( もし、おれが牢人だったら ) 敗れては、岩国の恥辱ぞ、佐々木を名乗る一族の名折ぞと、た ほうきのかみ きっかわ と、巌流はふとさびしい気もした。然し、かくまで、自分を いそうな肩持じゃ。わけて、吉川藩お客分片山伯耆守久安様な 信頼させた者は、誰でもない、自分自身だった。 ど、御門下衆を大勢連れ、小倉表まで立たれるそうな』 ( 勝たねばならない ) 『は。試合を見に』 あさって と彼も思った。そう田 5 う事はすでに、試合にのそむ心の邪げ したが、高札に依れば、明後日は一切、船出しはならぬ、と いうお布令。さだめし落胆している衆も多かろうの。 : おおとは知りつつ、やはりいつのまにか胸の底で、 余事ばかりいうて忘れていたカ、小次郎どの、お許に上げたい ( 勝たねばならん ! 勝たねばならん ! ) いや自己さえ意識なく、風騒ぐ池の面の小波の 土産ひとつ、貰うてくだされ』 人知れすーー 旅包を解いて叔母は折畳んだ一枚の肌着を出した。それは白ように絶間なく胸に繰返していた だいばさっ 晒布の地に、八幡大菩薩、摩利支天の名号を書き、又、両の袖宵になった。 じゅばん ばんじ 、必勝の禁厭という梵字を、百人の針で細かに縫った襦袢で誰が探り、誰が報らせて来たか広間に集まって、酒を酌んた あった。 り飯を食べたりしている大勢の間に 『きよう、武蔵が着いたそうだ』 『ありがとう存じます』おしいただいて、 『門司ヶ関で、船より上り、御城下へ姿を見せたというが』 『おっかれでしよう。取り混んでおりますゆえ、このままこの 『では多分、長岡佐渡のやしきへ落ち着いた事だろう。誰か後 部屋で、御自由におやすみ下さい』 しお 巌流は、それを機に、叔母をのこして、他の間へ立った。すで、佐渡のやしきの様子を、ちょっと探って来てはどうか』 などという声が、今宵にも大事が到来しているように、物々 ると、そこにも客はいて、 まもり ひそひそ 『これは、男山八幡のお神札でござる。当日、懐中にお持ちあしく、然し密々と伝えられていた と、贈ってくれる者もあるし、わざわざ鎖帷子を届けてくれ み一か 1 一も る者だの、又、台所へは、大きな鯛や酒菰が何処からか運ばれ 前て来るし、巌流は身の置所もなか「た。 日そういう声援者は皆、彼に勝たせたいと念じている者には疑 三いないが、十中の八、九まで、巌流の勝を信じ、巌流の立身を ・一う 十見込み、彼との将来の好誼に自分の望みをも幾分か賭けている 人々だった。 早、らし くみ一りかたびら さぎなみ イク 7
としと おび 『いや、貴さまもだいぶ、巧者になったな。さすがの大蔵も、 年老った方の一文字笠は、多少自分の心にも、そうした怯え うるしおけ 巻漆桶までは気がっかなかった』 があるらしく、忌々しげに、自分へいうとも連れの者へいうと 8 の『だんだんのお仕込みでございますから』 もなくつぶやいて、漆桶のくくり付けてある荷鞍へ乗り移っ 天『こいつ、皮肉なことをいう。もう四、五年も経ったら、今に あご この大蔵のほうが、お前に顎で使われるようになるかもしれ頬冠りの前髪も、身がるく鞍へとび乗った。そして、先に出 ぬ』 ようとする馬の前を追い越し、 『それは当然そうなりましような。若い者は抑えても伸び、老『露はらいは、先に出ましよう。何か見えたら、すぐ合図いた あせ しますから、御汕断なく』 いゆく者は、焦心っても焦心っても老いてゆくばかりで』 『焦心っているとみえるかの。貴さまの眼から見ても』 と、後の荷駄を警めた。 かしら 『お気のどくですが、老先を知って、やろうとなさっているお道は、武蔵野の方へ向って、南へと、降るばかりで、馬の頭 も、笠も頬冠りも、タ陽の陰へ、沈んで行った。 気もちが、傷ましく見えまする』 『わしの、いを観抜くほど、貴さまもいつの間にか、しし若し になったものよな』 『どれ、参一りましよ、つか』 『そうだ、足もとの暮れぬうちに』 『縁起でもない。