『承知しています』 人の肉体は消えても墨は消えない。紙に宿した心の象はいっ 巻まで呼吸してゆくやら計りがたし 『お肌着や、懐紙、手拭など、お支度の物も取揃えて、次の部 屋に置きましたゆえ、どうぞいつなりとも』 の武蔵は、そんな事もふと思う。 明が、そんな考えも、画心の邪げである。白紙のような無の境『かたじけのうござる』 ひと に自分もなろうとする。そして筆持つ手が、我でもなく、他人『 : : : そして又、てまえ共へくださる為の画でございましたな 円 : 又、首尾よう でもなく、、いが心のまま、白い天地に行動するのを待っているら、どうぞもうお捨て置きくださいまして。 船島からお帰りの後にはゆるゆると』 ような気持 『お気づかいなさるな。どうやら今朝は、すがすがしゅう御座 じゃく るゆえ、かような時に』 その姿に、狭い一間は寂としていたのである。 『でも、時刻が』 ここには往来の騒音もなければ、きようの試合もよそ事のよ 『 ~ 仔じています』 うだった。 そよ めだけ 『 : : : では、お支度にかかる時には、お呼びくださいまし、あ ただ中庭の坪の女竹が、ときおり、かすかな戦ぎを見せるだ けで ちらで控えておりますから』 『恐れ入るのう』 『ど、ついたしまして』 音もなく、いっか、彼のうしろの襖が少し開いていた あるじ かえって、邪魔をしてもと、太郎左衛門が退がりかけると、 主の太郎左衛門であった。そっと、そこを窺ったものの、あ 『あ。亭主どのーーー』 まりに静かな彼の姿に、呼びかけるのさえ、憚られて、 『 : : : 武蔵様。もし : : : せつかくお楽しみのところを、お邪魔と、武蔵のほうから呼び止めて、こう訊ねた。 みちひ とういう時刻になっておろうか。今 『この頃の、潮の満干は、。 いたして恐れ入りますが』 あげしおどき 。し力にも画に楽し朝は、引潮時でござるか、上潮時でござろうか』 彼の眼にも、武蔵のそうしている容子よ、、、 んでいる姿に見えたのだった。 七 武蔵は、気がついて、 みちひ しきいわ 『おう、亭主どのか。 ・ : さ、這入られい、そのように閾際潮の満干は、太郎左衛門には、店の商売上と、直接の関係が あるので、問われると、言下に で、なにを御遠慮』 『はいこの頃は、明けの卯之刻から辰のあいだに、潮が干きり : やがて、 『いえ、今朝はもう、そうして居られますまい ましてーー・左様、もうそろそろ潮が上げ始めている頃あいでご お時刻が迫りまするが』 ふすま ーをーカ かた ひきしおどき
『恨むなら、、 しくらでも恨め、兵法の勝負に、意趣をふくむ り左の手には鞘を。右の手にはその抜刀を。 もの笑いを重ねるのみか は、卑法の上の卑法者と、よけい、 『誰だ』 しかく 又してもそちの一命まで、申しうけるが、それでも覚悟か』 こういった彼の呼吸でも分ることは、小次郎がこの刺客の襲 撃を、疾くから予感していたという点である。露のこばれに も、虫の音にも、油断のない彼の姿というものが、壁を背にし『覚悟で来たかっ』 みだ 更に一歩ふみ出すと、それと共に伸びた物干竿の切先一尺ほ て、その時少しも紊れず見えた。 どに、軒の月が白く映した。チカッと、余五郎の眼も眩むばか 『わ、わしだッ』 ・一うば、つ り、白い光芒がそれから跳ねた。 それにひきかえて、襲った者の声は割れていた。 かわ 『わしでは分らん。名をいえ。ー・ー・寝ごみを襲うなどとは、武きよう研ぎ上って来たばかりの刀である。小次郎は、渇いた 胃が饗膳へ向ったように、相手の影を獲物として、じっと見す 士らしくもない卑怯者め』 かげのり えた。 