といい残し、ひょいひょいと身振りしながら、体の中心を取『おじさん ! おじさん ! 』 無理もないが、伊織は絶叫をしつづけて、権之助の腰につか って向うへ素早く渡って見せた。 まっている。権之助はその伊織を庇いながら、瞬間、眼をとじ ど、つぞ』 て、一命を天意にまかせてしまい、偖、いった。 残った杉蔵に促されて、次に権之助が歩み、その腰につ、 『鼠賊ども ! 謀ったなっ て、伊織も渡って行った。 すると何処かで そして , ーー朽木橋のうえ足数にして , ーー三歩か五歩も出たか 『だまれつ、旅の者』 と思うと、ちょうど断層の谷の真上のあたりで、 と、太い声でいった者がある。それは彼をはさんで槍を向け 『 ~ めッ ? ・』 ている源助でも杉蔵でもなかった。 『きやっ ! 』 と伊織と権之助は突然、絶叫して、お互いの身を抱きあいな 権之助がふと仰ぐと、向いの崖の上に、左の眼の上に腫れ上 がら立ち竦んでしまった。 あおあざ かね った青痣のある山伏の顔が見えた。その痣は、ゆうべ金剛寺の 何となれば、先に渡って行った源助は、予て備えておい たものらしく、そこの草叢のうちから一本の槍を取り出し、そ渓川から、伊織の投げた石つぶてを、直ぐ二人に思い起させ れを持ったと思うと、何げなく越えて来た権之助の方へ向け て、びたと白い穂先を突きつけて居たのである。 さては野盗か あわ 『慌てるでない』 と、とむねを衝たれて、振りかえると、後になった杉蔵も、 いつのまにどこから持ち出したか、同様に素槍を持 0 て、伊織伊織へそういって、その優しさとは、別人のように、権之助 と権之助の背後を脅かして居るのだった。 『くそっ ! 』 『しまった ! 』 すさまじい敵意を吐いて、橋の左右へ、ぎらぎら眼をくばり さしもの権之助も悔の唇を噛みしめて、刹那の当惑に、髪の ながら、 毛をもそそけだてた顔色だった。 『さては、昨夜の山伏の詭だったか。浅ましくも亦、卑劣な 前にも槍。 あたら 賊めら。人を見損のうて、可惜一命をむだにするな』 、つーーつに、も槍。 彼と伊織を、左右から挾んでいる槍の持手は、その穂に 丑二本の朽木は、からくも愕きに顫く身を、断層の宙に支えて 気をこめて、狙いすましたまま、あぶない朽木橋の上へは、一 いるに過ぎない。 おのの さて
だが、土橋の上を仰ぐと、そこから自分を抛り飛ばした勢い 山伏は、耳がないように、こだ艮だけにらんらんと、人を葬 のものが、何ものをも交えず、真空の一圏内を作って対峙して むかで るような炎をたいている。金剛わらんじの足の指が、百足の背 一縮一縮地をにじり詰めてくる。 その一方は、権之助へふいに襲いかかった白いものだ。伊織みたいに、 がはね飛ばされて落ちたせつなーーー白いものと見えたのは、彼『うぬ。もはや』 びやくえ これは権之助が丹田で堪忍をやぶった呻きである。ーーー彼の の白衣であった。 丸ッこい五体は、闘志に節くれだって、詰めよる山伏に対し 『あっ、山伏 ? 』 伊織は、さてこそ、来るものが遂に来たなと思った。何の故て、彼のほうからも競りつめて行った。 : っッと、物音が発したとたん、山伏の杖は、彼の杖の か、おとといから自分たちを尾けていたあの山伏なのだ。 ために、真二つに折られて、宙へすっ飛んでいた。 山伏の杖。 だが山伏は、手に残った杖の半分を、権之助の面部へ向って 権之助も手馴れの杖。 