足もとはまだ十分に明るうございます』 『はははは、貴さまは血気に似あわず、よく御幣をかつぐの』 『そこはまだ、この道に日が浅いので、十分、舞台度胸がつい ていないせいでしよう。風の音にも、何となく、そわそわされ てなりません』 『自分の行為を、ただの盗賊と同じように考えるからだ。天下石のうしろに寝ていた伊織は、はからすも二人の話をそのま ひる ま聞いていたのであるが、ただ怪しげなと不審を起しただけ の為と思えば、怯む気などは起らぬものじゃ』 『いつもいわれるお言葉なので、そう思ってみますものの、やで、話の内容を解くことはできなかった。 うしろ だが、荷駄に乗った二人がそこを立っと、伊織もすぐ後から はり盗みは盗みに相違ございません。どこやら後めたいものに 歩き出した。 襲われまする』 『何の、意気地のない』 おいみ、き こ 0 かぶ
者たちの世間ばなしでも聞こうとする時は、自分も寛ぎたい し、人をも寛がせたいのであった。 それに、忠利自身が、まだ多分に、一箇の若侍といったふう だから、彼等と膝を組んで、彼等のいいたいことを聞いている のが好きであった。好きばかりでなく、世情を知るうえには、 むしろ、朝の経書よりも、活きた学問になった。 『岡谷』 『は ~ め』 『そちの槍は、だいぶ上達ったそうだな』 『上がりました』 『自分で申すやつがあるか』 『人がみな申すのに、自分だけ謙遜しているのは、かえって嘘 をつく事になりますから』 どれほどな腕なみになった 『ははは。しぶとい自慢よの。 か、いずれみてやるぞ』 学問は朝飯前に。昼間は、藩の時務を見たり、時には江戸城 へ詰めたり、その間に、武芸の稽古は随時にやるとしてーー・夜『ーーで、はやく、御合戦の日が来ればよいと、祈っておりま くつろ ただとし すが、なかなか参りませぬ』 はおおかた若侍相手に、打ち寛いでいる忠利であった。 『参らずに、仕合せであろう』 『どうだな、何か近頃、おもしろい言。聞かぬか』 忠利がこういい出す時は特にあらためて、無礼講とゆるされ『若殿にはまだ、近頃のはやり歌を、御存じありませぬな』 『 4 な , ル一い、つ歌か』 なくても、家臣たちは、 やりしやりし 『ーー・鑓仕鑓仕は多けれど、岡谷五郎次は一の鑓』 『されば、こ、つい , っ車・が、こさいますが : ネ儀こそ『うそを申せ』 と、いろいろな話題を持ち出すのをきっかけに むつ 忠利が笑う。 紊さないがーー家長を囲む一家族のように、睦み合うのが例で 一同も笑う。 あった。 『あれはーーー名古谷山三は一の鑓ーーーという歌であろうが』 衆主従という段階があるので、忠利も、公務の場合は、峻厳な かたびらひとえ 『ャ。御存じで』 容態をくすさないが、晩飯の後など帷衣一重になって、宿直の ロ 衆 ロ とのい あが くつろ
『ウーム、美人だ』 菊村といい、親代々、又右衛門を名乗って来たから、自分も侍 と、不遠慮にいって、 巻になった上は、又右衛門と改める。そして菊村という名から のは、偉い先祖が出ていないから、自分が剣法で家を立てたら、 と、仲間を顧みた 明郷土の名を取って荒木を姓にし、荒木又右衛門と名のるつもり 『おれはこの女を、どこかで見た覚えがあるぜ。多分、京都だ などと姿に似げない抱負を述べる。 円 一田じ、つ、が』 お通は、この少年の夢を聞くにつけ、城太郎はどうしたろう 『京都にはちがいあるまい見るからに山里の女とはちがう』 と、弟のように、別れた彼の身が考え出された。 はたち 『町でちらと見ただけか、吉岡先生の道場で見たのか、覚えは ( もう、十九か二十歳 ) たしか 城太郎の年をかぞえると、ふと彼女は堪らない淋しさに駆らないが、慥に見たことはある女だ』 うめ 『おぬし、吉岡道場などに、居たことがあるのか』 れた。自分の年を思い出したからである。月ケ瀬の梅花はまだ 浅い春だったが、自分の春は過ぎようとしている。