『小幡景憲の一子、余五郎景政じゃ』 『余五郎 ! 』 『おお : : : よ、よ、つも』 『ようも ? 如何いたしたと申すのか』 『父が病床にあるのを、よい事にして、世間に小幡の悪口をい いふらし』 、ふらしたのは、わしではない。世間が世間へいい 『待て。いし ふらしたのだ』 『門人共へ、果し合いの誘いをかけ、返り討にしおったのは』 腕の差だ、実力の差だ。兵法 『それは小次郎に違いない。 の上では、こればかりは致し方ない』 いうなっ。半瓦とか申す無法者に手伝わせ : : : 』 『それは二度目の事』 『何であろうと』 鷲『ええ、面倒な ! 』 小次郎は細癖を投げて、一歩踏み出しながら、 ぬきみ あっせん ひとに仕官の斡旋を頼んでおきながら、主君とする人のこと ばが気に喰わないなどと、間際になって、我儘をこねる。 岩間角兵衛は、弱って、 ( もう関うまい ) と、思った。そして、 ( 後進を愛すのはよいが、後進の間違った考えまで、甘やかし わし くら
沢庵は、何を思い出したか、杯を下に措きながら、武蔵へ、 『武蔵どのには、ちと面映ゆかろうが』 ひとしき 巻『お通はどうしておるの ? ・ : 近頃』 と、沢庵が、かろく戯れながら断って、一頻り今、話の種に のと、ふしに = = だした。 していたのは、お通のことで、彼女の生い立ちゃら、武蔵との 武蔵は、ちょっと顔を紅らめ、 間がらを打ち明けて、 天その唐突な問いに、一 ふたり 『どうして居りますやら、共後はとんと : : : 』 『この男女は、いずれどうにかせねばならぬが、野僧の役には 『とんと、知らんのか』 向かぬ。ひとっ御両所のおカ添えを借りるのじゃな』 。し』 と、それを基礎に、暗に武蔵の身の落着きを、但馬守と安房 『それは不憫。あれも、いつまで知らぬままにはしておけま守へ計るような、沢庵のロうらであった。 。其許としても』 ほかの雑談のうちにも、 むねのり 宗矩がふと、 『もう、武蔵どのも御年輩。一家を構えられてもよかろう』 『お通とは、柳生谷の父の許にも居たことのある彼の女子のこ と、但馬守もいい、安房守も共に、 A 」カ』 『御修行も、これまで積めばもう十分ーーー』 あわ とどま 、つ と、ロを協せて、それとなく武蔵に、長く江戸へ留ることを 『そ、つじゃ』 最前からすすめているのであった。 沢庵が代って答えるとーーそれならば今、甥の兵庫と共に、 但馬守の考えでは、今すぐではなくても、お通を柳生谷から めあ 国許へ行って、石舟斎の看護をしてくれている筈ーーーと宗矩が呼び戻し、武蔵に娶わせて、江戸に一家を持たせたら、柳生、 手口し、 1 一 1 一口 小野の二家に加えて、三派の剣宗が鼎立し、目ざましいこの道 『武蔵どのとは、そんな以前からの、お知り合いか』 の隆盛期を、この新都府に興すであろうと思うのであった。 と、眼をみはる。 沢庵の気もちも、安房守の好意も、ほばそうした考えに近か つ、 ) 0 沢庵は、笑った。 『お知り合いどころではお座らぬよ。はははよ 殊に、安房守としては、子息の新蔵が受けた恩義に酬いるた ・めに・も、 ( ぜひ、武蔵どのを将軍家御師範の列に御推挙したい ) と、いう考えを抱いていて、それは新蔵を使にやって、武蔵 をここへ呼び迎える前に、話し合っていた事なのである。 ( 一応、彼の人間を見て ) 兵学家はいるが、兵学の話はしよい。禅僧はいるが、禅のぜ の字もいわない。剣の但馬守、剣の武蔵もいながら先刻から、 剣道のことなどは、おくびにも話題には上らないのである。 ふびん みとり み、つき おなご おもは ていりつ