かわ ふいに打ってかかったが、権之助がさはさぜじと、とたんにすばやく投げつけ、権之助が、顔をふと交した一瞬、腰の戒刀 身の位置を変えた為、山伏は土橋をはさんで往来側のロに立ちを抜いて飛燕のように躍りかからんとするかに見えた。 その時、その山伏が、 ふさがり、権之助は山門を背なかにして、 あっ』 『何者っ ? 』 といったのと、伊織が渓流の瀬で、畜生っとさけんだのと、 と、一喝を発し、 同時であって、山伏の足は五、六歩ほどそのまま、だだだだと 『人ちがいすなっ』 土橋を往来のほうへ踏み退いた。 と、声するどく、窘めていた。 伊織の投げた石つぶてが、山伏の面部へ、したたかに中った AJ 冖」、かノ、 山伏は何もいわない。人ちがいなどするかといった体であのである。悪くすれば左の眼であったかもしれない。 る。背には笈を負い、軽捷を欠いた扮装に見えるが、踏んまえ山伏としては、思わざる方角から、致命的な傷手をうけた為、 たし 遙 しまったと思ったに違いない。崩れた体勢をそのまま一転、足 ている足は木が生えているように慥かである。 逍この敵、ただ者に非ずーーーと見ながら権之助は、満身を気にを変えるが早いか、寺の土塀と渓流のながれに沿って下町のほ ふくら うへ征矢のごとく逃げ去ってしまった。 今膨ませて、杖をうしろに扱きながらもう一度、 古「だれだ「。卑怯だ「。名を申せ。さもなくば、この夢想権之岸〈跳び上 0 た伊織は、 『待て』 助へ、何の意趣で打ってかかるか、理由をいえ』 たしな いでたち けんない うめ あた 289
たその瞬間こそ、実は、彼を待っていたほんとの死地だったの 『わ , つつ』 吠えた権之助は、翳し上げた杖から風を起して、一方の槍であった。 そこらの草むらから二筋三筋ーーーひゆっと、さなだ虫のよう へ、われとわが五体を、たたきつけるように、飛びかかって行 つ ) 0 な紐が、草を撫でて飛んで米たのである。一筋の紐の先には、 つば 刀の鍔が結いつけてあった。又一筋の紐には、鞘ぐるみの脇差 四 がしばりつけてあった。分銅の代りに用いたのであろう。勢い 槍が槍の働きを十分に示すには、秒間の時と、尺地の距離とよく走 0 て来たそれは、権之助の足元だの、首のあたりへ絡み ついた が要る。 仲間の杉蔵が不覚を取ったと見て、すぐ断層の橋を渡って来 構えてはいたが た源助と山伏のほうへ向けて、咄嗟に構えていた杖とその手元 又、せつなを外さず、繰手を伸ばしはしたが。 つる へも、一筋、くるくるっと、蔓のように巻きついた。 『し一んっッ 「 ~ めッ』 と、喉でわめいたのみで、完全に、杉蔵は空を突いてしまっ 蜘蛛の糸から脱れようとする昆虫のように、権之助の全身 た。そして途端に、体ぐるみ自分へぶつかって来た権之助と、 は、本能的に暴れたが、わらっと寄り集って米た五、六名の人 折り重なったまま、 間は、完全に彼のもがく姿を、蔽い隠してしまった。 ど」っ その人々が彼の体から離れて、 手取り足取りである。 と崖へ尻もちついた。 転がり合ったせつな、権之助の杖は左手にあった。杉蔵が跳『さすがに手強い』 と、ひと汗、拭き合った時には、もう、権之助は鞠のように ね起きようとする時、彼の右手の拳は、杉蔵の顔の真ん中を、 縛られて、どうでもしろというように大地に委せられていた。 一撃で突き凹ました。 その両手と胴とを幾重にも巻いた縛めの紐は、この近郷で ぐわっ ひらうちひも いや近頃はかなり遠国まで知れて来た丈夫な木綿の平打紐 面部のどこからか血をふいて、歯ぐきを剥いて見せた顔は、 さなだ で、九度山紐とも、真田紐ともよばれ、製品の販路を拡げて歩 実際、凹んだように見えた。