『若い衆つ。その丁稚をつかまえろ。つかまえてくれつ』 佐兵衛は、軒から呶鳴った。 港河岸で荷揚の軽子をさしずしていた店の者たちが、 『あ。伊お公だな』 追っ取りまいて、すぐ伊織を捉え、店の前へ引きすって来 『何をふくれている』 かたみ 『手におえん奴じゃ。悪たいはいうし、わし達を小馬鹿にはす 『これは、お父っさんの遺物だから、離せません』 るし。きようはうんと、懲してやってくれ』 『こいつめ。よこせというのに』 あきんど 『わたしは、商人なんかに、成れなくても、 しし、刀、ら』 佐兵衛は、足を拭いて、帳場へ坐ったが、又すぐ 『商人なんか だと。これ、商人がなかったら、世の中は立『それから、伊おが差しているその薪ざッばうを、こっちへ奪 ちはしないそ。信長公がお偉いの、太閤様がどうだのといってり上げておきなさい』 じゅらく いいつけた。 も、もし商人がなかったら、聚落も桃山も、築けはしない。異と、 国からいろんな物もはいりはしない。わけても堺商人はな、南店の若い衆たちは、伊織の腰からます刀を取上げた。それか あきない 蛮、呂宋、福州、厦門。大きな肚で商をしているのだ』 ら後手に縛って、店先に幾山も積んである荷梱の一つへ、飼猿 『わかってます』 みたいに縛しつけ、 『どう分ってる』 『少し人様に笑われろ』 『ーー町を見ますと綾町、絹町、錦町などには、大きな織屋が と笑いながら、立去った。 ありますし、高台には、呂宋屋のお城みたいな別室があるし、 恥は、伊織がもっとも尊ぶところだし、武蔵からも、権之助 なやしゅう 浜には、納屋衆というお大尽のやしきや蔵がならんでいます。 からも恥を知れとは、常々聞かされていた事である。 2 ドレみ - ′っ それを思うと、奥の御寮人さまやお鶴様が、自慢たらたら ・恥曝ー ) だ ) 。 のここのお店も、物の数でもありません』 と自分を思うと、伊織は、少年の烈しい血を狂的にたかぶら せて、 『この野郎』 佐兵衛は、土間へ、跳んで降りた。伊織はを捨てて、逃げ『解いてくれつ』 出した。 と、、けび、 『 7 も、つ為・ . た ( い』 と、謝まり、それでも許されないと、今度は悪たいに代っ て、 『ばか番頭。くそ番頭。こんな家なんかに居てやらないから、 繩を解けつ。刀を返せ』 と、喚い でっち アモイ はたや ・一ら に 1 一うり 3 わ
あが に、崇めこむことじゃよ』 武蔵はぞっと、脊すじに恥を覚えながら、 しつか、膳や銚子などが、 ふたりが、話し こ熱しているまこ、、 『悪名ばかり : 運ばれて来ていた。 と、俯向いた。 ひとかた 沢庵は、その体をしげしげ眺め入「て、彼の「たけぞう」時『 : : : おう、そうそう。安房どの、亭主役じゃ。もう一方の客 をお呼びして、武蔵どのへ、紹介わせてもらいたいの』 代の姿を思い出しているらしかった。 と、沢庵が気付いていう。 『いや何、おぬしぐらいな年頃に、早くも、美名の高いのは、 にいるのは、沢 悪名でも関うまい。不忠、不義、逆膳は、四客分くばられてある。そしてここ むしろどうかな ? 庵、安房守、武蔵と三名だけである。 徒ーーーそんな悪名でない限りは』 姿の見えぬもう一名の客とは誰か ? と、沢庵はいって、 武蔵には、もう分っていた。しかし彼は黙って控えていた。 『さて、次には、そちらの修行ーーー又、今の境遇など、訊きた - し、刀』 四 と、問い出した。 沢庵にそう催促されると、安房守は、少しあわてた顔いろ 武蔵は、この数年のあらましを語って、 『今もって、未熟、不覚、いつまで、真の悟入ができたとも思で、 われませぬ。