『何せい拙者は、小次郎から受けた刀の傷痕が、この寒さに、 『嫌だと』 巻まだしんしんと痛んでおる身。いわば恥多き敗者の一名だ 『嫌だ』 みようせき の : さし当って、策もないが、各、ゝとしては一体、どうなさろ『な、なぜです。聞けば貴公は、小幡家の名跡をついで、亡師 天うというお考えか』 の家名を再興すると、伝えられておる身なのに』 『細川家へ談じ込もうと思うのです』 『自分の敵とする人間のことは、誰しも、自分より優れている 『何と』 と思いたくないものだが、公平に、われと彼とを較べれば、剣 いキ - み - っ 『逐一、経緯を述べて、小次郎の身がらを吾々の手に渡してもに依っては、所詮われわれの手に仆せる敵ではない。たとえ同 らいたいと』 門を糾合して、何十人で襲おうとも、いよいよ恥の上塗をする 『受け取って、どう召さる』 、はか》』 きやっ 『亡師と御子息の墓前に、彼奴の首を手向けます』 『では、指を咥えて』 『繩付で下さればよいが、細川家でもそうはいたすまい。われ『いやこの新蔵にせよ、無念は一つだ。ただわしは、時期を待 われの手で討てる相手なら、今日までにも疾うに討てている ン : フレ」田 5 、つ』 又、細川家としても、武芸に長けたところを買って召抱え『気の永い』 た佐々木小次郎。各から渡せといっても、かえって小次郎の 一人が舌打すると、 武技に箔を付けるようなもので、そういう勇者なれば猶更、渡『逃げ口上だ』 せぬと出るに違いないし 、ちど家臣とした以上、たとえ新規召 と罵る者もあって、もう相談は無用と、落葉の灰と新蔵をそ 抱えであろうと、おいそれと渡すような大名は、細川家ならずこにのこして、血気な早朝の客は、わらわら帰ってしまった。 とも、何処の藩でもないと思うが』 しに、門前で鞍から下りた伊織は、馬のロ輪を引ッば 『さすれば、やむを得ぬ。最後の手段をとるばかりだ』 って、戞々と、邸内へ入って来た。 『まだはかに手段があるのですか』 『岩間角兵衛や小次郎の一行が立ったのはつい昨日の事。追、 かければ道中で行き着く。貴公を先頭にして、ここ冫 こ、る「 きゅう一一う 名、そのほか小幡門下の義心ある者を糾合して : : : 』 『旅先で討っといわれるのか』 『そうです。新蔵どの、あなたも起ってください』 『わしは嫌だ』 - 一う・ヘ 厩に駒を繋いで、 『新蔵おじさん。こんな所にいたの』 焚火のそばへ、伊織は駈けて来た。 『おお帰ったか』 『何を考えているの。え、喧嘩したのかい、おじさん』 うまや かっ 236
ったらすぐ知らせよと、達してあるそうだから』 『噂だから、どの程度まで、信じていいか分らないが、藩では ああ 細川家の師範佐々木小 そう聞くと、お通はかえって、噫と嘆いて、 もつばら本当らしくいわれている。 くがじ 『では、猶さらです。武蔵様が、陸路を下っていらっしやる筈 次郎と試合する約束を果すために、近く、小倉へ下るだろう はない。武蔵様のなによりもお嫌いな、そんな躁ぎが、城下城 『そんな噂は、私もちらと聞いた事がありますが、誰が一体い下で待ちうけているようでは と、絶望していった。 い出した事やら、糺してみれば、武蔵様の消息を・ーー居る所す ら、知っている人はありません』 十 『いや。藩で流布されているはなしには、もう少し、真実らし 、京 い根拠がある。 うわさの程度でも、欣ぶであろうと、城太郎は話したのであ : というのは、細川家とも縁故のふかい オが彼女にいわれてみれば、武蔵が姫路へ立ち寄るだろう の花園妙心寺から、武蔵様の所在が知れて、細川家の家老、長っこ、、、 岡佐渡どのの取次で小次郎からの試合状が武蔵様の手に届いてなどという期待は、儚い、こっちだけの空想にすぎない。 