権之助は、その顔を踏みつけ、 く売子も、何処へ行っても見かけるほど手びろく売り出されて 一跳躍して、高原の平地へ立った。 いる紐だった。 そして、髪を逆立てて、 かんせい 今、草むらから不意に起 0 て、権之助を陥穽に落して顔見あ あきんどごしら 紐『来い 0 』 と、杖を、次の者へ備えたが、死者の運命を打開したと思っわせている、六、七名も、すべてその紐売の旅商人拵えの者ば か、 おお
円明の巻 立つ前に、すでに江戸を去ってしまい、知己身辺の者にすらそ の行先は知れていないという。 『迷うて居ような』 ふと、兵庫はつぶやく こうした事から、計らずもお互いの身分と、身上が知れた。 たたず そして何日か、一度彼女を宇治の途中まで追って行きなが べつな所で、助九郎、丑之助のふたりを待ちつつ佇んでいた 柳生兵庫も、やがてここへ来合せ、事情を聞くに及んで、 ら、呼び戻さずに帰ったことを、ーー軽く悔いたりしながら、 『あわれ、どこまで不幸な』 『さてさて、惜しいことを ! 』 と、嘆息した。 と、わが淡い未練を人の恋に寄せて、何がな暫し物想わせら そして遙々ーー江戸からこの大和路まで来た権之助と伊織れた。 を、労わりの眼でながめて、 が。あわれはここにも一人居た。それらの話を、側で聞 『せめて、もう二十日も早く来たら』 きながら、しょんばり側に立っていた伊織。 ( 生れたっきり知らない姉 ) と、何度となくいう。 と、観念していたうちは会いたくも淋しくもなかったが、 助九郎も、頻りと、 『惜しい、惜しい』 ( 世にある人 ) と、教えられ、 と繰返して、今は何処やら知れぬ人の行方を雲にながめるの 、、こっ , ) 0 ( 大和の柳生にいる ) と聞いてからは、漂う海に一つの陸を見つけたように、生れ もういう迄もないが、夢想権之助が伊織を連れてこれへ来た 一れは てから一遍に浴れわいた思慕と肉親への肌恋しさが のは、柳生城にいると聞いたお通を訪ねて来たのである。 そのお通には自分の用向ではなく・ーー先頃、北条安房守の宅抑えるべくもなく、ずいぶん連れの権之助をも困らしたはど、 で計らずも、伊織の姉なるものが話題にのばり、それこそ実にきようまでは楽しみにして、此処まで来たに違いないのであ お通という女性であるとーーー同席の沢庵に教えられてから、思る。 い立って来たことであった。 ところが。 かけちがって、そのお通は、およそ二十日ばかり前、武蔵を 訪ねて、江戸へ立った。 悪い時にはぜひもないもので、 今、権之助に江戸の消息を聞けば、武蔵その者も亦、権之助の と、止めた足を又、助九郎は、権之助のほうへ戻して来た。 今にも泣きたそうな顔しているが、伊織は泣かない。 泣くには何処か人のいない所へ行って大声で泣きたいのだ。 権之助が兵庫から訊ねられて、いつまでも江戸の話をして いるのでーー伊織は辺りの草の花など眼に拾いながら、大人の 278
