『ます次は : : とおまえはいったが、その最初の第一番は誰な『御牢人さま。 ・ : なんぞ母が過ちでもいたしましたかな。せ 巻のじゃ』 がれの私がもう四十八にもなりまする、この母の年もそれでお幻 すると、光脱は、にやりともせす相手の眼を見ていった。 察しくださいませ。体はすこやかでございますが、ちと、眼が の 『わたくしでございます』 かすむなどとこの頃は申しまする。母の粗相は幾重にも私がお ほんあみ こういう本阿弥光悦なのである。だが今、武蔵のまえにわびいたしましよう。ご勘弁くださいまし』 おやこ いる下男づれの母子がその本阿弥の辻の光悦かどうか、その家膝の懐紙と指の絵筆を、毛氈のうえに置いて、ていねいに手 族にしては、供も一人しか連れていないし、衣服やあたりの茶をつかえようとするので、武蔵ま、、 。しよいよもって、そんな理 道具なども、あまりに質素すぎる気がしないでもない 由で自分が老母の驚きを求めたわけでないことを、明白にしな ければならなくなった。 『あいや : : : 』 光脱は、指に絵筆をはさんでいた。膝には一帖の懐紙が載っ 自分も膝を地へ落して、武蔵はあわてて、光悦の辞儀をさえ ている。その懐紙には、彼が先刻から丹念に写生していた枯野ぎった。 の流れが描きかけになっていた。そばに散らかしてある屠古に 『あなたが御子息でござるか』 も皆、同じ水の線ばかりが手習いでもするように描いてあるの であった。 『おわびは、拙者からせなければならぬ。なんで、お驚きなさ ふと、振向いて、 れたか、自分にはとんと分らぬが、此方のすがたを見ると、御 こざる ( どうなされたのです ? ) 老母が、この小笊を捨ててお逃げなされた。 : : : 見ればお年寄 せり と問うように、光脱は、下男のうしろに顫いている母のすが が、せつかく摘まれた若菜や芹などの種々が後に散っているで たと、そこに立っている武蔵のすがたとを静かな眼ざしで見く 。なしか。この枯野からこれだけの青い物をお採りなされた御 らべた。 老母の丹精を思うと、自分が御老母を驚かした理由はわからぬ その穏かな眸に触れた時、武蔵は自分の気も和んでくる心地が、済まないと存じたのです。 ・ : で、菜を小笊へ拾いあつめ がした。しかし親しみというには余りに遠いものなのだ。自分て、これまで持って来ただけのことです、どうかお手をあげて らの近くには見当らない型の人間であって、そのくせ非常に懐ください』 しみを覚えさせる眸なのである。腹の豊かなように、底の深い 『ああ、そうですか』 光をたたえて、その眼はまたいつのまにか、武蔵に対して、旧 光悦は、それですっかり分ったように暢々と笑いながら、母 知のような笑みをにこにこ示していた。 のほうへ向って、 内、つ、、 おのの もうせん あやま のびのび
( ーーーどうなるのだ、こうして二人は。おれの剣は ! ) 山を仰いで、彼は唇を噛んでいた。余りにも小さい自分が恥 むか じられてくる。そうして、駒ヶ岳と対い合っていることさえ苦 しくなってくる。 『まだ来ない』 耐りかねて、ぬっと立った。 それは、もう疾うに、後から見えて来なければならない筈 の、お通と城太郎へいった呟きである。 ゃぶはら さっき関所茶屋から程遠からぬ場所で、本位田又八が、お通 今夜は藪原で泊るといってあるのに、宮腰の宿場もまだ遙か の牛に鞭打って、彼女ぐるみ、何処かへ攫って行ったという事 てまえなのに、すでに陽は暮れかけているではないか。 ここの丘から見ていると、十町も先の森まで、一眸に街道はは、目撃していた旅人の口から伝わって、もうこの街道筋で は、隠れもない噂ばなしにのばっている。 