* 、つき 歩も出て来ないし、先刻からロもきかないのである。 『ひッ縛った上で、訊く事は訊く』 巻絶体絶命、身うごきのつかない谷間の空の朽木橋に置かれた『益もない殺生したくない。 もう一言申せ。何でわしが隠密 の権之助が、怒髪天を衝いて、死地から叫ぶすがたを、山伏は一 か、その理由を』 明方の崖から冷ややかに眺めて、 『怪しげなる男、童子一名つれて、江戸城の軍学家北条安房の 『賊とは何』 密命をうけて上方へ潜行すーーと、関東の味方の者から疾く通 円 ちょう と、するどく咎めた。 牒のあった事だ。然もここへ来る前、柳生兵庫や家臣の者と 『程の知れた汝らの路銀などに目をくるる徒輩と思うか。さよも、忍びやかに諜し合せて来た事まで見届けてある』 うな浅い眼では、敵地へ隠密に来る資格はないぞ』 『すべて、根から間違いだ』 『ょにつ、隠密だと』 『有無はいわさん。行く先へ行ってから、いくらでも申せ』 『関東者っ』 『 ~ 打く先とは ? ・』 山伏は、大喝して、 『行けばわかる』 『谷へ、その棒を捨てろ。次に腰の大小を捨てろ。そして両手『わしの意志だ。行かなかったら : を後へまわし、おとなしく繩目にかかってわれわれの住居まで すると。 あきんど ついて米い』 橋の左右を塞いでいた旅商人の杉蔵、源助と称するふたり が、槍の穂へ、キラと陽を吸って、 権之助は大きな息をついて、とたんに闘志の大半を失ったよ 『突き殺すまでだっ』 と、にじり火円った。 『待て、待てつ。今の一言で初めて解けた。 何かの間違い 『何を』 事だろう。わしは関東から来た者に相違ないが、決して、隠密 いうとすぐ、権之助は、側へかかえよせていた伊織の背なか などではない。夢想流の一杖を一道として、諸国を修行しあるを、平手でどんと突いた。わずかにやっと、足を乗せて渡れる く夢想権之助という者』 だけの幅しかない二本の丸木から、伊織は身をのめらしたの 『いうな、くどくどとそんないい抜け。。 とこに、自分は隠密なで、 りと名のって歩く隠密があろうか』 『いや、まったく』 声もろとも、二丈の余もある断層の底へ、自分から飛んだよ 『耳は仮さん。この期になって』 うに、墜ちて行った。 『では、あくまでも』 咄嗟に、又、 しめ つう 29 イ
よくも めは、自分に脚を斬られて逃げた狐のほうに違いない。 伊織は、草むらの中に、身づくろいをしながら、 よくもこう巧く化けて来たものとーー伊織は舌を巻くと共に、 ( おらの隠れていることを知らないな ) ぶるぶるツと、身ぶるいを覚えて、思わず、尿を少し洩らして と、思って、刀をかたく持ち直していた しまった。 そして彼女が、もう十歩はど出て、南の方の坂道を降りかけ ・一と びつこ たら、飛び出して、馬の尻を斬ってやろうと考えていた。 その間に、騎馬の女と、跛行の侍は、何か、ふた言三言話し 化けている象から何尺か後に身を置ていたが、やがて侍は馬のロ輪をつかんで、伊織のかくれてい 狐というものは大概 いているものだと これも幼少からよく聞いていた俚俗の狐る草むらの前を通りすぎた。 狸学を思い出して、伊織は固唾をのんでいたのである ( 今だ のみならす と、伊織は田 5 ったが、体がうごかなかった。 騎馬の女性は、坂のロのてまえ迄来ると、ふと、駒を止めてその微かな身動きをすぐ気どったらしく、馬のそばから振り顧 ふえぶくろ しまい、吹いていた笛を、笛嚢に納めて、帯のあいだに手挾んった跛行の若い侍は、伊織の顔を、ぐいと睨みつけて行った。 