが、 『待たぬかっ』 ふた声目のさけびが聞えた時は、この隠居が、さながらロをお通自身にとれば、今の心の置き方は、またその生活は、決し 耳まで裂いたかと思われる形相で、風の中を走っている時だって不幸なものでなかった。 希望もあれば、その日その日の楽しさもある若い日の花園た った。もちろん辛いとか悲しいとかのことの多い中にではある おどろいた城太郎が、 おお 428
程経て、お通が外へ出て来たころには、もう誰もいなかっ 巻た。炊事をする老婆と、病人の巫女が一室にしんと留守してい るだけだった。 の 蕭々と、落葉樹の冬木立は、この世とも思えない、神苑の 『お婆さん、これは誰の物か、心あたりがないのですか』 お通は、そう糺してみた上で、武者修行風呂敷でくくりつけそよ風に鳴っていた。 てある大小を下ろしてみた。 一すじの煙がーーーその煙さえ何となく神代のもののように たけばうき うつかり持っと、手から落ちそうに重かった。どうしてこん 疎林の中からあがっている。その煙の下には、竹箒を持っ な重量のあるものを男は平気で腰にさして歩かれるかと疑っている城太郎の姿がすぐ聯想された。 お通は足を止めて、 『ちょっと、荒木田様まで、行って来ますから』 ( あそこで、働いている ) 留守の婆やにいって彼女は、その重い物を両手にかかえて出 と思うた。そう思うだけでも、微笑みが頬へのばって来るの である。 て行った。 お通と城太郎の二人が、この伊勢の大神宮の社家へ身を寄せ あの腕白が。 たのは、もう二月ほど前のことで、伊賀路、近江路、美濃路あの、きかん坊が。 この頃はよく素直に、自分のいうことをきき、また、遊びた と、あれから後、武蔵のあとを捜しに捜しぬいた揚句、冬にか かると、さすがに女の山越えや雪の中の旅には耐えかねて、鳥い盛りを、ああやって働いていてくれると思う。 わぎ ーンと本を折るような音が響いて来る。お通は、 羽の辺りで、れいの笛の指南をして逗留しているうち、禰宜の 荒本田家で伝え聞いて、子等之館の清女たちへ、笛の手ほどき重い大小を両の手にかかえていたが、つい林の小道へ入って、 をしてくれまいかという話であった。 『城太さアーン』 すると、 そこで指南することより、彼女はここに伝わっている古楽を はるあなた 知りたかったし、また、神林の中の清女たちと幾日でも暮して やがて遙か彼方で、 『おおウいっ』 みることも好ましくて、乞わるちままに身を寄せたのであっ 相変らず元気にみちた城太郎の返辞が聞え、間もあらずそれ は駈けて来る跫音となって、 その際、都合のわるいのは連れの城太郎であって、少年だか 『お通さんか』 らといってこの清女の寮に一緒に住むことは当然許されないの で、やむなく彼は、昼間は神苑の庭掃きを命じられ、夜になる と、眼のまえに立った。 と、荒木田様の薪小屋へ帰って眠っていた。 しようしよう まき ほほえ 342
城太郎は救いたいし、お杉隠居のそばへ寄るのは怖ろしい のように逃げるのじゃ。以前、三日月茶屋でもそうじゃった 巻し、彼女はうろうろするよりほかなかった。 が、今も、わしを鬼かのように、すぐ逃げなさる その心 得が、そもそも解せぬというもの。この婆の心底がわからぬか の 五 いの。そなたの思い違いじゃ、疑心暗鬼じゃ、ばばは決して、 『ノ、ツて、ノ、挈」、は、は』 そなたなどに害意は持たぬ』 城太郎は、木剣を抜いた そう聞くと、彼方に立っているお通はまだ疑わしげな顔して 本剣は抜いたがさて、自分の首根ッこは、隠居の腋の下へつ したが、隠居の腋の下から城太郎が、 いたず 『はんとかし よく抱え込まれ、これはいくらもがいても離れないのだ。徒ら ほんとかいおばば」 に、地を蹴ってみたり、空を打ってみたり、暴れるほど、敵を 『オオ、あの娘は、この婆の心を、思い違えているらしい 誇らせるに過ぎないのである。 ・こ、、こ布い人間のよ、つに』 わっぱ まね 1 一と 『この童が、なんの芸じゃ、虹の真似事かよ』 『じゃあ、おいらが、お通さんを呼んで来るから、この手を、 隠居は、三つ唇のように見える長い前歯に、勝ち誇った強味離してくれ」 をみせて、なお、ぐいぐいと河原を引き摺って前へ歩いて来た 『おっと、そんなこというて、手を離したら、この婆へ木剣を くれて、逃げる気であろうが』 ( 待てよ ) 『そんな卑怯なまね、するもんか。お互し 、に、思い違いで喧嘩 彼方に立ちどまっているお通の姿を見てから、急に、老婆らしちゃ、つまらないからさ』 - : っ亡ノ しい狡智を思いついて、胸のうちでそう呟いこ。 『では、お通阿女のそばへ行ってこういうて来う・ - ーー - - - ・本位田の 隠居が思うには、これはどうもますい。老婆の脚で追いか け隠居はの、旅先で、河原の権叔父とも死に分れ、白骨を腰に負 たり、力すくで争っているから埒があかないというものであうて、老い先ない身をこうして旅にまかせているが、今では、 る。武蔵のような相手では、騙しも利かなしが、この相手は甘むかしと違うて、気も萎えた。一時は、お通の心も恨みと思う やかせば甘やかせる女子供、舌の先でくるめておいて、後でい たが、今ではさらさらそんな気もない。 ・武蔵には知らぬ しよ、つに料理してしま、つに日くはない 事、お通阿女は今も嫁のように思うているのじゃ。元の縁へ返 でーー隠居は遽に、 ってくれとはいわぬが、せめては、このばばの過ぎ越し方の愚 『お通よ、お通よ』 痴や、この先の相談事でも聞いておくれる気はないか。このば 手をあげて、彼方の姿を、さしまねいた。 ばを、あわれな者とは思っておくれぬかと : 『ー、ーのう、お通阿女よ、なんで汝れは、ばばの姿を見るとそ『おばば、そんなに文句が長いと、覚えきれないよ』 にわか わき