見渡されるが、それらしい人影はいっ迄も見出せない。 丘にいた為、それを知らずにいたのはかえって武蔵一人であ 『はてな ? 関所でなにか暇どっているのだろうか』 捨てて行こうかとすら惑いながら、その影が、うしろに見え その武蔵は今、倉皇と、元来た道の方へ駈け戻って行った なくなれば、武蔵はすぐ心配になって、一歩も先へは出られな が、すでに事件が伝わってから半刻ほども経た後の事である。 、刀事 / もし彼女の身に何等かの危急が襲ったとすれば、間に合う そこの低い丘から彼は駈け降りた。この地方に多い放し飼い おどろ の野馬が、彼の影に愕いたもののように、薄陽の原を八方へ逃かどうか。 『亭主、亭主』 げて飛ぶ。 しよう 関所の柵は、六刻で閉まる。それと一緒に、床几をたたんで 『もしもし、お侍さま。あなたは牛へ乗った女子衆の、お連れ いた茶店のおやじは、後に立って、この喘ぎ声でよぶ人影に、 、求じゃ、こざいませんか』 者 『なにかお忘れ物でも ? 』 しいながら側 彼が、街道へ出るとすぐ、往来の一人が、そう、 と、ふりかえった。 冠へ寄って来た。 ここを通った女子と少年を探しておる 『いや、半刻ほど前に、 曾『えつ、その者に、なにか間違いでもござったか』 木先のことばを聞かないうちに、虫の知らせか、武蔵は早口にのだが』 ふげんさま 『ああ、牛に乗った普賢様のようなお女中でございましたな』 返した。 っ - ) 0 おなごしゅう はる 木曾冠者 おなご み、ら 29 ノ
ゃぶのごう 『花ノ木村から一乗寺藪之郷ー。ーすなわち、貴所の死場所の下呟いて、彼も月を仰ぐ。 えいざんきららざか : この月がかくれる頃には、 巻り松を経てーーーこれから叡山の雲母坂へ通 0 ております。それ『だいぶ西へ傾いて来たなあ。 故、雲母坂道ともいう裏街道』 何人かの人命も消えてゆくのだ』 みちのり の 『下り松まで、道程は』 彼の好奇心は頻りといろいろな予想を描く。 『ここからは、はや半里余り、ゆるゆる歩いて行かれても、時武蔵がなぶり殺しにされることは、結局においては確実だ 風 刻の余裕はまだ十分』 が、あの男のことである、仆れるまでに何人の敵を斬るか。 『では、・後刻また』 『そこが見ものだ』 武蔵がふいに、横道へ曲りかけると、 と、彼は思う。そして今からそれを予想してみるだけでも、 『ヤ、道がちがう。武蔵どの、そう行っては方角が違う』 ぞくぞくして来て、肌は総毛だち、血は全身を駆けて待ち遠し がる あわてて小次郎は注意した。 『滅多に遭い難いものにわしは遭った。蓮台寺野の折も、次の 五 時も、実見できなかったが、今暁は見られる。 : はてな、武 武蔵はうなずいた。小次郎の注意に対して素直にうなずい蔵はまだか ? 』 ちょっと、低地の道を覗いてみたが、まだ戻って来る影は見 しかし見ていると、曲った道をそのままなお歩いてゆく様子えない。小次郎は立っていてもつまらないので、本の根に腰を なので、小次郎はもいちど、 おろした。 『道が違いますぞ』 そしてまた、密かに空想を楽しんでいる 声をかけると、 『あの落つき澄ましている様子では、まったく死を決している 『は ~ の』 らしいから、かなりなところまで戦うだろう。なるべく、斬っ と、分っているような返辞。 て斬って斬りまくってくれたほうが見ごたえがあっていし 並木のすぐ後で、窪地の傾斜に沿い、だんだん畑がある、茅 : だが、吉岡のほうでは飛道具の備えまでしているといった よ。 ぶき屋根が見える。その低い方へ武蔵は降りてゆくのである。 ・ : 飛道具でどんと一発やられてしまっては、万事終って 雑木の隙間から後姿が見える。 月を仰いでばつねんと立っしまう。 : はて、それでは面白くないそ。そうだ、そのこと ている姿がわかる。 だけは、武蔵に耳打ちしておいてやろう』 次郎は、独りで苦笑を頬に流しながら、 だいぶ待った。 : なんだ、小用か』 夜霧が腰に冷たくなる。小次郎は身を起して、 ′ ) 0 かや 296