『今朝お立ちになる昨日まで、武蔵殿は、てまえの門内の長屋 にお住居でした。その居所が小倉へ聞えたので、小倉からも度 度、書面の通ううち、お連れの伊織殿も今では長岡家に居ると 港を出たばかりの船は、彼方に見えているのに、わずかな遅やらで』 : では伊織は、無事におりまするか』 刻で、それに間に合わなかった若者は、返す返す地だんだを踏『えつ。 権之助は、今日の今、初めてそれを知ったらしく、そしてむ んで、 『ああ、遅かった。こんな事なら眠らずにでも来るのだったのしろ、茫然たる面持だった。 『ともあれ、ここでは』 、ゝ」月り . と光悦に誘われて、近くの磯茶屋の床几を借り、交 及ばぬ船の影を見送っている眼には、ただ乗遅れただけでは あってみると、権之助が意外としたのもむりはない。 、もっと切実な恨みがみえた。 ゆきむら げつそう 月叟伝心ーー = ・九度山の幸村は、あの時、権之助を一見する 『もしや、権之助どのではありませぬかな』 イ、す霍な 同じように、船が出ても、なお佇んでいた人々の中から、光と、遉にすぐ、権之助の人となりを知ってくれた。 で、彼の繩目は、 悦がその姿を見かけて、近づきながら声をかけた。 じよ - っ ( 部下の過失 ) 夢想権之助は、その手についていた杖を、小脇へすくって、 と、即座に、幸村の謝罪と共に解かれ、禍はかえって、ひと 『お。あなたは』 りの知己を得る幸いになった。 『いっか河内の金剛寺でお目にかかった : それから、紀伊越の山の割れ目に墜ちた伊織の身を、幸村の 『そう。忘れてはいませぬ。本阿弥光悦どの』 『御無事でお在でられたとは、さてさてめでたい。実は、仄か配下の者も、力を協せて探してくれたが、杳として、きようま で、生死も知れなかった。 に、おうわさを聞き、生死のほども案じておりましたが』 断層の谷間に、死骸は見あたらないので、 『誰に聞きましたか』 ( 生きている ) 『武蔵どのから』 : はて、どうしてであろう』 とは、確信していたものの、それだけでは、やがて、師の武 路『え。先生のお口から ? 潮『あなたが、九度山衆に捕まって、どうやら隠密の疑いで、害蔵にあわせる顔もない 以米、権之助は、近畿をたすね歩いていた。 のされたかも知れぬという消息は、小倉の方から聞えて来たので 稀、ズ巷間には、近く武蔵と細川家の巌流とが、一戦の約を 細川家の御家老、長岡佐渡様のお手紙などから』 果すとか、もつばら噂もあって、武蔵が京あたりにいるらしい 『それにしても、先生が御存じの仔細は』 と、船出の後へ、駈けつけて来た旅の者があった。 かなた ほの たまたま あわ
助の不審を解いて、そんな事も話した。 『は、、お願いの儀は、この人でございまする』 巻それから、権之助の頼みに就いては、 と、堂下の大地にべたりと額ずいて、権之助に代「て答えて の『お易いことじゃ。御孝、いに依ることでもあれば、明日、僧正る様ーーーやはりこの人が僧正だとみえる。 明さまにおねがいして上げよう』 と、いってくれた。 権之助も、何か、あいさつをいって、藤六と同様に、ひざま 円 翌る日、その家の一間に起出た頃は、もう藤六は見えなかつずこうとすると、僧正はもう大きな足を、階段の下にありあわ わら たが、やがて午少し過ぎ姿を見せ、 せた汚ない藁草履へのせて、 『じゃあ、大日様のほうへお越し : : : 』 『僧正さまにお願いしたら、さっそく承知して下された。わし じゅす し従いてお出でなされ』 と、数珠ひとっ持って、先へ歩いてゆく。 じきどう 、つ とス 五仏堂だの、薬師堂だの、食堂だの、堂塔のあいだを繞って こんどう 案内されて、権之助は藤六の後に従い、伊織は権之助の腰に坊舎からすこし離れると、そこに金堂と多宝塔があった。 あたり ゅうすい ちょこちょこついて行った。