しるというのだが』 『ーーーでは鹹太さん。京都の花園妙心寺へゆけば、確かな事 『では、その日は、もう近々でございまするか』 が、知れましようね』 『それは、知れるかもしれないが、うわさだからなあ』 『さ。その辺の事になると、何日の事やら、何処でやるのか 『まるで、根なし草でもないでしようから』 とんと分っては居ない。 然し、京都の近く にいるものな ら、豊前の小倉へ下るには、きっと姫路の城下はお通りになる 筈だ』 『ええ。そう聞いたら、あしたにでも、立ちとうございます』 『でも、船路もありますもの』 『いや、待てよ』 「いや、恐らくは』 城太は、以前とちがって、彼女についても、今では一ばしの と、城太郎は、首を振って、 意見を持った。 『船では行かれまい。なぜならば姫路でも岡山でも、山陽の各『お通さんが、武蔵様と行き会えないのは、そういう風に、何 あて 藩では武蔵様が通過の節はぜひ一泊を引き留めよう。そして、 かちらと、噂でも、影でもさすと、直ぐ一途に、それを的に行 ほととす 人物を見よう。又はそれとなく、仕官の望みがあるかないか、 くからじゃないかな。時鳥の姿を見ようなら、声のした先へ眼 肚を訊こ、フ。 : などと種々な考えで、待ちうけている。現にをやらなければ見えないのに、お通さんのは、後へ後へと行っ 風姫路の池田家でも、沢庵坊へ御書面したり、妙心寺へ問合わせては、行き迷れているように思えるが : たり、又、城下ロの駅伝問屋に命じて、もし武蔵らしい者が通『それは、そうかも知れませんが、理窟のように、心のもてな はぐ 369
: はや明日からでも、御出仕で抱いたことは確かだが、共後になって・ーー殊に今日は、豁然 『おめでとう御座りました。 巻 と、教えられた。わしの考えは、夢に近い』 、こき、りますか』 まつりごと いむしろ 『いえ、そんな事はござりませぬ。よい政治は、高い剣の道 の武蔵が坐ると、藺席のすそに彼も坐って手をつかえながら、 と、その精神は一つとてまえも考えまする』 天欣びを述べるつもりで直ぐいった。 『それは誤りはないが、それは理論で、実際でない。学者の部 武蔵は笑って、 やみ 屋の真理は、世俗の中の真理とは必ずしも同一でない』 『いや、沙汰止になった 『では、われわれが究めて行こうとする真理は、実際の世の為 『よろこべ、権之助。今日になって、遽かにお取消という沙には役立ちませんか』 『、まか . 十な』 いか と、武蔵は憤るが如く、 『はて。腑に落ちぬことで。一体どういうわけでございましょ み、ま 『この国のあらん限り、世の相はどう変ろうと、剣の道・ - ーーま 『問うに及ばん。理由など糺して何になろう。むしろ天意に謝すらおの精神の道が , ーー・無用な技事になり終ろうか』 . 十 6 していし』 『だが深く思うと、政治の道は武のみが本ではない。文武二道 『で。も』 だいえんみよう 『共方まで、わしの栄達が、江戸城の門にばかりあると思うの大円明の境こそ、無欠の政治があり、世を活かす大道の剣の だから、まだ乳くさいわしなどの夢は夢に 極致があった。 過ぎず、もっと自身を、文武二天へ謙譲に仕えて研きをかけね こ、もっともっと、世から教え とはいえ、自分も一時は野心を抱いた。然しわしの野望ばならぬ。ーー。・世を政治する前冫 は、地位や禄ではない。烏滸がましいが、剣の心をもって、政られて来ねば : そういった後で、武蔵はにやにやと笑った。