『やるなっ』 以下ではなかった。 『やるな ! 』 真っ黒に、武蔵を取りまいた。 同じ言葉を投げながら、どやどやと彼の後から前の方へと いや、その武蔵が、背中の一方を本挽小屋につけているの もろとも 、九名の影が駈け廻り、 で、その小屋諸共、取り囲んだという形である。 『ーーー武蔵待てッ』 と、ここに初めて、正面から激突をあげてきた。 武蔵は、三面の敵の頭数を、じっと眼で読みながら、この状 と、武蔵は、 態が、どう変化してかかって来るかーーーそれをじっと見ている 『何かっ ? 』 ような眸であった。 と相手の耳へ不意と感じるような強さで答え、その答えとと 三十人の人間がかたまれば、それは三十人の心理ではない、 もに身を横へずっと退いて、道端の小屋を背にして突っ立っ 一団はやはり一個の心理である。その心理が微妙な動きを取っ て来る機先を観てしま、つことは、そ、つ難しいことではなかっ おお 小屋の横に、巨きな材木が枕木に横たわっているし、辺りに 大鋸屑が積もっているなどから見ても、これは木挽職人の寝小 案の如く、 いきなり単独で、武蔵へ斬りつけて来るようなも 屋らしかった。 のはない。集合体の当然な姿勢として、多数が一つ個性にかた 物音に、 まるまでの暫くの間は、ただがやがやと立ち騒いで、武蔵を遠 『喧嘩か』 巻きにしながら口々に罵り、中には、市井のならずものみたい と、中から戸を開けかけた木挽の男は、外の景色をひと目見に、 ると、 『わっ』 とか、また、単に あわてて戸を閉め、内側に心張り棒をか「て、それなり布団『青二才奴』 うめ いたず でも被ってしまったのか、しいんとして、中に人が居るとも思 とか呻いて、自分たち個々の弱さを、徒らに示すに過ぎない わせない。 虚勢のまま、やや暫く、桶のように円くなって、武蔵を囲んで 吉岡方のものは、野大が野大を募るように、指笛を鳴らした り、呼号をあげたりして、見る間にここへわらわらと集まって 最初から一個の意思と行動を持っている武蔵のほうは、その 来た。こういう折の人数は、二十人が四十人にも、四十が七十 、わずかな間にしろ、彼らよりは十分な余裕を持っていた。 人にも、多く見えるものであるが、正確にかそえても、三十人大勢の顔の中で、どれとどれが手強いか、どの辺が脆いか、び おがくす こびき まる 7 6 5
ちょうちん ないとおいいやるか。又八よりは、武蔵が可愛ゅうてな 前の畑に提燈の灯りが見えた。いつものように旅籠の小女 巻るまいがの。そう明らさまにいうたほうが、物事すべて、正直が、晩の食事を運んで来たのであろうと思っていると、 とい、つものじゃぞ』 『ごめん下さい。本位田様の御老母のお部屋はこちらでござい の ますか』 そうよう 『やがて、又八に出会うたら、この婆が仲に立って、そなたの と、僧形の者が縁先へ立った。 望み通り、きつばり話はつけてやるが、そうなればそなたと婆さげている提燈には 音羽山清水寺 とは、あかの他人、そなたはすぐ武蔵のところへ走って行っ あっこう と、書いてある。 