女の二十五『居たとも、関ヶ原の乱後、三年ほどはあそこの飯を喰ってい たものだ』 を越えては 何の用事か分らない。人を止めておいて、こんな雑談を 『もう帰りましよう。丑之助さん。元の道へ、返っておくれ』 かしら 丑之助は、飽気ない顔したが、いわるるまま牛の頭を向け直しーーそしてはじろじろとお通の体から顔を、さもしい眼で撫 で上げている。 した。 と、何処かで、オオーイと呼ぶ声がその時聞えた。 丑之助は、腹を立てて、 山のおじさん。用があるなら早くいってくんな。帰り みち さっきの牢人と、他にもう二人、同じ風体の男が近づいて来途の陽が暮れちまうから』 うでぐ ぎよろりと、牢人の一人が、初めて丑之助を見、 て、お通の乗っている牛の周りに、腕拱みして立ったのであ 『われやあ、荒木村から出て来る、炭焼山の小僧じゃねえか』 る。 『そんな事が、用なのかい』 『おじさん達。呼び止めて、何か用があるのかい』 『だまれ。用事は、汝れにあるわけじゃない。汝れは、さっさ 丑之助はいったが、丑之助へは振り向く者もない。三人が三 と帰る方へ帰れ』 人共、しげな眼をお通へ集めて、 『いわれなくても、帰るさ。退いてくんな』 『なるほど』 うめ 牛の手綱を曳きかけると、 と、呻きムロっている。 『よこせ』 そのうちに、一人が又、 あっけ 256
、にしえ 山伏の男が、借り受けた木剣を手にひっ提げ、南光坊の前へ 事になっているが、御古の荒法師以上、槍修行の荒法師そろい のでんよう 進んで行って、 巻と聞えている宝蔵院の野天行に当って、 ( いざ ) の ( われこそ ) と、挑んでいた。その体を見て、助九郎にも、初めて分った などと自分から人前に恥をさらし、揚句に片輪者にされて悄 悄引っ込むような愚なまねをーー・敢て自分からすすんで求めるのである。 しよう 1 一いん 円 大峰の者か、聖護院派か、見知らぬ山伏だが、年ごろ四十前 ような馬鹿者はいないのだ、という説明であった。 しゅげんぎよう 後の男で、鉄のような五体は、修験の行に鍛えたというより 山伏は、」 ダ座の法師に、一応の辞儀をして、 しようじ 『然らば、やつがれが一つその馬鹿者となってみとう御座るは、戦場で作ったものである。生死の達観のうえに出来上って いる肉体なのである。 、木太刀を御拝借願われましようか』 っ一 ) 0 と、 『お願いいたしましょ , つか』 山伏の言語は穏やかである。眼も柔和であった。だが、この 五 男は生死の境から外の物だった。 よそもの 『他者か』 人の輪に紛れて、彼方の野試合を眺めながら、兵庫は、 あらて と、南光坊は、新手の敵を見直して、そういった。 『助九郎。おもしろくなったな』 『は。飛入りではごギ、るが』 と、顧みた。 と、会釈すると、 『山伏が出て来たようで』 『 ~ 付たっしゃれ』 『されば。もう勝敗は見えたも同じだの』 南光坊は、槍を立ててしまった。これはいけないと悟ったら 『南光坊が優っておりましようか』 わざ 『いや、多分、南光坊は試合うまいよ。試合えば、彼も至らぬしいのだ。技では勝てるかも知れないが、絶対に、勝てないも それに当今の山伏に のを、この新手に感じたのである。 . 奴じゃ』 は、氏素姓をかくして身を韜晦している人間も多いし、避け ・左様で、こき、いましよ、つか』 ほうが賢明と、考えたのであろう。 助九郎には、解せない面持である。 南光坊の人物は、よく知っている兵庫の言ではあるが、な『他者とは立合わぬ』 と、南光坊は、首を振った。 ぜ、今出てきた山伏と試合えば、至らぬ人間だろうか。 『いや、今あちらで、掟を伺ったところによれば』 、 , ミ、ほどなく助九郎にも意味が分った。 不審に思ってしオカ と、山伏は、自分の出場が不当でない点を、穏やかにい その時、彼方では ま おきて とう力、 っ 274