ーー・歩めば歩むほど、道は遠く深く、何やら、果『お呼びするかの ? 』 と、ためらった。 なき山を歩いている心地でございまする』 そして、武蔵の方を見て、 と、述懐しこ。 そ - 一もと 『ちと、こちらの画策が、共許に見事、観やぶられた形でな 『む。そうなくては』 いささか、発案者のわしが、面目のうて』 と、むしろ沢庵は、彼の嘆息を正直な声として、欣びながら、 と、意味ありげに、言訳を先にする。 『まだ三十にならぬ身が、道のみの字でも、分ったなどと高言 沢庵は、笑って、 するようじゃったら、もうその人間の穂は止まりよ。十年先に 燈生れながら、野僧なども、まだまだ、禅などと話しかけられる『敗れたからには、潔う、兜をぬいで、打ち明けてしまった たくら ほんの、座興の企み、北条流の宗家じゃ だがふしぎと、世間がこの煩悩児をつがよろしかろう。 一と、脊すじが寒い。 もと 賢かまえて、法を聴聞したいの、教を乞いたいのという。お許なとて、そう権式を張っておるにも当るまいて』 っ ) 0 とス 四ど、買いかぶられていないだけに、わしよりは、素裸じゃな。 『元より、わしの負けだ』 法門に住んで怖いのは、人を、ややともすると、生仏かのよう うつむ 、み、よ ひきあ かぶと 〃 5
の当然、双方の位置はーーーその向きを変えている。 いどころ 明武蔵は、居所のままだった。 水の中から、二、三歩あがったままの波打際に立って、海を 円 うしろ 背後に、巌流のほうへ向き直った。 巌流は、その武蔵に直面しーーー又、前面の大海原に対して、 ふりかふ 長剣物干竿を諸手に振被っていた。 ふと。おのれッと思う。 こうして、二人の生命は今、完全な戦いの中に呼吸し合っ 満身の毛穴が、心をよそに、敵へ対して、針のようにそそけ 立って歇まない。 元より武蔵も無念。 筋、肉、爪、髪の毛ーーおよそ生命に附随しているものは、 巌流も、無想。 睫毛ひとすじまでが、みな挙げて、敵へ対し、敵へかかろうと 戦いの場は、真空であった。 し、そして自己の生命を守りふせいでいるのだった。その中 あらし が、波騒の外 で、心のみが、天地と共に澄みきろうとすることは、暴雨の中 又、草そよぐ彼方の床几場の辺り に、池の月影だけ揺れずにあろうとするよりも至難であった。 ここの真空中の二つの生命を、無数の者が今、息もっかずに 見まもっていたに違いなかった。 巌流のうえには、巌流を惜しみ、巌流を信じる = ー、、・幾多の情長い気もちのするーー然し事実はきわめて短いーー・寄せ返す 魂や疇りがあった。 波音の五たびか六たびも繰り返すあいだであったろうか。 又、武蔵のうえにもあった。 やがてーーという程の間もないうちにである。大きな肉声 島には、伊織や佐渡。 は、その一瞬を破った。 なさ 赤間ヶ関の渚には、お通やばばや権之助や。 それは、巌流のほうから発したものだったが、殆ど、同音に 小倉の松ヶ丘には、又八や朱実なども。 なって、武蔵の体からも声が出た。 いわおう その各が、ここを見る目もとどかない所から、ひたすら、 巌を搏った怒濤のように、二つの息声が、精神の飛沫を揚げ なみざい まっげ 天を祈っていた。 然し、ここの場所には、そういう人々の祈りも涙も加勢には ならなかった。又、偶然や神助もなかった。あるのは、公平無 私な青空のみであった。 すがた その青空の如き身になりきる事がはんとの無念無想の相とい うのであろうか、生命持っ身に容易になれない事は当然であ る。ましてや、白刃対白刃のあいだでは。 とき しぶき