て、さそかしわしら母子の悪口をいうことであろうわいの』 おなご 『なんでそんなことを : 。お婆様、お通はそんな女子ではご 五 ざいませぬ。元の御恩は御恩として、いつまでも覚えておりま する』 『てまえは、子安堂の堂衆でおざるが』 『この頃の若い女子は、ロがうまい。ようそのように優しくい と提燈を縁において、使の僧はふところから一通の書付をと えたものじゃ。この婆は正直者ゆえ、そのように言葉はかざれり出し、 ふうてい ぬ。 そなたが武蔵の妻となれば、そなたも後にはわしが仇『何やらそんじませぬが、黄昏れ頃、寒々とした風態のお若い じゃ。 : ホホホホホ、仇の肩を揉むのも辛かろうのう』 牢人が堂の内をのぞいてーーこの頃は作州のお婆は参籠に見え ぬかと問われますゆえ、いや折々お見えでござるーーーと答えま 『それも、武蔵と添し 、、たいための苦労であろうが。そう田 5 えすと、筆を貸せといい、婆が見えたらこれを渡してくれといっ て立ち去りました。 ちょうど五条まで用達しに出かけまし ば、堪忍のならぬこともない』 たので、早速、お届けにあがったような次第で』 『それは、それは、ご苦労さまな』 『なにを泣いておいやる ? 』 と婆は人ざわりよく敷物などすすめたが、使の僧はすぐ戻っ 『泣いてはおりませぬ』 て行った。 『では、わしの襟もとへ、こばれたのはなんじゃ』 : はてのう ? 』 『 : : : すみませぬ、つい』 あんどん 行燈の下で婆は手紙を繰ひろげた。顔いろが変ったところを 『ええもう、むすむずと、虫が這うているようで気持がわる : めそめそと、武蔵のこ見ると、なにかその内容が婆の胸を烈しく揺りうごかしたもの 、もっと力を入れておくれぬか。 と見える。 とばかり考えておいやらずに』 おやこ たそが はた′一
その折々の気象や天候にうごかされて、或る時は、野にあふかすことができない筈はない ) おか さっ れ、或る時は、林を貫ぬき、もっと甚だしい時は、人畜を冒し と、殺の反対を考え、 て、菜田まで泥海にしてしまう。 ( よしおれは、剣をもって、自己の人間完成へよじ登るのみで ( 容易でないそ ) なく、この道をもって、治民を按じ、経国の本を示してみせよ と、武蔵は、踏査した日から思った。 それだけに、彼は又、非常な熱と興味をこの事業に抱いた。 と、思い立ったのである。 ( これは政治と同じだ ) 青年の夢は大きい。それは自由である。だが、ー 彼の理想は、 と田 5 、つ。 今のところ、やはり単なる理想でしかない その抱負を実行に移すには、、 水や土を相手に、ここへ肥沃な人煙をあげようとする治水開 どうしても政治上の要職に就か 墾の事業も、人間をあいてに、人文の華を咲かせようとする政なければできないからだ。 治経綸も、なんの変りもないことと考える。 然し、この荒野の上や水を相手としてそれをやる分には、要 ( そうだ、これはおれの理想とする目的と、偶然にも合致す職も要らなければ、衣冠や権力をもって臨む必要もない。武蔵 る ) は、そこに熱意と歓びを燃やしたのであった。 此頃からの事である。 武蔵は剣に、おばろな理想を抱き 四 始めた。人を斬る、人に勝つ、飽くまで強い、 と云われた わこぶ ところで何になろう。剣そのものが、単に、人より自分が強い 木の根瘤を掘る。また、石ころを篩う。 ということだけでは彼はさびしい。彼の気持は満ち足りなかっ 高い土を崩してならし、大きな岩は、水利の堤にするために 並べる。 あした 一、二年前から、彼は、 そうして日々、晨は未明から、夕方は星のみえる頃まで、武 人に勝つ。 