かっ ! だ。そしてーーー眉の上に当る被衣の端に手をかけて、 その眼ざしからは、山の端の赤い日輪よりも、もっとするど い光が、ぎらりと射したような気がした。 何か、探すような眼をして、鞍の上から見まわしているので で、ー。・ー伊織は、思わす草の中に俯ッ伏してしまった。生れて あった。 から十四の年まで、こんな怖いと思ったことはまだなかった。 おそ おつうどのう。 自分の位置を覚られる惧れさえなかったら、わっと、声をあげ 又しても、どこかで同じ声が聞えた。 と思うと、馬上のて泣き出したかも知れなかった。 ほころ 佳人は、ニコと白い顔を綻ばせて、 ひょう′一 『お。ーー兵庫さま』 と、小声にさけんだ。 するとやっと、南の谷から、坂道を上って来たひとりの侍の . ねノノ、 影カーー伊織の眼にも分った。 っ オヤッ ? 伊織は、愕然とした。 びつこ 道何とその侍は、跛行をひいているではないか。さき、自分 が斬りつけて逃がした狐も跛行だった。察するところ、この狐 かたず かたち
かった。物を無駄にせず、几帳面な質で、自然、一椀の飯に すると。 丑之助は、むしろの端から起ちかけた。 も、毎日の天候にも、感謝を知っていた。 先刻から、彼方で、 だから又、人にも、違った事は、許さない潔癖がある。 『オヤ ? 』 この潔癖は、武蔵の手を離れて、人中へ出るほど育てられて来 と、野の芝地を見まわして、 で、一枚の莚といえど、ひとの迷惑を思わず、無断で 『莚がない。莚がない』 持って行った人間の心根を、伊織は憎んでやまないのであっ と、探している二人の旅の者があった。兵庫たちの居る所か ら、十間ほど離れた場所で、そこらには牢人者だの、女だの、 あいっ等だな』 町の者などが、まばらに居たが、旅の者が失くした莚は、誰も伊織は、遂に見つけた。 敷いていなかった。 権之助が旅に持ち歩いている寝莚を、平気で敷いて、弁当を 『伊織。もういし』 喰べている三人の主従を。 探しあぐねて、一人がいった。 おいっ』 がっちりと、丸こい顔と固い筋肉をして、四尺二寸の樫の杖伊織は、そこへ駈けて行った。だが、十歩ほど手前で先す立 を提げている男だった。 ち止まって、抗議の文句を先ず考えていると、折ふし、湯を貰 伊織の連れとあれば、これはいうまでもなく、夢想権之助。 しに起った丑之助が、出合いがしらに、胸を寄せて、 『もうお止し。探さないでもいい』 『なんだい』 重ねて、権之助はいったが、 伊織はなお諦めきれぬ顔して、 と、彼に答えた。 『何奴だろ。誰かがきっと、持って行ったにちがいないよ』 『まあいいよ。たかが莚一枚』 『莚一枚でも、だまって持って行った心根が憎いもの』 明けて十四。丑之助は取って十三だった。然し丑之 助の方が、ずっと年かさに見えた。 権之助はもう忘れて、草の上に坐りこみ、矢立を出して、昼『何だいとは、何だい』 こづかいちょう 前の旅の小遣帳をつけていた。 伊織は丑之助の不作法を咎めた。丑之助は、土地の者らしく 彼が、旅の間にも、こういう事を克明に誌けるようになった ない此の小さい旅人を鼻先で迎えて、 てめえ 草のも、伊織と旅をし、伊織に感心してからの事である。伊織 『そうい 0 たのが悪いか。汝から呼んだから、何だいと訊いた は、時には、子どもらしく無さ過ぎるほど、生活には用意ぶかんだ』 埃 むしろ かしじよう たち
