佐助 - みる会図書館


検索対象: 宮本武蔵(三) (吉川英治)
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1. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

『その他には』 を見せ、 巻『佐助。佐助はいないか』 のと、探していた。 と、頬を抑えて、 明佐助というのは、大勢の雇人の中でも、よく気のつく若い者『てまえが会ったのでは御座いませんが、昨晩、大戸を卸して ちょうほう で、住居の方でも重宝に使い、暇があると店のほうを手伝ってから、穢い身なりをした眼のするどい旅の男が、樫の杖をつい 円 て、のっそり這入って来てーーー武蔵先生にお目にかかりたい。 といって、しば 先生には下船以来、当家に御逗留と承るが 『おはよう御座います』 主人の姿を見て帳場から降りて来た番頭は、まず朝の挨拶をらく帰らなかったそうでございますよ』 して、 『誰がしゃべったのだ。あれほど、武蔵様の身については口止 しておいたのに』 ま、、よい、今しがたまで、そこらに 『佐助をお呼びで。 『何しろ、若い衆たちは、きようの事がございますので、ああ 居りましたが』 いうお方が、御当家に泊っているという事は、何か自分たちの と、他の若い者へ向い つい口へ出てしまうらしいのでーー・てまえも厳 『佐助を探しておいで、佐助をー・・、。大旦那がお召だ。いそい 自慢のように、 で』 ましく申し聞かせては御座いまするが』 と、 『そして、ゆうべの、樫の杖をついた旅の人とかはどうしたの っナ ' ) 。 それから番頭は何か、店の事務について、荷物の回漕やら船か』 配りなどについて、さっそく、主人に報告的なおしゃべりを始『総兵衛どのが、言訳に出まして、何かのお聞き違いで御座い オしよ、つと ) どこまでも武蔵様は居ない事に押し通して、や めたが、太郎左衛門は、 っと、帰したそうで御座います。ーー誰かその時、大戸の外に 『後で。後で』 たたす それとはまったく関はまだ二、三人もーー女子の影も交って佇んでいたとやらいう 耳たぶの蚊を払うように顔を振り、 ておりましたが』 りのない事を訊ね出した。 そこへ。 『誰か、店のほうへ、武蔵様を訪ねて見えた者があるかね』 船着の桟橋の方から、 いや今朝がたも、訪ね 『へ。ああ、奥のお客様のことで。 『佐助でございます。大旦那、何か御用でございますか』 て見えたお人がございましたが』 『おお佐助か。べつに、他の用じゃないが、お前には今日、大 『長岡様のお使だろう』 役を頼んである。念を押すまでもないが合点だろうな』 『左様で』 かかわ むさ おなご かしつえ おろ やか イ 26

2. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

拭をぬいて、四つに折り、頻りに潮風にほっれる髪を撫で上げ るせいか、波は細やかになり、浅瀬の底は青く透いてみえた。 て鉢巻した。 『ーー・どの辺へ ? 』 ゅろ 小刀は前に帯び、大刀は、舟の中へ置いてゆくつもりらしく 櫓の手を弛めながら、佐助は磯を見まわして訊ねた。 しぶき そして、飛沫に濡れぬ用意に、蓆を着せて、舟底へ置い 磯には、人影もなかった。 武蔵は、被っていた綿入を脱ぎ捨てて、 『真っ直に 右手には、櫂を削って木剣とした手作りのそれを握った。そ っ一 ) 0 とス して舟から起ち上ると、 舳はそのまま進んだ、けれど佐助の櫓の手は、どうしても大『もうよい』 じゃく と、佐助へいっこ。 きく動かなかった。・・ー・・寂として、人影も見えない島には、鵯 、、、高く啼いてした 『佐助』 まだ磯の砂地までは、水面二十間もあった。佐助は、そうい われてから、二ッ三ツ大きく櫓幅を切った。 『へい』 『浅いなあ、この辺は』 舟は、急激に、ググッーと突き進んで、とたんに浅瀬を噛ん 『遠浅です』 だものとみえる。舟底がどすんと持ち上ったように鳴っこ。 もすそ かか はす 『むりに漕ぎ入れるには及ばぬそ。岩に舟底を噛まれるといけ 左右の袴の裳を、高くげていた武蔵は、その彈みに、海水 潮は、やがてそろそろ退潮ともなるし』 の中へ、軽く跳び下りていた。 飛沫も上らないほど、どばっと、脛の隠れるあたりまで。 ざぶー 佐助は答えを忘れて、島の内の草原へ、眼をこらしていた ちみ ざぶー 松が見える。地味の痩せをそのまま姿にしているひょろ長い しようじようひ そでなし 、ム、、こ。 ざぶ : その木陰に、ちらと、猩々緋の袖無羽織のすそが ひら 翻めいていた。 かなり早い足で、武蔵は、地上へ向って歩き出した。 みなわ 来ている ! 待構えている。 引っ提げている櫂の木剣の切っ先も、彼の蹴る白い水泡と共 に、海水を切っている。 水巌流の姿があれに。 五歩。 歌と、指さそうとしたが、武蔵の様子を窺うと、武蔵の眼もす また十歩と。 魚でにそこへ行っている。 しぶぞめ 眸を、そこに向けながら、武蔵は、帯に挾んで来た渋染の手佐助は櫓を外したまま、後ろ姿を自失して見ていた。毛穴か へみ一を、 かぶ ひきしお ひょどり すわ むしろ イ 43

3. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

みじん 『左様 。すると船島へ着くのは』 の人には、微塵、後髪をひかれる風は見えない。 巻『巳の刻になりましよう。いや巳の刻過ぎでごさいましよう いったい、試合などへ臨む者は、皆、こういう気持になるも のよ』 のだろうか。佐助の町人から観た考えでは、あまりに冷た過ぎ るよ、つにさえ思える 明『ちょ、つどよかろう』 その日 櫂が削り終えたとみえ、武蔵は袴や袂の木屑を払って、 円 巌流も仰ぎ、彼も仰いでいた空は、あくまで深い碧さだっ『佐助』 ながと た。そして長門の山に白い雲が、旗のように流れているほか、 と、又呼ぶ。 雲の影もなかった。 なんそ、着る物はあるまいか、蓑でもよいが』 門司ヶ関の町屋、風師山の山の皺も、明らかに望まれた。そ『お寒いのでございますか』 ふなべり こら辺りに群れ上って、見えぬものを見ようとしている群衆『いや舷からしぶきがかかる。背中へ被けたいのだ』 あり ともいた が、蟻のかたまりのように黒く見える。 『てまえの踏んでいる艫板の下に、綿入が一枚、突っこんで有 りますが』 『佐助』 『へい』 『そうか。借りるぞ』 『これを貰ってよいか』 佐助の綿入を出して、武蔵は背へ羽織った。 かす まだ船島は、霞んでいた。 『何です』 - 一より 『舟底にあった櫂の割れ』 武蔵は、懐紙を取り出して、紙縒を作り始めた。幾十本か知 『そんな物・ーー・要りはしませんが、どうなさいますんで』 れぬほど縒っている。そして又、二本縒に綯い合せて、長さを たすき 『手頃なのだ』 洳り、襷にかけた。 - 一よりだすき くでん 武蔵は、櫂を手に取っていた。片手に持って、眼から腕の線紙縒襷というのは、むずかしい口伝があるものとか聞いてい へ水平に通して見る。幾分、水気をふくんでいるので、木の質 たがーーー佐助が見ていた所では、ひどく無造作に見えたし、 は重く感じる。櫂の片刃に削げが来て、そこから少し裂けてい 又、その作りかたの迅いのと、襷にまわした手際のきれいなの に、眼をみはった。 るので、使わずに捨ててあった物らしい。 小刀を抜いて、彼は、それを膝の上で、気に入るまで削り出 武蔵は、その襷に、潮のかからぬよう、ふたたび、綿入を上 から羽織って、 した。他念のない容子である。 佐助でさえ、心にかかって、幾度も幾度も赤間ヶ関の浜を『あれか、船島は』 平家松のあたりを目じるしにーー・振り向いた事なのに、こ はや間近に見えて来た島影を指して訊ねた。 かざしやま しわ あお はかま みの

4. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

武蔵は、もくねんと、大きく頷いて見せたが、細くて怖しく と、していた涙が、滂沱となって、武蔵の姿すら見えなくな 巻強い彼女の指の力を、一つ一つ抗ぎ離すと振り退けるようにし ってしまったからである。 のて、突っ立った。 岸に立っと、風がつよい びん たもと 明『武士の女房は、出陣にめめしゅうするものでない。笑うて送武蔵の鬢の毛を、袂を、襷のすそを、潮の香のつよい風が颯 ってくれい これ限りかも知れぬ良人の舟出とすれば、猶颯と撲って通った。 円 更のことぞ』 『佐助』 そこにある小舟へ呼ぶ。 佐助は、初めて振り向いた。 旁らに人はいこ。 さっきから、彼は武蔵の来た事を知っていたが、わざと、 けれど、二人のわずかな間の語らいを、邪げる者はいなかっ舟の中で、あらぬ方へ、眼をやっていたのだった。 『お。・・ : : 武蔵様。もうよろしいのでございますか』 『ーーー・では』 『よし。舟を、も少し寄せてくれい』 武蔵は、彼女の背から手を離した。お通はもう泣いていなか 『ただ今』 佐助は、繋綱を解き、棹を抜いて、その棹で、浅瀬を突い いや、強いて、微笑んで見せようとさえしながら、わずかに こら ひら みよし やっと、涙を怺えとめて、 翻ーーーと、武蔵の身が、その舳へ跳び移った時である。 『 : : : では』 『ーーーあっ。あぶない、お通さんっ』 と、同じ言葉で。 松の陰で、声がした。 武蔵は起っ。 城太郎である。 よろ 彼女も、蹌りと、起った。 傍らの樹をカに。 彼女と共に、姫路からついて来た青木城太郎だった。 『おさらば』 城太郎も、一目、師の武蔵にーーと志して来たのであった しお いうと、武蔵は、大股に浜辺の波際へ向って歩みだした。 、、、、最前からの様子に、出る機を失って、樹陰のあたりに、や たたず お通は : : : 喉までつき上げて来た最後のことばを、その背はりあらぬ方へ眼をやったままーー佇んでいたものらしか ( へ、遂にいえなかった。なぜならば、武蔵が背を向けた彈みた ところが今。武蔵が、足を大地から離して、舟の人となった ( もう」くまい ) かと見えた途端に、何思ったかお通が、水へ向って、驀しぐら * 一また なぐ もやい さお まっ 436

5. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

たが、佐助の眼にも、そう怪しまれるほど、武蔵は、この舟 が目的地へ赴くあいだ、何も考える事がなかった。 『いえ。あれやあ母島の彦島でございます。船島は、も少し行彼は曾って、退屈というものを知らすに生活して来たが、こ の日の、舟の中でま、 ししささか退屈をおばえた。 かないと、よくお分りになりますまい。彦島の北東に、五、六 す ひら 町ほど離れて、洲のように平たく在るのがそれでーーー』 櫂も削ったし、紙縒も縒れたしーーーそして考える何事も持た 『そうか。この辺りに、幾つも島が見えるので、どれかと思う ふと。 / カ』 ふなべり むつれあいじま 小さい島でご 舷から真っ蒼な海水の流紋に眼を落して見る。深い、底知 『六連、藍島、白島など , ー・ーその中でも船島は、 おんど せと れす深い ざいます。伊崎、彦島の間が、よくいう音渡の迫門で』 だいり 水は生きている。無窮の生命を持っているかのようである。 『西は、豊前の大里の浦か』 然し、一定の形を持たない。一定の形に囚われているうちは、 『左様で。こギ、います』 げんりやく はんがん 『田 5 い出した 真の生命の有無は、この この辺りの浦々や島は、元暦の昔、九郎判官人間は無窮の生命は持ち得ない。 どの たいらとももりきよう 形体を失ってからの後の事だと思う。 殿や、平の知盛卿などの戦の跡だの』 眼前の死も生も、そうした眼には、泡沫に似ていた こういう話などしていて一体いいものだろうか。自分の漕ぐ が、そういう超然らしい考えがふと頭をかすめるたけでも、体 櫓に、舟が進んで行くにつれ、佐助は、ひとりでに先刻から、 はだえあわ たか じゅうの毛穴は、意識なく、そそけ立っていた 肌に粟を生じ、気は昻まり、胸は動悸してならないのである。 それは、ときどき、冷たい波しぶきに吹かれるからではな と思ってみても、どうにもな 自分が試合するのではなし らなかった。 心は、生死を離脱したつもりでも、肉体は、予感する。筋肉 きようの試合は、どっち道、死ぬか生きるかの戦である。今 が緊まる。ふたつが合致しない。 乗せてゆく人を、帰りに乗せて帰れるかどうか。ーー・。。乗せても 心よりは、筋肉や毛穴が、それを忘れている時、武蔵の脳裡 それは、惨たる死骸であるかも知れないのだ。 佐助には、分らなかった。武蔵のあまりにも淡々とした姿にも、水と雲の影しかなかった。 、 0 水 歌空をゆく一片の白雲。 『ーーー見えた』 『おお・ーーようやく、今頃』 魚水をゆく扁舟の上の人。 船島ではない。そこは彦島の勅使侍の浦であった。 同じようにすら見えるのであった。 ひとひら へんしゅう み - っキ、 ゅ てしまち イ 39

6. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

『武蔵様は、。 とこにお在でか。朝の御飯は、さし上げたか』 『もう、お済みでございます。そして、あちらのお部屋を閉め て』 『そろそろ、お支度中か』 しいえ、まだ : 『何をしていらっしやるのだ』 『画を描いていらっしやるようです』 そこは、ひそと、閉めきってあった。 『 : : : ああ、そうか。心ないおねだりをした。いっそや、画の はなしが出た折、なんそ一筆でも、後の思い出にも と、わ筆、硯、筆洗などをおいて、武蔵は、寂として坐っていた がせん すでに描き上っている一葉の画箋には、柳に鷺の図が描いて しが御無心しておいたので』 『きよう船島まで、お供をしてゆく佐助にも、一筆遺物に描いあった。 が、前に置いてある紙には未だ一筆も落してなかった。 てつかわすと、仰っしやっておいでになりましたから : : : 』 白い紙を前にして、武蔵は、何を画こうかと、考えているら 『佐助にまで』 太郎左衛門はつぶやいて、急に自分が落ちつかない気もちに 」こ、画、いそ いや、画想をとらえようとする理念や技巧より前。 せかれた。 もう、こうしている間にも、時刻は迫るし、見えもせぬのものに成りきろうとする自分を静かにととのえている姿だっ 船島の試合を、見ようと騒いでゆくたくさんの人たちも、ああた。 らく ! く 白い紙は、無の天地と見ることができる。一筆の落墨は、た 人して往来を押し流して行くのに』 こ『武蔵様は、まるで、忘れたようなお顔をしていらっしゃいまちまち、無中に有を生じる。雨を呼ぶことも、風を起すことも 自在である。そしてそこに、筆を把った者の心が永遠に画とし 人す』 ′に墜気があれば塹気が 2 邪があれば邪が : お鶴、お前が行って、どうそもて遺る。、いに 彼『画などの沙汰ではない。 おお 匠気があれば又匠気のあとが蔽い隠しようもなく遺る。 う、そのような事は、お捨て措き下さいと、ちょっと申し上げ かたみ て来い』 『 : : : でも、わたしによ 『いえないのか』 太郎左衛門は、その時、はっきりとお鶴の気持を覚った。父 と娘とは、ひとっ血である。彼女の悲しみも傷みも、そのま ま、太郎左衛門の血にひびいていた。 が男親の顔は、さり気なかった。むしろ叱るように、 『ばか。何をめそめそと』 そして自分でーーー武蔵のいる襖のほうへ立って行った。 しようき ふすま じゃく

7. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

と思われた。襖ごしの声がしなくなったと思うと、武蔵の声 直かに来た藩士であった。 は、もう彼方の座敷で、父の太郎左衛門と何か二一一 = ロ三言、話し の ている様子だった。 で、お鶴が声をかけ お鶴は、武蔵が支度していた次の部屋を通った。彼の脱いだ 明襖の音に、武蔵は目を開いていた。 るまでもなかった。 肌着小袖は、彼自身の手で、きちんと畳まれて、隅のみだれ箱 円 に重ねてあった。 二度まで、催促の便が、早舟で来た由を告げると、武蔵は、 『そうですか』 しい知れぬ寂しさが、お鶴の胸をつきあげた。お鶴は、まだ ニコと、ただうなずく。 その人の温みを残している小袖の上に顔を投げ伏せた。 だまって、どこかへ出て行った。水屋で水音がする。一睡し 『 : : : お鶴。お鶴』 やがて。 た顔を洗い、髪でも撫でつけているらしい。 その間、お鶴は、武蔵が居たあとの畳へ眼を落していた。さ 父の呼ぶ声だった。 つきまで、白紙だった紙には、どっぷり墨がついている。一 お鶴は、答える前に、そっと瞼や頬を指の腹で撫でていた。 はぼくさんすいず 見、雲のようにしか見えないが、よく見ると、破墨山水の図で『 : : : お鶴つ。何をしておる。お立ちになるそ。はや、お立ち あった。 になるそ』 『よ、つ 。し』 画はまだ濡れていた。 『お鶴どの』 われを忘れて、お鶴は駈け出して行った。 次の間から武蔵がいう。 と見れば、武蔵はもう草鞋を穿いて、庭の木戸口まで出 『ーーーその一図は、御主人に上げてください。又、もう一図ている。彼は、あくまで人目立つのを避けていた。そこから浜 は、きよう供をしてくれる船頭の佐助に後でお遣わし下さい』 づたいに少し歩けば、佐助の小舟が、疾くから待っている筈だ っ一 ) 0 『ありがとう存じます』 『意外なお世話に相成ったが、なんのお礼とてもできぬ。画は店や奥の者、四、五人が、太郎左衛門と共にそこへ出て、木 かたみ 遺物がわりに』 戸口まで見送った。お鶴は、何もいえなかった。ただ武蔵のひ 『どうぞ、きようの夜には又、ゆうべのように、お父さまと共とみが、自分のひとみを見た機に、だまって、皆と一緒に、頭 ともしびもと を下げた。 に、同じ燈火の下でお話しができますように』 『ーーーお六、らば』 お鶴は、念じていった。 次の間では、衣の音がしていた。武蔵が身支度しているもの最後に、武蔵がいった。 ふすま きぬ しお まぶた イ 32

8. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

しおり ー ) を、い つむり 閾を踏んで出た武蔵には、今朝はもう何も頭になかった。 頭を下げ揃えたまま、誰も頭を上げなかった。武蔵は柴折の 多少の思いは、皆、真っ黒な墨にこめて、白紙の上へ、一掃 外へ出て、静かに柴折戸を閉め、もう一度いった。 その画もわれ の水墨画として吐いてしまった感じである。 『では、御機嫌よう : 人々が、頭を上げた時は、もう武蔵の姿は彼方を向いて、風ながら、今朝は気もちよく描けたと思う。 そして、船島へ。 の中を歩いていた ふりかえ 振向くか 振顧るかーー・と太郎左衛門を始め、取り残され潮にまかせて、渡ろうとする気もちには、なんら常の旅立ち 、武蔵は振向かなかと変った所はなかった。きよう彼処へ渡って、再びここの岸へ た人々は、縁や庭垣から見まもっていたカ一 帰れるか、帰れないか。今の一歩一歩が、死の府へ向っている - 一んじよう 『あんなものかなあ、お侍というものは、なんと、あっさりしのか、猶、今生の長い道へ歩んでいるものかー・、・・。・そんな事すら 思ってもみなかった。 たものじやろう』 曾って二十二歳の早春、一乗寺下り松の決戦の場所へ、孤剣 力、つぶやいた お鶴は、すぐ、そこに見えなくなっていた。太郎左衛門もそを抱いて臨んだ時のようなーー。ああした満身の毛穴もよだつよ うな悲壮も抱かなければ感傷もない。 れを知ると、共に奥へ姿を隠した。 さればといって。 一町ほど歩むと、巨 あの時の百余人の大勢の敵が強敵か。きようのただ一人の相 太郎左衛門の住活の裏から浜辺づたいに 手が強敵かといえば、烏合の百人よりもただ一人の佐々木小次 きな一つ松がある。平家松とこの辺で呼ばれている松 先に小舟を廻して、雇人の佐助は、今朝夙くからそこに待っ郎のほうが、遙かに惧るべきものである事は勿論だった。武蔵 ていた。武蔵の姿が今、その辺りまで近づいたかと思うと、誰に取っては生涯またとあるか無いかの、今日こそは大難に違い .. な、かっ 4 に。 一生の大事に違いなかった。 が、今。 『おおうー : ・先生ッ』 自分を待っ佐助の小舟を見て、何気なく急ぎかけた足元へ、 『武蔵どの』 まろ 人ばたばたっと、足もとへ転び伏すばかりに、駈け寄 0 て来た自分を先生と呼び、又、武蔵どのと呼びかけて、転び伏した二 人の者を見ると、彼の平静な心は、一瞬、揺れかけた。 者があった。 : どうして此 『おお : : : 権之助殿ではないか。ばば殿にも。 人 の 九 処へは ? 』 彼 たびあか 不審そうにいう彼の眼の前に、旅垢にまみれた夢想権之助と っ一 ) 0 うしお おそ そう イ 33

9. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

に駈け出したので、城太郎は、もしやと直ぐ気をまわして、 ( あぶない ! ) と、思わす、追、 、しかけながら叫んでしまったものだった。 彼が、彼ひとりの臆測で、あぶないと呶鳴った為に、権之助 も、ばばも、すべてがお通の気もちを、咄嗟に穿きちがえたも のらしく、 『あっ・ : どこへ』 『短慮な』 と、左右からあわただしく駈け寄るなり、三人して、確と、 抱き止めてしまった。 え。いいえ』 お通は、静かに顔を振ってみせた。 肩で、息こそ喘いでいるけれど、決して、そんな浅慮なこと潮は上げている旺だった。 をーーと笑ってみせるように、抱き支えた人々へ、安心を乞う海峡の潮路は、激流のように迅い 風は追手。 赤間ヶ関の岸を離れた彼の小舟は、時折、真っ白なしぶきを 『ど、つ : : : ど , っしやるつもりか : ほまれ 。漕ぐ櫓に 被った。佐助は、きようの櫓を、誉と思っていた 『坐らせて下さいませ』 も、そうした気ぐみが見えた。 声も静かである。 『だいぶかかろうな』 人々は、そっと手を離した。するとお通は、波打際から遠く 行くてを眺めながら、武蔵がいう。 ない砂地へ、折れるように坐った。 然し、襟元も、髪のほっれも、きりつと直して、武蔵の舟の舟の中はどに、彼は、膝広く坐っていた みよし 『なあに、この風と、この潮なら、そう手間はとりません』 舳へ向い こころお 『そ、つか』 水『お心措きなく : 行っていらっしゃいませ』 『ですが だいぶ時刻が遅れたようでごさいますが』 歌と、手をつかえていった。 『、つび』 ばばも坐った。 魚 なら 『反の刻は、とうに過ぎました』 権之助もーー鹹太郎もーーそれに倣ってびたと坐った。 しか かぶ 城太郎は遂に一言も、この際を、師と語ることもできなかっ くや たけれど、その時間だけ、お通に分け与えたのだと思うと、悔 む気もちは少しも起らなかった。 魚歌水 み、″り イ 37

10. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

ら頭のしんまで寒気立って、どうすることも忘れていたのであ水にまかせ、風にまかせ、ただその一木剣があるだけの姿だ のと、その時。 渋染の鉢巻に幾分っりあがった眦はすでにふだんの彼のも はっと、息づまるような顔をした。彼方のひょろ松の陰か ら、緋の旗でも流れて来るように巌流のすがたが駈けて来たののではない 円 わざもの である。大きな業刀のぬり鞘が陽を刎ね返し、銀狐の尾のよう射るという眼はまだ弱いものであろう。武蔵の眼は吸引す る。湖のように深く、敵をして、自己の生気を危ぶませるほど に光って見えた。 : さ。さ六」、 吸引する。 射る眼は、巌流のものだった。雙眸の中を、虹が走っている 武蔵の足は、まだ海水の中を歩いていた。 すく ように、殺気の光彩が燃えている、相手を射竦めんとしてい 早く と、彼が念じていたのも空しく、武蔵が磯へ上らぬ間に、巌る。 眼は窓という。思うに、ふたりの頭脳の生理的な形態が、そ 流の姿は水際まで駈け寄っていた しまった のまま巌流の眸であったであろう、武蔵の眸であったにちがい と思うと共に、佐助はもう見ていられなかっ た。自分が真二つにされたように、舟底へ俯っ伏してふるえてない。 『ーー武蔵っ』 『武蔵っ ! 』 うしお 沖りが響いてくる。二人の足もとに、潮が騒しでした巌 流は、答えない相手に対して、勢い声を張らないで居られなか っ , ) 0 おく 『法れたか。策か。いずれにしても卑法と見たぞ。ーーー約東の たが ひととき 刻限は疾く過ぎて、もう一刻の余も経つ。巌流は約を違えす、 最前からこれにて待ちかねて居た』 三十三間堂の折といい、 『一乗寺下り松の時といし 『武蔵か』 巌流から呼びかけた。 せん 彼は、先を越して、水際に立ちはだかった。 大地を占めて、一歩も敵にゆすらぬように。 武蔵は、海水の中に踏み止まったまま、いくぶん、微笑をも おもて った面で、 『小次郎よな』 っ一 0 と、 櫂の木剣の先を、浪が洗っている。 ざや ほほえみ っこ 0 まなじり そうばう