蔵と伊織とが、孜々として、法典ヶ原の一角から開墾に従事し 剣から進んで、剣を道とし、 ていると、時折、河原の向うに、通りがかりの土民たちが立ち 天 おのれに勝つ。人生に勝ちぬく。 止って、 す という方へ心をひそめて来て、今もなおその道にあるのであ『何をしてるだ ? 』 指ったが、それでも猶、彼の剣に対する、いは、これでいいとはし をスい〉かかり・・顔に、 『小屋あ、はっ建てて、あんな所に、住む気でいるのか』 ま - 一と ( 真に、剣も道ならば、剣から悟り得た道心をもって、人を生『ひとりは、死んだ三右衛門とこの餓鬼でねえけ』 けいりん あん ふる イお
『これ、源次郎』 めておいてはかえって不利だろう。それよりも、もっと距離を 巻おいて、武蔵の通り道にかくれ、いちど、武蔵の姿をやり過し老人は、子へいい聞かせた。 うしろ ばん 『そちはこの下り松のところに立っておればよい。松の根元か てから、前と背と、いちどに起って、ふくろ包みにすれば万討 の ら動くでないそ』 ちもらすことはあるまい』 源次郎は黙ってうなずいた。 と、一説を立てる。 風 つむり おのず その頭を撫でながら、 人数の多数から自とわきあがる意気は天をも衝くように見え た。離れたり集まったりする影法師には皆、長やかな刀の鐺『きようの果し合は、そちが名目人になっているが、戦いは、 くし早、 横たえている槍の影が串刺しになっていた。そしてその中他の門弟衆がやる。おまえはまだ幼いから凝とここに控えてい ればよいのじゃ』 には、一人の卑怯者らしいものもなかった。 源次郎はこっくりして、正直にすぐ松の根元へ行き、五月人 『ーーー来た、来た』 まだ十分に時刻は早いと分っていながら、彼方から一人が叫形のように凜々しく立った。 『まだよい、まだちと早い、夜明けまでにはだいぶ間があるで んで来ると、すぐに、ぎくっと肌のうぶ毛が凍るような心地し て、影法師は皆しいんと黙りこくった。 きせる たいこうば 腰を探って、がん首の大きな太閤張りの煙管を抜き、 『源次郎様だ』 『駕でござったな』 としわか 『なんといっても、まだお年若だからな』 と、まず味方に余裕のあるところを示すつもりで見まわす ちょうちん 人々の眼の向いた方にーーー遠く提燈の灯が三つ四つーーーそのと、 みぶ 『壬生の御老台、火打石はいくらもあるが、その前に、人数を 提燈よりも明るい月の下を叡山颪しに吹かれながら、ちらちら 手分けしておいてはどうか』 近づいて来るのが見えた。 御池十郎左衛門が前へ出ていう。 『それも一理あるな』 たとえ血脈の間がらとはいえ、幼少の子を果し合の名目人に 『ゃあ、揃ったな、各こ』 - 一う - 一うや 駕を捨てたのは老人だった。次の駕からまだ十三、四歳の少提供して惜しまないほどの好々爺である。一も二もなく他説に 従って、 年が降りた。 少年も老人も、白鉢巻をして、高く股立をかかげていた。壬『ーーでは早速、備え立てして敵を待とう。しかし、この人数 おやこ をど、つ分けるとい , つのか』 生の源左衛門父子である。 おろ あなた じっ 784