抑えきれない自 道はならぬものか、剣の悟りを以て、安民の策は立たぬものか。 剣と人倫、剣と仏道、剣と芸術ーーあらゆるものを、一道嘲を洩らすように。 まつりごとこころ 『 : : : そうだ。権之助。硯はないか。硯がなくば、矢立を貸し 剣の真髄は、政治の精神にも合致する。 と観じ来れば それを信じた。それをやってみたかった故に、幕士となってやてくれい』 ろ、つと田 5 った』 『何者かの、讒訴があったか、残念でござりまする』 『まだいうか。穿きちがえてくれるな。一時は、そんな考えも何か、書面を認めて、 カ』 ただ - 一ころ まつりごと わざごと かっぜん 242
おそらく今迄の剣術者が、彼の抱負を聞いたら、 ( まだ、一家など構えるのは、自分としては早過ぎる ) ひそ 巻 と、いう考えが、潜んでいるからであった。入れば入るは ( 大それた ! ) と、 . し、つ , 刀 のど、深い 、遠い、剣の道へのひたむきな欲求が、その為に少し ( 若いやつだ ) 天も、紛れようともしないからであった。 と、一笑するか、さもなければ、政治に触れたら人間は堕落 もっと、打割っていえば。 と、彼を知る者な 武蔵の胸には、法典ヶ原の開懇からこっち、剣に対するそれする、殊に純潔を尊ぶ剣は曇ってしまう ら、彼の為に、惜しむであろう。 迄の考えが一変して、まったく従来の剣術者とは観点のちがっ ここにいる三名の人々も、自分の真底をいえば皆、前のうち た方へ、彼の探求は向って来ている。 将軍家の手をとって、剣を教えるよりは土民百姓の手をとっ のどれか一つの言を為すにちがいないと、武蔵にもそれは分っ ている。 て、治国の道を切り拓いてみたい でーー武蔵は、ただ未熟を理由として、何度も、断ったが、 征服の、殺人の剣は、曾っての人々が揮って、その行くと 『まあ、よい』 ころ迄行きついている。 武蔵は、開懇地の土に親しんでから、その上へ行く剣を、道沢庵は、簡単にいうし、安房守も亦、 『とにかく、悪いようにはいたさぬ。われわれに任しておかれ をーーーどんなにつきつめて考えてみたことか。 きわ いまわ 修める、護る、磨く この生命と共に、人間が臨終の際ま と、のみ込んでしまう。 で、抱きしめていられるような剣の道が立っとしたらー・ー・その 道をもって、世を治めることはできないか、民を安んぜしめる更けてくる 酒は尽きないが、燭は時々、灯の暈をかぶった。そのたび ことは一个一円か。 それからはーーー彼は敢て、単なる剣技を好まなくなった。 に、北条新蔵は、灯を剪りに来て、ここの話を耳に挾み、 『寔に、よいお話で。皆様の御推挙が通り、それが実現すれ いっか伊織に手紙をもたせて、但馬守の門を窺わせたのも、 ば、柳営武道のためにも、武蔵どのの為にも、もう一夕、宴を 曾って、柳生の大宗を仆すべしとなして、石舟斎に挑んだよう 張って、お杯を挙げてもよろしゅうございますな』 な、浅い覇気では決してなかった。 と、父へもいい、客たちへもいった。 でーー武蔵の今の希望としては、将軍家の師範となるより は、小藩でもよい、政機に参与してみたい。剣の持ち方を説く よりも、正しい政治を布いてみたい。 嗤、つだろう。 わら ふる し』 ひかさ せき ノ 3 り