ばも、わざと寄って来なかった。むしろ身を消して、この浜辺『故郷 : : : 。孤児のわたくしには、人のいう故郷はありませ を、彼と彼女との二人だけのものにして遣りたい気持すら抱いん。あるのは、心の故郷だけです』 そなた 『でも、ばば殿も、今では共女にやさしゅうしてくれる様子。 そなた 何よりも、武蔵は欣しい。静かに病を養って、其女も幸せにな 『お通・・ : : さんか』 ってくれよ』 それだけの嘆声が、武蔵にも精いつばいな言葉だった。 この年月の空間を、単なる言葉でつなぐには、あまりにも多『今は、幸せでございます』 『そうか。それを聞いて、わしも少しは安んじて行かれる。 恨であり過ぎた。 ・ : お通』 しかも、問うにも語るにも、今はそうしている時刻の余裕す 膝を折った。 らも既にないのである。 。どんなだな』 ばばや権之助の人目を感じるので、彼女は居竦んだまま、よ 『からだが快くないようだが : やがていった。ばつりと、前後もない言葉だった。長い詩のけい身をちぢめたが、武蔵は誰が見ている事も忘れていた 『痩せたなあ』 うちの一句だけを摘んでつぶやくように。 と、掻き抱かぬばかり、背に手をのせて、熱い呼吸を弾ませ : ええ』 お通は、感情に咽せて、武蔵の面へ、眸さえ上げ得なかっている彼女の顔へ顔を寄せて、 つれな が、生別となるか死別となるか、この大事な一瞬を、 『 : : : ゆるせ。ゆるしてくれい。無情い者が、必すしも、無情 そなた い者ではないそ、其女ばかりが』 徒らに取乱したり、空しく過してはならないと、自ら誡めてい 『わ、わかって居ります』 るらしく、凝と、理念の中に、自分を努めて冷ややかに守って 『わかって居るか』 ひと・一と わずら 『けれど、ただ一一一 = ロ、仰っしやって下さいませ。 『かりそめの風邪か。それとも、もう、頁、 ノしル介しカン」こ、が亜 5 じゃと一一一 = ロ』 : そして近頃は何処に。どこに身を寄せておるのか』 『分っておるというロの下に。 、うては、かえって味ない 『七宝寺に、戻っております。 : : : 去年、秋の頃から』 もの』 人『ょに、故郷に』 『でも : : : でも・・ : ええ』 お通はいっか、全身で嗚咽していた。とっぜん、懸命なカ 人初めて、彼女の眸は、武蔵をじっと見た。 の 深い湖のように、眼は濡れていた。睫毛は、からくも浴れるで、武蔵の手をつかんで叫んだ。 彼 『死んでも、お通は。ー , ー死んでも : : : 』 ものを支えていた。 じっ まっげ みなしご つれな イ 35
げんぞく 『ーーーすこしその、理がありまして、急に私は、還俗しようと 『 : : : では、浮いたはなしではないのじゃなあ』 わじよう と、つぶやいた。 思い立ちました。もっとも、まだ、和上から、ほんとの得度も ころも うけていない身ですから、還俗するといっても、いわなくて 又八は、法衣を解き、数珠と共に、光脱の手に託して、 も、元々、ありのままなんですが』 『まことに、憚りですが、これを妙心寺の愚堂様に、御返上申 『え : : : 還俗する ? 』 してください。そして恐れ入りますが、今のように仰っしやっ つじつま おや 又八は、辻褄合っているつもりだが、平静に聞く者には、ひて、又八は大坂でひとまず父になって、働くと伝えて下さいま せぬか』 どく辻褄が合わなすぎた。 『それは又、、、 とういう仔細かな。どうも御容子がちと変だが』 『いいのかな。そんな事で、これをお返し申して』 『詳しい事は、いえませんし、 しっても、他人には馬鹿げてい 『和様は、常々てまえにいって層ました。町へ帰りたかった らいつでも去れよと』 ますが、以前、一緒に暮していた女にそこで会いました』 『ははあ。