彼の持って来る山芋は、この附近の山芋よりうまかった。 りはしましカ』 いんしゅん で、助九郎が戯れ半分に訊くと、 巻胤舜の話に助九郎は家臣の一人としても、 『きようは芋は持って来なかったけど、これをお通さんに持っ の『よいお知らせを賜わりました。早速、取り糺して抗議いたし て来た』 明ましよ、つ』 わらづと と、丑之助は、手に提げていた藁苞を上げて見せた。 と、厚く礼をのべた。 円 客が帰ると、助九郎は、さっそく兵庫の部屋へ出向いた。兵『蕗の薹か』 『そんなもんじゃねえよ。生き物だ』 庫は聞いたが、一笑に附して、 『生き物』 『撼っておけ。そのうち叔父が帰国した時、処理するだろう』 と、 『おらが、月ケ瀬を通るたんびに美い声して啼く鶯がいるん だが、国境沙汰となれば、一尺の地でも、問題はゆるがせにで、眼をつけといて捕まえたんさ。お通さんにやろうと思っ 出来ない。どうしたものか、他の老臣や四高弟の者にも計ってーー、』 『そうだ。そちはいつも、荒木村からこれへ来るには、月ケ瀬 て、対策を講じなければなるまい。相手は藤堂という大藩だ を越えて参るわけだな』 し、大事を取ってかかる要もある。 『ああ、月ケ瀬よか他には道はねえもの』 そう考えて、翌日を待っていると、その日の朝。 新陰堂の上の道場から、いつものように家中の若者へ一稽古『では訊くが : : : 。あの辺に近頃、侍が沢山入り込んでおるか』 『そんなでもねえが、居るこたあ居るよ』 をつけて、助九郎が出て来ると、外に立っていた炭焼山の小僧 『何をしているか』 『小屋あ建って、住んで、寝てるよ』 『おじさん』 『柵のような物を築いておりはせぬか』 と、後から尾いて来て、彼の腰へお辞儀をした。 はっとり′一う 月ケ瀬からすっと奥の服部郷荒木村という僻地から、常に炭『そんな事あねえな』 だの猪の肉だのをーーー城内へ大人と一緒に担いでくるーー丑之『梅の樹など伐り仆したり、往来の者を調べたりしておるか』 すけ 『樹を伐ったのは、小屋あ建てたり、雪解で流された橋を渡し 助という十三、四歳の山家の子だった。 『おう、丑之助か。また道場を覗きおったな。きようは自然薯たり、薪にしたりしたんだろ。往来調べなんか、おらあ見たこ みやげ とねえが』 の土産はないか』 『ふうむ : 宝蔵院衆の話とちがうので助九郎は小首をかしげた。 つ ) 0 っ 四 たた やまのいも うしの ふき と、フ たきギ、 252
先の旅といっても、元より修行一筋の身ではあるが、実は、 側からだんだん離れて行った。 木曾の故郷で亡くした母の遺髪と位牌を今もなお肌身に持って 『何処へ行くだい』 いて、何かにつけ気がかり。この大和路まで来たのを幸いに、 丑之助も、後から来た。なぐさめ顔に、伊織の肩へ手を廻し こうやさん オしか、紀州の高野山か、河内の女人高 ついでといっては勿体よ、 て、 かたみ髪 野という金剛寺か、いずれかへ行って、位牌を預け、 『泣いてんのけ ? 』 を仏塔へ納めなどして置きたいという。 伊織はつよく首を振った。眼から涙が飛び散った。 『それも亦、名残り惜しいことではあるが 『泣くもんか。そら、泣いてなんかいないよ』 やまいもつる 強いて止めもならぬ気がして、さらばと別れを告げかけた 『オヤ。山芋の蔓があるぜ。山芋掘る術知ってるか』 時、ふと気がつくと、側に居たはずの丑之助が居ない。 『知ってらい。おらの故郷にたって、芋はあら』 くら 『おやーーー』 『掘り競しようか』 と権之助も見直して、これも伊織を探している。 丑之助にいわれて、伊織も蔓を見つけて、蔓の根にしやがみ 『オオ、あんな所におる。