四方は幽翠な峰で、散り残った山遅れて、後から追いかけて来た弟子僧が、 がらん 『お開けいたしますか』 ざくらが白く、七堂伽藍は、天野川の渓流が繞るふところ谷に あり、山門へ渡る土橋から下をのそくと、峰の桜が片々と流れ と訊ね、僧正のうなずいた眼をみると、大きな鍵をもって、 金堂の大扉をひらいた。 にせかれて落ちてゆく。 『お着座を』 伊織は、襟を合せた。 さんらん がらん と、促されて、権之助と伊織とは、二人きりでひろい伽藍の 権之助も、身が緊まった。何とはなく、山巒の気と、坊舎の こんじきだいにち 中へ坐った。仰ぐと、台座からなお一丈の余もある金色の大日 荘厳に打たれたのである。 ところが、存外にも、 如来が、天井で微笑をふくんでいた。 『お前様か。母御の供養をしてくれというのは』 と、本堂の上から気楽な調子でいった僧がある。 やがて内陣の裡から僧正は袈裟をつけ直して出て来た。そし 肥えて、背も高く、大きな足をした坊さんである。僧正とい ほっす うからには定めし金襴の裟に払子を抱き、威儀作ろった人かて台座に坐って朗々と経をあげた。 と思えば、これはこのまま破れ笠と杖をもたせて、世間の軒端先には、藁草履の見すばらしい一山僧にしか見えなかった が、そこに坐ると、運慶の鑿の力にも劣らない権威を背なかに に立たせても、恥かしくないそのままの人だった。 示している。 だが、藤六は、 ひる めぐ うち のみ ぬか
びようどうばう 『わたしが悪者なら、おまえたちは、平等坊の宝蔵破りをした たった今、家へ逃げ帰って来たお甲は、帰るとすぐ、有合う おおめすと あわ 金や持物を身につけ、旅へ走る身拵えに慌ただしか 0 たが、ふ大盗ツ人じゃないか。いえ、その大盗ツ人の手下じゃないか』 『何』 と、門に立った権之助の影に、 背中の伊織を下して、権之助は土間へ這入って来た。 『畜生』 『盗賊だと』 と、家の中から振り向いてつぶやいた。 『白々しい』 『もう一度、申してみろ』 『わかるよ、ムフに』 伊織を負ぶったまま、軒下に立った権之助は、お甲の憎怨に みちた眼へ、 むすと彼女の腕をむと、お甲はいきなり隠していた匕首を 『逃げ支度かね』 抜いて、権之助へ突きかけて来た。 と、笑い返した。 例の杖は左に持っていたが、それも使うに及ばす、匕首を抗 奥にいたお甲は、憤っと、立って来て、 それよりも、おい、若ぎ取って、お甲を軒先へつきとばした。 『大きなお世話というものだよ。 『山の衆つ、来てくださいつ。宝蔵破りの仲間がっ 蔵』 何で先刻からそういうのか、とにかくそう叫びながら、お甲 『ホ。何だ』 まろ 『よくも今朝は、わたし達の裏を掻いて、武蔵へよけいな助太は往来へ転び出した。 権之助は、くわっとして、抗ぎ取った匕首を、その背へ向っ 刀をおしだね。そして、わたしの亭主の藤次を打ち殺したね』 匕首は彼女の肺を貫ぬいた。きやッと、 て、投げつけた。 『自業自得。しかたがないというものだろう』 朱になって、前へ仆れた 『覚えておいで』 すると、何処に潜っていたのか、猛犬の黒は、一声、大 『ど、つする』 きく吠えながら、彼女の体へとびかかった。そして傷口から流 力、いうと、背中から伊織までが、 権之助 ; れる血をすすっては、陰々と、雲に向って吠えた。 駄『悪者 0 』 ののし 『あっ、あの大の眼』 荷と、罵った。 伊織はおどろいた。それは、発狂の相をあらわしていたから 下お甲はついと奥へ這入ってしま「て、そこからせせら笑っである。 だが、大の眼どころではない。この山上の人間は、今朝から かど あけ じよう あいくち 783