じよう そういいながら、権之助が抱いていた例の杖を、大地につい 四 て見せると、伊織は疾くからその杖の威力を知っているので、 一人は石に、一人は木の切株に腰かけて、暫し休んでいる体 一も二もなくうなずいて、ここから別れて一人武蔵野の草庵へ なのである。 帰っていることを承知した。 そのふたりの乗用とみえ、少し離れたところの樹に、二頭の 『賢い、賢い』 うるしおけ 荷駄が繋いであった。鞍には、二箇の漆桶が両脇に積んであっ と、権之助は賞めて、 て、一方の桶には、 「無事に先生を救い出して、一緒に帰る日まで、おとなしく、 ごふしん 西丸御普請御用 草庵に留守をして待っているのだ』 おんうるしかた 野州御漆方 そう諭すと、彼は、杖を小脇に持ち直し、再び秩父の方角へ と、オに書いてある。 向って行ったのであった。 その打札から考えをすすめれば、両名の侍は、江戸城の改築 で、伊織は、独りばっちになった。けれど寂しいなどとは田 5 とうりよう に関係のある棟梁の組下か、漆奉行の手の者かと思われる。 わない。元々、曠野で育った自然児である。それに三峰へ来る だが、伊織が草の陰からそっと覗いてみたところでは、その 時と同じ道を戻って行くのであるから、道に迷う心配もなかっ 二人とも降しい眼相を備えていて、なかなか悠長な役人面など / / ノ 、彼よやたらに眠かった。三峰から山づたいに逃げ廻っとは、骨がらもちがう。 キ、の - 一 一方はもう五十を越えている老武士で、これは体つきも肉づ て来るあいだ、ゆうべは一睡もしていなかった。栗だの菌だの すげ わか 小鳥の肉だの、喰べ物は喰べているが、峠の上へ出る迄は、まきも、壮い者をしのぐばかり頑健なのだ。菅の一文字笠にタ陽 ひもした がつよく反射しているため、その紐下の顔は、暗くてよく見え ったく眠りをわすれていたのである。 秋の陽をほかほか浴びて、黙って歩いてゆくうちに、彼は慾ない 又、それに向いあっている侍の方は、十七、八歳の痩せぎす も得もなく眠くなってしまい、ついに、坂本まで来ると、道わ すおうぞ な青年で、前髪立ちのよく似あう顔に、蘇芳染めの手拭いを頬 きへはいって、草の中へごろんと横になってしまった。 かぶ こにこ笑って見 冠りにして顎で結び、何か、うなずいては、に 駄伊織の体は、何か、仏様の彫ってある石の陰にかくれてい おもてにしび 荷た。やがてその石の面に西陽のうすれて来る頃、石の前で、誰せているのである。 『どうです、おやじ様、漆桶の考えは、うまく行ったでござい りかひそひそ話している声が聞えた。伊織は、その気配にふと目 下をさましたが、ふいに飛び出すとその人が驚くにちがいないとましようが』 その前髪がいうと、おやじ様とよばれた一文字笠は、 思って、寝たふりをつづけていた。 学 ) 0 と うるしおけ うるし 5
武蔵もその顔を見つめて、同じように、 『お、つ』 と、顔を綻ばせた。 それは大和の柳生ノ庄で、親しく新陰堂へ招かれたこともあ るし、一夜を剣談に更かしたこともあるーーー柳生石舟斎の高足 木村助九郎であった。 『いっから江戸表へ御座ったな。意外な所で、お目にかかった の、つ』 と、助九郎は、武蔵のすがたを見て、武蔵が今猶、修行の途 、一まよ ばくろちょう つ ) 0 ここは裏町・ーーっい今し方、武蔵の彷徨っていた博労町の裏 にまみれている様子を見て取ったようにいオ ーレも・つみ、 『いや、たった今、下総領から来たばかりです。大和の大先生通りである。 隣りも旅籠屋、その隣りも旅籠屋、一町内の半分が、汚い旅 にも、その後、お健やかで居られますか』 『御無事でござる。したが、もう何分、御高齢でな』 籠屋であった。 といって、すぐ、 泊り賃が安いので、武蔵と伊織はそこへ泊った。ここの家に うまや ひき もあるが、何処の旅籠屋にも、馬舎が付きものになっていて人 『いちど但馬守様のおやしきにも、お越しがあるとよい。お紹 介わせもしようし : : : それに』 間の宿屋というより、馬の宿屋といったほうが近かった。 