二人とも、何を掘っているのか、地 こんだ。 へしやがみ込んで』 四 なるはど伊織と丑之助が、 助九郎が指さす所を見遣ると むねのり すこし間をへだてて、わき目もふらずに、土を掘っている。 叔父宗矩の近状やら、武蔵の事ども。 うしろ 大人たちは微笑んで、そっとその背後へ立っていた それから、江戸の街々の変りようだとか、小野治郎右衛門カ しっそう ふたりは気がっかない。先刻から蔓の根を掘り下げ、折れ易 失踪のうわさだとか。 じわんじよ い自然薯を折らないように、芋のまわりを大事にって、片腕 訊けば、限りもなく、語れば語り尽きない。 たまたま この大和の山里では、稀 4 江戸から来た者とあれば、その者が地へ這入り込んでしまうほど、もう深い穴を作り合ってい の一語一話が、すべて耳新しい社会の知識であった。 ひあし が、思わずも時を過ごしたので、兵庫も助九郎も、陽脚『・ : ・ : あ』 うしろ 図 そのうちに、背後でする人の気配に、丑之助は振向いた。伊 に気がっき、 描 織も笑い顔を向けた。 『ともあれ、城内へ来て、当分のうち逗留なすっては』 地 自分達の競争を大人達が見ていると意識すると、二人はよけ と勧めたが、権之助は深く謝すのみで、 い熱し出したが、すぐ丑之助が、 童『お通さまがお在でにならぬ上はーーー』 『抜けた』 と、このまま、先の旅へ向いたい希望を告げる。 み一つキ、 279
『余五郎』 『わしへ この病人にさえーーー今の侍は油断をせずに行っ 巻た。それが偉いと思う』 『そちに伝えたいのは山々だ。だけど、そちは今の武士と、面 『父上が、こんな窓の中に、お福でになる事を、知る筈はあり むか の と対ってさえ、まだ相手の器量がわからぬほど未熟者じゃ』 ませぬが』 『面目のう存じます』 『いや、知っていた』 空 『親のひいき目に見てすらその程度ではーーわしの兵学を伝え 『ど , っしてでしよ、つ』 るよしもない。 むしろ他人の然るべき者に伝えて、そちの 『門を這入って来る時、そこで一足止めて、この家の構えと、 と、わしはひそかにその人物を待って 明いている窓や明いていない窓や、庭の抜け道、その他、隈な後事を託しておこう それは少しも不自然なていでいたのじゃ。花が散ろうとする時は、必然に、花粉を風に託し く一目に彼は見てしまった。 て、大地へこばして散るようにな : はなく、むしろ慇懃にさえ見える身ごなしで這入って来たが、 はるか 『 : : : ち、父上、散らないでください。散らないように、御養 わしは遙にながめて、これは何者がやって来たかと驚いて居っ 生遊ばして』 たのじゃ』 たしな 『ばかをいえ、ばかを申せ』 『では、今の侍は、そんな嗜みのふかい武士でしたか』 一一度繰り返して、 『話したら、さだめし尽きぬ話しができよう。すぐ追いかけ 『はや、ノ \ ~ 打け・』 て、お呼びして来い』 さわ 『でも、お体に障りはいたしませんか』 『わしは、年来、そういう知己を待っていたのだ。わしの兵学『失礼のないように、よくわしの旨を申しあげて、これへ、お 連れ申して来るのじゃそ』 は、子に伝えるため積んで来たのではない』 『まっ 『いつも、お父上の仰っしやって居らるる事です』 『甲州流とはいうが、勘兵衛景憲の兵学は、ただ甲州武士の方余五郎は、いそいで、門の外へ駈け出して行った。 程式陣法を弘めてきたのではない。信玄公、謙信公、信長公な 四 どが、覇を争っていた頃とは、第一時世がちがう。学問の使命 追って行ったが、武蔵の影はもう見えなかった。 わしの兵学は、あくまで小幡勘兵衛流のーーこれ も違う。 あたり こうじまち ああ、それを平河天神の辺を探し、麹町の往来まで出て行ったが、やはり から先、真の平和を築いてゆく兵学なのだ。 見当らなかった。 誰に伝えるか』 『しかたがない。 又折があろう』 くま