なだめ賺すと、 権之助は、この小がらな少年が、曾っては、曠野の一軒屋に 巻『男だから : : : 男だから、泣くんだい。 ・ : 先生が捕まって行ただ独りで住み、父の死骸を葬るのに、ひとりで持てない為、 なきがら のった。 先生が縛られて行った』 その亡骸を自分で刀を研いで二つに斬ろうとしたくらい、不敵 なたましいの持主とは知らないので、 天と、権之助の懐中を抜け、なお大きな口をあいて、空へ向っ て泣いた。 『くたびれたのだろ』 『捕まったのじゃない。武蔵どのから、自訴なされたのだ』 と、慰めた。 そして、 と、いってみたが、権之助も心のうちでは不安だった。 谷川橋まで出向いていた役人の群が、なにしろ、物々しく殺 『怖かったろう。むりもない。 たむろ 気立っていたし、その他、十名、二十名ずつの捕手が、幾組屯と、背中を向けた。 していたろうか。 伊織は、泣きゃんで、 ( 神妙に、自訴して出た者を、あんなにしないでも ) 『ああ』 と、思うし又、疑われもする。 と、甘えながら、彼の背中へ抱きついた 『きス ~ 打こ、つ』 祭は、ゆうべで仕舞だった。あれほどな人出が、木の葉を掃 伊織の手を引っ張ると、 いたように下山して、三峰権現の境内も、門前町のあたりも、 ひっそりしていた。 『嫌っ』 つむじ 伊織は、首を振って、まだ泣いていたいようこ、、 谷川橋から群衆の残して行った竹の皮や紙屑が、ただ小さい旋風に吹か 動かないのである。 れていた。権之助は、ゆうべ床几を借りて寝た犬茶屋の土間の 「はやく来い』 中を、そっと覗きながら通った。 『嫌だ。嫌オ 先生を、呼んで来てくれなければいやだ』 すると、背中の伊織が、 『武蔵どのは、すぐお帰りになるに極っている。ーーー来なけれ『おじさん。 さっき山にいた女のひとが、この家にいた ば、置いて行ってしまうそ』 ぜ』 でも猶、伊織は動かなかったが、その時、先刻見た猛大『いる筈だ』 の黒大が、あの杉林のあたりの生血を啜り飽いたような顔し権之助は、立ちどまって、 『武蔵どのが縛られるくらいなら、彼の女が先に捕まって行か て、勢いよくそこを駈け抜けて行ったので、 なければ嘘だ』 『あっ、おじさん ! 』 といった。 と、権之助のそばへ飛んで行った。 くろ すか ふところ むれ * - つき こわ しよう 負ぶってやろうか』 782
『おじさん、これ、貰っといてもいいの』 と、旅の者と見て、行きずりの挨拶をした。 権之助にたずねた。 権之助も、辞儀して、 もう 『いただいておけ』 母の供養にと詣でましたが、あまり静かなタ暮なの うつろ と、権之助が、伊織にかわって、礼をのべると、老尼は又、 で、何か、空虚になっておりました』 『おことばの様子では、御兄弟でもないようじゃの。関東のお 『それはそれは御孝心な』 レス 方らしいが、旅の道を、どこまでお越しなされるのか』 いいながら老尼は、伊織のすがたへ眼を移して、 『果ない道を、果なく旅しておりまする。お察しの通り、ふた 『よい坊ンち : : : 弟御かの』 つむり りは肉親ではござりませぬが、剣の道に於いては、年はちがい と、頭を撫でて息子のほうを振顧って、 でし 『光悦、山で喰べた麦菓子が、まだ、そなたの袂に、すこし残まするが兄弟弟子の仲でござります』 『剣をお習いなされますか』 っていたであろ。この子にやって下さらぬか』 、、つ、 ) 0 と 。し』 『それは一方ならぬ御修行。