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検索対象: 宮本武蔵(二) (吉川英治)
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1. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

さかぐら い血しおを見、血のにおいに吹かれて、彼らは酒蔵へ入ったよ うに血に酔っていた。血の中に立っと、勇者は常よりも冷静に きようしゃ くらんど 武蔵の背を見て追いか 京流吉岡の伝統を負って立つべき十剣のうちの、小橋蔵人がなるし、怯者はその反対になる。 の けてゆく躍起な血相というものは、さながら血の池の鬼だっ まず先に斃れてしまい、今また御池十郎左衛門ともあろうほど 風の者が、つづいて大地へ俯ッ伏した。 『 ~ 打ったぞッ』 物の数には入れるわけにはゆかないが、彼らの旗とする、 名目人の源次郎少年を加えると、すでにここの半数は、武蔵の『逃がすなツ にえさら そんな叫びを聞き捨てながら、武蔵は、最初の戦端を切った 刀に中たって序戦の贄に曝され、惨たる血をここ一面に撒いて しまった。 丁字形の辻を捨て、三道のうちでいちばん道幅のせまい修学院 その時、十郎左衛門を斬った切ッ先の余勢をもって、彼道へ向って駈け込んで行ったのである。 当然そこからは今、下り松の変を知って、慌てふためい らの乱れた虚につけ入ってゆけば、武蔵はさらに、幾つかの敵 、よて駈けつけて来た吉岡勢の一団がある。ものの二十間とも駈け 首をつかみ、ここでの大勢を決することができたにちがしオ ないうちに、武蔵はその先頭とぶつかって、後から追って来る だが彼はなに思ったか、驀っしぐらに三本道の一方へ駈けものとの間に挾まってしまわなければならないはす。 いきおし 二つの勢は、その藪道でぶつかった。味方は味方の雄々し 逃げるかと思えば、翻えっているし、向って来たなと構えをい姿を見ただけだった。 『ゃ。むむ武蔵はツ』 持ち直せば〉地へ腹を摺ってゆく燕のように、武蔵の影はもう 『来ないッ』 勿 5 ち日劇こよ、 『いや、そんなはずはないが』 『でも 残った半数は歯がみをし、 押問答をしている間に、 八蔵ッ』 『一 : だッ』 「醜いそッ』 武蔵がいった。 路傍の岩の蔭からおどり出て、武蔵は、彼らの列が通り越し 『勝負はまだだぞ』 と吼えーーー。そして追った。 て来た道の中央に立っていた。 来いツ。といわんばかりな第二の準備が彼のからだにで 彼らの眼孔は、皆顔から飛び出しそうに光っていた。 しゅ たお ひるが おびただ

2. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

『帳場の立て替や、旅籠代の倒れは仕方がないが、なにか 、相 『行く先のことなんざ心配しなくともいい。道順だけ訊いてい宿のお客様の物でも紛失していないか、それを先に調べて来な るのだ』 き」し 工工忌々しいやつめ』 ゆるゆる 『おそれ入りました。 では、悠々、お支度を遊ばして』 舌打して、亭主も戸外の闇へ、眼いろを研いだ。 もみで 揉手しながら、亭主は縁へ退りかけた。 はなれ 五 ばたばたと、母屋から離屋の周りを、そのとき、旅籠の雇人 よなか たちが三、四名駈けていた。亭主のすがたをここに見ると、一夜半を待ちながら、母子はなんべんか銚子を代えた。 人の番頭が、あわてていった。 お杉は、自分だけ先に、飯茶碗をとって、 『旦那、この辺へ逃げて来ませんでしたか』 『又八、おぬしも、もう酒はよくはないか』 『なんじゃ。 『これだけ』 てじゃく 『あのーーーこの間から奥に一人で泊っていた娘っ子で』 と、手酌で酌いで 『えつ、逃げたって』 『飯はたくさんだ』 『タ方までは、慥に、姿が見えたんですが : : どうも部屋の様『湯漬けでも食べておかぬと、体にわるいそよ』 ちょうちん 子が』 前の畑や、路地口を、雇人の提燈がしきりと出入りしてい 『いないのか』 た。お杉はそこから見て、 『へい』 『まだ捕まらぬとみえる』 『阿呆共が』 と、つぶやいた。そして、 しきいわ 煮え湯を飲んだように亭主の顔は変った。客の部屋の閾際で 『関り合いになってはつまらぬゆえ、亭主の前では黙っていた 揉手をしている時とは別人のようにロ汚く、 が、旅籠代を払わずに逃げた娘というのは、昼間、汝れと窓口 『逃げられてから騒いだとて、後の祭りじゃ。 あの娘の様で話していたあの朱実じゃないのか』 子と、 しし、初手から事情のあるのは知れきっている。 それ『そうかもしれねえ』 むすめ を七日も八日も泊めてから、お前らは初めて一文無しと気がっ 『お甲に育てられた養女では、碌な者であろうはずはないが、 かわ 待 いたのであろが。 そんなことで、宿屋商売が立ってゆかれあのようなものと出会うても、この後はロなど交しなさるな 日 0 か』 明『相済みません。つい、処女な娘と思ってーーまったく一杯食『 : : だがあの女も、考えれば、可哀そうなものさ』 ふびん ってしまったんで』 『他人に不愍をかけるもよいが、旅籠代の尻ぬぐいなどさせら たしか おもや おばこ はた′一 かか ひと おやこ 78 /

3. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

ともある傾城が、買手共の我儘にまかせて、振り切って来られ『名歌でなければ先の意をうごかすことはできません。名歌な ぬというのはどうしたものじゃ、吉野もいよいよ金で買われるどがそう即吟でできるものではございません。あなた様が一 ようになったかな』 つ、連歌を遊ばして』 『いえ、そうではござりませぬが、こよいのお客様は、わけて『逃げたの。 : よろしい面倒じやから、こう書いてやろう』 も、片意地で、太夫様が去ぬと仰っしゃれば、よけいに離して紹由は筆を執って くれないのでござります』 わが庵へ うっせ吉野の 『すべて、買手共の心理は、みなそうしたものじやろが。 もと いったいその意地のわるいお客とは誰じゃ』 ひと本を かんがん 『寒厳さまでごギ、いまする』 それを見ると、光悦の吟興も、気が楽になったとみえて、 『寒、厳さま ? 』 『じゃあ私が、下の句を書き添えてやりましよう』 たかわ 苦笑して、紹由が光悦のほうを見ると、光悦も苦笑して、 花は高嶺の 『かんがん様は、おひとりでお見えか』 雲さむからめ うれ 『いいえ、あの』 紹由はのそき込んで、すっかり欣しがってしまい 『いつものお連れと ? 『よしよし。花は高嶺の雲さむからめ : : : か。これはいい、雲 うえびと 『ええ』 の上人も、ぎやふんであろう』 紹由は、膝をたたいて、 と、結び封にして、墨菊太犬の手へわたした。そしてしかっ 『いや、おもしろうなったそ。雪はよし、酒はよし、これで吉めらしく、 かむろ 野太夫が見えれば申し分のないところ。光悦どの、使をやんな 『禿や、ほかの女共では、なんとのう権威がない。太夫、御足 すずりばこ され。 これ、これ女、そこの硯筥、硯筥』 労じゃが、かんがん様のところまで使者に行っておくれぬか』 と、取り寄せて、光悦の前へ、懐紙とそれを突きつけた。 み、きの 『何を書きますか』 かんがん様とは、前大納言の子烏丸参議光広のしのび名。 さねひさ 『歌でもよいし : : : 文でもよいが : : : 歌がよいな、先がなんせつものお連れというのは、おおかた徳大寺実久、花山院忠長、 おおいみかど まさかた い当代の歌人じやから』 大炊御門頼国、飛鳥井雅賢などというようなところの顔ぶれで 『こまりましたな。 : つまり吉野太夫をこちらへくれというあろう。 歌でしよう』 『そうじゃ、その通り』 あすかい ノ 09

4. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

て、手綱を引いていた。 りたいか』 巻『 : : : ウム』 『それやあ、侍になりたいさ』 『わしの弟子になって、わしと一緒に、、 どんな苦しい事でもで と、うなすいてはいるが、武蔵は明瞭な返辞はしない。そし の て心のうちでは、この少年に、多分な望みをかけていた。 きるか』 けれど、いつも流浪の身である自分が先に考えられた。果し しいきなり手綱を放り出した。何をするの すると、三之助よ、 空 て、自分の手によって、この少年を幸福にできるかどうか将 かと見ていると、露草の中に坐って、馬の顔の下から、武蔵へ 来の責任を、自分に問うてみるのであった。 両手をついていった。 すでに、城太郎という先例がある。彼は、素質のある子だっ 『どうか、お願いです。おらを侍にしてください。それは死ん とっ たが、自分が流浪の身であり、又自分にさまざまな煩いがあるだお父さんもいい暮していたんだけど : : : きようまで、そうい 為に、今では、手元を離れて、その行方もわからない って、頼む人がなかったんです』 ( もし、あれで悪くでもなったらーーー ) 武蔵は、から降りた。 と、武蔵は、、 しつもそれが、自分の責任でもあるかのよう そしてあたりを見廻した。一本の枯木の手頃なのを拾い、そ に、胸をいためている。 れを三之助に持たせて、自分も有り合う本切れを取って、こう 然し、そういう結果ばかり考えたら、結局人生は、一歩 も、あるくことが出来ない。自分の寸前さえ分らないのであ『師弟になるかならぬか、まだ返辞はできぬ。その棒を持っ る。ましてや、人間の子、ましてや、育ってゆく少年の先のて、わしへ打ち込んで来い おまえの手すじを見てから、 事、誰が、保証できよう。又、傍の意志をもって、どうしょ侍になれるかなれないか決めてやる』 う、こ、つしょ , っと思 , っ車・からして、むりである。 : じゃあ、おじさんを打てば、寺にしてくれる ? 』 ( ただ、本来の素質を、研かせて、よい方へ歩む導きをしてや『 : : : 打てるかな ? 』 るだけならーーし 武蔵ははほ笑んで、木の枝を構えてみせた。 それならば、できると彼も思う。又、それでいいのだと、自枯れ木をんで立ち上った三之助は、むきになって、武蔵へ 身に答えた。 打ちこんで来た。武蔵は、仮借しよ、つこ。 オカオ三之助は、何度 よろ 『ね、おじさん、だめかい、いやかい』 も、踰めいた。肩を打たれ、顔を打たれ、手を打たれた。 三之助は強請む。 ( 今に、泣き出すだろう ) 武蔵は、そこでいった。 と思っていたが、三之助は、なかなか止めなかった。しま、 『三之助、おまえは、一生涯、馬子になっていたいか、 には、枯れ木も折れてしまったので、武蔵の腰へ武者ぶりつい みが わずら 侍に . な 408

5. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

で泣くやつがあるもんか』 『 : : : お酒を』 『あたしの涙は、あのひとの涙とは、涙がちがいますよ。 巻と、壁へ向っていった。 それから彼女は矢つぎばやに酒を体に容れた。城太郎が恐れアア面倒くさい、死んでやろうか』 おもて の ふいに身を起すと、戸外の闇を目がけて駈け出したので、城 て止めた頃には、もう城太郎の手におえなかった。 太郎は、びつくりして抱き止めた。 『うるさいね、何サ、この子は 空 ひじ こういう女客も、稀にはあるとみえて、居酒屋の者は笑って と、肱で振払って、 いたが、ふと、隅に寝ていた牢人者が、むつくり酔眼をさまし 『もっと、お酒を : : : お酒をくださいな』 そのくせ、もう烙のような顔して、俯っ伏しながら、息もくて見送っていた。 るしげなのである。 『いけないよ、与っちゃあ』 『朱実さあん。朱実さあん。ーー死んじゃいけないよ』 城太郎が、間に立って、心配そうに断ると、 : あ城太郎は追いかけてゆく。 『いいよ、お前はどうせ、お通さんが好きなんでしよ。 朱実は先へ走ってゆく。 たしはね、泣いて男の同情を買うような、そんな女、大っ嫌い 暗い方へ、暗い方へと。 先が闘であろうと、沼であろうと無鉄砲に駈けているものの 『おいら、女のくせに、酒なんか飲むやっ、大っ嫌いだ』 うしろ 『わるかったね。 : お酒でも飲まなけれや居られないあたしように見えるが、朱実は、城太郎が泣き声だして、後で呼んで いることを知っている。 の胸は : : : おまえみたいなチンチクリンには分りませんーー・・だ ひそかな芽生えを乙女の胸にもちながら、その芽を、あらぬ 男にーーーあの吉岡清十郎にふみにじられてーー、住吉の海へまっ 『はやく勘定をお払いよ』 しぐらに駈けこんだ時には、ほんとに、死の彼方まで行く気で 「おかねなんて、あるかとさ』 あったがーーー今の朱実には、その口惜しさだけがあっても、そ 『ないのかえ』 『そこの旅籠に泊っている、京の角屋の親方さんから貰っておれ迄の純真さはすでにない。 ( 誰が、死ぬものか ) くれ。どうせもう売った体 : ・・ : 』 、よ ; ら、ただわけもなく、城太郎が後から駈 と、自分へ、 『アラ、いてら』 けて来るのが面白くて、世話をやかせてやりたいのだった。 『わるいかえ』 『だって、お通さんの泣虫を、さんざん悪くいった癖に、自分『あっ、あぶないっ』 や あなた 36 ク

6. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

よろいまと さっき茶店に居合せた野武士ていの中の一人であった。 なしが、この山刀一腰に、ばろ鎧を纒っても、名ある大名の陣 側へ駈けて来て、 場を借りて、日頃の腕を振うつもりじゃが』 「大坂方ですか、関東方でございますか』 『早いお脚だの、あんたが出て行ってから、暫くしてから気づ いたのじゃ。 このお金は、あんたの物じやろうが』 『何っ方でもいし 。ますやはり旗色を見て加わらぬと、一生を んべん てのひら 掌に、一粒の銀片をのせて、武蔵に見せ、それを返そうと棒にふるからなあ』 、」いかけて来たのだという。 『はははは、 , 入キ、に』 いやそれは自分の物ではあるまいと武蔵はいった ; 、 野武士武蔵は、まるで相手にしない。なるべく足も大股に努めてみ ていの男は、かぶりを振って、確かにあなたが金包みを落した たが、男もそれにつれて大股になるので何の効いもない。 と押し戻し 時、この一片が土間の隅へ転ったものに違いない、 そして猶、気になる事には、自分の左側へ左側へと、男は好 て来る。 んで寄り添ってくるのだった。これは、心ある者は最も忌むと 数えて持っている金ではないので、そういわれてみると、そころの、抜き討ちを仕かける時の姿勢である。 うかも知れないと武蔵は思うほかなかった。 」もン一 九 で、礼をいって、それを袂に納めたが、武蔵は、この男の正 直な行為が、なぜか少しも自分の感激に触れないことに気づい だが武蔵は兇暴な道連れの狙っているその左側を、わざ と空けて、甘んじて相手に窺わせておいた。 まな 「失礼じゃが、あんたは、武道を誰に習びなされた』 「どうじゃな修行者。もし嫌でなかったら、おれたちの住居へ 用がすんでからも、男は要らぬ話をしかけて、側へついて歩来て、今夜は泊ってゆかないか。 : この和田峠の先には、大 く。それもおかしい 門峠がある。夜明けまでに越えるというても、道馴れない者に 『我流ですよ』 はどうして大変だ。これから先は、道も嶮しくなるばかりだ と、武蔵は、投げつ放しな語調でいう。 『わしも、今は山に籠ってこんな業をしておるが、以前は侍で『ありがとう存じます。おことばに甘えて、泊めて戴きましょ 、つか。 . ば』 そ , っするがいし 『はは ~ め』 『そ、つするがいし だが何も、もてなし - 一うりよう は無いぜ』 『さっき居合せた者も皆そうじゃ。蛟竜も時を得ざれば空しく ふち き - 一り 淵に潜むでな、みな木樵をしたり、この山で、薬草採りなどし 『元より、体さえ横たえれば、それでいいのでございます。し たっき て生計をたてているが、時到れば、鉢の木の佐野源左衛門じゃて、お住居は』 わざ ひとこし 、つめ」 340

7. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

賢 お通が答えないので、彼は又、 お通は信じない。 『どうしてなのさ、え ? お通さん。ーーー道も離れて歩くし、 こんな所を、彼の人が通るわけがないではありませんか』晩もちがった部屋に寝るし : : : 喧嘩でもしたのかい ? 』 『ないかあるか知らないけれども、たった今、彼方へ行ったも かぶ の。編笠を被っていたぜ。そして、お通さんは気がっかなかっ たかい。おいらとお通さんをじっと見てたよ』 又よけいな事を訊く。 : ほんとに』 喰べ物のことをいわなくなったと思うと、今度はませたロで しゃべ 『嘘なら呼んで来ようか』 休みなくお喋舌りなのだ。それもよいが、お通と武蔵との仲 飛んでもない事である。又八という名を聞いただけでを、とやかくと穿ってみたり、探ってみたり、からかってみた も、彼女は又、元の病人へ帰ったように、顔の血がさっと退いりする。 ている程ではないか。 ( 子供のくせに ) ししょ しいよ、心配しないでも、もし何かして来たら、先 と、お通は、胸に傷い所であるだけに、真面目に答える気に はなれない。 へ歩いている武蔵様のとこへ駈けて行って、呼んで来るから』 その又八を怖れて、いっ迄もここにいれば、自分たちより何 こうして牛の背をかりて旅の出来るほどには、体のぐあいも やまい 町か先へ歩いている武蔵とも、自然かけ離れてしまう事になろ癒くなっては来たが、彼女の病以上の問題は、決してまだ解決 、つ はしていない めたき たきっせ お通は、再び牛の背に腰かけた。まだ、病後の体は決してほ あの馬籠峠のーー女滝と男滝の滝津瀬には、まだあの時の、 んとではない。ふと、今のような事を聞いても、動悸がなかな自分の泣声と、武蔵の怒った声が、どうどうと、淙々と咽び合 かしすまらない。 って、そのまま二人の喰い違った気持を百年も千年も、この心 『ね ? お通さん。おいらには、ふしぎでならないよ』 が解けあわぬうちは、怨みに残していることであろう。 よみが ふいに城太郎はこういって、彼女の褪せた唇を、思い遣りな 思うたびに、今でもそれが彼女の耳へ甦えってくる。 く、牛の前から振り仰い ( なぜ私は ? ) 『ーーー・何がふしぎかっていえばさ、馬籠峠の滝つばの上まで と彼女はあの折に、武蔵が自分へ迫って求めた烈しいそして は、お師匠さんも口をきき、お通さんも口をきき、仲よく三人率直な欲望を、自分も又、満身のカで拒んでしまった事を、幾 たびも、 普づれで来たのに、あれから此っ方、ちっとも口をきかないじゃ ( なぜか ? なぜか ? ) む - : っ むせ 287

8. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

しなの 曾第一の殷賑な地、信濃福島の町中へさしかかると、折から陽『さ、はやくお喰べなさい』 巻も八刻頃たし、腹も減り頃なので、 と、黄枌餅屋の陰へ這入って行く。 『休もうよ、其処らでーー』 城太郎は威勢よく、 の と、又始め出した。 『餅屋のおばさん、二盆おくれーーー』 「ね、ね』 呶鳴っておいてから、軒先の馬繋ぎに牛をつなぐ。 空 こう鼻で捏ね出すと、駄々に粘りが出るばかりで、歩けばこ 『わたしは喰べませんよ』 そ、テコでも動く顔つきではない。 きなこもち 「よう、ようつ。黄粉餅たべようよう。・・・・ : 嫌かい ? 』 『そんなに喰べてばかりいると、人間が莫迦になりますから』 こうなっては一体、ねだっているのか、お通を脅迫している 『じゃあ、お通さんのと、二盆喰べてしまうぜ』 のか、分らない。彼女の乗っている牛の手綱は、城太郎の手に まあ、呆れた子』 曳かれている為、彼の歩き出さぬうちは、どう焦々思っても、 なんといわれようが、喰べているうちは、耳のないような城 黄粉餅屋の軒先を、通り越える事ができないからである。 太郎の姿である。 あばら 『、い日減におしなさい』 がらにもない大きな木剣が、屈みこむと助骨に触って、欣ば 遂に、お通も意地になってしまう。城太郎と共謀して、往来うとする官能の邪魔になる気がするのであろう、中途から、そ の地面を嘗めまわしている牝牛の背から、眼にかどを立てて、 の木剣をぐるりと背中へ廻して、一度、むしやむしややりなが 「ようござんす。そんなに私を困らすなら、先へ歩いていらっ ら往来へ眼を遊ばせた。 しやる武蔵様へ、 しいつけて上げるからーーー』 『はやく喰べてしまいませんか。よそ見などしていないで』 そして彼女は、牛の背から降りそうな真似をしたが、城太郎 『 : : : おや ? 』 は笑って見ている。止める真似もしないのである。 城太郎は、盆に残っている一つを、あわててロへ抛りこむと、 なにを見たか、往来へ駈け出して、小手をかざした。 『もういいんですか』 ちょうもく 城太郎は、意地わるく、 鳥目をおいて、お通も後から出て来ようとすると、城太郎は 『どうするの : 彼女を床几へ押しもどして、 彼女が、先へ行く武蔵へ、 いいつけに行かない事は、百も承『待ちなよ』 知の顔つきでいう。 『まだなにかねだるつもり ? 』 む・一う 牛の背から降りてしまったので、お通は、仕方なしに、 「今、彼方へ、又八が行ったからさ』 いんしん めうし かが つな よろ - 一 286

9. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

当然会えるはずの者に、よけいに行き会えないことになってし 寺つ だが遂に、中津川の宿場端れで、彼は、先へ行く武蔵の姿を 見つけた。 幾日目だろう。それは実に又八としては珍らしいはどな熱意 で追いついて来た目標だった。然し彼は、武蔵の後ろ姿を見る とともに顔色を変えて武蔵を疑った。 牛の背に乗って行くのは、武蔵ではなくて、七宝寺のお通で 、、 0 そのお通を乗せて牛の手綱を持って行くのが武 なかせんどう 初夏に向ってゆく旅だ。木曾路の新緑を浴びて、中山道を牛蔵ではないか。 ッついてゆく城太郎の如きは、又八の眼中にはない、 の足にまかせて行く。 おのの 問題でもない。又八をして猜疑に顫かしめたものは、お通と武 ( 待っているぞ、後から追いついて来るがいし ) むつま 柳の枝に結び文を残して行った武蔵を慕って、又八は道を急蔵との、睦じそうな姿だった。 と - り、 いたが、草津まで行っても行き会わない、彦根、鳥本まで来今日までのどんな場合の憎悪の嫉視よりも、このせつなほど 又八は、友の姿を悪魘に見たことはない。 ても見当らない。 『 : : : アアやつばり、思えばおれは、お人好しだったに違えね 『ハテ、先に来過ぎてしまったのかな ? 』 すりばちとうげ 摺鉢峠では、峠の上で、半日往来を眺めていたが、その日もえ。あいつに唆かされて関ヶ原へ出かけた時から今日に至るま で。 だが俺も、こう踏みつけられちゃあ、何日までお人好 無駄。 しじゃいねえそ。野郎、今にどうするか、覚えていろよ』 牛に乗った武士と訊いても、牛馬に騎って行く旅人は多い 武蔵には、お通、城 それに又八は、武蔵一人と思っていたが、、 『暑い暑い。こんなに汗をしばる山道って初めてだ。ここはど 太郎の道連れがあった。 こ ? お師匠様』 美濃路へ来ても知れないので、彼は、小次郎の言を思い出し まごめとうげ 『木曾で一番の難所、馬籠峠へかかり出したのだ』 『きのうも二つ峠を越したつけねえ』 滝『やつばり俺は、お人好しかな ? 』 みさかとまがり 『御坂と十曲と』 あきあき 女迷い出すと限りがない。 『おらあ、峠に飽々しちゃった。はやく江一尸の賑やかな所へ出 彼自身の惑いが、道を戻ったり、曲ってみたりするために、 たき たきお 女滝男滝 め そその 275

10. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

風の巻 背から思わず、 頭ヲ低レテ暗壁ニ向イ 『オオ』 千喚一トシテ廻ラズ 十五、始メテ眉ヲ展べ と、眼を、拭って眺めた。 同じ時刻に、お通と城太郎のふたりも、志賀山越えの道 願ワグハ塵ト灰ヲ同ニセン から、この大津の屋根を眺め、湖畔へ向って、希望の足を躍ら 常ニ存ス抱柱ノ信 アニノボ せているはず 豈上ランヤ望夫台 めぐ 峠の茶屋から峰を繞って降りてきた武蔵は、今、三井寺の裏 十六、君遠クへ行グ : : : 』 びぞうじざか 城太郎はふいに起って、じっと聞き入っていたお通を促し山から八詠楼のある尾蔵寺坂にかかって来たが、お通はどこの 道から降りて来るのやら。 なか 早く、大津へ 湖畔の瀬田で落ち合うまでもなく、ひょいと、そこらで打っ 『詩よりも、おいらは、お腹が減っちゃったい。 かっても、そう偶然でないほど、時刻も道も、ほとんど同じよ いって朝飯を食べようよ』 うに辿って来たのであったが、武蔵の視野の前には未だ彼女の 姿は見えなかった。 といって、武蔵は決して、失望もしないし、会いそうな ものだとも思っていなかった。 烏丸家へやった茶店の女房の返事によれば、お通は烏丸家に いないということであり、手紙は、島丸家からお通の養生して いる先へこよいのうちに届けておくという消息であった。 その返事から考えると、自分の手紙が、お通の手にとどいた ゆえ のは昨夜のうちとしても、あの体であるし、女の事故、身支度 もあろう。 まず早くても、そこを立つのは今朝あたり、約 まだ天地は濡れている。 家ごとの炊煙は、曙けたばかりの町の上へ、戦のように立ち束の場所へ姿を見せるのが、今日の夕刻頃になるにちがいな のばっていた。大津の宿駅は、湖北から石山までをばかしてい さかん そう武蔵は、胸づもりに、想像していた。 る朝がすみと、その熾な煙の下に見えてきた。 あきあき それに今はまた、これそといって、先を急ぐ何事も心にはな いや牛の歩みにま 夜来、飽々するほど山道を歩いて来て れいめい いしー・ーー牛の歩みも遅いとは思わなかった。 かせて来て、黎明と共に、人間のいる里に接した武蔵は、牛の コウべタ そう 送春譜 すいえん しゅん カエ トモ しく、 ゅうべ えいろう 268