と、明は、やむなく、寅之助に破門をいい渡した理由を、 と、師の顔を見た。 その寅之助を立たせておいたまま、一同へも、釈明した。 忠明の眼は、彼をきっと睨めすえていた。 、 - す 『卑法 - ー・・、は武士の最も蔑む行為である。又、兵法の上でも固 寅之助は、その眼に、さし俯向いてしまった。 く誡めておる。卑法の振舞ある時は破門に処す、というのはこ 『立て ! 』 然るに、浜田寅之助は、兄を討た の道場の鉄則であった。 。し』 いたず れながら徒らに日を過ごし、しかも当の佐々木小次郎には、雪 『立て』 辱をなそうともせす、又八とやらいう西瓜売風情の男を仇とっ け廻し、その者の老母を人質に取って来て、この邸内に押しこ 『寅之助、立たんかっ』 いやしくも武士のする事といえようか』 めておくなどとは と、忠明は、声を励ました。 『いや、それも、小次郎をこれへ誘き寄せる手段でいたしたの 三列に坐っている弟子たちの中から、寅之助だけ直立した。 です』 彼の友達や後輩たちは、忠明の心を測りかねて、しんとしてい 寅之助が、躍起となって、抗弁しかけると、 / 次郎を討たんとするな 『寅之助、おぬしを、今日限り、破門する。ーーー将来、心を改『さ。それが卑法と申すものじゃ。ト め、修行を励み、兵法の旨にかなう人間とな「た時は、又、師ら、なぜ自身、小次郎の住居へゆくなり、果し状をつけて、堂 堂と、名乗りかけんか』 弟として会う日もあろう。ーーー去れつ』 『・・ : : そ、それも、考えぬではござりませんでしたが』 『せ、先生つ。理喞を仰っしやってください。拙者には、破門 たの ーーー衆を恃んで、 『考える ? 何をその期に、猶予などを ! される覚えはございませぬが』 『兵法の道を穿きちがえているゆえに、覚えがないと思うので佐々木どのをこれへ誘き寄せ、打たんとした卑劣は、お身の今 それにひきか いったことばで自白しておるではないか。 あろう。ーーー他日よく、胸に手を当てて考えてみれば分ってく え、佐々木小次郎なる者の態度、見上げたものだと、わしは思 る』 仰せなく 『仰っしやって下さい ! 仰っしやって下さいー ば、寅之助、この席を去るわけには参りません』 たか 『ーー、単身わしの前へ来て、卑劣な弟子など、相手に取るに足 狂昻ぶった顔に、青すじを太らせて、彼は又いい猛った。 発 らぬ。弟子の非行は師の非行、立ち合えとばかり、挑みかかっ 弟子の座の人々は皆、さては、最前のいきさつは、そうした 『・—ー・然らば、いお、つ』 うつむ たけ おび おび わ 7