だった。彼等の眼には、徳川の世もない、豊臣の世もない、山武蔵が、一一一一口、 巻は彼等の天地であり、里は彼等のあらゆる飢えを一時に満たす『ーーそうだッ 、った時は、ぶら下げていた彼の剣が、賊を真っ向に割りつ 一町だっこ。 の けていた時であった。 『あ、待て』 と動揺めいた後は、もう誰彼の見わけもっかなかっ 先頭の一人が、足を止めて、後に続くなかまの者を制した。 つむじ おおまさかり た。小さな旋風の中に、かたまり合って吹かれてゆく羽蟻の群 二十名も来たろうか、稀れな大鉞を提げたのや、錆びた長 柄をかかえ込んだのが、赤い火光をうしろに背負い、黒々と立みたいに乱闘が始まったのだ。 どて 然し、片方は水田だし、片方は並木の堤になっている道なの ち淀んで、 で、地の利は、土匪どもに不利で、武蔵には絶好だった。それ 『居たか』 に土匪は、兇猛ではあるが、武器の統一も、訓練もないので 『あれがそうじゃねえか』 これを一乗寺下り松の決戦の時から思うとーー武蔵はまだ すると、中のひとりが、 生死の境にふみこんでいる、い地はしなかった。 『オオ、あれだ』 それと彼は、機を見て、退くことを考えていたせいもあろ と、武蔵の影を指さした。 う。吉岡門下の大勢と闘った時は、一歩も「退く」などという 約十間はど隔てて、武蔵は、道を塞いで突っ立っていた。 しつこう無感覚な様子で、彼が立ってい考えはもたなかったが、今はその反対に、彼等と互角に闘おう これほどな殺到に、、 などとは毛頭思っていないのである。ただ彼は兵法の「策」を るのを見ると、この猛獣の群も、 以て彼等を馭そうとしているのである。 ( おや、こいっ ? ) 『あっ、野郎』 と一応、自分の威勢を疑ってみたり、彼の態度に不審を起し 『逃げやがったツ』 て、足をとめずにいられなかった。 が、それは僅かな間だった。すぐすかずかと二、三名が『逃がすな』 土匪たちは、駈けてゆく武蔵を追いつめ追いつめてーーー軈て 進み出で、 野の一端にまで誘われて来た。 『、つぬか』 っ一 ) 0 地の利は、さっきの狭い場所よりも、ここの何物もない広い あっち 彼の眼に縛り野原の方が、武蔵には当然不利に見えたが、武蔵は、彼方へ逃 爛とした眼で、武蔵は近づいた者を見つめた。 , げ、此方へ駈け、彼等の密集を存分に分散させてから、突然、 寄せられたように、賊も武蔵を睨めすえたまま、 攻勢に変った。 『うぬか、おれたちの邪魔に来た野郎というのは』 らみ よど ふさ やが むれ イ 32
「どうぞお気儘に』 そいてはならん』 巻『無礼を許されよ』 佐渡の哄笑よりも、遙かに大きい寺僧のがなり声が、書院の刀 びん 佐渡は、横になって、白い鬢づらへ手枕をかった。 横縁で聞えた。 の 江戸の藩邸は、彼の体を寸暇もなく忙殺させる。彼は、寺詣 侍たちは、すぐ立って、 のが りを口実に、ここへ遁れてくるのかもしれない。野風呂を浴び「何じゃ』 しやく て、田舎醸りの一酌をかたむけた後、手枕のうつらうつらに、 『 . 何」じゃ ? ・』 かわず げんぜ 虹の声を川いていると、何もかも現世のものでなくなるように と見まわした。 忘れてしまう その影を見ると、誰か、小さな跫音が・ハタ・ハタと庫裡の方へ とおかわず こよいも佐渡は此をへ泊って、遠虹のを聞いていた 逃げて行ったが、咎めた僧は、後に残って、頭を下げていた。 寺僧は、そっと、銚子や膳を下げてゆく。従者は、壁際に坐『お詫びいたしまする、何せい土民の親無し子、お見のがし下 またた って明りの瞬きに、手忱の主人が、風邪をひきはすまいかと、 き、いませ』 案じ顔にながめていた 「覗き見でもしておったのか』 わはん 『ああよい、い地。このまま湟槃に入るかのようじゃ』 『そうでござります。ここから一里はど先の法典ヶ原に住んで 手枕を史えた機に、侍が、 いた馬子のせがれでございますが、祖父が以前、侍であったと 『おかぜを召すといけません。夜風は露をふくんでおりますか かで、自分も大きくなる迄に、侍になるのだと口癖に申してお ります。 