おもて はえ 『お侍さま、表の二階だと、少しは蠅が少のうございますで、 と助九郎は、何の意味か、武蔵の面を見つめながら、につと 部屋をお取替いたしますべ』 笑った。 『貴公の美しい落し物が、お邸へ届いておるぞ。ぜひ一度、訪と、博労でない客の武蔵を、ここの旅籠では少し持ち扱い気 ねて御座らっしや、 し』 味。 美しい落し物。 勿体ない、きのう迄の開墾小屋の生活から較べれば、ここは にも関らずっし はて ? 何だろう。助九郎は仲間を連れてもう往来の向う側これでも畳のうえ。 へ、大股に移っていた。 ( ひどい蠅だなあ ) と呟いたのが、気にでも障ったふうに、旅籠のかみさんの耳 に這入ったものとみえる。 だがーー好意のままに、武蔵と伊織は、表二階へ移った。こ ほころ ちゅうげん はた′一 はえ さわ かかわ
安房守は、そう呟いたが、まだ不審ないろをその顔に残し 『いわば、智を基礎とする兵理の学問と、心を神髄とする剣法 巻て、自分の企みを割って話すと共に、武蔵へ向って、次のようの道との、勘の相違でござりましよう。 理からいえば、こ 2 のな質問をした。 う誘う者は、こう米なくてはならぬ筈という軍学 。それ 天 『ーー実は、伜の新蔵からも、沢庵どのからも、お身様の人間を、肉眼にも、肌にも触れぬうちに、察知して、未然に、危地 は、よう承って、その上、お迎え申したことじゃが、失礼なが から身を避ける剣の心機ーーー』 ら、今の御修行がどれほどなものか、それは知るよしもなし、 『、い機ン」は』 又お目にかかって、言葉の上で伺うよりも、まず先に、無言の『禅機』 じん 『 : : : では、沢庵どのでも、そうした事がおわかりになるか うちに拝見いたそうかとーーちょうど居合わせた仁も然るべき お方ゆえ、如何 ? と計ったところ、・畏まったと、すぐ呑みこの』 まこと 『さあ、どうだか』 まれてーーー真は、彼れなる暗い廊下の壁露地に、そのお方が、 刀の鯉口を切って、お待ちしていたものでござる』 『何にしても、恐れ入りました。わけて、世の常の者ならば、 安房守は、今更、人を試すようなことをした所為を、自ら恥何か、殺気を感じたにしても、度を失うか、又は、覚えのある じているように、そこで、謝罪の意を示して 腕のほどを、そこで見しようという気になろうにーーー後へもど - 一ちら 『 : : : それゆえに、実はわざと、てまえが此方から、渡られって、庭口から木履をはいてこれへお見えになった時は、実は わな 、渡られい、と幾度も、罠へ誘なうつもりで、お呼びしたのこの安房も、胸がどきっと致しました』 じゃが。 それを彼の時、お許には、どうして、後へ戻っ て、庭さきから、此室の縁側へと、お廻りになられたのか ? 武蔵自身は、当然なことと、彼の感服にあまり興もない顔つ あるじもくろ それが伺いたいものじゃて』 きだった。むしろ、自分が主の目企みの裏を掻いた為に、いっ と、武蔵の顔を見入っていうのだった。 迄も、この座敷にはいり難くて、壁の外に佇んでいる者が気の 毒になったので、 くち 武蔵は、ただ唇の辺に、にやにやと笑いを湛えるのみで、ど 『どうぞ、但馬守様に、お席へお着きくださるよう、これへ、 うとも、その解説を与えなかった。 お迎えを願いまする』 ンス そこで、沢庵がいうには、 『ええ』 『いや、安房どの。そこが軍学者のお許と、剣の武蔵どのとの 差じゃな』 これには、安房守ばかりか、沢庵もちょっと驚いて、 『はて、その差とは』 『どうして、但馬どのと、お許に分っておるのか』 っ一 ) 0 ひょうり たたず