すた て、その近畿や東国に於ける世評のよい事を伝えると、 は廃れ、ただ売名に長けた、小賢しき者のみが、横行する時代 巻 ( ああ、武蔵か ) である事を、証拠だてておるのではなかろうかな。ーー人は知 のと、巌流の語気はたちまち冷ややかなる狭小人の陰口に似たらず、この巌流の眼から見れば、彼がかって、京都で虚名を売 明ものとなり、 吉岡一門との試合、わけて、十二、三歳の一子までを、 ( あれも、近頃は、小賢しく世にも知られ、二刀流とか自称し一乗寺村で斬り捨てたごときは、その残忍、その卑劣ーー卑劣 円 ておるそうな。元来、器用な力のある男で、京大坂あたりでといったのみでは分るまいが、あの時、彼は一人、吉岡方は大 むか は、ちょっと立ち対える者もあるまいからな ) 勢だったに違いないが、何そ知らん、彼は逸早く逃げていたの ひばう おいたち などと、誹謗するともっかず、賞めるともっかず、その顔色だ。 ーーその他、彼の生立を見、彼の野望する所を見ても、 にも何か出すまいとするものを抑えていうのが常であった。 棄すべき人物と、それがしは見ておるが : ははは、兵法世 渡りが達人というなら賛同できるが、剣そのものの達人とは、 それがしには思えぬ事だ。世間は甘いものでなあ』 時には又、巌流の萩之小路の屋敷をたずねる遍歴の武芸者猶。 議論する者が、それ以上にも、突っ込んで、武蔵を枷めれ ( まだ一度も、会ってみた事はないが、武蔵どのの名は、名ば ば、巌流は、それ自体が、自身を嘲蔑する言葉かの如く、面を かみいずみ かりでなく、上泉塚原以後、柳生家の中興石舟斎をのぞいて朱にしてまでも、 は、まず当今の名人ーー名人といっては過賞なら、達人といっ ( 武蔵は、残忍にして、しかもたたかうに卑屈。兵法者の風上 じん てもさしつかえあるまいと、もつばら称揚する仁が多いようで にもおけぬ人物 ) ごギ、るが ) と、相手の者をして、是認させてしまわないうちは、歇まな と、彼と武蔵との、宿年の感情をわきまえずに、図に乗って いほどな、反感を示した。 しいでもすると、 これには、彼を、 ( そうかな。ははは ) ( 一箇の人格者 ) 月次郎の巌流は、その面の色をかくすによしなく、苦々しく とまで、尊敬を払っている家中の人々も、ひそかに、意外と 冷笑して、 していたが、やがて、 『世間は肓千人と申すからなあ。彼を、名人という者もあろ ( 武蔵と、佐々木殿とは、何か積年の怨みのある間だそうだ ) : だが、それほどこ、 う。達人と称す人もなくはあるまい と、伝える者のはなしや、又ほどなく、 実は世上の兵法というものが、質において低下し、風において ( 近く、君命で、二人の間に、試合が決行される ) 396
『恨むなら、、 しくらでも恨め、兵法の勝負に、意趣をふくむ り左の手には鞘を。右の手にはその抜刀を。 もの笑いを重ねるのみか は、卑法の上の卑法者と、よけい、 『誰だ』 しかく 又してもそちの一命まで、申しうけるが、それでも覚悟か』 こういった彼の呼吸でも分ることは、小次郎がこの刺客の襲 撃を、疾くから予感していたという点である。露のこばれに も、虫の音にも、油断のない彼の姿というものが、壁を背にし『覚悟で来たかっ』 みだ 更に一歩ふみ出すと、それと共に伸びた物干竿の切先一尺ほ て、その時少しも紊れず見えた。 どに、軒の月が白く映した。チカッと、余五郎の眼も眩むばか 『わ、わしだッ』 ・一うば、つ り、白い光芒がそれから跳ねた。 それにひきかえて、襲った者の声は割れていた。 かわ 『わしでは分らん。名をいえ。ー・ー・寝ごみを襲うなどとは、武きよう研ぎ上って来たばかりの刀である。小次郎は、渇いた 胃が饗膳へ向ったように、相手の影を獲物として、じっと見す 士らしくもない卑怯者め』 かげのり えた。 『小幡景憲の一子、余五郎景政じゃ』 『余五郎 ! 』 『おお : : : よ、よ、つも』 『ようも ? 