大玄関にはりんどうの紋のついた幕をめぐらし、正面に金屏風 . 伊織のことばに、 をすえ、早朝には、城下の神社三カ所へ門人たちが代参して、 『そうだった。 : おお』 きようの必勝を期しているーーーという旺んな様子であったとい 佐渡も縫殿介も、的確に目標を指さされた心地がした。或 いやいやこの上は、武蔵の居そうな処としては、其 それにひきかえてー と口には出さぬが、人々は惨たる疲れをお互の顔に見合っ処以外には考えられない た。一昨夜の六名にしてみても、武蔵の生国が、自分等と同じ佐渡は、眉を開いて、 作州であるというだけでも、藩へも世間へも、顔向けがならな『縫。不覚じゃったな。慌てぬようでも、慌てて居るわい。 すぐ共方参ってお迎えして来い』 い気がするのだった。 『はつ、承知いたしました。伊織どの、よう気がついたな』 『も , つよし : 今から探しても間にあうまい。御一同、お引 『わたしも行く』 き揚げ下さい。慌てれば慌てるほど見苦しい』 佐渡は、そう告げて、人々に無理に引き取らせた。木南加賀「旦那さま。伊織どのも、一緒にと申しますが』 ーーー待て待て。武蔵どのへ一筆書く 『ウム。行って来い 四郎や安積八弥太などは、 『いや、見つける。たとえ今日が過ぎても、あくまで見つけ出ら』 佐渡は手紙をしたためた。そしてなお口上でもいいふくめ して、斬り捨ててくれる』 昻奮して帰って行った。 佐渡は、清掃された室内に上って、香炉に香を焚いた。それ試合の時刻、辰の上刻までに、相手方の巌流は、藩公のお船 をいただいて、船島へ渡ることになっている はいつもの事ながら、 今からなら時刻もまだ十分。尊公にも、自分のやしきへ来て : さてはお覚悟を』 めいのオけ と、縫殿介は、胸を衝かれた。すると、まだ庭先に立ち残っ支度をととのえ、船も、自分の持船を提供するゆえ、それへ乗 って、晴の場所へ臨んでは如何。 て、海の色を見ていた伊織が、ふと彼へいった。 頃『縫殿介さん。下関の廻船問屋、小林太郎左衛門の家を訊ねて佐渡のそうした旨を受けた縫殿介と伊織は、御家老の名を以 る てお船手から藩の早舟を出させた。 みましたか』 づ ほどなく下関へあがる。 出 下関の廻船問屋、小林太郎左衛門の店はよく知っている。店 日 大人の常識には限界があるが、少年の思いっきには限界がなの者に訊ねてみると、 さか しよう′ 1 く イ 79
『あった』 又八は、ほっと胸をなでた。まだこの木が根移しされていな あな と、坑へ手を突っこんだ。 い為に、自分の生命もつながっていたのだと思った。 だが、鉄砲ならば、錆びぬように、油紙につつみこんで置く 『今だ : 彼は、どこかへ行って、やがて鍬を拾って来た。そして槐のとか、箱に密閉してありそうなものだが、指先に触った物は、 木の下を掘り始めた。自分の生命がそこから拾い出せるようちと変な感じのするものだった。 でも、幾分の期待をかけて、牛旁を抜くように引っぱり出し すね てみると、それは人間の脛か腕らしい一本の白骨だった。 一鍬掘っては、その音のひびきに胸を騒がせて、鋭い眼が四『 : 又八は、もう鍬を拾う気力もなかった。何か又、夢をみてい 辺を見まわすのだった。 しいあんばいに見廻りも来ない。鍬は次第に大胆に振りつづるのではないかと自分を疑った。 きら 槐の木を仰ぐと、夜露と星が燦めいている。夢ではない。槐 けられた。そして穴のまわりに新しい土の山ができた。 の一葉一葉だって数えられる意識がある。ーー確にあの奈良井 五 の大蔵は、この木の下に鉄砲を埋けておくといった。それを以 土を掻く犬のように、彼は夢中でその辺りを掘り起した。だて秀忠を撃てといった。嘘であろう筈はない。そんな嘘をいっ ふる とく たって彼に何の得もない事だから。ーー然し、鉄砲はおろか古 が、いくら掘っても、土中からは土と石しか出なかった。 鉄のかけらも出て来ないというのはどうしたわけだろうか。 ( 誰か先に掘り出してしまったのではあるまいか ) 又八は懸念しだした。 無ければ無いで、又八の不安は去らない。掘りちらした槐の そしてよけい、徒労の鍬を揮うことを、止められなかった。 顔も腕も、汗にぬれて、その汗に土が刎ねかかって、泥水をまわりを歩きだした。そして足で土を蹴ちらしてまだ探してい 浴びたように、全身はくわっくわっと喘ぎぬいている。 すると誰か、彼のうしろへ歩き寄って来た者がある。今 来た様子でなく、意地わるくさっきから物陰で彼のなす事を眺 つかれた鍬と、つかれた呼吸とが、次第に縺れ合って、眩いめていたらしかった。又八の背をふいに打って、 『あるものか』 がしそうになって来ても、又八の手は止まらなかった。 夢そのうちに、何か、どす 0 と鍬の刃にぶつか 0 た。細長い物と耳元で笑 0 た。 軽く打たれたのではあるが、又八は背中から五体がしびれ が穴の底に横たわっている。彼は鍬を抛って、 かっ ふる あえ もっ めま あた がね たしか さわ 2 ノ 3
て安心しておる程に、お案じないように と、告げてくれ『いや何、さらさら御事情を伺おうなどとは存じも依らぬこ し』 : ただ日頃、もしやと思っていたので』 の『では、道傍で失礼で御座いましたが、てまえはこれで』 『疾くお聞き及びと存じまするが、仔細あって、師の治郎右衛 別れかけると、 明 門は道場を捨てて山へ隠れました。その原因は、この寅之助の 『あ。待て待て』 不つつかにあった事ゆえ、自分も身を落し、薪を割り水を担う 円 助九郎は呼び止めて、やや言葉を改めていった。 ても、宝蔵院でひと修行せんものと、身許をかくして住み込ん だわけ。 お恥しゅう存じます』 『おぬし、いっ頃から、宝蔵院の下郎に住みこんだか』 『佐々木小次郎とやらの為に、小野先生が敗れたという事は、 「つい近頃の、新参でございます』 『須は』 その小次郎が吹聴しつつ、豊前へ下って参ったので、隠れもな 『寅蔵といいまする』 い天下の噂となっておるが、さては : : : 師家の汚名を雪がんた 『はてな ? 』 めの御決心とみえる』 『いすれ。 いすれ又』 凝と見すえて 心から赤面に堪えぬように、草履取の寅蔵は、そういうと、 『将軍家御師範の小野治郎右衛門先生の高弟、浜田寅之助どの にわ ~ 一はつ、が、つ、かの ? ・』 遽に別れて、立ち去ってしまった。 よけん 『それがしは、初めての御見だが、お城のうちに、薄々お顔を 知った者があって、胤舜御坊の草履取は、小野治郎右衛門が高 と ゾ」、つ・も一挈」、つ、らーしか ? ・ 弟の浜田寅之助じゃが ? 噂をしていたのをちらと承ったが』 : 十 6 『お人ちがいカ』 浜田寅之助は、真っ赤な顔してさし俯向いた。 『ちと : : : 念願の筋がござりまして、宝蔵院の下郎に住み込み『まだ帰らぬか』 ましたなれど、師家の面目、又、自分の恥 : どうか御内分柳生兵庫は、表の中門まで出て、お通の身を案じていた。 お通が、丑之助の牛に乗って何処かへ行った儘、だいぶ時間 じっ うつむ あさ 麻の胚子 た ね 260
ほうとうくめん そういう心の中の明暗不断な妄像と同じように、形に現れる 文字どおりな蓬頭垢面を持った彼が、約ふた月はど後、山か 巻ら里へ下りて来た。何か或る一つの迷いを解くために、山へ籠彼の剣も、まだまだ彼が自分で、 のったらしかったが、冬山の雪に追われて下りて来た彼のその顔『可』 と、思う域には達していないのだった。その道の遠さ、未熟 には、山に入る前より苦しげな迷いが却みこまれていた。 明 解けないものが次々に彼の心を虐む。一つ解くと又一つの迷さが、自分には、余りに分りすぎているので、時折の迷いと、 円 うつろ 苦悶とが、烈しく襲ってくるのだった。 いに逢着する。そしてまったく、剣も心も、空虚になる。 山に入って、心が澄めば澄むほど里を恋い、女を思いしオ 『だめだ』 自分で自分を、時にはまったく、嘆息の下に、見捨てかけるずらに若い血が狂いそうになる。