師のお方は、どなたかの』 『宮本武蔵と仰っしゃいます』 『え。・・ : : 武蔵どの ? 』 『ご存じですか』 答えを忘れて、老尼は、 『 6 , っ : と、ただ眼をみはり、何か思い出の中にいる様子、武蔵を知 らぬ仲の人とは思われなかった。 するとこの老尼の息子も、なっかしい人の名でも聞いたかの 光悦とよばれた老尼の息子は、紙につつんだ菓子を、袂からように寄り添って来て、 『武蔵どのは今、どこに居られますな。その後の御様子は・ 遙取出して、伊織に持たせ、 などと、いろいろ訊ねだし、権之助がそれについて、知る限 逍『残り物で失礼だが、よかったら喰べておくれ』 りの消息を話して聞かせると、いちいち母なる老尼と顔を見あ 今と、 古伊織は、掌に乗せたまま、どうしていいか、分らない顔つきわせて、うなすくのであった。 そこで、権之助から今度は、 で、 - 」・んしよ、つよ、フ 古今逍遙 たもと 285
なお こんな所を、どうして独りで歩いていたのだい』 『村の人たちがすっかり繕してくれました』 巻それは次にい「た権之助のことばである。権之助の手は、す『では、これから戻 0 ても、雨露だけはしのげるな』 『・ : ・ : 先生』 のぐ伊織の頭の上へ来て、自分の胸へかかえ寄せた。 天もし前に泣いていなかったら、伊織はここで泣いたかも知れ『うむ。なんじゃな』 『瘠せた : : どうしてそんなに瘠せたんですか』 二なカたが、彼の頬は月にてらてら乾いていた。 ろうや ちちぶ 『先生のいる秩父へ行こうと思って : : : 』 『牢舎の中で、坐禅をしていたからの』 いいかけてふと、伊織は、武蔵の乗っている駒の鞍や毛並を『その牢舎を、どうして出て来たんですか』 見つめ、 『後で、権之助から、ゆるゆる聞くがよい。ひと口にいえば、 『オヤ。この馬は : : : おいらの乗って来た馬だ』 天の御加護があったか、遽かにきのう無罪をいい渡されて、秩 ごくや 父の獄舎から放されたのじゃ』 権之助は、笑って、 い足した。 『おまえのか』 権之助が、すぐ 『ああ』 『伊織、もう心配すな。きのう川越の酒井家から、急使が来 『誰のか知らぬが、入間川の近くに、うろついていたので、おて、平あやまりに謝まり、むじつのお疑いが晴れたわけだ』 『じゃあきっと、沢庵さまが、将軍様に頼んだのかも知れない 体のつかれている武蔵様へ、天の与えと、拾っておすすめ申し たのだ』 よ。沢庵さまはお城へ上ったきり、まだ北条様のおやしきへ帰 らないから』 『アア、野の神さまが、先生の迎えに、わざと其っ方へ逃がし 伊織は遽かにお喋舌りになった。 たんだね』 おや 『だが、おまえの馬というのもおかしいではないかこの鞍それから、城太郎と出会ったことや、その城太郎が、実の父 - 一もそう は、千石以上の侍のものだが』 の薦僧と落ちて行ったことや、又、北条家の玄関さきへ、度々 お杉ばばが訪れて、悪たいを並べたことなどをーーー歩き歩き話 『北条様の厩の馬だもの』 しつづけていたが、そのおばばで思い出したらしく、 武蔵は降りて、 『あ。それからね、先生、まだたいへんなことがあるよ』 『伊織、ではそちは今日まで、安房どののおやしきにお世話に ふところ と、懐中を掻い探って、佐々木小次郎の手紙を取り出した。 なっていたのか』 「はい。沢庵さまに連れられてーー。沢庵さまが居ろといったん 九 です』 『ょに、小次郎からの書状 ? 『草庵はどうなっている』 うまや しゃ・ヘ 232