如何いたしたと申すのか』 『父が病床にあるのを、よい事にして、世間に小幡の悪口をい いふらし』 、ふらしたのは、わしではない。世間が世間へいい 『待て。いし ふらしたのだ』 『門人共へ、果し合いの誘いをかけ、返り討にしおったのは』 腕の差だ、実力の差だ。兵法 『それは小次郎に違いない。 の上では、こればかりは致し方ない』 いうなっ。半瓦とか申す無法者に手伝わせ : : : 』 『それは二度目の事』 『何であろうと』 鷲『ええ、面倒な ! 』 小次郎は細癖を投げて、一歩踏み出しながら、 ぬきみ あっせん ひとに仕官の斡旋を頼んでおきながら、主君とする人のこと ばが気に喰わないなどと、間際になって、我儘をこねる。 岩間角兵衛は、弱って、 ( もう関うまい ) と、思った。そして、 ( 後進を愛すのはよいが、後進の間違った考えまで、甘やかし わし くら
『お迎えに』 潮、まだまだ決して、彼が理想するような所までには、実際に 巻 と、訪れると、武蔵はちょうど、権之助を相手に、陽なたでおいて来ていない。 の小猫を膝にのせて、何か話していた折だったが、 豊臣と徳川と、これは宿命的にも、大きな戦争をまだ敢てや 『いやこちらから、お礼に出るつもりでいたところ』 天 るだろう。思想も人心も、為に、なお混沌たる暴風期を衝き抜 と、そのまま、すぐ迎えの駒に乗った。 けなければならない。そして関東か、上方か、いずれかに統一 を見るまでは、聖賢の道も、治国の兵法も、 いうべくして行わ 四 れるわけはない 獄から解かれた武蔵にはまた、将軍家師範という栄達が待っ 明日にも、そうした大乱があるとするーーーその場合に、自分 ていた はいずれの軍へつくべきだろうか。 だが武蔵は、それよりも沢庵という友、安房守という知己、 関東に加担するか。上方に走って味方するべきか。 新蔵という好ましい青年などが、自分のような、一介の旅人それとも、世をよそに、山へ分け入って、天下の鎮まるの に、席を温めて待ってくれる志のほうに、遙かなありがたさを、草を喰って待っているべきだろうか と、人間の世の限りなき隣りの恩を思わせられた。 ( いずれにせよ、今、将軍の一師範になって、それを以て、甘 翌る日。 んじてしまったら、自分の道業もますは知れたものといえよ ひとかさね う ) すでに北条父子は、彼のために一襲の衣服と、扇子、懐紙な どまで整えて、 朝の陽のかがやく道を、彼は式服を着、見事な鞍の駒にまた 『めでたい日、おこころ爽やかに行って参られい』 がり、栄達の門へと、そうして一歩一歩近づいておりながら、 かしら と、朝の膳は、赤い御飯、魚頭つき、あだかもわが家の元服猶、心のどこかでは、満足しきれないものがあるのだった。 でも祝うかの如き心入であった。 「下馬」 この温情に対して、また、沢庵の好意を酌んでも、武蔵は、 と、高札が見える。 自分の望みばかり固持していられなかった。 伝奏屋敷の門だった。 秩父の獄中でも、ふかく考えてみたことである。 玉砂利をしきつめた門前に、駒つなぎがある。武蔵がそこで 法典ヶ原の開墾に従事して、およそ二カ年足らずのあいだ、降りていると、すぐ一名の役人と、馬預りの小者が飛んでく る。 土に親しみ、農田の人々と一緒に働いてみて、自己の兵法を、 大きな治国や経綸の政治に活かしてみたいという野心はかって『昨日、御老中よりの御飛札により、お召を承って罷りこした 本気で抱いてみたことであるがーーー江戸の実情と、天下の風宮本武蔵と申すものでござる。控え所詰お役人方までお申し入 まか 238