木の実を喰べても、滝水を浴 びて、いかに肉体を苦しめてみても、お通を夢みて、うなされ 時すらあった。そして、 る。 『いっそ・ : ・ : ? 』 ふた月ばかりで、彼は山を降りてしまったのである。そして と、人なみな安逸を想像した。 ゅ - ようじ 藤沢の遊行寺に、数日足を留め、鎌倉へまわって来た所、そこ お通は ? すぐ思う。 彼女と共に、安逸をたのしむ心になれば、すぐにでも出来その禅寺で、はからずも自分以上に苦しみもがいている男と出会 みす った。それが旧友の又八であった。 うな気がするのだ。又、百石や二百石の、身過の為の食禄をさ がす気になれば、それも何処にでもあると考える。 けれど。顧みて、 又八は、江戸を追われてから、鎌倉へ来ていた。鎌倉には、 それで不足はないか。 と、自身に問うてみると、彼は決して、そんな生涯の約束寺が多いと聞いていたからである。 彼も亦、べつな意味で、苦悩していた所だった。もう二度 を、甘受できなかった。反対に、 らんだ と、自分が歩いて来た懶惰な生活へ、戻ろうという意志はなか 『夫 ! 何を迷う』 もが と、身を罵って、攀じ難き峰を仰いで、よけいに鋺いた。 時には、さもしい、浅ましい、餓鬼のように煩悩の中に。又武蔵は、彼にいって、 時には、澄み返った、峰の月のように、孤高を独り楽しむほど『遅くはない。今からでも、自分を鍛え直して、世に出ればい 自分で自分を、だめだと見限ったら、もう 潔い気もちになったりーー朝にタに、濁っては澄み、澄んでは 濁り、彼の心は、その若い血は、余りに多情であり、又、多恨人生はそれまでのものだ』 と、励ましたが 然し、と付け加えて、 であり、又、躁がし過ぎた。 さいな 33 り
ふくろ せみ 平河天神の森は、蝿の声につつまれていた。梟の声もどこか でする。 『ここだな』 武蔵は、足を止めた。 昼間の月の下に、物音もしない一構えの建物がある。 『たのむ』 まず玄関に立ってこう訪れた。洞窟へ向ってものをいうよう ーーそれ程、 に、自分の声が自分の耳へがあんと返ってくる。 ひとけ 人気が感じられなかった。 暫く経っと、奥の方から跫音がして来た。やがて彼の前 、取次の小侍とも見えぬ青年が、提げ刀で立ち現れ、 どなた 『誰方だな ? 』 立ちはだかったままでいう。 の年ばえ二十四、五歳、若いが、革足袋の先から髪の毛まで、 羅一見して、能も無く育って来た骨がらでないものを備えてい 武蔵は、姓名を告げて、 や く ら に羅の のう 『ト幡勘兵衛どのの小幡兵学所はこちらでございますな』 『そうです』 青年は、膠がない 次にはさだめし、兵法修行のため諸国を遊歴しておる者で と武蔵がいうに違いないと、見ているような体だったが、 武蔵が 『御当家の一弟子、北条新蔵と申さるる人が、仔細あって、御 存じの刀研ぎ耕介の家に救われて、療養中にござります故、右 迄、耕介の依頼に依って、お報らせにうかがいました』 と述べると、 『えつ、北条新蔵が、返り討になりましたか』 と、青年は驚愕して、気を落着けると、 『失礼いたしました、わたくしは勘兵衛景憲の一子、小幡余五 郎にございます。わざわざのお報らせ有難う存じまする。ま ず、端近ですが御休息でも』 『いやいや、一一一只お伝えすればよい事、すぐお暇をいたす』 『して、新蔵の生命は』 『今朝になって、いくらか持直したようです。お迎えに参られ ても、今のところでは、まだ動かされますまいから、当分は耕 介の家に置かれたがよいでしよう』 ことづて 『何分、耕介へも、頼み入るとお言伝ねがいたい』 『伝えて置きましよう』 『実は当方も、父勘兵衛がまだ病床から起ち得ぬところへ、父 の代師範をつとめていた北条新蔵が昨年の秋から姿を見せませ ぬため、このように講堂を閉じたまま、人手のない始末、悪か〃 らずお推察を』 かげのり