身 - みる会図書館


検索対象: 宮本武蔵(三) (吉川英治)
437件見つかりました。

1. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

塵の情実など許そう。ーー若年者といわれたが、その若年者な野の道場から一名の駿足も出ておらぬという事は、ふかく恥じ 巻るが為に、わしは彼に負けたとは思わない、移っている時代にる。 これというのも、わが門下には、御譜代の幕士が多 の負けたと思うのだ』 ややもすると、御威勢について思い上り、いささかの修行 天『と、とは申せ』 をもって、すぐ無敵一刀流などと誇称して、よい気になってい 『まあ待て』 るせいと思う』 静かに、根来のことばを抑え、又、大勢の同じ顔いろを見直『あいや、先生。お言葉中にはござりますが、決して、われわ して、 れとても、そのような驕慢怠惰にのみ日を暮しているわけで 『手早く話そう。あちらには、佐々木殿もお待たせしてある。 ひょうすけ そこで各 4 へ、改めて、申し渡す儀と、わしの希望を聞い と、亀井兵助が、その時、声ふるわせて、弟子の座からいう てもらいたい』 『だまれ』 と、忠明は、彼の顔を睨まえて師の座から一言に圧して、 自分はきよう限り、道場から身を退こうと思う。世間か『弟子の怠りは、師の怠りである。わしはわし自身を慚愧し みずか らも身を隠す。隠居ではない。山中へ行って、弥五郎入道一刀て、自ら裁いておるのだ。 お身等すべての者が、驕惰だと なお 斎先生の分け入った道の後をたすねる心で、猶、晩成の大悟をは申さぬ。だが、この中には、そうした者もおると見た。その 期したい。 悪風を一掃して、小野の道場は、正しい、若々しい、時代の畆 どこ のぞみ 『これが一つの希望』 床とならねばならぬ。 そうせねば、忠明が身を退いて、改 と、治郎右衛門忠明は、弟子一同へ告げるのだった。 革いたす意味もないことになろう』 ただなり 弟子の中の伊藤孫兵衛は班にあたる者ゆえ、一子忠也の沈痛な彼の誠意は、ようやく弟子たちの肺腑へ沁み透 0 てき 後見をたのむ。幕府へは、その由を願い出で、自分の事は、出た。 かしら 家遁世と届けておいてもらいたい。 弟子の座に居ならぶ者は、みな頭を垂れて、師の言葉を噛み 『これが二つの頼みである』 しめながら、自分たちも反省した。 「浜田』 次に、この機会に、、、 し渡しておく事として、 忠明が、軈ていった。 『わしは、若輩の佐々木殿に負けたという事を、そう恨みには 浜田寅之助は、ふいに、名を指されて、 『はっ』 思わぬ。しかし、彼の如き新進が他から出ているのに、まだ小 のぞみ ンス やが とお 早、んき

2. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

と、語尾を消して、 『いや、あなたの事は、その父の手紙にも、又沢庵どのか・ら わけて、唯今の御要意には感 も、よく聞いておりました。 じ入る。不作法には似たれども、かねがね此の身へ御所望の試 さわ 合も、これで果したと申すもの。お気に障られな』 温厚な風が、武蔵の貧しい姿を和らかにつつむのであった。 うわさに違わず、但馬守は聡明な達人であると、武蔵もすぐ感 五 『おことば、痛み入りまする』 『むむ、御明察』 武蔵は自然、彼の挨拶以上に、身を低くして、そういわざる と、安房守が感嘆して、頷いて見せると、沢庵も、 『その通り、但馬守どのに相違お座らぬ。あいや、物陰のおを得ない。 但馬守は、たとえ一万石でも、諸侯の列に在る人である。そ 人、もう知れておる。これへ御座あってはどうか』 室外へ向っていうと、そこで笑い声がひびいた。やがて這入の家格からいっても、遠く天慶年代から柳生ノ庄の豪族として むわのり しうまでもなく、初対面であっ知られ、しかも将軍家の師ではあり、一介の野人にすぎない武 って来た柳生宗矩と武蔵とは、、 蔵とは、比較にならない権門の出である。 同席して、こう語りあう事すらが、すでに当時の人の観念で その前に、武蔵はすでに、末席に身を退いていた。但馬守の 彼まそこへ坐らずは破格であった。だが、ここには旗本学者の安房守もいるし、 ためには、床の間の席が開けてあったが、ノ。 又、野僧の沢庵も、極めて、そういう隔てにはこだわらすにい 武蔵の前へ来て、対等の挨拶をした。 るので、武蔵も救われた心地で坐っていた。 『身が、又右衛門宗矩でござる、お見知りおき下さい』 やがて、杯を持つ。 武蔵も亦、 かわ 『初めて御意を得ます。作州の牢人、宮本武蔵と申す者、何銚子を酌み交す。 談笑がわく。 分、この後は御指導を』 - 一とづ そこには、階級の差もない、年齢のへだてもない。 オカ折わる 一『先頃、家臣木村助九郎から、お言伝ても承っ , : 、、 武蔵は、思うに、これは自分への待遇ではなく、「道」の徳 賢く、 国許の父が大患での』 であり、「道」の交わりなるが為に、許されているのである。 四『石舟斎様には、その後の御容態、いかがにございまするか』 『そうだ』 『年齢が年齢でござれば、いっとも : と、訊ねた。 武蔵は、但馬守に、上座を譲るべく、席を退がりながら、 『暗うはござりましたが、あの壁の陰にひそと澄んでいた 気、又ここのお顔ぶれといい、但馬様を措いて、余人であろう とは思われませぬ』 と、答えた。 こ 0 やわ ノ 27

3. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

元より武蔵はもうそこに身を置いていなかった。橋桁に添っ といって、いっ迄、じっと ら危険きわまるといっていい 弾と行き交しー 、こ、皮の体は 屈んでいるのも策を得たものであるまい。なぜなら、敵は、対て、九尺も居る所を更えていたが、 岸の仲間と、火繩で合図を交しているから、事態は、時の移るそこから敵のかくれている暗がりへ向って一躍した。 次の弾をこめて、火繩の火を強薬へ点じている間などなかっ ほど、彼の不利になって迫って来るものと見なければならない たので、敵の三名は狼狽を極め、 からだ。 かんはっ 『ゃ。や』 が武蔵には、間髪のまに、処する方法が立っていた。兵法に よらす、凡ての理は、それを理論するのは、平常の事で、実際『う。うぬ』 刀を払って、おどって来た武蔵を、三方から迎えたが、それ にあたる場合は、、 しつも瞬間の断決を要するのであるから、そ さえ辛くも間に合った姿勢なので、味方と味方の聯繋は取れて れは理論立てて考えてする事ではない。ひとつの「勘」であっ - 一う 平常の理論は「勘」の繊縟を成してはいるが、その知性は緩武蔵は、三名のなかへ割って入ると、真っ向の者を、大刀で 一颯の下に断ち伏せ、左側の男を、左手で抜いた脇差で、横に 慢であるから、事実の急場には、まにあわない知性であり、た い隹 - 、 ) 0 めに、敗れる事が往々ある。 一人は逃げ出したが、よはど慌てたとみえて、橋桁の袂へ、 「勘」は、無知な動物にもあるから、無知性の霊能と混同され 易い。智と訓練に研かれた者のそれは、理論をこえて、理論の盲とんばのように打つかり、そのまま矢矧の大橋を、のめるよ 窮極へ、一瞬に達し、当面の判断をつかみ取って過らないのでうに駈けて行った。 ある。 殊に、剣に於ては。 それから、武蔵も、常の足どりで、ただ欄干に身を添い 今の武蔵のような立場に立った時に於ては。 ながら、大橋を渡って行ったが、何の事も起って来ない。 武蔵は、身を屈めたまま、そこから大きな声で、敵へいっ しばらくの間、来る者あれば待つように、身を佇ませていた 環『潜んでも、火繩が見えるそ。益ない事だ。この武蔵に用事あが、かわ 0 た事もなかった。 ここに居るツ』 家に帰って彼は眠った。 らば、ここまで歩け。武蔵はここだ すると、翌々日。 川風が烈しいので、声は届いたか届かなかったか疑われた 苧が、その返辞に代えて、すぐ鉄砲の第二弾が、武蔵の声がした無可先生として、手習い子の中に交って、自分も一脚の机に あたり 倚り、筆を持って習字していると、 辺を狙って撃って来た。 せん さっ から たたず 337

4. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

『、つ + び』 こた 巻と、応えて、 の『佐々木どのは、きようは家におるか、それとも外出か』 天角兵衛はすぐ訊ねた。 四 さだめし小次郎が欣んでくれるに違いない。角兵衛は正直に 期待していた。 小次郎は、無言のまま、杯の端を唇へつけて、聞いていた 『御返杯』 そういったのみで、欣しそうな顔もしないのである。 今日は終日、家にいた様子だし、今も、寝転んで涼んで おります、と召使から聞いて、 だが角兵衛は、それを不服と思わないのみか、むしろ尊敬さ 『そうか。では、酒の支度をしての。支度ができたら、佐々木え抱いて、 どのを、こちらへお呼びして参れ』 『これで、お頼みをうけたそれがしも、世話効いがあったとい その間に、風呂に入ってと、角兵衛はすぐ汗になった衣うもの。こよいは、祝杯でござる、お過ごしなさい』 ゆかた と、更に、酌いでゆく。 服を脱ぎ、風呂場で浴衣になった。 次良は初めて 書院へ出て来ると、 『お帰りか』 『お、い添え、かオししオし』 と、少し頭を下げた。 次郎は、団扇片手に、先へ来て坐っていた 酒が出る。 『いや何、其許のような器量人をお家に薦めるのも、御奉公の 『まず、一盞』 と、角兵衛は酌いで、 『そう過大にお買いくだされては困る。元より、禄を望ます、 『きようは、吉い事があるので、それをお聞かせしたいと存じ こだ細川家は、幽斎公、三斎公、そして御当主忠利公と、三代 てな』 もつづく名主のお家。そうした藩に奉公してこそ、武士の働き : 吉い事とは』 場所と思うてお願いしてみた事でもあれば』 そこもと 『かねて、共許の身を、御推挙しておいたところ、だんだん殿『いやいや、身共は少しも、其許の吹聴はしないつもりだが、 にも其許の噂を耳にされ、近日、連れてこいという事になった誰いうとなく、佐々木小次郎という名は、もう江戸表では隠れ のじゃ。 いやもう、ここまで運ぶには、容易ではない。何のないものになっておる』 らんだ しろ、家中の誰や彼から、推挙しておる人間もすいぶん多いか 『こうして、毎日、懶惰にぶらぶらしている身が、どうして、 らの』 そう有名になったものか』 さん うちわ くち

5. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

知っている筈』 『見たら分るであろう。文字が読めぬのか』 おのれ 『面倒。否か応か、それだけ聞こう。否というなら、おばばの 『だまれ。この中にある、城太郎とは、汝とみえるな』 身は、抛っておくまでの事。山で飢え死させるがよい』 『そうだ。拙者は、青木城太郎』 『こいっ』 し、つと 跳びかかって、一人は城太郎の腕くびを捩取り、一人は柄を 『あっ : : : 城太さん ! 』 にぎって、斬る構えを見せた。 とっぜん、お通が、絶叫して、前へのめりかけた。 『たわごと申すと、首の根をたたき落すそ。おばばの身を、ど 先刻から、彼女の眼は、彼の姿を凝視していた。半ば疑い には愕きに打たれ、身鋺きをしていたが、城太郎自身が、城太こへ隠した ? 』 『お通さんを渡すか』 郎と名乗ったので、はっと、吾を忘れた絶叫が出たのであっ 『渡さんっ』 『では、拙者もいわん』 『ア。猿ぐっわが弛んだそ。締め直しておけ』 『、ど、つ 1 して、も』 と、城太郎と応対していた郷士は、うしろへいって又、 『だから、お通さんを、返せ。そうすれば、双方怪我なく事は 『なるほど、これはおばばの筆蹟にはちがいないが、そのおば ばが、わが身を連れに引っ返さるべく候・ーー - ・と書いているのすむ』 『ちツ。この青二才』 は、どうした次第か』 捩上げた手をそのまま、足搦みに懸けて、前へ仆そうとする 血相を研いで詰めよると、城太郎は、 『人質に取ってある』 『何を』 と、澄まして、 『お通さんを渡せば、おばばの居場所も教えてやる。否か応城太郎は、反対に、彼の力を利用して、その男を肩越しに投 げつけた。 っ ) 0 と、 然し、途端に 『あっ・ さてこそ、いくらおばばを待っていても後から来ない筈 と城太郎も尻もちついて、右の太股を抑えた。 と、三名は目顔を見合せていたが、そういう城太郎のまだ乳く みくび 投げつけた男から、抜打に一太刀、びゆっと刎ねられたので さい年頃を見縊って、 ある。 風『ふざけた事を申すな。どこの青二才か知らぬが、おれ達を、 何だと思う。下ノ庄の本位田といえば、姫路の藩士なら一応は ゆる みもが わじあ がら わじと 365

6. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

眼をつぶっていた。 から、伊織はそう思いこんでしまった。 そしてしばらくして、顔を上げると、山と山のあいだに、 巻『 : : : おじさアん。おじさーん』 あおもや く海が見えた。薄ッすらと、碧い靄のように見えた。 の多感な少年のたましいは、むだと知りながらも、呼ばずにい 『 : : : 坊んち』 明られなかった。きのうから歩きつづけて居る足のつかれも知ら うしろ 円ない。その足にも、耳の辺へも、手にも血がついている。着物さ 0 きから彼の背後に立 0 て怪訝しげに眺めていた婦人があ る。娘と母であろう、二人とも軽い旅装いはしているが身綺麗 が裂けている。然し、何も顧みようとしない。 にして、男の供も連れていない様子。近国に住む良家の者の、 『どこだろ ? ・』 つれづれ かみもう ときどき、われに返る時は、胃の腑から空腹を訴えられる時神詣でか仏参か。徒然の春の旅か。そんなふうに見うけられる。 だった。何かは喰べていたが、何を喰べて来たか、よく覚えな 伊織は、振向いて、御寮人と娘の顔をじっと見た。まだどこ いのである。 か、眼がうつろなのだった。 おとといの晩泊った金剛寺へなり、或は、その前の柳生ノ庄 めあて 伊織の頭には、 娘は、母を見ー なりを思い出せば、歩む目的もっくわけだが、 『以」、つー ) た ) ′ルでー ) よ , っ ? ・』 断層以前の記憶は、まだ何もよみがえって米ないらしい と、ささやいている。 漠として、 御寮人は、首をかしげていたが ( 生きているーー ) 身を感じ、急に独りばッちになった身の、生きる道を、探り手や顔の血に、眉をひそめながら、 『痛くないのかえ』 歩いている形だった。 と、訊い ハタバタと虹のように眼を遮った物がある。雉子だった。山 伊織が、顔を横にふると、御寮人は娘のほうを顧みて、 藤の香がする。伊織は坐りこんで、 『分ることは、分るらしいよ』 ( 何処だろ ? ) もいちど、考えた。 ほほえみ ふと彼は縋るものを見つけた。大日様の微笑である。大日様 は、雲の彼方にも、峰にも谷にも、何処にでも居るものと彼に は思われたので、山芝の上にべたんと坐ると、 ( わたしの行先を教えてください と、掌を合せた。 すが さえ どっちから来たのかえ。 生れは何処。 名は何というのか。 そして一体、こんな所に坐って、何を拝んでいるのか 一りようにん いぶか 、伊織のそばへ寄って来て、 3 ク 8 よ

7. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

というので、話は決まっていなかったが、武蔵を試した但馬『身に過ぎたお心添えにござります。 守には、もうそれも分っている筈だし、素姓、性格、修行の履一つの埒すらあかぬ未熟者』 ししかけると、 歴などは、沢庵が保証する所であるから、これにも、誰も異議 らち 『いやいや。それゆえ、もう埒をつけてもよかろうと薦めるの じゃ。一家を構える気はないのか。お通もあのままにしておく ただ、将軍家の師範に推挙する場合は、当然、旗本に列しな っーも . り ; か』 ければならない。これには、三河以来の譜代者がたくさんし 沢庵は率直に問いつめた。 て、徳川家が、今日を為してから新規に抱える者に対しては、 とかく白眼視する傾きもあり、近頃、うるさい問題も起ってい るので , ーー難といえばただそこに難関はある。 だが、それも沢庵がロ添えしたり、両人の推挙があれば、通お通をどうするか。それを問われると、武蔵は、責められる 心地がする。 らないこともなかろ、つ。 もう一つの困難と想像されるのは家柄の事である。武蔵は勿 ( 不運となるとも、わたしはわたしの心で ) とは、彼女が、沢庵へもいったことだし、武蔵にも常にいっ 論、系図書などは持っておるまい しようげんまっえい 遠祖は赤松一族で、平田将監の末裔とはあっても、確証はなていることばであったが、ひとは許さない。 ひとは、男の責任とする。 あるのはむしろ反対に、無名 し、徳川家との縁故もない。 女が、女自身の心でうごいて来ても、その結果のいいわるい の一戦士としてではあったが、関ヶ原の折、槍一筋でも持っ は、男のせいにあると観る。 て、徳川の敵に立ったという不利な経歴ぐらいなものである。 自分のせいではない。などとは武蔵も決して思いはしな だが、関ヶ原以後、たとえ敵方であった牢人でも、ずいぶん 召抱えられている例はある。又、家格のことも、小野治郎右衛かった。いや思いたくない心のほうが強い。やはり彼女は恋に 門のごときは、伊勢松坂にかくれていた北畠家の一牢人であつひかれて来たと思う。そして、恋の罪は、ふたりが負うべきも たのが、抜擢されて、今では将軍家師範となっている前例もあのと知っていた。 燈 けれど、偖、 るので、これとて案じるはどの障害にはならないかもしれな ( 彼女の身をどうするか ) 推挙してみようが、所が、かんじんな、其許と、なると、武蔵には、胸のうちだけでも、的確な答が出て 来よい。 と、つおギ、るな』 四の肚は、。 ただ その根本には、 、冫庵が、こう話の結びへ持って来て、武蔵に糺すと、 ため さて なれどまだ、この身 すす ノ 29

8. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

『岡谷五郎次どのを見舞って来る』 た感じである。 と、 って出かけた。 きのう、忠利の面前では、少くも四、五名は相手にしてみせ かち その日は徒歩で。 るつもりだったが、最初の岡谷五郎次との試合が、余りに残忍 五郎次の家は、常盤橋の近くだった。彼は突然、小次郎の慇 であったせいか、 ん 懃な見舞をうけて、まだ病床から起き上れない身であったが、 ( 見えた。もうよい ) 『いや、試合の勝負は、腕の相異、わが未熟は恨むとも、なん と、忠利の声で、終ってしまったのである。 おそ びつこ 五郎次は、後で蘇生したというが、怖らく跛行になってしまで共許を : : : 』 ったろう。左の太股か腰部の骨は砕けた筈である。あれだけ見と、微笑をみせ、 いたわ 十 / . し』 『おやさしい、お労りをうけ、かたじナよ、 せておけば、このまま、細川家に縁はなくてもまず遺憾はない と、眼に露を見せた。 がと、小次郎はひそかに思う まくら・ヘ そして小次郎が帰ると、枕辺に来ていた友へ、 だが、未練はまだ、十分にある。将来、身を託す所として、 たしか 伊達、黒田、島津、毛利に次いで、細川あたりは慥な藩であ『ゆかしい侍だ傲慢者と思うたが、案外、情誼もあり、礼儀 、も一止、しい』 る。大坂城という未解決な存在がまだ風雲を孕んでいるので、 おちゅうど 身を寄せる藩に依っては、再び素牢人に転落したり、落人の憂と、洩らした。 わきま 次郎は、彼が、そういうであろうことを、弁えていた。 目にあうれは多分にある。奉公口を求めるにも、よほど将来 ちょうど、来ていた見舞客の一名は、もう彼の思うつばに、 を見通してかからないと、半年の禄のために、一生を棒にふる 彼の敵たる病人の口から、小次郎の讃美を聞かされていた。 かも知れない 月次郎には、その見通しがついていた。三斎公という者がま だ国元に光っているうちは、細Ⅱ家は泰山の安きにあるものと 見ていた。将来性も十分にあるし、同じ乗るなら、こういう親 うしお かじ 船に乗って新時代の潮へ、生涯の舵を向けてゆくことこそ賢明 だと考えていた。 やすやす 家柄ほど、易々と、抱えもせぬし ) 次郎は、やや焦々する。 鷲何を思いついたのか、それから数日後のこと、小次郎は急 おそ いん ノ 05

9. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

ばも、わざと寄って来なかった。むしろ身を消して、この浜辺『故郷 : : : 。孤児のわたくしには、人のいう故郷はありませ を、彼と彼女との二人だけのものにして遣りたい気持すら抱いん。あるのは、心の故郷だけです』 そなた 『でも、ばば殿も、今では共女にやさしゅうしてくれる様子。 そなた 何よりも、武蔵は欣しい。静かに病を養って、其女も幸せにな 『お通・・ : : さんか』 ってくれよ』 それだけの嘆声が、武蔵にも精いつばいな言葉だった。 この年月の空間を、単なる言葉でつなぐには、あまりにも多『今は、幸せでございます』 『そうか。それを聞いて、わしも少しは安んじて行かれる。 恨であり過ぎた。 ・ : お通』 しかも、問うにも語るにも、今はそうしている時刻の余裕す 膝を折った。 らも既にないのである。 。どんなだな』 ばばや権之助の人目を感じるので、彼女は居竦んだまま、よ 『からだが快くないようだが : やがていった。ばつりと、前後もない言葉だった。長い詩のけい身をちぢめたが、武蔵は誰が見ている事も忘れていた 『痩せたなあ』 うちの一句だけを摘んでつぶやくように。 と、掻き抱かぬばかり、背に手をのせて、熱い呼吸を弾ませ : ええ』 お通は、感情に咽せて、武蔵の面へ、眸さえ上げ得なかっている彼女の顔へ顔を寄せて、 つれな が、生別となるか死別となるか、この大事な一瞬を、 『 : : : ゆるせ。ゆるしてくれい。無情い者が、必すしも、無情 そなた い者ではないそ、其女ばかりが』 徒らに取乱したり、空しく過してはならないと、自ら誡めてい 『わ、わかって居ります』 るらしく、凝と、理念の中に、自分を努めて冷ややかに守って 『わかって居るか』 ひと・一と わずら 『けれど、ただ一一一 = ロ、仰っしやって下さいませ。 『かりそめの風邪か。それとも、もう、頁、 ノしル介しカン」こ、が亜 5 じゃと一一一 = ロ』 : そして近頃は何処に。どこに身を寄せておるのか』 『分っておるというロの下に。 、うては、かえって味ない 『七宝寺に、戻っております。 : : : 去年、秋の頃から』 もの』 人『ょに、故郷に』 『でも : : : でも・・ : ええ』 お通はいっか、全身で嗚咽していた。とっぜん、懸命なカ 人初めて、彼女の眸は、武蔵をじっと見た。 の 深い湖のように、眼は濡れていた。睫毛は、からくも浴れるで、武蔵の手をつかんで叫んだ。 彼 『死んでも、お通は。ー , ー死んでも : : : 』 ものを支えていた。 じっ まっげ みなしご つれな イ 35

10. 宮本武蔵(三) (吉川英治)

『左上げましょ , っ』 師の光悦から聞いていましたが、何か、観音像のような物で 巻『お代は』 も、御自分で彫った物があったら、それを手前に下さい。それ刀 『てまえが求めた元値でよろしゅうございます』 と取換えという事にして、刀は差上げましよう と、彼のエ の 『すると何程』 面顔を、救うようこ、 冫してくれた 『金二十枚でございます』 空 五 武蔵は、よしない望みと、よしない煩悶を、ふと悔いた。そ手すさびの観音像は、久しく旅包みに負って持ち歩いていた んな金のある身ではなかった。で、彼はすぐ が、法典ヶ原に遺して来たので、今はそれも無い 『いや、これは、お返しいたしましよう』 で数日の余裕を与えてくれれば特に彫っても、この刀を所望 と、耕介の前へ戻した。 と武蔵がいうと、 『なぜですか』 『元より、直ぐでなくても』 と、耕介はいぶかって と、耕介は当然の事としているのみか、 『お買いにならずとも、いっ迄も、お貸し申しておきますか『博労宿にお泊りなさる位なら、てまえ共の細工場の横に、中 ら、ど、つかお使いな六、いまして』 二階の一間が空いておりますが、そこへ移っておいでなさいま 『いや、借りておるのは、猶さら心もとない。一目見ただけでせんか』 も、持ちたいという慾望にくるしむのに、持てぬ刀と分りなが と、願ってもない事だった。 あした ら、暫しの間身に帯びて、又そちらへ返すのは辛うござる』 では、明日からそこを拝借して、事の序に観音像も彫りま 『それ程、お気に召しましたかな : しようと、武蔵がいうと耕介も欣んで、 と耕介は、刀と武蔵とを見くらべていたが、 『それでは一応、そこの部屋を見ておいて下さい』 『よかろう、それ迄に、恋なされた刀なら、此刀はあなたへ嫁と、奥へ案内する。 にあげるとしよう。その代りに、あなたも手前に、何か、身に 『然らば』 応じた事をして下さればよい』 と、武蔵は従いて行ったが、元よりさして広い家でもない 欣しかった。武蔵は遠慮なく、まず貰うことを先に決めた。 茶の間の縁を突き当って五、六段のはしごを上ると、八畳の一 あんす それから礼を考えるのであったが、無一物の一剣生には、何も室があり、窓のわきの杏の梢が、若葉に夜露をもっていた。 と 酬いる物がなかった。 『あれが、研をする仕事場なので ! ー』 あるじ すると耕介が、あなたは彫刻をなさるそうで、そんな事を、 と主が指さす小屋の屋根は、牡蠣の貝殻で葺いてあった。 これ めんがお