佐渡 - みる会図書館


検索対象: 宮本武蔵(二) (吉川英治)
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1. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

徳願寺の寺僧が一名、案内に付いて来た。 『いや、又参ろう』 巻村へかかると、佐渡は、二人の従者を顧みて、 と、駒をすすめた。 『そち達は昨夜、何を見届けて来たのか。今、道ばたで見かけ村長の門まで来ると、ふと佐渡の目をひいた物がある。今朝 の た賊の死骸は、百姓が斬ったものとは見えんが』 建てたばかりのような、真新しい制本に、墨色まで水々と、こ う書いてあるのだった。 と、不審を抱いた。 空 村の者は、寝ずに、焼けた家やそんな死骸を片づけていた 村の者心得べき事 が、佐渡の馬上姿を見ると、みな家の中へ逃げこんだ。 鍬も剣なり 「あ、これ。何かわしを思い違いしておるそ。誰かすこし話の 剣も鍬なり 分りそうな土民を一名つれて来い』 土にいて乱をわすれず 乱にいて土をわすれず 徳願寺の僧が、どこからか一名連れて来た。佐渡はそれで初 めて昨夜の真相を知ることが出来、 分に依って一に帰る 『そうだろう』 又常に と、うなずいた 世々の道にたがわざる事 『ウウム : : : 誰が書いたか、この高札は』 『して、その牢人というのは、何という者か』 むらおさ 佐渡が、重ねて訊くと、その土民は首をかしげて、名は聞い 村長が出て来て、地に平伏しながら答えた。 たことがないという。佐渡は、ぜひ知りたいというので、寺僧『武蔵さまでござりまする』 は又、聞き歩いて、帰って来た。 『おまえ達に、分るのかこれが : 『宮本武蔵という者だそうでござります』 『今朝、村の衆が、みな集まっている中で、このわけを、よく 『なに、武蔵』 説いて下さいましたで、どうやら分りまする』 佐渡はすぐ、ゆうべの少年を思い起して、 『ーーーー十寸僧』 わっぱ 『では、あの童が、先生と呼んでいたものだの』 佐渡は振向いて、 『平常、あの子供を相手に、法典ヶ原の荒地を開墾し、百姓の 『戻ってよろしい。御苦労であった。残念じゃが 又来るそ、おさらば』 まね事などをしておる、風の変った牢人にござります』 『見たいな、その男を』 と、駒を早めて去った。 佐渡は、つぶやいたがーー。藩邸に待っている用事が思い起さ れて、 むらおみ、 ぶん イ 36

2. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

って深く刻まれていた。 『御当家へ奉公したいという人間かの』 巻「いろいろな伝手を求めて、同じよ一つな望みを申し入れて来る ( ああいう人物こそ、御当家でお抱えになっておくとよいが ) と、佐渡は、密かに胸に秘めていたのであった。 者が、佐渡どのの所へなども沢山あろうが、今、てまえの邸に の だがもう一度、法典ヶ原を訪れ、親しくその人物を見極めた 置いてある人物は些と少い人物かと思うので』 : 人材は御当家でも求めておるのじゃが、ただ、職に上で、細川家へ推挙するつもりでいたのである。 空 思い出してみると、そういう考えを抱いて帰った徳願 ありつきたい人間ばかりでなあ』 てあい 『その手輩とは、ちと質からして違う男でござる。実はそれが寺の一夜から、いっか、一年の余も経っていた。 すおう 公務の忙しさにも紛れ、あれきり又、徳願寺へ詣る折がなか しの家内とは縁故もあって、周防の岩国から来てもう二年もわ やしき しの邸にごろごろしているのじゃが、何としても、御当家に欲った為である。 ( どうしているか ) しい人物でしてな』 きっかわけ 「岩国とあれば、吉川家の牢人かの』 と、佐渡がふと、ひとの話から思い出していると、岩間角兵 やしき 『いや、岩国川の郷士の子息で、佐々木小次郎といい、まだ若衛は、自分の邸に置いている佐々木小次郎の推薦に、佐渡の助 年でござるが、富田流の刀法を鐘巻自斎にうけ、胖合を吉川家力を期待して、猶しきりと小次郎の履歴や人物を話して、彼の ほうきのかみ の食客片山伯耆守久安から皆伝され、それにも甘んじないで自賛同を求めた末、 がんりゅう ら巌流という一流を立てたほどの者で』 『御前へ参られたら、どうそひとつ、貴方からもおロ添えを』 と、くれぐれも頼んで立ち去った。 と、ロを極めて角兵衛は、その人間を佐渡に頷かせようとす る。 『承知した』 誰でも、人物の推薦には、一応この位には肩入するものであ と、佐渡は答えた。 むしろ彼は、彼 けれど彼の胸には角兵衛から頼まれた小次郎の事よりも、や る。佐渡はそう熱心に聞いていなかった。 はり武蔵という名に何となく心が惹かれていた。 の意中に、一年半も持ち越したまま、つい忙しいままに忘れて さかん まとば いた、べつな人間を、ふと思い出していた。 的場へ行ってみると、若殿の忠利は、家臣を相手に、旺に弓 かっしか それは、葛飾の法典ヶ原で開墾に従事している、宮本武蔵とをひいていた。忠利の射る矢は、一筋一筋、おそろしく正確 いう名であった。 で、その矢うなりにも、気品があった。 彼の侍者が、或る時、 ( これからの戦場では、鉄砲がもつばら用いられ、槍が次に使 武蔵という名は、彼の胸に、あれ以来、忘れ得ないものになわれ、太刀、弓などは、余り役立たぬように変遷しておるよう ま イ 38

3. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

卯月の頃 僧の話はそれで終った。だが、長岡佐渡の悔いはいっ迄 も、胸を噛んで、 『・ : ・ : ああ遅かった』 くキ、もや 卯月の夜は、草靄にばかされて来た。佐渡は、むなしく駒を 返しながら、 : こういう怠慢は、ひとつの不忠も同じ 『Ⅲしいことをした : 事。 : : : 遅かった、遅かった』 何度もロのうちで呟いた

4. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

いくっ 『なぜ、ここで喰べぬか』 『幾歳じゃな』 と、訊ねると、 巻と、訊ねた。 『先生が、待ってるから』 「十三。ことしから、十三になりました』 の 『ホ : ・ : ・ル兀 ~ とは ? 』 と伊織は、相手を心得ている。 佐渡は、異な顔をした。 「侍になりたいか』 もう用はないといった容子で、伊織は答えすに、その部屋か と、訊かれると、伊織は、 ら素ッこく飛出してしまった。長岡佐渡が笑いながら寝所へ 這入ってゆく姿へ、住職は、再三再四、低頭平身していたが、 と頷いた。 みずくみ 『では、わしの屋敷へ来い。水汲から、草履取りを勤めあげたやがて、追いかけるように、庫裡へ来て、 『小価旧、ど , っしたか』 ら、末は若党に取立ててやろう程に』 『今、粟を背負って、帰ってゆきましたが』 というと、伊織は、黙ってかぶりを振った。そんな筈はな と、そこにいる者の答え きまりが悪いのじやろう、明日は江一尸へ連れて帰る・ーー、と なっしょ 耳を澄ますと、真っ暗な外の何処かを、頓狂な本の葉箱の音 重ねて佐渡がいうと、伊哉は、納所坊がしたように、アカンペ が流れてゆく ーをして、 びき、びー 『殿様、お菓子をくれなければ嘘つきだぜ。はやくおくれよ、 びッびッき、びーの もう帰るんだから』 びよ助、びゅー 住職は青くなって、眼から離した彼の手を、。ヒシャリと打っ うた し歌を知らないのが残念だった。馬子の唄う謡 伊哉よ、、、 ' は、本の葉の音に乗らないのである。 てんか お盆になると、踊りにうたう此の地方の歌垣から転訛したよ うな謡も、本の葉笛には複雑すぎてだめだった。 しらペ かぐらばやし 結局、彼は、神楽囃子の律調を頭に描きながら、本の葉を唇 に当て、しきりと妙な音を吹きたてて道の遠さを忘れて来た が、やがて法典ヶ原の近く迄来たかと思う頃、 『おやっ ? 』 と、唇の本の葉を、唾と一緒に吐き出して、同時にがさがさ 『叱るな』 と、佐渡は、住職の気遣いを、かえって窘めて、 『侍は嘘をつかぬ。今菓子を遣らすであろう』 と、従者に、すぐいいつけた。 ふところ 伊織は、それを貰うと、すぐ懐中へ入れてしまった。佐渡が それを見て、 たしな つば くち イ 2 イ

5. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

「どうぞお気儘に』 そいてはならん』 巻『無礼を許されよ』 佐渡の哄笑よりも、遙かに大きい寺僧のがなり声が、書院の刀 びん 佐渡は、横になって、白い鬢づらへ手枕をかった。 横縁で聞えた。 の 江戸の藩邸は、彼の体を寸暇もなく忙殺させる。彼は、寺詣 侍たちは、すぐ立って、 のが りを口実に、ここへ遁れてくるのかもしれない。野風呂を浴び「何じゃ』 しやく て、田舎醸りの一酌をかたむけた後、手枕のうつらうつらに、 『 . 何」じゃ ? ・』 かわず げんぜ 虹の声を川いていると、何もかも現世のものでなくなるように と見まわした。 忘れてしまう その影を見ると、誰か、小さな跫音が・ハタ・ハタと庫裡の方へ とおかわず こよいも佐渡は此をへ泊って、遠虹のを聞いていた 逃げて行ったが、咎めた僧は、後に残って、頭を下げていた。 寺僧は、そっと、銚子や膳を下げてゆく。従者は、壁際に坐『お詫びいたしまする、何せい土民の親無し子、お見のがし下 またた って明りの瞬きに、手忱の主人が、風邪をひきはすまいかと、 き、いませ』 案じ顔にながめていた 「覗き見でもしておったのか』 わはん 『ああよい、い地。このまま湟槃に入るかのようじゃ』 『そうでござります。ここから一里はど先の法典ヶ原に住んで 手枕を史えた機に、侍が、 いた馬子のせがれでございますが、祖父が以前、侍であったと 『おかぜを召すといけません。夜風は露をふくんでおりますか かで、自分も大きくなる迄に、侍になるのだと口癖に申してお ります。 で、貴方がたのようなお武家様を見かけると、指 注意すると、佐渡は、 を咥えて、覗き見をするので困りまする』 「捨てておけ。戦場で鍛えた体、夜露でくさめをするような気 座敷の中に寝ころんでいた佐渡は、その話にふと起き直っ ふんふん 遣いはない このい風の中には、菜の花のにおいが芬々とすて、 るー ! ー共方たちにも香うか』 『そこの御房』 『とんと、分りませぬ』 : アアこれは長岡様で、お目ざめに』 わっぱ . キ↓よ十、十、・ま 『鼻のきかぬ男ばかりじゃの。 『いやいや咎め立てではない。 その童とやら、おもしろそ あたり つれづれ 彼の笑い声が大きいせいでもあるまいが、その時、四辺の虹 うな奴。徒然の話し相手には、ちょうどよい。菓子でも遣らせ の声がハタと止んだ。 よう。これへ、呼んでおくれぬか』 」田じ , っ , っつ、 わっぱ 「こらつ、里ツー しお そんなところへ立ってお客様のお居間をの

6. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

「若殿は、。 とちらにお在で遊ばすな』 佐渡は、馬場の方から戻りながら、通りかかった若侍にたす ねた。 まとば 『お的場でござります』 『ああお弓か』 こみち 林の小径を縫って、その方角へ歩いてゆくと、 ーびゅうん こころよ と、央い矢うなりがもう的場の方に聞える。 『おう、佐渡どの』 当主の細川三斎公は、豊前小倉の本地にいて、江戸の藩邸に 呼びとめる者があった。 いることはなかった。 同藩の岩間角兵衛である。実務家で辣腕で、重く見られてい ただとし 江戸には、長子の忠利がいて、補佐の老臣と、たいがいオ よ事る人物だった。 は、裁断していた。 『どちらへ』 忠利は英邁だった。年歯もまだ、二十歳を幾つも越えてな と、角兵衛は奇って来た。 めぐ い若殿なので、新将軍秀忠を繞って、この新しい城府に移住し『御前へ』 きようゆう ていた天下の梟雄や豪傑的な大名のあいだに伍しても、父の細 『若殿は今、お弓のお稽古中でござるが』 川三斎のこけんを落すようなことは決してなかった。むしろ、 『些事故、お弓場でも』 その新進気鋭なことと、次の時代に活眼をもっている点では、 行き過ぎようとすると、 諸侯の中の新人として、戦国育ちの腕自慢ばかりを事としてい 『佐渡どの、お急ぎなくば、ちと御相談申したい事があるが』 る荒胆な老大名よりは、遙かに立ち勝っている所もある。 『なんじゃの』 『ーー・若殿は ? 』 『立話でも と、長岡佐渡は探していた。 と、見まわして、 の御書見の間にも見えない。馬場にもお姿はない。 「あれで』 ともまち 月藩邸の地域はすいぶん広かったが、まだ庭などは整っていな と、林の中の数寄屋の供待へ誘った。 ばつばく 一部には元からの林があり、一部は伐本して馬場となって『ほかではないが、若殿との間に、何かのお話が出た折に、ひ とり御推挙していただきたい人物があるのじゃが』 卯月の頃 づき らつわん

7. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

に御座りますから、お弓は、武家の飾りとしても、作法だけの当然、推薦し難かった。 御習得でよろしくはないかと存じますが ) 長岡佐渡はお弓場へ来て忠利の姿を見ると、すぐさっき岩間 角兵衛へわかれ際に、うつかり、 と、諫めた時、忠利は、 まと ( わしの弓は、心を的に射ておるのだ。戦場へ出て、十や二十 ( 承知いたした ) と、 ってしまった軽率なことばを胸に悔いていた。 の武者を射る檮古をしているように見えるか ) と、かえってその侍者に反問したという若殿である。 細川家の臣は、大殿の三斎公には勿論、心から心服していた 若侍の中に立ち交じって、競射に汗をながしている細川忠利 が、そうかといって、その三斎公の余光に伏して、忠利に仕え は、やはり一箇の若侍としか見えないほど無造作な姿だった。 ている者は一人もなかった。忠利の身辺に近侍している者は、 ひかえ 三斎公が偉くあっても無くっても、問題ではなかった。忠利そ今、一息ついて、何か侍臣たちと哄笑しながら、弓場の控へ 来て、汗を拭っていたが、ふと老臣の佐渡の顔を見かけて、 の人を心から、英主と仰いでいるのだった。 これはすっと晩年の話であるが、その忠利をどんなに藩『爺、そちも一射、試してみないか』 臣が畏敬していたかというよし言がある。 ぶぜん それは細川家が豊前小倉の領地から熊本へ移封された時の事『いや、このお仲間では、大人げのうて』 と、佐渡も戯れると、 その入城式に、忠利は熊本城の大手の正門で駕籠を下り、 あげまき あらむしろ いつまでもわし達を角髻の子供と見おって』 衣冠着用のまま、新莚に坐って、今日から城主として坐る熊本『何をいう。 にらやまじよう ゅんぜい すると、その 『されば、てまえの弓勢は、山崎の御合戦の折にも、韮山城の 城へ向って手をついて礼拝したそうである。 城詰の折にも、しばしば大殿の御感にあずかった、極め付の弓 時、忠利の冠の紐が城門の蹴放ーーーっまり門の閾ーーに触った というので、それから以後忠利の家臣は勿論、代々の家来もでござる。的場のお子供衆の中ではお慰みになりませぬ』 また 『はははは、始まったそ、佐渡どのの御自慢が』 皆、朝夕、この門を通行するのに、決して真ん中を跨ぐことは 侍臣たちが笑う。 しなかったという事である。 頃 当時の一国の国守が「城」に対してどれほど厳粛な観念を抱忠利も苦笑する。 しゅ 肌を入れて、 のいていたか、又、家臣がその「主」に対して、どれほどな尊崇 『何か用か』 月を抱いていたか、この一例はよくその辺の侍の気持を示してい 利は、真面目に返った。 る話であるが、壮年時代から既にそうした気宇のあった忠利で 佐渡は、公務の用向きを、ちょっと耳に入れて、その後で、 あるから、その君へ家臣を推挙するにしても、うかつな者は、 ひも さわ っ・ ) 0 439

8. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

空の巻 もうで 『岩間角兵衛から、誰か御推挙の人物がある由でございます『いや、その後はついそ徳願寺へも、詣る折が御座いませぬ為 が、その仁を、御覧になりましたか』 はぶ と、訊ねた。 『一箇の人材を求める為には、にしい用を省いても苦しゅうあ 忠利は、忘れていたらしく、いやと、顔を振ったが、すぐ思るまい。他用の序でになどとは、爺にも似あわぬ横着なーー。』 い出して、 『怖れいりました。したが、諸方より御奉公申したいと、御推 『そうそう。佐 . 々木小次郎とかいう者を、頻りと、推挙してお挙も多い所、それに若殿にも、お聞き流しのようで御座りまし ったが、まだ見ておらん』 た故、ついお耳に入れたまま、怠っておりましたが』 めがね 『御引見なされてはいかがで御座りますな。有能の人物は、諸『いやいや、余人の眼鏡なら知らぬこと、爺の眼で、よかろう 家でも、争って高禄をもって誘いますゆえ』 というその人物。わしも心待ちにしていたのじゃ』 『それはどな者かどうか ? 』 佐渡は、恐縮して、藩邸から自分の邸に帰ると、すぐ駒の支 かっしか 『を J•もかノ、、 一度、お召寄せのうえで』 度をさせ、従者もただ一人連れたきりで、葛飾の法典ヶ原へい そいだ。 『・ : : ・佐渡』 四 『角兵衛に、ロ添えを頼まれたかの』 と、忠利は苦笑した。 こよいは、泊っていられない。すぐ行ってすぐ帰るつもりで 佐渡はこの若い殿の英敏を知っているし、自分のロ添えが、 ある。心が急くので、徳願寺にも立ち寄らす、長岡佐渡は、駒 くらま を早めた。 決してその英敏を晦すものでない事も分っているので、唯、 『御意』 『源三』と従者を顧みて、 いって笑った。 『もはやこの辺りが、法典ヶ原ではないかの』 ゆがけ とも早 - むらい 忠利は又、弓掛を手に嵌めて、侍臣の手から弓を受取りなが 供侍の佐藤源三は、 ら、 『てまえも、そうかと存じますが まだここらには、御覧の 『角兵衛の推挙いたした人物も見ようが、いっか、そちが夜話通り、青田が見えますから、開墾しておる場所は、もそっと、 しに申した、武蔵とかいう人物も一度見たいものだな』 野の奥ではございますまいか』 と、答えた。 『。ーー - ー当っかの ? ・』 『若殿には、まだ御記憶でございましたか』 『わしは覚えておるが、そちは忘れておったのではないか』 もう徳願寺からかなり来ている , ーーこれより奥へすすめば、

9. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

と、血にまみれながら、その槍をつかんで起ちかけたが、武と、武蔵が諭したので、やっと落着いた顔いろを取り戻し 蔵が軽く手を離したので、胸に槍を突き立てたまま土間へ転げ だがお前たちは、過信するな。お前たちの本分は、武器 落ちた。 もう彼の手には、次にかかって来た賊の手から引っ奪くったではない鍬なのだ。穿きちがえて、生なかな武力に誇ると、土 刀があった。それで一人を浴びせ、一人を突くと、蜂の子の出匪より恐しい天罰が下るそ』 るように、土匪はわれがちに土間の外へ跳び出した。 その群へ、武蔵は、刀を投げつけて、すぐその手へ又、死骸 の胸いたから槍を抜いて持った。 『見て来たか』 『、つ、こくな』 徳願寺に泊りあわせていた長岡佐渡は、寝すに待っていた。 かなた 鉄壁でも という勢いで彼は槍を横にしたまま外へ駈け出村の火は、原や沼の彼方に、すぐ間近く見えていたが、もう しず した。竿で水面を打ったように、土匪の群は、さっと分れた火の手は鎮まっていた。 ふたりの家臣は、 が、もう槍の自由な広さである。武蔵は樫の黒い柄が撓うほ なぐ 『はつ、見届けて参りました』 ど、それを振って居た、又突いて刎ねとばした、又上から撲り つけた。 と、ロを揃えていった。 とんなふうだ』 敵わぬと思った土匪は、土塀の門へ向って逃げ出したが、そ『賊は、逃げたか。村の者の被害は、。 いとま こは得物を持った村の者が犇めいていたので、塀をこえて、外『われわれが駈けつける遑なく、土民たちが、自分の手で、賊 の半を打ち殺し、後は追いちらしましたように御座ります』 へ転び落ちた。 『はてな ? 』 多くは、そこで皆、村の者に打ち殺された。おそらく逃げた 佐渡は、のみこめない顔つきである。もしそうだとすれば、 者も、片輪にならなかった者は少かったであろう。村の者は、 老も若きも、女も、生れて初めての声を出して、暫くは凱歌に佐渡は、自分の主人細川家の領土の民治に就ても、だいぶ考え させられる事がある。 狂い、少し経っと、わが子や、わが妻や、父母たちを見つけ合 とにかく今夜はもう遅い って、欣し泣きに抱き合っていた よくあ、 そう考えて、佐渡は、臥床へ入ってしまったが、翌朝は江戸 すると誰かが、 へ帰る身なので、 『後の仕返し。、布、 『ちと、廻りになるが、ゆうべの村を通って参ろう』 といった。土民たちは、又それに動揺めきだしたが、 と、駒をそこへ向けた。 『もう、この村には来ぬ』 ひし どよ ふしど 435

10. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

とぞう 『おまえも少し、狂人にかぶれてきたな。あの牢人者はお伽草 伊織は、庫裡へ来て、 あわ 『おばさん、粟がなくなったから取りに来たよ。粟を入れてお子の黄金の塚でもほん気にして、野たれ死にする迄、掘りちら しているだろうが、おまえはまだ鼻たれンばのくせに、今から くれ』 こくぶくろ 自分の墓穴を掘るのは早いじゃないか』 と、一斗もはいる穀袋のロを開けて、呶鳴っていた 『うるさいな、粟を出しておくれよ、はやく、粟をおくれよ』 『なんじゃこの餓鬼は。まるで貸した物でも取りに来るよう 『アワといわないで、アカといってみろ』 『アカ』 大きな暗い台所から、寺の婆やは呶鳴りかえした。 なっしょ 、つしょに洗い物を手伝っていた納所坊も、ロをそろえて、 からか 『お住持が、かあいそうじやから遣れと仰 0 しやるので、くれ納所坊は、調子に乗 0 て揶揄いながら、眼の玉を剥いて、ぬ っと顔を突き出した。 て遣るのじゃそ。なんだ、大きな而して』 ぐしやっと、濡れ雑巾のようなものが、その顔へ貼りつ 『おらの顔、大きいかし』 ー . をあげて青ざめた。彼の大嫌いな た。納所坊は、きやっとよ単可 『物貰いは、あわれな声を出して来るものだ』 がえる かたみ オし和尚さんに、遺物の巾着を預けて大きなイボ蟇であった。 『おらは、物乞いじゃよ、 たまじゃくし 『このお玉杓子め』 あるんだもの。 あの中にゃあ、おかねも這入っているんだ 納所坊はおどり出して、伊織の首根ッこをつかまえた。そこ へ奥に泊っている檀家の長岡佐渡様がお召になっている ! ーと 『野中の一軒家の、馬子のおやじが、どれ程なおかねを餓鬼に いうべつな寺僧の迎えであった。 遺すものか』 『ょにゝ、Ⅱ相でもあったのか』 『くれないのかい、粟を』 と、住持までが、案じ顔してそこへ来たが、いえいえただ佐 『だいいちおまえは阿呆だそ』 つれづれ 渡様が徒然に呼んでこいと仰っしやる迄でーーーと聞いて、 『なぜさ』 きちかいろうにん 『それならよいが』 『どこの馬の骨かわからない狂人牢人にこき使われて、あげく あさ と住職はほっとしたが、猶、、い配は去らないとみえて、伊織 に、喰い物までおまえが漁って歩くなどとは』 の手を引っぱって、自身、佐渡の前へ連れて来た。 『大きなお世話だい』 ものの 書院の隣室には、もう夜の具が展べてある。老体の佐渡は、 『田にも畑にもなりッこないあんな土地を掘くり返して、村の 横になりたかった所だが、子どもが好きとみえて、伊織が、 土衆は皆わらって御座るそ』 ちょこなんと住職のそばに坐ったのをみると、 しいよウだ』 イ 23