昔なじんだ女子に』 『ふうむ : : : 』 きまじめ 呆れ顔する二人に、しかも彼は生真面目であった。 『又。修行は寺でもできぬ事はないが、世間の修行が難事。汚 あか 1 一 『そうです。その女子が、嬰児を負ぶっているのでーー・・。年月 いもの、穢れたものを忌み厭うて、寺にはいって浄いとする しゅうお を繰ってみると、どうも自分の生ませた子に違いありません』者より、嘘、穢れ、惑い、争い、あらゆる醜悪のなかに住んで 『ほんとですか』 も、穢れぬ修行こそ、真の行であるともいわれました』 『ほんとに子を負ぶって、河原を物売して歩いていたんで』 『むむ、いかさまの』 『いやいや、落着いて、よく考えてごらんなさい。いっ別れた 『で、もう一年の余も、お側におりますが、てまえにもまだ、 女子か知らぬが、ほんとに、自分の子かどうか』 法名も下さいません。きようまで、又八、又八で済ましていま おや 『疑ってみるまでもありません。いつの間にか、てまえは父に 後で又、いつでも、自分でわからない事ができた なっていたのです。 : : : 知らなかった。済まなかった。 : 急ら、和上様の御門へ駈けこみます。どうそ、そうお伝え置きく に今、胸を責めつけられました。てまえは彼の女に、あんな惨ださいまし』 ほのぐら 路 めな物売はさせては置かれません。又、子に対しても、父らし しい終ると、又八は河原へ駈け下り、もうタ霧に仄暗い人影 潮い務めをしなければなりません』 を、あれかそこかと追って行った。 の 世光悦は、権之助と、顔を見合わせて、多少の不安を覚えなが らも、 おなご 385
おいらは、曠い野に出るとふいに泣きたくなる事がよく に逃げ去った。ーー振向くと、猪の通った後には、幻術師の杖 が線を引いたように、漠として一すじの夜霧が白く地を這ってあるんだ。そしていつも法典ヶ原の一軒家がそこらにあるよう な気がしてならないんだよ。 独り泣く病のある少年には、独り泣くたましいの楽しみが同 だが、霧かと眺めているうちに、霧はせんかんと水音を立時にあった。泣いて泣いて泣きぬいていると、天地があわれと て、やがて、 Ⅱのせせらぎの上に鮮やかな月の影を浮かべて労わり慰めてくれるのである。そして涙が乾きかけてくると、 雲の中を出たように心が晴々と冴え返ってくる。 くる。 『伊織。伊織ではないか』 『おお、伊織だ』 伊織は怖くなって来た。彼は幼時からいろいろな野の神秘を ごまつぶ 知っている。胡麻粒ほどな天道虫にでも、神の意志があると信彼のうしろで突然そういう人声がした。伊織は泣き腫らした じている。うごく枯葉も、呼ぶ水も、追う風も、伊織の眼に眼のまま道を振り向いた。ふたりの人影が夜空に濃く見えた。 は、無心なものである物は一つもなかった。そうして有情の天ひとりは馬の上なので、連れの者よりすっと姿が高く見えた。 ゆくあき 地に触れると、彼の幼い心も、行秋の草や虫や水と共に蕭々と うら寂しい顫えを鳴り立ててくる。 『・ーーア。先生』 彼はふいに、大きく声をしやくって、泣きはじめた。 まろ 伊織は馬上の人の足元まで、のめるように駈け転んで行き、 馬が見つからないので、泣きたくなったわけでもない、急に ひじ 父母のない身が悲しくなったとも見えない。肱を曲げて顔に当そしてもう一度、 て、その顔と肩をしやくっては、歩き歩き泣いて行くのであ『先生つ。先 : : : 先生』 だがふ あぶみへ、しがみつきながら叫んだのであった。 る。 と、夢ではないかと疑うような眼をして、武蔵の顔を見上げ こういう時、少年の涙は、彼自身にも甘かった。 