で、貴方がたのようなお武家様を見かけると、指 注意すると、佐渡は、 を咥えて、覗き見をするので困りまする』 「捨てておけ。戦場で鍛えた体、夜露でくさめをするような気 座敷の中に寝ころんでいた佐渡は、その話にふと起き直っ ふんふん 遣いはない このい風の中には、菜の花のにおいが芬々とすて、 るー ! ー共方たちにも香うか』 『そこの御房』 『とんと、分りませぬ』 : アアこれは長岡様で、お目ざめに』 わっぱ . キ↓よ十、十、・ま 『鼻のきかぬ男ばかりじゃの。 『いやいや咎め立てではない。 その童とやら、おもしろそ あたり つれづれ 彼の笑い声が大きいせいでもあるまいが、その時、四辺の虹 うな奴。徒然の話し相手には、ちょうどよい。菓子でも遣らせ の声がハタと止んだ。 よう。これへ、呼んでおくれぬか』 」田じ , っ , っつ、 わっぱ 「こらつ、里ツー しお そんなところへ立ってお客様のお居間をの
岩山の下から、 『これー・』 『あツ、居たっ』 彼の母はたしなめた。 もと と、ぶしつけな呶鳴り方をした者がある。 『いっそやも、そのような粗忽が不覚の因ではないか。いきり その声には、殺気があった。おとといの晩、いきなり身をか立つ前に、なぜよう敵の心を読んでおかぬのじゃ。もし上から すめた棒の唸りに似ていた。はっと思いながら武蔵が岩につか石でも落されたらどうしやる』 まりながら下を覗くと、果せるかな、声を投げて仰向いている なお何か、母子のあいだで、交している声は聞える。然し意 眼はあの時の眼であった。 味は武蔵の所までは聞きとれない。 『ーー客人、追って来たそ』 その間に、武蔵は肚を決めていた。 やはりこの挑戦は避 こう呼ばわる者は、駒ヶ岳のふもとの土民権之助で、見るけるに如くはないという考えである。 と、あの百姓家にいた母親までを連れている。 すでに自分は、勝っているのだ。彼の杖の技倆もわかってい その老母を牛の背にのせ、権之助は、例の四尺はどの棒と手る。改めて猶勝っ要はさらにない。 綱を持って、武蔵の姿を睨めあげていうのだった。 のみならず、あの一敗を口惜しがって、母子してここまで自 『客人 ! しい所で会った。だまって俺の宿から逃げ出したの分の後を慕って来たところを見ると、愈、負けずぎらいな母 かわ は、こっちの肚を察して、躱したつもりだろうが、それでは俺子の恨みの程が怖しい。吉岡一門を敵とした例を見ても、怨み じよう の立っ瀬がねえ。もういっぺん試合をしろ。おれの杖をうけてののこるような試合はすべきでない。益は少くて、まちがえ みろ』 ば、天命を縮めてしまう。 それに又、武蔵は、子を盲愛するの余り人を呪う無知な老母 の恐しさは、身にも骨にも沁みて、一日一度は必ず思い出すほ 降りかけた足を止めて、武蔵は岩と岩の間の急な細道のどだった。 途中で、暫く、岩に縋ったまま、下を見ていた。 あの又八の母親ーーお杉ばばの影を。 降りて来ない、と見たか、下なる権之助は、 何を好んで、また人の子の母から、呪いを買おう。何う考え 杖『阿っ母、ここで見ていさっしゃ い。なにも、試合するには、 ても、これは逃げるの一手、ほかに当り障りなく通る道はなさ ひらち の平地と限ったこたあねえ。登って行って、彼の相手を、眼の下そうに思われる。 なかば 母へたたき落してみせる』 で、彼は無言のまま、半まで降りて来た岩山を、又ふたたび 導の乗っている牛の手綱を放しーーー小脇の杖を持ち直して上へ向って、のそのそと登りかけた。 『ーーあっ、お武家』 やにわに岩山の根へ取りつこうとすると、 おやこ おやこ 引 5