じよ、フ 又、馬のわきに杖をついて立っている夢想権之助の姿を見 人間以外の、星か、野の精が、もし彼に向って、 ラロ まわした。 何で泣くか。 の 『ど , っした ? 』 と訊ねたら、彼は泣きやみもせずいうにちがいない 水 と、馬上から見おろしていう武蔵の顔は、月のせいか、いた わからないや。分ることなら泣きなんかしないや。 かわ なだ 逃それをも 0 と宥めすかして問いつめれば、彼は遂にこういうく窶れて見える。だがその声は、彼がこの日頃、、いに渇きぬい ていた師のやさしい声に間違いなかった。 だろう。 さび ふる やっ ひろ 2 引
が、朱実の姿は、はなはだしく変っていた。 に百叩きに会ったあげく、西と東に放たれたあの時はーー、もう 巻その変 0 た姿を、通りすがりの橋の上からひと目見て、す彼女の肉体に、今の子どもは胎内にあ 0 たわけである。 のぐ、 明 ( あっ、朱実 ) 夕方の薄ら陽が、河原の河水から又八の顔に揺らいで、顔 と、胸打つほどのものは、恐らく自分だけしかあるまいと思 じゅうが溢れる涙みたいに見えた。 円 う。偶然ではない、生命と生命との交流は、同じ土に息づいて うしろを忙しい往来が流れているのも彼は忘れていた。やが いる以上、いっかこうあるのが本当である。 て、何も知らない朱実が、売れない手籠の物を腕にかけて、 それはさて措き。 又、とばとばと、河原の先へ歩き出してゆくのを見ると、彼 変り果てた朱実には、つい一年余ほど前の色も姿態もなかっ は、何もかも打ち忘れて、 おいひも 。汚い負紐で、背なかには、二歳ばかりの嬰児を背負ってい 『お、ついっ』 手を揚げて、走りかけた ? 朱実の産んだ児 ! 光悦と権之助とは、そこで初めて、駈け寄りながら、 又八の胸には、まずそれがどきっと響いたにちがいない 『又八どの。何じゃ。どうなすったのだ ? 』 朱実の面も、見ちがえるほど、痩せている。それに、髪も埃と、呼びかけた。 すそみじか のままの束ね髪で、木綿筒袖の、見得も風もないのを裾短に からか、 着、腕には重たげな手籠をかけ、ロ達者な長屋女房の揶揄半分 もの、つめ・ さえす な囀りのなかに、物売の腰を低めているのだった。 又八は、はっと振向いて、連れの者に、、い配をかけていた事 はまぐりあわび 手籠の中には、海草だの、蛤や鮑などが売れ残っていた。 を、初めて気づいたかの如く、 背なかの児が、時々泣くので、籠を下へ置いては、子をあや「あっ。すみませんでした。 : 実はその』 あきない し、子が泣きやむと、女房たちへ向って、商をせがんでいる実はーーー、といったものの、その実をひとに伝えるには、急場 ふうだった。 の言葉では分って貰えそうもない ( : : : あ。あの児は ? ) 殊に、今ふと、胸によび起した彼の発心は、彼自身でも、説 又八は、両手で、自分の頬をぎゅっと抑えた。胸の裡で、歳明にむずかしかった。 月をかそえた。二歳としたら ? ああ江戸の時分になる。 、うことは、そこで唐突にならないわけにゆかない - 一も 1 一も と、すれば。 又八は、喉につかえる交こな感情の中から、最も手つとり早い 数寄屋橋の原で、奉行所衆の割竹の下に、莚をならべて、共 ことだけいった。 あか 1 一 むしろ 38 イ
浅ましゃ己れ。 ( 四ツか、五ツの頃から見ているが、こんな純情な男とは思わ 巻なかった 武蔵は、憤怒してみる。あらゆる反省を自己へそそいでみ のと、心のうちで、その必死な言に打たれると共に、 が、どうにもならないのだ。 明 ( おのれの醜さ。おのれの迷い : : : ) 武蔵野から、伊織を捨て、権之助にわかれ、又、江戸の知己 とわが身をさえ恥かしく思って別れてしまったのであった。 円 別れる時、又八が、袂をつかんで最後のように猶いった折すべてと袂別して、風のように去ったのも、薄々、この前駆的 症状を自分でも感じていたので、 ーーー武蔵は初めて、 これではならじ。 ( 考えておく : まっ とっこ・、、 又八が猶、すぐ返辞をと求めてやまないので遂と、驀しぐらに、その殻を蹴ゃぶって出たつもりではなかっ そして半年以上。気がついてみれば、破った筈の殻は、依然 ( 考えさせてくれ ) として空虚の自分を包んでいる。あらゆる信念を喪失しかけて と、辛くも、一時のがれをいい残して、山門を出て来たのだ うっせみ 空蝿にも似た自分の影が、今宵もふわふわと暗い風の中を歩い ている。 卑怯もの ! 武蔵は自分へ罵りながら、しかもいよいよ、無為の闇から脱お通のこと。 又八のいったことば。 けられない、 この日頃の自分をあわれに眺めた。 そんな事すら、今の彼には、解決がっかないのだ。考えて まとま 五 も、考えても、纒らないのであった。 無為の苦しさは、無為を悶える者でなければ分らない。安楽矢矧川の水が広く見えて来た。ここへ出ると、夜明けのよう に仄明るかった。編笠のふちに、川風がびゆっと鳴って行く。 は皆人の願うところだが、安楽安、いの境地とは大いにちがう。 その強い川風のなかに紛れて、何か、びゆるウん—ー , と唸っ 為さんとして、何もできないのである。血みどろに鋺きなが かす ら、頭も眸もうつろに杲けたここちである。病かというに、肉て掠めたものがあった。武蔵のからだを、五尺とは去らない空 間をつき貫いて行ったのであったが、武蔵の影は、より迅かっ 体にはかわりはない。 、。こッ台イも たと思われるはど、すでにその辺の地上には見えなかった。 壁へ頭をぶつけ、退くに退けず、進むに進めなし ぐわうん、と矢矧川が同時に鳴った。鉄砲の音波に相違なか さッちも行かない空間に縛られて、果もないここちがする。そ 1 一うやく み一す った。よほど火力のある強薬で遠方から撃ったものだという証 の果に、われを疑い、われを蔑み、われに泣く。 っ ) 0 る。 ほの うつろ
めすびと に行ったのである。 『ひとの物を、黙って持って行けば、盗人だぞ』 何処からか彼が土瓶の湯を提げて戻って来た頃、野の真ん中 こいつめ、おらを盗人だといったな』 巻『盗人。 むしろ には、草埃が煙っていた。法師たちの試合が始まったのであ の『そうさ。おらの連れの人が、あそこへ置いた莚を黙って持っ る。群衆は、大きな輪を作って、それを見物に詰め寄った。 明て行ったじゃよ、 『あの莚か。あの莚は、そこに落ちていたから持って来たん輪のうしろを、土瓶を提げた丑之助が通った。権之助と並ん 円 で見ていた伊織は、振向いて、丑之助のほうを見た。丑之助 だ。なんだ莚の一枚ぐらい ふすま 『一枚の莚でも、旅人の身にとれば、雨をしのいだり、夜の衾は、眼で挑んだ。 ( 後で来い ! ) になる大事な物だ。返せ』 しやく 伊織も眼で答えた。 『返してもいいカ、いい方が癪に触るから返さねえ。盗人とい ( 行くとも。覚えてろ ) った言葉を謝れば返してくれてやろ』 内侍ヶ原ののどかな春も、試合がはじまると一変して、時々 『自分の物を取返すのに、謝るばかがあるものか。返さなけれ あがる黄色い埃に、群衆は、武者押しのような声を揚げた。 ば腕にかけても取るぞ』 てめえ 『取ってみろ。荒木村の丑之助だぞ。汝ッちに、負けて堪る勝っか負けるか。 勝っ位置へ自己を躍り上げる。 ・カ』 試合はそれだ。 『生意気いうな そび いや時代がそれなのだ。 小さい肩を聳やかしていった。 と、伊織も負けていない 少年の胸にもそれが反映している。時代の中に育てられた彼 『こう見えても、わしだって兵法者の弟子だそ』 むこう 等である。たとえ生れ出ても、生れながらの虚弱では一人前 『よし、後で彼方へ来い。周りに人がいると思って大口を叩し たちむか 成って行けないように、十三、十四の頃からして既に、頷けな ても、人中を離れたら立対えまい』 い屈伏はできない気骨に養われている。一枚の莚が問題なので 『何を。そのロを忘れるな』 『きっと来るか』 が伊織にも、丑之助にも、大人の連れがあるので、暫く 『何処へさ』 は、その人達の腰について、野試合のさまを見物していた。 『興福寺の塔の下まで来い。助太刀など連れずに来い』 ししレトも』 四 しいか覚えてろ』 『おれが手を挙げたら、来るんだそ。 モチ竿のような長い槍を立てて、原の真ん中に先刻から立っ ロ喧嘩だけで、一時は別れた。丑之助はそのまま、湯を貰い 、つき 272
『お。又それへ』 巻『御用ですか』 『兵庫どのが、お見えにならぬが、胤舜が参ったこと、お伝え の『兵庫さまが、ちょっと、来て欲しいと申されまする』 くだされたかの』 今日しも、書院の客座に、二人の法弟を従えて、先刻から話 ごんのりつし 縁づたいし 、又、橋廊下を越えたりして、そこから遠い兵庫している者がーーーその宝蔵院の二世権律師胤舜で、その応接 円 の部屋へ訪ねてゆく。 兵庫は縁に腰かけていたが、 、下座にあるのが、柳生四高弟の一人、木村助九郎なのであ る。 『オオ。お通どの、来てくれたか、わしの代りになって、ちょ っと挨拶に出てもらいたいが』 故人との関係から、よくここへは訪れるのである。それも、 『どなたか : : : お客間に ? 』 忌日や法事などでなく、、、 とうも兵庫をつかまえて、兵法を談じ めあて 『先刻から通って、木村助九郎が挨拶に出ておるが、あの長談たいのが目的らしいのだ。そしてあわよくば、故人石舟斎が、 義には閉ロなのだ。殊に、坊主と兵法の議論などは参るから ( 叔父の但馬も及ばず、祖父のわれにも優れたるやっ ) しようあ、 と、眼の中へ入れても痛くないほど鍾愛して、上泉伊勢守か しんかげ 『ではいつもの、宝蔵院様でいらっしゃいますか』 ら自身が受けた新陰の相伝、三巻の奥旨、一巻の絵目録など、 総てこれを生前に授けたと聴く、故人の孫の柳生兵庫に対し胤 舜が自ら奉じるところの槍をもって、一手の試合を望んでいる 奈良の宝蔵院と柳生ノ庄の柳生家とは、地理的な関係かららしい気ぶりも仄見えるのである。 も、遠くないし、槍法と刀法の上からも、因縁が浅くなかっ それを悟ったか、 兵庫は、彼の訪れにもここ二、三回、 ( 風邪ごこちにて ) いんえい 故石舟斎と、宝蔵院の初代胤栄とは、生前親しい間がらであ レ」か さしつかえ ( やむなき差閊で ) 石舟斎の壮年時代に、真に悟道の眼をひらかせてくれた恩人とかいって、避けている。 は、上泉伊勢守であったが、その伊勢守を、初めて柳生ノ庄へ きようも胤舜は、なかなか帰る気ぶりもなく、やがて兵庫 ひきあ 連れて来て紹介わせた者は、胤栄であったのである。 が、席に見えるのを、何となく期待しているらしい いんしゅん だがその胤栄も、今は故人になって、二代胤舜が、師法木村助九郎は、察して、 をうけ、宝蔵院流の槍なるものは、その後愈、ズ武道興隆の時『はい、最前、お伝えしておきました故、お気分さえよろしけ だいえんそう 潮に乗って、時代の一角に、一つの大淵叢をなしているのだつれば、御挨拶に見えましようが : っ , ) 0 、つき かみいずみ ほの